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続いて、山ぼうし(法師)、花言葉は「友情」とか、アメリカ山法師とはハナミズキ
夕方の散歩で目に付いたもの、綿ぼうしの友情に誘われ、ついシャッターを

 思うに、この「友情」という言葉を口にする者に「友情」が有ったためしは無い
友情と云う言葉も、浅学故に歴史書の中で見た覚えが無いのはどうしたことだろう
友情という概念が生まれたは、意外と新しい時代かも知れない気がする
まぁ、聖書や仏典には有るかもしれないが、信仰心が薄い私では縁遠いところ
歴史で思い当るのは、春秋時代の斉の名宰相の管仲と鮑叔、曰く「管鮑の交わり」
日本では石田光成と大谷行部吉継の話を聞く、本にも書かれている

 一説、大阪城で開かれた茶会、一服の茶を廻し飲みする武将たちの中に行部がいた
癩病を患っていた行部の鼻水が碗の中に落ち、場は凍りついたとか
その時、三成がその碗を貰い受けて飲み干し、もう一服所望したとの話
その行部、関ヶ原の戦いでは、負け戦の中で三成に合力し獅子奮迅の戦いをしたとか
私は、その場を実際に見てはいないが、何となく行部の気持ちが解る気がする

 三成でもう一人、思い出した人物がいた、ここ大和の国は平群の武将、島左近
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と語られた御仁
三成の度重なる要請を受け仕官したが、その奉禄は2万石であった
時に三成の石高は4万石、自分の石高の半分を以って左近を召抱えた訳である
左近も関ヶ原の負け戦の中での勇猛・奮戦ぶりは、敵方にも長く語られたとある
こうしてみると、三成という人物、ひとつの男の形而上学が見えてくるようだ

、友情とは「信頼できる」裏を返せば「裏切らない」ということだろう
歴史の現実では、勝ち残れない人達にこそ友情概念があったのではと思われる
「裏切る者は、また裏切る」という言葉も歴史は伝えてくれている
先日の茶会の場、大徳寺三玄院は三成縁の塔頭、彼の墓に手を合せて来た

 茶湯者の覚悟十体の事として、「人を見知り寄り合うべき事肝要」とある
その言、以って服膺すべしと、しみじみ思う
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2013.05.31 綿ぼうし
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田圃の畦の西洋タンポポの綿ぼうし、綿法師とも綿帽子とも書かれている
どちらが正解かと調べていたら、ひょっこり奈良の小話を見つけたので記載

題名は「綿法師」

昔々、奈良県のある町に一軒の綿帽子屋がありました。
ある夜、帽子屋の戸を叩く音がしました。帽子屋の主人が出て見ると、
一人の見知らぬ小僧が店の玄関の前に立っていました。
小僧は、「御免下さい。綿帽子を三つ下さい。」そして
「代金は月末に、この町の稲荷神社で支払いますから取りに来て下さい。」と言って、
綿帽子を三つ持って立ち去りました。
月末、帽子屋の主人が小僧の言った通り、稲荷神社へ代金を取りに行くと、神主は、
「そんな小僧はいないし、綿帽子を買った覚えも無い。」と言いました。
主人が呆気に取られていると、どこからか綿帽子が三つむくむく動いて現れました。
やがて、綿帽子は三匹の子狐に早変わりしました。
子狐の頭の上にはあの綿帽子がちょこんと乗っていました。
主人は一人頷くと、そのまま店に帰って行きましたとさ。

 ・・・とさ
恐らく、この時は日本タンポポの綿ぼうしだったでしょう
今や、西洋タンポポに侵食され、日本タンポポは消えつつある
洋風文化の波に呑まれていく和風文化のことが思いに重なる
2013.05.30 菖蒲池の花
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最寄りの駅名は菖蒲池駅、あやめいけと呼ぶが、そこで見つけた杜若(かきつばた)

 漢字で菖蒲と書くと、ショウブともアヤメとも読めるが別物、杜若も別物とか
よく云われる言葉は,いずれが文目(あやめ)か杜若(かきつばた)
文目は花弁の元に網目模様があり、杜若は花弁の元は白くなっている、そしてショウブ
つまり花菖蒲は花弁の元が黄色になっている、それが見分け方ということである
アヤメは乾燥地を好み、カキツバタは湿地を好み、ショウブはその中間だとか
では、菖蒲池(あやめいけ)ではと、池畔の花を見に行くと、どういうことか
ショウブでもなければ、アヤメでもない、杜若(カキツバタ)だった・・

 初夏に出る菓子に唐衣(からごろも)というものがあり、杜若を模している
オナゴはんと色々浮名を流した色男、伊勢物語の主人公・業平はんの歌
 からころも きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ
この頭文字が、か、き、つ、ば、た・・、とまぁ、そういうこと
私の子供の頃によく遊んだ寺が佐保路の不退寺、別名、業平寺である
残念ながら、私はそれほどには色男に育たなかった、そこそこ程度か(^^)
ごんきつねはんのコメントで、毒だみ茶の菓子は? と聞かれたこともあり
初夏の菓子を求め、今朝の散歩は菖蒲池の畔とした次第であった
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毒だみの白花、毒や傷に効く薬草として「毒痛み」と云われたとか、花言葉「白い追憶」
母親が毒だみ茶を作る為に裏に植えたものだが、今となってはそれも白い追憶である

 追憶といえば、追悼あるいは追善の茶事・茶会と云われるものがある
私のやる追善の茶事は、重ね茶碗の点前でやることが多い
小間の床に遺影か形見の物を置き、床中の袋釘に掛けた花入に白菊を挿す
重ねの一碗目、主茶碗は故人へ献じ、二碗目替茶碗で皆が相伴する形をとる

 追善の茶会となると、広間にて献茶形式となることが多い
特に、寺院の本堂で催す際は殆ど献茶形式で、台子か長板の点前となる
私は他流の師匠の一七回忌をその菩提寺の本堂で献茶させてもらったことがある
この話は心の師の追憶として、次に廻したい
さて、はてはて、白い追憶という意味、何じゃろうか
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近所の紫つゆ草、北米原産の帰化植物で日本には昭和の初めに入って来たそうな
紫と云いながら白花もよく見かけるが、白紫つゆ草とでも云うのだろうか
花入の中で夕方に花が萎れたのが、あくる日に再び開いてホッとさせられることがある

 昨夕、茶道史の学者の方と会い、色々と話に花が咲いた
茶道界で通説とされている話が、存外に後世の作り話であることも多いとか
如何にも伝統の話のようだが、実は起りは最近の話であったりとか
なるほど学者の研究はするどいものと納得させられること頻りであった
その中に、桃山時代の茶は右勝手が主流であったという話には頷かされた
今では本勝手と云われるように左勝手が殆どで、右勝手は逆勝手と云われている
私の得意の勝手読みであるが、武家茶道で服紗を右に付ける理由はここにあると類推した
つまり、服紗は勝手側に付けるのが本来であり、故に右に付けるのが普通であった
それが、左勝手が主流となった後々も、服紗だけが右として残ったということ
その私の、文字通り勝手読みを話したところ、その学者先生は黙したままであった・・

 武家は刀を左に差すから、武家流派は服紗は右に付けたとか
千家の流祖・宗旦は左利きだったから、千家流派は服紗を左に付ける様になったとか
どうも、眉唾くさい話がマコトシヤカに流布しているようだか
私のこの勝手読み、如何なものだろうか
まま、カラスの勝手か
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草叢に咲く野あざみ一輪、花言葉は「私を知ってください」だとか

 戦国・桃山の時代に生き死にを懸けて己の置き処を探した武将・武人
何故に、茶の湯に入り、耶蘇教(キリスト教)に傾斜していったのか
茶と禅を繫ぐウンチクは数多耳にし、タコも棲み付いている
然りなれど、耶蘇教と茶の湯を結ぶ武将の思いを解説する話は寡聞である
形而上学とか小難しい話は専門家にお任せするが、気になるところである
「士は己を知る者の為に死す」という言葉を聞くが、その「己」と「知る者」
これが一体のもの、と思考を巡らせると如何なものだろうか
一種の自己完結を求める姿とも云えそうである
己とは、己は己を何処まで知っておるのか・・?
イカン、頭が混乱して来たようだ、野あざみの言葉に惑わされたか
茶を点てよう
2013.05.24 逆境竹の子
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裏山の路に今年も頭を出した逆境竹の子、愛犬も愛おしむように顔を近づける

 昨日、中学高校の同級生であったキリシタンの女性から小冊子が届いた
「茶の湯の心で聖書を読めば」というものである
古田重然・細川忠興・蒲生氏郷・芝山宗綱・瀬田正忠・高山重友・牧村利貞の7人
加えて荒木村重・織田長益・前田利長で10人、所謂、利休7哲とか10哲の武将茶人、
名をつらつら見るに、耶蘇教信者キリシタン武将の多いことに気付かされる
古田重然・細川忠興・蒲生氏郷・高山重友・牧村利貞・荒木村重・織田長益・前田利長
耶蘇教から心に何らかの影響を受けたとされる武将は、10哲の中に8人もいる


 キリシタンは秀吉のバテレン追放令、徳川幕府の禁教令を受け、逆境の憂き目となった
生涯キリシタンを通し、領地を捨てマニラに渡って死んだ高山重友(右近)は有名だが
改宗、隠れ信者等、其々の後世を生きたであろう武将たちの茶は、また一味の碗である
茶と禅を結び付ける風潮が蔓延しているが、そのことに些か疑問を持つ私は首肯した

 ところで、この利休7哲10哲、後世の千家の人が云い出したもので当時の話ではない
勿論、それを云い出した御仁は、その10哲の誰一人見たことも会ったことも無いハズ
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秋篠川畔のムラサキツメ草、今朝の散歩途中で見かけたもの
可憐と云うか愛しいものがあり、時々茶花に使うが萎れやすいのが難点である

 「雲居の鶴」の記事に、「ごんぎつね」というHNの方からコメントを貰った
思うに書の造詣が深い方のようで、茶席の所作振る舞いのことを評するに
「止め・跳ね」という書の用語で所感を述べられていたのは、新鮮な驚きである
考えてみれば、先の記事でも書いたように「守破離」の話だけでなく、能の「序破急」
弓道では「坐射」の坐、座射とは云わない、つまり座はところであり坐は動作であるとか
茶の立つ坐ると通じ、更にその所作を「止め・跳ね」の書道の感覚で捉えるとは納得である
日本文化の底流には、互いに通ずる根があると実感させられた
2013.05.21 園児茶道
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今日は園児茶道、つまり幼稚園・保育園の園児の茶道教育である
女子供は相手にしないとウソブイテいた私だが、昵懇の人からの話でもあり
此方に住む我が流儀の女性に、その園児茶道を頼んだという話の流れである
今日はその第一日目、さすがに私も気になり、その施設を訪問した

 案ずるより産むが易しの例え、その女性の園児指導はナカナカであり
日本各地で児童の福祉施設を展開しているという理事長(女性)も自ら参画
園児の前で懸命に手本を示されている姿には、何か私も心を打たれた
その理事長曰く、今は畳の無い生活を送っている家庭も多く、日本の伝統文化を
身に付けずというか、知らないまま大きくなる子供が増えているという話
それ故に、四歳五歳の子供たちであっても、畳に座りお時儀をする経験をさせてやり
更に、挨拶の仕方、お菓子の食べ方、お茶の飲み方を学ばせてやりたいとの話である
今後、園児達がこれからの国際化時代を生きるには、日本文化を知っておくことこそ肝要
故に、子供の記憶の中へ日本文化を残す為に、茶道を取り入れたということである
この話はズッシリ腑に落ちた、「義を見て為ざるは、勇無きなり」、私は全面協力を約した

 ここは、日本人の日本人たる所以に繋がる話と承知し、私の「女子供に茶は教えない」
という大前提を、暫し棚上げすることとした次第
2013.05.21 紫陽花の蕾
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今朝の散歩途中で見た蕾を付けた紫陽花

紫陽花とくれば梅雨を連想するが、もう梅雨入りが近いということか
紫陽花は日本原産で学名は「オタキサン」、つまり「お滝さん」
シーボルトが日本から持ち帰って、自分の愛妾だった女性の名を付けたそうな
その後、紫陽花は欧州では色々改良され、西洋人好みの花に作り上げられたが
その種の西洋紫陽花は、私は茶で使わない
やはり、清楚な日本の紫陽花というか、山紫陽花が良い
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今年三月、二十七年ぶりに一般公開された京都の門跡寺院「大聖寺」
だが、私は茶会でちょくちょくとお邪魔しており、今日もお邪魔した
この寺院の殿舎や寺宝を守る為の団体として「大聖寺文化・護友会」がある
先代御門跡の縁続きになる上田流の御宗家がその副会長をされている
三年に一度ぐらい、この時期に会合が開かれて、上田流が掛釜を持つのである
京都市の文化財に指定されているこの寺院の庭園には、ここだけに見られる花
「雲居の鶴」と名付けられたあやめ草が咲く、清々しい花である
護友会の会合がこの時期に開かれる所以でもあり、一見の価値ありと掲載する

 今日は、幼稚園関係者男性一人女性三人を案内し茶席に入ってもらった
なんでも、園児茶道で上田流を取り入れてもらうとかの善き話である
日頃、女子供はご遠慮願うとノタマっている私ではあるが、この際には
引率の労を取らせてもらった次第である
ただ、惜しむらくは、今回の茶席に濃茶が出なかったことである
その男性一人の方は、茶会ということで、わざわざ私のところのに来られて
濃茶の飲み方を特訓され、心しての茶会出席だったのである
茶席では主菓子と干菓子が出た上で、丁寧にも薄茶が二服であった
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嬉しがり、とも云うのだろう
写真挿入のIT技を教えて貰ったので、今一枚追加記事である
昨日の稽古で入れた山芍薬の花、白くて可愛いというか清楚である
伊賀の山中で見付けたもので、「夏は白」の続きとした
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春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
万葉集にある有名な持統天皇の歌だが、やはり夏には白色が向く
ということで、手前味噌ながら、我が上田宗箇流の風炉の灰
牡蠣殻(かきがら、牡蠣の貝殻)を潰して細かい粉状にしたものである
ふんわりとして、色は真っ白、正に純白の灰である
これが盆を過ぎ、秋の訪れと共に炭の灰と混ざり合って、曰く「灰色」に近付く
晩秋の名残の頃には全くの灰色となり、灰型は掻き上げ、やつれの侘びを出す
云うまでもないと思うが、この時の「掻き上げ」は「牡蠣揚げフライ」ではない
2013.05.13 三配り
 流祖法要茶会が大徳寺であり、新人達三人と大学教授や囲碁仲間、他流の茶人等
九人と共に客として参列する
二〇年近く、お迎えする側として濃茶・薄茶の茶席や水屋の切り盛りをして来たが、
客として席入りすることは余りないので、新鮮であり、感じさせられるものがあった
目線の高さを客の坐りにしてモノを見るということが、良く理解でした
道具の場所と置き方、客席の組み方、お運びの足さばき、立ち座り、視線と表情
そして何より、席の流れと三配り、つまり目配り、手配り、気配りである
稽古の時、客畳に坐して人の稽古を見ると、アラが良く目に付くのと同じである

 よく、お茶の心は「おもてなしの心」と云われることがある
私は、その考えに与みするところでないが、「三配り」の考えには与みする
語弊承知で云えば、料理旅館の女将の研修と茶の湯を一緒する気は毛頭ない
考えてもみれば、信長・秀吉が「おもてなしの心」で茶を点てたとは思えない
茶の湯の在り方には、信長・秀吉の功績が誰にも益して大きいと考えている
まぁ、「べきだ」「ねばならない」はともかく、其々が自分の茶をすることが肝要
とは云え、「守・破・離」無き自己流では話にならぬと知るも、これまた肝要である
2013.05.07 風炉の時期
 5日は立夏、一般には炉から風炉の風景に替わる時期である
私のところでは、その日も釣り釜のままで濃茶の飲み方の稽古をした
大徳寺の茶会に続き、大聖寺の茶会があり、そこに参列する方が濃茶初体験の由
大徳寺茶会の新人参列者と共に、再度濃茶の廻し飲みや拭き方の稽古となった仕儀
そのため、朋庵茶塾卒塾者に濃茶を点てて貰う様に依頼していたのであった

 さて、その卒塾者、立夏故に半年ぶりの風炉点前と合点されての参上
そして、部屋に入って曰く、「あれ、未だ釣り釜でしたか、風炉稽古をしてきたのに・・」
まずは気を取り直し、釣り釜での濃茶点前を見事に披露、濃茶飲み方稽古は無事終了

 確かに、立夏を以って炉から風炉へ、立冬を以って風炉から炉というのが決事のように
思われているようだが、実は「この日から」という確かな決まりはない
風炉を取り出す時期は、「木々の若葉が青く色付く頃」つまり新緑の季節に先駆けて
そして、炉を開く時期は、「柚子の実が黄色く色付く頃」と云われているようだ
私は風炉出しは、家の前にあるモチの木の葉が落ちて新芽が広がる頃としている
では、いつやるか? 今でしょう!
 前回の熱田神宮の話、罰あたりを見舞われた
婿殿両親からご馳走になった「蓬莱軒のひまつぶし」のことである
私は以前に名古屋の知人に「蓬莱軒」という鰻の老舗の名物料理として
教えられ食していたのて、ついつい、知った気に蘊蓄をたれた
それも、あろうことか、地元の御両親に対してである
さすがは御両親、ニコニコ顔で私の話に聞き入った風であった

私のたまわく
この「ひまつぶし」という料理は
普通のうなぎ丼の喰い様、三種の薬味掛けの喰い様、更に汁掛けの喰い様
三様の醍醐味を、ゆっくり時間を掛けて味わうという、御大人のそれだと
さすがに御三家筆頭の名古屋の名物じゃ、とまぁ、講釈をたれた次第

 昨日、和歌山に出向き、会合の中でその話をしたところ
名古屋出身のある社の常務、申し訳なさそうに曰く、それ違うような・・
ウン!とばかり聞くと、「ひまつぶし」ではなく「櫃(ひつ)まぶし」だと
つまり、上方のまむし(江戸のウナギ丼)を御櫃(おひつ)に入れて出し
碗に一杯づづ取り出し、趣向を変えて楽しむというものであるとの由
私の瞳孔は開き、顔が火照った。犬を連れて行った祟りかと
これからの人生、取りたて確かなものないが故に、ホンマモノを語り度し
今回は正に汗顔額にまで滴る思いで、ひしひし半端知識の言を反省する

 ひとつ、収穫と云えるのは、この熱田神宮のの鰻料理
江戸・関東のそれと違い、腹開きで、金串を刺し、タレを浸けながら焼く
上方のそれであったこと、やはり、尾張は近畿文化の中にあったと
確認が出来たことであった
 今夜は八十八夜、立春から八十八日目の夜である
♪ 夏も近づく 八十八夜・・ ♪ 茶摘み歌で知られるように春との別れである
とは云え、この数日は肌寒い日夜が続き、衣類の洗濯ではなく、選択に困る

 さて、この十二日は流祖・上田宗箇の法要茶会が大徳寺三玄院で催される
新人の方も今回の茶会に参加されるので、前回の稽古では濃茶の飲み方を練習した
薄茶は奈良・京都では寺社の茶店や喫茶店でも出される処が多く、一般的ではある
しかし存外に、濃茶を飲む機会は少ないようで、飲んだことが無い人が多い
濃茶は一碗の茶を三~五人での廻し飲みになるので、飲み口を拭く所作が求められる
その所作は流儀により違いがあるが、当流では懐紙の八切れで拭き取ることになる

 その濃茶、どこの流派でも正客が主人に茶銘と詰元を聞くのが通例とされている
濃茶の茶銘には、「●●の昔」というのが多いのだが、昔というのが八十八夜と関連する
昔という字は、廿一日、二十一日という話で、八十八夜を挟んだ二十一日のことである
つまり、上質の茶は八十八夜の前十日、後ろ十日の間に摘まれた茶の若葉で作られる
それで以って、濃茶は「●●の昔」と名付けられるということのそうな、価格も高い