無題
250キロ爆弾を抱え、敵艦に突入する海軍零式戦闘機
昨日は、半里の道を電動三輪車にまたがり、イオン高の原シネマの「永遠の0」を見に行った
原作ほとの感動が得られなかった、制作関係者の年齢の所為か現在の価値観混入を感じた

高山右近の三話である、私は今以って自由「フリーダム、freedom」と「リバティ、liberty」
この違い、どうも釈然としないでいるのだが、学生時代のある先生が云った言葉が耳に残っている
「フリーダムは行動の自由、リバティは心の自由、故に諸君の思いはどうあれ、今ここの席に就き、私の話を聞くのは学生の務めであり、身勝手な振る舞いは許されぬ、自由をはき違えてはならん」
そう云えば、ニューヨークに立つ自由の女神像は(The)Statue of Liberty、である
英国との独立戦争に勝ち、自由を勝ち取った新生米国へ仏国の送り言葉は「liberty」の賛辞であった

「自由」という言葉は福沢諭吉が仏典から借用して付けた日本の漢語とされている
当時の諭吉にも、「freedomとlibertyの概念の違い」が分からなかったのかもしれない
浅学ながら私が感じる、高山右近の生き様と茶に対する思い入れとは、libertyへの求道であったのかと

右近は、荒木村重のもとへ自分の妻子縁者を人質として置いたまま、村重を裏切り離反、逃走した
耶蘇教改宗を迫られた右近は明石六万石を捨てても、宗旨を変えず浪人の道を選ぶ
故国・日本をも捨て、慶長十九年(1614年)、フィリピンのマニラに渡り、翌年そこで没した(享年六四歳)
何かを探し続け、何かに追われ、何かの救いを求め歩いた「道」、右近は茶の湯の中で見付け得たのだろうか

日本の僧侶にも、全智全霊で「求道」をしたと云う話は聞く、鎌倉から室町にかけての[法然」や「明恵」
右近の神と求道へ向かい合うもの、それは耶蘇教故のものなのか、日本人故のものなのか、私には分からない
禅宗、それも臨済の僧が茶の湯と繋がり合うことへの蓋然性とその是非も私には解せないままである
来年には、その辺りの胸のつかえが取れると嬉しいが・・

好いお年を
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2013.12.29 傘付き三輪車
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傘とミラーを付けた三輪車
三輪車では雨の日には使えない、それに三輪車も車道、後方の車が見えんのでヤバイ
三輪車を貰っておきなが何じゃとかんじゃと愚痴を云った
すると、奇特な後輩が傘立てとバックミラーを取り付けに来てくれた
嬉しいが、街の名物チンドン屋になりそう
テレビ放映案内です

「谷原章介が迫る、秀吉が愛した武将茶人・上田宗箇」imagesCANY6YXT.jpg


関西地区・ABC放送
12月30日(月)早朝4時55分から5時50分

関東地区・EY、名古屋地区・メ~テレ
12月29日(日)早朝4時55分から5時50分

http://www.youtube.com/watch?v=ZxEIdujT7HE
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踏絵、十字架上のキリストを踏むか踏まないかで耶蘇教徒(キリスト教徒)を見分けた

高山右近の生まれ育ちを転記する

>高山右近父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。
そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はユストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。 <

右近は自分の茶庵を「南坊」と名付け茶号ともした、南蛮坊主という意味である
右近の影響で多くの武将や茶人も耶蘇教に帰依し、洗礼を受けた者も多かったという
日本で布教に当たる耶蘇会でも、茶の湯を必須のものとし、佳院には茶座敷を設けていたとか

秀吉・家康に重用されたロドリゲスという耶蘇会士が茶の湯の研究の書き物を残している
その要点を記すと
>数寄には、高価な道具を用いて巨費を要する本数寄と、貧しくとも出来る侘数寄とがある
侘数寄において重んじられるのは、清潔、鄙びた素朴な貧しさ、隠棲、孤独、閑寂、懐古の雰囲気、自然と人為の微妙な調和である
そして、その第一人者を「高山右近」であるとした(私見・キリスタンの身贔屓か)<

同じキリスタン大名で茶人でもあった、先述の織田有楽斎の右近への評価も残る
>高山の茶には大病がある、高山は所作も思い入れも良いが、清めの病があって露地は云うに及ばず、縁の下まで掃き清める、あれでは雅味が薄れて、かえって数寄の道にはずれる <

私には、頷ける評価である
右近は、その批判を承知していて、ゼウスの聖像を床に置いた茶室に籠り、一心に茶を点て喫した
そして、沈思黙考して天主に語りかけ、祈りと告解の場としたという
酸鼻を極めた大虐殺、武将としての力が足りなかったことで死なせてしまった家臣・縁者のことを、胸中に蘇らして、呻き声をこらえるのがやっとの思いに駆られたらしい
そして、何かに憑かれたように竹の箒を手にして、茶室の周辺をいつまでも掃き続けたという

その一方で、右近の領内では寺社仏閣への迫害が強く、多くの神社や寺が壊されたとも聞く
何か、精神的な偏りがあったのか、少々尋常ではない気がせんでもない
だが高山右近、この人ほど「道」に向き合った仏僧や茶人は少なかろうと思う
考えさせられるところである


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高槻城の高山右近像、昨日はクリスマスだった

人類史上、宗教ほど罪深い思想はないと私は思っている
原始宗教の生贄や人身御供ということも、世界各地で行なわれていたようだ
史上、我が身一家一族を守らんが為に、対立者を倒すことや戦争は繰り返しあった
然し、洗脳による殺人や集団殺戮を意に介さない行動規範を生む宗教とは何だろう
特に、白人キリスト教世界では、宗教差別と人種差別が日常社会に根を張っている
それにイスラム教徒の聖戦・ジハードの行動規範も血の制裁と報復の連鎖といえる
アジア・アフリカ・南北アメリカで白人キリスト教徒の犯した行為には、許せないものがある
ユダヤ教を本貫とする、これら一神教の持つものにはおどろおどろしいものを感じる
耶蘇教(キリスト教)の布教を禁じた日本の選択は正しい歴史判断であったと、私は思っている

茶会の席では、話題してはならないことの五か条がある
我が仏、隣の財、婿舅、天下の戦に、人の善し悪し
我が仏とは、自分の宗教観を人前に出すということである
よって、茶のブログでもこの五か条を心得るのが必定と考える
だが、それは宗教を自分の心の中にある、思いや信仰、祈りと心得る故のもの
仏を飯の糧とする 世帯仏法腹念仏や殺人殺戮を煽る類のものに、私は嫌悪感を持つ

利休の茶の7哲・10哲とか云われた武将の大部分がキリシタンであったこと
そこに「禅と茶は一体」と云う話との不整合を感じるのは私だけであろうか
高山右近というキリシタン武将の生き様、彼の茶に対する傾倒のことを鑑みて
次にそれが何であったかを考えてみたい
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卒塾者・青柳さんお手製の菓子、茶巾絞り
茨城のサツマイモに白あん
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濃茶を練る「かえる庵」庵主・佐藤さん

昨日は奈良三条通りにある「かえる庵」さんで納め釜の「そば茶事」があった
納め釜とは、弟子が師匠を招き今年の納めの釜を掛ける茶事である
卒塾者の方が、私を一応師匠としてお招き頂いたという有難い話
その場面場面を携帯で写したので、順の逆に連続掲載をする

この最初の写真は佐藤さんの濃茶場面で、本来はそば会席が終わった後のもの
つまり、中立ち後、画像Ⅹの青柳さんの薄茶の前になる画像である
画像を逆に掲載する方が分かり易いと思ってピクチャー保存の画像を取り出した
この濃茶の画像が他の一連から外れていて、後から見つかったので一番になった

茶事の流れは、冬季は「炭」「会席」、仲立ち休憩があって後、「濃茶」「薄茶」
昨日午前中の私の病院健診が長引いたので、先に始めてもらっていたという無様
「炭点前」が終わっての参加となった、師匠失格である・・
「会席」、念のために云うと、「懐石」とは江戸期の坊さん辺りがこじつけた話
本来は「会席」であって、多くの古文書もそうなっている
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庵主・佐藤さんから次客青柳さんへ「そば膳」が渡される
因みに、正客は私・・
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そば椀の蓋を取ると中蓋があり、中蓋はそのまま向う付けになる、右は具入りのそば汁
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飯器ならぬ、椀子そば盛り笊(ざる)、勿論そばは新物
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煮物椀、素材を活かした薄味はさすが
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「まま、ご返盃」と青柳さんから「庵主」佐藤さんへ
酒器は陶歴二〇年の青柳さんの作
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焼物は殻付きカキ、レモン汁を掛ける、広島直送便で来たもの
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箸洗い、そば湯にあられ入り、この趣向は初めて見るが粋である
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取肴(八寸)、赤コンニャクと一夜干しするめいか
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青柳さんの薄茶点前、茶器は「老松」
2013.12.23 ハナの礼状
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褥(しとね)のハナ、日本犬保存会の本名は「竹姫号」



 竹姫号様

 お名前を勘違いし、まことに申し訳ありませんでした。深謝致しします。柴犬用ドッグフードがあるか確認したのですが、阪神百貨店には置いていないとのことでしたが、シニア用で柴犬にも向くとの話で、それとやはり犬は本来狼なので、デンプンなどの糖質の物よりは、肉が良いだろうと思い、少し歯応えは無いも知れませんが、軟らかめのものも追加させていただきました。賞味期限が短いそうなので、ご留意の上、お召し上がりください。
 ご主人の風翁道人さまにも、ワンとか宜しくお伝えください。

 平成25年12月23日 hn拝



ドクターhn様

井谷家に棲まわる雌の柴犬、「竹姫」・通称「ハナ」にございます・「竹花」ではございません
来年2月で10歳になりますので、老犬の域に入って来ております
さすがにお医者様、シニアの主食に加え、老犬向けの栄養食まで贈与賜り、感激致しております
こんな高級食材は井谷家では口にすることはございません、本当におおきにワンダフルにございます
何により嬉しいことは、ご近所の方からジャコやおやつをもらうことはあっても、宅配便のお歳暮がこの私の宛名で届くなんぞ、かつてないことであり、随喜の涙(涎?)が零れ落ちてございます
犬の私めがお返し出来ることは何もございませんが、お目もじの光栄に浴したる際は必ずや「お手」をさせていただきます
ソフトバンクのアイヌ犬だけが人並みの犬ではございませんこと、分って頂けて幸せにございました

右、簡略ながら御礼まで
まだまだ寒くなってまいります、お聞きすれば御足がお悪いとか、お大事になさって下さるようお祈りいたします

合掌・ワンワーーン
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清水通りの八木酒造店の杉玉と清酒升平の四斗樽

酒の発祥の伝地である三輪明神・大神神社は酒神としても奉られている
それ故、杉玉は大神神社の御神体である三輪山の杉で作るそうである
本来は、酒神への信仰と祈りの印だが、今では酒屋の看板と思われているようだ

「極楽は 何処の里と 思ひしに 杉葉立てたる 又六が門」
一休宗純和尚の作とか云われているが、又六とは大徳寺門前にあった酒屋だと聞く
大徳寺の禅坊主はん達は酒を「般若湯」とか云うて、酒色の戒律を逃れていたようだ
まま、一休宗純はんは高貴な出であるが故、「極楽」を正直に見付けられたのだろう

更に一休宗純はんは、坐禅は眠たくなるので村田珠光に相談、茶を坐禅に持ち込んだとか
育ちが良い一休宗純はん、正直な人格というか堪え性が無いというのか、微妙ではある

酒の格言

「バッカス(酒の神)はネプチューン(海の神)よりも多くのものを溺死させた」
・・・ローマのことわざ

「白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり|
・・・若山牧水     

「酒は独居の友」
・・・読み人知らず

「ともかくも 飲酒運転 なされるな 後々辛い ものがある」
・・・風翁
然しではあるが、交通安全のお守りが何で酒神の「三輪明神」?
2013.12.21 奈良の通り 
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清水通りの菓子処岡崎松光堂の店前にぶら下がっていた看板
英語とハングルと漢字も書かれている
もう一年以上前からという話、よって「オ・モ・テ・ナ・シ」とは無関係

昨日は所用があり、奈良市の東側外れ春日大社南の高畑町まで出掛けていた、
昔の奈良三八連隊の所在地で、今は奈良教育大学だが、自衛隊連絡所もある
三輪車に乗り、近鉄菖蒲池駅の横にあるスーパーの駐輪場に置いた
駐輪場は二輪自転車の仕様だけで、三輪車仕様を考慮していない、怪しからん

菖蒲池駅で、私は初めてバス電車共用というプリペードカードを購入した
駅員は「プリペードカードではなく、電子マネーのICカード」ですと云う
金銭先払いのカードだろうに腑に落ちんでいると、保証金・五百円必要ですと云われる
何じゃと思いつつも、老いては子に従えと、云われた通りにして「イコカ」を入手にする
TVや広告宣伝で知ってはいたが、実物は初めてなので、電車の中でシゲシゲ眺めた

近鉄奈良駅で降り、改札口で「イコカ」でスルー、小銭不要でまま便利なものである
次は奈良交通の市内循環バスの乗り場を探してバスに乗った、ここも「イコカ」を使う
高畑での所要を済まし、帰ろうと考えていると奈良交通の高畑事務所があったので寄った
昔、高畑町から私の住む処に近い押熊町までの路線便があったので、そのことを尋ねた
三人居た職員の誰もその路線のことを知らなかった、三十年前までは確かにあったのに・・

まま、久しぶりなので高畑から元興寺界隈を抜け餅飯殿(もちいどの)商店街まで歩いた
高畑から元興寺への清水通り公納堂(くのどう)通りは奈良の最初の繁華街であった
東山中や山辺から牛車を引いて買い出しに来る人々の往来で賑わったと云う話である
国鉄奈良駅が三条通りに関業すると、元興寺界隈から三条通りまでの餅飯殿商店街が栄えた
近鉄奈良駅が大宮通りに開業すると、三条通りから大宮通りまでの東向き商店街が栄える
清水通りや公納堂は車では通り辛く、最近行くことが無くなっていたので、歩いてみたのだ

この通りには、古い店が今も残っていて懐かしいというか、時代がスリップする感じになる
八木酒造の店前には杉玉がぶら下がり、清酒升平の名は武者小路千家の脇宗匠が付けたとか
その先には岡崎松光堂、寛政元年(1789年)フランス革命の年に「水あめ製造業」として創業
中に入り、御主人と話を聞くと、今は「大仏せんべい」と「つばき饅頭」を作っていると云う
それを、奈良の土産屋とか旅館に置いてもらって、それなりにやっているということだった、

この菓子屋の店前に、奇妙な看板がぶら下がっていて、「おもてなしトイレ」と書かれてあった
聞くと、この界隈は公衆便所の用地がないので有志で通り客に便所を開放しているとのこと、
納得である、昨日今日「ならまち」で店舗を出して、その気になっている人達とは底が違う
ホンマもんの奈良地元民、奈良の御店(おたな)と嬉しくなった、私は饅頭とせんべいを買った
写真も撮った
2013.12.20 有楽椿
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近所の有楽椿(うらくつばき)が開花、関東辺りでは「太郎冠者椿」と呼ぶ
「う・ら・く」とキーボードを打っても「有楽」とは出ないようだ
「ゆう・ら・く」と打てば「有楽」と素直に出る、正しくは「うらく」なのに・・

織田有楽斎長益の遺愛した椿として、その名の所縁になったということである
この有楽斎、織田信長の弟であるが、武将としての武功より、処世「術」が知られる
信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の時、有楽斎は信長の嫡男・信忠と京・二条城に居た
本能寺で信長が自刃した後に、二条御所に籠っていて明智光秀の軍に囲まれた際のことである
甥っ子の信忠に、「もはやこれまで・・・自害したほうがいい」と勧め、腹を切らせたという
そして自身は、その混乱に乗じて安土城へと逃げ、さらに岐阜まで逃げきって助かったとか
このことについて、京で囃された町歌とは・・(源五とは有楽斎のこと)

♪ 織田源五は人ではないよ
 お腹召せ召せ 召させておいて
 我は安土へ逃ぐる源五 ♪

信長亡き後、信長の子・信雄が家康を味方にして秀吉と対峙、小牧長久手の戦いで信雄側に付く
この戦いでは信雄が秀吉との講和の応じ、家康は梯子を外される、有楽斎がその交渉をしたとか
関ヶ原の戦いでは有楽斎は東軍に付き、戦勝後には家康から大和の山辺に三万石を与えられる
大阪城の戦い、冬の陣では淀君の叔父として大阪城に入り大将然として城内を仕切る
そして、形勢不利の見える夏の陣では、戦いの始まる直前に城を出て、京都に隠遁している
卑怯、裏切り、不義理の誹りを受ける人物でもあるが、見方によっては平和を好んだ人物でもあろう

キリシタンでありながら、京都では建仁寺に入り小院を建て、茶室「如庵・じょあん」を作る
日本の三名席と呼ばれる国宝の茶室は「待庵・たいあん」「蜜庵・みったん」そして「如庵・じょあん」
「じょあん」とは、有楽斎の洗礼名「joan」から名付けられたというものである
織田有楽斎長益如庵、大和山辺で二子が一万国大名として明治まで続き、「有楽流」の茶も今に伝わる
そして、東京の有楽(ゆうらく)町、大阪の有楽(うらく)町としてその名を地名に残している
ただ、大阪の有楽町は天下茶屋付近にあったのだが、度重なる地名変更で今は消滅したという、残念

考えてみれば、織田有楽斎、何かそれなりのもの、術を持った人物であったのだろう
京で残した囃し歌だけでなく、江戸、今の東京の地でもその名を歌に残している

♪ あなたを待てば 雨が降る
 濡れて来ぬかと 気にかかる
 ああ ビルのほとりのティー・ルーム
 雨もいとしや唄ってる
 甘いブルース
 あなたとわたしの合言葉
 「有楽町」で逢いましょう ♪


そう云えば、一二月十三日は有楽斎の命日であった、享年七十五歳
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何処へ行くのか「この道」

「道」のこと、のっけからながら、今日は「四つのクラティック」という昔習った話をする
少々、理屈っぽいが「クラティック」とは接尾語であり、…政治の、…社会の、…思想のとかで
組織・社会の成り立ちには「四つのクラティック」の段階を踏むという説である

①イディオ・クラティック
無知蒙昧な大衆の中に、イエスやシャカのような鬼才の「神人」が出現、人々はその人物の元へ集まる

②テクノ・クラティック
「神人」周囲は言葉や思想だけでなく、実益を生む技術や知識を伴う活動集団化していく
日本では、治水灌漑、あるいは医術や医薬を施すことで、その「神」の名声を高め、周囲の人も増える
空海の信仰や行基の軌跡、歩みがその形を示している

③ビュウーロ・クラティック
「神人」集団を組織化し、組織運営に長けた人達がその組織構築と運営手法を確立させていく
そして、組織運営の専業家、つまり官僚が縦横の組織形態を作り、其処彼処に職位を設ける
更には、似非身分制度の組織運営とその維持を図る集金システムを作り上げることになる
また、その組織だけでなく関連する人達もその集金システムの中に組み込まれていくことになる

④デモ・クラティック
「神人」を尊崇し、且つ今で云う「民主主義的な組織運営」の形態になろうか
其々が思いを出し合い、評価を受け合って更に「修練」を積み上げていく、曰く「完全相伝」
芸道でいう家元制度や宗家のない、其々が其々の「修練」の中で術と道を見出していくもの
求めるものを互いに見せ合え、出し合えるということで「術」「道」が進化・深化すると考える
さて、「術・道」の世界が「デモ・クラティック」になるのだろうかと思念するところである
どうも、桃山期の茶とは一人一流(いちにんいちりゅう)、デモ・クラティックの様に思われる


奈良仏教では、寺は学舎で坊さんは学僧であった、寺に墓地はなく葬式行事なんぞとは無縁
その祈りの対象が国家と天皇であったが、鎌倉仏教から民衆への布教ということも始まった
キリシタン禁止令を発した徳川幕府は、「寺請け制度・檀家制度」を導入し民衆を管理した
そのため寺は幕府から扶持をもらいながら、檀家からも金を受け取る仕組みができた

明治の代となり、為政者からの扶持が無くなった寺は、葬式や法事、戒名とかを商品化
明治の法律で、僧侶の妻帯・肉食が許されたとして、破戒僧という仏法戒律はその下に置かれる
挙句が、「世帯仏法腹念仏」(せたいぶっぽうはらねぶつ)という職業仏教になる
いわゆる、世襲の葬式坊主といわれている身分の人達である

ここで仏教を取り上げたが、困窮した公家が「和歌」「書」「香」等を生活のシノギとする術に化す
そして、武家の「剣」「弓」、儒家の「論語」「朱子学」等も食うためのシノギ術となっていった
だが、飯を喰い金を得るには、それなりの作らいや奥を広げることが求められることになる
そこに「道」という思考が持ち込まれ、「進化・深化」を遂げてきたのだと、私は思っている
然し「進化・深化」をせず、金集めだけの巧みな形態を作り、「商い」に走った「道」もある

その一つが、術を極めることを教授するより、教えること自体を目的化する体系が作られることだ
稽古のための稽古内容、稽古を複雑にし、稽古段階で「免状」を設け、何年となく稽古を続ける形
「道」の悪しき方向といえるが、多くの教授者はその意識も無く、稽古の中に身を置かれている
つまり、教えることが全てで、教えた先の道が見えないという絡繰りに陥る傾向も見られるようだ

私が「茶道」と云わないのは、「道」と云えるほどのものを自分は持ち合わしてないことが事由だ
十年・二十年も稽古に通って、何かを得るというような茶を私には教えることが出来ないということ
還暦過ぎて茶を知り、三年五年で茶事を楽しめ、後は其々の深みを持てば、それで良しとする
それが朋庵茶の湯塾は「術」を伝える処であり、「道」はないとの考えの元となる・・能書きが過ぎた

まま、茶の世界にデモ・クラティックの段階が来るかどうか、私には分からないが期待はする
私自身は一生、当代宗家の一番弟子としての立場の「この道」を歩み続けるでことにしている
この辺りの論、茶道界・華道界や歌舞伎等の世襲芸道界で論壇風発となればと思うのだが、如何

今日は、途中で何やかやと出入りがあり、記事が切れ切れとなった
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楓(かえで)と山茶花、昨日の稽古で新塾生が挿した

どうもモミジ(紅葉)と楓との呼称が混乱しているようである
モミジとは紅葉・黄葉している木の葉の総称であり、楓は楓科の樹木の名である
そんなことは皆さん百も承知ながら、どういう訳か楓をモミジと自然に口にされる

どうしてそういうなったのか知らないが、和歌か花札の影響かも、と私は睨んでいる
古今集の「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きくときぞ 秋は悲しき」
花札の猪鹿蝶の図柄では、鹿に楓のモミジがお決まりの絵である
どうも、そこら辺りがモミジはカエデ、カエデはモミジという錯覚を生み出したのでは

少し昔のことだが、島田洋七という広島出身の芸人のギャグが一時流行した
「モ・ミ・ジ・饅頭」と大声を発し、両手を大きく広げて「楓の形」即ちモミジを描いた
広島宮島名産のもみじ饅頭で印象づけたようで、それなりに受けていたようである
宮島は楓の紅葉が綺麗で、奈良鹿の子孫が多く育成されて、印象は定まったようだ

この「カエデ」、万葉集では「カエルの手・カエル手」と呼ばれたとある
確かに、カエデの葉をよく見るとカエルの手に似ていると納得する
今日は、カエデやモミジの話でなく「桐葉菓」という菓子の話をするつもりだ

宮島のもみじ饅頭の老舗に、昭和7年創業の山田屋さんというところがある
その御主人が上田宗箇流をされていて、当流御宗家の助言を得て作った菓子である
上田家の家紋の「桐」から「桐葉菓」と名付け、世に出したのは平成九年のこと
それ「桐葉菓」が全国菓子博覧会で金賞を受賞し、味の良さも受け人気が出たのだった
やがて、広島名物として新幹線広島駅の売店に並べられ、広島土産にもなっていった
私も、広島に行った帰りには駅の売店で買って土産にしたものである

その「桐葉菓」を、私は奈良の近鉄百貨店の売り場に置いてあるのを見つけたのである
なるほどに、「マイナー」から「メジャー」へという経営方針なのだなと憶測した
まま、広島の「マイナー」というか「ローカル商品」であった「おたふくソース」
この「おたふくソース」は近畿でも関東でもスーパーの売り場に並ぶようになった
「この道はいつか来た道」、というか「いつか行く道、皆が行きたがる道」であろう

確かに、「桐葉菓」はこれまでのもみじ饅頭とは全く別味の旨い逸品、正に秀菓であろう
だが、茶の湯の菓子とするにはでかいと思う、やはり土産物仕様の作りなのかも知れん
この「桐葉菓」が茶菓子の大きさ、茶菓子仕様もあれかしと、私は常々思っていた
ましてや、それが上田宗箇流御宗家の助言で作られたなら、という私の勝手な思いである
と云うか、土産物仕様はそれはそれとして、その奥には茶菓子の心根があれば嬉しいと思う
因みに、山田屋さんの経営の座右の銘とは「不易流行」と聞くので、ままムベなるかな
更に因みに、私の手は「モミジの様だね」とよく人に云われたが、カエルの手だったとは・・
無題
浅野家家紋の鷹の羽
前に記事にした「一富士、二鷹、三なすび」の中継ぎ話である

赤穂浅野家の本家は広島浅野家、上田宗箇は広島浅野藩の国家老である
昨日の播州赤穂では、松平健の演じる大石内蔵助たちの義士行列をテレビで見た
広島でもこの日は義士祭があり、上田宗箇流でも献茶を催すのが恒例となっている
実は、この赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日に山田宗偏流でも義士茶会を催すのである
元禄十五年十二月十四日の夜は、吉良邸で茶会があり山田宗偏が茶匠として出ていた
その日の茶会ことを赤穂浪士に伝えたのが宗偏であったとかで、その由来となっている

自分の支援者である吉良上野介の所在を赤穂浪士に教えるという仕儀は如何なものか
「義士祭」として献茶がなされていることは、その仕儀や良しとされているのであろう
私にはよく分からないが、「上野介追善茶会」であれば、何となく気持ちが収まるのだが
吉良上野介は、その所領の民からは名君として慕われていたという話もある

さて、赤穂義士の討入りは十二月十四日とされているが、十五日未明が正しいらしい
さすれば、あの行列も十五日の朝からという話、つまり本日今日のことである
更には、旧歴十二月十四日とは、新暦一月三十日ということになる
あの大雪の場面は、一月三十日の話なら納得のできるところ

そんなこんなでも、今日の稽古には大石内蔵助の高田郡兵衛宛消息の軸を掛けようと思う


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電動三輪車、パナソニック製、

奇特な後輩たちが用意してくれた電動三輪車が自転車屋から送られて来た
運転免許を返上した私の日常を憐み、電動三輪車を進呈してくれた有難い話
二輪車より荷台が大きい三輪車にしてしてくれとは私の注文であった

運んで来てくれた自転車屋の話では、三輪車の需要は少なく受注生産とか
利用者は二輪車に乗れられない人や老人に限られているという話であった
車輪は二輪の半分ぐらいであり、対象利用者の身長は一三八センチからとか
謂わば、大の男が乗ることは珍しいという話であった
つい私は、サーカスの「チンパンジーの三輪車曲芸」を連想したが、然し気しない
有難い代物であり、両手に袋を持ち徒歩片道半時間の買い物から解放されるのである

先の記事でも話したが、徒歩客にとって近隣の商店街が失われるのは社会問題である
車社会となった近年、郊外に広い駐車場を完備したショッピングセンターが利用される
街の商店街は衰退し、お店はドンドン消え、シャッター通りと化す社会現象である
これからの高齢者や車社会に縁のない人々は弱者となり、買い物難民化するであろう
我が身に降りかかって、近隣の街の商店街の必要性が身に沁みたのである

さて、斯く申すこの私の仕事は量販店、つまりショッピングセンターの展開を進めること
要は、既存の商店街を衰微・凋落させることに結果として手を貸していた張本人なのだ
電気三輪車を進呈してくれた後輩たちとは、私の仕事を継いでくれている者達である
私は現役の流通業務をやっている時には、「流通革命」は世の為になると信じて疑わなかった
その「流通革命」で社会生活の利便性は車社会と相まって飛躍的に高まったはずである
然し、ものには表と裏(茶の話ではない)、光と影があると知ることが肝要であった

「因果応報」とはよく云ったものだと、自身の半生を省みる
まま、明日からは、三輪車の生活を充実させてみようと決意する私である
そして、消えていった街の商店に対し、心を手向けながら茶を点てたい
2013.12.12 門無俗士駕
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「門に俗士の駕(かご)無し」、流祖・上田宗箇の一行書である

昨夜は京都寺町錦通りにある「市場小路」という店で御宗家を迎えた忘年会に出席
店は当流のお弟子さんが経営する小粋な若者向きのお店で、私は何となく異邦人の感
久しぶりに御宗家と向かい合って坐り、二時間余り二人でお話しをすることが出来た
二人だけの話が長引き、他の集会者には少々申し訳ないことをしたと後で反省をする

残り人生が少なくなると、人も事も「削いで削いで」ということにせざるを得ない、と御宗家
宗二がいう珠光の「人は見知りて伴うべし」という言葉が分かってきた気がすると、私が云うと
宗箇が残した「門無俗人駕」の書、同じことを云っているのだろうね、と御宗家
やはりそうかと、改めて宗箇の一行書を思い浮かべた

捨てて棄てて、削いで削いで、という生き方への路(道)
腑に落ちた心地になった
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寒風に震える白撫子(なでしこ)の花

「技・術・芸・道・法」ということを下記のようにまとめた書き物があった
一論であると思い、転記させてもらう


技:
手で細枝を持って自在に操る様が「技」の表意。転じて末端の技量とか細工技術のようなことを表します。

術:
原義は人の往来が絶えぬ道。こちらも「技」には違いありませんが、それを伝統的手法を用いて実践すると言うことです。多くの継承者たちの智慧が詰め込まれた技と言えます。

芸:
人が植物を土に植える様を表しています。この技術は自然と人工を融合させるところに奥義があります。

道:
首/頭を向け、進む方向を示すことが原義。転じて行くべき方向を行くことを示しています。

法:
湖の中にある島にいる珍獣を湖から外に出さないようにする方法。転じて道に至らしめる為のきまり。


因みに、「形而下なるもの器、形而上なるもの道」と云うたのは老子とか
「技芸・芸能」という和製漢語を作ったのは世阿弥とか
「術と道」、深入りすると迷路・迷い道になる恐れがある
次回では、私が「茶道」をしない、出来ないとする訳を述べてみたい

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近所の商店で見た貼紙

今日、徒歩で買い物に出掛け、途中の商店で目にした貼紙である
近所の商店街の坂道を下り、秋篠川添いに半時間余りのところにあるスーパーまで行った
いつもは車で通り過ぎていただけの近所の商店街であったが、風景が変わっていた
もうこの街に移り住んで三〇年余りになるが、越して来た当初は賑わっていたものだ

酒屋、パン屋、花屋、食品スーパー、肉屋、八百屋、魚屋、呉服屋、皆姿を消した
そして、この写真の店、豆腐屋さんである、「おばちゃん」が作るオカラの煮付が旨かった
愛犬の散歩途中、道向うから「ハナちゃんお早う」と、いつも声を掛けてもらっていた
どこの店も静かな早朝時間、この豆腐屋さんだけが電気を付け働いておられたものだ
今では商店街の半分は閉まっており、開いているところも多くは業種が変わっている

今、当時の賑やかな商店街であったなら、徒歩の買い物で十分間に合ったろうにと、つい思った
道の此方と向い側との違いだけであるが、歩いて見て景色が変わっていることに気付かされる
「 変わり易く、移ろい易いもの、それは人の心 」だと、云われているのは承知だが
世の中というものは、視る角度、見る場所、観る心境、診る対象で変わるものであろう

人生の今の時間と場面は、先人の想いと今が繋がってそこに在るのだと思う昨今である
大事にしたい時と人の陰影を残すモノと場面として、ついつい感傷的になった貼紙
「惜別なき日常」とコメントされた御仁がいたが、「さよならだけが人生よ」とも聞える
茶を点て喫するに、形や理屈は後で良い、先ずは心の在り様だと、再認識した私である


2013.12.08 利休に尋ねよ
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阪堺電車、天王寺(安倍の)から浜寺を結ぶ「チンチン電車」、堺の文化財に指定されているとか

泉南熊取の老医師からもらった昨夕の忘年会の案内メール
>近鉄天王寺駅前から阪堺電車の乗り寺田町で降りると美々卯」が見える、その裏筋の割烹「檜」<
私と茨木の老医師二人は「近鉄天王寺駅」なるところを彼方此方と探して四苦八苦する
何のことはない「近鉄阿倍野橋駅」のこと、漸く阪堺電車始発駅に辿り着いた時にはクタクタ
それに「寺田町」なる駅名が路線図にない、運転手はんは「おそらく寺地町や」、そこで降りる
チンチン電車で街並みの景色を見ながら行くのも情緒があってオツなものやでともメールにあった
然し乍ら、六時半ともなると窓外は暗闇、ただ料金は二百円均一、今の市長の市民機嫌取りだとか

老医師二人の話は豊富で面白く、博覧強記のネタは尽きることのない数々のことに及んだ
「医者は患者の前では医者を演じなければならない、それは患者が要求している」
「告知は医者の責任逃れ、患者が大人であっては、家族崩壊の決定を逃げる」
「医者と芸人は出は同じ、資格制度の無い頃は名乗れは医師で通り、身分保障もなかった」
「医術はあっても、医道というのは無い、『道』は室町公家が始めたシノギの道」
「剣術の試合では一対一という個人戦は無かった、流儀の生き残りを掛けた集団戦であった」
「故に、手の内を明かす他流試合は避けられ、各藩の『御止め流』として伝え継がれて来た」
「道とか云い出すと、それを飯の種とする、或いはおこぼれを頂戴する輩がはこびってくる」
そしてそれから、堺の古墳や伊勢神宮へと、まだまだ話が続いたが、酒も回り始めたこともあり
ここらで記憶が虚ろになって来た・・

ふと、脳裏に浮かんだんは、この堺が生んだ偉才の女流歌人「与謝野晶子」の一文

「 柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君 」
中々に的を得た内容、女の感は鋭い

帰路は堺駅まで出て、鶴橋までの二百十円切符を買った、茨木の老医師も一緒である
改札を通ろうとすると私の切符が無い、何度探しても出て来ないので、再度購入する
鶴橋駅で近鉄線に乗り換えようと切符を探すと、また見つからないのだ
仕方なく、その旨を女性駅員に云うと「いくらでしたか」と聞かれた
「二百十円」と答えると、「では二百十円をここで払ってから、近鉄の切符を買ってください」
私には、こんな三度も同じ切符を買い直すというような経験はかつてない
何んで?どないしたのやろ?と堺駅でのことを思い返して、また脳裏に浮かんだ一文

「 利休に尋ねよ 」


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新宿中村屋本店の「カリーライス」、生卵が付いていない?・・

先に記事にした、新宿生まれ育ちの卒塾生と私とのカレー論争
こんなメールを頂戴したので掲載する、掲載断りは入れた
因みに一言付足して云うと、この御仁も新宿生まれ育ちという江戸者学者
今夜の忘年会に来られない恨み僻みが「カリー」の味となっているようだ


>皆々様

今年もお誘いありがとうございます
正しくうれしい「嫌がらせCC」にございました
いづれまた顔を出しますので
この度はご容赦ください
近畿三賢人の顔がそろっているうちに必ず

それから、和尚のプログにあった奇習「カレーと生卵」ですが
何事にも“本場”がございます
「インドカリー」の本場は、インドシナ半島より東では「新宿中村屋」と
東京遷都の頃より決まり事にございましょう? 

新宿育ちのお弟子さんは、さぞや師匠の奇習に面食らったことと
もう気の毒で気の毒で、
ちなみに中村屋は「カレー」でなく「カリー」と申します、オホホのホ <


とかなんとか、オヌカシあそばれた
ライスカレーとカレーライスの呼称の違い
ここらにあるのかも・・?

今日は武野紹鴎が奈良から移り住んだ地、堺での忘年会である
利休・宗二の故郷でもあるから、大いに話が弾むかもと思っているが
相方は老医師二人

お一人は、私が足首骨折で入院している時に、石切神社のお守りを持って見舞いに来てくれた方
「このお守りはよう効くで」とか云々、後で調べるとデンボ(おでき)のお守りだった・・
もうお一人は、大病院の内科部長の職にありながら、医者の云うことを聞かずに糖尿を悪化された方

私とは古代史愛好家仲間というお付き合いの方々で、もうお一方が江戸者の大学の現役先生
あの「惜別なき日常」というコメントをくれた御仁である
さぞかし残念無念であった様子が、メールの行間から滲み出ている(^^)

いたちっぺ
中村屋の「カリー」なんぞ、スーパーの売り場で特売されておるわやい
上方のカレーうどんの絶品なること、来年の忘年会でご教授致しましょうて
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付け囲炉裏とでもいうのであろうか、自在には手取り釜が吊られている

昨朝八時半、奈良県警へ行って運転免許書を返上した
私は短足人間だか、これで「足なし爺さん」となったのである
虚しく朝の奈良公園を歩いていると、落葉掃除をしている知人に出会った
奈良博物館の前、氷室神社の隣で古美術商「友明堂」の息子さんである

誘われて店の中に入ると、奥の囲炉裏には炭が熾り、釜の湯は沸いていた
「炉の火は絶やさないのが茶人の心得」とか、この時間にさすがである
息子さんが温い善哉を小碗で出し、薄茶を点ててくれたので服していると
御隠居が現れ、本を一冊私に渡し「これあげるわ、新しいのを出したとこや」
「友明堂」の御隠居は、茶人としても名高い御仁で、私とも知己の間である

本は『野の花のおもてなし 無法庵 花往来』田中昭光という表題であった
B5版、二百頁余、発行所・淡交社、平成二十五年十一月四日初版、二千円
それなりの花入に春日野の花を挿した写真集と田中翁の随筆集あった
「無法庵」とは、あの実業家茶人松永耳庵(じあん)の名付けだとか
中々の内容の本で、私は有難く頂戴したが、いまいち心が晴れなかった

古美術商を出て、私は三条通りの「かえる庵」さんに寄り、盛りそばを食す
そして、徒歩と電車とバスで帰路に就く私の心情は、「宮本むなし」であった