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武者点前(むしゃてまえ)の稽古写真、武者点前は安坐であり、胡坐ではない
安坐は膝頭が下りるが、胡坐では膝が下りず、膝頭が高くなって所作が不自然になる

この四月に入塾した御仁、盆までの四ヶ月は、洒落ではないが盆点前の稽古に専念
盆以降は、風炉の端坐(正坐)薄茶点前と炭点前に入り、足の痛みとの苦闘の日々
そして、昨日は安坐の武者点前の初稽古であった、写真はその時のものである
足の苦痛から解放され、安堵と余裕の表情が出ている
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紫式部(むらさきしきぶ)の実、元は名は「紫敷き実」であったものが訛ったものとか云われる
六月頃に白っぽい小花を咲かす、源氏物語の紫式部も本名が不明だそうな

訛る言葉というと、私は美男俳優「宝田明」を思い浮かべる
子供の頃に育った吉野界隈では、ラ行とダ行の置き換え現象があった
「たからだあきら」が「たかだらあきら」になるのである
同じように、体(からだ)が「かだら」となる
奈良市内に帰って来てからも、この口調がなかなか直らなかった
悪友連中から「宝田明」云うてみぃや、とからかわれたものだ
どうも、ラ行とダ行の置き変わりは奈良県南部から河内にかけての言語形態のようだ
「よろ(淀)川の、みる(水)飲んで、はだ(腹)わろ(悪)した」
とか、しゃべくる漫才師がいたが、河内出身だと聞いた

最近、車の中でラジオを聞き、笑ってしまったことがある
癒し系の顔、「いやしけい」を「いやらしけい」の顔と云ってしまったという話
確かに、「いやし」顔は卑しい「いやしい」顔に聞き違えそうではある
私は「いじらしいお子さん」と云うところを、「いじましいお子さん」と云ったことがある
その親は怪訝な顔をしたが、私は間違いに気付かずに話をしていたのだ
再度、「いじらしい」と云おうとして、先の間違いに気付き平謝り
相手の親は口では許してくれたが、顔は笑っていなかった記憶が残る

考えてみれば、桃山期には「茶の湯」を「茶湯・ちゃとう」と云うこともあった
それに「茶道・ちゃどう」と字が充てられ、それらしい解釈が付き、やがて「茶道・さどう」に
名前の変遷とは、ええ加減と云えば、ええ加減のようだ

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洋種ヤマゴボウ、別名アメリカヤマゴボウ、花言葉「内縁の妻」
山菜の本種(在来種)山ごぼうと違い有毒である、ホンに外来種は・・

またまた指摘を受けた、面と向かって「文章が長くて、読み辛い」、と
然り、ごもっとも、一言もない、と私は目を伏せるばかり

昨日には、広島から旧友が娘さんを連れ大阪に来たので、共に旧知の寿司屋に行く
同行した茶の塾生が、その寿司屋で私のブログを開き、発した言葉が上述の如し
その時の私は、我が茶心の未達に汗顔の至りとばかりウナダレタのである
「もう一枝あれかし」の感覚が茶心というか、茶の美意識とされている
言葉を替えると「余韻」の味わいである、なのに私は・・

人から聞いた言葉に「酒と女はニゴウまで」というのがある
「もう一本あれかし」「もう一人あれかし」を、ここまでとするとか
それは茶心に通ず話だと、その言葉に妙に感心した覚えがある
では、「内縁の妻」とはどうなんだろう
と、思いつつ、作夕の酒はニゴウを越したのだった
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水引(みずひき)、草刈を免れ側溝の脇に根付いた、花言葉は「祝い・祭礼」
水引は、それ一輪で挿されることは少ない、云わば名脇役の花であろう

慶弔の水引のことは、「マナー集」なんかの本に出る話の定番である
水引の結びは大きく分けて三式あるそうだ
①花結び・・いわゆる蝶々結びである、何度も結び直しが出来るので慶事に使う赤白水引
但し、結婚の祝いは赤白結び切りで、花結びは使わない、ゆめゆめ間違わぬようにとのこと
②結び切り・・曰く、これっきり、一度限りであるとして、弔事に使う黒白水引
法事に使う黄白の水引は近畿北陸だけだとか、寺の本山は奈良・京都が多いのに何故だろうか
③鮑(あわび)結び・・女性の帯〆結びや黄門様の甚平のひも結びの形である
熨斗(のし)、つまり干し鮑の形に似ているところから付いた名だとかいう、
熨斗とは、干し鮑を広げ延ばしたもの、最近は干し鮑の現物まるごとを見ることがない、

そもそも、水引とは何から来た風習かということを調べてみると、何も大したことではない
小野妹子が隋から持ち帰った品々に白い麻ひもが掛けられていたことが習いになったとか
或いは、朱印船貿易で明からの輸出品には赤白のひもが掛けられていたのを習いにしたとも

然し乍ら思うに、外国から日本に入って日本の習慣に取り入れられたものは多様な発展をする
水引の形や色もその一例だか、文字、仏教、呉服、医学そして茶湯(ちゃとう)もそうである
寺小屋で教えるのが論語(儒教)であったり、結婚式と宮参りと葬式が宗教の便利使いであったり
漢文の読み下しなんかは、外国語を日本語で読む技術であって、もう発明という域の代物だろう
何とも我が日本はと云うか、日本人は極めて大らかで柔軟な精神風土を持つ民族のようだ

茶の湯も、単なる茶の飲み方に関するものであったのを、点前作法や礼儀云々である
水引の話から、茶の湯の礼儀の基本に私なりの解釈をしてみる
①案内があれば前礼をする、終わってからは後礼をする
②茶室の禁語を守る「我が仏 隣の財(たから) 婿舅 天下の戦に 人の善し悪し」
③正客のされるままに合わず
そして、④多言無用(心の会話)・・茶室での話は他言無用、ここだけの話となるのは御法度

茶の礼儀作法というても、基本はこの四つである
私は、茶に於いてあれダメこれダメ式の礼儀作法は如何なものかと思っているのだが・・
但し、「ならぬものはなりませぬ」という八重桜の会津の心には同感である
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桔梗(ききょう)、万葉集では「あさがほ」、花言葉「誠実・清楚」
日本の在来種であるが、自生種は全滅危惧種で百年以内に姿を消すという
桔梗の花は美濃源氏・土岐氏の紋所、一族の明智光秀の旗紋として本能寺に翻った
連歌会の光秀の発句「 時(土岐)は今 雨(天)が下しる 五月哉 」

伊賀越えで伊勢路入口まで行っていて、ブログとは離れていた
メールで「オ・モ・テ・ナ・シ」に関するご教示を頂いたので紹介したい

●関東在住の八十歳半ばの裏さんの茶人からのご教示
この御仁は、多くのお弟子さんを持ち、茶への造詣の深い畏敬の先達である

>茶の湯とは関係なく使用されていたのは、「持って成す」ということのようですので、相当古い時代からあったとは思いますが、茶の湯に使われ始めたのは何時か、誰か、については、はっきりいたしません。
そのうち少し調べてみたいと思います。<

聖徳太子の十七条の憲法の第一条に「和を以て貴しと為す、忤ふること無きを宗とせよ」とある
確かに、「持って(以って)成す(為す)」という言葉が「もてなし」の原意だと分かり易い
変に語頭の「お」を付けるから、可笑しな言葉になってしまうと、改めて思った次第

●奈良在住の表さんの茶人からのご教示
私と同年配位ながら幼少の頃から茶に親しまれ、学生時代から表さんの家元に通われた御仁
個人意見と断られた上での話

>迎えた客へ心を配り、客は亭主が思いを込めた「モテナシ」を
感じ取り、お互いが気持ちを通わせ「喜びを交わすこと」にあると思います。<
>茶事における「オモテナシ」は、三口半の濃茶に凝縮される亭主と客との四時間(実
際は案内を出し、返礼を受けた段階から始まっておりますが)の対応の中で、迎えた客へ心を配り、客は亭主が思いを込めた「モテナシ」を感じ取り、お互いが気持ちを通わせ「喜びを交わすこと」にあると思います。
茶道における「オモテナシ」は双方が理解するところに、井谷様が言われる一般的な「オモテナシ」との差があるのでしょうか。<
>その折、茶事においても大切なことは、招き招かれる亭主と客が、やはり双方の気持
ちを読み取ることが出来うる力量のあることが重要と思います。<

茶は亭主と客の双方で作り上げるもので、亭主のモテナシ同様に客のモテナシもある
御仁はそのように仰っていると、私には感じ取れたのである
御仁は井伊直弼の「一期一会」「独座観念」を云われたが同感である

●日本文化の大学講師で茶道史の研究学者からのご教示
この御仁の父君と私の父親が、先の大戦で同じ部隊に属したという奇遇あり

>「オモテナシ」については、近年のことだろうと思っています。
調べてみると、宝永7年(1710)成立の有楽流の茶書「貞要集」に
「茶湯ハ人をうやまひ、もてなす実を本意とす」
とありましたが、この言葉が直接今まで伝わってきたとはいえないでしょう。<

さすがに、学者先生と云おうか、的確に資料を「以って為す」ご教示である
ただ、この話を以って今日のオモテナシの序開と為す、とは云えないとの断り、納得である
こういうタイプの学者が多くなれば、世の茶の湯が本物志向になると思うこと頻り

●家元の居ない武家茶道をされている御仁からのご教示
茶のブログを毎日のように更新され、茶史や道具、茶人、古文書を紹介されている

>我々茶人のもてなしだって「o・mo・te・na・si」だとは思うが、それは身内同士での殺伐とした攻撃的なもてなしであって、決して一般化して語ってはいけないものだと思う。もっというと「快楽殺人者が見立て殺人をして名探偵に挑戦する」に近いものの様な気がする。<

面白いというか、この御仁ならではの諧謔論旨、一理あると首肯させられた

ふと、思ったのが「もてなす」或いは「もてなし」とは他への行為が原点で、自へものでない
私はそこに引っかかっていたように思う
自への行為が「茶」の本義に思えてならないのである
まぁ、確かに上述四人の方々の話も、煎じ詰めれば自への行為となるという話であろう
どうも、私の脳ミソでは、以って為すことが出来ないようだ・・
2013.09.22 たますだれ
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珠簾(たますだれ)、花言葉は「潔白の愛」、秋篠川の草叢が蘇りつつある
彼岸花の仲間らしい、原産はカリブ海諸島とか

♪ アさて アさて アさて さて さて さて
さては南京玉すだれ
チョイと伸ばせば
浦島太郎さんの 魚釣り竿にチョイと似たり
浦島太郎さんの 魚釣り竿がお目にとまればおなぐさみ
お目にとまれば元へと返す 元へと返す

♪ アさて アさて さては南京玉すだれ
チョイと返せば・・・

ご存じ、南京玉すだれの謡い口上である、大道芸の定番みたいなものだった
最近は見かけなくなったが、保存会なんかが出来て、芸を受け継いでいると聞く
この「南京玉すだれ」、私は南京発祥芸だとばかり思っていたが、違うらしい
正しくは「唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ」というと、検索すると出ていた
つまり、唐(から)オランダ、南京にも並ぶものない(無双の)玉すだれ、だそうだ

では、どこでいつというと、富山で江戸期半ばに生まれたものだそうだ
原点は「ささら」、先の茶筅の記事でふれた竹製の底洗い「筅・ささら」である
鍋や釜の底を洗う竹の細棒を合わせたもので、今でも中華鍋を洗うのに使われている
まぁ、細いすだれ竹を巻いて五寸程度に切って手元をシッカリ結わえたと思えば良い
つまり、「玉すだれ」と「茶筅」は元々同じものであったという話だ

この話を知った私は、草叢に咲く「珠簾」が茶筅に見えて来た
「純白の愛」とは、どんな愛だろうか
「純白の花」とは、バレンバンに咲いた落下傘と承知しているが・・
2013.09.21 月光
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日本海軍夜間戦闘機「月光」、当初は渡海戦闘機として開発、夜間戦闘機となり「月光」と命名

西の窓から月光が差し、朝の四時前に目が覚めた
月明かりで目が覚め、その明りで置時計を見て時刻を知るのは久方ぶりである
十五夜を過ぎ、徐々に月の出入りが、遅くなりかけるのは情緒がある
先人は、その月それぞれに上手く名付けたものと思う、侘びの心だろう
十六夜(いざよい月)十七夜(立待ち月)十八夜(居待ち月)十九夜(寝待ち月)

九月五日の記事「竹取り」の中で、黄泉の国から逃げ帰るイザナギ命に触れた
竹の櫛を投げると筍が生え、追手が筍を喰っている間に逃げ帰ったという話の後日譚
帰ったイザナギはすぐ禊(みそぎ)をしたとか、まぁ、行水をして汗を流したのだろう
顔を洗った際のこと、左目から太陽神アマテラスオオミカミ(天照大神)、続いて右目から月神ツクヨミノミコト(月読命)、更に鼻からスサノオノミコト(須佐乃袁尊)が生まれたと古事記にあるのは周知のところ

然し、それ以後の話として、姉の天照大神は何かと話の中心として世に伝わっている
また、弟のスサノオも悪名はならしたものの、それなりの存在感を持って語り継がれている
また、この二神を祀る神社は日本各地に数多くある
ところがツクヨミ(月読命)、古事記でも生まれたことを記す箇所だけで、後は一切登場しない
「三神の貴き子」とされながら、ツクヨミを主柱とする神社は少ない、
要するに、ツクヨミは行き方知れずの消えた存在扱いをされているのである

日本では太陽神信仰が強いのは分かるが、月神の扱いが素っ気ないのは解せない
ましてや、弟の素戔嗚尊に比べてさえである、この不条理な扱い、気になる
砂漠の国では、太陽を悪として忌み、月を敬愛すると聞いたことがある
私も、月には親しみが持てるというか、なにか慈悲の心を感じさせられる
だのに・・

B29を撃墜せよ、月光! 日本の空を守ってくれ、月光!
あッ? 月光仮面のオジサンだ 
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彼岸花、別名には曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、死人花(しびとはな)、狐の松明(きつめのたいまつ)
暑さ寒さも彼岸までとは、よく言ったもの、もう彼岸入りである

昨夜の月は正に「煌々と照る」そのもので、これぞ中秋の名月という感だった
あんな月明かりは久しぶりで、「 ♪月がとっても青いから~♪ ]と口ずさんだ
昔の月光は明るかった気がしたが、恐らく地上の電気照明が違ったからだろう
家庭でも、40ワットか69ワットの電球で、不要なところは消していた
街灯もぽつぽつあったぐらいで、夜は電灯を持って歩くのが普通だった
生活風景に「闇」というものがあったが、最近は闇の体験が減ってしまった
田舎の親戚の家では便所が外になっていたので、夜中は暗くて怖かったものだ

昨夜の名月、郡山の慈光院では月見茶会があり、娘家族も出掛けたようだ
奈良の各地でも月見茶会は盛んであるが、思わず笑った茶会がある
信貴山も月見茶会の名所で、ある年に女房殿と二人で参加したことがある
茶券を買うと、野点席・薄茶席・煎茶席とあり、更に点心席で月見の馳走があるとか
これで、五千円とは「良心的な茶会」であると得心しつつ各席を巡った
最後に月見の馳走を頂こうと点心席に行き、坐って待っていた
運ばれて来た膳にはうどん鉢が一つ、中を見ると、玉子が一つ割られていた・・
「月見うどん」だと云われ、絶句した後にワロタ、本気か洒落かと少し考えた

前に、柳生まで「十兵衛うどん」が名物というので食べに行ったことがある
その時出たのも、玉子一つを割って入れただけの単なる「玉子うどん」だった
店の亭主が云うに、目玉一個の「片目うどん」とか、アングリである
玉子が二つ入ったのは見たことないが、あれば「二子玉うどん」かと云いかけたが、やめた
黙って、その「十兵衛うどん」を食べ、やられたなと思いつつ、ソソクサと店を出たのだった

確かに、昨夜の澄んだ夜空を照らした中秋の名月は、久方ぶりの感動モノではあった
然しである、茶人たるや、ここで単に感動するだけでは先人に叱られるのである
茶祖・村田珠光はんの曰く「 月も雲間のなきは嫌にて候 」
ここに珠光の「侘び」への思いが示されているというのである
侘び茶の嚆矢(こうし・かぶらや)となる言葉とされている

昨夜は、満月の十五夜という珍しい中秋の名月と聞かされた
そんな話、この歳まで知らないでいた
私は常に、ワ・ビ・シ・イ







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つきみるつきはこのつきのつき
「掬水月在手」、ススキ、竜胆、白菊
軸元には、月見団子を高坏にのせ飾ったが、稽古で皆が食べた

掬水月在手 弄花香満衣
「水を掬(きく)すれば 月、手に在り」
「花を弄(ろう)すれば 香、衣に満つ」

唐の詩人、于良史(うりょうし)の「春山夜月」の詩
禅的にいうならば、人境一如、自他不二
輝る月と月を見る我、月が我を包むか、我が月を包むか、云々
私の野狐禅(やこぜん)知識では語るに及ばざるところ

ここはやはり、「かぐや姫」に歌ってもらおう

♪ 貴方はもう忘れたかしら
赤い手ぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた 

♪ 洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私のからだを抱いて
冷たいねって言ったのよ
若かったあの頃何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった

 
この歌は昭和四八年のヒットである
私はその数年前に、東京の下宿を引き払った
まさに歌通り、三畳一間・賃三千円の下宿であった
荷物は赤玉の蒲団袋と柳行李一荷、それと米穀通帳
近くの風呂屋の女将は美人であった

奈良へは、今は無くなった東京発の夜行急行「やまと号」
名古屋で関西本線に入り、奈良を経て大阪・湊町が終着駅だった
夜汽車の警笛は、何かしら切ないものが胸に来る


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姫の画像、ネットから拝借

 ススキの記事に、かえる庵々主の佐藤さんからコメントが入った
吉田拓郎とは部活の室が近くで、ギターを持って歩く彼の姿をよく見た由
あんなに有名になるのが分かっておれば、もっと仲良くしたのにとか・・
意外と近いところに人脈あり、拓郎に俳句は無理と私は云ってしまったが、撤回

 私の生まれ育った奈良の一条通り、平城京北から東大寺転害門までの道である
私の通った小学校、中学校、高校は皆この一条通りにあり、北側は平城山丘陵だ
昔はケモノ道まで知って、遊び回った界隈だが、最近の開発行為で訳が分からなくなった
この北側丘陵は、とある知人が「姫たちのネクロポリス」と隠喩した
今、改めて丘陵の古墳を考えてみると、なるほどに姫たちの声が聞こえて来る気がする

 転害門のところの佐保姫神社から、西に向かうと聖武天皇所縁の姫たちが眠る
若草中学の下、佐保橋横に聖武天皇の皇后・光明子が天皇陵と並んで眠り、ひと丘北には元明天皇(聖武天皇の祖母)、元正天皇(聖武天皇の伯母・元明天皇の娘)が並んで眠り、すぐ西にある黒姫山には藤原宮子(聖武天皇の母・黒姫伝説で有名)が眠る、ここまでが聖武天皇所縁の姫たちで、黒髪山の麓になる佐保小学校の北に尼寺「興福院」(遠州好みの茶室・茶庭が有名)がある

 更に西へ、奈良高校・新校舎の西に狭岡神社、ここは垂仁天皇の皇后で古事記の悲話で有名な狭穂姫が眠るとされる、更に西へ一条高校(昔の奈良高等女学校の跡)を過ぎると、総国分尼寺(日本の尼寺の本元)法華寺、その北側にある古墳がウワナベ古墳とコナベ古墳、ウワナベとは「先妻」コナベとは「後妻」を意味すると云われている、私は「垂仁天皇の妃」たちであろうと類推する、(実は、ここが今回の本題だが)、コナベ古墳の北に仁徳天皇の皇后・磐之媛が眠る、また西へ行くと、平城京の北側の佐紀古墳群であり、ここには垂仁天皇の二番目の皇后・日葉酢姫、聖武天皇の娘・孝謙(称徳)天皇、応神天皇の母・神功皇后(仲哀天皇皇后)という姫たちが寄り添って眠る

 この古墳群の中に「マラ塚」という小型の古墳があり、そこには面妖な話が伝わる
夜中に「好男子」が一人歩いていると、女の声が誘いを掛け、付いて行くと男は消える
明くる朝には、男の一物が残されているだけと云う、それが古墳の名称の由縁だそうな
私は気を付けるべく、夜の一人歩きは控えるが、真っこと姫たちの怨念漂う地帯だ

 佐紀古墳群から南へとり、西大寺を越えると垂仁天皇の御陵がある
ここからが本題
第11代垂仁天皇はヤマトタケルの祖父で初代伊勢斎宮の倭姫の父である
古事記で名高い前皇后の狭穂媛と後の皇后の日葉酢媛を含め妃は九人いたそうである
その六人目の妃が「迦具夜比売」(かぐやひめ)である、やっと辿り着いた・・
 
 迦具夜比売の父親は、「山代之大筒木真若王」(やましろのおおつつきまわかのみこ)
京都南部の筒木、今の京田辺付近で近くが大住、即ち大隅隼人の居留地で竹の産地である
大筒は竹、迦具夜比売の祖母の名は「竹姫」と記されているのが嬉しい
皇后二人の墓はともかく、他の妃の墓は特定されていないらしい
それで、前述のウワナベ・コナベ古墳の一つが、迦具夜比売の墓と私は睨んでいる

「姫たちのネクロポリス」から「竹取の翁とかぐや姫」の話をしようと、ここまで来た
が、疲れたので終わりとする

 明日の夜は、一五夜の芋名月、我が愛犬ハナ(竹姫)も何かそわそわし出した
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ススキ(芒・薄)、イネ科、別名は尾花(おばな)、茅(かや)

 耳にする言葉は、幽霊の正体である枯れ尾花、農家や茶室の茅葺(かやぶき)屋根
札幌の盛り場がススキノ、茅場という地名はススキ野のことで家畜の餌場であったとか
奈良・三笠山の山焼きも茅焼きが起源とされる

 我々世代のフォーク歌手、吉田拓郎の歌である

♪ 浴衣の君は尾花(すすき)の簪(かんざし)
熱燗徳利の首つまんで
もういっぱいいかがなんて
妙に色っぽいね

♪ ぼくはぼくであぐらをかいて
きみの頬と耳はまっかっか
ああ風流だなんて
ひとつ俳句でもひねって

 聴く限り、吉田拓郎という御仁、俳句は無理なようだ
浴衣は夏の感、ススキは秋の感、熱燗徳利は冬の感
それに、ススキのかんざしでは色っぽくない、お化けに見える
まさに枯れ尾花の言葉の通りである
でも、歌はヒットした、御仁もシッカリ稼いだ、
どこが風流だったかはともかく、私もこの歌を口にした

確かに、ススキは風に流される・・

近頃、拍手が少ないので趣向を変えてみた
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竜胆(りんどう)、上田宗箇が好んだ花である、花言葉は「悲しんでいる人を愛したい」
生薬(きぐすり)竜胆(りゅうたん)の原料である
私も日々悲しみに暮れているのだが・・

 前の記事で書いた桑山重晴修理大夫、四万石の武将であり茶人である
武将としては、賤ヶ岳の戦や姉川の戦い、紀州攻めで勇名を馳せた
茶人としては、二歳上の利休に茶を学び、山上宗二から「宗二記」を託された
桑山家は織田の家臣であったが、信長の命で丹羽長秀の与力になる
丹羽家の与力には上田宗箇の父親・重元もいた、云わば同僚として戦友になった
修理にとって、宗箇は亡き同僚・戦友の遺児、忘れ形見になる

 宗箇十歳の頃に父親が亡くなり、修理は丹羽家を離れ秀吉の与力となる
宗箇二十歳の頃、修理と同様に賤ヶ丘の戦いで武功を立て秀吉に認められる
丹羽長秀亡き後、秀吉の直属武将となるが、修理の口添えがあったかと推測する
宗箇を利休へ繫ぐのも修理の薦めか何かがあったのではと、これまた推測する
修理の三男・桑山貞晴は、後の桑山宗仙で、宗箇の三歳上になる
宗仙は初め利休に、後は利休の嫡男・道安に茶を学び、茶人として名を高めた
恐らく、宗箇が来たので道安に学ぶように修理がしたのかも知れない

 宗仙の弟子に、大和郡山の小泉藩主・片桐貞昌石州守と家老藤林宗源がいる
石州は将軍家の茶の湯師範となり、石州流は天下の御流儀として広まることになる
完全相伝であった石州流は、四〇余りに分派したが、その源は桑山宗仙の茶である
宗仙の「仙」は、修理が建立した桑山家の菩提寺「仙境山・珊瑚寺」の「仙」からか

宗箇と桑山家は、家の縁と茶の繫がりで親交があった節がある
上田家には、修理の手になる茶杓が残されているのだ
こうして考えると、上田宗箇流の形は石州流の当初の形を伝えていると思われる

 紀州和歌山には、関ヶ原の戦い後に浅野幸長が三十七万六千石の領主で入る
そして、上田宗箇が浅野藩の一万石の客分家老として和歌山に入る
浅野藩が四十二万六千石で広島移封、宗箇も一万七千石の国家老として広島へ
後の和歌山には、五十六万五千石の紀州徳川家が置かれ、明治まで続く

 奈良の源九郎稲荷の狐と和歌山の珊瑚寺の股白狐の話は、関ヶ原の戦い以前のこと
大和大納言・豊臣秀長と和歌山城代・桑山重晴修理大夫の頃とみれば、すべて納得
石州流の発祥に繋がる話とも云え、細い糸ながら、上田宗箇流とも繋がる話である 
2013.09.15 稲荷の狐
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「白狐」、稲荷神社の狐は白狐が相場だが、もう少し細目である
この写真の狐では、我が家の愛犬ハナ(竹姫)とエエ勝負だ

 昔は、野狐(やこ)と善狐(ぜんこ)という区分が狐にあったらしい
人に悪さをするのが野狐、人の為になるのが善狐という、まぁ、人の身勝手な話
前に「綿帽子」の記事で、稲荷神社の狐について奈良の昔話をした
似た話が寺の狐話として和歌山にもあり、その寺の名は「仙境山 珊瑚寺」
石州流には縁があり、そして細い糸乍ら、我が上田宗箇流にも繋がるのである

奈良の昔話の復習
帽子屋に女の客が来て綿帽子を三つ買うて行った、代金は後で稲荷神社まで取りに来てほしいと云ったとか、そして、帽子屋が代金を取りに稲荷神社まで行くと、神社の方はそんな話は知らないと云う、訝しく思った帽子屋が、ふと神社の隅に目をやると、綿帽子を被った三匹の子狐が現れた、それを見た帽子屋は、ふむふむと頷いてそのまま店に帰ったとさ、という話

和歌山・珊瑚寺の話(寺のHPからコピー)
> 珊瑚寺の鎮守のお稲荷さんの床下に、いつの頃からか一匹の雌狐が住みつきました。この狐、股のところに白い毛がふさふさと生えている、おとなしい狐でした。「股白、股白」と呼ばれて和尚さんや小僧さんに可愛がられていました。 するとある日、京都から呉服屋がやってきて「産着の代金をいただきに参りました」と言います。驚いた和尚は「はて?当寺では産着なんぞ注文した覚えはありませんが」と言うと、呉服屋は「お使いの方は、産着の代金は、紀州和歌山の珊瑚寺でお支払いしますからと申されました」と言います。和尚は、「きっと寺の誰かが買ったのだろう、寺の信用もあることだから」と払ってあげました。 支払いを済ませて呉服屋と世間話をしていると、小僧さんがニコニコして、「股白が帰ってきていますよ」と知らせに来ました。和尚が巣をのぞくと、何とまあ、三匹の子狐が可愛い産着をきせてもらってスヤスヤ寝ているではありませんか。 隅っこで股白がバツの悪そうな顔でヒョコヒョコと頭を下げています。和尚は股白を怒ることもなく笑って許してやりました。悪いことをしたと思ったのか、その日から股白と3匹の子狐は姿を見せなくなりました。< とさ 
(奈良の帽子屋は代金を取らずに帰ったが、京都の呉服屋は代金を取って帰った・・)

 この二つの昔話、私が思うに、奈良の稲荷神社(源九郎稲荷)の母狐は野狐との子を産み育てた
その子狐の中の雌の一匹が、和歌山の珊瑚寺にある稲荷神社に住み着いたという話だ
その雌狐の背中の色は野狐の父親に似て茶(曰くキツネ色)ながら、股ぐらは母親の白であった
この私の推理、これまで誰も気付かなったことであろう・・と、一人頷く

私の推理の裏付け
奈良の稲荷神社とは、大和郡山の源九郎稲荷のことである
大和郡山城は大和大納言、豊臣秀長・大和紀州百五十万国領主の居城である
秀長の筆頭家老は桑重晴修理大夫、和歌山城代として紀州に睨みをきかす
その桑山趣里が和歌山で建立したのが「仙境山・珊瑚寺」である
郡山の稲荷狐の子が、和歌山の珊瑚寺の稲荷神社へ行くというのは十分考えられる
と、まあ、そんなとこである

それが何故、石州流や上田宗箇と関係がありや、とのことは次に
今、我が家の辺り、雨が降っているのに日が照り出した、狐の嫁入りか


2013.09.14 女子供Ⅱ
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九人の乙女の碑
北海道稚内市の稚内公園に建立されている

「女子供に茶は・・」の続きである
「女」については、戦場で生き死にを掛けることが無いという前提の話である
つまり、戦場を駆け巡った男同士の暗黙の語らいが「茶の湯」だとする前提である
然し、私は「女」も戦場で命を懸けて女なりの戦いを以って国に殉じたことを知っている
沖縄戦の「ひめゆり部隊」の話は周知であり、語ろうにも言葉にならない、涙だけである
私の女房殿は電電公社に居た、彼女が社内研修で教えられたのは「真岡郵便局の交換手」の話だ
南樺太真岡郵便局、昔は電話局と郵便局が同じ逓信省機関として一つの職場であった
無法なソ連軍が迫る中で、地域の情報通信の要である電話交換手の仕事は替え難い任務だった

 交換台まで銃弾が飛び込み出した時、その場にいた九人の交換手は自決を決意した
最後の連絡 「 みなさん これが最後です さようなら さようなら 」
後で発見された彼女たちの姿は交換手用ヘッドを付けて、交換ブラグのコードを握ったままだった
青酸カリやモルヒネを分け合って服した後も、交換業務を続けて息絶えたのである
稚内市の稚内公園には「九人の乙女の碑」が建立されている
東日本大震災の時の、南三陸町の防災放送担当の遠藤未希さん(二四)の姿が重なる
使命感・・

私の娘は看護学校を出ているが、さいたま市青葉公園にある慈蔵尊のことを知っているのだろうか
満州がソ連軍の侵入を受け、占領されたところに居た日本の看護婦の話である
収容所に入れられた彼女たちに三人づつ、ソ連軍病院に来て手伝うように指示があった
行った看護婦の一人が傷だらけで逃げ帰り、ソ連兵の性的慰みものにされた由を伝え、息絶えた
その時にそこに居た二二人の看護婦は自決を決意した

 遺体が発見された時、彼女達は全員が看護帽と看護服に身を整えて横たわり、遺書を残していた
「・・・私たちは破れたりとは言え、かつての敵国人に犯されるより死を選びます。日本が再びこの地に還って来る時、ご案内致します。」 昭和21年6月21日 散華
その下には、二二名の連名が自筆で記されていた
青葉公園の慈蔵尊は、この二二名を偲ぶものであり、地蔵とは字を違えている

 真岡の交換手も満州の看護婦も、彼女たちは命を懸けて戦い、祖国に殉じたのである
私はそのこと重々知りながら、「女子供は」と、うそぶいていた
要は「女子供」に教えるのが苦手であっただけである
これからは「女子供」と云う言葉を使わないようにするつもりだ

男は強くないと女を守れない・・ 彼女たちを守り切れなかったことに懺悔
また長くなった
2013.09.14 女子供
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保育園での敬老茶会、園児の「じぃじぃばぁばぁ」を招いて開かれた
しかし、「じぃじぃばぁばぁ」と云っても殆ど私より若い

 案の定である
今日の朝刊に <「おもてなし」へ小学校英語の重視>という見出しが躍っていた
文部科学省の政務次官の話として伝えられている記事である
誤解無きように云うと、私は「オモテナシ」や「英語教育」に何も偏見を持っていない
ただ、それらの話の取り上げられ方の「軽躁さ」に憂慮するのである
小学校英語どころか、園児英語の取り組みも増えて来ているようだ
写真の園では、五歳児の課程に園児茶道を取り入れている
理事長曰く「幼児の頃に日本文化に接しさせてあげたい、畳の無い家庭も増えているから」
至言である

 どうも、私の「女子供に茶は・・」という話も誤解され易いようだ
「子供」にとは、茶事の真髄とか曰く「侘び寂び」を伝えるのはまだ早いという思いである
然し乍ら、理事長の「幼児の頃から、接しさせてあげたい」という言葉には脱帽した
頭で理解云々の前に身に付けさせるということ、園児教育の何たるか分かる話だ
「躾」・しつけという漢字も「身を美しく」即ち、所作振る舞いへの美意識を云うのだろう
道具を見る目は、子供の頃から本物と接して培われるとか、所作振る舞いも同じことだと知る

 この理事長は女性である、芯の通った強さをお持ちだが、優しく品位のある御仁だ
仕事に掛けておられる気持ちがどんなものか、こちらに伝わって来るものがある
「女」への誤解をとく話、長くなるからページを替える

 
2013.09.13 ブ・シ・ドー
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イネ科イネの穂、これはヒノヒカリ、奈良米の主流である
確かに、竹の花に似ている

 我が家の新聞は産経である、今日の朝刊に評論家・屋山太郎氏の記事があった
先に私が書いた「オ・モ・テ・ナ・シ」に関連した内容だったので面白く読んだ
氏は、オモテナシという言葉を女性の表現として、否定的には評していない
(私は旅館の女将の言葉と信じて疑わないが・・)
然し、男性的な表現をすれば「武士道」であろうと氏は云う
つまり、オモテナシの心とは、武士道精神であるという訳である
今の世評では「オモテナシ」にイチャモンを付けかねたのたろう、と氏の思いを忖度する

 氏は、父親と剣道の師から武士道の何たるかを学び取ったとしている
先の敗戦後、原爆で殺された人達や東京空襲で重傷を負った父親に、氏は仇を取ると云ったそうな
すると、父君からは「米国との戦争は終わったんだ、勝負がついたからには諦めよ、仇を撃つことよりは『潔い』ことの方が難しいんだよ」と諭されたとか
また、大学の剣道の試合に出て、勝って面を外しし笑顔を見せた時、剣道の師から竹刀で背中を叩かれ、耳元で「笑うな!負けた相手の心情を思いやれ」と云われたとか

 氏は、この二つの出来事で武士道の何たるかを悟ったと云う
あらゆる勝負事や立ち振る舞いに通じるもので、克己心の深い意味と繋がると説く
そして、いじめ問題の裏にある「義を見てせざるは勇なきなり」という武士道精神の衰退を憂う
武士道の「惻隠の情」の意味合いを以って、オモテナシの心を説明している
まま、当らずとも遠からじの感じもするが、氏も苦しかろうと、惻隠の情を持って異論は控える

 思い出したのは、数学者・藤原正彦氏の話である
氏はその著で、やはり「惻隠」を武士道精神の根底と述べていた
やはり氏も、父君(新田次郎)から武士道の薫陶を受けたとのことである
シッカリと云い聞かされたのは「卑怯な振る舞いをするな」ということであったらしい
グローバル化に向けた英語教育の充実や早期英語教育の実現とかの世論が高まる頃
大学の数学教授であった氏は「一に国語、二に国語、三・四が無くて五に数学」
そして云うに、「他のことは十以下である」との教育論を展開した

 オリンピック招聘が決まり、「オモテナシ」や「英語」が声高に云われる世になるであろう
が、私は、両氏の話に首肯する


2013.09.12 竹の花
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竹の花、さすがにイネ科であることが分かる
竹の花が咲くと、その竹群は枯れ死ぬ


 孟宗竹で六〇年余り、真竹で百二十年程度で花が一斉に咲くそうだ
一斉というのは、その竹藪だけのことでなく地域全体、或いは全国とかいうレベルとか
何せ六十年や百二十年単位の話なので、その生態は詳しく解明されていないらしい

 花が咲き種が付き、種が地に落ち、新しい竹の芽が出るという生態のサイクルがである
その間の竹の成長とは、地下茎が這って延びるという繁殖の仕方である
その地下茎から筍を出し、竹が生え、枯れるのを繰り返しているが、地下茎は成長を続ける
地下茎は一群で繋がっており、竹藪全てが一群ということもあるようだ

 竹林の故郷、東南アジアの半月弧から江南にかけてはイネの原産地と云われている
そこにある照葉樹林と竹林の文化は、懐かしい日本の原風景のようでもある
日本文化の源流の一つはその半月弧から江南であるとする学者が多いが、分かる気がする
茶の道具には欠かせない竹材のこと、我が家の愛犬竹姫号(通称ハナ)のこと
エジソンの白熱電球で知られた京都の竹の名所・八幡が女房殿の実家であること

 云々カンヌンで、竹話が続いていたが、ここらで竹の花を咲かすことにする
実は最近、忠言、助言、提言を三方から頂いた
内容は同じで「記事が長い」ということであった
前にも、元新聞記者の御仁から同じ指摘を受けていながらの失態
ここまでとしたい
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草叢に打ち捨てられた「ヘイケホタル発生中」の看板、先に記事した看板だ
青い小花は「つゆ草」である、ワ・ビ・シ・イ

 七年後の第三回東京にオリンピックが決まり、日本中が沸いている
<第一回は昭和15年(戦争で中止)、第二回は昭和39年>
それはそれで私もご同慶の至りではあるが、懸念が三つ
一つは、私がそれまで生きているだろうか、ということ
まぁ、第二回を見ているので、それで善しと考えよう
二つには、開催決定権を持つのは未だ欧州人であること
世界遺産やノーベル賞もそうだが、決定権が欧州人にあることへの不快感
三つには、「オ・モ・テ・ナ・シ」と云う言葉が取り沙汰されていること
IOCのプレゼンで、父親が仏人というカタカナ名の娘が、仏語で云ったとか
 
 この「オモテナシ」と云う言葉が、茶の在り方を歪める気がする
前も云ったが、オモテナシの心云々とは旅館や料亭の話と私は心得ている
茶の湯或いは茶道の歴史の中で「オモテナシ」という文言を私は聞かない
茶の真っ当な研究家で{オモテナシ」が茶の心とする論は寡聞であろう
然し乍ら、「お茶の心はオモテナシの心」と巷で盛んに云われている
高名な茶道家まで、そのように吹聴していることには首を傾げざるを得ない
接待・接客・奉仕等のサービス概念と混同、誤解をされているのであろう
そしてまた、茶をその様な使われ方にさせようとする立場の思いもあろう

 一休宗純の「淡飯粗茶」を「冷え枯るる幽玄美」と学んだ村田珠光
「冷(ひえ)、凍(しみ)、寂(さび)、枯(からみ)」という概念が生まれ
連歌の心と相まって、武野紹鴎は「閑寂素朴な趣」を茶の心とした
利休は「数寄道の本意は侘びたるにありと覚悟いたし」と云ったとか古文書にある
凡そ、茶の湯勃興期の室町から桃山の時代には「オモテナシ」という言葉も感覚もない
華美・享楽を避け、持たざる慎みの清純さを尊重する気持ちを茶に求めている

 江戸中期以降になって、茶家の茶が確立されるに従い、茶は心より形が優先されてくる
従って、江戸中期から明治・大正の茶では、「寂び」の心は余り云われていないようだ
その反動か、大正期からは珠光の「謹敬清寂」を「和敬清寂」とした利休の言葉が強調される
茶の業界(?)で主流となった千家が、茶の全てを利休へ帰着させる流れの現れでもある
しかし、この時期に於いても茶に「オモテナシ」という言葉は見られないようだ

 更に云えば、「もてなす」という動詞が「もてなし」という名詞になり、丁寧語「お」が付く
何とも奇妙な造成語であり、「オモテナシ」という言葉は広辞苑には記載されていない
この「オモテナシ」が流行語大賞云々とは、ヤレヤレで、茶の誤解が広まることを懸念する
「オモテナシ」という言葉、旅館組合の研修会が濫觴かと、私は勝手推測をするのである

 オモテナシとは、うらめしや、うん? 裏は飯屋ではない? 御意
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鉄の道安風炉、結界には白菊一輪、今日は重陽、菊の節句
昭和五十年九月九日に打ち上げた人工衛星は「きく1号」と名付けられた

 先日のテレビで「エデンの東」が放映されていたので、久しぶりに観た
名曲とジェームス・ディーンの出世作としても知られ、数々の賞を受けた有名な映画だ
実はこの映画、私が最もよく観た映画でもある
高校生の時に初めて観て、えも云われぬ思いを受けた、多分あの名曲への感動もあった
以来、四十歳位まで五・六回は映画館に足を運んだものだ
本もそうだが、同じ作品でも此方の年齢が増すと受ける思いや視点が変わる

 物語の粗筋は、敬虔なクリスチャンである父親アダムとその双子の息子(アロン・キャル)の葛藤
母親ケートは幼い双子を残し家出をして買春酒場を経営、双子の兄アロンは真面目で婚約者ケートがいる
ジェームス・ディーン演じる双子の弟キャルは子供の頃から父親に説教されて育ち、愛に飢えていた

 結末は母親は自殺、兄は志願して戦死、父親は脳溢血で倒れ、弟が兄の婚約者と看病に就く・・
それだけの話だが、私の高校生の頃の感想は弟が悪い、兄が正しい、母親が悪い、父親が正しい、
最も許せぬ悪い奴は、兄の婚約者でありながら弟と接吻をする女である、何かこの映画はおかしい・・

 おかしいと思ったのなら、それで終われば良いものを、何か気になり再映たんびに足を運んだ
後に、この物語が旧約聖書を元にしていると知り、人の善悪や言動への宗教観なのかと勝手解釈
それからは観に行くこともなかったが、先日のテレビ放映を観て思ったことは「千道安」のことである

 利休には息子が二人いた、先妻の生んだ「道安」と後妻の連れ子「少庵」で、二人は同い年であった
利休の先妻とは堺の支配者三好長慶の妹(?事実かどうか)、後妻は松永弾正の妾(小庵の実父は久秀)でキリシタンであったといわれるが、千家の伝記では能楽師の妻(少庵の実父は能楽師)だったとされている
三好長慶を没落させたのは松永弾正、弾正を攻め殺したたのは織田信長、信長に仕えたのは利休
そんな経緯の同い年の実子と連れ子とは、双子のようなものとも云えるが、微妙な関係でもあったろう

 少庵は、利休に対し素直で忠実であったようだが、道安は利休に反発して家を出たりした
道安には、利休も一目置くほどの茶の力量があったらしく、茶に創意工夫を凝らした
その一つが「道安風炉」と云われているもので、今では最もよく使われて風炉である
他にも「道安囲い」と云われる茶室の点前座の作りや、金属の灰匙がある
道安の弟子の桑山貞晴(宋仙)は道安の茶を大和郡山藩藩主片桐石州に伝える
石州流は、徳川将軍家のお家流儀となり、後に柳営の茶と云われて大名茶の代表となる

 利休切腹後、道安も少庵も追放(大名茶人の引き受け?)となるが、後に許される
少庵は京千家を立て、その子宗旦の成長後は引退して、宗旦の後見役として暮らした
宗旦から始まる三千家のことは前に書いたが、町衆の茶として家元制度を作る
道安は嫡男として堺の本家を継ぐが、細川三歳の招きで細川家の茶頭となった
跡継ぎのなかった道安の堺千家は消滅し、道安の消息もよく分からないとされる

 「エデンの東」の双子の兄弟と道安と少庵とは立場が逆になるが、問題の根底は似ている
家庭内の父と息子の葛藤、その裏の兄弟間の気持ちの在り様、そして母親への思い
今回観た「エデンの東」の感想では、弟キャルのことを悪いとは思わなかった
兄の婚約者とのキ接吻も、まま目をつむった、母親にも一理あると多少の理解をした
泣きながら戦場へ逃避した兄には、彼も父との葛藤故の行動であったかと同情した
そして、父親には・・、彼こそが物語の主人公であったろうと、共感した
道安が「エデンの東」を観たらどう思うか、彼の感想を聞いてみたいと思った

 三十代の頃、私はエデンの東の舞台と設定された米カリフォルニアのサリナスまで行ってみた
サンフランシスコから車で四時間ほどのところにある瀟洒な街であった
母親の酒場があったされるモントレーの港町にも行った、サリナスの隣町で港にはラッコがいた

 実は、サリナスに知人が居たので訪れる気のなったのであった
その知人は父親がノルウェイ系で、母親が日本人であったが、ご両親は亡くなっていた
母親の形見の「キモノ」を見てくれと云うので見ると、箱の中にクシャクシャになった着物があった
五枚ほどの着物と襦袢や帯である、きっと母君の親が持たしてくれたものと思うと、グッときた
私は黙って、それらの着物類を畳み、箱に入れ直した
2013.09.07 竹取りⅢ
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我が家の竹製品、下が箕(み)、後ろ左から笊(ざる)、箒(ほうき)、籠(かご)

 昔、竹取り・箕作りの民という人達が居た
季節になると箕や竹細工、山川の幸を持ち村々にやって来て、穀物や布と交換した
特に箕は、農耕の民にとって重要な道具であり、神聖な物とされていた
箕作りの民といわれたその人達は定住せず、竹細工や野山の幸、川漁で生計をたてていた

 日本の竹は、既述のように東南アジアの照葉樹林の中にある竹文化の流れにある
云わば黒潮文化の流れで、竹文化は琉球から薩摩へと入って来たとされている
竹を使った色々の道具は、南九州の隼人の手になるものであったらしい
隼人が大和朝廷の支配を受けた時、隼人の一部は竹文化と共に畿内に移住した
今でも、隼人の居留地であった京都南部辺りは竹が多い地である

 サンカ(山窩と書かれることが多い)の話を最近は聞かなくなった
定住せず(籍を持たず)、川漁や箕作りで生計をたて、為政者の支配を受けなかった
つまり、徴税徴兵の対象から逃れ、野山や川を渡り住んだ人たちであった
罪人や不法者が混じりこんでいるかの疑いを受け、追及や迫害の対象にもなった
そのため、賤民扱いをされていたようだが、神事の民との扱いもあったらしい

 明治・大正期になるとサンカの民は定住化し戸籍も得て、世の中に溶け込んでいった
然し、先の大戦後もサンカの民は万を数え、野山や川を渡り暮らして箕作りをしていた
私が吉野に暮らした小学校の頃、「サンカが来た」「河原にサンカ小屋」とか耳や目にした
このサンカの民は隼人或いは山岳縄文人の流れを汲む、という論もよくされた
然し、今だ以って確たる論証がないままで、その姿を見ることがなくなった
そして、「箕」そのものも知る人たちもが少なくなり、歴史の埋れ木になりつつある

 箕作り・竹細工の職能の民であるサンカと似た職能の民が他にも居た 
村々を渡り鍋釜や野良道具を作ったり直したりする鍛冶の職能集団である
工業生産が向上したことや機械化の流れの中で彼らも消えていった
子供の頃よく見たトンカチの町の鍛冶屋も、その後を追うように姿を消した
残されたのは小学校唱歌「村の鍛冶屋」だけがその文化を歌として伝えていくれる

 我が家の女房殿は、箕を「竹製のごみ取り」と思い込んで落ち葉をすくっている
箕作り、隼人の竹、サンカ、時代の彼方へ流されて忘れ去られようとしている
が、これからも人々の間に残る言葉は「竹取り」の翁、であろうことは疑いも無い
かくや姫とお月さんのことは、またいつか

我が愛犬「ハナ」、本名「竹姫号」の体躯は満月に近づきつつある
2013.09.06 竹取りⅡ
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我が家の宗箇垣、金属製のフェンスに竹垣を重ねてある
流祖・上田宗箇好みの竹垣、竹の支柱上部の切り目が交差がする

 前段の話の中で云ったもののイザナギの竹櫛が気になり少し調べた
古代というか、縄文遺跡から出た櫛は木製と竹製があったようだが、その竹は女竹だということ
女竹は、即ち根曲がり竹(千島笹)や矢竹・篠竹の同じ類の笹竹である、やはりである(^^)
筍が美味いのは根曲がり竹なので、生えた筍に喰らいつくとは根曲がり竹に違いないと一人納得

 縄文の竹櫛は、竹の表皮を剥ぎ、細い棒状にして並べて組み、漆を塗った「籃胎漆器」
「籃胎」とは竹や蔓を編んで加工したもので、それに漆を塗ったものが「籃胎漆器」
五・六千年前の縄文遺跡から竹製の籠や笊(ざる)に漆が施された「籃胎漆器」が出ているとある
こんな時代から日本人は竹細工や漆加工の優れた技術を持っていたのに感心する
陶器をチャイナ、漆器をジャパンというのも然もありなんと、また一人納得、だが・・
世界最古の土器は日本の縄文式土器と聞いて久しい、ならばどうして陶器がチャイナかと
妙なナショナリズムが生じたが、それはさて置き、縄文式土器のこと

 縄文土器は表面に縄や竹の文様を付けていることから、その名が付いたのは周知である
然し、何故そんな文様を付けたのか、以前がら疑問に思っていたが、頭から消えていた
今回、その謎が解けた、縄文遺跡から出土したという竹籠・竹笊、籃胎漆器からである
つまり、縄文土器は竹や蔓・縄で作った籠笊類の姿を模倣したということである
縄は腐敗するので残らないが、実際は多くの縄籠等が使われていたハズである
土器よりズット早い時代から使われていた竹・蔓・縄細工に土器を似せたと考えるのが自然

 瓢箪から駒の例え、縄文の竹櫛を考察していて、縄文式の真相が分かったと、再々一人納得
因みに、瓢箪は人類最初の栽培植物で、瓢箪の実が人類が得た最初の器だったとか
縄文遺跡からも瓢箪が発見されている、然し、瓢箪型の土器は見ない



2013.09.05 竹取り
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月見草に想いを寄せる愛犬「竹姫号」、通称「ハナ」、これも花の内かと
竹姫は、レッキとした日本犬保存会の血統書付柴犬、太目ながら美人(美犬?)の誉れが高い(^^)
「今は昔、竹取の翁(おきな)といふ者有りけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり」というコメントが寄せられたので、月見草に見惚れる竹姫の段となった次第

 茶筅の段で、竹のことに付言したが繰り返すことになる
竹はイネ科タケ亜科で、竹と笹があるが厳密な区分はないらしい
また、竹は木本か草本というのも意見が分かれるところと聞く
竹と笹の簡明は見分けは袴、ハカマ(竹皮)が落ちるのが竹、付いたままが笹とする
女竹(なよ竹)・矢竹・篠竹・根曲がり竹等は竹と呼ばれても袴が付き、笹の仲間とか
ところで竹皮や笹の葉は、防菌・防腐・消臭に優れているそうだ
肉や握り飯の竹皮の包み、吉野の笹の葉鮨は理に適った使用方法だと云える、

 竹は、インドから東南アジアの温暖で潤湿な環境で生育し、日本がその北限とされる
笹は寒冷地でも生育し、日本も笹の原生地だが、竹は殆どが渡来系と云われている
太さ二十cm高さ二十mを超える孟宗竹は江戸期の渡来、筍を採るため各地へ広がった
真竹は苦竹とも云われ食用に適さず、竹材の加工に適している、日本原産とも云われる
茶筅の材、淡竹は別名を呉竹と呼ばれるように、呉の国から渡来したとも云われる
この三種の竹の見分け方は節の筋、一本が孟宗、二本が真竹と淡竹、淡竹は枝が分かれる
因みに、呉竹筆ペンは奈良の地場産業の商品である、(正月の季語になるかも)

 他に、黒竹、布袋竹、亀甲竹、唐竹、四方竹、高野竹、根曲がり竹(千島笹)等百種以上
煤竹(すすだけ)は囲炉裏で長期間燻されたもので竹の種名ではない、シナ竹は食材
万葉集に詠われる竹は女竹や千島笹のことと云われているので、浮かべる景色が変わる
「竹取の翁とかぐや姫」、三寸の姫が入る当時の竹は、やはり真竹であろうと類推する

 古事記の中に出て来る竹では、黄泉の国のイザナミがイザナギを追った際の話がある
追われたイザナギが竹櫛を投げると筍が生えたので、追手が筍を喰っている間に逃げたとか
日本民族の元親となるこの男女神、何とも凄まじい夫婦喧嘩をしてくれたものである
この時投げた竹櫛とは、江戸期に入った孟宗竹でも、ニガ竹とも云われた真竹でも無かろう
淡竹の筍は旨いが、この二種の竹と同様に大型の竹なので櫛に向かないと思われる
となると、やはり筍が絶品の味と云われる「根曲がり竹」すなわち「千島笹」であろう
2013.09.04 笹刈り
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我が家の裏手の笹

 日曜日の稽古の後、二日間は笹刈りと庭木の剪定でクタクタとなってブログは休憩
我が屋の裏に神社があり、そこから侵入してくる笹は繁殖力が強いのである
私が右足首を複雑骨折したのは三年前になるが、以来、我が家の裏手の笹は生え放題
我が家の裏は切り取ったノリ(斜面)だったが、笹は容赦なく侵入して来た
以前は鎌で処理していたが、笹の量と我が足腰の衰えから今回から近代道具を使った

 草刈機とは、畑や草叢でよく使われている肩にひもを掛け燃料で発動させる機械だ
今回、友人から貸してもらった物は、電気発動式で家のコンセントからコードを引いた
友人から受けた注意事項は次の三点であった
①草刈機の歯が小石に当ると窓に飛んでガラスを割るので地面に当てないこと
②斜面で姿勢が悪いので、足を切らないように、その時は入力ボタンをすぐ切ること
③電気コードに歯を当ててないこと、一瞬で切れてしまうからとの由

 友人は心配になったのか、道具を持って手伝いに来てくれた
友人は電気のこぎりで庭木の剪定、私は草刈機で裏手の笹刈りと仕事を分担した
私は、電気草刈機が鎌での手作業刈り取りに比べ、段違いの効率にホレボレとして
ついつい、奥の方や雑木の枝まで刈り払いながら悦に入っていると、機械が止まった
アレッと思い、発動ボタンを繰り返し押したが反応が無い
足元を見ると、コードが揺れていた、アッと思ったが後の祭りであった

 コードを買いに行こうと思い、友人に話すと、友人は予備のコードを渡してくれた
そして、「コードはワシが修理をするさかい、置いとけ」とノタマウ、嫌な顔もせず
私は、「ちゃんと注意されていたのにのぅ」つぶやきながら予備コードを受け取る
月の作業に取り掛かる私の姿は、どことなく悄然とした雰囲気であったろう

 ところで、古事記や万葉集に記される「竹」は実は「笹」との話がある
この話は次に