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加茂本阿弥の画像、「かもほんなみ」と読むのは京訛りとか。
昨日、植物栽培を趣味とする知人(高校後輩)の南都塗師からメールが入った。
「ブログを遡って見ました。『賀茂木阿弥ではなく加茂本阿弥』です」
まま、本阿弥が木阿弥とは、我ながら笑うしかない。
しかし、賀茂・加茂・鴨の間違いには少々興が湧いた。
上賀茂神社と下鴨神社、間を結ぶのは加茂街道。
京阪出町柳駅の前にある「賀茂大橋」は付近の交番やバス停では「加茂大橋」。
賀茂大橋より上流は賀茂川、下流は鴨川と呼ばれるが新撰組は歌う。
♪加茂の河原(かわら)に 千鳥が騒ぐ またも血の雨 涙雨♪
この歌で私は長い間勘違いをしていた。加茂川とは奈良北部に接する加茂町を流れる川。
従って、新撰組は奈良北部から加茂川にかけて跳梁跋扈していたと私は思っていた。
歴史上では賀茂川・鴨川・加茂川は何れも記録に残っているそうな。
そもそもは葛城山を本貫とするカモ一族の一派が山城へ移ったということ。
その本貫の地にあるのは高鴨神社、やはり「鴨」が本来であろう。
日本史の謎ともいえるカモ一族、本阿弥光悦もその系らしい。
京都の「葵祭・あおいまつり」も正式名は「賀茂祭」、徳川家の守護神は三河加茂神社。
「葵の御紋」とは本来賀茂神社の二葉葵、徳川の三つ葉葵は架空の植物。
思っている中にこの寒気、カモ鍋が喰いたくなって来た。結局は呑み助の元の木阿弥。
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2018.12.07 知的サムライ
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毎夏、背丈が一間以上に伸びて花を咲かす我が家の高砂百合の横。
こんな季節にその孫か曾孫のような小さな一本が花を付けた。
そう云えば、高砂(台湾)の最高峰・新高山に登るのは明日未明。
ノーベル賞受賞の本庶博士がストックホルムに到着の一報があった。
何でも恒例とかいうノーベル賞受賞者が喫茶店の椅子にサインする話。
本庶博士は漢字の名前と平成年号を記入し、「有志竟成」と揮毫した色紙を寄贈。
そして授賞式には和服で出席ということであったが、その時の一言に納得。
博士、「貸衣装ではないよ、自前の着物です」。恐らく紋付き袴であろう。
もしかすると、否、恐らく博士の下着はフンドシであろうと思い、莞爾。
博士の目付きや背筋の伸び、物言いには古武士を彷彿させると前に記事にした。
自前の紋付き袴は自分で着られるであろう。
未だ、この日本にサムライが残っていたと嬉しくなった。しかも知的な。
2018.12.06 刀自の袂
先日、滋賀のミホミュージアムで「百(もも)の手すさび(遊び)」を見て来た。
明治の名立たる実業家で数寄者の茶杓が一堂に展示されていた。
益田鈍翁、松永耳庵、安田松翁、高橋箒庵、三井高福、住友春翠、野村得庵、小林逸翁・・
彼ら剛の物の茶杓が存外に華奢な作りというか、細くて小さい物が多いことに私は驚いた。
比べて、今回展示されている女人の茶杓が太くて大きいのには更に驚いた。発見である。
明治以前は女人の茶とは「男もすなる茶といふものを、女もしてみむとて」の世界。
江戸中期に石州流大口樵翁が「刀自之袂・とじのたもと」を著し女人の茶を説いた。
「女のまめやかに物しりたるふるまひ、いとみにくきわざなり」と諭しているのは今も同じ。
「刀自」とは大人の婦人、女将(おかみ)を云うらしいが、今回の茶杓のオナゴはん。
太田垣連月・柳原白蓮・新島八重・上村松園、茶杓に見えたのは正に「刀自」。
それぞれの生き様は女の人生劇場であったようだ。

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大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ)寛政3年 - 明治8年、知恩院の尼僧、歌人、陶芸家。
茶杓 銘「菊露・きくのつゆ」。
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柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん)明治18年 - 昭和42年、大正天皇の従妹、美貌の歌人。
茶杓 銘「紫野・むらさきの」。
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新島 八重(にいじま やえ)弘化2年 - 昭和7年、会津の女戦士、同志社創立者・新島襄の妻。
茶杓 銘「㐂・よろこび」。
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上村 松園(うえむら しょうえん)明治8年ー昭和24年、日本画家。
茶杓 銘「蜻蛉・かげろう」。
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この1日の土曜日、孫の保育園で発表会が開催された。
娘の旦那の両親も名古屋からお出ましとの由。
私も女房の外泊許可を得て二人して西大寺まで出掛けた。
前列のマット敷きと腰掛三列が出演児の親御席、続く席一列が優待席。
娘達の手配で私達には優待席が用意されていた。
発表会が始まると父兄会長が挨拶に立ち注意事項を伝えた。
「前席はお子さんの演技が終わると、次の出演児の父兄に変わってもらうこと」
「カメラの三脚は遠慮下さい、後ろの方の観劇の邪魔になりますので」
そして始まった刹那、私の席の二つ前の親御がカメラ脚立を取り出した。
それを見た父兄会長「三脚の使用は遠慮ください」とその親御に注意した。
その親御「これは三脚とちゃう、一脚や」とアホみたいな屁理屈をヌカシタ。
思わず私はそのカメラを取り上げて放り投げてやろうと思ったが控えた。
なんせ父兄会長は私の娘婿、二人がつるんで揉め事になるとややこしい。
劇が始まり、その親御が一脚を立てようとしたら、私「オイ、見えん、どけ」。
後ろを振り返る親御を睨みつけたら少し下げた。私「まだ見えん、下げ」。
私の周りの人も見ていたので、私「皆さんに迷惑やで」と少々声に威圧を込めた。
その親御、結局首の高さまで下げた。
後で婿に聞くと、父兄会の中でもギクシャクしているという話だった。
役をしないで文句だけを云って来る連中が多いということである。
まま、そんな親に育てられた子供はどうなるのやらと日本の将来が案じられた。
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よく垂れた稲穂である。しかし実というか種はこぼれ落ちない。
種子が成熟にともなって、穂や莢(さや)から自然に離れ落ちるのを脱粒性、
イネ科穀類の栽培種のように種子が落ちないのを非脱粒性というらしい。
つまり今の人類の主食として農栽培されている米や麦である。
米麦の栽培とは野生種の種子を採集し、さらにそれを播種→収穫を繰り返す。
その過程で野生種の中から非脱粒性のものを選択栽培し続けた結果だという。
この話は植物栽培を趣味とする知人の南都塗師から聞いて私は初めて知った。
日本の漆芸は縄文遺跡から約9000年前の漆芸品が出ているとか。
揚子江下流の河姆渡遺跡で発掘された漆椀(約6200年前)よりも古いという。
彼我の漆のDNAが違っており日本の漆芸は日本列島独自のもので渡来でないとも。
縄文遺跡の周辺には漆木の栽培や漆液を取る道具や工房の後があるとか。
最近の植物学会では縄文早期の1万年前のイネのプラントオパールが発見された云々。
つまり、世界最古の土器と磨製石器、それに米の栽培と漆芸品、縄文文明はすごい云々。
彼のその話を聞いて、縄文人の米の栽培への執念とは飢餓への恐怖かとも思えた。
今の米は種もみ1粒から500粒の収穫が計れるという。もみ5粒でお椀一杯である。
縄文人と縄文文明の恩恵に感謝である。もちろん塗師の彼も感謝の念は大。