2013.08.31 宗匠
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朝顔の季語は秋、涼秋の時分に生けるものとされている

 茶筅の考案者高山宗砌の「宗砌」は、高山の案内書では「そうさい」となっている
然し、一般には連歌師高山宗砌として「そうぜい」となっていろ
「知人の茶筅師に聞いてみると、案内書の著者が「そうさい」と読む方が良いとしたとのこと
「せい」は漢音で、「さい」は呉音で俗にいう坊主読み、奈良は僧の町だからと云う話だそうな

 ともあれ山名氏の家臣となった宗砌、大和と京を行き来する連歌師として名を上げた
新撰菟玖波集の入集句数は二位であり、連歌の教本・蜜伝抄も残すという御仁
連歌は、古事記でのヤマトタケルノミコトがミヒタキノオキナと「筑波山」を詠んだのが起源とか
このことから、連歌のことを「筑波(つくば)の道」というのだそうな
連歌は能楽と共に、大和地方で盛んとなり、集団の歌詠み形式のため講の形の連歌会となった
それが天神信仰と結びつき、天神講連歌会となって大和から機内全域に広がったと聞く
こうしてみると、室町期の奈良は能楽・連歌・茶の湯と芸能のカオスのようは地域だったと云える

 京の北野天満宮では、幕府直轄の北野連歌会所が運営されていたという
その北野連歌会所の奉行を宗匠(そうしょう)と呼んだそうで、初代奉行が高柳宗砌だった
つまり、芸事の達人というか名人を宗匠というのは、これを嚆矢とするそうだ
本来の宗匠は仏僧で、学徳優れたる一宗の大匠を云ったそうだが、今では芸事の大匠の意となった

 では、家元と宗匠とはどう違うのか
簡明に云うと、その芸技と知識に優れた第一人者への尊称が宗匠であり
芸道の流儀やその家系、組織を継承するのが家元である
武道には家元という概念は薄いようで、宗家と云う方が多いようである
因みに、当流の昭和四〇年代の発行物には、宗家という呼称を記している
と、まぁ、こう整理をしてみたが如何?
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2013.08.29 茶筅と茶筌
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淡竹(ハチク)のタケノコ、頭の葉が青く細長いのが特徴

 淡竹の地下部は喰えないので、採る時はポキンと折るだけで済み、タケノコ堀りの面倒はない
淡竹は葉竹或いは白竹の語に由来するとも云われ、別名は呉竹(くれたけ)である
破竹の勢いのハチクは、竹が真っ直ぐに勢いよく割れる様と音の例え、字を間違い易い
茶筅を淡竹で作るのは、縦に真っ直ぐ細く割れる淡竹の特性を活かしたもの、とは既述した
 
 茶筅と茶筌という二つの表記があり、どちらも間違いではないが、茶筅の方が古い呼び名である
筅(ささら)とは、鍋釜の底を洗うのに使った竹の小箒のようなものである
当初の茶筅は内側の穂も外側の穂も真っ直ぐに伸ばした状態だったので、茶に使う筅、茶筅となった
筌(うけ)とは、川底に仕組む竹で組んだ魚取りの道具で、筒状や籠状のものをいう
茶筅の内側の穂を先に向い絞って合わせる形体になり、それが筌に似ているので、茶筅となった
茶筅の古里であり、日本の茶筅の九割を生産する生駒市の高山では「茶筌」の字を使うとのことだ

 高山は嘗て「鷹山」と呼ばれ、清和源氏の流れを継ぐ鷹山氏が領した地で、今も鷹山城跡が残る
鷹山城七代城主の次男、宗砌(そうさい・そうぜい)が茶祖村田珠光の依頼により茶筅を考案した
宗砌と珠光は、連歌師の宗祇との付き合いで知り合ったとか云われている
宗砌が作った茶筅が後土御門天皇の天覧を受け、お褒めの言葉と「高穂」の名を賜わった
其れを名誉として、鷹山家は家名と地名を「高山」としたという由緒がある

 高山家八代は、松永弾正久秀と与して織田信長に反抗し、敗れて家は滅亡、領地没収となる
宗砌は高山の頭領として残り、茶筅を作って時の権力者や禁裏・寺院へ献上をした
高山家の当主が丹後京極家へ仕官の際、家臣一六名に茶筌を一子相伝の秘儀とするよう命じて残す
家臣は、無足人座(茶筅師座)を作り、先の大戦まで五百年に亘って一子相伝の秘儀を守り続けた
大戦中の人手不足により、茶筅作りの技法を公開、一般の参入を可能にして今になったという
最近では、外国産の安価な茶筅も流通するようになったが、品質の差は歴然としているようだ

 私の知人の茶筅師は、当初の家臣一六名の二五代目で、父親から技の伝授を受けた御仁である
茶筅の価格はやや高いが質は良い

2013.08.28 茶筅
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左が八十本立て、右が三十二本立ての荒穂

 来月から、塾生の一人が濃茶点前の稽古に入る予定である
薄茶とは点前が違うのは当然ながら、茶筅も違う
薄茶用は穂数が六十四本以上、八十本、百本、百二十本のものがある
穂数が多いほど泡立ちが良いが、当流では七十二本から八十本を使う
写真左側の八十本立ては先が中に屈む形で、千家さんの好みのものである

 濃茶用は荒穂と呼ばれるもので、穂数が太くて少なくなる
大荒穂が三十二本、中荒穂は六十四本であり、当流では三十二本の大荒穂を使う(写真右側)
大荒穂は、昔のものを復元したもので、今は恐らく当流ぐらいしか使っていないようである
したがって、今では荒穂と云うと中荒穂のことを云うのが一般的である
実際に使ってみると、三十二本立ては腰が強く、茶を練る濃茶には勝手が良いと私は思う

 茶道具の中で、消耗品となるのは茶巾と茶筅、ついで柄杓ぐらいである
他流では其々の好みの形や大きさ、色・素材も定められて、購入先も決められているようだ
当流では、茶筅は汚れのない清潔なものを使うことというだけの話であった
その当流も、最近になって好みの茶筅が作られるようになった
私は、当流の流儀の締め付けの無い風土が気に入っていたので、理由を宗家に尋ねてみた
話では、当流独自の形体をもった江戸期の古い茶筅一揃えが出て来たということであった
奈良の高山(生駒市)で再現してみると、形体も使い勝手も良かったので使うことにしたとの由
その当流の茶筅の大きさは、丈三寸九分、節下一寸一分五厘、太さ七分五厘である
穂先の屈みはなく、緩やかな曲がり形になっており、白竹で煤竹は使わない(写真右側)

 当流に限らず、茶筅に使う竹の素材は淡竹(ハチク)であって、孟宗竹や真竹ではない
淡竹は細く縦に割れやすい特性があるので、茶筅作りに向いているとのこと
孟宗竹の孟宗は三国時代の呉の人で、母親に冬のタケノコ(筍)を食べさせたという逸話がある
この孟宗竹が日本に広まったのは江戸時代になってからで、茶筅には使われていない

 次は茶筅の成り立ちや歴史の事情を書く
2013.08.27 秋篠川の土手
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七月七日の七夕の記事で写真掲載した青ホウズキ、昨日行くとスッカリ色付いていた

 灘神戸生協(現コープこうべ)の店舗展開を行った人物に高村勣(いさお )氏がいる
大正一二年生れで中内氏と一歳下、昭和二一年に灘購買利用組合に入り、五〇年に専務理事
高村氏は組合員の共同購入形態の生協で店舗展開に取り組み、日本一の生協売上高にした
私の以前の仕事柄で、組合長となった高村氏の話を聞く機会が時々あった
その中に「ダイエーとの血みどろの戦いが、其々を日本一にした」という話があった
生協は法律で事業地域が決められており、どこへも逃げ出す訳にはいかんので必死だったという
相手は流通革命の旗手として名を上げるダイエーである、どっちも必死だったそうだ

 この神戸界隈での流通戦争が灘神戸生協を日本一の生協にしたのであり
方やダイエーは、神戸を離れて出店すると神戸の経験が活かされ、量販企業日本一となった
灘生協の凄みは組合員の組織率にあるとも云える、西宮市や宝塚市では人口より組合員が多い
つまり、転出しても組合から脱会せず、組合員の籍を残したままにする人が多いそうだ
量販企業ではないが、灘神戸生協の高村氏も流通革命を生んだ一人であろうと私は思う

 私の流通業の師にU氏と云う人がいるが、そのU氏から聞いた中内氏を語る面白い話がある
U氏は東大法学部を出て大手商社に勤務していたが、中内氏と知り合いダイエーに入った人である
そして、ダイエーの東京進出と全国展開を指揮し、ダイエーを三千億から一兆円企業に仕上げた
そのU氏、昭和一桁生まれで六尺豊かな体躯を持ち、運動万能という人ながら、小唄の師匠でもあった
小唄の師匠であった母君の跡目を継いだそうで、東大では落語研究会、オチ研にいたとのこと
U氏の内外に亘る学識の豊かさも然ることながら、氏の文化への造詣にも卓越したものがあった
何故ダイエーに行ったかと云うと、中内氏という人物に魅力を感じたからという話であった

 両雄並び立たずの例え通り、それなりに事が成ると二人の間に意見相違や齟齬が生じ出したそうだ
やがてU氏はダイエーを出て、流通コンサルタントの道を進んだのである
ヨーカ堂の伊藤氏と鈴木氏の関係に似るが、伊藤氏と違い中内氏は人の活用が下手のようだった
ダイエーの中に、中内氏の後を託すことが出来る人材がついぞ出なかったのは悲劇でもあった
独断専行型のワンマントップという中内氏の功罪半ばするところであるが、ただ器が並でなかった

 ある時、U氏のところにダイエーの秘書室から電話が入り、講演依頼があった
ダイエーから出された講演テーマの資料と話の要所を整理し、U氏は講演会場に向かったとのこと
U氏が会場に入ると、前列中央に一人坐って居るだけで、他には誰も居なかったそうだ
前列中央に坐って居る人は、ダイエー社長の中内氏その人であった
U氏が壇上に立つと、中内氏は起立し、礼をしたので、U氏も「では始めます」と礼をした
U氏が話を始めると、所々で「先生、質問!」と中内氏は手を上げ、質問をしたとのこと
U氏は質問に答えながら話を続け、講演を終えると中内氏は起立し「有難うございました」と云ったとか
「あれほど熱の入った講演はこれまでも無かったし、これからも無いだろう」とはU氏の弁

 「一客一亭の茶事」そのものの様な、或いはそれを上回る場面であったろう、と私には思えた
二人が真剣に向かい合い、今生限りのやり取りを尽くす、男の茶の湯、斯くありたいもの
昨日の新聞で見た「イオン、ダイエーの株式公開買い付け終了、連結子会社化へ」
感想が長過ぎたかも


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伊賀越えの地に咲くハイビスカス、沖縄の県花で花言葉は「信頼・新しい恋」

 ダイエーの創業者、故中内功氏の続き話である
記事を書くにあたり、中内氏のことでネット検索をしてみて納得した
その量はイオンの岡田氏やイトーヨーカ堂の伊藤氏の倍以上である
故人故ということもあろうが、それだけ逸話や功績が多いというか大きかったのだろう

 ダイエーの凋落は平成に入る頃から始まった、バブルの崩壊と重なる
ダイエーの基本戦略は、土地を取得して店舗展開を拡げるやり方であった
対してヨーカ堂は、土地物件は賃貸で店舗展開をするやり方であった
土地取得の展開方法はリスクが伴うが、店を出せば客が入った時代はリスクが少なかった
それと、土地は値上がりを続けていたので担保価値も上がり続け、出店資金を賄った
賃貸方法は出店費用が少なく済み、撤退リスクも少なく、身軽で安全な策である
リスクに挑戦する中内氏と安全慎重に事を進める伊藤氏との違いとも云える

 土地の値上がりだけでなく、時代がインフレ傾向にあったこともダイエーの追い風となった
つまり、仕入れた商品が値上がりすれば、それだけ儲かり、リスクも軽減されるのである
しかし、バブル崩壊で土地は値下がり、時代もデフレ傾向になるとダイエーの凋落が始まった
その時代に最も適合した者は、時代が変化すると最も不適合者となる例えである

 更に、平成七年の神戸大震災の発生は、ダイエーにとり大きな痛手となった
神戸が企業発祥の地であるダイエーは、傘下のローソンを含め百店以上が被災したのであった
時に中内氏は「被災者の為に店舗証明は消すな、客が来る限り店を開け、スーパーはライフラインや」
と号令し、三日後に被災地に入り、国より早くフェリーやヘリコプターを使い、物資搬入の指揮をとった
あとで聞くと、あの時のダイエーの社員は我が自身が被災したにも拘らず必死に働いたという
日本が大災害で暴動が発生しないことを世界は伝えたが、中内氏とダイエーは隠れた功績者と云える

その六年後「時代は変わった」と云って中内氏はダイエーの経営から身を引いた
後は、彼の私財を投じて設立された「流通科学大学」の理事長職だけに専念
そして平成一六年に芦屋と田園調布の自宅及び関連株式を全てを処分、翌一七年九月に神戸で死去
中内氏の遺体は戻る自宅がないので、中内家の墓がある寺に運ばれ、そこで密葬となる、享年八三歳
その年の一二月に、イトーヨーカ堂創業者の伊藤氏がイオン創業者の岡田氏と共に「お別れ会」を開催
流通業界の先頭を走り続け、自社の凋落も見て逝去した中内氏の霊に、ライバルが別れを告げた

続く
 
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川辺に涼を求める愛犬、昨日一昨日の伊勢の暑さは犬にも応えた様子

 女房殿と娘夫婦と孫娘は、お伊勢はんの式年遷宮の行事の一つ「お白石持ち」へ
私と愛犬は、伊賀越え山中で遊ぶ、お伊勢はんの遷宮行事には犬の同伴お断りとか
ご当地伊勢のコンビニ・ファミリーマート(イオン系列)で「中日新聞」を購入
目に入った「イオン、ダイエーの株式公開買い付け(TOB)終了、連結子会社化に」という記事
団塊の世代で流通業界に身を置いた人間には、ある感慨を持って受け止められたものと思う

 昭和の40年代当初から「流通革命」という言葉の元に、多くの若者が集まり、業界は熱気を持った
旧態とした日本の流通業界に、「流通革命の旗手」として果敢な挑戦を続けた男「故中内功氏」
中内氏はフィリピン戦線で九死に一生を得て帰国したという経歴から飢餓への思いが身に染みていた
中内氏が率いた量販店企業が「ダイエー」、それに多くの企業が続き、流通産業という業界が成立
流通産業は中学・高校・大学の卒業期を迎えた団塊の世代に、魅力ある就職先を提供してくれた

 流通業とは卸業と小売業のことで、生産業と消費者との間のギャップを解消する役割を持つもの
江戸期には卸問屋が主導した為、「そうは問屋が卸さない」と云う言葉が出来たのは周知のところ
明治以後は生産業が大きくなり流通の主導権を持つことになった、日本の産業革命である
その製品(流通業から云うと商品)の価格決定権は、今風に云うとメーカーの再販価格であった
財とは、即ち、生産者からば「製品」、流通業者からば「商品」、消費者からは「消費材」である
財の価格はメーカーが決めるものでなく消費者である、と考えた中内氏のマーケティング論
中内氏が打ち出したのが、消費者を代弁する「プライベートブランド」PB商品である

 PB商品とは、生産者が考えた財と価格ではなく、消費者志向の材と価格ということだ
この概念には、かの松下幸之助氏とも対立することになったが、松下氏の折れる形になった
このことが、今の世の「家電量販店」誕生に繋がったのである
中内・松下の会談場所は、幸之助京都別邸・貴船の真々庵という「茶室」であったとか
余談ながら、松下氏は茶への造詣が深く、あの「松下政経塾」でも「茶」を必須教育としている


私の記憶に残る中内氏の話としては
「売り上げ高は全て癒す」
「ダイエーは、この日本が豊かになるためにリスクを犯し、それを実現する」、
「もはや手本はない。いまこそ主体的に変革を実行していくときである」等々がある
そしてダイエーは、昭和四七年に三越百貨店を抜き、小売業売上高日本一となった

 ただ、売上高は日本一だが、利益高はイトーヨーカ堂が一位であった
分かり易く単純化して云うと、ダイエーは失敗の負が利益を圧迫し続けたのだ
イトーヨーカ堂社長の伊藤氏はダイエーの失敗を見ながら企業の舵取りをした
二番手に付き、常に一番手の後を見ながら舵取りをするというのが伊藤氏である
どちらが正解と云う話ではなく、その人の生き様や哲学として、考えさせられた
そして三番手に付けたのがジャスコの岡田氏、今のイオンである

 ダイエーに入り、頑張っていた私の先輩が広島勤務となった時
広島に居た私は、その先輩の家を訪れ、そこで中内氏を印象付けられた
家具を始め、色んな所帯道具を示し「これもダイエー、あれもダイエー」と云い
最後に「これもダイエー」と云って奥方を指さした、つまり、職場結婚である
そして部屋には中内氏の写真が額に入って収まっていた、彼は中内氏を信奉していた
これほどまでに、社員が自分の職場と社長を誇りにさせる男、中内という男とは何
、と私は思った

続く、






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エノコロ草(狗尾草)、犬っころ(狗児)草が元名とか、つまり子犬の尻尾草である
だが、一般には「猫じゃらし」の名の方が通っているようだ、写真は尾の長い「秋の狗尾草」
エノコロ草は粟の原種で、飢饉の時には食用にしたそうな

 「じゃれる」とは「戯れる」であって、「ふざける」「はしゃぐ」ということになる
仔犬の尻尾に猫がじゃれるのは可愛いもので、見ていて飽きが来ない
然し、大人が「じゃれ合う」「はしゃぎ合う」のは如何なものかと、不興を買うことが多い

 盆になると決まって始まる「はしゃぎ合い」、靖国神社界隈の喧騒である
若いマスコミ人が一国の大臣にマイクを向け、然り顔で「公人ですか、私人ですか」とか
私には、この然り顔がアホ顔に見える、その顔の向こうにある親の顔・教師の顔・上司の顔も
こういう顔を作ったのは、我々日本人全体の責任と痛感させられるのが、盆の恒例となった

 先の戦争への是非論、曰く「戦犯」云々の論議、この日本は言論の自由が保障されている
だが、敗戦の記念日ぐらいは清静と、厳かに戦没者の霊に向かい合うものだと私は思う
でないと、日本人は戦争で負けた上に、戦後も負けたことになり、戦没者に申し訳が立たない
日本人は先の戦争では負けたが、戦いぶりでは負けていなかったと、戦没者に伝えてあげたい
確かに、先の戦争に至った道程と時の為政者の判断へは、歴史の審判が必要であろう
然し乍ら、日本のためと信じ、懸命に戦い死んでいった人達へは、感謝と尊崇の念が有るのみ
まして況や、非戦闘員である女子供・赤子の死には、手を合わせるだけで言葉もない

 特定アジア国(支那・朝鮮)の人たちがこの日に靖国神社界隈で「じゃれ・はしゃぐ」こと
年々高じて来ているが、その国民・民族の品格を示すものと私は思っている
確かに、支那では日本軍の被害にあった人々も多かったろうし、その怨嗟もあろうと思う
然し、願わくば戦没者への追悼をする日だけは静かにするのが、大人の民族の見識であろう
と、恥ずかしながら、やや思想めいた能書きをタレタ、少々悔やむところ
私の心に留まる兵士の歌を記し、パソコンを閉じる

 大方は 言挙げもせず ひたぶるに 戦い死にき 幾多りの戦友(とも)
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宵待草(よいまちくさ)、待宵草(まつよいくさ)が正しいとも、花言葉は「ほのかな恋心」
私は月見草と思っていたが違うらしい、月見草は白い花だそうな、最近は見られなくなったらしい
共に江戸時代に帰化した同種で、名も間違われたままになっているとか(私同様)

 お盆休暇とか夏季休暇とか呼ばれるが、正月やゴールデンWと違い法定休暇にはなっていない
にも拘らず、盆の期間は例年のことながら、日本列島はざわついている
一般的には仏教行事からの風習と云われているが、日本の場合、古神道が根になっていると聞く
江戸幕府が定めた檀家制度に、葬式仏教の寺が乗っかって出来た風習だそうな
故に、盆は正月と違って国民行事とは見做さず、法定休日としないというのは承服できる話である

 で、今日の噺は盆踊りである
盆踊りも、仏教の念仏踊りが元となっているらしいが、古来の歌垣の風習が混入した気がする
少し前までの村や町の盆踊りでは、男女が開放的は雰囲気になり、ひと時の逢瀬を楽しんだと聞く
確かに、私の中高時代には其々の町の盆踊りに出向き、男女の出会いを期したものだ
それ故、宵の口から始まった盆踊りも、深夜過ぎまで催すのが常であったようだ

 そこで表題、宵待草・月見草
深夜過ぎまでとは、月明かりが煌々としている夜が最適なことは言うまでもない
盆は旧歴七月一五日、つまり一五夜お月さん、満月である、一六夜はいざよい月、月明かりは煌々
夜長の楽しみ朝までも、ということになるはムベなるかな、という次第
今年の盆に、私は初めてこのことに気付いたという、このやるせなさ

 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな
                            (竹久夢二)

明日から三日間、婿殿の盆点前特訓である、やれやれ、

2013.08.14 一客一燈
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春日野に広がる燈明、八月五日から一四日まで奈良燈花会が催されている
猿沢池から興福寺・東大寺・春日大社という、奈良公園の観光メイン処が蝋燭の灯で覆われる

 奈良燈花会は二十世紀最後の夏、一九九九年の夏から行なわれている
最近では催行中の来訪者数は七十万人を超え、奈良市の人口の倍近い数になっていると聞く
誰が名付けたか「一客一燈」として、一燈五百円で一般参加の勧めもなされている
この「一客一燈」、茶事でいう「一客一亭」をもじったことは云うに及ばないであろう

 昨夕は、夫婦で訪れた三条道りの「かえる庵」で先客の女性と同席した
関東方面の方らしく、奈良が好きで一人旅をされているとかで、「かえる庵」は二度目と云う
庵主の佐藤さんが貼っておられる「上田宗箇展」のポスターを見て会話されている途中であった
という訳で、同席の勧めとなり、我々は席に着いた運びである
外の暑さを癒すべく「先ずは」と頼んだビールをグィと喉に通すと、女房殿が「私も」とグラスを出す
その女性客が日本酒の「冷や」を楽しんでいる様子を見て、女房殿は「私も日本酒」とノタマウ

 女性客は「上田宗箇展」が奈良で開催と思ったらしく、東京開催だったと聞き、気落ちのご様子
話では、月に一回の茶の稽古を十数年続けているということで、道具にも興味持っているとのこと
酒が進んだ私は、言わずもがなのことを、ついつい口にしてしまった
「十数年茶の稽古をされていて、平点前が精々では稽古の意味がありませんね」
「茶の稽古とは、茶事の稽古というのが本来であって、点前の稽古はその一分に過ぎないもの」
「五年経っても、茶事が出来ないということは、考え直される方が良いでしょう」云々

 然しである、後で燈明が並ぶ道を歩きながら、私は考え直したのである
そして、分かったことは「カラスの勝手でしょ」である
茶事が出来ようが出来まいが、そんなことに興味も関心も無く
月に一度、稽古という名の非日常的な時空に身を置きたい、それで十分、ということも有りだな
してみれば、あの女性客には悪うことを言うたな・・と反省しきり
考え乍ら歩く私は、女房殿とはぐれていまい、東大寺南大門付近で携帯のやり取り
女房殿と再会した時には、春日野の燈花会は終えようとしていた

これから柳生へ行き墓参り、その足で伊賀越えして数日過ごすことにした
娘が旦那と孫を連れ、向こうで落ち合うとか云って来た
ブログは少し休憩
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オクラ(秋葵)の花、花言葉は「恋の悩み」だそうな
野菜売り場のオクラは馴染みだが、「秋葵」というその名が、アメリカ芙蓉の原種であることを偲ばせる
オクラが野菜ものとして日本で普及したのが昭和五十年頃からで、当初はアメリカネリと云ったとか
それまで日本オクラは「ネリ」と云う名で沖縄、鹿児島、伊豆諸島で栽培されていたらしい
だが、今や鹿児島や沖縄・伊豆諸島でも「ネリ」という呼び名は忘れ去られたと聞く

 オクラは取りあえず、お蔵入りとして、百円ショップのこと
私の女房殿が夏のスーツのことで悩んだが、百円ショップで無事解決したことがある
先日、「かえる庵」に蕎麦を食べに行こうと近鉄奈良駅まで来た時のことである
彼女の薄青色生地の夏スーツは、前開きでボタンがない意匠となっている
従って、胸元がパラパラとして、それが彼女には気に入らないらしい
ボタン代わりに、ブローチなんかで留めたらどうかと私が云うと、しばらく考えていた彼女
「近くに百円ショップがありませんか?」と私に問うたのであった
何故?と聞くと、取りあえずピンで留めるので百円ショップやった売ってると思う、と云う

 最近は小間物屋さんという業種を街中で見掛けることが少なくなった
百円ショップは町の小間物屋さんの役目を果たしているのかと、納得したのだ
百円ショップの売り場で、白っぽいプラスチックの留めピンを見つけた女房殿は然り顔になった
それは正に、写真に撮った「オクラの花の色」であった
「五つ入りや」と女房殿はニコニコしている
元来、ブランド品やお洒落用品に関心を持たない女房殿ではあり、それが彼女の善さでもある
五つ百円のピンでスーツの前を留め、嬉しそうにそうに街を歩く彼女に、私は妙に納得した

 「かえる庵」に行ってからも、かえる庵の奥さんに自分の才覚(?)を自慢して見せ
奥さんから「恰好良いピンや」と云われると、真に受けた我が女房殿
「奥さんにもあげる」と、その一個をプレゼントした、嬉し気に・・
我が女房殿、まぁ、これはこれで善しとするか、と思う昨今である

 今夕は女房殿と二人、奈良の燈下会(猿沢池・春日野辺りが燈明で映し出される)に出掛ける
勿論、三条通りの「かえる庵」に寄るつもりである

 本来は「百円ショップ」のことで、私には書きたいことがあったが、後日とする
流通業に本職を置いた身、そして茶に親しんだ身、その「身上話」として





 

2013.08.12 再確認
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今朝は、先に記事にした「金盞花・鶏頭」
青年華道家から、「これは金盞花でなく百日草でしょう」と指摘された
気になって、再度その草叢に行ってみた
確かに鶏頭と共に咲くのは百日草が多いようだ
然し、私には金盞花も咲いているように見えるのだが・・
2013.08.12 堆朱の下蕪
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竜胆(りんどう)、女郎花(おみなえし)、蓮(はす)

 昨日の稽古で挿した花である
流祖の好んだ竜胆、茶の世界で「禁花」とされている女郎花、お盆でもあり蓮
父親の命日の週故、真の花台に花入は堆朱の下蕪(そもかぶら)、軸元に置いた

 蝉の品位のこと、やはり私の推論が正しいということで話が収まった
袴の一方に両足のこと、前回の稽古を休んだ先輩塾生が、またも一方に両足入れをやった
先の話を引きずる座興とも思ったが、正真正銘のドジ劇であった
が、大笑いには起らなかった

 この堆朱の下蕪、我が一畳半の茶室を作ってくれた幼馴染がくれたもの
然し乍ら、堆朱の下蕪にはそれなりの格があり、小間には使い辛いものだ
私の父親をよく知る幼馴染故、命日の週に広間で使わせてもらった
2013.08.10 金盞花
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金盞花(キンセンカ)、花言葉は「失望・別離の悲しみ」

 やれやれである
前の記事「禁じ手」の写真に「金盞花と鶏頭」と花名を特定した
私の目には、信じて疑わずにそう映ったのだが・・

 我が家の呼び鈴が鳴り、玄関に出ると爽やかな青年、彼は巨峰一房を抱えて立っていた
知己の若手華道家である、詫びに来たと云う
一昨日に彼から「花フェア」をしているという主旨のメールをもらった
前にも彼の花展は見ているので、私は楽しみにして出かけたのだが、場所は閉まっていた
その旨を知らせると、その日は休日だったそうで詫びと共に好評につき明日もやるとメールが来た
ままよと次の日も出掛けたが、その場所は飲食店で来店客に小花のプレゼントをするという企画だった
花展は催されておらず、その華道家は居なかった・・?

 そこの店主が曰く、八月七日は「花の日」ということで来店客に花をプレゼントしたとか
其れを「花フェア」とする企画を、其の華道家と一緒に考えたという話だった
私はその店で昼飯を食し、可愛いガラスの釣り鉢に入った小花を貰って店を出た
帰宅後、伝言は分かり易く正しい日本でするようにと、華道家にメールを入れておいた

 我家を訪れたその若き華道家、律儀と云おうか健気と云おうか
中に入りなさいと云っても、玄関から動かず終いであった
そして少し話をしていると、私のブログを見ている旨を伝えてくれた、私はニコリとした
彼曰く、「前日の金盞花と鶏頭の写真、あれは金盞花でなく百日草だと思いますよ」
グァーン、「失望」、私の笑顔は消えた
2013.08.09 蝉の品位
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蝉篭に朝顔を挿す、 朝顔は秋の季語という

 今年の立秋は八月七日であったが、今日明日が最も暑いと気象庁の話である
その気象庁、昨日はお騒がせ地震誤報、「奈良は震度七」の警報が鳴り渡ったとやら
近所の人は夫婦で机の下に潜り込み、ひたすら大揺れの来るのを待ち構えていたと云う
私のところにも、広島や東京・名古屋から電話が入り「大丈夫かー?」「うん?何が?」
私の携帯は旧式だからか、地震警報が入らなかったので、話がチンプンカンプン

 ともあれ、暦上は秋の訪れとなった
蝉は夏の季語だが、ヒグラシ(蜩)とツクツク法師は秋の季語になっている
今日も裏の神社から、他の蝉声に混ざり、カナカナカナとひぐらしの声が聞こえている
まだ少ないが、夕方にはツクツク法師の鳴き声も聞こえ出している

 この前の稽古では、大阪から稽古に来られている塾生から面白いことを聞いた
その御仁曰く「奈良の蝉は品がある、大阪の蝉は騒がしいだけや」とか
よく聞くと、大阪市内の御仁の家の近くに公園があり、そこの蝉はうるさいだけだそうだ
然し、ここ奈良の蝉の声には品が感じられるとノタマワレタのである

 私は蝉の鳴き声の品位を聞き分ける耳を持っていないが、初めて聞く話であった
蝉すら鳴き声仕草にその品位が表れるのかと、一瞬新鮮な思いを持ったが・・・
待てよ、蝉にも品位がある、ホンマかいな?、早速に蝉の生態を調べた私に、異説が浮かんだ

 大阪市内は暑い、奈良の日中の暑さは大阪以上であるが、朝夕は大阪より涼しいことが多い
油蝉・クマ蝉・ニイニイ蝉たちは暑い時期を好む蝉種だそうな
それに比べて、ヒグラシやツクツク法師は比較的低温の環境を好むそうだ
云い替えれば、真夏の蝉と秋口の蝉ということになる

 奈良の朝夕は大阪より涼しくなり易い、これで答えは自ずと出る
大阪で油蝉・クマ蝉・ニイニイ蝉の声を聞いて、奈良でヒグラシ・ツクツク法師の声を聴く
つまり、蝉の種類の違いによる鳴き声の違いである、聞く声と聴く声の差だ
私のこの異説、次回の稽古で滔々と述べようと考えている

 考えついでに、気になることが増えた
虫の音を聞くとあるが、「閑さや 岩に沁み入る 蝉の声」と芭蕉はん云う、口で鳴かないのに・・
もう一つは、「夏の高校野球・甲子園大会」、大会が始まるのは、例年立秋の時期だそうな
つまり、秋の訪れと共に行われる大会なのに、夏の甲子園大会とはこれ如何に・・
茶の世界では、季節の早取りは良しとされるが、季節遅れは好ましからぬ、とされている

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金盞花(きんせんか)と鶏頭(けいとう)の花、共に茶席の禁花とされている

 今朝の散歩で見付けたもの、畑地脇の草叢なので栽培種の飛び地だろう
それにしても、禁花が仲良く一緒に咲いているが健気な気がして撮った
以前に茶室で用いない花、つまり「禁花」のことを記事にしたので多くは書かない

 要は、棘があったり匂いが強い、色形がグロテスク、名が悪いとかいう花、挿し花の「禁じ手」だ
然し、人によってはお構いなく使い、然も見事に入れられる方もある、私も知る名のある茶人だ
匂いや色形は兎も角、名が悪いというのは花の所為ではなかろうに、と同情すること頻りとか
女郎花(おみなえし)、河骨(かうほね)とかである、が、今回は違う話である、「禁じ手」

 先に武術と武道の違いを書いたが、後で気が付いたことがある
精神・哲学云々との小難しい話ではなく、もっと分かり易い話があった
曰く「禁じ手」である、スポーツ用語で云う「反則技」である
眼球や睾丸への攻撃、指関節への逆技、向う脛や背骨への突き蹴り、噛み付き等々がある
柔道では、突き蹴りに加え、最近では頭部に危険な抱え落としや川津掛け、蟹挟みも反則技になった
剣道では、素手の突き蹴りや投げ、中学生以下での喉突きが反則とされている

 考えてみると、「禁じ手」とされる技こそ、相手に対する最も有効な攻撃技である
従って、武術の真髄・極意とはこの「禁じ手」の研究と、その技の習得にあると云える
「禁じ手」は武術だけではない、経済の世界に於いてもある
株取引の世界で云う「インサイダー取引」と云われているものは「禁じ手」である
学問や工業技術の世界にも「禁じ手」はある、盗作や産業スパイ、特許侵害等の話だ

 だが、武術のそれと、経済・学問・工業技術のそれとは、大きな相違点があると思う
それは「ずるい・卑怯」という観念にあると私は考える
相手を倒し戦闘不能にするという目的に沿った技を工夫したものに、「禁じ手」は無い
有るとすれば、後ろからの不意打ち的な攻撃であろう、それは卑怯故にである
ことによると「不意打ち」すら、正当な技であるとも云える
武術に見る「極意」とは、ここの一点を示しているように思う

 「インサイダー取引」とは、組織の立場上知り得た情報で私的に利益を得るということ
卑怯・卑劣の誹りは免れようはない、盗作やスパイ、特許侵害もずるく、卑怯・卑劣だ
スポーツなら「反則、禁じ手」、武術なら「必殺技」という話とは違う次元である

人生というか、 人の生き様の中にも「禁じ手」が有ると思う
それが生きる技なのか、全くの「禁じ手」なのを見極める心眼が要る
先ずは、その心眼を磨きたい

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近くの畑で見たゴマ(胡麻)の花、花言葉は無いようだ

 原産地はアフリカのサバンナ地帯が有力らしい、日本では縄文時代の遺跡から見つかっている
本格的には室町時代に入って来て、茶と共に一般に普及したと聞くが、現在では国産率1%とか
シルクロードを通り胡(西域)から来て、その実が麻の実に似ているから胡麻と呼ばれたそうである
ゴマ油は菜種油より高価ではあるが、江戸の天ぷら屋では今もゴマ油に拘る店があるという
栄養価値も高く、最近の健康食品ブームの中では、セサミンの名で通っているようである

 このように食品の優れものでありながら、その用語は少々印象が悪い
ゴマかす、ゴマすり、ゴマの灰(泥棒)、ゴマ塩頭等の言葉である
室町時代から茶と共に普及したという誼で、「ゴマかし」について一言

点前を間違った際のこと、一番いけないのは「ゴマかし」である
点前とは、結構合理的に組まれており、当流では所作も無駄を省いたものになっている
間違ったことに気が行き、それをゴマかそうとすると、何かぎこちなくなるものである
分かった人には、ゴマかしは効かず、見苦しい印象を与えてしまう

 当流には粗相(そそう)の心得というものがあるので紹介する

〇間違っても慌てず、次に進む
〇茶杓を落とした時は、すぐ小板勝手角にのせて置き、点前一段落の後に拭いて茶入の上へ
〇茶巾が落ちた時も、小板勝手角にのせて置き、半東は新しい茶巾を茶碗に入れ建水の下へ出す
 その茶碗を左膝前にとり、右手で中の茶巾を釜の蓋に置き、小板の茶巾を碗に入れ建水の下へ
〇柄杓が落ちた時は、建水に伏せて置く、半東は新しい柄杓と蓋置を持ち出し建水の右に置く
 新しい柄杓を定置にとり使う、半東は落ちた柄杓と蓋置を引く
〇茶筅が倒れた時は、建水の上(カミ)に立てて置く、半東は新しい茶筅を碗に入れ、建水の下へ
 茶巾と同じ扱い
〇粗相をした時は、片付けて後に「失礼を致しました」と一礼をする
〇半東は茶杓・茶巾・柄杓をすぐ出せる様に脇引き盆にのせて用意する
〇茶がこぼれた時のため、雑巾・羽箒・懐紙を子盆にのせて用意する

 以上である
云わんとする要点は、「備え有れば憂い無し」という一般的な話であろう
つまり、考えられる粗相には事前の対処と準備をしておくこと、まま、その通りのこと
私が納得するのは、「間違っても慌てず、次に進む」という話である
間違っても慌てず平然と、動ぜず粛々と次に進む、そういうことだろう
どこか人生訓に通じるようで、心に服膺している次第

 卒塾者の一人、初めて宗家の前で点前をした際のことが記憶に新しい
袱紗を腰に付け忘れて点前畳に坐し、それからオモムロに懐から袱紗を出し腰に付けた
見た宗家曰く「そういうやり方もあるでしょうが、うちは腰に付けて出ます」、と
つまり、違和感は無いが流儀の教え通りにするように、との話だった
点前をした本人は、単に付け忘れただけであったが、平然と粛々と次に進んだのであった
宗家が口を開くより先に、「失礼致しました」と云っておれば様になったハズ
決して、ゴマかしたのではない、・・・と思う

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寛永通宝、一文銭と呼ばれた代表的な銅貨

 剣客商売や水戸黄門等の時代劇を観ていて、釣銭の受け払い場面を見ない疑問
考え出すと気になり、調べてみたがハッキリした答えが見つからなかった
然し、流通業に身を置いていた私として、自分なりに納得の出来る答えを出してみた
答えは簡単で、最小単位の貨幣価値が高かったことと貨幣制度にあるということだ
単に番組の放映効率のためという味気ない答えは、この際置くとする

 そもそも、釣り銭とは物々交換の名残であるとか
交換した自分の取り分から相手に返す分で、交換価値の釣り合いをとったという
貨幣、つまり銭が出来たことで、交換手段が銭になり、戻す銭を釣り合い銭と呼んだとか

 剣客商売の一巻が始まった安永七年(1778年)の相場は金一両=銀六十五匁=銭六貫文
江戸初期の慶長十四年(1609)の公定相場は金一両=銀五十匁=銭四貫(一貫=一千文)
何故、相場かというと、金・銀・銅の価値は変動制で、交換基準は日々変動していた
そう云えば、時代劇には両替屋がよく出て来るが、今の外貨交換屋みたいなものだ
一両の価値は、物価換算から見ると、今の十万円から五万円ぐらいのものだったようだ

 一両十万円として、銭六千文とは、一文で約一六・五円換算、江戸初期なら二〇円余り
貨幣制度では、一両=四分、一分=四朱、一朱=三七五文、江戸初期なら五百文
当時の日常の買い物で、四・五百文を超える支払いは余り無いことに加えて、今の一円玉・五円玉を使う程の価格の細分化もされて無かったことで、釣り銭の用も無かったものと思える
つまり、日々の暮らしの中では、銅銭だけで済み、釣り銭の用を少なくしたということだ

 と、まぁ、こんな私の推論であるが、如何であろうか
こんなことに思いが及んだのは何故かと云うと、私が流通業に身を置いていたこと
そして、釣り銭業務の煩雑さに疑問を持っていたためである
とりわけ、九八円や九八〇円といった価格設定の姑息さに辟易していたこともある
二円のお釣りを渡すために、どれ程の見えない労苦が裏で行われていたか
それが消費者心理とかいうマーケティング発想も、人を小馬鹿にしていると思っていた
斯く云いながらも、千円より九八〇円の方を安く感じてしまう私が居る

 長くなるが、調べていて見つけた江戸期の物価資料
面白いと思ったので付けておく
不倫の示談金や大奥賄賂の価格も記されてあったとは・・
それにしても茶道具の価格、群を抜いている

    数 量 江戸時代の平均貨幣価値 < 1文 = 16.5円 >

1 長次郎 造 茶碗「鉢開」落札値 1口 1,200両 79,200,000円
2 長次郎 造 茶碗「東陽坊」入札値 1口 500両 33,000,000円
3 数奇者 絲屋十右衛門 お茶入 1個 5,000両 330,000,000円
4 浮世絵 1枚 32文 528円
5 新刊本 1冊 300文 4,950円
6 瓦版   <1枚物> 1部 4文 66円
7 瓦版   <幕末> 1部 30文 495円
8 見せ物 1芸 24文 396円
9 歌舞伎・芝居(桟敷席) 1席 銀 164匁 180,400円
10 歌舞伎・芝居(切落席) 1席 銀  35匁 38,500円
11 歌舞伎・芝居(土間席) 1席 銀  15匁 16,500円
12 歌舞伎・芝居(一幕立見) 1席 16文 264円
13 風呂屋  <大人1人> 1回 8文 132円
14 風呂屋  <子人1人> 1回 6文 99円
15 風呂屋  <幼児1人> 1回 4文 66円
16 駕籠   <日本橋~吉原=約5km> 1回 200文 3,300円
17 飛脚普通便<江戸~大阪=約25日> 書状1通 30文 495円
18 飛脚特急便<江戸~大阪=2~3日> 書状1通 124文 2,046円
19 宿泊代  <1泊2食付> 1泊2食付 248文 4,092円
20 片道旅費 <江戸~京125里=500km> 13~15日 1両 1,000文 82,500円
21 木綿生地 1反 600文 9,900円
22 股引(ももひき) 1対 600文 9,900円
23 足袋 1足 180文 2,970円
24 草鞋(わらじ) 1足 15文 248円
25 下駄(並) 1足 50文 825円
26 番傘 1本 200文 3,300円
27 蛇の目傘 1本 800文 13,200円
28 西瓜(スイカ) 1個 40文 660円
29 沢庵大根 1本 15文 248円
30 鮨    <握り鮨=1個> 1貫 8文 132円
31 鮪 1尾 200文 3,300円
32 鰻飯 1杯 200文 3,300円
33 初鰹 1尾 5,200文 85,800円
34 鰯 10尾 50文 825円
35 豆腐 1丁 50文 825円
36 豆腐田楽 1本 2文 33円
37 納豆 1束 4文 66円
38 蜆(しじみ) 1升 10文 165円
39 このしろ(鰊科の魚) 1尾 3文 50円
40 ゆで卵 1個 20文 330円
41 蕎麦・うどん 1杯 16文 264円
42 天麩羅蕎麦 1杯 32文 528円
43 焙烙(炒鍋) 1枚 12文 198円
44 長命寺の桜餅 1個 4文 66円
45 大福餅 1個 4文 66円
46 蒸羊羹(ヨウカン) 1本 70文 1,155円
47 串団子  <1本=4個入> 1本 4文 66円
48 心太(トコロテン) 1杯 70文 1,155円
49 甘酒 1杯 8文 132円
50 冷や水 1杯 4文 66円
51 米    <1升=1.8L=1.5kg> 1升 100文 1,650円
52 関東醤油 <1升=1.8L=1.5kg> 1升 60文 990円
53 下り醤油 <1升=1.8L=1.5kg> 1升 100文 1,650円
54 黒砂糖  <1斤=160匁=600g> 1斤 120文 1,980円
55 里芋   <1升=1.8L=1.5kg> 1升 36文 594円
56 菜種油  <1合=180ml> 1合 40文 660円
57 魚油   <1合=180ml> 1合 20文 330円
58 居酒屋の酒<1合=180ml> 酒 1合 30文 495円
59 上酒   <1升=1.8L> 1升 250文 4,125円
60 酒    <1升=1.8L> 1升 125文 2,063円
61 下酒   <1升=1.8L> 1升 80文 1,320円
62 煙草 14g 8文 132円
63 百目蝋燭 <約100匁> 1丁 200文 3,300円
64 蝋燭   <7匁掛> 1丁 18文 297円
65 蝋燭   <3匁5分掛> 1丁 9文 149円
66 歯磨き粉 <約1ヶ月分> 1袋 8文 132円
67 紅    <1匁=金1匁=約20塗分> 1塗 30文 495円
68 江戸の水 <化粧水大箱> 1箱 150文 2,475円
69 鉄漿水 1杯 1文 17円
70 床屋(髪結・散髪) 1回 28文 462円
71 吉原   <太夫の揚げ代> 1回 1両 2分 100,320円
72 病の親の薬代の為に娘が吉原へ 身売代 50両 3,300,000円
73 夫の窮地を救う為に妻が吉原へ 身売代 80両 5,280,000円
74 按摩(あんま)上下 1回 50文 825円
75 避妊薬 1回 124文 2,046円
76 不倫の示談金 1回 7両 2分 495,000円
77 富籤(宝くじ) 1枚 2分 33,000円
78 富籤(宝くじ)当籤金 1当 1,000両 66,000,000円
79 浅草紙 100枚 100文 1,650円
80 塵紙(ちりがみ) 1帖 7文 116円
81 算盤 1挺 銀 1匁 8分 1,980円
82 手拭   <3尺> 1筋 117文 1,931円
83 上扇子 1橋 36文 594円
84 中扇子 1橋 18文 297円
85 馬 1頭 25両 1,650,000円
86 長屋の家賃<九尺二間の1間> 1ヶ月 600文 9,900円
87 幕府収入 <8代 徳川吉宗期> 1年間 80万両 + 米 85万石 約 1,930億円
88 大奥の諸経費 1年間 20万両 約  132億円
89 上臈御年寄<合力金100両+100石等> 年収 221両 2分 14,619,000円
90 御末   <合力金2両+4石等> 年収 7両 400文 468,600円
91 大奥の賄賂<上臈御年寄> 1年間 1,000両 66,000,000円
92 参勤交代費<金沢~東京 2,000人> 12泊13日 3,000両 198,000,000円
93 地ならし費<加賀~江戸> 1回 1,250両 82,500,000円
94 元和9年(1623) 小袖45点+染物14反 合計 銀 7貫 868匁 8,654,800円
95 延宝6年(1678) 小袖+反物等 340点 合計 銀   150貫 165,000,000円
96 京の難波屋九郎左衛門 大名貸金 総額 銀 10,100貫 約  111億円
97 大工の手間賃<日当> 1日 銀    6匁 6,600円
98 越後屋(現、三越百貨店)の売上金額 1日 150両 9,900,000円
99 魚河岸(現、築地市場)の総売上金額 1日 1,000両 66,000,000円
100 野菜売の稼ぎ 1日 200文 3,300円
101 寺子屋の月謝<受講料> 1ヶ月 銀    2朱 8,250円
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藤袴(フジバカマ)、秋の七草と7云われる一つ、花言葉は「躊躇」

 袴は弥生時代からの日本人の衣装で、埴輪にもそれを象ったものが多くある
呉服といわれる今の着物の歴史より古い、日本独自の衣装である
袴は、大きくは三つの形に分けられているようだ
一つは、中仕切りのある馬乗り袴、古来からの形で正装の袴とされる
二つは、中仕切りのない行燈袴、ラッパ袴と呼ばれることもある
三つ目は、軽杉(かるさん)、野袴といわれるもので、足首を細くした袴である(水戸黄門の袴)

平安時代までは男女共に装いされたもので、雛人形は男女とも袴姿である、
鎌倉以降は、女子の袴は宮中の女官が着用するぐらいで、女装の袴は廃れていった
明治期の洋風化で、寺小屋の畳に正座の形から、机と椅子の学校風景に変わると問題が出た
女子の先生や女生徒の着物の裾が乱れることである(当時の女子は下着を付ける観衆はなかった)
華族女学校、後の学習院女子部で海老色の袴が制定され、以後に女子袴として全国に普及した
今も女性が卒業式で袴をつけるのは其の流れのものである

 男性の正装は今以って紋付き袴と云われているように、日本男性の第一正装ではある
然し今や、洋装の流れに押され、新郎の礼装か、成人式のやんちゃくれの装いとなっているようだ
日本人といえども一般男性で、袴を着用するのは生涯に一度か二度、精々三度ぐらいであろう
今や袴を手にする日本男性は、大相撲や武道、古典芸能に接する人々ぐらいになったようである
他に男性袴を日常に扱う人は、結婚式場の衣装係りの女性スタッフ程度だろう
呉服屋の店員といえども、袴の着付けや畳み方が満足に出来ない例を私は多見している
前にも話したが、七〇前の知人の医者、その故郷である伊予山間の豪族屋敷で茶会をした時のこと
彼に着物と袴を着付けると、感極まったのか、彼は天に向け「ワシは日本人じゃ」と大声を出した
確かに、日本男性は着物に袴を着けると、日本人であることに気付き、感無量となるようだ

 さてさて、閑話休題
昨日に稽古での出来事、書かずに願いたいとご本人から云われたが、書く
その御仁、学生時代は能楽という古典芸能の部活をされていた由
長らく着物とは縁が離れておられたが、ここの茶を始められて記憶を取り戻されつつあった
昨日も、稽古前に別室で着物に馬乗り袴を着け、部屋に入って来られて畳に坐られた
誰の目にも、何の違和感もないキチッとした姿であった

 坐ったままで、先の人に稽古を見稽古され、出された茶を取りに出ようと、立ち上がった刹那
「ビリッ」と小さな音が座敷の中に聞こえたのであった
皆は、袴を踏んだのであろうかと、心配げにその御仁の下半身に目が行った
・・・、皆は目が硬直、口はアングリ、やがて破顔一笑から大笑いへ
なんと、その御仁、馬乗り袴の一方に両足を入れておられたのである

その御仁、後で曰く「学生時代は後輩に対し、こんなアホみたいなことはするなよ」と云っていたとの由
そして、私を見て、「ブログに書くのですか?嫌やな・・」
私は「躊躇」せず、書くことにした


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うなぎ・ひまつぶし

 五月四日の記事「名古屋・ひまつぶし」の続編である
名古屋の熱田神宮前にある鰻料理屋の名物料理「ひつまぶし」
私はそれをてっきり「ひまつぶし」と誤解して薀蓄を述べた話
同行した名古屋のご夫婦は私の話をニコニコとお聞き下さった
後日、それは「櫃(ひつ)まぶし」であると聞き、汗顔のお粗末

 その奇特なご夫婦から届いたお中元、開けてみて、目が点になった
写真の通りの品であった、「うなぎ・ひまつぶし」
わざわざ探し求めて送って下さった慰め物か、それとも傷跡のシップか
考えさせられる・・相手は娘の旦那のご両親

 さて、この日本うなぎ
絶滅危惧種に指定されるかも知れないとのこと
私は子供の頃、吉野川では鮎突きと鰻捕りで遊んだ
池や小川に当り前の様いたメダカですら、絶滅の危惧があるという
嘗て、身近な生き物だったものが次々と姿を消していく
この半世紀で、日本の自然環境は多くの生き物を死に追いやる様になったのか
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前の記事で使った写真は白アメリカ芙蓉(ふよう)であった
宗旦木槿(そうたんむくげ)はこちらの写真である

 実物のアメリカ芙蓉の花は宗旦木槿の花の三倍ぐらいの大きさがある
写真のアルバムの中では、見間違うてしまう・・言い訳

間違うて云うのも何だが、アメリカ扶桑は草で、宗旦木槿は木である
つまり、種も属も全く違う花なのに、大きさ以外はよく似ている
生物学で動物の収斂進化と云う話を聞いたが、植物にも云えるのかな


 追記ついでに、「一子相伝」
跡継ぎが幼少で家元が亡くなった際のこと
幼少の跡継ぎが、家元を継ぐことが多い
では、その流儀の奥義・秘伝はどうなったのかと、つい思うのだが
はっきりしないままで、世の中は収まっていくようだ
流儀の伝承より、家系・血筋の継承の方が優先されるようである

 面白い話として、当流の宗家の嫡男
彼は、「僕は家元候補の有力な一人です」と皆に云ったとか耳にした
健全な感覚だと、私は莞爾としてその話を聞いた
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白い花弁で花芯が赤い木槿を宗旦木槿(そうたんむくげ)という
三千家さんの流祖である宗旦が好んだので付いた名と云う

 宗旦は千利休の後妻宗恩の連れ子である小庵の子で、その母親は利休の実娘・亀とされている
然しながら、小庵の父親は云々、亀は云々、いや宗旦は利休の嫡男道安の実子だった云々と
色々喧しいが、要は千利休の血筋を引いているのかどうかが、その焦点となっているようだ
利休の血筋を引いていることが、流儀の正当性に大きな影響があるとされるためである
私にとっては他流の話であるので、ここはさて置き、流儀の伝承という話をしたい

 何故、宗旦の話をしたかというと、相伝というものについて書くためである
今に伝わる三千家さん、特に表と裏の初代は父母も同じ兄弟である
更には、宗旦存命中から今に至るまで同じ敷地内にあり、その名の通り表と裏に居住している
共に宗旦から茶の教えを受け、常々の交流を持ちながらも、今では表と裏の流儀は同じではない
言葉や作法・点前まで、その違いがかなり有ることは、不思議と云えば不思議な話だ
しかも、千家さんは一子相伝という方法をとって今に至っているにも拘わらずである

 茶だけでなく、芸能・文化、技能・武術に於いても、伝え承るという「伝承」の形がある
伝える師匠と承る弟子の関係が師弟であり、その伝え受け継ぐ形式に「相伝」がある
相伝には「完全相伝」と「一子相伝」とがある
師が自分の持つ全てのものを伝承を望む全ての弟子に伝えようとするのが「完全相伝」
それは伝承への裁量権も含めているので、分派が生まれ易くなる
師は弟子に殆ど全てを教えるが、その奥義・秘伝は皆の弟子には伝えず、後継者となる自分の子供一人にだけ其れを伝えるのが「一子相伝」、そこには「家職」の中継者としての責務も引き継ぐことになる
「一子相伝」とは事の伝承と家の継承をセットにしたもの、つまり「茶家」である

 特許制度の無い時代には、「家業の知的資産」が奥義・秘伝であった
奥義・秘伝の一子相伝によって、一家一族の生業とその利益が守り継がれたということである
従って、家系と血筋の正当性が大きな価値・利益を持つことなったのである
自分の利益に関係なく、其の事の広い伝播や事の進展を目指す場合には「完全相伝」の形式になる

 茶の世界の勃興期、いわゆる今の各流儀の創始者たちは「完全相伝」の形を是として来た
「完全相伝」でなければ、自分の弟子の裁量を活かす「守破離」の道に入られないからである
「一子相伝」となった江戸期に入り、、傑出した茶人或いは自分の境地を開いた茶人とは寡聞である
松平不昧や井伊直弼という江戸期の優れた大名茶人は、石州流各派の流れから生まれた
石州流は「完全相伝」の形式をとっていた(今は違うが・・)

然しである、「一子相伝」でないと流儀の伝承は成り行かなかったという面は否めない
今の茶の各流儀は略全て家元制度、即ち「一子相伝」の形式になっているのが其の証明だろう
また然しであるが、「一子相伝」である三千家さんの点前等に違いがあるのは何故だろう
伝承の途中で、ご法度の裁量権を行使された御方が居らしたのだろうか、何人もが・・




 
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むくげ(木槿)、韓国では国花とされる、花言葉は「信念」
朝に咲き、夕に萎むという代表的な夏の茶花だが、朝顔と同じく秋の季語とされる
万葉集の中では、むくげが「あさがほ」と詠われているようだ

 夏の朝風呂は今も昔も生活のご馳走である
私は朝の散歩から帰って、シャワーで水を浴びるのを夏の日課としている
汗が水に流され、火照った体が冷めていく、正に至福の時である
子供の頃に浴びた井戸の水は、もっと「冷やっこい」、体がちじかんだものだった
夏の夕方は盥の行水で、「よくぞ男に生まれけり」と大人たちがウソブイテいた

 茶の歴史の中に「淋汗(りんかん)茶の湯」というものがあった
淋汗(りんかん)とは夏風呂のことで、禅院の言葉から来ているそうだ
禅院では四と九の日に開浴(かいよく)と称して入浴する清規が定められている
ただ夏場は汗もかき、不潔になり易いので臨時に入浴することがあり、それを淋汗といったそうだ

当時の入浴とは、蒸し風呂に入って体を流す形だったらしい
光明皇后で有名な奈良の法華寺には当時の浴場が残されており、それは蒸し風呂の形態である
そして施浴(せよく)として庶民にも施され、光明皇后は自ら病人の治療も行ったとされる
鎌倉・室町期には「風呂ふるまい」と云い、知人縁者を招き風呂の後で食事や酒のふるまった
風呂という言葉は、この「風呂ふるまい」から来ているとか聞く

 そういう時代背景の中、村田珠光の一番弟子・大和の豪族古市澄胤は「淋汗茶の湯」を行った
即ち、縁者一族を風呂に招き、食事や酒の後、茶をふるまったということである
夏には、これほどのご馳走は無いだろうと、私はしみじみ思うのである
今で云うと、朝から仲間とスーパー銭湯に行き、サウナに入り、湯に浸かり、シャワーを浴びる
そして、枝豆、唐揚げ、冷奴に生ビール・冷酒を堪能し、ゆるりと茶を味わう夏のひと時、至福

 近頃の茶人の間では、この「淋汗茶の湯」は殆ど行わなわれていない様である
だが、この朋庵塾では、「淋汗茶の湯」を奈良の伝統茶事として行っている
この伝統、何はともあれ守りたいと、心に誓う今日この頃
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コスモス、和名は秋桜花、花言葉は「世界・宇宙」
明治二〇年頃にイタリヤ人が日本に持ち込んだと聞く
私の中学校の学級同窓会の名称を「コスモス会」としている

 先の日曜日には吉野へ足を延ばし、八〇〇年余り続くという鮎料理屋で会食をした
四九代目という其の店の当主が云うには、義経千本桜の話にも其の店の名が出て来るとのこと
ふむふむと、話に頷きながら木造三階屋の階段を上がると、景色の良い広間に席が用意されていた
鮎の造り、塩焼、甘露煮、揚げ煮、潤香(うるか)、鮎姿鮨等々、まま鮎尽くしであった

私は小学校一年の夏から三年の夏まで、吉野川の川岸で暮らした
その時の旧友というか、私の一番古い付き合いとなる幼馴染の歯科医師と一緒であった
もう一人は、中学高校の同級生で、今春に大学の考古学教授を定年退職した男である 
実は中学の時に、私と其の歯科医師、考古学教授の三人で吉野大台ケ原でキャンプをした
寝ていた我々のテントで、ガサガサという足音とテントに鼻を擦り付け嗅ぎまわる音がした
その音と外の様子で目を覚ました三人は、暗黙に「熊だ」と察知、一瞬に緊張が高まった
三人は手に手にナイフや包丁を持ち、熊が侵入して来た際の手筈を決め、静かにその時を待った
中学二年の夏、生涯で初めて命を懸けて戦う覚悟をした場面であった

 熊の足音がテントから離れ、遠ざかって行った様子に、テントの窓から外を確認した
三人はテントの外へ怖々飛び出し、わき目もふらずキャンプ場の風呂場に逃げ込み一夜を明かした
命を懸けて敵と戦った仲間同士の関係を戦友というのであれば、その時の我々三人は戦友だった
翌日の新聞には「中学生が熊に襲われる」という見出しの記事になって載った
後で振り返ると、三人とも誰も熊の実物を見ていないのであったが、熊であったと信じて疑わない

 考古学教授は定年退職を記念して、「私の出会った生きものたち」というエッセイ集を上梓した
そのエッセイ集を我々二人にも送ってくれたことで、吉野の地で想い出を語る集いとなった
そのエッセイ集には、勿論のこと、クマとの出会いが鮮明な記憶で記載されていた
奥方殿も同席しての鮎尽くしの料理と共に、持参したそのキャンプの写真も話のご馳走となった
友の長生きを心で祈った