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囲炉裏で飯を喰っている塚原卜伝に後ろから打って掛った宮本武蔵の絵
隙を見せたら負け、それだけが武芸者の掟、今で云う唯一のルールであろう
絵を見るかぎり、木剣のようなので武術修練とも云えそうである
一つ云い足すと、卜伝は元亀二年(1571年)八十一歳で没、武蔵は天正十二年(1584年)の誕生とか・・
卜伝は鹿島の神官、武蔵は重要文化財になる絵画・工芸品、そして五輪の書を残す

「武術と武道」については、易水館範士・若浦次郎氏の書き物に首肯するところが多い
それを要約して掲載する(長文になるので、二日ほど他記事の書き込みは置く)

>「術」と「道」の違いを問われて即座に回答できる日本人は幾人存在するだろうか。「武術」と「武道」を同じ位置に定義してしまっている今の日本人、および国家は「武術」と「武道」を履き違えてしまっている。
 はっきり唱えれば、武道は明治以降である。明治以前は剣術、柔術、居合術で固定されていた。柔道あるいは剣道は明治以降に確立され、保健体育の体力向上を目的として門戸を開放した。  柔道の加納師範は武道精神を輸出するために、初のアジアでのオリンピック開催を訴えた。武道とは明治以降に確立された呼び名であり、和魂輸出を目的としていた・

「術」は流派の掟により門戸を開放せず、流派の特徴である秘伝を公開しなかった。このために発展が遅れたようであるが、結果的にはよかったのである。門生弟子を一般募集せず、各藩の流儀として温存していた為に、秘伝は地下水脈として世間より隠し通されていた。沈黙の民族の地下水源であった。
武道家といえば武芸十八般を会得する者とされ、十八種の武芸とは(弓術、馬術、槍術、剣術、水泳術など)あらゆる武芸に長じた者を武芸者と呼ぶのである。今の日本では空手道、剣道、柔道、居合道、合気道と単独スポーツも一般に武道家と混同されているが、実際には武道家と武芸者は全く違うのである。

武芸者として認識すべきは多種多芸、十八種の武芸に通じた武術者のことを古来より指すのであり、 術は統べ成るかな、総ての道、学術、芸術、美術、武術を追い求めて、肉体と知性の武芸十八般を漂泊し、防護護身の技の完成を希求し、自己確立を目的とする。「よく整えし己こそ誠得難き寄る辺なり」武士は藩(国)のために、また家門一族の栄達のために武術と芸術に勤しんだ。鎌倉幕府の武士派の格言は「わが屍を乗り越えて行け」親子の間でも躊躇することなく、親、子の死体を踏みつけ敵に遅れをとるな、逆に言えば深い絆で結ばれていた証である。平将門は武士の規範と道理、道徳を打ち立てていた。「敵の女、子供に手を出すな」女の実家まで護衛をつけて送り届けた。西暦940年(天慶3年)の事である。
現代の武道とは単に一歩道、唯一つの種目を飽きもせず生涯の友として他の種目を顧みない排他的な儒教思想に近く自己の種目こそが他の武道より一歩先んじているといった思い込みの武道であると言える

日本には江戸時代以前から、支那、朝鮮から仏教、儒教、道教なる思想哲学が輸入されていたが、その影響から、諸方に対し道号なる呼称を用いたがる傾向が顕著に感じられる節がある。人の上に立つことを目的とし、尊敬と畏敬の念を得るために道号で飾り付けたがる。何でも道なる呼び名を付ける習慣が日本民族に取り付いてしまったのである。(「これを、朝鮮被れ支那惚けと申すのである。腐れ儒者とも言われる」)

道とは短くて呼びやすい神秘的な漢字ではあるが、江戸時代には儒道、仏道、新道、道家、医道と善悪、上下、貴賎、貧富と総て二説を立てる教門の私法であり、「私くしの道」であったと道とは「人間の食道」に当たる。「知恵の偏った怠け者」と一喝した学者が日本にいた。時の人、江戸時代の八戸の町医者である安藤昌益は統道真伝に書き残している 。食う為の手段であり金銭を目的とした呼び名であった。 安藤曰く、道とは本来自然の進退を指す、と書き残している。簡単に言えば農耕、漁労、林業などの職業人をその道の達人であると説明している。自然には山道、林道、農道、海道、風道が付帯する「働かずもの食うべからず、人間みな平等」であると、そう言いたいのである。

 日本の道号は、時の支配階級に接近する目的のために利用した道学である。この為に道の呼び名が氾濫する。人に敬われ人を見下すための偽りの処世術であった。太平の世の江戸時代に武士道が廃れ旗本八万旗は武芸を忘れ、武道家という言葉が希少価値として書物に書き記されてきた。如何に武士の中に本来の武士の姿を見出す事が出来なかったかの左証であろう。そのために文武両道なる二本の道だけが一人歩きした。「葉隠武士道曰く、武士は死ぬ事を見つけたり」死ぬにも二つの死があった。私憤で切腹か、大儀で切腹か、前者が小忠義、後者が大忠義である。私闘なら最悪である。御家断絶の憂き目であった。


日本道とは二つの解釈ができる。憲法第九条がそれを表している。世界平和を目的として武力を放棄する。一切の抵抗権、自衛権を放棄すると、目的の世界平和が達成されない時はどうなるのか、武力は放棄されないのである。是と同位置で戦後の平和主義では武道で、戦前の殺伐とした時代は武術であった。マスコミにおいて古武術ブームが到来している今日において、武術を武道として社会的に同義語に定義してしまっていいのであろうか。剣道と剣術が違うようにまた柔道と柔術が違うように、真剣居合術と居合道が違うように、武術と武道を別の言語とするか一体として同義語に定義してしまうのか意見の分かれるところである。

剣術では命のやり取り、生き残るための種族闘争の闘争術でルール成る物は存在しなかった。ただ、危険を避ける為に寸止刀法、さらに新影流の袋竹刀などで実践剣術を研究し、柔術と連結していた。歴史は古く中世古代まで遡ることが出来る。 剣道は指定の時間と引き分け延長があり、右足踏み込みの面小手胴突き、左足踏み込みの技は一切勝利のポイントとはならない規則としてしまった。竹刀は軽く三百から四百グラムで長さも決まっている。そして真剣では出来ない二度・三度振りが可能だ。剣道は薙なたに勝って始めて剣道といえる。現代剣道は、右手主体の竹刀速当て競争である。われわれは日本文化の剣術と剣道の選別をはっきり区別しなければ成らない時期に来ていると思われる。

術は文化省で管轄し、道は文部省で管轄されるべき物である。柔術と柔道も全く違うのである。柔術は実践を想定し、胴着に袴を着用して技を掛け合う、柔道は胴着にズボン(パッチ)を履く業は技と呼ばれ、投げ技は似ているが危険度は柔術の方が数段上である。柔術の関節技、逆技、捩り。捻り、当身(白手)においては柔道では全て反則業に適用される。柔術とは甲斐実践用の組み討ちに考案された殺略を目的として敵の命を奪う戦闘術である。 術は実践、無の境地、誇りである。道は机上の空論だと、プロシャのクラウゼブィッツハ戦争論に書き記す

居合術においてはもともと声を出さない、声を出すの起源は百姓、郷士剣法に由来するのである。恐怖の裏返しであること良く認識し、現代武道家は気合について考察すべきである。奇声は一歩間違えば精神病院行きである。はったり気合は神秘性が欠落する日本文化の沈黙の掟である内なる精神、品格品性をも失う恐れがある。現代日本武道は内面的精神を失ってしまい外面的文化を模索してしまった。匠の精神工房の精神を忘却している。日本の軍部官僚はこの奇声を初年兵教育に取り入れ気合が足りないと扱きの雨霰で鍛え捲くった。高等監獄と陰口を叩かれた。田舎者が更なる田舎者を気合が足りないと扱った

道とは一直線、ただ一つの道であり、専用道路の道であり袋小径の世界である。一歩道に凝り塊たまった戦術戦略であった。 武士道新渡戸稲造の著作は廃刀令以後に書かれたもので、武士は勇者の責任を果たす。現代で言えばエリートの責任、日本を代表する政治家、官僚、文化人マスコミらの国家国民に対する社会的責務を果たす役割を示唆しているのである。日本の武士は明治維新と共に武士の特権を放棄して野に下った。抵抗勢力は敗北を認めたのである。これが稲造の武士道である。稲造が武士に送った挽歌の書物である。稲造は最後に武士の偽者が氾濫すると予言して心配している。著者が著す術と道の使い分け、道が偽者で術が本物であると言いたいのであるが、マスコミの古武術ブームで術の偽者我流剣法者が現れ始末に負えない今日。歴史認識は消え失せ、報道マスコミが取り上げ、奇抜さを売り物にして食道の糧に心血を注いでいる。まさに虚道の世界である。先人の命を懸けた真剣刀法の真髄は踏みにじられ山師刀術を古流剣術と宣伝し、古武術愛好家を迷路に招き寄せる。無知なる現代人を遠回りさせ無駄なる時間を浪費させる。百害あって益なし。

術とは総ての道、知性と道徳、術と業において、敵人の攻撃に対する防御と護身を兼ね備えていなければならない、武の伐を止める字の如しである防御にも知性と武力の二つがいる。知性とは、世界の歴史と祖国の歴史を比較分析することが涵養である。外交とは歴史認識の記憶である。我が国の武道家は歴史に疎く体育会系は文科系に疎んじられ心の隅で軽蔑されて来た。特に現代武道家及び日本の精神といわれる真剣、或いは武士の魂であると言われる日本刀に対する知識が欠け落ち、拵(こしらえ)と白鞘の区別が就かなく、危険この上ないのでここに白鞘と拵えについて考察しておく。

武道家を名乗る道学者は、能く能く認識しなければ滑稽この方無しで、日本武道の信用失墜を招く恐れがある。白鞘で剣舞を舞い、居合の物真似を弟子に指導するは、これ愚鈍先生なり。汗で柄は滑り、手の内より擦り抜け飛び出す、鏡を割り、床は傷つけ、公共施設の損傷に行き着くのである。パジャマ剣法と呼ばれる所以である。判りやすく断言すれば、術が拵えで白鞘が道と思われてくる。竹刀術と真剣術の隔たりの大きさを実感することが出来ない今日の剣道愛好家は、哀れであり滑稽である。
 真剣居合術から見る竹刀術は子供の時から、背中に密着した竹刀の降り方を指導され、真剣術で悪癖と指摘される二度振り三度振りを稽古に取り入れ武道としての姿形を見だす事が出来ない、日本剣道の怠慢がここに歴然する。日清・日露戦争で活躍した単発田村銃(三八式歩兵銃)を、四十年間も改良せずに大東亜戦争の敗戦まで使い続けた日本軍官僚と同等の知性の愚鈍さである。

 剣豪宮本武蔵は、「真剣は少しずつ重たくしなければならない、よくよく鍛錬すべきである」と五輪書にて書き伝えている。「石火の打ち、紅葉の打ち」曰く、敵の刀を簡単に打ち落とすことが出来る。当流二代目田宮平兵衛は、「手に適いば如何ほどでも長き柄を用うべし。柄長きは八寸の徳」と伝えている。重き刀を使いこなすのは業の内、長き刀、柄もまた術の内に入るのである。術は実践、実践は無の世界、術は民族の誇りなり。
 道とは歴史である、歴史とは道である。戦前は皇国史観で、敗戦後は懺悔史観が王道としてまかり通り、教育は敗退して国家は行詰の道、目の前の悪に対し、なす術もなく、社会正義は忘却の彼方へ消えてしまった。誇りとは草莽の正義である。



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今朝の朝餉は大辛味ライスカレーに生卵と福神漬け、カレーライスではないのが玄旨
本来はライスが左、カレーが右で食するが、米の飯(ライス)を上位にして写す

「術と道」、いろんな人がアレコレと論じていなさるようだが、私はそんなに複雑に考えていない
突き詰めれば「ライスカレー」であろうと一人合点している、術はライスで主食、道はカレーで添え物
ライス、つまり米の飯、それだけでも十二分に食えるし、体や命を支えてくれる「主食」である
カレーは、栄養副材や米食を進める補助にはなるが、それだけでは飯にはならないし、沢山は食えない
カレーには材料と調理が要る、最近では「トッピング」と称し肉や海老のカツ等々と金が掛かる
それに何より、味加減の薀蓄がつもり重なり、有名店なんぞと持ち上げファンが並んで待つ今日この頃

学生時代のこと、「飯」あるいは「ライス」とだけ注文する奴が多かった、丼か皿かの違いだけだが
それにソースを掛け、貪り食って、金が有れば「オカワリ」をする、食堂の女将は笑顔で漬物をくれた
日本のカレーは大阪で生まれ、全国に広まったものだそうだ、我々の子供の頃はご馳走の一つであった
当初の家庭カレーは、飯をおいしく食わせるために野菜のカレーを掛けるだけであったと記憶する
が、子供心にカレーの日は嬉しかったものである(カレーの中に肉片があるのを見つけた時は歓喜)
そころがそのカレー、肉や鶏・魚介の食材だけでなくトンカツ・エビフライ、更には牛ステーキまで
主食の米飯より安価に出来たカレーが、今では米飯の幾倍となってもまかり通っているようだ
まして、カレーの専門店に至っては、米飯の十倍以上の値段に設定され、薀蓄書きが飾られている

私はカレー料理が好きで、自分でもそれなりのカレーを作るし、カレーの専門店にも足を折々運ぶ
つまり、カレーが憎い訳でも、嫌っているわけでもない、「術と道」の話の例えである
ある書き物の中に「術と道」のことを道破された(と私は思う)文があったので、次回に引用したい

その書でも触れられているが、「道」が真っ当に「求道」の精神の進むなら私も賛同し、学ぶとする
そして、その多くの「道」なるものが、やがて食う糧に替わっていくのも、容認できるところである
だが、「食う糧」を企業化形態にして、宗教的な似非身分制度にしてしまうことを遺憾に思うのである
この流れも元になるのが「道」、それが「似非道」へと変質するのであるが、多くは見過ごされている
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日本拳法大学選手権大会の二日後の昨日、他大学の日本拳法部の主将ながら親しくさせてもらった先輩から喪中の知らせが届いた
御本人が自ら認めた「エンディングレター」であった、電話もメールも出来ないので、無断掲載させてもらう
まさに武人の辞世の文である(原文は縦書き)



喪中につき年末年始のご挨拶は謹んでご遠慮申し上げます
故中野哲夫は生前何かと可愛がって戴いたみな様一人一人に会ってご挨拶することが筋では御座いますがご無礼は承知でエンディングレターにさせていただきました
二〇〇二年四月八日肺癌告知を六月二八日左肺全摘出二〇〇五年八月一四日ラジオ波焼杓二〇〇七年五月九日右肺上葉摘出その後放射線治療 抗癌剤治療 分子標的治療(イレッサ タルセバ)と粘りに粘ってしてまいりましたが悪運も遂に途絶え 二〇一三年一月より緩和治療へと相成りました
二月一八日には入院となりますが講釈が言える時にパソコンに向いレターを認めています
中国韓国北朝鮮イスラム原理主義オリンピックワールドカップと気になる事が多くありますがその後のことはあちらで教えて下さい
待ち合わせ場所 時間はメールしておきますので五分前の精神で集合しましょう
どうしても都合がつかない人は後日改めて取り決め致しましょう


原文通りにキーボードを打った、指先から故人の思いが伝わってくる気がする
中野先輩、やすらかにお眠りください
五分前精神のこと、厳守致しますのでメールをお待ち申し上げます

合掌
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江木さんから写真が送られて来た、あの改良されたボケ(木瓜)の花が使われた作品である
但し、この写真を横にするPC技術は私にない、首が痛くなるがご勘弁頂き度
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三月頃のブログに載せたミモザ、フサアカシヤのフランス語の俗称だが日本ではそう呼ばれているとか
本来はオジギソウをミモザというらしい、本来のミモザの木はピンクの花のネムの木を指すそうだ

アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
夜が明ける 日がのぼる
朝の光りのその中で
冷たくなった私を見つけて
あのひとは
涙を流して くれるでしょうか


アカシヤの雨って、どんな雨?
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札幌のアカシヤ並木の白い花、実はニセアカシヤと呼ばれている種類だ
「この道」に詠われているアカシヤの花って、どんな花と聞かれたので掲載

だが、白秋の「この道」は北海道旅行の中で詠んだものなので、歌詞のアカシヤの花とはこの花だろう
三月頃のこのブログで掲載した「ミモザ」はフランス語のフサアカシヤのことなそうだ
本アカシヤは日本では関東以北では見られないと聞く、「アカシヤの雨」とはどんな雨かは知らない
だが、西田佐知子はエエ女であった、あんな旦那では勿体ない、と私は思っている、のだが・・

さて、前回の続き、「日本拳法大学選手権大会」でのある話
大会は三〇校余りの大学が出場して、四ブロックに分かれ、各ブロックの勝利校同士で準決勝戦となる
七人制の勝ち上がり式、いわゆるトーナメント方式であるが、我が母校は昨年三位でシード校となった
今年は優勝かということでOBも多く集まって応援したが、準々決勝のブロック決勝戦で敗れ去った

話は、私の前の席に居た十年ほど前の主将を見つけ、声を掛けて彼の近況を聞いた中で耳にしたこと
彼は理工学部で、卒業してすぐ国立大学の医学部に入り直したという変わった経緯を持つ男であった
闊達で明るい武人派なので、私は彼に武家茶を習うようにように勧めたが、彼は大学の茶道部に入った
理由は、そちらの方が「可愛い女の子が多い」とか、オヌカシであった

その彼、去年から大阪の病院に勤務していて、結婚もしたと云う
結婚相手は同じ医学部の同級生?(歳は違うはず)で、その娘の実家は芦屋 の六麓荘で親も医者だとか
その実家近くに住んで、相手の親御さんからは大事にされ可愛がってもらっていると笑顔をみせる
では、奥さんを連れて観戦に来たらどうかと私が云うと、彼は二回連れて来たがヤバイので止めたと云う
理由は、日本拳法の会場や試合の雰囲気、選手や応援者たちの様子と醸しだす野生の臭い
それに加え、彼の現役時代のことを周りからさんざん聞かされた彼の嫁さん
帰宅後、嫁さんは不機嫌になり、喧嘩をするハメに陥るので、もう連れて来なくしたとのこと

私は、ムベなるかなと彼女に同情しきりであった、芦屋六麓荘育ちで、国立大医学部へ進み、親も医者
日本拳法では、試合前には闘争心を煽るため、面同士をぶつけ足を踏み鳴らし、大声で雄叫びを挙げる
試合は、ド突き合い、蹴り合い、投げ付け踏ん付け、度毎に野獣の形相で奇声を発し、闘うのである
私は賛成しないが、ガッツポーズも多々見られるようになってきている、まさに格闘術の世界である
そんな場面を目の当たりにした彼女、恐らく唖然・愕然、そして悄然としたことは、想像に難くない
自分の生涯を共にする伴侶、敬愛する彼氏が、「こんな連中・輩ども」と同じであったとは・・と

思うに、彼女は「剣道」の試合やその雰囲気を意識しながら「日本拳法」の試合場に来たのであろう
気の毒とも云えず、物事の本質を見なされとも云えず、イヤハヤ、苦笑いするしかない話であった
確かに、剣道はカッコよく、美しさがある、そして礼儀正しい、然し剣術には組打ちも蹴りもあった
「術」と「道」の説明はやや小難しそうに思えるが、実はそうでもないと私は思っている
が、「日本拳法大会」でのこの話、何となく入り口論になる気がしたので書いてみた

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伊賀の「鍵屋の辻」ピンボケ写真であるが、やはり掲載する
ウィキペディアには次の通りに記されている
>鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。<

この時の決闘、闘いは剣道でなく剣術であったと私は思っている
コメントである御仁から「道」の話があった、術と道の違いは色々云われているが如何なものであろうか
茶の湯が剣術で、茶道が剣道だというと、分かった気に耳に入るが、私にはスッキリとは腑に落ちない
私の思うに、術は術であり、道は道である、つまり全く違うものであり、比較対象にならないということだ
ある書の言葉、「格闘術とは、種族闘争の生き残りを賭けた闘術であって、そこにルールは無い」、至言である

「道」は、日本人の育んできた歴史文化の中に残して来た「思い」や「心」に根を持つものであろう
剣道、柔道、茶道、華道、歌道、芸道云々と、それなりに日本文化を現しているとは、私も思うところ
然り乍ら、「道」が云われ出すと、そこに異臭が入り込むのを感じてしまうところが私にはある
その「道」で飯を喰う、「道」を飯の種「営業」の仕組みにする「似非道屋」が私には見えてしまう
そこには、その本業に拘わる者だけでなく、周辺の人々が大きく拘わる少々異型な世界が生じるようだ

その「道の営業」のヒエラルキーに組み込まれ、金銭授受も全く無自覚で遣り取りする
さらに、箱書等の家元への謝礼や坊さんへの心付けという名の謝礼、殆ど極道世界の上納金システムである
その間に入る斡旋役なんぞの仕組みが芸道システムの形になっているようで、宗教社会の世界のそれである
つまり、「道」の成り立ちで生まれる上納の形と、宗教社会でのその・上納献金とに双子の感覚があるよう
一言でいえば、「疑似身分制度の成立と維持」である、極道やくざの領収書の無い上納金制度と似たもの

千家十職とか称される人達もそうだが、その千家十職というのは大正や昭和の百貨店催事の言葉である
伝統を価格価値に転嫁させることを平然とやって、「伝統」という名を創生していくということでる
そして、そのことが昔からの当然の仕組みであり、昔からの歴史だと錯覚させている
先祖代々、奈良で生きてきた大和人の私は、その辺の胡散臭さや歴史の作り様を面白く感じるところ

面白いと云えば、面白いことに気付いたのだが、芸術家は芸道家とは云われたくないようだ
美術家には、美道家という云う言葉さえ聞かない、華道が華術、歌道も歌術とは云われたく無いようだ
故に、それなりの矜持や自尊心が多少残るところである、まぁ、職人とは云われたくないのだろう
芸術家と自尊する人には先生と呼ばれたい心理がある、然し、工芸家には先生と呼ばれたくない人がいる
学者先生も多少この「営業」システムに入っている方達もいて、以前は「御用学者」とか云われていた

私には学者と云えは、奈良女高師の「岡潔先生」の生活、生き様を近くで見ていたのが学者の有り様
最近の茶道研究の先生方には、芸者然として「お座敷」の声が掛かることを嬉しがる方も多い様だ
そのような待遇・扱いを我が身の生き様としたい方々も増えているが、それは学者とは云えないだろう
真の学者と御用学者の違いは、高潔で品格ある貧乏(?)学者であるかどうかが、ひとつの目安となる

「術」と「道」、このことの笑い話を昨日の「日本拳法大学選手権大会」で耳にしたのだが、次に・・

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最も衝撃を受けた花、全体像を撮ったつもりだが画像が無い
この花、ボケ(木瓜)の改良種だとか、花びらが大きく、色は淡くなっている
ボケが改良されるとは・・、吉報である、全体画像がどこに消えたのやら・・ボケの進化
進化は改良にはならないのだろうか、ボケ
お終い

※ 江木さんを紹介してくれた当流の女性から名前の連絡を頂いた
  江木淳人(えき あつひと)という氏名であるそうだ、失念失礼
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赤いのは「マスデべリア」とか、蘭の一種らしい、左には矢竹、上は「アムプライト?」とか何とか
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「梅もどき」と「寒菊」、寒菊の花はまだ開き切ってないので、パッと見には鍋材料の春菊
私がそう云うと、江木さんも「確かに、そう見えますね」とニコニコ笑顔
茶の竹花入は、上の部分だけを使うことは少ない、下部を使うことが多いので新鮮に見えた
梅もどきの葉はもう散っていた
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根元のポイントは葵(あおい)、横に五葉松が延び、立に延びるのはマートンとか(阪神のではない)
葵の上にはアンスリューム、そこから右に延びるのは花の名は忘れたがカタカナであったことは確か

江木さんのことは、以前にもこのブログで話したが、帝塚山大学の大学院で日本文化学究の御仁
当・上田流の茶を嗜む女性の紹介で知った、中々の好青年であるが、名前を失念した(ボケの症状)
この金土日の三日間、学園前のギャラリーで生け花(いけばな?こだわりがあったような)の個展をされた
江木さんは祖母の影響で花に興味を持ち、池坊大学で「生け花・いけばな」を学んだ御仁
写真を三・四葉掲載する、ただ彼の花や枝が立や横に広がっているため、全体像では花が小さくなる
花を識別できるサイズにすると全体像が入らない、まま、その辺りのことはご勘弁頂き度
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茄子(なすび)

一富士、二鷹、三なすび
曽我兄弟、赤穂浪士、そして荒木又右エ門、という敵討ちの序列
この二日間は柳生から伊賀辺りまで出掛けていた
伊賀では、荒木又右エ門の決闘の場、鍵屋の辻で休憩、その碑を撮ったがボケた
仕方なく、以前に撮ったなすびの写真を再掲するところになった

今日はこれから大阪難波の府立体育館まで出掛ける
日本拳法の大学選手権大会が開催されるのでその観戦である
その前に、学園前で知人の青年華道家の個展があるので、寄ることにする
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山査子(さんざし)の花、欧州原産のバラ科、五月頃に咲き、赤い果実は薬用にも食されるとか
花言葉は「希望」そして「ただひとつの恋」、なにか思わせるものがある
白秋は母からその名(さんざし)を聞いたのであろう

この道 <北原白秋>

この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ

この道はいつか来た道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲 ああ そうだよ 山査子(さんざし)の枝も垂れてる


ある御仁からコメントが入っていた
「道」を求めんとして師についておられるが、その師が弟子の悪口を云うとか
それで、師を変えたいが、狭い世界でもあり、悩んでいるとのことであった
そしで、この私・風翁はどう思うかとのことであった

私は、その御仁の文章とその内容を見るかぎり、「道」を求める云々でないと判断
その御仁へそっけない返答をし、その御仁の心証を悪くしてしまったようである
後に、その御仁から「道を教える人間でない」「人の上に立つ人間でない」云々
更には「妻のことをブログに書くとは一般以下」と数々の叱責を受けた
その御仁の云われること、多くは然りであり、私の言葉の対処には多少反省もしている

私の思いを云うと、大人の男の方に「茶の湯」というものを伝えたいだけである
「茶道」とやらには、関心も興味も持っていないし、「茶道」を云々出来る様な持ち合わせは無い
そして、「人の上に立つ」云々という感覚も意識も無い、一緒に楽しめるようになればいいだけである
申し訳無いが、その御仁の長引く投稿は削除させて貰った

白秋の「この道」、好い歌である、作曲は山田耕作
「道」は何処までも続くとか、全ての「道」はローマに通ずとか
奥の細道では芭蕉が咆え、故・島倉千恵子は道はイロイロとか
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このに三日まえに、近隣の平城西小学校の学童が秋篠川の河原清掃をしたようだ
桜並木の一本一本に自分たちの思いを五七五の句にして括ってあった

この四年生の句を見るに、今の小学校の先生の教育の在り方が見えるようだ
小学校教育では好いとしても、中学や高校、はたまた大学教育ではどうだろう
川の流れから教えるものは「自然を大切に」というだけのもので済むのであろうか

ボランティア活動の人々が機械で刈り取りして、草叢を小学生がゴミ拾いをしたようだ
お蔭で、河原はすっかりキレイになり、地域の市民活動と教育活動が合体した成果といえる
川原に犬の糞を残すなと看板を立てるとか、川縁をコンクリート固めるという自然感覚とは何だろう
それは、環境美観を守ろう(生活環境への人間の美感)と云う概念だと、直に子供に教える方が良い

刈られた草花、川岸の樹林伐採により消滅した秋篠のホタル、その事実を教えないままとして
「秋篠のホタルをまた呼び戻そう」と書かせての、伐採と草花刈りや河岸コンクリート敷きの「どや顔」
やはり、川はその流れと、岸辺の樹木草花の景観があってこそ、先人が見て感じた心が残されると思う
繁殖力や環境適合力のない日本在来の草花が野原や河原で衰退の一途にあるという事実が重くある
私は最近、それが歴史や郷土、故人への想いを浮かべさせるものだと思うようになった
今朝の散歩では秋篠川川岸で草花一本も見つからず、摘めなかった恨み辛みもあるが・・

先日、高校時代の担任の女性数学教師が入る高円山山麓のグループホームを訪れたことも話に重なる
その先生は生涯独身を通し、弟さんの家(即ち実家)にいらしたのであるが、認知症が進んだとのこと
この秋口にその弟さんがら、姉を認知症専門の介護施設に入れたと知らせを受けていた
昨日訪れると、車イス状態ながら、会話も達者で持参の饅頭もペロリと食べる健啖ぶりであった
私のことはもとより、高校の名も思い出せない状態だが、その明るい表情と口ぶりに心が和んだ

もう移転した校舎や、今は暗渠になった一条通りの菰川の流れを思い浮かべながら喋っていた
菰川とは、鴻池池や聖武陵から一条通りに沿って流れ、北奈良の文化を育んで来た川である
記憶はないと分かっている先生にアレコレ話しかけると、先生はニコニコ頷きながら聞いて下さった
私が教え子と知った介護士さんから、あの方は時々数学の教科書を読まれていると聞き、グっときた
先生をあえて「あの方」と呼ばせてもらうが、独身を貫き通したあの方の人生、私には言葉が無い
菰川の岸辺で快活に語っておられた姿と声が私の中に残っている間、私には先生がお元気のままである
思うに、先回に書いた中学の恩師のことと併せ、私は恩師に恵まれたものと感謝する

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昨日の稽古で使った白侘助、茶の椿の代表的なもの、侘助とだけで呼ばれることが多い

向うに写る軸は唐代の詩人・張継の漢詩「楓橋夜泊」(ふうきょう やはく)
蘇州寒山寺の石碑の拓本で、二十歳過ぎの頃友人と二人で寒山寺を訪れた
又もや、文が長いとお叱りを受けたのでこれでおくが、この「楓橋夜泊」の全文を載せておく
私の好きな漢詩でもあり、想い出でもある

月 落 烏 啼 霜 満 天
江 楓 漁 火 對 愁 眠
姑 蘇 城 外 寒 山 寺
夜 半 鐘 声 到 客 船

書き下し文

月落ち 烏 啼きて 霜 天に満つ
江楓(こうふう)漁火(ぎょか) 愁眠に対す
故蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到る


と、云いながら、昨日の稽古のことで追記
先輩は、この二か月濃茶稽古ばかりであったので、久しぶりの薄茶点前では濃茶点前と錯綜
新塾生は、これまで風炉稽古だったので、どうしても柄杓を逆さまにして釜の縁に掛けようとする
あれやこれやの、一日であった
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井桁(いげた)にした稽古炭

先日のこと、私が炭を調達していた柳生の炭焼窯の親父さんが倒れ、窯を閉じた
炭の手配に困った私は、柳生の隣で梅で名高い月ヶ瀬の親戚宅に炭を貰いに行った
それは、炭小屋の奥に置かれたまま四十年は経っている炭だったとは先の記事にした
ガスがまだ家庭に入っていない頃の日常炭で、火鉢・炬燵・カンテキ(七輪)に使ったもの

炉の稽古炭に使ったが、さすがに四十年の乾燥、直ぐ火が付き小一時間で燃え尽きる
つまり、一点前で終わりということで、点前の毎回毎に注ぎ足すことになる
残念ながら、形がバラバラで小さい炭故に、炭点前には使えない不便はあるが、贅沢は敵
炭は湯が沸けばよく、湯は茶を服すればそれでよい、と割り切ることにした
それで一工夫したのが、井桁に積み上げるやり方、下部に空気が通り、火もよく付く

ところで炭、楢(なら)樫(かし)椚(くぬぎ)なドングリのできる硬い木の黒炭が好まれる
中でも池田の椚で焼いた炭は、池田炭といって茶の世界では重宝されている、依って高価だ
焼き鳥屋で名高い備長炭という白炭は音色がよいが、扱いずらいくて茶の湯には使わない
他に成型炭があり、オカクズやヤシがらを固めて炭化し、成型したもので、豆炭・練炭である

因みに奈良の名物でもある墨は、炭の仲間でも親戚でもない
菜種油を灯す燈芯から出る煤(すす)を膠(にかわ)で練り固めたものである
燈芯の多くはイグサの芯を用いるので、イグサ(藺草)を燈芯草とも書かれるようだ

閑話休題、
今日の炉稽古に使う炭形、井桁(いげた)炭と命名した
池田(いけだ)炭の向うを張った思いである、何と云っても価格が段違い
再度云う、炭は湯が沸けばそれでよい、この四十年炭を使うと、臭いも無く湯が沸く
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すっかり色付いた近所の柚子(ゆず)の実

風炉から炉に替わる季節の目途として、「ゆずの実が色付く頃」とされていた
どういう訳か、最近では立冬の日を以って炉開きの日とされる方が多い
確かに、果実の色付きを見るよりは、日取りがハッキリ決まっている方が都合はよい
近年のように、異常な暖寒となる季節が続くと、暦の日取りで事を進める方が無難である

それにしても今年は、寒い冬から暑い夏へ、そしてまた寒い冬へという季節の移ろいである
私は、十月末まで夏着物で過ごした、稽古も皆さん十月一杯は浴衣に袴の装いであった
十一月十日の炉の茶会への参加が決まったのが九月末であったので、十月始めには炉を開いた
従って、今年は真面な炉開きの茶事もせず、茶事稽古の形で文字通り「お茶を濁した」

炉は、囲炉裏を茶室に設えたもので、村田珠光の四畳半の茶囲いがその濫觴(始まり)とされる
今では、炉縁の寸法は外法で一尺四寸四方、高さ二寸二分五厘、天端一寸二分五厘、面取二分五厘
炉壇の九寸五分四方を原則とし、田舎間(江戸間)の炉は一尺三寸四方とするが、これも好みで違う
炉の一尺四寸とは、本間畳六尺三寸の九つ割りの二つ分、即ち63寸÷9×2=14寸となり、一尺四寸
炉に据える五徳は、床爪の反対側の縁を炉壇に付けて据えると、釜は真ん中に収まるとされる
然し、存外に五徳の大きさもマチマチであり、五徳の据え付けには度毎に合わせることになる

そもそも、五徳(ごとく)とは、囲炉裏の自在に吊られた鍋釜や火鉢の鉄瓶の受け輪の竈子(くどこ)
その「くどこ」の輪と爪を逆さまにして使ったことで、「ごとく」と呼んだ洒落の呼称である
そう云えば「ふぶき」という茶器、「雪吹」と書いて「吹雪」とは真面に書かない
昔の茶人や文人、逆さま言葉を使う今風の極道家業感覚の持ち主が多かったのだろうか
五徳を土・木・金・火・水の五つの徳とか、仁・義・礼・智・信あるいは温・良・恭・倹・譲の徳目とか
解った気に、徳にこじつけたがる坊さんよりは、まぁ、臭みは少ないと云える

さて、明日は新塾生には炉点前稽古ととなるが、半年前にした炉の盆点前、記憶にあるように祈る
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ホトケノザ(仏の座)、シソ科踊子草属、秋に芽生え早春に花が咲く日本の在来種だが小花が咲いていた
よく似た姫踊子草は花が短く葉に半分隠れるように咲くが、仏の座の花は、葉の間から立ち上がっている
同じものと思っていたが、姫踊子草は明治中期に入って来た帰化植物で近年日本各地で繁殖している
春の七草のホトケノザは黄色のキク科で、名前が同じなので間違われるそうだが、写真の方が不味い
因みに仏の座とは、その葉が仏像の坐する座と似ているからということらしい

それはそうとして、今日は「仏の座」の花のことでなく「座」のことである
写真をよく見てもらうと、ホトケノザがタンポポの綿帽子の座を押しのけているのが分かる
先の茶会に来られた「ごんぎつね」はんは、女衆ばかりの席に入ってしまった挙句、正客の座へ
毎々、茶席の坐る位置、つまり正客の座に誰が坐すかで小うるさい押し問答の光景を見るのである
流派が同じなら序列高位というか高齢の先生がせがまれ坐すことになるが、他流が入るとひと悶着
「どうぞ上へ」「私なんぞはいけません、そちら様こそ前へ」「いや、あのお方に・・」とまぁ、延々
その時、中に男の人がいたら災難、大概は「男性の方に坐ってもらいましょう」という話に落ち着く
茶の心得や経験の有無に関係なく話を進め、男を主席に坐らせて、オバはん族はすまし顔で見ている

そんな魑魅魍魎の女衆二十人余りの席に「ごんぎつね」はんが男一人で入られたのであった・・
案の情である、床の間の前の一番席、つまり正客席に一人ポツネンと鎮座させられておわした
しかも、その席は「濃茶席」、やや作法や小道具を入用とする席である、小意地の悪いオバはん族
さて後日、「ごんぎつね」はんからメールがあった、その中の一文、無許可ながら掲載する

>昔、茶道をやっていた母に話したところ、正客のゆずり合いに
巻き込まれたら、あかんのにって言われました。
ゆずっているけど、内心は自分が一番行きたい現れだそうです。<

ごんぎつねはんのご母堂、さすがの慧眼、孟子の母を彷彿させられるところ
私もこの「正客席のゆずり合い」にはホトホトを手を焼くことが多い、つまり時間の無駄である
ある時、金沢での茶会の席のこと、長引くゆずり合いに業を煮やした私が、つい口にした言葉
「こういう席のゆずり合いは『田舎の関取』というて笑われまっせ、エエ加減にしなされ」
つまり、「江戸の大関より地元の三段目」という田舎の相撲話のことである
金沢は立派な茶の文化を育んできた町で田舎ではないとは、百も承知ではあった
まま女衆の群れとは、男の一喝に素直なもの、皆イソイソと云われた通り座に着いたのであった

ホトケノザ(仏の座)の花言葉は、「調和」だそうな
それぞれ「座」に着き、「静謐な調和」を醸すのが濃茶席の味わい
ごんぎつねはん、お疲れでおました
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姫蔓蕎麦(ヒメツルソバ)、ヒマラヤ原産、花言葉「愛らしい」、金平糖花とも呼ばれている
金平糖はポルトガルからの外来菓子ながら日本に根付いており、野点用の茶箱に収められている
ヒメツルソバの愛らしい花が金平糖に似ているからということであるが、金平糖も愛らしい菓子だ

このヒメツルソバ、「どや、わては愛らしいやろ」という「どや顔」はしていない
私は、茶会でよく見かける「どや顔」には辟易することがある、いわゆる「見たか茶」である
「どうじゃ、見たか、この道具」という道具茶のしたり顔のことである
武野紹鴎の遺文に、門弟への法度としての中にある言葉
「道具を専らに茶の湯いたし候は甚だ不宜事」、そして
「数寄者は捨れたる道具を見立て茶器に用候事、いわんや家人おや」とある

村田珠光は「よき道具をもち、そのあぢわいを知り」いう言葉を『一紙目録』に残している
だが、紹鴎はここで「道具を専らに茶の湯をする」ということを、警めているのである
善い道具を見極めて、道具を大切にすべしという心を、道具を財貨とした世相への苦言であろう
山上宗二がその記の中で、名物や名器に銭幾らと書いていることからも、世相はそうであったろう
しかし、その宗二も「数寄者」と「茶の湯者」という二つの観念を分けているようである
私流に云うと、名のある高価なものは銭さえ積めば誰の手にでも入るものである
しかし、路傍や河原、野良具や井戸端のものに、気が注がれて、それに手を入れる道具もある
宗二は、前者が「茶の湯者」で、後者が「数寄者」であるという見方をしていたようなふしがある

長々と茶論の講釈をする気はない、先の茶会で少々ウンザリしたことを記している
「会記は無いのですか」という声を幾人から耳にした、まま、今ではよく聞く話である
然しながら、当・上田宗箇流では「会記」、つまり道具書きをして出すという習わしは無かった
更には「箱書」、つまり道具の箱蓋に書かれた「品定め」を客に見せるということも無かった
もう一つ更には、茶席の会話でこちらから、つまり席主から出した道具のことを語ることは無かった
ただ、この二十五年ほど前から京都で茶席を持つようになってから、要望が多いので箱書は出している
と云っても、裏部屋の片隅に置くぐらいで、その講釈をあれこれすることはない

先日には「どうして上田さんは、ちゃんと会記を出したり、箱書を見せてくれないのですか?」
「不親切であり、茶会の仕来りを知らないのか」と、謗られているような物言いに聞こえた
私は「当流では会記や箱書を出す仕来りは元よりありませんので」と云うように皆に伝えた
本音のところを云うと「道具をこれ見善がり見せての『どや顔』は趣味でないので・・」、である
まして、褒めて褒めての会話が茶席の問答になっている昨今の茶会風潮は、「数寄くない」
「道具茶」になることは、茶の湯をあらぬ方向へ進めるものと私は思っている
「どや顔」という次元でなく、そのものを愛で楽しむ「愛らしい」道具話なら大いに歓迎ではある

もしかすると、持たざる者の「ひがみ茶」なのであろうか・・
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絵柄模様の京焼茶碗、この季節によく使われる菊枝だろう
2013.11.13 茶碗のこと
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先月にあった石州三五〇年忌の古石州流濃茶席で使われた主茶碗、高麗もので銘「老匠」
敷き帛紗は私の「上田桐銀襴」で、写真を撮るのに臨時で敷いたもの
私の携帯写真では地肌が今一出せてないが、「老匠」の名に相応しい味わいがあった

先日の織部忌の武家茶道三派茶会でも、残念ながらと云えば語弊があるが、九割以上は女性客であった
恐らく、千家の方が大勢来られていたようで、「絵柄の茶碗は使わないのか?」という質問が二・三あった
その辺りのことを私の拙い知識ながら少し話すと

茶の湯の茶碗は、形よりは、焼物の種類で分けることが多いと云えそうである
村田珠光が茶道具に「和漢之さかひをまぎらかす」と云うことがその嚆矢(はじまり)となったのだろう
濃茶茶碗は高麗ものが主流だが、他に萩焼、唐津、瀬戸、織部などの大振り厚手のものが使われている
千家さんの濃茶では、無地の楽茶碗、大樋焼も使われているようだが、武家茶道各派では余り使わない
濃茶は茶の本道であるがため、伝統的に渡りものや荘厳・重厚な風格ある和ものを使うようである
最も格式の高い点前では、唐ものの天目茶碗、次に和もの天目茶碗が使われることになる
楽焼きそのものは、千家お抱えの今ものの焼物、という思いが武家茶道にあったのであろう

また、千家さんの薄茶の茶碗は、艶やかな色絵の京焼や有田もの、楽茶碗でも絵をつけたものが多いようだ
恐らく、千家による明治以降の女性茶道の普及、女性のお稽古事としての茶道の広まりがその理由であろう
当・上田宗箇流では、薄茶の主茶碗に楽焼を、替茶碗に京焼も使うことがあるが派手な絵柄ものは使わない
が、当流は場合によっては濃茶でも無地の当家庭焼の楽風茶碗を使うこともあり、割合に道具には自由だ
他の武家茶道では、楽焼そのものを使わないところもあるように聞いている
また冬には、湯がさめにくい背の高い筒茶碗、夏には湯のさめやすい平茶碗・馬盥茶碗を使うことがある

という訳で、今回の武家茶道三派茶会と銘打ったものの、お客の大半は千家さんの女性かなと感じた次第
そう云えば、受付やお客の整理も千家さんの方が仕切っていらした様子であった・・


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京都市上京区の興聖寺にある古田織部の墓石、読み辛いが下部に金甫大居士とう文字があった

織部寺といわれる興聖寺での、織部法要の武家茶道三派茶会を無事終えた
昨夜の帰宅は二三時、今朝七時までグッスリ眠った
残念というか、無念であったのはその「無事終えた」ことである
即ち、「粗相」の場面が無かったのだ

茶会に向けての稽古では、粗相への対応をあれほど念入りに幾度も行ったのに・・
幸か不幸か、その稽古の出来映えを披露する場面が無かった
私は、何かひとつでも「粗相」があって欲しかったのが本音であった
終わった後で、そのことを云うと、点前を担当した卒塾者の方が曰く
「そう云ってもらっておれば、ワザと茶巾を落とすか茶筅を倒したのに」
打ち上げの酒を一杯飲みながらの余裕顔で、ノタマッタのである
奈良に戻ると、卒塾者の奥方衆が「タラ鍋」を用意して待っておられたのだ

昨日は四時半起きの六時出発だったので、ブログは数行で時間切れとなった
カレーに生卵を入れないという江戸の御仁に対し、「物の食し方を知らないね」と私
すると、「蕎麦に青ネギを入れる方々に云われたくない」という車中論争の話であった
さてである、「タラ鍋」のタレの取り碗、その江戸育ちの御仁、あろうことか
碗にポン酢を注ぎ、「青ネギ」をシッカリ入れていなさったのである
江戸では、かつおのタタキも濃い口醤油にワサビで、ポン酢なんぞは使わない
と、まあ、おぬかしノタマワレておられたのに・・

そしてもう一つ、茶会には「ごんぎつね」はんが覗きに現れた
2013.11.10 カレー論争
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カレーの隠し味と玉子

昨日の京都への行き帰りは東京出身の卒塾生の車に同乗させてもらった
車中、のっぴきならぬ話しなったのである
新宿生まれの彼はカレーに玉子を入れないという
そんな喰い方はなかろうにと、私は云う
2013.11.09 惜別
先の記事に「惜別なき日常」というコメントを頂いた
云い得て妙である、その文才に感じ入るばかり
ハナも頷いていた

惜別の歌

遠き別れに たえかねて
この高殿(たかどの)に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣(ころも)を ととのえよ

別れといえば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺(なが)むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目のいろも
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君が優しき なぐさめも
君が楽しき うた声も
君が心の 琴の音も
またいつか(注2)聞かん この別れ

2013.11.09 武と信
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「武」、所謂「会意文字」であり、その代表的なものが「武」と「信」とされている
有体に云えば、春秋時代の儒家の「こじつけ会意」という気がせんでもないが

明日は京都・興聖寺(古田織部の菩提寺)で、「武家茶道」三派の織部4百年法要の茶会が催される
三派とは、古田織部流・上田宗箇流・小堀遠州流で、織部の茶の湯の流れを汲む三流のことである
これから、京都まで出掛け、道具の運び込みや茶席の準備をすることになる

さて、「武家茶道」とは何を云うのか、その答えを明確に語る人に、私は会ったことが無い
精々、武将の茶の流れを汲む茶流とか、家元が武家茶人の系統・家柄であるとか
千家茶道は町衆の茶で、武家茶道は武士の茶だとかかんとか、ままこの話、取り敢えず今日は置く

「武」、春秋の儒家は「戈を止めるを武と為す」と講釈し、それが通念とされているようだ
然し、「止」と云う字は足のことで、歩くや進むという意味を持つという節もある
つまり、「武」とは武器を持って進む、つまり戦争・侵略に行くという意味だと云うこと
私は漢民族の歴史をツラツラ鑑みるに、どう転んでも後者の方が正しいと思われる
儒家は「戈を止めるを武と為す」なんぞと講釈をせねばならなんだ、というのが真相であろう
まま、「武家茶道」を説くには儒家に講釈の方が人の意に解し易いところではある

「信」、この漢字も代表的な「会意文字」とされていて、「人」つまり人偏に「言」で信じるの意とか
「言にして信ならざれば、何を以てか言となさん」とか儒家が講釈したらしいが、「信」じられない
「信」は人偏に言うということから「使者」或いは「消息」という意味に使われるとか、これは納得

今回の武家茶道茶会、上田流の床には流祖・宗箇自筆の「消息」、つまり手紙を掛けることにした
「武」と「信」、何となく「落ち」がついたとしたいが、今一つ
「武」という字は止偏(とめへん)に戈(ほこ)、何のことはない、戈を止めない「止めへん」のである
この「落ち」蛇の「止」、すなわち「足」・・少々苦しいかも
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朝の散歩道の秋篠川沿い桜並木、紅葉から枯葉、そしてあっという間の落葉である
今年の異常気象の為せるところかと思いながらも、我が身に沁みる

最近では、「別れ」の場面が人生から失われて来たように思う
汽車や車、飛行機という交通手段や電話やメールという伝達手段が整備された為であろう
それにより、所謂「今生の別れ」という場面の感覚が薄れて来たと思える
つまり、生きて会うのは今この時が最後という場面である
最近というにはやや古いかしれないが、特攻隊員を送る仲間、或いは家族が味わった思いだ

昔、奈良から私の母親の故郷である山口県まで夜行列車で八時間ぐらい掛かっていた頃
行けば、親戚の人達が集まってくれて「よう来なさった」と其々が声を掛けてくれたものだ
滞在も三日や五日はしたもので、その間は誰彼なしに何処彼処で会って時を過ごした
「別れ」の日には皆が駅まで見送りに来て、涙を見せながら「別れ」を惜しんでくれた

今では東京と大阪を一日で二往復したり、相手の映像を見ながらの遠距離会話
新幹線と飛行機、そして車で高速道を使っての移動が可能になった最近では精々一泊である
それも、近くに宿をとって、親戚や友人の家に泊まることは少なくなったようだ
そして、「別れ」には「今度いつ来る?また電話するからね」という笑顔の会話となる

汽車や車も無い頃の「別れ」は「一期一会」の感覚が心に沁みるものであったろう
また、移民船を見送る、見送られる人たちも一本のテープの感触に「今生の別れ」を込めたであろう
最近では、家族葬とやらが一般化しつつあり、故人となった友人との「別れ」もままならなくなった
「別れ」が失われたもう一つの流れに、家族から死人を出すことが減ったこともあるように思う

子供を失い悲しむ母親に、悲しみから救われるには、死人を出したことのない家を訪れてみなさい
と、釈迦に云われた母親が彼方此方を回ってみたが、死人を出したことがない家は無かったという話
今では、核家族や少子化、何より医学の発展ということで、家族との死別の体験が少なくなった
家族葬どころか、老人の一人暮らしなどの事情から孤独死も珍しく無くなって来た昨今である

紅葉から枯葉、枯葉から落葉、そして朽ち果てる様は、時代同様に加速している感がする
残り時間を考えると、あれもこれも出来ないし、あの人もこの人もと付き合うことも出来ない
これからは捨てて棄てて、そして、これだけはというものをシッカリ見極める時に入ったようである
最近思うことは、「別れに美学」を見つけ、人生の「別れ」を楽しめることが善かろうかと
茶で云う「一期一会」の意味合いは現在感覚にそぐわないものになっている、と私は思っている
それとなく、いつしか、涼やかに、其々の人に別れを告げて人生を終うということ、願うところだ

我が家の愛犬・ハナももうすぐ十歳、老犬の範疇にさしかかって来た

2013.11.07 鉄道花
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ヒメジオン(姫紫苑)、或いはよく似た別種のヒメジョオン(姫女菀)
鉄道花と呼ばれ線路や荒れ地に繁殖し、日本の在来種を圧迫しているらしい
昨日、野辺で摘み玄関に挿していたのだが、今朝からトイレの神様になってもらった
2013.11.07 野菊
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野菊、花言葉「無常の美」
草叢の小ぶりの枝に咲くのをヨメナ(嫁菜)、大ブりの枝に咲くのをシオン(紫苑)というそうだ
前に区別がつかず写真に載せたが、ヨメナは野菊の別名だともあった

私の高校時代のこと、友人が家の事情で奈良を出ていくことになった
友人は私に差出人住所のない手紙の束を託し、奈良から出してくれと頼んで去った
私が東京の学校へ行くことになり、彼に伝えると千葉の松戸駅まで来いというので行った
矢切の近くの家に彼は両親と住んで居て、私は一泊させてもらった
明くる朝、文学青年であった友人は私を矢切の渡しへ連れて行き、川原を散歩した
勿論、伊藤佐千夫「野菊の墓」の作品を偲んでのことであった
私もその気になって、その辺りの草叢で野菊を摘み、渡し場の水辺に手向けた

ここまでは、それなりの情感ある想い出となっていたのだが
ある時、気付いたのである、あの摘んだ野菊は本来の野菊ではなかったことを
ヒメジオン(姫紫苑)、或いはよく似た別種のヒメジョオン(姫女菀)だったのだ
鉄道花とも呼ばれるように、線路脇や野原で繁殖し、在来種を圧迫する要注意外来種であった
私はその花をずっと野菊と思っていた、つまり「野菊もどき」であったのである
何か、十代最後の頃の淡い人生劇場が何となく幕切れの悪い場面になったよいで、少々悔いる

石森延男・作詞:「野菊」は関東ヨメナであったそうな

1、遠い山から 吹いて来る こ寒い風に ゆれながら
  けだかく清く におう花 きれいな野菊 うすむらさきよ

2、秋の日ざしを あびて飛ぶ とんぼをかろく 休ませて
  しずかに咲いた 野べの花 やさしい野菊 うすむらさきよ

3、霜がおりても まけないで 野原や山に 群れて咲き
  秋のなごりを おしむ花 あかるい野菊 うすむらさきよ
2013.11.06 粗相
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粗相の事態、想定もしたくないのだが・・

この十日に迫った武家茶道三派の茶会に向け、昨日も稽古を行った
何分、濃茶の亭主点前ということで、会話を交えての点前となれば少々慣れが要る
客との会話に気が取られると点前が疎かになり易く、点前に気が行くと会話が疎かになる
ついつい、思いがけぬ粗相をすることが、昨日の稽古でも「判明」したのだ
よって、茶に勤しまれる訪問者への参考までに、私の粗相対策を載せることにする
ご意見歓迎

点前粗相のこと(十一月十日興聖寺・濃茶炉亭主点前)
〇間違っても慌てず次に進むこと肝要
〇茶杓を落とした時、そのままにして手の区切りで帛紗にとり終い拭きして、置き直す
〇終い茶碗から茶杓が落ちた時、水差の上の勝手側に斜めに置き、そこから常の拝見通り拭いて出す
〇茶巾が釜の蓋から落ちた時、そのままにして半東に交換を頼む、半東は茶巾皿にて替茶巾を持ち出し交換
〇茶筅が落ちた時、建水のカミに左手で立て置く、半東が替茶筅を茶碗に入れ建水のシモに置き、点前が左手で交換
〇柄杓が落ちた時、建水に伏せて置き、半東が竹蓋置と替柄杓を持ち出して釜蓋置シモに竹蓋置を置き替柄杓を引く、
亭主は替え柄杓を釜(或いは蓋置)に替柄杓を置き、建水に伏せた柄杓を竹蓋置に引き、半東が持ち帰る
〇粗相をした時には、片付けて後、失礼致しましたと一礼をする
〇他に想定外の粗相があったとしても、半東と連携して、平然と片付けるよう心掛けること
〇点前中の客との会話では、点前の手を留めないこと、それには顔を点前の視線から外さないようにすること
亭主点前に慣れれば、顔を客に向け答え、目線を床に遣って説明しながらも、手は進めているのが望ましい

半東のこと
〇柄杓、茶杓、茶筅、茶巾の替えを脇引き盆にのせて用意をする
〇布巾、羽箒、塵取り、茶入が倒れ茶がこぼれた時の替茶入を小盆に用意する
〇今回は、最初に半東が襖を開け菓子を持ち出し、「お取り下さい」と挨拶をして襖を閉める
〇茶碗と出し帛紗を取る時、終い茶碗を置く時は炉畳のシモ斜めに坐す
〇濃茶に湯を注ぎ足す頃茶碗と帛紗を取りに出で坐し、中水を張り終えた頃終い茶碗を出しに坐す
〇三客が飲み終えた頃、主茶碗を取りに出て「清めて後ほど出させて頂きます」と断り、持ち帰える
〇点前が襖を開けたままで坐に着き「お楽に」の挨拶があった頃、半東は襖の奥に坐す
〇点前が終わり、襖が閉まって後に、半東は改めて襖を開け、にじり出て主碗を置き、三器の横に並べて坐し、客と応対
〇適当な頃を見はかり、「次の席の用意がございますので」と退席を促す
〇他は臨機応変のこと、半東は茶席と水屋の連携の要であると心掛けること肝要

以上
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梅擬(うめもどき)、散歩道にある家の垣根から出ていた、モチノキ科とある
名の由来は、その葉が梅の葉に似ていることからで、花も実も「モドキ」とは無関係とか

さて、この「もどき・擬き」は偽物、まがい物のことである
非難・中傷することを「もどく」と云ったことが語源になったとか
それ故、非難する顔付を「もどき顔」と云うらしい

更にさて、私には絶好の碁仇が居る、和歌山に住むシステム産業の事業家である
その御仁とは、同い年で気が合うというか、三十年以上の付き合いを頂いている
私は還暦を過ぎてから囲碁を覚えたのだが、数年前にその御仁が囲碁の有段者と知った
爾来、明治節(文化の日)と端午の節(子供の日)に、その日の宴を賭けて対局している
昨日は一日遅れながら対局の日、対局は奈良と和歌山の相互でやり、私の四連敗中である
今回は奈良の地、満を持して臨んだが、一時間三五分、八八手目で立会人からタオルが入った
その立会人、奈良代表で全国大会に出てベストエイトにもなった御仁、私は静かに手を置いた

更に更にさて、宴の場はテレビ新聞で牛肉等食品偽装を報じられた料亭三笠の系列店
お品書きには、造りや揚げ物等があり、最後に何と「きのこと牛肉のすき煮」とあった
私は負けた悔しさと支払こっち持ちの無念さから、支配人にしつこく食い下がった
「シマアジや鯛は海の物か?、あやめ池の金魚ではあるまいな」
「海老はどういう物か?、秋篠川のザリガニではあるまいな」
「牛肉とあるが、モウモウとなく牛か?、最近ここら辺りで狸を見掛けなくなったが」
「あのなぁ支配人、『もどき』を使うてはアカンで、男なら、茶をやんなされよ」

支配人は、私の「もとき顔」に平身低頭しながら、辟易した顔で去って行った