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かえるの木魚というか木蛙

 この金曜日には伊賀越えの所要があり出掛け、先ほど帰宅
行く途中、奈良三条通りの「かえる庵」に寄った
カエルの木魚ならぬ木蛙を写真に収めるためでる
カエルの木魚、どんなものという問い合わせに応える為だ
この木蛙、写真にある木棒で叩けば、木魚と同じ音が出るが
背中にある凸凹を木棒で当て流すと、聞こえるのである
ケロケロケロ、クァクァクア、と正に蛙の鳴き声、カワズネ
このカワズネ、蛙音と書いて立派な夏の季語である

 帰宅して先に書き込んだブログを見て反省しきり
時間がなく、推敲もソコソコに出掛けたが
誤字脱字、テニヲハ違いに文脈不明等々、汗顔であった
然し乍らの拍手には、有難くも恥しくも有り
すぐに、記事修正をしたが、果たしてどうであろうか

まぁ、この際、ケロリンとしておこう
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雨上がりの草叢で咲く「つゆ草花言葉は「懐かしい関係」
別名「月草」は色がつくことから云われたとか、青色の染料になる

 人と人とは奇縁で繋がると、つくづく実感した話
昨年の夏、私の父と回天特攻隊で同期だった上山春平氏が亡くなった
盆頃、私の高校の同級生である陶芸家の家を訪問し雑談していた時に、亡くなった上山氏の話になり、友人から上山氏は彼が学んだ京都芸大の学長であったと聞いた
私が父と上山氏のこと、千玄室さんから手紙と菓子を頂いたことを話すと、友人は千さんが陣中点前をしていた中に自分の叔父も居たはずだと云う
そして、千さんと自分の叔父は徳島基地で一緒に訓練を受けていたと話した
彼は「きけ、わだつみの声」という特攻隊員の手記集を開いて見せた

 その手記集の四人目に「久保恵男、大正九年生まれ、東京都出身、東京帝国大学国文科、徳島航空隊上空にて殉職、海軍中尉、二五歳」と記されて、手記が載せられていた
目を通すと、格調高い文章で切々たる思いが綴られた名文である
後に知ったが、あちこちで紹介されている有名な手記であった

 友人が亡き母君(故久保中尉の姉君)から聞かされた話では、手記は徳島基地で一緒だったという俳優の故西村晃氏が、終戦後に久保家まて届けに来てくれたという
西村氏曰く、敗戦で書類は焼却となったが、その手記は焼かずに隠し持ったとのこと

 友人が母親から聞いた久保中尉は、勉強のよく出来た物静かな弟で、家では自室で本を読んだり、一人で茶を点てていた青年だったとか
出陣に際して、彼は茶箱を持参して家を後にしたということだった
それ故に、友人は玄室さんが陣中点前で使われたのは叔父の茶箱と思い、自分の家には叔父の海軍時代の写真が無いので、有れば貰いたいと云う

 私は重なり合う奇縁に驚き、その旨を玄室さん宛に書き送った
然しながら、何時になっても返事が来ることがないので諦めていたら、昨年の12月半ば頃に、千玄室さんから返事が来たのであった
そこには、海外に出掛けることが続き返事が遅れたという詫びが書かれ、久保中尉のことはよく存じている、本当に惜しい男を死なせたという思いを持っていること、そして故西村晃氏とのこと等が記され、久保中尉も茶箱を持っておられたが自分も持って行っており、配給の虎屋の羊羹で茶を点てたと書かれてあった
最後に、残念乍ら久保中尉の写真は自分の手元に無いことを伝えて来られた

 四か月経っての返事であった
裏千家千玄室大宗匠の人となりと、特攻隊経験者同士の何かを感じた
私の知る陣中点前を実際にした御仁の二人目は、故久保恵男海軍中尉である

 つゆ草の花言葉「懐かしい関係」を超えたものであろう
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 前項、奈良三条通りのそば屋「かえる庵」のそば茶事風景
点前をされているのは庵主・佐藤さん

 一般的な茶事では、初席で料理が出て、後席で茶が出る
初席が済むと中立ちといって、客は一旦席を立つ
その中立ちの間に席を直し、茶の席に改める
席が改まり、客を迎え入れる際に「鳴り物」で合図をする
鳴り物は銅鑼が多いが、夜は半鐘を鳴らしたりする
流祖、上田宗箇は火縄銃の空砲を撃ったとされる
まぁ、武将らしく豪快だが、客はビックリしたことだろう
とは云え、客もそれなりの武人揃い、シックリ来たのかもしれない
 
 その「鳴り物」、かえる庵ではカエルの木魚(木蛙?)を鳴らす
庵主はそれを蛙音(かわずね)と呼ぶ、なかなか風流である
かえる庵の庵主・佐藤さんは心底「かえる」に惚れ込んだ人だ
2013.06.25 そば茶事稽古
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お服加減はいかがですか?

卒塾者に、奈良三条通りで「かえる庵」という名のそば屋をされている方がいる
店の民芸調の大きなテーブルの中に炉を切り、吊るす自在はご自身の手作り
この春からの店休日を大工仕事に励まれて、店内に味わいのある立礼席が完成
昨日は道具の組合せをされ、最初の一服を点てられた
2013.06.24 茶箱
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茶道学園出身という裏千家の方が保持されていた茶箱を見せてもらった
木製で箱、蓋、中板があり、中に茶碗、棗、香合、茶筅入れ、振り出し、茶巾入れ
それに茶杓が収まるようになっている
全て小ぶりである、振り出しには金平糖等の菓子をいれるとか
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伊賀山中で見付けた丘虎の尾、花言葉は「忠実」
注意事項は「踏まぬこと」(^^)


昨日の続きとなるが、私が知る陣中茶箱で陣中点前をなさったお二人
一人は千玄室さん、今は裏千家の大宗匠と呼ばれている御仁である
陣中点前を考案された裏千家十四代家元淡々斎のご子息である
私は、献茶でその点前を拝見したが、武骨さを感じた覚えがあった

 三年前に、NHKテレビの100年インタビューの再放映番組を見た
語り手は千玄室さんであった、特攻隊時代の話の中で写真が映された
飛行服姿の五人程が飛行機を前にして円座となり、茶を点てていた
陣中茶箱で陣中点前をする千玄室さん、千宗興海軍少尉の姿であった
テレビを見乍ら、私は以前に見た雑誌の対談記事のことを思い出した
対談者は、千玄室さんと昨年亡くなった京大名誉教授故上山春平氏
二人は共に海軍予備学生、学徒出陣をして特攻隊に配属された
玄室さんは飛行科で神風特攻隊、上山氏は兵科で回天特攻隊
回天特攻隊とは世にいう人間魚雷の特攻部隊である

 私の父親も海軍予備学生で、回天特攻隊で上山氏と同期だった
テレビで語る、玄室さんの特攻隊員として生き残った思いを聞いて
父の話を思い出し、特攻隊当時の父親の写真を出して眺めた
制服姿で凛々しく並んだ写真や仲間同士でくつろぐ写真、はたまた
恰好を付けた写真、それは皆、二十歳を過ぎたばかりの若者たち
青春を生きていた姿そのものであった
私がつい落涙したのは、出撃する四人の仲間を写した一葉である
日の丸を頭に巻き屈託のない、本当に屈託のない笑顔があった
中の一人は、飼っていたウサギを抱いて写っていた

 私は写真と父から聞いた話を書き添え、千玄室さんに送った
玄室さんの話は、父の話と重なり、感銘した旨を伝えた
千家さんの茶は、武家茶道とは違うと思っていたと正直に述べた上で
以前に見た玄室さんの点前が、武骨であることを怪訝に感じたが、
氷解しと書き記した

 玄室さんからしてみれば、若輩者からの無礼な文言である
返事は望むべくもないものとしておったが、僅か十日も経ずに、
千玄室さんから返事が来た
中身は手紙と写真の礼、当時まだご存命であった上山春平さんとの
対談の思い出話として
「海軍時代のことを、海と空に分かれた戦いは、本当にすざましいものであった。」
と、話し合ったことを綴られていた

 続いて、「お父様はそのことをよく存じていらっしゃり、私もそれを経験した、だからこそ今こうして、一盌の茶をもって平和を願っております」と記されていた、そして末章に
「どうぞ、お父様のご霊前に暖かい一服をお供えして、私の心をお伝え下さい,別便にて、御品をお送りいたします、お茶と一緒にお供え下さい」と、あった

 明くる日に、裏千家秘書室から裏千家特別仕様の菓子包みが届いた
私は茶を点て、その菓子と共に仏壇の父に供えた
そして、父の特攻隊時代の仲間たちの写真も全て出して並べた、
仏壇の父の写真は、父の遺言で海軍時代の軍服姿のものである
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特攻基地があった鹿屋に咲く特攻花
出撃して逝った若き特攻隊員を偲ぶ花とか
昭和二〇年の今日六月二二日
沖縄戦最後の特攻「菊水十号作戦」が敢行された
翌二三日には軍司令官牛島中将が自決
二五日に大本営が沖縄戦終了を発表・・

 陣中点前というのがある、否、あったという方が正しいのだろう
だが私は知らない、茶箱を使った点前らしい
その光景は裏千家千玄室さんの航空基地の写真で見ただけだ

大東亜戦争熾烈な昭和一八年頃、奈良薬師寺の橋本凝胤管長と
裏千家一四代家元淡々斎が海軍省に五十個の茶箱を寄贈した由

 茶箱には、中に奈良赤膚焼の富士山茶碗と美濃焼の黄瀬戸茶碗
この二碗と茶杓、茶筅、茶入、袱紗、敷板等が組み込まれており
その茶箱を陣中茶箱と呼んだ
陣中茶箱を使い、艦内や野外を考慮した点前が陣中点前と聞く
今の裏千家には、その形を変えた茶箱点前があるそうだが
陣中点前そのものはもう無いようだ

 陣中茶箱を実際の陣中で使い、正に陣中点前をされた御仁二人を
私は知っている、一人は千玄室さん、当時の千宗興海軍少尉
そして、もう一人は故久保恵男海軍中尉である

その話は奇遇であった、次に語りたい
2013.06.19 トルコ桔梗
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写真貼り付けが、今以って上手く出来ない、トルコ桔梗の花言葉は「よい語らい」

 昨今の新聞・テレビではトルコ騒動が報じられている
トルコは親日国として知られているが、その元話が産経抄でも書かれていた
初代トルコ大統領ケマル・アタチェルクと明治の青年山田寅次郎のことだ
ことの起こりは明治二三年和歌山串本沖で台風に遭ったトルコ軍艦の海難事故である
地元民の懸命の救助活動で六〇名余りは救われたが、五〇〇名以上の死者を出した
明治政府は軍艦をトルコに派遣し生存者を帰還させ、トルコから感謝された
言論活動に身を置く二四歳の山田寅次郎は、遺族のための義援金集めに全国を奔走
時の外相青木周蔵の勧めで、集めた義援金は寅次郎が単身でトルコに持参した

 トルコ皇帝の信任を受けた寅次郎は、トルコの仕官学校で日本語と日本学を教えた
爾来二〇年をトルコで過ごし、日本とトルコの親善活動や貿易振興に尽力した
日露戦争で、寅次郎は商船に偽装したロシア黒海艦隊のポスポラス海峡通過を確認
イスタンブールからウィーン日本大使館を経て、その情報を日本へ伝えた逸話もある
第一次大戦で帰国を余儀なくされた寅次郎は、大阪で製紙会社を設立し、実業家となる
共和制となったトルコと日本は国交を樹立、寅次郎は日土友好協会の理事長に就く
トルコを再訪した寅次郎は、初代大統領に就いたケマル・アタチェルクと会う
アタチェルクは仕官学校時代に、寅次郎から日本語と日本学を学んだこと、そして
大統領の執務室には明治天皇の写真が飾られ、日本の近代化を目指すと話したとか
トルコ近代化を成功裏に導いたアタチェルクは、長くトルコ建国の父として慕われた

 この山田寅次郎、実は宗徧流八世家元山田宗有であると知る人は以外に少ない
上州沼田藩江戸家老中村家の次男として生まれた寅次郎は宗偏流の跡継ぎ養子となる
歳は一五歳、宗徧流六世宗学はすでに他界しており、その妻が七世宗寿として
宗徧流の家元を受け継いでいたが、寅次郎は茶より語学や言論の道に進んでいった
七世宗寿の死後の宗徧流は、家元不在の期間が四〇年続くことになったという
弟子の要請を受け、寅次郎が八世宗有として家元を継いだのは、五七歳の時である

 家元を継いでからは宗徧流の機関紙発行や、義士祭茶会の慣行化を進めたという
義士祭とは、吉良邸討ち入りの赤穂浪士の話で、討入りの夜に吉良邸では茶会があった
宗徧流の流祖山田宗徧が招かれており、それを暗に浪士に伝えたとされるのが、元ネタ
赤穂浅野藩は芸州浅野家の分家筋、依って当流でも義士祭を催すところは似た話
家元を継いだ後も、東洋製紙(三島製紙、後に王子製紙と合併)の社長・会長を続け
昭和二三年の合併で引退、八二歳の時であった、以後は茶に没頭したという
昭和三二年、山田宗有こと寅次郎、大阪の自宅で死去、享年九〇歳であった
イスラム教に帰依していた寅次郎、ムスリムの茶道家元は珍しく、興味は尽きない
明治の快男児というか、男の茶であろう

   そんなこんなでの、先日の宗徧流茶会、格別な思いがあった
そのひとつに拝見盆のことがある、つまり茶杓を盆に載せて拝見に出す作法
人が歩く畳は不浄の場と見て、茶杓を直接畳に置くことを避けるのである
古石流でも、同じ話であり、茶杓は畳に直接置かずに仕覆に掛けて置く
武家茶道の多くが、手の平を畳に付けないのは同根の話であろうと思う
然しながら、武家茶道である当流では茶杓は畳に直接置く・・なんでや
更に然しながら、拝領や由緒のある茶杓は盆や袱紗に置いて出すので、良しとしよう

 昨日、園児茶道に出掛け納得させられたことがあった
園児を三回に分けて、十人程度の席入りさせたのだが、保育士さんはその都度に畳に向け
臭い消しスプレーを掛ける、時間に余裕があれば拭き取るのですが・・と云う
いつもそうしていると聞き、成程やはりと思った次第

最後に付け加える話は、テヘラン空港で孤立した日本人の救出を行ったトルコ航空機のこと

『 各国は自国の航空会社の臨時便で次つぎに退去していくが、日本人は埒外。どこの航空機も自国民優先なのだ。日本の外務省は日本航空に緊急の救援機派遣を求めたが、「帰路の安全が保証されていない」ことを理由に、派遣を見合わせるといってきた。空港にとり残された日本人は、最終的に200人あまり。刻々と迫るタイムリミット。テヘランの日本大使館の野村豊大使は、この事態を何とか打開しなければと、日頃から親交のあったトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えた。
「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」
大使の要請を受けたトルコ航空は、すかさず2機の航空機をテヘランのメヘラバード空港へ飛ばし、215名の日本人全員を乗せ、タイムリミットぎりぎりにトルコ領空へとって返したのだった。』

 長話になったが、トルコ桔梗の「よい語らい」になったかどうか
拍手の数が証か(^^)
 




2013.06.16 心の師
村田珠光の古市播磨法師宛一紙、という中に有名な文句がある
ご存じ村田珠光とは奈良称名寺の僧侶で、世に知られた茶祖と云われる御仁
古市播磨法師は、名を澄胤という奈良古市の豪族の出で興福寺に入り出家した御仁
古市播磨は珠光第一の弟子とされ、珠光がその一番弟子に書いた茶の心得と察す

 その最後にある次の言葉が、私には分かるようで分からずにいる
「心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」

 色んな御仁の薫陶を受けてきた思いが私にはある
勿論、茶人ではない方もいらっしゃるというか、そうでない方の方が多い
或いは、書や歴史の中で知るだけで、会うたこともない人もいる
師事すべしと思う時、いつもこの言葉が脳裏に浮かぶ、半知半解のままに

今日は大阪城を借景にした茶席で、宗徧流の茶を一服頂いた
床の花は、山アジサイと黒百合であった
2013.06.15 八重山吹
ほんま、同級生は有難いというか、お節介というか
電話で忠告を頂いた
山吹の記事の写真、あれは一重ものの山吹で、花弁は五弁
一重ものは実がなり、実がならないのは八重の山吹だとか
従って、太田道灌に差し出し、「実の一つだになきぞ悲しき」
云うたは、八重の山咲でないと話が合わないことになる
依って、この写真は違うと思うよ、とウンヌン
中学時代の女級長だったその彼女、今以って小うるさい
「分かった、チャンと記事で修正をしておく、アーメン」
と云って、電話を切る
彼女の家族、親姉妹は皆敬虔なキリシタンであった
子供のころから、なんだかんだと小言を聞かされたものだ
なんとなく、トラウマ現症とも云える
2013.06.15 パソコン障害
四日前にパソコン障害を起こした
シャットダウンができないので、電源を切り強制終了した
次の日に開こうとしても開かないので、詳しい御仁に見てもらった
その御仁の話では、その日はヤフーのバージョンアップ日に当っていたという
その日に強制終了させると、基本ソフトが壊れるということだった
従って、私のウィンドウズXPのCDを入れて、再度セットアップしないとダメだとか
そのCDはどこにあるのか、今となっては見つからない
仕方なく、新しいパソコンを用意して、アレコレと突きまくっているが、難儀している
漸く、ホームページを開くことが出来たが、ブログの作成が上手くできないのだ
とりあえず、写真無しの文字記入まではこぎつけたで、実験的に載せてみる
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山吹の花と兼明親王の和歌
急な雨に見舞われた大田道灌、山里の農家に蓑を借りようとした際のこと
その家の娘が山吹の花一枝をそっと差し出したという有名な話
山間(やまあい)の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを
奥ゆかしく答えたのだ

 蓑笠とは、蓑と笠ということなのだろうが、茶を習い始めた頃私には想い出がある
蓑笠も菅笠も三度笠も似たようなもの、まして露地笠を初めて見た時のことである
梅雨時期なので、茶事には笠を準備するようにと「三度笠」を渡されたのだが
この三度笠はアゴ紐が無いので、どうするのかと訝しく思って先代宗匠に訊ねたら
「これは露地笠というもので、両手で前と後ろ持つもので、アゴ紐はないのだよ」
そして、露地笠を「こうするのですよ」と自ら見せてくださった
良く見ると、笠の前先に半釣り輪の様に紐が掛けられてあり、成程と納得した
「晴れていても、笠の準備はしておくもので、まして梅雨時期の心掛けですよ」
その時の先代宗匠が云われた言葉と姿が、この時期になると思い出される


 六月一二日、今日は先代宗匠の命日、没年は平成一〇年、亨年八二歳
物静かで、穏やかで、常に優しい目で注意されていた
「指を開きたるは、口を開きたるに似たりと云いますよ」
「出す時は早めに、引く時はゆっくり、恋人と別れを惜しむが如しです」
「立つ時は煙が立ち上る様に、坐す時は音を立てずに」等々


 今年は空梅雨模様であるが、笠の用意もしておきたいと思うが出来ない
それは、私は露地笠を持っていない為である、その理由とは露地が狭いこと
朋庵の露地はまさに坪庭然としており、且つ軒先が長く、雨に掛らないのだ
要は、一坪の茶室と一坪の露地では雨に掛るスペースもないのである
然り乍ら、毎年、ハッキリと心眼で露地笠の稽古をさせてもらっている

 先に書いた、お会いしたこともない奈良の町長屋の茶の師匠の命日は六月六日
そして、当流の先代宗匠の命日は六月一二日、お二人の没年は同じ平成一〇年
違うタイプのお二人であるが、私には心で何かが重なって来る思いがある
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千家茶道では「花寄せ」という形式が有ると聞くが、当流にはない
風炉の時期は花が豊富なので、色んな花と花入を飾るそうである
山紫陽花の記事を見て、卒塾者の方が庭で育てた山紫陽花を5種下さった
どれも捨て難く、「千家もすなる花寄せといふもの」をまね、皆で入れた

 当流では、花は一種を原則として広間でも二種までとしている
秋の終わり頃には「名残りの花」といって、五種七種を入れることがある
他流でも同様らしく、姿を消していく花にその名残りを惜しむ姿を出す
まぁ、侘び寂びと云うより、もののあわれの情感であろう

 茶事では、懐石の席の床には軸を、後の茶席の床には花を飾る
その逆になる形式に、夕さりの茶事というものがある
夕方から宵にかかる茶事なので、明るいうちに花を見せるというもの
とまぁ、あれこれ考えると、やはり茶には花が先行していたのだろう
軸は後から、と云うより「禅語」を尊ぶ風習は後世のことと察す
2013.06.08 日本亀、戦車
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朝、愛犬と平城山の林に入った、ガサガサと草叢に反応した愛犬は亀を銜えて来た
見ると日本亀である、今や猿沢池や秋篠川の亀に、十にひとつも日本亀は居ない
私と愛犬の格闘が始まり、指を愛犬の口に入れネジ開けて亀を取り出し、水地へ放した
格闘で愛犬も力が入り、甲羅に牙で穴を開けたが、身は守られていたようだ

 亀を放したところで、携帯に電話が入った
何年ぶりになるのか、前の記事に書いたブリキ職人の息子だった友人からである
「戦車は作っていない、戦車のエンジンを開発していた、戦車本体は富士重工が作った、
戦車のタービンエンジンにはエンジンブレーキがないので、その開発実験をしていたのだ
富士のすそ野で戦車に乗り込み、山坂を走って実験をして、作り上げた、云々」と・・
私曰く「戦車のエンジンだろうと砲だろうとキャタピラだろうと、それは戦車作りだ」
友人曰く「そら、まぁ、せやな、定年後は海外で技術指導の依頼があり忙しいわ」
よく考えてみると、日本の技術流出・頭脳流出の実態と云える話である
願わくば、彼の技術開発した外国軍戦車が、この日本に攻め込んでこないことを・・

 友人、更に曰く「髭面下げて、花や乙女の恋心じゃとか書かず、もっと重い話を書け」
・・こ奴、やはり戦車作りの男じゃ
他の友人の批評、「もっと軽く一般受けする話にせんと、訪問者は増えん、云々」
ホンマ我が友人たち、親切と云うか、お節介というか、エエ奴ばかり・・

 亀、ジックリ見ると戦車そのものに思えて来た
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夏花だが雪の下、花言葉は「恋心」、葉は薬草になる日本原産種
雪の下とは、白い花が上に咲くからとか、その葉は雪の下でも緑を保つからとか
そして石垣や岩の間で、そっと白い花を咲かすのが、乙女の恋心の様だとか
確かに、茶の世界では真夏の道具に雪景色を施す粋(スイ)な心もある

 ところで「乙女の恋心」ならぬ「老骨の職人茶人」のこと
大和郡山は豊臣秀長の百万石城下町、そこに紺屋町というところがある
水路に沿って両側に職人の家並があり、水路は藍染の作業の場であった
近くは、大工町、鍛冶町、材木町、車町、魚町、塩町、豆腐町、茶町等々
百万石の繁栄を支えた職人たちの町筋の名が残されたところである

 紺屋町には、高校時代に友人が二人居て、よく遊びに行った
一人はブリキ職人の息子、一人は竹細工職人の息子であった
二人とも大学の工学部を出て、物作り企業の技術者となり、家業は途絶えた
ブリキ職人の息子は戦車作りに、竹細工職人の息子は建材作りで活躍した
家業は途絶えたが、親父さん達の職人気質は立派に受け継がれたと思う

 私が茶を始めてから、その紺屋町に住む宮大工指物師と知己を得た
当流宗家の武家茶室を再建するに当たり、春日大社から紹介を受けたのだ
もう故人であるが、当時は齢七十余りのカクシャクとした御仁であった
その家には、あちこちに木の細工物が置かれてあり、それを見せながら
「これ、どないに接いだるか分かるか?」「これ、外してみ」、云々と
楽しそうに、そして屈託も驕りもない表情で話をされたのだった
そして曰く、「最近は先生先生と云われて嬉しがる連中が増えた」
「どんな場でどんな形で使われるがを知り尽くさんとホンマもんは作れん」

 その御仁、私に一服点ててくださった
衒いのない、自然体の姿であり、それでいて風格がある点前であった
粗にして野なれど卑ではないという言葉があるが、それとは少し違う
こなれた所作でありながら、作為が無いというもので、私は唸った
使った自作の南天の茶杓と筒・箱を私に渡し、「これ持って帰り」
帰路の私の心は晴れやかだった、「乙女の恋心」にも似たものか

 因みに、私の交友する工芸家の方は、皆さん立派な職人であって
誰ひとり「先生」と呼ばれて喜ぶ人は居ないのでアル、、と思う
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卒塾者の庭に植わっていた蛍袋、ホタルは火垂で提灯とか、花言葉は「正義・信頼」
卒塾者から半年ぶりの風炉点前を復習、ということで出張稽古


 知人の一刀彫師から、赤膚焼香柏窯展示会のことを聞き近鉄百貨店へ出掛けた
春日御土器師・尾西楽斎の窯で、名工奥田木白の流れを汲む焼物である
上の階では、門跡寺院円照寺山村御流の華道展もあったので入ってみた
その山村御流の花に、今回感じるものがあった

 華道各流の花は、曰く芸術と云うかアーチストの作品と云うか
それこそ、華々しく華やか豪華・華麗という感じを受けることが多かった
まあ、良く云えば、外人にも好まれる国際感覚的な感性と云える
辛口で云えば、楚々とした日本の感性に欠けるものと、正直思っていた
つまり、茶花とは違う世界の花、と云う気がしていたが
今回見た山村御流の展示会では、私の認識を改めさせられた
と云うより、自分のこれまでの認識不足を恥じた


 見事な茶花の世界であった
前の記事に、師の花のことで加筆した
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菖蒲池の白い睡蓮、花言葉は「清純な心」

 電話が入り、ビックリした
先の「茶人」の記事のことでクレームの電話だった
何とそれは、その町長屋の師匠のところへ兄に連れられて行った御仁
今や名の売れた陶芸家でもある、私の知人その人からであった
「井谷の記事は概ね正しいが、一点だけ間違いがある」と云う
何処だと聞くと、「師匠の稽古場の水鉢に入っていた花の名が間違っている
水仙ではなく、白い睡蓮だ」ということだった

 驚きと感動と友誼を同時に感じ、嬉しくなった
四〇年以上になる昔の状況について、その誤謬を正してくれたのである
「分かった、今から訂正する」と伝え、カメラを以って菖蒲池まで単車で行った
それにしても、彼にはそこまで印象の強い想い出だったんだと改めて知り
話の流れに心底感心し、その清純な心を思い、莞爾とした

 然しながらである
四〇年余り経って尚、その美の感動を人の脳裏に残し続けるとは
私には遠く及ばない・・

明日はその茶人の命日である
清純な心で一服点てよう
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大和文華館「中国陶磁の広がり」に行った、岡山から団体が来訪するので下見である
ルソン壷が目に付いたのでシャッターを切った、館員は見て見ぬふりをしていた
宗二記では茶道具の一番手に大壷を挙げている、当時は茶碗や茶入より上位にあった
この大壷、馴染みやすく云うと茶壺である、横道ながら一曲
♪ ずいずいずっころばしごまみそずい、ちゃつぼにおわれてどっぴんしゃん ♪

 さて、先の記事で茶人について触れた
山上宗二はその書の中で、曰く茶人のことを次のように云っている

「 目利きであり、茶の湯も上手、数寄の師匠をして世を渡る者を、茶の湯者という。
名物を一物も持たずして、胸の覚悟一、創意一、腕前一、この三つの揃った者を、
侘び数寄という、と。
唐物を所持し、目が利き、茶の湯も上手。この三か条調い、一道に志深い者、
これを名人という。 」

茶人とは、つまり数寄者のことであり、茶を飯のタネにしている者を茶の湯者、
そして身一つ心一つで茶に向かう者を侘び数寄者として区分しており
更に、目も腕も確かで加えて名立たる道具も持ち、茶の造詣にも深い者が名人
と、こう記している

先の記事の茶の師匠は「茶の湯者」ではない
紛れもない「侘び数寄者」であったろう


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茶友の家の庭に咲く山紫陽花、花言葉は「切実な愛」、因みに西洋紫陽花は「移り気」とか

 この茶友の武家茶道の師匠のこと、侘び数寄茶人として記しておきたいと思う

その御仁は大正生まれで、命日は平成六年六月六日ということだった
三年前に御仁の菩提寺にお弟子さん達十人程が集まり、墓参と一七回忌が営まれた
皆さんは二〇年近くも茶の稽古をしていないというので、私が献茶を点てさせてもらった
墓地でひと際目立つ大きな石垣の中に、たたみ一畳程の自然石の墓標が建つ
さぞかしの家柄であったろうと思われる墓であった
 
 御仁は病気がちで、奈良の町長屋に暮らされていたそうである
私の茶友が師事していた頃には、すでに妻子はおられなかったと聞く
御仁は茶の販売業ということになっていたが、商売は余りされていなかったようだ
生活保護を受けながら、清貧の中で茶を教えていらした様子である

 長屋は、玄関三畳に奥が六畳の二間、奥の六畳をカーテンで二つに仕切られていたとか、
半分は蒲団、残り半分が茶の稽古場で、教える弟子は四人が限度であったと聞く
週に二・三日ぐらいの稽古日だったので、弟子の数は常時一〇人ぐらいだったそうな

 茶菓子はアンパンを四切れにしたり、蒸かしたさつま芋を茶巾で絞ったものとか
それでも時間の経つのを忘れるぐらいの稽古であったと、その茶友は懐かしむ
稽古日以外でも、子供を連れてちょくちょく見舞いに寄っていたということであった
師の葬儀は、近隣の方と弟子で出し、寺へは弟子だけで行ったそうな

 一七回忌の参列者は、葬儀で師の遺骨を墓に埋葬した弟子の方々が来られていた
奈良の由緒ある神社の宮司、京都の大学教授、文化財研究所の方、著名な本屋の主人
そして和菓子屋の主人や伝統工芸家であり、入門は誰か一人が出で空くのを待ったと聞く
話では、日本文化研究家の米国婦人もその長屋に茶を習いに来ていたそうだ
一角の皆さんが異口同音に、当時を懐かしみ、師のことを尊崇の念で語られていた

私の知人とは別に、弟子であった本屋の主人の弟も私の知る陶芸家であった
大学を出た頃に兄貴に連れられ、その師の長屋に行った話をその陶芸家から聞かされた
その時に彼は、強烈な感銘を受けたという想い出を語ってくれた
師の長屋の部屋に入り、何気なく置いてあった平水鉢のすだれ蓋をめくると
水の中に白い睡蓮の花が入れられており、そこへ光が差して、えも云えず美しかったとか
今は芸術家として世で名を知られる彼が云う、記憶に残る美の感銘であったとか
師の周りにはそれなりの人達が常に集まり、茶を喫し、懇談が尽きなんだそうだ
自然にそんな雰囲気を醸成させる御仁だったのだろう

 ある時、どこかの新聞記者が来て、「茶とはなんだ」と訊ねたそうである
如何にも新聞記者らしい質問の仕方だが、師は曰く「茶は化け者じゃ」との一言
当時の師は道具類をあまり持っておられず、その多くは手放されていたようだ 
私はその話を聞きながら、本物の侘び数寄の姿を知った思いになった
茶友が見せた師の形見の茶杓、黒竹を削ったそれは、まさに「剄質にして雅文なるもの」

 惜しむらくは生前の師に、私は一度もお会いしたことが無かったことである
私が奈良に戻って暫くは、師も御健在でいらしたものをと悔やむこと頻り
一七回忌の献茶を済ませた後、再度その墓前に参り、一人で弟子入りを願った

「切実な愛」かどうか・・
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付近の溝で季節最後の花を咲かせていたオダマキ(苧環)、花言葉は「愚か」
誰が付けたか花言葉、更に紫は「捨てられた恋人」、白は「あの方が気がかり」・・
私の好きな茶花だ、この花言葉に写真を撮りながら哀れを誘った

 しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな

 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 静御前の歌である、彼女は考えてみれば「捨てられた恋人」と云えるかも知れぬ
吉野山に追われ、従者に荷物を持ち逃げされ、山中を彷徨い歩いた静御前
「あの方が気がかり」との義経への思いを歌に馳せた切ない話である
「一人静」「二人静」、共に清楚な花で私は好きであるが、近隣では見当たらない、

 先年、歴史好きの仲間内で熊野吉野を巡った際、宿をとったのは吉野温泉
義経と静御前が身を寄せ隠れたという吉水神社の谷あいにある一軒宿である
島崎藤村がこの山懐の宿に一カ月余り逗留して「訪西行庵」の作品を残した
この時の藤村、失恋で打ちひさがれて宿に来たとかの話である
戦に負けるか、恋に破れるか、いずれも落ち人、吉野は懐が深い隠れ場だ
落ち人に「案ずることはない、茶でも喫されよ」と一服点て、そして
「このブログ、色恋は受付けぬものとお心得あれ」と落ちを付ける

ところで、「カラスの勝手」で話した服紗の付け位置のこと
武家茶道は右、千家茶道は左に付けるという記事に、興味ある話を頂いた
左に付けた服紗を右手で扱うと、切腹の所作になり、武家はそれを嫌ったとか
なるほどにと、私は我が腹を擦った次第、ちぃと出ているが・・ 
2013.06.01 田水
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田水が張られた、畦の草はイタドリと思っておったが名が違うようだ

前の山法師の記事で、山上宗二記にある「茶の湯者の覚悟十体」に触れた
取り敢えず、その現在語文を記載する

茶の湯者覚悟十体

一 上を粗相に、下を律儀に。これを信念とする。
一 万事にたしなみ、気遣い。
一 心の内より、きれい好き。
一 暁の会、夜話の会の時は、寅の上刻 より茶の湯を仕込む。
一 酒色を慎め。
一 茶の湯のこころ。冬・春は雪をこころに昼、夜ともに点てる。夏・秋は初夜 過ぎまでの茶席を当然とする。月の夜は、われひとりであっても深更まで釜をかけおく。
一 われより上の人と交わるがよい。人を見知って伴うものだ。
一 茶の湯では、座敷・露地・環境が大事である。竹木・松の生えるところがよい。野がけには、畳を直に敷けることが大事となる。
一 よい道具を持つことである。(ただし、珠光・引拙・紹鷗・宗易などの心に掛けた道具をいう)
一 茶の湯者は、無芸であること一芸となる。

紹鷗が弟子どもに、「人間六十が寿命といえども、身の盛りはわずか二十年ほどのこと。絶えず茶の湯に身を染めてはいても、なかなか上手になれはせぬ。いずれの道でも同じである。まして他芸に心奪われては、皆々下手となってしまおう。ただし、書と文学のみ、心にかけよ」といわれた。

以上である
何故、この一文を記載したかというと、人生六十年が寿命という節である
顔に生き様を刻んだ男の茶席、その味わいを唱える私の茶である
寿命も延びた今の世では、還暦を越えて茶に向かう男にこそ、茶の湯が似合う
このことが、このホームページを作った私の本旨である
が、訪問者は少ない・・、