2014.01.29 早春に賦す
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冬枯れの中に早春の気配、木蓮が角づいていた
本来は「芽ぶく」というのであろうが、ここは「早春賦」の歌詞「角づく」にする
早春賦、「早春に賦す」というのが原議だとか、大正二年吉丸一昌の作詞


春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷融け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か ♪

資料によると
>長野県大町市、安曇野あたりの早春の情景をうたった歌とされ、長野県立大町中学校(長野県大町高等学校の前身)の校歌を作りに来た吉丸が、大町市、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌詞でもある。 大町実科高等女学校(長野県大町北高等学校の前身)では愛唱歌として歌われていた。 大町文化会館、穂高の河川敷に歌碑が建てられている、<

とあったので、逸話の一つ二つを聞いてみたく、大町北高校に電話を入れてみた
当初出た若い男性職員は分からない様子なので、校史に明るい方に替わってもらった
替わられたのは教頭先生だったので話してみたが、全く知らないということである
その先生は校史を見てくれたが、そんなことは書いていないと云うことであった

私が早春賦の資料の話をし、学校の愛唱歌は正規の校歌ではないので史録にないのかも
例えば、三高ボート部の「琵琶湖周航の歌」や広島高師山岳部の「坊がつる山歌」或いは
早稲田大学の「人生劇場」と同じように、学校の歌が世の中で広く愛唱さえているものだと説明
あれほど有名な歌が、そちらの学校の愛唱歌から広まったものなら素晴らしいことだ云々
とまぁ、少々、説教気味に宜うところとなった、私の悪い癖である

するとその教頭、卒業名簿から高等女学校の卒業生に当たり、その話を聞いてみると仰る
然しながら、大正二年に作られた歌、卒業生は九〇歳を超えているかも知れないのである
だが、その事実が分れば学校や地区を挙げて、その話を取り上げたいとか、エエ教頭先生である

初釜を終えてから二月一杯は茶閑期、しかし奈良市は「奈良大茶会・珠光茶会」を開催するとか
珠光茶会と称して三千家主体とは苦笑だが、奈良の寒い時期の人寄せに茶が企画されるとは・・
本来、茶は客の出易い季節に招くもの、さもなくば「雪見の茶」「暁の家事」という寒の茶
まぁ、行政のお祭り騒ぎのノリはお門違いの主旨のようだ、よそ見しよう
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近所に畠に咲いた菜の花、アブラ菜は春を告げる代表的な食材
辛子和えやおひたしのほか、ハマグリや鯛とあわせて吸い物にする


菜の花畠(ばたけ)に 入り日薄れ
見わたす山の端(は) 霞(かすみ)ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて におい淡(あわ)し


好きな唱歌であるが、残念ながら、この写真は今朝のもので、空に朧月はない
朝、起きると左手首が腫れて痛く、物が掴めない状態にあった
近所の整形外科に行く途中に菜の花を見つけて撮ったのである
整形外科ではレントゲンと超音波による診断の結果、左手首の骨折が判明した
ショボくれて帰ってくると、中学のキリスタン女級長からコメントが入っていた
それも、拍手コメントである

>だいたい老人になって来ると、大丈夫と思って踏み台や脚立から落ちて骨折したりする話はよく聞きます。入院に至らなくて良かったですね。それにしても、三輪車に乗って病院まで往復したとは驚きました。気丈なんですね?腫瘍の手術もあるんだからお大事に。<

仰られる通り、ちゃんと立派に骨折しており、老人の証明を致しましてござりますろ、御報告まで
同級生の貴女も同い年ですよ・・、お忘れなく(^^)、でも、おおきに
2014.01.28 天罰
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天井から垂れるコンセントコード

正に天罰であろう、天井固定式照明器具の二本輪蛍光灯を取り替えようとした際
電気炬燵の天板の乗ってみたが、どうにも天井までは手が届かない
そこで木製の踏み台を持ち出して来て、天板の上に乗せ、私は照明器具を両手によじ登った
漸くのこと天井に手が付き、コンセントコードを繋げて、照明器具を天井に交接しようとした刹那
踏み台がグラッと傾き、私は照明器具を持ったまま頭から下に落ちたのである
炬燵の天板は一寸程の厚みとそれなりの重さがあったので、大丈夫と思ったのが油断であった
天板の上側は五ミリ程の化粧板が張ってあるだけであったとは・・、踏み台の角が突き破ったのだ

コンセントの接合部分は、私の重みに耐え切れず引き千切れてしまったのであった
千切れた照明器具が先に落ち、その上に私の頭が突っ込むように落ちたのである
辺りに鮮血が飛び散ったので、頭を押さえ洗面所に駆け込むと顔も血だらけであった
取り敢えず、脱脂綿に消毒アルコール付けて拭き、お絞りで押さえて手拭いで鉢巻をする
近所の診療所の案内板に外科・内科とあったのを思い出し、鉢巻き姿のまま三輪車に乗った
片目が塞がっているので少々感覚に不安があったが、ままよとペダルを漕いで行った
行くと時間外で診療所は閉まっていた、裏に回って呼び出し鈴を鳴らすと医師が現れた

事情を云い治療を頼むと、その医師曰く「ウチでは無理だから病院へ行きなさい」
私がせめて止血の応急手当でもと頼んだが「だからすぐバスで病院へ行きなさい」??
(ここは病院とは違うのか、診療所とは何だ)と云いかけたが、そんな場合でもない
バスと云っても、私には三輪車があるから置いておく訳にはいかないので、再び三輪車に跨る
云われた「奈良西中央病院」まで一五分、血が滲む鉢巻を占めたまま、懸命にペダルを漕ぐ

病院の受付に行き事情を話すと、看護婦が来て鉢巻を取って傷口を拭いガーゼを巻いてくれた
私はこれぐらいのことを先の診療所でやってくれれば良いのにと思いながら看護婦の顔を見ていた
脳外科診療室に連れて行かれ、そこの医師が曰く「額がパックリ開いて重症ですな、縫いましょう」
結局、二〇針縫うたのだが、縫うてもらいながらその医師と話していて、面白いことを聞いた
「五針で済ますことも可能だが、傷跡が大袈裟になる、それでチマチマ丁寧に縫っている」とか
そして、「貴方ぐらいなら兎も角、若い女性では傷跡を気になさるから」と能書きを補足する
何となく気のエエ医者であった、治療費を払う際、窓口まで付いて来てくれた看護婦さんの曰く
「傷が残っても、貴方なら箔になるかも知れませんね」、あの医師して、この看護婦、エエ人達
プロが巻いてくれた鉢巻をして、颯爽と三輪車で駈けて帰る私だった

どうも最近、私は病院へ行く機会が増えて来たようだ
先に記事にした、私の入院先にお守り袋を持って見舞いに来てくれた老医師からメールがあった
前日の私の「少子化促進」の記事に、その御仁から「明治時代の発想」との諫言めいたもの
地域医療の在り方にド真剣に取り組み、繁盛はしているのに、いつも支払にピーピーしている御仁
その御仁のメールの最後にあった文言、私はヒシと心を打たれたのである

> いつ行っても診てくれる。手作りで診てくれる、
> サウイフイシャニワタシハナリタイ。
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日本水仙(ずいせん)、お歯黒入れの器に挿してみた
別名は寒中水仙・雪中花とか、花言葉は「想い出」、原産地は地中海沿岸
散歩途中の脇道数カ所で開花中のものを一本頂戴した

「水仙や 寒き都の ここかしこ」
   与謝蕪村(よさぶそん)

「水仙の 香やこぼれても 雪の上」
   加賀千代女(かがのちよじょ)

昨夜のテレビ番組、「明治天皇の玄孫、竹田恒泰が語る皇室の日常生活」
何気なく見ていて、ハタ!と膝を叩いた
元宮内庁大膳職(天皇の料理人)が昭和天皇が好まれたカレーライスを復元
米は塩とバターを加えて炊き、カレーの具は一般的な野菜や肉だとか
そして、トッピングとして何と!「玉子の黄身」を添えるということだった(^^)

先の記事「カレー論争」のこと
畿内・西日本ではカレーに玉子を加えるが、東京・東日本では玉子は入れない云々
皇居の食文化は畿内のそれと分かって、然り納得したのであった

元新聞記者の御仁から、またまた文章が長いというお叱りを受けた
五・六行で四段ぐらいに収めるのが好ましい、とか云々カンヌン
云われれば都度納得である、今回は此処まで・・
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若草山の山焼きナウ(一八時半)、和が家の窓からの眺め

私の子供の頃の山焼きは一月一五日の成人式の日と決まっていた
戦前は二月十一日の恒例行事になっていたと聞く
近年では日程がアレコレ変わったようで、私もテレビで山焼きを知ることがある

ところで、成人式の話、最初は埼玉県の蕨(わらび)町の青年団が始めたものが全国に広がったとか
若草山の山焼きはわらびの育成の為とは聞かされており、何か関係がと思ったが、無関係のようだ
然し、東大寺の門前ではわらび餅が東大寺名物として昔から有名である

成人式は、昭和二一年十一月二二日、埼玉県の蕨町において実施された「青年祭」がルーツとか
敗戦により虚脱の状態にあった当時、次代を担う青年達に明るい希望を持たせ励ますために開催された
当時の埼玉県蕨町青年団は青年祭を企画、蕨第一国民学校の校庭にテントを張り、「成年式」と呼んだ
この「成年式」が全国に広まり現在の成人式となったということである
もっとも、蕨市では現在も「成年式」と呼ばれているそうだ、創始者の矜持であろう・・莞爾

新成人の統計を取り始めた昭和四五年の二四五万人に対し、今年は一二一万人で最少人数となった
昨日の国会演説でも、少子化高齢化対策を国の重要課題として取り上げていた
方や、女性の社会進出の促進や女性管理職登用への環境づくりという方針説明が大きく謳われている

私には、どうにも腑に落ちないところである
男女差別と云われ易いが、男女区別と云っても同じだろうが、私には嫌な記憶がある
子供が小学校の頃、授業参観で先生と父兄(と云っても私以外は母親だったが)の懇談の場のこと
受け持ちの女先生が「子供の教育方針で父兄(?)の皆さんから希望がありますか」と云うことで
私が「男の子は男らしく、女の子は女らしくなるような教育を望む」と話したところ
女先生曰く「男や女というより、人間らしく教育するつもりです、ねぇ皆さん」と周りを見なさった
誰もが反論も無く、頷いたのを確かめると、私の話を聞かなかったように話題を変えたのである
私は「人間らしくとはなんじゃらほい、それなら動物らしくと云う方が正論」と思いながらも堪えた
何せ、子供を人質のされているとあっては如何とも為しがたく、論破するのを控えたのである

少子化の話を聞き、実はこの時のことが鮮明に頭に甦ったのである
男はシッカリ働き社会と家族を守ること、そして女はシッカリ子供を生み立派に育て上げること
何のことは無い、多くの動物の本来の行動様式であり、性別の玄旨そのものである
「男女共同参画社会基本法」「男女雇用機会均等法」とは「少子化促進法」に他ならない

勿論、女性の就業差別には反対するものだが、この本質論、暴言暴論であったろうか
「女子供には云々」との日頃の私の言動もあり、誤解曲解を生じそうである
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京都高山寺の国宝・鳥獣戯画のカエル図が写されている酒グラス

今日のトピックスを見て、納得とビックリさせられた
記事のタイトルは「カエルが飲酒誘発?C中止に」である、何でも
>キリンビールは23日、カエルのキャラクターが登場する缶チューハイのテレビCMを中止することを明らかにした。外部から「キャラクターを使った表現方法が未成年者の関心を誘い、飲酒を誘発しかねない」との指摘を受けたため。(毎日新聞)<
と、いうことである???

確かに、それは云えるという出来事が昨夕にあった
私のブログにも都度書かせてもらう奈良三条通りの蕎麦屋さん「かえる庵」
昨年末の茶事での話、「かえる庵」で「大和まほろば酒の会」という集まりがあるとか
それが昨夕のこと、私は楽しみに出掛けたのだが、中の女性から予約制で満員と云われた
ぬぬぬ・・と、私が庵主・佐藤さんの方に、訴える視線を向けた
その視線を察した佐藤さん、「一人欠員が出て、あの席が空いている」とその女性に云った
そして、その女性に案内されて奥の四人掛けの席に着いたのである(佐藤さんはエエ人)

前菜の十割そばを食し、会の主催者から酒の薀蓄を聞き、酒も利いた
中々に面白い話と旨い酒であったので少し書くとする、そもそも日本酒とはの一席、バンバン!!
酒造りの発祥の地は大和三輪山と古事記あり、清酒は室町期の大和は正暦寺で造られたもの、バン!
この辺の話は聞き知っているところだが、更に続く日本酒の詳しい話が興味深かった
清酒は、仕込水(鉄分が薄い)蒸米を入れ、こうじカビ、酵母菌、乳酸菌で糖を発酵させ造る
その極上ものが山廃仕込の酒とかで、それを飲ませて頂くところに相成った

>山廃仕込み(やまはいしこみ / - じこみ)とは、単に山廃とも称され、生酛系(きもとけい)に属する日本酒の製法の一つ。 「山卸廃止酛(やまおろしはいしもと)」が正式名称で、その酛で醸造した酒のことも一般に「山廃(仕込み)」と呼ばれる、ひとくちに言えば、山卸(やまおろし)とは、蒸した米、麹、水を混ぜ粥状になるまですりつぶす工程である<

>山卸廃止酛では、低温に環境を保ちながら、酒をまずくする有害な野生酵母や雑菌が活動・繁殖できないような、乳酸を生成させて雑菌を排除し酒をおいしくする乳酸菌・硝酸還元菌などの生育元で、酸性環境下に強いタイプの有益な酵母や菌をゆっくりと繁殖させ、糖化作用を行なうことをいう
山卸廃止酛で造った酒は、酒母そのものがアミノ酸組成が高いために濃醇な味になり、味の腰も強く、香りも奥行きがあって芳しい。そのため、高級ウイスキーのように、水で割っても同じ酒の味がする。また、酒母ができあがってから使用するまでの期間を工程のなかでは枯らしというが、枯らし日数が長くなっても酒母の力が低下しないという強みも持ち合わせている<

>だが、造り手である杜氏の長年の経験と高度なセンスを要求される山廃仕込みは、途中で腐敗するリスクも大きく、それなりの手間もかかるために敬遠される傾向もあり、酵母仕込み、高温糖化酒母、中温速醸酒母などの合理化によって山廃で仕込まなくなった酒蔵も多い、奈良はその技術が日本一であったことで、今も三軒の酒蔵が山廃仕込みの酒を造っている<

そして講師曰く、「奈良の日本一と云われる酒造り技術は一人の名人杜氏(とじ)に依るものだった」
その杜氏の名は、なんと「井谷」であったと云う、ギク!
私は静かに酒の香を利き、ジックリ味わったのである
米は山田錦と雄町を使うが、比べるとキレは山田錦、コクは雄町という感じであった

最後にもう一つの話
ドブロクとにごり酒は別物という話、にごり酒は清酒になるそうである
濁酒と漢字で書くと「どぶろく」であり、にごり酒は「にごり」をひらがなで書く
それは酒の法律でも定められており区分されているとか、初めて知った

旨い酒をタップリ頂いて会はお開きとなり、皆さん満足げに帰られた
その後で、私と佐藤さんと二人で再び一杯となる
「カエルが飲酒誘発」、やはり確かな話だ

更に付録話・・
私の四人席の相客三人、これまた何と、三人とも私の高校の同級生であった、バンバン!!
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やぶ椿、椿の原種で日本が原産地、紅椿が多いが白椿や桃色椿もある
信長、光秀の頃の椿とは、やぶ椿であった

好タイミングというか、昨夜十時からNHKで「本能寺の変」の特集があった
眠たいのを堪え、番組を待って観たのだが、十五分ぐらいで寝てしもうた
何せ、光秀は女装の信長に恋い慕っておった云々という漫画家の話
もう、この手の話では睡魔に勝てぬ・・NHK不払いを続けよう・・ZZZ
よって番組の結末は見ず終いとなった

前回の明智光秀を話題にしたこと、人間禅の丸川総裁の話が残っていた故である
明治初期に山岡鉄舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、中江兆民等のよって創設され百年余り
そのいう処は、紘宇壮大かつ高貴ではあるが、今もって千人足らすの会員だとか
私が総裁に申し上げたのは「数は力、底辺の広さが頂点の高さにつながると思う」
総裁は「数より質と思う、だが数は増やしたい、そのことで日々頭を巡らしている」
恐らく論理矛盾の歯痒さだろうか、しきりに頭を抱えながらお話しであった

私は「千三つ」、センダミツオのことでは無い、「馬鹿三人は千人を動かす」の話だ
それと、明智光秀の「人を動かすことへの間違い」を思い浮かべたのである

「馬鹿三人」とは、勿論アホの脳タリンではない、組織目的に鋭意専心する一途者のこと
マーケティングの世界で云う、コンマ3%の人が次の流れを作るという話と同じであろう
つまり、「オピニオンリーダー」の説であるが、私はコンマ01でも可とも思っている
夜も日も、自他も、見栄も外聞も、そして命も名も厭わず、目的・使命に徹する者三人は
千人の組織を動かすということであり、三十人で万人、三千人で億人ということである
明治維新の濫觴(源)になったのは、三十人余りの尊攘攘夷の士が大和で挙兵した天誅組
何故か医者と茶人が多い集団であったが、尊王の十津川郷士九百六十人が合流し千名規模
吉野各地を転戦したが東吉野鷲家口で、幕府軍の前に壊滅し、尊王攘夷の思いは果てた
然し、この天誅組の挙兵は全国の勤王の士に感銘を与え、やがて明治維新への大河を為した

当時の日本の人口は約三千万、天誅組は千人、勤王の志士と呼ばれたのは二・三千人程度
「馬鹿三人」の割合は何時しか大波となり、それはすぐ数万の軍勢となって江戸に向かった
人間禅の人達は「居士禅」つまり在家主義ということで、医者・教授・企業役員を口にする
妙な俗気や世間体が尻に付いたままでなので、その組織目的に身を挺することはないようだ
人間禅にホンマもんの「馬鹿」が三人は出てきなさって、数をつくられることを祈念する

さて、明智光秀のこと、破れた要因という話への私見
最大の要因は、光秀が人を動かせなかったことにあったと私は思う
人は何を以って動くかということに、光成は心底で誤ったのではなかろうか
人が動くは、「一に恐怖、二に利益、三・四が無くて、五に同義」と私は思う
主殺しの汚名を被る一介の重臣には、後の恐れに身が引くのは当然である
下剋上とは、権力の下地を担ったナンバーツーがナンバーワンの権威を簒奪するもの
それが正当な下剋上であり、前主が抗えば主殺しとなる、それで正統な跡継ぎとなる
織田家も尾張守護の斯波家から下剋上でその地位を簒奪したが、光秀には下地が無い

勿論、恐怖の前に利益は意味をなさない、よって恐怖を持たないものが利益で乗る
それは、織田や秀吉に抗う力を持てる者、例えば上杉、北条、毛利、島津、長曾我部
然し、それらの者が求める利益とは「天下」そのもの、光秀への臣下の礼はとらぬ
では「義」であるが、光秀には信長を打つ「私恨」はあったが、「大義」は無かった
大義のないところに、命(恐怖)も名(利益)も省みず馳せ参上する者は居ない
光秀は、私的な義を細川に期待し求めるという、細川への不義理をしたということ

光秀の敗因は、戦略思考に掛けたことと、人の心を掴む度量に欠けたことではなかろうか
とか、当時のことを知らぬ私が勝手な憶測をした、人間禅の方々には無礼の極みである
然し乍ら、私は人間禅ん創設の意は是とするところ、世の中に光を照らしてもらい度しと願う
そう云えは二十代の頃、私は京都・一燈園というところに一か月半も籠らされた
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坂本家の桔梗紋、桔梗は明智家の紋

昨日、大阪赤十字病院で眼球と脳ミソの隙間の腫瘍摘出手術の話をもらったこと
その私の記事に対し、拍手が入っていた・・(--) むむ

明智光秀のこと、武将としても智勇に優れ、茶の湯や和歌の造詣も深いという
茶は津田宗及に学び、武野紹鷗に茶を学んだ細川藤孝(幽斎)と並ぶ教養人であった
二人は戦友かつ親友でもあり、光秀の娘は藤孝の息子・忠興に嫁し、細川ガラシャとなる
然し、本能寺の変で信長を討ち、山崎で秀吉軍と対峙した光秀に細川親子は与しなかった
恐らく、光秀にとっては最大の誤算であったろうし、それが敗北の主因とも云えたであろう
細川藤孝は、その期に剃髪し幽斎を名乗って引退、一つの義を示したということである

敗走途中で落ち武者狩りの土民に竹槍で殺されたとされる、光秀、実は生きていたとか
一つの話は、怪僧・南光坊天海という説、もう一つは何と、千利休という説である
南光坊・天海説は有名であり、かなり流布されている、その根拠

1.日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋
2.日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある
3.徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀の名に由来
4.光秀が亡くなったはずの以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑がある
5.光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけた
(於福は三代将軍徳川家光の乳母「春日局」になった)
6.天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」とか
云々である

さてさて、奇怪な光秀・利休説とは

>明智光秀は山崎の一戦にもろくも敗れて、ついに名もなき一土兵のために竹槍にて突き殺されたと歴史に伝えられてあるが、あれは嘘である。
天王山の一戦で勝敗の決することは始めからよく承知しておったが、光秀は将士のたびたびの迎えをうけながら、わざとグズグズしていて、ついに勝を秀吉に譲ったのである。
実は、とっくに光秀と秀吉とのあいだには妥協が成立していたのである。
聡明なる光秀は、たとえいかなる事情があったにもせよ、いったん主殺しの汚名を着た者が天下の将軍となっても永続きせぬ、ということをよく承知していて、秀吉に勝を譲ったのである。
そしてかれは頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸(しおりど)四畳半の中にあって天下の大事を論じ、謀(はかりごと)をめぐらして秀吉を太閤の地位まで押しのぼしてしまったのである。
かれはじつに秀吉の好参謀であったのである。朝鮮征伐なども、かれの献策に出たものである。
茶室に這入(はい)るには丸腰となってにじり口より入(い)らねばならぬ。元亀天正時代、荒武者を制御操縦するにもってこいの場所方法であり、秘密を保つに絶好であった。
後に彼は娘の美貌が禍(わざわい)の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと世に伝えられているが、まったく跡形もないことである。英雄、英雄を知る、諸般機微の消息は俗人にはわからぬ。 <

この説、戦前に活躍した世界的な宗教家である出口王仁三郎という神人の話とか
その神人の弟子の一人が実は千家の継嗣と知り合いで、その話をしたところ
それは後継ぎにだけ知らされる一子相伝であって、 決して外には漏らさないこと
どうしてわかったのかと、跡継ぎは不思議がった、というオチがつく
さあ、皆さん如何?(^^)

ついでながら、坂本竜馬と明智光秀の関係を司馬遼太郎が書いている

>家祖は、 琵琶湖を馬で渡った明智左馬助光春であったといわれる。 明智滅亡後、左馬助の庶子太郎五郎が土佐に逃れて長岡才谷村に住み、長祖我部家の一領具足になった。
一領具足とは、、長曽我部家独特の兵制で、平時は、田のあぜに槍をつきたて、具足を結びつけて耕作し、陣触れの貝が鳴れば、そのままくわを捨て、槍をにぎり、馬一頭を駆って戦場に出てゆく者どもをいう。 戦国の末期、長曾我部元親はこの剽悍(ひょうかん)な一領具足をひきいて四国全土を切りし従えたものである。
坂本家では、 寛文年間、4代八兵衛守之が高知本町筋3丁目で酒造業を創業して栄えた。5代、6代と巨万の富を積み、7代八平直海(なおみ)の時に家業を弟にゆずり、郷士の格を買ってもとの武士にもどった。領地は197石、禄高は10石4斗である。屋敷は本家の才谷屋と背中合わせになっている。坂本という、土佐にはめずらしい苗字は、家祖が琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことにちなんだもので、紋所は明智の桔梗である。<

此方は信憑性がありそうかも
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金柑、「キンカン皮食うて実放せ」の果実である

江戸時代後期に清国の船が遭難死清水の港に避難した時のこと
御礼にと、清の乗組員が金柑の砂糖漬けを渡したという
その種を植え育てたのが始まりということになっている
然し、大いに疑問が浮かぶところである
何故なら、織田信長の明智光秀への言葉、「この金柑頭」
つまり、清国船の話より、三百年位も前の話になる

明智光秀は本能寺で信長を討った後、秀吉に山崎の戦いで敗れる
その最期は山城の伏見辺りで落ち武者狩りの土民の竹槍で果てたとか

今日は今から大阪赤十字病院まで行くことになっているので中断する
昨日はは奈良西中央病院であった
診察券が増えた

大阪から帰宅
七年前に奈良済生会病院で蓄膿の手術を受けたが患部を開けると違った
脳みそと眼球の隙間に根をもつ腫瘍と分かり、大阪赤十字病院に回される
鼻孔の奥の骨を削り、腫瘍の大部分を除去したものの、根の部分は取れずのまま
眼球か脳みそに傷がつく恐れありで、悪性になるかどうか後の様子見という話となる
昨年末頃から洟に血が滲み、検査に行くと、腫瘍が立派に再生しているとのこと

広島大学医学部出という主治医、我が宗家と同じ町内育ちという心安さの所為か、曰く
「七年前より、内視鏡センサー手術の技術が進んじょるで、今は除去が可能なんじゃが・・
まま、眼球か左脳に傷が付く心配は全く無いとは云えんが・・如何しんさる?」
私は応えて曰く、「まあ、やってみてくんさい、もう、生き死にはええけぇ」
来月、再度の検査で、どうするか決めるということになった
今日はもう、光秀の怪奇話の書き込みは止めにする
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芽吹き出した秋篠川の桜木

先の高山右近の記事で、あれほど多くの武将茶人がキリスタン(耶蘇教徒)であったこと
それが何時しか禅宗が茶と結びつき、やがて茶禅一味とかいわれるようになったことへの疑問
とある御仁のコメントで、室町から桃山の武将茶人と耶蘇教の実態は「歴史の埋れ木」とあった
最近、それに関連して違う御仁(堺の忘年会で飲んだ老医師)から以下のコメントがあった
腑に落ちる話なので記載する

> キリスト教が、日本に最初入った時には、仏教の珍しい一派だと考えられ、天竺宗とか称されたという話もありますから、ちょっと一向宗に似たところがあり、一向宗よりも、「選択(せんじゃく)」の度合いが強い宗派だ、ぐらいに受け止められていたのではないかと思われます。
 そう考えるとと、北野大茶会も、万聖節と言うよりも、何か東アジア世界での類似の先行例を、探すほうが良いかもしれません。
 禅宗が、茶道を取り込んで行くのは、武家政権との関わりの関係で、茶道を取り込むべきだとの判断が、あったのではないか?とも思えます。禅宗は、武士政権の庇護の下に寺院が整備されてきた歴史があり、茶道が他宗派と結びつくのは、自派に取って、不利だという判断があったのでしょう。で、切支丹禁教を契機に、積極的に動いた。
 勿論、禅宗が武家のみならず、公家の庇護も受け、町人にも浸透はしていましたが、一向宗のような百姓、日蓮宗のような町人の仏教に比せば、武家を主たる檀越とすることは間違いないでしょう。<
2014.01.17 黙祷
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神戸市旗、昭和四五年六月一日制定
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山査子(さんざし)の枝と赤い実、ヒヨドリが集まって来ていた
北原白秋の「この道」、最終章の歌詞
♪あの雲も(注)いつか見た雲
ああ そうだよ
山査子(さんざし)の枝も垂(た)れてる♪

昨年十一月一六日のブログ「この道」の記事で山査子の花を掲載した時のこと
歌は知っていたが、山査子の花ってどんなのかと思っていたというコメントを貰った
悪女(悪爺)の深情け、散歩の脇道に実を付けた山査子の枝が垂れていたので掲載

昨夜、風呂で温もって出て来ると、女房殿が炬燵でNHKの歌謡番組を見ていた
私が横に坐ったその時である、NHKがコマーシャルを横入れしたのである
何のことはない、後の時間にNHKBSで時代劇のスペシャル版があるという告知
告知版の画面を見て「うん?」私は括目、以前から気になっていた俳優の顔であった

「福本清三」と云っても殆どの人は知らないであろう、私もその名を知ったのは最近のこと
然し、その俳優の存在は以前からよく知っていた、「切られ役」の大部屋役者である
視点は少々違ってはいるのが、私も妻も時代劇が好きでよく見ていた
先に「水戸黄門」が終わり、それをもって時代劇はテレビ番組から消えたのだった
女房殿はケーブルテレビの時代劇チャンネルで昔の番組を何度も見て気を紛らわしている

その時代劇の中で、毎回のように姿を見せる「切られ役」、台詞はほとんど無い
その顔付、眼付が印象的であり、体を反り返して切られる演技も彼一流のものであった
私には悪役を演じている彼に、飄々とした味を感じて、彼が出て来ると妙に納得した
その彼が、ある時「大抜擢」を受けた、米映画「ラストサムライ」である
主役トム・クルーズに渡辺健や真田広之その他有名役者が出演し、話題作となった

話は明治初期、「よしの」の国に陣取る「サムライ」達の政府近代軍との戦いである
恐らく、明治一〇年の西南の役の薩摩兵と西郷隆盛をモチーフにしたのであろう
その配役表に「寡黙なサムライ(ボブ):福本清三」と記されていたのだ
つまり、大部屋役者の「通行人A」や「切られ役B」ではなく、役名をもっての出演だ

確かに「寡黙」な役で、台詞はほとんど無い、眼付を変えるか頷くだけの演技であった
声を出すのは切り合う際の気合いだけ、最後は騎乗抜刀し、政府軍の機銃に突っ込んだ
何発かの銃弾を受けて死ぬのだが、見事に「切られ役」を演じ、「人間の香り」を残した
彼・福本清三を選んだのは誰かは知らないが、選んだ人に私は共感を覚え嬉しくなった
いぶし銀の切られ役、まさに「ラストサムライ」であった

昨夜のNHKBS21時からの時代劇90分スペシャル番組「太秦ライムライト」
あのチャップリンの代表作をもじった名であるが、「主役」は福本清三であった
チャップリンと福本清三、超有名役者と超無名役者の違いはあるが、演じた哀愁は互角
それは、京都太秦という映画文化の発信場が、東京へと持ち去られていく哀愁でもあった
この企画者に乾杯
2014.01.14 人間禅
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人間禅・第五世葆光庵丸川春潭老師の手になる竹桶の水差と扇蓋

12日は御宗家和風堂の初釜に参列後、同じ並びの誓願寺により仲人夫婦の墓参
私の仲人は海軍兵学校・海軍大学を出たエリート海軍軍人で、色々教わることが多かった
ご夫人は上田流の当代宗家の母君、先代宗家の実妹君と女学校の一年先輩とか
ご夫人曰く「あんたは茶を習いなさい、あんたには武家茶がええ、町の師匠では問題を起こす」
と、私を上田宗箇流和風堂へ連行し、当代宗家の母君に引き合わされのは四十年も前のこと
その仲人夫人も昨年九十七歳で亡くなられたが、身内の密葬だったのでこの日に墓参をした

墓参を済ませた後、呉線で呉に向かう、着いたのは夕方六時ごろであった
呉は父親の海軍時代にいた場所でもあり、なんとなく親近感が漂う街でである
その呉駅から徒歩十分余りの両城町というところに人間坐禅の呉坐禅道場がある
私の上田流同期で四十年来の茶友・小畠氏が「光禅」の道号で茶と共に四十年余り禅修業している
その小畠氏がその呉坐禅道場の主であって、広島に来たなら寄ってくれとの誘いに応じたもの
その日は四日続いた静坐会の最終日で六時半から打ち上げ(飲み会)とかで、私もきっちり参加
人間禅本部からは丸川総裁が来られていて、小畠氏の紹介で面識を得て、貴重な話を拝聴する

人間禅のことを、解説文から転記

>明治の初め、山岡鉄舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、中江兆民等の先覚者が鎌倉円覚寺の管長今北洪川禅師を拝請し、一般の人々を対象として始めた修禅の会「両忘会」に源を発し、今日に及んでいます。
「人間禅」の名称は「人間形成の禅」を意味します。人間禅は旧来の封建的な体質を改め、なおかつ神秘や迷信を説かず、 各人がもっぱら「在家主義・居士禅」での禅の修行によって自己を鍛えあげ、人間として真実の味わい深い人生を生きることを目標としています。

※〔在家主義・居士禅〕…禅寺等で修行をされる僧侶や雲水の方々を「出家者(或いは出家僧)」と呼び、我々一般社会で生活をし活動している人達を「在家者」と呼びます。 「在家主義」とは、この一般社会にあって禅の修行をしようとする人達に正規の禅の修行をさせようという試みです。 <

その打ち上げを終えた後、皆が居なくなってからのこと、丸川総裁が私の席の前まで来られた
何か珍しい動物を見るかの眼差しで、且つ、目元優しく声を掛けて下さり、私の前に着座された
二人で飲み交わすような形となりながらも、あれこれと話が進み、楽しく有難くもあった
総裁は有楽流の茶をされ、道具も自らの手で作られ、どことなく宗箇を彷彿させる風をお持ちだ
私の浅学未熟な話も正面から受けて下さり、真っ当に長く話しをして頂いた

私が、人間禅が明治初期から百年余りの活動歴史を持ちながら、今だ千人程度の会員であることへの疑問を呈したことに、聞きようでは失礼であったが、正面からその話を受けて頭に抱えながらも応えて下さった
立派な御仁である、私は感じ入ってしまった次第
総裁の話の中に「人間の香り」という言葉があった、なるほどと感銘した
お蔭で、明くる日は早朝からの静坐の後、私が皆さんに茶を点てる仕儀となった


2014.01.13 御宗家初釜
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広島の上田宗箇流宗家・和風堂の玄関から長屋門に向かう道

12日には広島へ行き、御宗家の初釜に参列する
正客は大徳寺徳禅寺の住職、私は珠光流の栄田総師範と同席、
四日間で六百人を迎えての初釜で、料理は奈良・畠田の会席割烹「鬼楽」さん
「鬼楽」の御主人は上田流二五年の茶人、御縁で御宗家の初釜の会席料理を受けている
年末暮れから材のに仕入れと仕込みを奈良と広島の市場で手配する苦労は大変である
跡継ぎの息子さんは私の朋庵で茶の湯指導、一年で炭と濃茶・薄茶及び茶事形式を習得・卒塾
稽古日は朝十時から準備に入り、夕方四時過ぎまで稽古、それから店に戻るという状態を続けた
子供の頃から父親の茶に向かう姿を見ていた環境もあるが、一年で習得・卒塾は立派なもの
親父は息子に教えられんとかで、私に息子さんを託した親父さんの思いもご立派である
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寒牡丹、奈良・石光寺のもの、花言葉「恥じらい・誠実」

寒牡丹を冬牡丹とか云い、同じものとしてお使いの茶人も多いが別物である
冬牡丹とは、春に咲く牡丹を保冷室に置き、冬場に保温室に移し開花させるもの
云わば、人工的に開花時期を招請している牡丹で、冬牡丹とは園芸屋が使う名称
この二つ、見分けるのは簡単である、葉が青々して多いのが冬牡丹
茎や葉が枯れ細っているのが寒牡丹である、花にも真贋が入り乱れている
たかじんはんは、寒椿と云えそうかも知れない
言葉は艶やかに見えても、目と背中は枯れかかり、何となく「はじらい」がある

さて、上方と江戸の文化に話
元禄期ぐらいまでは京・大阪堺・奈良の上方文化と比べると江戸はへき地の片田舎
近松門左衛門や井原西鶴そして芭蕉という庶民文化は上方のものである
当時の江戸はその7割が武家用地、人口の半分以上が武士と足軽、小者の類である
庶民といっても、武家屋敷の用足しが基本であり、女子は三割にも満たなかったとか
そんなところで町人文化・庶民文化は望むべくも無く、武家の世界の文化であった

女房殿はテレビ時代劇がお好きで、水戸黄門、暴れん坊将軍、大岡越前がお気に入り
だが、実際のところ、八代将軍吉宗、暴れん坊将軍の頃から十一代家斉の頃
つまり、享保から天明年間(一八世紀後半)に「文運東漸」で江戸文学の発生を見る
これは、文学が上方から江戸に移動しただけでなく、新たなジャンルの成立を見た
談義本・黄表紙・洒落本・江戸小噺・川柳・天明狂歌などは江戸で生まれ育ったもの

然し、マスメディアの影響はすごいものがある、情報発信の影響力である
テレビ時代劇の発信力と「江戸時代」という呼び名が相まって架空の時代背景を作り上げた
まるで、中共・朝鮮の反日教育も顔負けの大衆へのマインドコントロールである
そして日本人の多くは、江戸が江戸時代が庶民文化の中心と思わされているのである
江戸期後半でも、上方と江戸の人口は拮抗しており、経済は大阪の銀相場で動いていた
大阪の庶民文化と京の公家社会が伝統文化の主流であり、先の蕪村も活躍した時代だ

やしきたかじん・はん、何故の「東京嫌い」であったのか
文化情報の発信まで、東京一極にすると、日本が壊れると思ったのではなかろうか
「このまま、東京に好きにさしたらアカン」、という声が聞こえそうである
あちらで、坂田三吉はんや桂春団治はんらと「そこまで云って委員会」をやんなされ


私は、生まれたところに住み続け、生まれた地の言葉にまま(マザーランゲージ)で
その土地から日本各地のみならず、世界相手の仕事が出来て、その土地で死ねることを願う
たかじんはん大阪生まれやから大阪で、元ちとせはんは奄美から、他に九州四国東北北陸と
日本各地が文化発信の中心のなれるようでありたいと願い続けたのだと思いたい
ある御仁曰く「球の一点は全て球の中心」だとか

・・たかじんはん、何で東京の病院で死んだの・・?
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あだ花、咲いても実をつけない花をいう、写真は彼岸花いわゆる死人花
どうも東京関係からは、たかじんはんは関西ローカルの「あだ花」扱いいかも

東京一元集中には、それはそれで功罪があると思われ、色々云々されている
私は、効率の効果と履き違えが一番の罪だと思っている
解り易く云うと、文明と文化の履き違えであろう、文明は汎用性と広域性をもつ
従って、文明には一元集中の効率性を追求することは是であり、善である
よって、政治も経済も科学技術も効率運用を果すことで、より大きな効果を生むとする
だが、果してそうであろうか、文明を支えるには文化があり、人々の文化が文明を支える

文化とは、価値観や思想、それを表す言語であり、それは地域性と伝統に根差すもの
物質が幸せそのものの全てでもなく、利便が満足・喜びそのものの全てでもない
生きて来た幸せ、生きる喜びを形にすることということは、効率では生まれない
文化の基本は、地域と伝統の中で、その効果を深め高めるというものであろう

故に、今の東京一極集中の過ぎたるもの、見境のないものへ向かうことに危惧を覚える
まして況や、文化の東京一極集中と東京一極発信はことの本質を見損なっているものだ
地方の田舎出身キャスターが上から目線で地方の田舎ぶりを笑う姿も然ることながら
「関西ローカル」と口にする自体、無知の典型であり、その局の見識の無さの表れである
それに、吉本芸人を始め上方の芸能人が東京に住み、「関西云々」というは情けなくなる

文化の成熟した欧州では、地域と伝統に根ざした文化を大切にしていると聞く
地方と中央のコラボ(複合)の形態を模索しつつ文明と文化の発展を図りたいものだ
中央は複数あることが望ましいと思う、ことに政治の中心、経済の中心、文化の中心
江戸期の日本は、其々の地方に文化と思想、技術と学問、武術があり、人が往来した
志を持った者は日本各地に師を訪ね、知識や技術を磨き見識を高め、そして日本を支えた

明治の政治家は藩閥ながら、卓見というか国家国体の在り様が解っていたかも知れない
東京と京都はじめ、京城や台北を含めた帝国大学の設置、全国に全寮制の旧制高校
東京と広島に高等師範、東京と奈良の女子高等師範、東京と大阪と旅順の工業学校
東京・大阪・神戸の商業学校、更に商船学校や農学校も地域に根差す様に配置した
つまり、教育・文化は一極集中ではなく地域分散という意識があったものと思われる

続く
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さくらそう、花言葉「青春の始まりと悲しみ」原産地が金剛山麓ということで大阪の府花
今のさくらそうは埼玉と東京に流れる荒川に原生していたものを改良したとかで、埼玉の県花でもある

女房殿の「朝ドラ・ごちそうさん」の視聴を兼ねての朝餉で書き込み休憩であった
さて荒川、私にとっても東京の「青春の始まりと悲しみ」を与えてくれたところである
友が集まり、楽しく嬉しく騒ぐのも荒川の土手
所属した運動部の一人稽古に励み、駆け回るのも荒川の土手
虚しく悲しく、想い出に浸り、人を偲ぶのも荒川の土手
川向こうは埼玉県川口、キューポラの町の映画で有名になったのは知らず終いであった
そう云えば、主人公吉永小百合は学校で偶然見かけたことがあった・・別嬪だった

荒川の土手横の私の下宿は、大家の住まう一階と下宿人の三畳間五室が二階にあった
便所と洗面所兼炊事場は一階で風呂は無い、銭湯には綺麗な女将が居て、恥ずかしかった
下宿人は、私以外に茨城の学生、津軽の看護婦、得体の知れぬ男女組、八十過ぎの婆さん
その中、東京者はその八十過ぎの婆さんだけであったが、何故か私にそっけなかった
話に聞くとその婆さん、その歳まで箱根から向こうの西国には行ったことが無いという
そして曰く、「大阪者は嫌いだ、東京のお金を皆持っていく、」云々とかであった
私は奈良で大阪ではないと云うたが、聞く耳持たぬという態度であった・・
そして、その下宿での生活が、私の米穀通帳一通と柳行李一梱での東京生活の始まりであった
かぐや姫の「神田川」がヒットする少し前の話である

東京生活を始めて、暫くして気付かされたことが幾つかあった
一つは言葉である、近畿以外の人達は言葉を東京弁に変えてしまうこと
地方、特に東北出身の人達が自分の田舎言葉や田舎風俗を殊更笑いの種にすること
そして、先に来た地方の者が後から来た地方の者を馬鹿にしたがること
何だろうか、この現象はと、不思議と云うより不可解なものと感じていた
渡米した漢人を食い物にするのは、先に渡った漢人であるという話と似ている
結局、学校の中では東京弁と曰く関西弁だけの世界になってしまうことが多い

私は近畿という言葉で教育を受けて来た所為か「関西」という言葉に馴染めなかった
然し、近畿人という言葉も聞かないし、まして上方者というのも時代掛って使いづらい
よって、「関西」「関西弁」「関西人」と云う言葉もそのままにして過す様になった
今から思うと「畿内人」というのがシックリ来たと思われるのであるが、もう遅いか
大正から戦後しばらくは、政治の中心は東京、経済の中心は大阪、文化の中心は京都
そして、各地には「旧制高校」の伝統と地方の伝統が受け継がれ、日本を支えていた
皮肉にも、昭和四十五年大阪万博が成功裡に終えた頃から、東京への一元集中が始まった
それは暫くして始まるバブル経済の崩壊と、日本経済の失われた二十年への緒であった

続く
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水仙、雪中花とも、花言葉「自己愛・うぬぼれ」、地中海原産
散歩道からそれた脇道に咲いていた
「水仙や 寒き都の ここかしこ」 与謝蕪村

最近、女房殿はNHKの朝ドラ「ごちそうさん」を面白がって見ている
女房殿の云うところでは、主役云々より、脇役の俳優が面白いらしいとか
東京から大阪に場面が移るところで年が暮れたが、この六日に再開された
なんと、東京娘だった女主役が大阪弁の三人の子持ち母ちゃんとなっていた
時代背景は大正から昭和に向かう「大大阪」の頃、人口も経済も日本一の町
少々難を云えば、料理のメモをとる主人公、横書きでしかも左から右である
まま、製作スタッフの素養レベルで、その主人公には罪はなかろうと捨て置く

この二三日のテレビは、何処に切り替えても「たかじん」のことで喧躁
これまた少々引っかかったのは話し手の「関西ローカル」という言い草である
そして「たかじんの東京嫌い」という話が面白おかしく勝手な解釈で語られていた
私も学生時代は東京暮らしをしていたので、話が何か違うなと感じるものがあった

続く
2014.01.08 干支菓子
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絵馬を象った菓子、菓子盆の馬の字は「ひだりうま」となっている

さて、今年の干支は 甲午(きのえうま)正月菓子に加え、干支菓子が出される
私としては有楽流を嗜む転害門の前の「萬林堂」さんの絵馬の干菓子を使った
菓子盆は名古屋の華道家元・小出玉乗斎宗匠からの頂いたもの
宗匠は昨秋に藍綬褒章を受章にされ、その記念品として作られたものだとか
干支に因むものとは、他に干支香合や干支茶碗、掛け軸等があり物入りになる
干支ものは、正月と年末の納釜に使った後は、一二年後までお蔵入りとなる

菓子盆の字は「ひだりうま」となっていることを、少々講釈

>「馬」の字を逆さに書いた字を「ひだりうま」と読び、大勢の人、よろずの福を引き連れてやってくる百福万来の神馬なり、そして「うま」の逆は「まう」となり、昔からめでたい席で踊られる「舞い」を思い起こさせるため「ひだりうま」は福を招く縁起のよい文字とされている。<

とかだそうである
折角だから、じゃじゃ馬も暴れ馬も、今年は馬耳東風卯・馬の耳に念仏で行こう
そう云えば、、こんな話も思い出した
人間万事塞翁が馬 (じんかんばんじ、さいおうがうま)
早い話が、世の中はなんじゃかんじゃあっても、それが悪いとは限らない・・とか
2014.01.07 正月の菓子
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左が干し柿を酒或いは焼酎で拭いたもの、右は「花びら餅」
どうも上下逆に撮ったようである

花びら餅とは、京都は御所の雑煮として、お正月にだけいただく伝統の菓子だそうだ
京都の白味噌のあんをごぼうと共に外郎(ういろう)や求肥(ぎゅうひ)餅で包んだ菓子
求肥は玄米から作る餅で、牛の皮に似ているんで牛皮餅といったが、上品に求肥と字を充てた
ごぼうを包むのは、押し鮎に見立てたものということ
鮎は年魚と書き、年始に用いられたらしく、元旦に供えると『土佐日記』にあるようだ
初めはつき餅だったが、最近は求肥となったとかで、千家さんの初釜菓子となり他流もそれに倣う

上田宗箇流の正月菓子は干し柿を酒か焼酎で拭いたもの、武人の茶にそぐわしいものであった
然し、近年の我が流儀の先生方では、その「花びら餅をお使いでいらっしゃる方」が大半とか・・
そう云えば、道具の箱書をこれ見よがしに並べるとか、道具会記を書いて客前に出すとか
これまでの我が流儀に無かった風俗(?)がはこびり、何時しか当然の仕来りのようになった

一昨日の大福茶では、新人各位に花びら餅を出し、他流ではこんなものを使うので参考にとした
昨日は卒塾者なので、干し柿を焼酎に漬けて出したのだが、私は柿のヘタで指を切ったのである
まま幸い、そこは焼酎の中、指を舐めて血を止め、そのままその焼酎を飲み干したのだ
そして、少々いい気分になって茶を点てたのである

大福茶の後、山口出身の知人が年賀にくれた紅白かまぼこ(岸信介が皇室に献上した山口の白銀)
それに、これまた貰い物の琵琶湖の鮎(年魚)を添え、これも貰い物の山田錦の酒で祝い膳
結局、茶盛りが酒盛りになった上でお開き、また今年も皆さんに迷惑を掛けた次第
2014.01.06 大福茶
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大福台(おおぶくだい)、土器(かわらげ)には小梅と黒豆と粉山椒
箸紙の中には青竹の箸を入れ、箸紙を織り込んである裏には人数分の黒文字を挟んでおく
元旦に青竹を切に行き、尺八花入だけ作って蓋置と箸を忘れた(ボケ)、写真は黒文字の七寸箸

大抵の茶の流儀で、正月は大福茶(おおぶくちゃ)を飲む風習があるようだ
流儀により中身は異なるが、当流では薄茶に小梅と黒豆に粉山椒を塗して入れ、黒文字を添える
この風習は、平安期の村上天皇が大病にかかられた話に溯るということだ
天皇の夢枕に六波羅観世音が立たれ、こんなふうにして茶を飲めば病が治るお告げがあったとか
それで王が服した茶、王服茶と呼び、それがやがて大きな福の茶、大福茶になったという
一説では、疫病が流行った際に空也上人が病人に飲ました茶で、それを村上天皇も服し病が癒えた
そこから、皇服茶や王服茶と呼んだという話にもなっているようだ

まま、昨日と今日、そして明後日八日にも大福茶を点てることになる
福を振舞って悪いことは無かろうにて、皆様の一年の健康を祈念してしっかり点てようと思う
我が愛犬ハナにも飲まそうかな・・
2014.01.04 銀座の柳
無題
「銀座の柳」の歌碑と植樹された銀座の柳の二世
銀座通りの果てる処、新橋に建てられているのだとか

「銀座の柳」でご教示を頂いた
銀座通りから柳が姿を消したのは昭和四三年の道路拡張に伴うものだそうだ
その頃私は東京に居たので、その風易を印象に残している
それと「銀座の柳」の歌は、昭和七年のもので、「東京行進曲」は昭和四年に作られている
作詞は同じ西条八十であるが、ヒットして有名なのは「東京行進曲」の方だとか

それと、銀座の柳の疎開地は日野市で、三本の木から有志が枝分けをして二世を育てた
その二世が全国各地に送られたらしく、奈良平城京もその一つということらしい
本来、銀座の柳は信濃は安曇のもので、近年に安積市から百本の柳が東京に寄贈されたという
何でも奈良ではないと云われ、頷くしかなかった

ところで、花見の風習は八代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」の一環から始まったものとか
隅田川堤(向島)や御殿山(品川)などにサクラを植樹して、花見客の宴会場まで設けたという
実はその桜、奈良吉野から移植したものであった、つまり江戸の花見は吉野の流れを継ぐもの
上野寛永寺の桜は三代将軍家光が吉野から取り寄せたもの、それが江戸の桜の始まりとか

では、「東京行進曲」

昔恋しい 銀座の柳
仇な年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って
リキュルで更けて
明けりゃダンサーの 涙雨

恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文書く 人もある
ラッシュアワーに
拾った薔薇を
せめてあの娘の 思い出に

ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄
わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ

シネマ見ましょか
お茶のみましょか
いっそ小田急で
逃げましょうか
かわる新宿
あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
2014.01.03 結び柳
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結び柳、青竹の掛け花入(尺八)に入れるのが正月飾りの定番
当流では花入の口に紅白の椿を挿すが、紅紐で結いだので白椿だけとした

この結び柳のことを綰柳(わんりゅう)ともいう、「綰」とは曲げて輪にするという意味とか
「離別河邊綰柳條、千山萬水玉人遙」 (離別河辺に柳条を結ぶ、千山万水玉人遥かなり)
昔の唐土では人との別れに際し、送る者と送られる者が柳の枝を結び合わせて持つ風習があった
柳枝を結ぶとは、曲げて輪にするで、これは無事に回転して帰るように旅中の平安を祈るもの
冬が終わり春が来る新春を慶ぶ「一陽来復」の季節の回転とも重ねた意味もあるとも聞く
それに、木々の中で最も早く新芽が出るのが柳とされ、「芽出度い」というとかも聞く

この写真は、近くの公園に植わった大木の柳の枝である
例年、年の暮れに脚立と高枝鋏を持って行き、三本ほど頂戴していたのである
然し、今年は違っていた、脚立を運ぶ車が無い、それに柳の大木の枝は伐採されていたのだ
私が知る他の柳は平城京朱雀門の広場にある「銀座の柳」か猿沢池の柳である
例え枝三本とは云え、大勢の人が居る中で脚立と高枝鋏持っての行為は気が咎める
柳を置いている花屋は遠いが、今年は三輪車でそこまで行って買おうかと思っていた

そこに朗報がふたつ
ひとつは、枝が伐採された近所の公園の柳、上の方に枝が残っているのを見つけた
ふたつは、二日に娘夫婦が年賀に来ると云う、婿は体躯があり身体能力も高い
そこで年賀に来た婿を待ち受け、二人で脚立と高枝鋏を持って公園に行った次第

ついでながら「銀座の柳」
西条八十の作詞で有名な柳だが、今の銀座にはその柳の姿は無い
根ごと伐採されたらしいが、生き残った柳があった、それが平城京に移植された柳である


植えてうれしい 銀座の柳
江戸の名残りの うすみどり
吹けよ春風 紅傘日傘
今日もくるくる 人通り

巴里のマロニエ 銀座の柳
西と東の 恋の宿
誰を待つやら あの子の肩を
撫でてやさしい 糸柳

恋はくれない 柳は緑
染める都の 春模様
銀座うれしや 柳が招く
招く昭和の 人通り

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ほころぶ紅梅の花、裏の神社に初詣がてらの散歩道で目にした

年が明けた、また一年の始まりである
人並みに、人生とは何なのか、何であったのか、とか思う旬である
茶の美学と人生といえば大袈裟だが、今年はあることに気付かされた
茶で云う「不完全の美」は、人生にも通じるということである

西洋や印度、唐土の宮殿や庭は整然と構成されたものが多い
まるで定規では測った様に作られている、実際に測って作られているのだろう
同じように彼の地の器物等もそうである、左右対称で歪みや凹みは余り見られない
というより、歪み凹みは失敗作か駄作とされているようだ
だが、日本の茶人は人為のないその歪みや凹みに、「不完全の美」を見出した
世界の美術史上、全く稀有な美感、美学とも云えるであろう

私は結構、人生というものをあれこれ考えるところがある、(見かけのタイプとは違って)
今頃にして気付いた「人生は不完全の美」
何となく、ホッとした思いで雑煮の紅白餅を口にした