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馬盥(まだらい)茶碗に「さらし茶巾」、茶碗に水を張り茶巾を晒したままで行う点前
涼感を誘うので、夏の季節には平茶碗で行う、千家さんでは「洗い茶巾」とか云うようだ

瀬田 正忠(せた まさただ)の話である、官位に由来する瀬田掃部(かもん)の名で知られる
戦国時代の武将ながら、古田織部と並び利休の弟子の七哲の一人に 数えられた茶人である

略歴を見ると
「その出自も生年もよく分かっていないが、高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕え、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いに従軍している。秀吉の関白就任に伴い、従五位下掃部頭に叙任、茶の湯を千利休から学び、大成する。高麗茶碗を愛用したことで知られている。豊臣秀次の一連の騒動に巻き込まれ、文禄4年(1595年)、秀次の粛清に連座して処刑された。」、とある
また、「掃部形と称される大きな櫂先の茶杓を好んだことで知られる。お皿のように浅い茶碗を持っていたのですが、水の取り扱いや茶筅をすすぐ時などとても難しいものでした。しかし、あまりにみごとなお茶碗なので、利休に銘をたのみ、ついた名前が『水海』。そして持ち主の瀬田と琵琶湖にかかる瀬田の唐橋とをかけて"勢多"と名付けられた茶杓を添えたといいます。彼は、普通の人なら使わない大きな平茶碗を茶に使い、さらにさらし茶巾という、客の前で水音さわやかに茶巾を絞る点前をやって見せました。利休もその点前に感心し、大いに認めることとなったようです。」、と云う話である

さて上の写真は、卒塾者のお手製の平茶碗 (馬盥茶碗・馬の水盥に似せたもの)
茶杓は、茶室「朋庵」を建ててくれた友人の手になるもの、幅広で使い易い
茶巾は、上田流好みの「保田織の奈良晒」、茶筅は上田好みの大荒穂三六本立
まま、瀬田掃部の「さらし茶巾」の点前に因んだつもりであるが・・

来たる、十一月十日の織部法要武家茶道三派茶会
当流は、軸は上田宗箇自筆の消息、茶杓は瀬田掃部の自作という織部縁故の人のものを使う
それで桃山の武将茶人の霊に捧げたく思うところである


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花輪違いの紋、近江の佐々木源氏の流れに多いと聞く
小堀家の在所は近江ということから納得できる家紋である
また七宝花菱とも呼ばれているようで、七宝とは仏の七つの宝だそうだ
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丸に地紙の紋、地紙は扇の元とされる
偶然かそれとも意匠家の織部が創作したのかどうか
織部流では右帯に帛紗(ふくさ)を付けて尚、左帯に扇子を差して茶席に出る
そして、点前によっては点てた茶碗の上に扇子を広げて置くこともある
昔の北野大茶会で、桜の花びらが舞い落ちるのを扇を被せて防いだ名残りとか

但し、織部の菩提寺でありながら興聖寺の紋は「桔梗」だとか
2013.10.29 小堀遠州
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「花ナスビと水引」のシルエット、昨日の稽古花である、人はピーマンかと聞いた

武家茶道三派茶会
昨日の古田織部を継ぎ、今日は小堀遠州の話

但し、織部の段で藪内剣仲のことを書き忘れていたので、先にそのことを
「藪内流初代・藪内剣仲は武野紹鴎の門下で、兄弟子の千利休とも親交が深く、利休より相伝を受け、また利休の媒酌によって古田織部の妹を娶った。豊臣秀吉に茶堂として重用された利休とは対照的に、洛北に隠棲して孤高の茶三昧であったようだ。利休の死後に聚楽第に召し出されて茶堂を務めた時期があるが、まもなく辞している。義兄である織部とも親しく、燕庵は織部から譲り受けた茶室である。」とある
よって藪内流は古義茶道に織部の形が繋がる武家茶道と云える

さてさて、小堀遠州のこと
「天正7年(1579年)、小堀正次の長男として生まれる、正次は近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、縁戚であった浅井氏に仕えたが、浅井氏滅亡後は羽柴秀長の家臣となった。天正13年(1585年)、秀長は大和郡山城に移封されると正次は家老となり、政一も郡山に移った。郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地であった。小姓だった政一は、秀長の兄・豊臣秀吉への給仕を務め、利休とも出会っている。また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。秀長の死後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく死去したため、文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになる。慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、慶長9年(1604年)の父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により従五位下遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。」、とある。
十歳の時に利休と会い、何らかの薫陶を得た云々が強調されるが、真偽のそこ辺りはままとしよう
遠州からの「宗古老」と宛た書簡が幾つが残されいることから、遠地ながら遠州と宗箇は親しかったようだ

続いてその晩年であるが、
「晩年になり真偽は不明であるが公金1万両を流用したとする嫌疑がかかった。しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされた。その後も伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし正保4年2月6日(1647年3月12日)、伏見奉行屋敷にて69歳で死去した。なお、子孫は松平定信により天明8年(1788年)に改易の憂き目に逢っているが、三百俵扶持の旗本として家名は存続した。」ということである

ついで乍ら、「遠州の弟小堀正行は1000石の小姓組であったが、遠州が家督を継ぐ時に2000石の分知を受けて、都合3000石の旗本となった。明治頃から本家とは疎遠になり、昭和34年(1959年)15代宗通が独立を申し入れて小堀遠州流を称するようになった。」というのが、小堀遠州流である
更についで乍ら、北海道にも大和遠州流茶道があり。また他に華道にも遠州流があると聞く

小堀遠州の作事と云われるものと云うわれるものを挙げると
「妙心寺麟祥院の春日局霊屋、氷室神社拝殿、大覚寺宸殿、金地院東照宮、同茶室、同方丈南庭(鶴亀庭)、南禅寺本坊方丈南庭、大徳寺竜光院密庵席(みったんせき)、孤篷庵表門前の石橋、同前庭、同忘筌席」、と結構活動している

ここで少し、付言すると
織部や宗箇と遠州との違いは、遠州には戦場経験とうか命の遣り取りの経験が無いこと
戦乱が終わり平和の時代の感性、後日称される「綺麗さび」に向かったのであろう
「綺麗さび」とは「さびてきれい」という意味で明治の茶人・高橋箒庵が雑誌で用いたらしい
それは決して、遠州の特徴を示したものではなく、遠州のものは単に「遠州好み」であった
それが、昭和の十年ぐらいから「遠州好み=綺麗さび」と喧伝したための誤用である
今一つ、遠州の「宗甫公お尋ね書」が近年の研究で「長問織答抄」であったことが分かった
その話は、ここではさて置く

私が気に入っている遠州流で使われている言葉がある
それは「稽古照今・けいこしょうこん」と云う言葉である
「稽古」の由来は、「古事記」の太安万侶序文末にある「稽古」である
稽古をそのまま解釈すると、古(いにしへ)を稽(考)えること
また、古事記の同文に記される照今(今に照らす)と合わせ
『稽古照今』「古(いにしえ)を稽(考)えて、今に照らす)ということ
曰く、温故知新に近い言葉であろう

2013.10.28 古田織部
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織部灯篭、夜の茶会で露地の明りとして古田織部が考案したと云われている
一説には隠れキリシタンの灯篭と云われ、十字架と聖人が彫り込まれているとされる
当流の宗家にある和風堂の露地にも織部灯篭が残されておる

「天文13年(1544年)、美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟で古田重定の子として生まれ、後に伯父重安の養子となったという。重定は「茶道の達人茶の也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される。しかし、松屋久重編の「茶道四祖伝書」では佐久間不干斎からの伝聞として、織部は初めは湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になったと記されている・・」
と、資料にある

さて、中川清秀の妹「せん」が織部の正室である
摂津の領主・荒木村重の謀反の時、茨木城主の清秀と高槻城主の高山右近を説得する
右近は熱心なキリシタンであり、清秀とは父親同士が兄弟で従兄になる
つまり、織部の妻「せい」も右近の従妹であり、中川兄妹もキリシタンであったようだ

利休の茶に最も忠実であったのは細川忠興、最も勝手であったのが古田織部
利休は自分に似ている忠興より、反対に居る織部の創意を褒めたという
利休が秀吉に追放された時、利休を淀まで見送ったのは、この忠興と織部の二人だけであった
沓形茶碗や伊賀の花入に見る自由奔放な織部の作風を、後の研究家は次の様に評する

「左右対称(シンメトリー)とは異なり左右非対称(アンシンメトリー)を大いに是とし、場合によっては使用用途の犠牲すら厭わない特徴がある。同時期の茶人である神谷宗湛の手紙にも織部の茶会に用いられた茶碗が「セト茶碗。ヒツミ候也。ヘウケモノ也」(宗湛日記)であるとされている。」。
「同時期、西洋にて抽象画などが好まれた背景もあり、こういった事象より古田織部の芸術思想は現代日本の文化を根差している象徴ともされ、人に依りては「我が国に於いて茶の湯の祖は千利休、作陶の祖は古田織部なり」とまで謳われる事がある。」とか
駕籠の花入には板を敷かないとしたのも織部で、利休もそれを是として習ったと伝わる

美濃・土岐家の家臣であった古田家は、信長の美濃入り後は信長に使え、信長死後、重然は秀吉に仕える
以後の略歴
「山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせ、伊勢亀山城の滝川一益を攻め、賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため重然は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐、四国平定にも秀政と共に出陣している。 同年7月、秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部正(織部助)に任ぜられ、山城国西岡に所領3万5,000石を与えられた。この時、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、自分の娘を中川秀政の養女とした上で配偶し中川家の家臣とする。重然の正系が絶えた後も、この重続の子孫は中川家の家老として古田の家名を残す」

中川氏は豊後岡城の城主として明治まで存続し、この古田家の家老として存続した
岡城の城跡は、あの名曲・滝廉太郎作曲の「荒城の月」に歌われた
因みに「織部」とは、朝廷用の錦・綾など高級絹織物の織成・染色をつかさどる大蔵省管轄の官司
正(かみ)とは織部司の長官であり、官位は従五位下か正六位上辺りとなる

古田重然(織部)の最期は、その師・利休同様に切腹である
「慶長20年(1615年)、大坂夏の陣のおりに重然の茶頭である木村宗喜が豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられた。重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日(7月6日)に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年72。同時に嫡男重広も切腹、宗喜も処刑されている」、古田家はここで途絶えた

豊後中川氏の家老職となった古田家は存続したが、織部の茶は伝わらなかった、以後の話として
「豊後古田家14世・古田宗関(重名)は維新に際して豊後から東京へ移り、明治31年(1898年)に茶道温知会を起こして弟子に織部流を教授した。宗関の高弟に岡崎淵冲と原宗改(鉄石)がいた。宗改は正式織部本流を立ち上げ、秋元瑞阿弥にそれを伝授した。瑞阿弥は16世を称し、千葉県指定無形文化財保持者に認定された。瑞阿弥は興聖寺(京都市上京区、織部の菩提寺)の住職浅野牧仙に式正茶法を伝え、以後、同寺の住職が世襲することになったため、茶法が伝わりづらくなった。
一方、国府台の織部桔梗会では、瑞阿弥没後も引き続き式正茶法を教授している。ほかに織部流を称す流派に扶桑派があり、明治時代に日種譲山とともに京都興聖寺を復興させた表千家の見中斎米山により創始されたもので、やはり式正茶法を伝えている。北九州にも織部流(石橋家)が伝わっており、貴重なものである。」
と云われている

上田宗箇流と織部の関係では興味深いものがある
ひとつは織部が所持した伊賀随一の花入「生爪」の名の由来のことである
どうしてもその花入が欲しくなった宗箇が、織部に何としても貰い受けたいと無心した
あまりの宗個の願いに、織部もついに折れて、その花入を宗箇に渡すことにしたのだが
手放すに当たって、織部は「我が生爪を剥がされる思い」と述べたことがその名の由来とか

今一つの話として、江戸期までの上田宗箇流の相伝免状のことがある、皆伝免除には
「皆伝免状・真台子の伝、右の古田織部正重勝君、流祖宗箇君に秘事相伝の極意・・茲に相伝者也」
となっているのである
それほどに、織部と宗箇の茶の関係には深いものがったと思われる
最も、私の皆伝免状には、その文言は無い
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「金木犀」と「竹」、鉢植えのため栄養不足で脆弱ながら、今年も金木犀は芳香を醸してくれている

実は「金と竹」、古田織部の道号は「金甫」、上田宗箇の道号は「竹隠」である
大徳寺三玄院開祖の春屋和尚に二人が参禅し得たものである、二人の位牌が三玄院にある
因みに、後日には小堀遠州も「大有」という道号を得ているようだ
来たる十一月十日の武家茶道三派茶会に因んで、その流祖の関係を簡潔に記す

村田珠光(茂吉)  一四二二年、奈良生 一五〇二年没、享年八一歳
武野紹鴎(新五郎) 一五〇二年、奈良吉野生 一五五五年没、享年五四歳
千 利休(宗易)  一五二二年、泉州堺生  一五九一年没、享年七〇歳
古田織部(重然)  一五四四年、美濃生 一六一五年没、享年七二歳
上田宗箇(重安)  一五六三年、尾張生 一六五〇年没、享年八八歳
小堀遠州(政一)  一五七九年、近江生 一六四七年没、享年六九歳

利休との年齢差
織部二二歳、宗箇四一歳、遠州五七歳、
織部との年齢差、宗箇一九歳、遠州三五歳、宗箇と遠州の年齢差は一六歳

織部と宗箇は共に利休に師事した兄弟弟子ながら、利休死後の宗箇は織部に師事
遠州は秀長の小姓として、大和郡山で利休の茶を見たという話になっているが・・

織部の茶は、大胆・自由で、人と違ったことを心掛けた
宗箇の茶は、勁質にして雅文、つまり強さと美しさを求めた
遠州の茶は、綺麗さびという都会的な美的センスを求めたとされている
ただ、遠州流の好みを「綺麗さび」と云い出したのは昭和の十年以降の話である

織部と宗箇には、深い盟友の絆があったようである
昔の上田宗箇流の相伝状には、古田織部の秘伝を継ぐ上田宗箇流という意の一文がある
宗箇と遠州の間では書簡の遣り取りがあり、上田家には遠州の書簡が残されている
長生きをした宗箇は、遠州の活躍を広島から見聞きし、遠州も宗個を慕ったのだろう
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川西町の畑一面に花開くコスモス(秋桜花)、花言葉白は「純潔」赤は「愛情」ピンクは「乙女の純情」
奈良川西町の町花になっている、コスモスはラテン語で「星座」「秩序」「宇宙」

前記の恩師、中学を去る最後の学級会での言葉「コスモスのような人になってください」であった
よって我々の中学の学級同窓会は、「コスモス会」と称している
恩師を招いての同窓会は、今回のこれで最後となるだろうと、コスモスを一杯に盛った花籠を持参した

さてさて、三日ばかり出掛けていた
昨日帰宅してブログを開くと、「序破急」への拍手がめずらしく二桁に届いていた
おまけに、次のような拍手コメントも付いていた
< 正しく最後の件は当たっております。毎日ステーキはちとしんどい >

成程に、「人生の序破急」というものの例え、同意を得られたかと莞爾
ただ、「毎日ステーキはちとしんどい」とは、還暦を越えては体に悪い
それに和食の原点、茶事会席の「一汁二采」が老後の「ワビサビ」と知られたし
何せ、和食が「世界無形文化遺産」とやらで巷が喧しいのなんのって
「無形」と云いながら、「日本食の形の美しさ云々」とは評論家の諸氏

さは然れど、前回の記事の写真、改めて観て大反省をした
あろうことか、父親の恩師の掛け軸に対し駕籠槍をもたれ掛けさしている
何と云う無礼、不忠・不幸と、昨夜は宇宙の星座を仰ぎ許しを請わんとした
然し、生憎の雨天続き故、無期延期とする
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駕籠槍(かごやり)、駕籠の中では太刀は抜けないため、駕籠に乗った武将が持つもの
花はホトトギス、軸は東大寺長老・橋本聖準の「和」、恐らく「なごみ」だろう

京都・興聖寺での武家茶道三派(織部・遠州・上田)茶会まで二十日を切った
濃茶を担当する卒塾者二名の稽古も昨日で三回目となり、「気」が入って来た
昨日の稽古、写真の槍を使っての「気」と「構え・動き」の確認であった

「気」とは、点前の流れや所作というより、その基本となるところである
「動きと呼吸」「緩急」「目力と視線」そして「序破急」というものだ
進む時は息を吸い、引く時は息を吐く、動きの緩と急、動きの前の目配り
そして、序・破・急を付ける
「序破急」とは元々雅楽の言葉で、西洋音楽で云う三楽章に近いものだと聞く

「序」は緩徐で拍子に合わず、「破」は緩徐で拍子に合い、「急」は急速で拍子に合う
「序」はゆっくり、「破」は中間、「急」は速くという演奏のテンポのことである
能や浄瑠璃などでは、構成上の三区分。「序」は導入部、「破」は展開部、「急」は結末部
連歌などでは、一巻(ひとまき)の運びの原則とされていると聞く、つまり
「序」は無事に静かに、「破」は曲折に富んでおもしろく、「急」はさらさらと軽くつけ終わるべし、と

似た話として、文章構成の「起承転結」が云われるが、私の記事、これまた思うようにいかない
思うようにいかないのは、「人生の序破急」
「さらさらと軽くつけ終わるべし」、そうありたいと願うものの、なかなか・・

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石州忌・濃茶席の御三器

茶杓は石州作・銘「あきしの」、茶入は瀬戸飛鳥川手・銘「雨柳」、仕覆は宮内間道
茶杓を畳の上に直接置かず、先の方を仕覆に預けるのは古石州流のやり方である
つまり、人が足裏を付ける畳は不浄として、その上に茶杓を直接置くことを憚るもの
宗偏流も茶杓は小盆に置き、畳の上には直接出さない、理にかなったやり方だと思う

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石州忌・濃茶席の花、万作の照葉に椿二輪は初嵐と西王母(写真はボケているが)

隠れた上の軸には慈光院開祖・玉室和尚の筆で
「趙州問南泉 如何是道 南泉云 平常心是道」
という、禅語があった
「道とは何ぞや、それは平常心こそ」とでも訳すのか

そういえば、席には石州手造赤楽・銘「野狐」が飾られてあった
白股狐の記事にも書いたが、「野狐」は「やこ」、知ったかぶりエエ加減さの例え
一般に、「野狐禅」とか「野狐坊主」とかいう「生ま禅」を云う言葉である
思うに石州はん、その辺りをように分かっていなさったようだ
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点心席での膳、赤飯・蕎麦汁、向こうは左に芋・栗・豆、右に柿・大根酢、中は香の物

昨日は、大和郡山で慈光院創設三五〇年記念の石州忌が法要があり参列
完全相伝の形態をとった石州流は今では四〇ぐらいの派に分かれて活動している
近年、石州流各派の集まりを期する中、京都大徳寺・芳春院と慈光院で石州忌がある
昨日の献茶は、昵懇の古石州流の本庄扇宗家元がなされ、私も招待を受けていた

道具は、さすがに開山三五〇年記念の石州忌と思わされた
献茶席の茶入は藤林宗源所持の茄子、茶杓は武野紹鴎昨の長茶杓、火箸は桑山宗仙所持物
濃茶席では、釜は古浄味、茶杓は石州作・銘「あきしの」、嬉しい銘である
茶入は瀬戸飛鳥川手・銘「雨柳」、昨日は朝からの雨、飛鳥川の雨柳とは心憎い・・

さて、前の記事で「芋名月・栗名月とくれば柿名月があってもよい」と書き入れた
この日の点心膳の向う付の皿には、芋・栗と来て次に柿、私は一人ほくそ笑んだ
2013.10.19 柿食えば
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色付いた柿、種類名は分からないが、畑の柿なので甘柿の富有柿だろう
柿は東アジアの特産で、種類は千を超えるほどあるらしいが、甘柿は日本が原産地
よってかどうか、柿の学名は「KAKI」である

芋名月・栗名月とくれば、柿名月も思うたが、それは無いようだ
奈良と和歌山で日本の柿生産の四割を占めるということだ
今の甘柿の代表は富有柿と呼ばれている品種で、それを作れは農家が富裕になるとかで命名?
何とも芸のない命名だが、「礼記」の中の「富有四海之内」から二字を取り命名ともある
富有柿の元は奈良の御所柿、岐阜の瑞穂で突然変異したもので、明治三十ー年の品評会に出品
明治三十五年死去の正岡子規は富有柿を食べたかどうかはビミョウ

昨日は、月ヶ瀬口の親戚、私のマタ従姉の家まで炭を貰いに出かける
小屋の二階奥に置かれていた炭は、四十年の年期はあるという代物であった
確かに、炭点前や茶会には無理だが、ともあれ火は熾るので稽古で使うことにする
月ヶ瀬は梅の名所で、芭蕉なんかも足を運んで句をヒネッているところである
だが、今回は「梅」ではなく「柿」、月ヶ瀬の女と御所柿と正岡子規の話が面白い

正岡子規が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んだのは、明治二十八年十月二十六日
これによって、十月二十六日は「柿の日」だとかなんとか
実は子規、この夜は奈良・東大寺の西横にある旅館「対山楼」に投宿していたのだ
子規は柿が好きで、宿の下女に御所柿が食べたいと無心し、女中が柿を運び皮を剥いた
皮を剥いている十六・七の下女は月ヶ瀬の出で、その色白い顔の美しさに見とれたこと
その柿が御所柿で美味かったこと、その時東大寺の鐘が鳴ったことが、彼の「奈良日記」にある
それで詠まれた句が、件の句である
その日は法隆寺を訪れて奈良に入ったので、つい最後が法隆寺となったが本来は東大寺の鐘

「対山楼」は山岡鉄舟が命名した奈良の老舗旅館で、私の子供の頃まであったが、今は無い
その跡地に「子規庭」がなるものがあり、御所柿の木が植えられ記念碑も建てられている
設計者は正岡子規の孫に当たる御仁だとか聞いた

月ヶ瀬では、子規が梅の精と称えた下女の面影を偲んでみたが、ついぞ拝めなかった・・
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日本栗、原産地は日本と朝鮮半島南部、ブナ科

昨夜は中秋の名月の一三夜、つまり旧歴九月一三日の栗名月であった
奈良の空は薄っすらとした雲空で、月もボンヤリとしていた
旧歴八月一五日の芋名月と云れわる一五夜の方が、中秋の名月として名高い
然し、栗名月と云われる旧歴九月の一三夜の中秋の名月の方が味わいがあると思う
近頃のように秋の気温が暑くなってくると、「中秋の名月」は一三夜が相応しい


栗は世界に四種あり、日本栗、支那栗、西洋栗、アメリカ栗だと聞く
日本栗は、天津甘栗やイタリヤのマロングラッセとは別物ということ
日本栗の特徴は、渋皮が剥がれにくい、つまり天津甘栗のような訳には剥けない
それと日本栗はアクが少ないのも特徴で、そのため食用に適しているということ
そして栗は、日本最古の栽培植物であるらしい
青森県の三内丸山古墳の縄文遺跡から出た栗のDNAはそれを示しているとか

九千年前の縄文時代からは、食用とされた栗の遺物が見つかっている
五千年ぐらい前から、日本人の祖先は栗を栽培し、大切にしていたという
云わば、栗こそ日本人と日本文化を育んできた植物ということでなる
柴(小)栗や山栗と云われるのは、ご存じの丹波栗との比較で付いた名だ
丹波地方の日本栗を改良して大栗に育てたのが丹波栗、云わば人工改良種の栽培栗
写真の栗も我が家の丹波栗であり、縄文人の食べた栗は柴栗・山栗であった

ともあれ昨夜の栗名月、雲り空でやや心残りではあった
珠光の「月も雲間の無きは嫌にて候」とも云い難い、ボンヤリ名月
まぁ、女人で云えば「夜目・遠目・傘の内」ということか

我が女房殿、支那は好きになれないと云いながら、天津甘栗は食べる・・
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季節外れの西洋タンポポ
暑かった五日程前、散歩途中で見付けたが、台風一過の今朝には花は無かった

季節外れとは、尺度や分別・道理に合わないものということだろう
確かに、「尺度」は言葉や文字そして貨幣という人類の大発明の一つである
「分別・道理」も、人間が社会的動物として成り立つ知恵として生み出した発明だろう
物の尺度から見れば規格外、善悪の分別から見れば悪、という烙印が社会の目である
何がしか、えらそうなことを語るようだが、そうではなく、炭のことである

私の炭は、柳生の炭焼き窯で都合して来た
焼きあがったままの状態、窯の中の長いままの炭を米袋や段ボール詰めて持ち帰っていた
その炭を、時々に必要な分だけ切って洗い、稽古や茶事に使うのであった
その炭切りのことで、面白い会話したことがあった

表千家の女性茶人が我が家に来られた時の会話である、
その御方は、車庫に置いてある炭の丸太を見て、曰く
「炭切りは大変ですね、定規を当て規格通り切るのは難しくて、私には無理です」
それで、私が云ったのは
「大工の修業じゃあるまいし、適当に切ればよく、切り損ないの炭も入用ですよ」
その御方、「 え? はぁ、そうですか・・」
私は、切り損ない規格外れも入用な炭、人と同様にと、云いたかったのである
つまり、規格外の炭は種火や灰温めに使える、人の活かし方もそういうことだと

その御方は、炭は「規格通り」に切るもの、と思い込まれているようであった
炉の胴炭は長さ五寸、風炉の胴炭は四寸、丸・割れ毬打炭はその半分の長さ
<毬打(ぎっちょう)とは、昔の正月遊びで木製の毬を打つのに用いた槌のこと>
だが本来、炭は五徳に合わせて切るもので、炭に五徳を合わすものではない
昔は、風炉も炉も五徳も大きさはマチマチであったものに炭を合わせたものだ
近年になり、炉の大きさが定まり、五徳も定まって来て、炭もというだけの話
要は、置き易く湯が沸けば良いだけの炭、とは多少云い過ぎのところはあるが・・

実は、柳生の炭焼き窯の主が体を壊し、炭焼きを止めたと知らされたのが十日前
困った私は、親戚の炭小屋に残された三〇年以上前の炭を貰いに行くことにした

利休が云ったとかいう利休七則、分かり易いので載せておきたい

 茶は服のよきように点て、
 炭は湯の沸くように置き、
 夏は涼しく冬暖かに、
 花は野の花のように生け、
 刻限は早めに、
 降らずとも雨の用意、
 相客に心せよ


2013.10.16 曙椿、恩師Ⅱ
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曙椿、卒塾者の方が自宅の庭の一番咲きを持って来て下さった
十一月の武家茶道三派茶会に向け、炉稽古が始まった為に椿を、というお心遣いである

恩師の話の続きである
教え子の男三人で先生の自宅までお迎えに上がった
約束の時刻より少々早く着いたのだが、先生は準備を整えて待っておられた
杖を持ち、御主人に腕を支えてもらいながら玄関から出てこられたのである
我々はすぐ駆け寄って、一人は先生の荷物を受け取り、一人は杖の手をとった
私は御主人の介添えの手を替わって先生を支え、ゆっくり先生と歩調を合わせた
門扉のところで先生は立止まり、付いて来られたご主人の方に向き直られて
「それでは行って参ります」と会釈をされ、優しい笑顔を御主人に見せられた
「うんうん」と頷かれたご主人との表情の遣り取りに、見事さを感じた

先生は中学の家庭科教師であったため、担任以外の男子生徒とは、ある種無縁といえた
女生徒からは親しみと尊敬の念を集め、今以って慕われている御ひとである
我々の中学三年の夏、御主人の米国大学への赴任で、先生は中学教師を辞められた
米国から帰国後、御主人は「八重の桜」の同志社大学の教授、学長、そして叙勲となる
その間の先生は「毎日、アイロン掛けばっかりしてたわ」という話であった
御主人は退職後に肺ガンを患って入退院を繰り返され、九十を超えた今も自宅養生の身だ
そんな御主人の世話や介護をされている間に、御本人も体を壊されて入院されていた

宇治川の旅亭旅館から先生を自宅まで送って行ったのは、女級長と悪ガキ生徒の二人
後で二人から聞くと、先生宅の門扉の前で御主人が待っておられたという話であった
前以って御主人に、先生は何時に帰るという連絡を入れていなかったということである
どれぐらいの時間を、外で待っておられたのは分からないが、老夫婦の生きる姿を感じた
先生の、教室で教鞭をとる姿は知らないままだが、涙を流しながら男生徒(私)を叱った姿
酔っぱらって家に来た生徒達(私と悪ガキ生徒?、否、私も悪ガキか)を介抱して下さった姿
そして、六十半ばを過ぎた生徒に、感銘を与える老夫婦の姿
善い恩師に巡り会えたことは、人生の幸せである



2013.10.15 恩師
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恩師を囲んでの一葉

昨日は、宇治川の畔にある料亭旅館の茶室で恩師に一服差し上げる
恩師は体調を崩されていたので、長らく同窓会も出来ずにいた
漸く、杖と介添えが有れば外出可能というまでなられたので、有志が集まった
今回の話ではアラセブンの「女性力」を見せつけられた思いがした
音頭をとったのは恩師を心より敬愛する女級長である

彼女の提案(気持ち)は、こういうことであった
①先生の自宅付近(宇治市)で場所を選定する
 つまり、九十歳近い先生の今のお体では遠出が無理ということ
②先生のことを考えると、同窓会として多くの者を集めない方が良い
 つまり、先生との会話だけで全ての時間を取りたいということ
③遠くに嫁いでいて、こちらに来る機会の少ない女性に声を掛ける
 つまり、日頃は会えない者が先生を囲み女同士の話をしたいということ
④精々五人か六人で収めたいので、女の子三人と男の子三人の同数とする
 今更、合コンでもあるまいにと思うたが、ここは素直に賛同する
・・誰が女の子やねん? と口に出かけたが止める・・

ということで、今は千葉と広島に居る女性が一発承知で決定
男の子(?)は、真面目で勉強が出来た級長と悪ガキで鳴らした者
そして、三年間先生の担任学級の生徒で在り続けた、この私となった
宇治川の畔に風情のある料亭旅館を千葉の女性が知っていて、予約したとか
女性陣はそこで宿泊し、その夜はゆっくり語り合うつもりと聞かされる

そしてトドメは
「その宿には松下幸之助所縁の茶室があるので、井谷君はお茶を点ててや」
私は、云われた通り、釜や水差・茶碗等一式を持ち込むことになった
先生を囲んだ同窓会は、これが最後だろうと心に思いつつ、私は濃茶を練った
薄茶は女性が点ててくれ、干菓子は彼女たちには懐しい奈良の「青丹よし」とした
まぁ、そんなこんなの結果オーライで幕、女級長さすがであった

恩師ご夫妻の姿に感銘を受けた、話は次に
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濃茶の客作法稽古の写真である
本日は、京都大聖寺門跡寺で宗家ご臨席の近畿地区勉強会があった
内容は、上田宗箇の美意識と茶室の造りという座学、続いて風炉の灰と濃茶の実技であった
上田家の古文書に残る流祖・上田宗箇の教えとは

< 茶における楽しむところは 清静にあり
  用いる所の器は唯だ 勁質にして雅文なるものを好む
  艶形華色はすなわち取らず >

ということである
宗箇の生き様と戦場の行動を勘案すると、分かる話である

奈良から京都へ向かう車中でラジオを付けていた
ふむ、と思った話があったので車を停めメモをした
とある御仁のお父上の話である
御仁が社会人となり、家を出て一人住まいをしていた頃のこと
お父上は一年三六五日、毎日葉書をくれたという、三六五枚あるそうだ
その中に、「四季の教え」というのがあったという

「 人に接する時は、暖かい春の心で
  仕事をする時は、激しいの夏の心で
  ものを考える時は、涼しい秋の心で
  自分に対する時は、厳しい冬の心で 」

というものである
御仁は、お父上が記した「四季の教え」を、今以って座右の銘にしているとのこと
この「四季の教え」、私の腑に落ちた
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藤袴(ふじばかま)、花言葉「あの日に戻りたい、
秋の七草として日本人に愛されてきたが、今は準絶滅危惧種に指定されている
山上憶良が秋の七草を詠んだ歌
「 萩の花  尾花くず花  なでしこの花  また藤袴  朝顔の花 」
「尾花」はススス(芒・薄)のこと、正体見たり「枯れ尾花」である



「五省」というのを父親から聞いたことがある
旧帝国海軍のエリート養成機関、海軍兵学校に掲げられていたらしい
戦後来日した米国海軍の将官がこの言葉に感銘を受け、懸賞を出して翻訳させたとか
今では、米海軍のエリート養成機関アナポリス海軍兵学校に掲げられていると聞く

五省

一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか
  <真心に反する点はなかったか>
一、言行に恥づる勿かりしか
  <言行不一致な点はなかったか>
一、気力に缺(か)くる勿かりしか
  <精神力は十分であったか>
一、努力に憾(うら)み勿かりしか
  <十分に努力したか >
一、不精に亘(わた)る勿かりしか
  <最後まで十分に取り組んだか>

我が人生を省みて、この一省もだに会心勿かりしこと・・、ため息
まぁ、反省なら猿でもするかと、気を直す
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赤いが白粉花(おしろいばな)、夕化粧(ゆうげしょう)とも、花言葉は「臆病・信じられない恋」
南米原産で江戸期に渡来したとか、然し、信じられない恋とは、どんな恋かなぁ

♪ 宮さん宮さん お馬の前の ひらひらするのは なんじゃいな ♪ という「とことんやれ節」
勤王芸者・中西君尾の作曲だとか云われている、作詞は旦那の品川弥二郎、後の内務大臣である
白粉(おしろい)と芸者衆、芸者衆とくれば幕末維新の志士と京芸者が頭に浮かぶ
坂本龍馬の危機を救ったお龍、高杉晋作と逃避行をしたおうの、そして、桂小五郎の亡命を助けた幾松
勤王の志士や後の明治のエリート官僚の妻や愛妾になった話も多く、信じられない恋もあったと聞く

そのエリート、明治と昭和では中身が違ってしまった感を受ける、軍人としてみると
明治の軍エリートは「野戦型指揮官」として戊辰戦争を経験し、多くは武士の家庭に育っている
昭和の軍エリートは「学校秀才型指揮官」として本の教義・教条を暗記、育ちは雑多である
明治軍は、合理的に事を考え、数字と機能を直視し、前線の将兵は降伏することも可であった
昭和軍は、教条的な精神訓話で事を判断し、降伏することを潔しとせず、将兵に死を選ばせた

それは、戦争目的を「勝つこと」と捉え、勝つ手段を講じようと発想する明治のエリート軍人
戦争目的を、「負けないこと」と捉え、負けない手段を講じようと発想する昭和のエリート軍人
負けないために降伏をしない、良くいえば「勝利か死か」という話だが、根底は無責任の極み
死ねば責任は無くなる、現在の「辞めれば責任が無くなる」とする組織人の発想と同じである
結局、先の大戦では国の戦争責任は問われたが、軍の敗戦責任は問われていないのである

私は身分・階級制を快く思わないが、エリートには選民意識が不可欠に思っている
それには、物心が付く頃からの家庭の躾と両親の薫陶が何よりに優るものと考える
選民意識とは、誇りと義務感、そして矜持を持つことであり、要は「恥を知る」ことだ
階級社会の欧州では「ノブレス・オブリージュ」というエリート概念があるように聞く
その云うところは、高潔な徳、崇高な義務感、自己犠牲の精神というものらしい
彼らのエリート教育の原点は、知力・体力・精神力・品位・礼節を身に付けることである
そして、鍛え抜かれた実力者が、世の中のエリートとして、指導的地位に就くとする

英国の紳士はラグビーとボクシングを必須の素養としていたそうである
確かに、ラグビーは肉弾相打つ競技ながら、ルールを守り、審判に逆らわない競技でもある
ボクシングは、成金志向のアメリカでハングリースポーツとなったが、本来は貴族のものだ
英国では将校に勝てる兵隊は少なかったようで、植民地でも英国将校は畏敬されたようだ
日本の弓道・剣道が、欧州のエリート・貴族の競技と似た面を持っているように思う

英国軍の突撃の最先頭には、必ず貴族将校が立って進むと聞く
日本の昔、サムライが尊敬の念で見られたのも、原点は同じであろう
欧州の騎士道・エリート意識と日本の武士道・サムライ意識とは、似た文化と思われる
戦前までの日本には、多少は武士道精神が残り、社会や家庭の教育にもそれがあった
その例が、旧制高校や陸軍士官学校・海軍兵学校の教育であったが、GHQは取り潰した
ただ、学校秀才のエリート養成では、組織や地位に安住する傾向が生じ、権威主義になる
つまり、個人としては脆く、危機にあって思考停止する傾向も生じるということだ

先日の新聞記事、「日本の大人力は世界一」、それは平均点というか下が高いということ
最上位のところ、エリートレベルの「大人力」は大した成績でないという話である
日本には真のエリート教育が求められているのでは、と、しみじみ思う秋の日長かな

男の茶の湯、武家茶道は今の日本に求められるもの、と、つい云い度
長い文になった







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杜鵑(ほととぎす)、花言葉「永遠にあなたのもの」 セカンドプロポーズは不要か
名の由来は、その色模様が鳥のホトトギスの腹に似ているからと云われる、

鳥のホトトギスは、杜鵑、子規、不如帰、時鳥、杜宇、蜀魂、田鵑など二十以上の漢字を持つ
この鳥、ウグイスの巣に托卵、即ち卵を産むだけで子育ては他人に托す怪しからぬ奴である
ホトトギスにも、少しは罪悪感があるのか、その鳴き声は「忍び音」と云われている
佐々木信綱の唱歌、♪ホトトギス早やも来鳴きて 忍び音漏らす 夏は来ぬ ♪
よく聞くと「特許許可局・トッキョkyカキョク」や「テッペンカケタカ」と鳴くとか
それのどこが「忍び音」なのかよく分からないのだが・・

鳴かぬホトトギスに対し、次の御三方の話は有名である

織田信長 「 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 」
豊臣秀吉 「 鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス 」
徳川家康 「 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 」

更にもうお一人、フィギアスケートの織田信成、信長の子孫と聞くが

「 鳴かぬなら それでいいジャン ホトトギス 」

なかなかである、四回転ジャンプ成功

「 この暑さ、夏鳥たちも 不如帰(ホトトギス) 」  正岡子規とか(^^)
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近所の秋明菊(しゅうめいぎく)、花言葉「薄れゆく愛」
秋の茶会では必ずお目に掛かる花である、薄れゆく愛にはセカンドプロポーズを・・

今朝の産経一面、トップ見出しに、日本「大人の学力」世界一、とあった
なんでも、OECD(経済協力開発機構)の「国際成人力調査」の報告という
の先進二十四ヵ国で、「読解力」「数的思考力」「IT活用力}の社会適応能力を調べたとか
それによると、「読解力」と「数的思考力」の日本の得点は平均点を大きく上回りトップ
其々の得点を、レベル5からレベル1以下の六段階で分析した結果には、少々考えさせられた

「読解力」と「数的思考力」共に、下位の「レベル1未満」と「レベル1」の割合が世界で最も少ない
逆に、上位の「レベル3」とレベル4」の割合が最も多かったらしい
そして、最上位の「レベル5」は、「読解力」で四番、「数的思考力」で六番だったという
日本の現場作業員(ブルーカラー)のレベルは、各国の事務職(ホワイトカラー)を上回っている
因みに、「IT活用力」の得点は、世界の平均レベルということだった

昔聞いた話に、世界最強軍隊は「日本人の兵・下士官、ドイツ人の将校、アメリカ人の将官」とあった
また、国際派の事業家(華僑)が云うには「経営者は中国人で、従業員は日本人なら安心だ」とか
先の大戦で負けた日本軍将兵は、ドラム缶の掛け算勘定も出来ない敵兵に、何で奴らに負けたかと情けなく思ったという
日本兵は体格では劣るが、知的能力、規律、使命感では相手を凌駕していたものを、と云う話である

昭和四十年代半ば「流通革命」という機運が高まる中、多くの流通マンは渡米し、米国流通を学んだ
「ノウハウ」「マニュアル」「マーチャンダイジング」とかなんとか、アチラ弁を盛んに使ったものだ
最近の政治家が「マニフェスト」「アジェンダ」とか口にしたがるのと同じ、言葉のコケオドシである
アチラの「マニュアル」には驚いた、何グラム、何回、何秒と細かく記され、挙句にトイレ紙の枚数まで
え~ッと思い、何故にそこまでと聞くと、二・三枚で済ますと衛生問題が起きかねないからと云う
国語(英語)も使えない、掛け算どころか足し算引き算もままならない従業員を使うとは、こういうことか
米国は、凡庸な大衆と少数の英才エリートで構成される社会の仕組みである、と知らされたのである

日本に入った米国発の「マニュアル文化」はドンドン改廃され、日本の風土に適応していった
特に、「運用は現場で宜しく」と云う日本のエリート層の悪癖により、本来のマニュアル化は薄れた
「将校の下士官依存」という昭和日本軍の悪しき伝統は、今の社会にも引き継がれているようだ
近い例では、東京電力の経営幹部たちと福島原発の故吉田昌郎所長の話がその事例であろう
日本のブルーカラーは世界一ながら、日本のエリート教育の不備を感じる今朝の新聞記事であった
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私が骨折した場所のシダ(羊歯、歯朶)、花言葉「魅惑」
漢字名の云われは、羊の歯に似ているとか、歯形のような葉がしだ(朶)れているからとか
花の咲くことがないシダにも花言葉があったとはビックリ

先の記事で、ヒルガオとマルバルコウソウが昔々の大昔には同種であったという、デフォルメ談をした
そのまた昔の大大昔、「昔話」Ⅱである、濃茶の昔に即発された
「人はなぜ花を愛でるか」というテレビ特集があったようだが、残念ながら見ていない
その特集話の筋を聞くと、なかなか面白く、納得できる内容であったようだ

地球の陸上の生物は藻皮、藻類の膜みたいなのが最初に現れたそうで、それが十二億年前頃だとか
そして、四億年前頃にシダのご先祖様が海から陸へと上って勢力を広げて来たということらしい
シダの種類も増え、かなりの大木に成長するものでき、陸上に大森林が出現して石灰岩の元となる
藻を食べるヤスデ(ムカデみたい)が陸に上がり、ヤスデを食べるクモやサソリ、ムカデの類も陸上へ
そのうち、肺機能を持った魚類も陸に上がり両生類に進化、原始爬虫類と原始哺乳類となっていった
我々の祖先・原始哺乳類は爬虫類に押されっぱなしであったようで、今もってへビが苦手のようだ
恐竜の登場は二億五千年前頃、大木のシダ類を食べるため体が巨大化していったと云われている

シダ類は胞子で増える植物であり、繁殖には水分が要るとか(難しい話はさておき)
一億年前頃に花を付ける被子植物が現れ、花粉と種子の交配を風媒(風で散らす)で行い繁殖
被子植物にシダ類は北へ追いやられ、シダ類は寒さに適応した針葉樹に進化し、裸子植物となる
裸子植物は花粉の風媒という受精方法をとり入れ、今や花粉症の立役者・本尊となった
被子植物の出現が、シダ類を食用とした恐竜の衰退を早めたという説もあるとか聞く

件の被子植物、花粉の風媒に加えて、やがて花粉の動物媒というやり方を生み出したのである
蜜を湛えた花を咲かせ、その色と香りで、動物を引き付ける、すなわち「魅惑」を醸し出すのである
昆虫や小哺乳類は、色彩を見分ける能力や蜜や果汁を嗅ぎ付ける能力を持って食糧を得たのである
つまり、小哺乳類は花の慈悲を感じても、恐竜は花に感慨を持つことは無かったということである

この小哺乳類には人類の祖先もおり、進化と多様化を果たして、爬虫類とも対抗できるようになる
六千五百年前の巨大隕石落下で、恐竜は絶滅、かろうじて我々の祖先・小哺乳類は生き残った
原始人類の誕生は五百万年前位、直接の祖先・ホモサピエンスの登場は約二十万年前とか
旧人であるネアンデルタール人の六万年前の遺跡の墓に、供花の形跡が認められたと聞く

またまた長くなった、「人はなぜ花を愛でるか」、大昔話であった
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茶摘み、「昔」の姿を再現した風景である

この「昔」、濃茶の茶銘によく使われているのは何故か、本日の濃茶補習稽古での話である
私は、以前にこのブログで記事にしたと主張したが、「見てない」とケンモホロロ
打ちヒサガレタ私は、過去記事を当たってみた、あった、五月二日の「八十八夜、濃茶銘の昔」
意気揚々、再掲することにした

今夜は八十八夜、立春から八十八日目の夜である
♪ 夏も近づく 八十八夜・・ ♪ 茶摘み歌で知られるように春との別れである
とは云え、この数日は肌寒い日夜が続き、衣類の洗濯ではなく、選択に困る

 さて、この十二日は流祖・上田宗箇の法要茶会が大徳寺三玄院で催される
新人の方も今回の茶会に参加されるので、前回の稽古では濃茶の飲み方を練習した
薄茶は奈良・京都では寺社の茶店や喫茶店でも出される処が多く、一般的ではある
しかし存外に、濃茶を飲む機会は少ないようで、飲んだことが無い人が多い
濃茶は一碗の茶を三~五人での廻し飲みになるので、飲み口を拭く所作が求められる
その所作は流儀により違いがあるが、当流では懐紙の八切れで拭き取ることになる

 その濃茶、どこの流派でも正客が主人に茶銘と詰元を聞くのが通例とされている
濃茶の茶銘には、「●●の昔」というのが多いのだが、昔というのが八十八夜と関連する
昔という字は、廿一日、二十一日という話で、八十八夜を挟んだ二十一日のことである
つまり、上質の茶は八十八夜の前十日、後ろ十日の間に摘まれた茶の若葉で作られる
それで以って、濃茶は「●●の昔」と名付けられるということのそうな、価格も高い


昔話は、ほろ苦い恋の味
ほろ酔い運転は、止めましょう
あ~ぁ、免許取り消し
♪ 泣いてくれるな~ ほろほろ鳥よ~ ♪
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昨日の床花、見辛いが左から
野萩、酔芙蓉、洋種ヤマゴボウ、花虎の尾、エノコロクサ、ニラの花、ススキ、玉菊、段菊、コスモス
イヌタデ、ヨメナ、芙蓉、チカラ芝、これで十四種なので仏壇の黄菊を加え十五種の奇数とした
そして結論、「何事も、過ぎたるは及ばざるが如し」と知る

昨日の気温は三十一度を超え、真夏日となる
朝方は涼しく感じたので、今日の稽古は衣替えをしようと、合い物を出していた
風炉の炭に火を入れ、釜の湯が煮える昼頃になると汗が出て来た
堪らす、冷房のスウィッチを入れ、夏の着物に着替え直す

今年の暑い気候の所為か、秋篠川の土手の草花は侘びた景色も無く、まだまだ元気である
然し、ままよと、仏壇の花まで手当たり次第に宗全籠に挿し、「名残りの花」をと思ったが
結果は写真の通りである、中置も止めた

床の軸も早すぎたが、そのままにした
「 見渡せば  花も紅葉もなかりけり  浦の苫屋の  秋の夕暮れ 」

「侘び」より、暑さへの私の「恨めしさ」が出ている故に・・
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大和文華館の庭園で見た萩、紅白並んで咲いている、花言葉「もの思い」

萩は草冠に秋と書く、まさに秋の草花の代表である
萩の咲始めはススキと一緒に中秋の名月、萩の終わり頃には風炉の中置
中置とは、少し肌寒くなる時期なので、風炉の火を客畳に近づける点前である
ざっくり編んだ大きめの竹籠に、秋の草花を何種類も入れる「名残りの花」となる
名残りの花では、虫食いも枯れ草も、萎れ花も入れ、侘びた趣を出す
やがて晩秋、やつれた風炉釜となり、中の灰は掻き上げて、物悲しい時節を迎える
萩の花も散り落ちる頃には、ゆずの実が色付き、風炉から炉に替わるのである

萩に猪、紅葉に鹿、牡丹に蝶々の猪鹿蝶、ご存じ花札である
他にも、ススキに月、菊に盃、梅にウグイス、藤にホトトギス、柳に「かえる庵」
カルタの語源がポルトガル語のカードである、トランプ禁止令で花札が出来たとか
思うに、花鳥風月と和歌を以って、カードを考案するとは、日本の民俗文化は面白い
花札作りの老舗である任天堂、娯楽屋と云う創業主旨(コア・カンピタンス)を失わなかった
その任天堂を世界のニンテンドーにした山内溥前社長が去る九月一九日、八五歳で逝去、
因みに、この私、花札・麻雀・酒・煙草は家で教えられた、我が家の民俗文化は・・


閑話休題、昨日に流儀の方から電話が入った
十一月の武家茶道三派(織部流・遠州流・上田流)競演の茶会があるので、頼むとのこと
つまり、上田流が受け持つ濃茶席の亭主と点前の役に人を出してもらいたいということである
茶会のことは去年から承知していたが、客として参加することで話が決まっていたのだが・・
あと一ヵ月しかない中で「もの思い」、嬉しいことに奇特な卒塾者の方が引き受けて下さったのである
さてさてこれから一ヵ月、風炉と炉の併用稽古、亭主と点前の同時稽古となるのだ
2013.10.04 ヒルガオ科
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近所の垣根に咲く昼顔(ひるがお)、日本の在来種、花言葉「和やかさ・優しい愛」

以前に、朝顔・昼顔・夕顔のことを書いた
朝顔も昼顔もヒルガオ科であるが、夕顔はウリ科ということであった
今回の登場は、丸葉瑠紅草(マルバルコウソウ)への詫びのつもりである

熱帯アメリカという遠方から遥々日本までやって来て、どういう事情があってのことか
この秋篠川の畔の草叢の中で、小さくて可愛い花をつけている丸葉瑠紅草、思えば健気である
そこで一肌脱いで、丸葉瑠紅草の遠い遠い親戚を探して来た、それが昼顔である
共にヒルガオ科、昔々の大昔、どこかで生き別れになり、片や日本で片や中米で生きて来たのだ

万葉の頃、昼顔は容花(かほばな)と云われ、美人の代名詞であった
再掲する

高まどの 野辺の容花(カオバナ)  おもかげに 見えつつ妹(いも)は 忘れかねつも
・・・・大伴家持

そういえば、サツマイモ、甘藷(かんしょ)もヒルガオ科の仲間だった・・
明日、蒸かして味わおう
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背高泡立ち草(セイタカアワダチソウ)とススキの格闘、頑張れ!ススキ

前の記事の写真に、セイタカアワダチソウとススキの格闘図を使うべきだったと思い返し、探した
「セイタカアワダチソウとススキ」で検索、さすれば有った、結構たくさんに
この両者の戦いぶりは、巷でも有名になっているようで、あれこれ書き込みもされていた

まま、可愛そうなのは、トバッチリをうけた丸葉瑠紅草(マルバルコウソウ)であろう
そんな有害でもなく異郷の地でヒッソリ咲いているものを、帰化植物というだけで白い目で見られ
危険な侵略植物と同列扱いをされる誤解を与えてしまったのは、気の毒であった
明朝は秋篠川の土手へ行き、丸葉瑠紅草に声を掛け、詫びておこう
詫びは、侘びへの一里塚
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丸葉瑠紅草(マルバルコウソウ)、花言葉「紙一重」、10月21日の誕生花だとか
秋篠川の土手でよく見かけるが、こんな名前とは知らなかった、丸葉の瑠(楼)紅という草
熱帯アメリカ原産で、江戸末期に日本に入った帰化植物ということだ

山間辺りで細々と生き延びるだけの竜胆(りんどう)や桔梗(ききょう)という日本の在来種の草花
それも絶滅危惧種として、向こう百年のうちに姿を消すと云われる中で、帰化植物の強靭さは恐れ入る
その代表的な帰化植物に「背高泡立草・セイタカアワダチソウ」がある
最初は観賞植物として明治末期に入ったらしいが、全国的に広がったのは先の大戦後
進駐軍物資に種子が付着して入り、関東以西で繁殖し始めて、全国各地に広がったらしい

背高泡立草は他の植物の成長を抑える成分を有していることから、在来植物を死滅させるという
ために外来生物法の「要注意外来植物」、日本生態学会の「侵略的外来種ワースト100」には堂々入選
とは云え、日本の在来種も負けてばかりではない、反撃を開始したのである、萱(かや)つまりススキ
ススキと泡立草は生息環境が似ているため、当初は泡立草にススキは押されっぱなしであった
どんどんススキの生息地が泡立草に取って代わられ、日本の秋の野原風景が変わってしまった
だが近年、日本各地からススキ軍反撃の報が寄せられ、今やススキが押し返しつつあるとか聞く
少々図太くなったススキが泡立草を押し返す姿に、他の日本在来種に成り替わり、私は声援をした

ところがこのススキ、少し図に乗ったのか、それともこれまでの日本植物の怨念を晴らすためか
米国本土に泡立草侵入経路の逆上陸をし、アメリカの在来植物に大きな打撃を与えているらしい
堪らず、米国政府はススキを「侵略的外来種」に指定して、その駆除には困窮していると聞く
微笑ましい(?)ことに日本産の葛(くず)もススキに加勢して米国在来種を打ち負かしているとか
まぁ、茶事でもホドホドにと云うことがある、ここはススキと葛に停戦命令を出すのが善かろう
考えてみれば、悪と善は「紙一重」と云える
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紫苑(シオン)、花言葉「君を忘れない」、日本では九州に自生種が残るが絶滅危惧種である
誰が付けたか別名は「鬼の醜草・オニノシコクサ」とか、可愛い花と思うのだが

今朝の産経新聞、曽野綾子さんのエッセイに『「おもてなし」への違和感』が書かれていた
曽野さんは、< 突然「おもてなし」と云う言葉が「絆」や「もったいない」という言葉のように、日本語社会の中に入ってきた。・・・今日本にあるのは、商業的「おもてなし」ばかりだ。自然のおもてなしは、その人の人間性に発し、商売上の「おもてなし」は表情にマニュアルがあるからすぐわかる・・・日本人は日常的なおもてなしの精神を復活すべきであろう。近所の同じ老世代と、ご飯を一緒に食べるだけでいいのだと私は思っている。> という

確かに、世の中の軽躁な言葉遊びとなる「オ・モ・テ・ナ・シ」騒ぎに一石を投じたものだろう
そして、自然体で朋と招き招かれたりという、いわば「茶事」の原点と共通する話であろう
それで「茶の心はオモテナシの心」と結び付けられては私も「違和感」を持つが、ここはここまで

さてである、曽野さんのエッセイの最後の部分の話には括目した
< イタリアのある地方の習慣として、信仰厚い家庭では、食事のテーブルに必ず一人分余分の席をつくるという。それは突然やってくる人 - 知人であることもあり、時には困窮している旅人の場合もある - が気楽に席について、いっしょに食べられるためである。そこには目に見えない神のいる席なのである。 >とあった
炉の火は落とさずに、不意の客に備えよ、という「不時の茶事」の心得があるが、どこか通じる話である
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上、吾亦紅(われもこう)、花言葉「忘れ得ぬ思い」、
名の由来は「吾もこうありたい」また花の色が定まらぬのを「吾は紅なり」と花がささやいたとか
下、段菊(だんぎく)、花言葉「移ろいゆく日々」、キク科でなくクマツヅラ科
葉が菊に似て、段々に咲いていくから名付けられたとか、英語名は「青ひげ」(^^)

「吾もこうありたい」と思いながら、「移ろいゆく日々を過ごす」、身につまされる花言葉である
「段々に咲いていく」、この言葉は成長や進歩を例えるに相応しい
右肩上がりの一本線で成長や進歩を続ける人や企業はそんなに多くはないと思う
私の前職で、企業成長の手助けを業した経験では、「1-3-10の法則」というものがあった
「規模の課題」というものがあり、その課題を克服すれば次の規模まで伸びることが出来るというものだ
課題の克服に手間取ると成長が停滞する、課題を残したままの規模成長は企業破綻の危険を孕む

規模の課題には、略三倍から五倍程度のところで現れる壁に法則めいたものがあるとされた
例えば、年商で十億円の壁をこなしても三十億円から五十億円になると次の壁が現れる
三十億円の壁を乗り越えれば、百億円位までは順調に成長でき、また百億円の壁に先を拒まれる
店舗数でいうと、10店ー30店ー100店の段階で、その規模を超えるための課題が現れる
従業員数でも同じことが云え、10人ー30人ー100人の壁(課題)というものがある
ある段階の課題を超えると次の段階までは順調に成長し、次の課題でまた足踏みをするというもの
つまり、成長・進歩とは階段状の線を描きながら上がっていく、「段々に咲く」花ということだ

学問やスポーツ・芸術には規模というものはないが、次の成長に向けた足踏み(課題)はあるようだ
茶もそうのように思える、塾生の方には壁(課題)を一つひとつ越えてもらいたいと願う
斯く云う私には、人間成長の壁・課題が多く、押し潰されそうになっているのだが・・
「吾もこうありたい」