IMG_20180521_163042.jpg
鹿児島産・肥後グリーンメロン?、日大内田監督の問答発言の如し。
内田はんの発言は言語明瞭意味不明であったが学生は違った。
日大アメフト部宮川泰介選手の記者会見の様子をテレビで見た。
日本記者クラブという会場で多くのマスコミ関係者に囲まれる中、
広い席の真ん中に一人ポツネンと坐っていた(耳打ち者なしで)。
その顔は大写しをされ続けていながらも毅然とした表情であった。
そして会見での発言は聞かれたことへの正確な応答であった。
顔付と言葉遣いからして、この二十歳の青年に賢く爽やかな印象を持った。
マスコミ各社の質問を真摯に聞き、その意味・内容を咀嚼して的確に答えていた。
その彼の思いが凝縮されていた回答の一つ。
「そもそも、指示があったにせよ、やってしまったのは私な訳で、人の所為でない、やってしまった事実があるかぎり、私が反省すべきことだと思っています」。
あんな雰囲気の会場で一人で受け応えしている姿は立派であった。
私が「アンポン大」と称したのは学生のことではない、大学のことである。
今になっても、ここに至っても、日本大学では学長や理事長の顔も声も出て来ない。
先の理事会ではこの件に関する議題はなく、一言も触れられることがなかったと聞く。
今度新設する学部が「危機管理学部」だとかいう。アホらしくて冗談にもならない。
「アンポン大」に危機管理という言葉の意味が解っているのかどうか大いに疑問。
まさか内田はんをして危機管理学部の創設プロジェクトを動かすのではあるまいな・・。
スポンサーサイト
2018.05.22 アンポン大
e0020625_011313.jpg
「もじり草」、またの名は「捩じり花」である。
三日前のこのブログで書き込んだ私と娘婿との会話。
>私が婿に「あのタックル、捻りがあったの気付いたか」、婿「え、何ですか」。
私「タックルで倒した後に相手の腰骨を抱えて捻っている、骨を折るやり方や」
婿「気が付きませんでした、タックルで倒した後はそのまま離れますので・・」
私「せやろ、あれは格闘技から見たらトドメ技や、故意で潰しに行っとるな」
まま、私は焼酎を飲みながら婿は水を飲みながら暫しアメフト談義。<
今日の新聞・テレビで、危険タックルをされた選手の父親が記者会見で発言。
「タックル後の捻り、あれは故意的な危険プレイ」と云ってなさった。
ド突き合い体験がない言論人、漸くこの話が「事件」だとお気付き、めでたしめでたし。
それにしても日大監督と日大関係者、アンポン大と云われる底意を知るは今ぞかし。
IMG_20180520_141203.jpg
心外無別法(しんげむべつほう)、薬師寺123代管主・橋本 凝胤(ぎょういん)の揮毫。
三界唯一心、心外に別法無し。唯識思想の基本がどうしたこうしたという話らしい。
つまり、全ての現象は心の現れであり、心の外に存在しないとか云々。
前にも書き込んだ凝胤はんのこと。私の畏敬する御仁であった。
知人の南都塗師が古美術商で見つけたと云って持って来てくれた一行書である。
中学後輩の奈良表具師に表装を頼んでいたのが3日前に出来上がって来た。
その日にはテレビ・ワイドショウで女犯(にょぼん)僧のことが大きく報じられていた。
それが何と凝胤はん弟子筋に当たる薬師寺の管主・村上太胤71歳であった。
金まみれの邪淫・破戒を聞いた泉下の凝胤はんの無念、断腸の思いであろう。
まま、泉下の御仁の断腸は無いかも・・、それとも心外無別法で無念無想かも・・。
昭和の怪僧といわれた凝胤はんは政財界の大物との交流が深かったと聞く。
政治家では大野伴睦、佐藤栄作、財界では「電力の鬼」松永安左エ門、阪急の小林一三。
その大物たちの人脈金脈で平城宮跡の復興と国有化を実現したという。
しかし凝胤はん自身というか薬師寺は金欠状態が常態化していたらしい。
弟子が「これでは飯が食えない」というと、「食えなければ喰わんでエエ」と凝胤はん。
そんな凝胤はんであったが、次の高田好胤はんは商売人というか事業家肌であった。
東西を駆け巡り、薬師寺の復興・改修の資金集めを大々的に進めていった御仁。
多くは東京で集金構造を作ったので、その構造は村上はんにも継がれたのだろう。
銀座で一晩に10万円近くを使い、女を京都に連れて行ったとか何だらかんだら。
人の弱さ・脆さ、仏法でも正すことが出来ないとは、根本はその人の個性という証。
この村上はん、何と妻帯してなさったとは驚きである、そもそもそれが破戒であろうに。
凝胤はんは妻帯どころか尼僧さえ近付けず、弟子の弁当も自ら作って与えたと聞く。
人の組織は肥大化して残り、中身は異なるものに変化するというのも仏の教えかも。
ところで村上はん71歳、猪瀬元都知事71歳も結婚、楢山節考も昔話になりにけり。
昨夕は娘一家と食事に出掛けた。
娘の婿は地方大学のアメフト部でDT(ディフェンス・タックル)をやっていた。
つまり、問題になっている日大選手と同じポジションである。
私が婿に「あのタックル、捻りがあったの気付いたか」、婿「え、何ですか」。
私「タックルで倒した後に相手の腰骨を抱えて捻っている、骨を折るやり方や」
婿「気が付きませんでした、タックルで倒した後はそのまま離れますので・・」
私「せやろ、あれは格闘技から見たらトドメ技や、故意で潰しに行っとるな」
まま、私は焼酎を飲みながら婿は水を飲みながら暫しアメフト談義。
日大の内田正人監督は選手を見棄てた卑怯な男との婿の見解。私も同意。
帰宅してテレビで内田監督の謝罪発言を聞いて私はアングリした。
関西学院を「カンサイ学院」と発言していなさる。「カンセイ学院」やろうに。
確かに、関東の人には関西学院を「かんさい学院」と誤称する人は多くいる。
が、この内田はん、日大アメフト部出身でコーチ・監督をして来た日大の理事。
その御仁が、謝罪に来て相手大学の名前を間違えるとは無礼にも程がある。
下の表はアメフト学生日本一を決める甲子園ボールの優勝回数と準優勝回数。
計の数字はその合計、それはそのまま甲子園ボール出場回数を表している。
関学は50回、日大は34回、両校のアメフト部は図抜けた存在だと分かる。
内田はん、「カンセイ学院」と云うとは知らなんだと弁明しナサルのであろうか。
< 甲子園ボール優勝回数( )内は準優勝回数 >
28回 関西学院大学(22) 計50
21回 日本大学(13) 計34
8回 立命館大学(1) 計9
6回 京都大学(2)計8
5回 法政大学(12) 計17
4回 立教大学(2) 計6
3回 無し
2回 関西大学(1) 慶応大学(2)
1回 無し

2018.05.18 アメフト談義
IMG_20180505_062325.jpg
散歩途中に見た「地に落ちた蛾」、日大アメフト部の監督かと思った。

大学アメリカンフットボールの名門である関西学院大学と日本大学の定期戦。
新聞やテレビで大きく報道され続けているので今や周知の社会問題となった。
思ったのは、大口をたたき偉そうに云う御仁に小心で卑怯な奴が居ること。
反則タックルで相手選手を倒して負傷させたなら、監督がすぐ駆け付けるものであろう。
ましてや定期戦で此方へ呼んだ相手校への仕儀、礼儀知らずの誹りを受けて当然。
ところで、私は以前にも記事にしたことがあるが叔父のことを思い出していた。
大柄だった叔父は旧制奈良中学(現奈良高校)でタッチフットボール部に所属していた。
今では女子も出来る新しい形態のスポーツとして復活し、世間でも知られている。
本来は日本の学生アメフトの原形であり、激しいスポーツであった。
タッチフットボールのこと、フリー百科事典の記述によると、
> 一つは、1946年米国進駐軍により紹介され、後の高等学校アメリカンフットボールへと発展した11人制によるタッチフットボールである。これは、ヘルメットやショルダーパッド等防具一式を装着し、攻撃側ボール保持者を止める手段として、タックルではなくタッチを用いていた。その経緯より、タッチフットボールという呼称で、主に旧制奈良中学(現奈良高等学校)や、大阪府立池田中学(現池田高等学校)、豊中中学(現豊中高等学校)で競技が行われていたものである。
また、もう一つの流れは、1990年慶応義塾大学環境情報学部の冨田勝教授によるものが考えられる。冨田は、自身のアメリカ留学時代の経験より、6人制タッチフットボールを、新しい大学女子競技スポーツの一環として日本に紹介した。< とある。

旧制奈良中学の裏山、ドリームランドの跡地は元々進駐軍駐屯地であった。
話によると、奈良中学の近くにあった奈良商業でもタッチフットボール部が出来たとか。
そんなこんなで第一回中学大会は池田中学が優勝、二回大会は奈良中学が優勝。
酒好きだった叔父が生きていたら、一献交しながら話を聞けたものをと思う今日この頃。