無題
キリン発泡酒・「澄みきり」、ヒット商品である
先の「炭切り」記事にコメントをもらった
返信操作が分からずモタモタしたが、取り敢えず返信した


>宗二
偶然にも今「山上宗二記」を読んでいたところ、出合った一文に「茶湯には習骨法普法度」とあり、その解説として「骨法とは本質のこと、本質を習得すれば、さまざまな規則、礼法に通じる」とありました。
茶湯の実態を知らぬ読者としては、心晴れぬままで読むしかないと、諦めていたところに本日の「炭切り話」、心澄み切り噺にございました。<


>風翁
コメントを入れて下さり、おおきにです
「山上宗二」、強烈な生き様をしましたね
宗二記では金銭や人物のことがやや多いきらいがありますが、
彼の茶論は確かなものがあるように私は思います
何せ、信憑性がある古文書としては、一等の資料とされています
それはともかく、「心澄みきり噺し」とは座布団三枚、なかなかの軽妙洒脱
キリン発泡酒「澄みきり」は旨くて安いヒット商品です
然しながら、糖質とプリン体のカット(切り)がない
酒屋に行く都度、そのことが残念に思う日々を送っています

コメント修正の方法が分からず今になりました・・<


ところで、今朝はウグイスの初便りが聞えました
我が家の前の梅林と竹林が宅地造成され、スズメとウグイスを見掛けなりました
それが今朝、[済みきった」ウグイスの鳴き声が響いています
何か、嬉しくなりました
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2014.02.26 琴棋書画
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名古屋城本丸のある「琴棋書画」の絵
古来、唐土の地では貴人・文人の素養というか嗜みは、琴・棋(囲碁)・書・画とされたという
日本の武家社会の素養としては、剣・禅・茶となったが、武人・茶人は囲碁・書画の造詣も深かったようだ

昨日の私の記事に、次のような拍手コメントが入った、

>私も父に言われました事があります。一戦目がすべてです(負けた方が全滅している)。勝った相手に二戦目をお願いするなら、土下座する思いでお願いする。碁は頭の格闘技、そんな目に合いたくないと思い、だから強くなりたいと思えと・・・私、碁のルールは分かっていますがやりません。<

私は「御意」とだけの返信を打った
傷口を塩で擦られているようで・・
2014.02.25 第一局
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今朝、散歩道を変えると満開の白梅に出会った、場所なのか種類なのかと考える
♪梅は咲いたか~桜は未だかいな♪ 江戸端唱(はうた)だそうな
♪桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿・・とかいうのも聞く、馬鹿という限り江戸の小噺であろう

昨日の同級生との囲碁定期戦、私の一勝二敗であった
中押し負け、十七目勝ち、二十一目負け、という戦績順である
最近気づいたのだが、このところ、ほとんど私の一勝二敗で推移している
それに、第一局は必ず私の負けとなっている、どうも何かおかしい・・
あ奴、変な手加減を、とつい思ってしまうのあるでが、如何なものであろう
武士の情けというか、男の優しさというか、それを受ける方は惨めさを増す
次回からは、第一局の勝負に全てを掛けることにしよう、
2014.02.24 梅の蕾
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今朝の散歩途中で見た梅の蕾、もう一週間も待たず開花となろう、白梅くさいと睨んでいる
バラ科サクラ属というから、親族は華やかなである、名は唐土の梅「メィ」そのものからであろう
梅の実は、梅干として古来日本人の食生活を助けて来たと云える、梅握り飯も日の丸弁当もそうだ
その梅を漬ける塩加減のこと「塩梅・あんばい」という言葉はすっかり定着している

ところで、和歌山話の付足しになるが「南高梅」、味と価格は日本一の梅干として有名であろう
大粒で、最近はシソ味だけでなく、ハチミツ味もある、実も大きくピンポン玉ぐらいのもある
上物では一粒が三百円や五百円程度するようだ、私は和歌山でコッソリ売られている「つぶれ梅」
加工途中で実が割れたもので、見た目は少々悪いが味は変わらない、価格は半値以下でお勧めである
この「南高梅」、その名の由来を知る人は意外に少ないらしいが、和歌山県立「南部・みなべ高校」である

>南高梅は明治35年に高田貞楠さんという方が発見したことから、もともとは『高田梅』と呼ばれていました。
昭和25年、「和歌山県南部川村(現みなべ町)」内の数十種に及ぶ梅の品種の中から適地適合の優良品種を選ぶべく「梅優良母樹選定委員会」が発足しました。その委員長を務めた南部高校園芸科の主任教師、竹中勝太郎先生が生徒と共に5年の歳月をかけて行った梅の品種調査の結果、『高田梅』が最優良品種に選ばれました。その際に改めて「南高(=南部高校)梅」と命名されたのです。
ちなみにこの名称は昭和40年に農林省に名称登録されています。<
・・とか、(前にも記事にした)

話は全く変わるが、私のブログに「文が長い」との諫言・忠言を頂いている元新聞記者の御仁
その御仁、囲碁五段の腕前であり、私は時々指導碁を打ってもらっている
指導方法は、まず七石置かせてもらい、三連勝すると一石減らすというものである
二年前から始めて、七石、六石、5石と指導のお蔭で勝ち上がっていた
四石では連敗が続き、瞬く間に七石まで戻ってしまったのである

今日は囲碁二段の同級生との月一回の定期戦の日で、午後から来てくれることになっている
それでというか、昨日その元新聞記者の御仁と七石置いて腕馴らしを試みた
三連敗であった、その御仁曰く「なんぼなんでも八石は忍び難い、次回も七石としましょう」
同情や憐みを受ける身の心情、うっすらと目が曇ったのであった
今日の定期戦、満を持して同級生を待つ
2014.02.23 よもぎ、お灸
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秋篠川畔で見付けた「よもぎ・蓬」の若草、別名「餅草」と呼び「よもぎ餅」にする
最近見かけなくなったが、灸に使う「もぐさ・艾」の材料でもある
昔はどの家にも「もぐさ」があり、寝小便や悪戯をするとお尻に灸をされた
銭湯に行くと、背中に四つ六つの灸痕を持つジイサンをよく見掛けたものだ
「その時は熱くて辛いが後で利く」というものは人生でも経験して来たように思う

さて、昨日の和歌山の情報ネットワーク会社の社長の続き話
彼は経営理念として、「気高く」「強く」「一筋に」という言葉を挙げている
最近まで知らなんだが、そのホームページの記されているを見て、あれッと思った
我が流儀の祖・上田宗箇の伝記には、宗箇の茶への思いが残され、その信条は
「唯だ勁質(けいしつ)にして雅文(がぶん)なるを好む」とある
「勁質」とは強きこと、「雅文と」は気高くうつくしきもの、ということである
似たことを、信条としたのであろうかと、少々和歌山の社長を見直した

私と三〇年余りの付き合いの中では、喧嘩も一度や二度ではない
お互い意地になって、半年余りも絶縁状態になったこともしばしばだった
遅れ馳せながらと云っては何だが、彼の「経営理念」を知ったのはつい最近のこと
恐らく彼も、前述の「我が茶の湯の理念」を未だ知ってはいないだろう
知らないままとは云え、二人は似たような信条を心にしていたのか、と納得した
ただ、私の方に「気高く」・「雅文なる」ところがやや欠けているようではあるが・・

皆の前で、大喧嘩をしても何となく有耶無耶で元の木阿弥然に戻っていたし
周りの気遣いはさて置き、お互い鈍いというか朴念仁とかいうのであったのだろう・・
お互いの尻に、灸をすえた方が良かろうかと思う次第

そう云えば、宗箇の茶風は和歌山の地で形付けられたものと思える
関ヶ原の戦い後、浪人の宗箇に親族であった浅野幸長からの誘いで和歌山に赴いた
敵前の戦場で「敵がくれ」という有名な茶杓を削ったのも和歌山時代であった
ふむふむと、一人頷く私であった


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柊(ひいらぎ)の花、開花時期は一二月頃、クリスマスで活躍する、花言葉「先見の明」
別名「鬼の目突き」とか云われ、日本では節分に活躍する、洋の東西で面白い活躍ぶりである
柊の同系に木犀(もくせい)があり、共に唐土の桂林の原産で「桂花」と呼ばれている
身近な金木犀もその一つで、花言葉は「真実」である

先の記事「ある新規上場会社」で触れたが、その和歌山の会社の社長のこと
「先見の明」と「真実」という言葉が、頭に浮かぶのである
「情報ネットワーク」という話が世の中で耳にされ出したのは三〇年ほど前のことだ
その企業の立ち上げは、情報ネットワークに関心を持つ同級生八人で始めたとは先に書いた
社長と常務の二人が任されて会社運営に携わっていたが常務は道半ばで逝ったことも書いた
その常務の従弟が、「先見の明」の持ち主で「球面の一点は全て中心点」であると云った男だ
鬼才とも云える従弟、その御仁と私が知り合いであり、話の社長とも知り合ったのであった

卑近な例ながら、スーパーマーケットもパチンコ屋も最初にやり出したところは失敗した
ス―っと出て、パっと消えるのが「スーパーマーケット」だとか何とか揶揄されていた
御多分に漏れず、その鬼才の御仁の情報ネットワーク論には、日本のトップ企業が参集
NTT、松下電器、CSK他多くの企業が北海道から沖縄まで二十数カ所で事業化した
そして、その和歌山の会社以外は倒産・廃業し、後をその和歌山の会社が引き受けて来た

その和歌山の社長のことでは、二つの話が私の胸中に残っている
一つは、参集した会社間で事業の路線抗争が起こった時のことである
鬼才の御仁を中心とした関西系のグループと商売を優先する東京系のグループの抗争だ
云い換えれば、ネットワーク理念を優先するか、事業感覚を優先するかということである
鬼才を中心に関西系の多くは理念優先に賛同し、和歌山の会社の仲間内もそうであった
和歌山の彼は、考え悩みあぐねた末に、東京系の路線を選択したのだった

話としては、結局東京系の撤収で終わるが、彼は非難を受けながらも頑張り抜いた
その時に彼が云った言葉、私の胸中に残る話の一つ目である
「私は人は信じても、その判断は信じない、私には預かったものがある」
私の腑に落ちるところがあり、妙に納得させられたものだ

この路線抗争では、一人の社長が資金繰りに困り、自殺するところともなった
亡くなった社長室の机の上には、子供さんが届けた貯金箱が置かれてあったという
その葬儀には私も参列したが、痛々しく、まさに「不二」云い尽せぬところである
何年か後に知ったのだが、和歌山の彼はその後毎月、ご遺族にお金を送っていたのだ
そのことが胸中に残る話の二つ目である

それなりの道のりを経て、この三月六日に彼の会社は株式上場を果たすことになった
彼のこと「先見の明」もあろうが、「真実」のある男だと私は思っている
今回の上場、私は関わりを持った身というより、友人として嬉しく思う
2014.02.20 時代の共有
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「不二」の短冊、御宗家前名の「宗継」の時のもの、先日の稽古で掛けたもの

「不二」を「ふじ」と読めば、無二の親友の無二と似た意味で二つとないという意味
または、二つに見えるがひとつのものであるとの意味でも使われるとか
そして、手紙の末尾に書けば、言い尽くせないままという謙譲の意味で使われる

「不二」を「ふに」と読む場合は仏教用語の意味合いを持つそうだ
つまり、相対する関係も絶対的立場から見れば一つのもの、とかいうことだ
元々は「二而不二」らしいが「而二不二」でも通っているようだ
読みは「ふふふみ」なので混乱しているのだろう

別に、用語解説をする気はない
昨日の朝、高校時代の友人から「抹茶所望、一時にそちらに行く、宜しいか」
という、簡素なメールが入った
「承知、上生菓子も昼餉も無いが、茶なら十二分に堪能してくれ」と返事をする
彼は立派なイチゴ持参で現れ、君は糖尿とやら菓子は止めた、とおぬかしだった

これという相談や急ぐ話も無く、懐古的な話題に明け暮れ乍ら三杯四杯と茶を点てた
茶請けは、御持たせのイチゴ、卒塾者手製の八朔のチョコ菓子、それにクッキーである
とりとめのない話の形でありながら、昨秋の社長引退と顧問就任、出来た余暇でギター
それにパソコン教室でホームページの作成勉強云々の話が一緒くたのレベルで続く
顧問で会社に出たら、見たこと聞いたことに、口を挟むんでしまうことになるとか

「昨日、辞表を出して来たんだ、その方が良かろうと思うのだが、引き止められている」
「それで」と私が聞くと、「やはり辞めるよ、四国巡りも、あと少し残しているからな」
「もう、女房と二人、贅沢を云わなんだら年金でやっていけるしな」・・と彼
「せやな、自分のやりたいことで好きに楽しめる歳や、もう十分働いて生きて来たしな」
・・と私

来週の月曜日にも、同じ高校の同級生が囲碁を打ちに来てくれる
彼とも同様に、世間話や思い出話と共に、「一局の碁」を楽しむことになる
不二、或いは無二の親友というのでもなく、あえて云えば時代の共有者であろう
共有する時代の面影と、其々の場面、彩った面々への偲び話というものである
友は他に替え難い財産であることを、最近しみじみと感じさせられている
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炉炭と風炉炭の原材、軍手の上に炭割り火箸、ノコギリ、下は炭切り台(五寸と四寸の印傷)

手あぶりの記事にを見て、自分で炭を切って、炭点前をしたい御婦人からメールを頂いた
真に結構、殊勝な御婦人であると感じ入り返信を送ったので、その返信文を載せる


>今ある知識は、「決められた寸法に切って、洗って使う」ということだけです。

『本来、茶の炭には決められた寸法というのはありません
要は、「五徳の大きさに合わせて切る」ということです
まま然し、炉の大きさが一尺四寸四方、炉の内寸は九寸五分四方とされ、それに合わせて五徳の大きさも略決まったものになっています、ですが、自分の五徳の大きさに合わすことと私は思っています
要は、炭は湯の沸くように置き、そして置き易いように切るということです
特に、風炉の場合は五徳の大きさも色々あるので、それに合わせる野が良いでしょう(まま、勝手ながら)
炉の五徳の大きさとは、床爪の反対側の底の輪を炉の内壁に付け、そのまま炉中に据えると爪三本の中心が炉の中心になるような規格に作られているハズです
よって、炉の胴炭は長さ五寸というのは各流とも一致しているようです
そして、丸毬打(まるぎっちょう)割毬打は半分の二寸五分、管炭は胴炭と同じく五寸とされます
風炉の胴炭の長さは四寸、毬打炭は二寸、管炭は四寸となります
風炉の五徳の大きさによって長さは変えるべし、大工仕事でもあるまいに、と私は思っています』

>ただ、原木のままの80㎝の長さのままです…。

『 従って、炉の炭の原体は五寸(十五センチ強)の倍数になる大きさが良いことになり、風炉炭は四寸(十二センチ強)の倍数となります
そして、太さは炉炭で二寸余り、風炉炭で一寸五・六分ということです
恐らく、クヌギの原木を三尺(九十センチ強)に切って焼いたものと思います(焼くと二割程縮みます)
割毬打(まるぎっちょう)は太目の丸毬打を半分に割るようにし、ノコギリで切るのは邪道ですが売っている炭は殆ど電気ノコギリのようです(^^)
ただ、菊炭は(他流では止め炭とかいいますが)上田だけの独自のもので、胴炭のやや太目のものを厚さ三・四分(一センチ程度)に輪切ります
女性の人達は炭切りをすることが少ないようですので、経験されると炭点前の味わいが変わるでしょう 』


返信を送り終えたら、何故かふと言語道断(ごんごどうだん)という言葉が浮かんだ
「道断」とは話を切る、つまりアレコレ云うに及ばず、という意味だとか
通常は、「言語道断、怪しからぬ」とかいうふうに使われている言葉である
しかし、古文書では褒め言葉を形容する使い方がされているのである
奈良、手害門辺りに居た松屋という塗師の「松屋日記」には、利休の言葉として残されている
つまり、「言語道断の好(よ)きもの」という意味になる褒め言葉として使われているのである

今では「言語道断の悪しきもの」というのが一般用語とされている
考えてみると「怪しからぬ」も、「怪し」すなわち、怪しい異様なという意味の打ち消し
さすれば「怪し・からぬ」とは「好ましい、おかしくない」ということであろうと思うが
「言語道断・怪しからん」とは何であろうと、少々思い悩む昨今である・・

2014.02.16 雪中花
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雪の中に咲く日本水仙、雪中花とはよく名付けられたもの
切るのをためらった、今日は稽古日だが・・
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手あぶりの灰形と炭

奈良・王寺から一駅の畠田駅前にある割烹料理店「鬼楽・きらく」
そこの御主人は私の弟弟子で、若旦那は朋庵の卒塾者である(先に記事にした)
愛犬ハナの雪中散歩から戻ると、その若旦那から写真添付のメールが届いていた
そう云えば本日、鬼楽で裏千家の先生による「正午の茶事」があると聞いていた
少々冷えるし、雪になるかもしれないということで、先の店休日に若旦那が来た
手水の横に置く湯桶と茶席の手あぶりの扱いについて聞きに来てくれたのであった

そして今朝、手あぶりを作り「こんなもんでOKですか」というメールである
私が「さすがー!上出来」、と急いで返信を入れたという一幕
2014.02.15 寝不足
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昨夜というか、今朝というか、寝床に入ったのは四時半であった
フィギアスケートファンの女房殿と電気こたつでテレビ観戦
羽生・金メタルで女房殿は大満足、全体的にフリーではコケる選手か多かった
私は、高橋選手の滑り終えた後の表情に男の顔を感じた、やり終えた引退試合の顔だ

奈良は二十四年来の大雪で積雪十六センチとか
雪に包まれた家、夜中は冷えた
昨日の女房殿の誕生日、娘一家は来なかった(来られなかった)
結局、外食もならず、夫婦二人で生チョコを摘まんでオシマイ
2014.02.14 雪の心配
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我が家の立ち蹲(つくばい)は雪化粧、早朝から雪が降り出し今も降り続いている

この十二日(水)から一六日(日)は「珠光茶会」という名称で「奈良大茶会」が開催されている
主催は.珠光茶会実行委員会
(七社寺の代表と奈良市長で構成/奈良市・奈良市観光協会が事務局を担当)
主旨は 
>茶道の源流とも言える奈良の地で、「わび茶」を創始した奈良出身の珠光にちなみ「第1回奈良大茶会珠光茶会」を開催します。 市内の世界遺産を含む七社寺や、歴史的な町並みが残る「ならまち」のお茶室を舞台に三千家が一堂に会し、茶道に造詣の深い人をはじめ、お茶に親しむ機会の少ない人や観光で訪れる人など幅広い層にお茶に親しんでいただき、奈良でのお茶文化の裾野を広げようと、初めて開催します。 <

折角の茶会がこの雪で影響を受けなければと、少々心配するところ
ただ、奈良の珠光茶会を珠光と関係のない京都の三千家とは、これまた少々解せぬところ
それに珠光寺の称名寺や珠光流、また珠光一番弟子の古市 澄胤の小笠原古流の参画もない
まあ、冬枯れの観光シーズンの奈良に奇策の一手ということであろう

雪化粧の写真、先日には若草山の雪化粧を撮って載せ、私の祖父の話を記事にした
後で思い出したことながら、私自身は「隔世遺伝」だと親戚の皆から云われていた
一族皆が悪く云っていた祖父だが、私には「好いおじいちゃん」であった印象が強い
やはり、「隔世遺伝」同類相哀れむということなのだろうか、だがしかし
私には、女房殿が死んだ後に三人の「おばあちゃん」を孫に見せる甲斐性は無さそうだ
そう云えば、私の孫は私似と云われている、幸か不幸か知らないが、幸い女の子である

今日はバレンタインデー、これも幸か不幸か、女房殿の誕生日と重なっている
よって、我が家では夫が妻にプレゼントをする日で、夫がもらう日ではない
今日は娘夫婦が私似の孫娘を連れてやって来るので、外食のプレゼントをする
しかしこの雪、大丈夫かなと、心配する
2014.02.12 百円ショップ
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百円紙幣、昭和二十八年発行・同四十九年支払停止、表は板垣退助肖像・裏は国会議事堂
私には身近な紙幣であったが、子供の頃はなかなか手に出来ない金額であった

広島話になるが、私は流通業に身を置いていたことで、二つの企業の想い出がある
一つは百円ショップとして国内外に3千店余りの店舗展開をする「ダイソー」の大創産業
もう一つが衣料ショップとして、これまた世界展開をする「ユニクロ」のファーストリテイリング
共に広島が発祥の地であり、私はその発祥当初のこどで少々の想い出を持つということだ

ダイソーの創業社長は矢野 博丈(やの ひろたけ)、旧姓は栗原五郎
学生結婚をした妻の実家であるハマチ養殖業を継ぐが、失敗して借金を背負う
妻と子を抱え、職を流転していた中で、移動販売の露店に巡り会い「百円均一」を始める
当時は「百均」という云い名で、スーパーマーケットの店頭や駐車場で売台を並べていた
それから今に至るまでの矢野社長の話は立志伝中の人物としてアチコチに紹介されている

私の想い出とは、矢野夫婦がトラックに商品を積んで店に来て、店長をしていた私への挨拶
「また、お世話になります、今日はこの辺りで売らせてもらいます」との笑顔の口上だった
御亭主はやり手の「寅さん」を真面目にしたようだが、奥さんは甲斐甲斐しく働いておられた
その夫婦で共に働く姿には、何がしか感じさせられるところがあり、微笑ましくもあった

私も広島を去り、随分経った頃に「百円ショップ・ダイソー」の名を見聞きするようになった
そのダイソーが、あの矢野夫婦が経営するチェーン店の会社であると知るのは、ずっと後である
そして、瞬く間にショッピングセンターの中や街角にも「ダイソー」を見掛けるようになった
私は、広島時代のあのご夫婦の姿が目に浮かび、成功されたのだな、良かったと思ったりした
しかし何年か前のこと、ご夫婦のその後の話を耳にし、何となく悲しい思いにさせられた
店頭の売台に商品を並べる奥さんの姿が目に浮かんだ

話は変わるが、流通業では「売価還元法」という会計処理をする
企業会計は仕入原価と売価との差額を集計して、その期間の損益を計算するのが普通である
しかし、小売業は扱う品目が多いのと、日々仕入と販売が行われるので、売買差益の確認が出来ない
つまり、同じ日に同じ品が何個か売れても、それが同じ仕入価格とは限らないし、確認が難しいのだ
それで、在庫商品をその時の販売価格に還元して評価し、期間の仕入額との差を以って利益率とする
その利益率をもって、期間の販売額に乗じたものを期間の販売利益とする会計方法である
この方法では、在庫の評価を多くすること、つまり在庫価格のサジ加減ひとつで利益操作が出来る

百円ショップでは販売価格が「百円」均一なので、在庫数量だけとなり、商品価格の加減は出来ない
恐らくだが、百円で売るにはその仕入れ価格を八十円以下にしないと店舗利益は上がらないであろう
その仕入れ価格を実現するには、大量購入を背景に海外での低価格買い付けをすることになるだろう
数店舗程度の安売りには、バッタもの、即ち倒産商品の買い叩き手法もあるが、多店舗では無理である
更に恐らくだが、海外からの大量買い付けは在庫多寡が常態化し、不良在庫も多いと思われる

その在庫多寡の対策として、在庫センター当りの多店舗展開を進めざるを得ない、経営の理である
それでも円高の環境なら、少々の不良在庫も揉み消されたであろうが、円安になるとそうはならない
不良在庫を抱えた在庫多寡状態は、売価還元法では利益計上の背景となったであろうが、円安である
つまり仕入原価が向上する中での在庫多寡は、百円均一売価商法の先行きを危うくすると思われる

あの奥さん、どうされているのかなと、思いが過る
「ユニクロ」の想い出話は次にまた

無題
神武天皇御影、今日は紀元節、即ち建国記念日である
神武天皇が大和橿原の地で初代天皇に即位した日とされる
しかし、この神武天皇の御影、誰が見て描いたのだろうか、何となく明治天皇のお姿が重なる

>日本書紀によると、天皇在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日 - 神武天皇76年3月11日とされる。
『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。
神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたとされる。<
・・とか

昨夕、私の40年来の広島の茶友が呉の酒を二本持って見舞いがてら来訪してくれた
彼は呉で禅道場を開設・運営しているが、まだ現役の電力会社の社員である(定年間近)
私は炉に火を入れ、南部鉄鍋を掛けて私の仕込んだ割下に汁で焼き目を付けた白ネギを煮た
煮立ったところで、地鶏のつくねにワケギとゴボウを刻んで混ぜ合わせ、団子にする
その団子に片栗粉をまぶし、鍋に放り込み、ついでに京揚げも入れて、待つこと十分余り
只々、酒を酌み交わした、まあ、鴨ネギ鍋のつくね版であるが、これがイケること
酒は進み、仕上げは出石そばを放り込みに、またそれで盃を重ねることになった
語り合うこと明け方の四時まで、茶のこと、禅のこと、そして広島の歴史のこと

彼曰く「井谷さんは羨ましい、奈良のこと、歴史を知り、誇りを持っている」
「しかし、広島では広島の歴史を知って、誇りを持つ人が少ない」
「東京や畿内への劣等感と周辺地域への優越感の二面しかない」
「それは本当の広島の歴史を知らないからだ」・・少々嘆き節である
よくよく聞くと、禅を広島で広めるために、改めて広島の歴史を調べたとのこと
そして分かったのは、原爆と進駐軍が広島の歴史を消し去ったということだとか

広島の歴史は武と戰の要の地であり、奈良より早い日本の都であった、云々
「なにその話は?」と私、すると彼は古事記の神武東征の話しから語り始めた
東征の途中、神武軍は安芸の国に入り、その地で七年を過ごした
天皇一行をお迎えしたのが安芸津彦で、本営となったのが今の安芸津彦神社
つまり、そこが日本の都の始まりであったという話である

安芸津彦の子孫は今も連綿と続き、安芸津彦神社の神官をされているということである
広島の草津は、軍船を仕立てて出港した所、即ち軍(いくさ)津からの名だとか
今の草津は魚市場になっているが、日清日露の戦いでも、広島の宇品港が軍津になった
呉は帝国海軍の司令部・軍港であり、江田島は海軍兵学校、今も海上自衛隊の学校がある

更に話は続き、広島に有る日米両軍の常備軍事力は日本一で、弾薬量は東洋一だとか
そのような広島の「武」の遺跡を潰すための原爆投下があり、進駐軍は広島の歴史を消した
彼曰く「軍国主義の権化というか、日本人の尚武の心が広島にあるとされたためだ」とか
また更に、武家茶道・上田宗箇流が広島を本拠としているのは意義深いとも
ふ~む、と聞く私であった、酒は進んだ・・
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山焼きで黒焦げになった若草山が雪化粧で白くなっていた
若草山の向こう側が春日原始林の山中、その山中街道は柳生に向かう「柳生街道」だ

私の祖父は柳生の奥の地で、茶園と地域の呉服を商う家に生まれ育った
姉と二人の一人息子で大事にされたらしく、辺りでは珍しく奈良の農学校に進学
姉が嫁いだ後に家を継いだが、いわゆる甘やかされた怠け者であったという
親が死ぬと、奈良に出て妻子供を置き、自身は大阪で色んな事を始めたらしい
最初の仕事は、大阪市電の初代(?)運転手、カッコよく思ったとのこと
それが飽きると、あれこれと手を出し、家にはキチンと金を入れてなかったようだ
儲かれば大きな顔で家に帰り、上手くいかないと何カ月も家に帰らなかったとか

五人の子供を抱えた祖母は、苦労の中で五〇歳前に亡くなって、上の姉二人が働き
下の子を学校にやったということであったらしい
それでも、時々それなりの金を祖父は外地からも送って来たことはあったとか
祖父なりには気にはなっていたのだろうが、子供に尊敬されてはいなかったようだ
上二人は、結婚もせず若くして死んだ、肺結核だったそうだ

歳老いた祖父は、後には成長した子供に面倒をみて貰うようになった
不思議とその祖父、一番孫の私を可愛がり、甘かった想い出が私にはある
まだ祖父は一人で子供の世話になっていない頃、私を自分の住まいに連れて行った
何故か、「おばあちゃん」と呼ばねばならぬ女の人が居て、私を可愛がってくれた
しばらく経って、また連れられて行くと違う家で、違う「おばあちゃん」が居た
私の頭の中には、少なくとも三軒の家と三人の「おばあちゃん」の記憶がある

祖父への評価は、叔母・叔父そして私の両親からも厳しいものがあった
だが、老いた祖父は、子供の家で順々に面倒をみてもらうことになったのである
最期は東京の叔父の家で七年も世話を受け、内蔵不全、老衰でこの世を去った
その叔父家族に世話をやいてもらっている時のこと、近所の人が祖父に声掛けた
「おじいさんは幸せですよね、皆さんにこんなに良くしてもらって、羨ましいわ」

祖父は気色ばり、そして云い返した「そんなことあらへん!それは人の云うことや」
「なんぼ人に幸せやと云われても、自分がそう思うてへんかったら、幸せちゃう!」
義叔母の話では、数日前に「柳生に帰りたい、軍手を用意してくれ、這ってでも帰る」
と、家から這い出し、駄々をこねたとか聞かされた

私はその時、祖父と比べる御仁でないが、薬師寺の故橋本凝胤さんの言葉が頭に浮かんだ

>「食うていけなんだら、食わんといたらええ」
「われわれは人のために生きているのではない」<

2014.02.08 従弟のメール
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郵便受け、風雪に耐えた手作りのものであろう
従弟の「和ちゃん」からメールがあった、掲載させてもらう
今朝の奈良は雪が積もっている

<転記>

昨日のブログを読み、感じたことがあったので、メールします。
私も嘱託になって二年ですが、久しぶりに会社のサービス会社向け壁新聞の原稿依頼がありました。
(これは社内の人間も読みます)
新年号なので気合(ちょっと長い)を入れて書いたものです。
(本当は、サービス会社より社内向けに書いたものです。)
多分、私も血が書かせるのかとも思います。
読んで頂けたら幸いに存じます。



『心をこめて仕事をする』

~「日本一心を揺るがす新聞の社説」を書かれた
        みやざき中央新聞編集長「水谷もりひと」さんの「生き方の章」より~

 水谷さんが講演で(元)夜間中学校教師「松崎みちのすけ」さんの話をされた時のことです。
松崎先生が戦前・戦後十分な教育を受けられずにいた人達に読み書きを教えていたおり、宿題に松埼先生宛にハガキを出すことにしたそうです。
ほとんどの生徒のハガキは届いたのですが、ある生徒のハガキだけが忘れたころに届き、そのハガキをよく見れば、先生の宛名だけしかなく、隅っこに地図が描かれていました。
せっかく字の練習をしたのにこんな地図でよく届いたという話を講演でされた後のことです。

目を真っ赤にした男性が筆者のところへ来られ「先生の話に今日ほど励まされた日はありません」とお礼を言われたそうです。
男性は長年、郵便配達員をしておられ、雨の日も、嵐の日も、どんなに読みにくい字であろうが想像力を働かせ、手紙を宛先まで一軒一軒送り届ける。
男性にとって『心をこめて仕事をする』ことが喜びであり、誇りであったとのこと。男性曰く、その頃の住所のないハガキは本来なら宛先不明で処理されてもおかしくないのですが、その時、ハガキを手にした配達員が「自分の原点を思い出した」のだと思うといい。
『必ずこれを届けなきゃ』と思ったことが、自分には分かる、といってボロボロ涙をこぼしながら話されたそうです。 筆者は最後にどんな仕事もIT化やデジタル化は避けられないが、原点は『心をこめて仕事をする』ことだと締めくくっています。

まさにその言葉こそが私たちの仕事の原点でもあります。
昨年は酷暑で多忙を極めましたが「忙しい」はある意味この心をこめて』の反対語でもあります。
忙しかったとは自らの怠慢の告白とも言えます。そこには心をこめた良い仕事はありません。
昨年の酷暑にしろ昨日・今日に始まったものではありません。
矢沢栄吉がコマーシャルで「過去のデーターでこれからの何がわかる」と言っていますが、過去のデーターがあるから最近の天気予報は当たります。
過去の膨大なデーターを処理するために世界に類を見ないスーパーコンピューターを日本は開発しました。
私たちも先を読まない限り対処療法の「忙しい」になります。
リッシンベンは心偏(心の字が変化したもの)です。
従いまして「忙しい仕事」とは「心の亡き仕事」になるのです。
ちなみに「青」は=「若い」です(例)青春・青二才。
齢を取れば考え方も冷静になるのですが、忘れがちになるのが「情」(なさけ)まさに「青い心」です。
今年は「心をこめ青く熱く」=「情熱」をもっていつもの厳冬・酷暑に立ち向かい、
『心をこめて仕事をしよう』ではありませんか。

後略
                           以上

 和仁
180PX-~2
冨本銭、七〇八年に作られた和同開珎より二・三〇年早く作られた日本最古の銅銭貨幣
実際に通貨として流通したものか、まじないに使うものだったかハッキリしないとか
和同開珎、「ワドウカイチン」されるが、私は「ワドウカイホウ」と習ったのだが・・

日本最古の流通貨幣は私鋳銀貨の無文銀銭(むもんぎんせん)というものらしい
実際には銀の目方価値で取引されたと考えられ、秤量貨幣または計数貨幣とされる
後代にも、江戸時代の西日本では豆板銀や丁銀等の銀の秤量貨幣が使用されている

何の話かいうと、この月曜日に和歌山の証券会社(みずほ)支店長と地銀OBと会談
水曜日には、奈良の証券会社(野村)支店長と地銀(南都)の管理職と会談した故の話
昔は、銀行は社会的ステータスを持ち、銀行員はエリートだという見方をしたようだ
比べて証券会社は、「株屋」と呼ばれろヤクザな仕事で、そこに勤める者も低く見られた

しかし、この月・水曜日の会談で、今は違うとこれまでの認識を改めた次第である
現役の頃の私は、人を見る時には「敵か味方か」「裏切るか裏切らないか」という判断
今ひとつ強いて云うなら「アホかカシコか」、これは学業成績のことでなく地頭のこと
和歌山も奈良も、証券会社の支店長は同じ四九歳であったが、それなりに人柄が出ていた
その応答と顔、眼付きに「裏切らない」というか、変に取り繕うところが見られなかった
地銀の人には、嘘ごまかし言い逃れの臭気芬芬、イラついた私が「銀行業は何か」と問う
それに応えて、両地銀の曰く「江戸時代の両替屋が銀行の起こり」とか云いなさる

私曰く「江戸時代に銀行があれば、武家屋敷や商家が金蔵に千両箱を置くことはない」
江戸期の両替屋は銀本位と金本位の貨幣の交換、上方と江戸や各地の為替業務が本分
今の銀行の本分たる預金と貸し付け業務は両替屋の本分ではなかった、それは金貸し銭屋
云々と話を深めると、地銀の人はシドロモドロ、話をすり替えようとする、情なくなった
鴻池の家業や住友家の家訓を知らない様であった、地銀の人は経済学部出身とか

野村の奈良支店長、運転手付き黒塗りセダンで我が家に前触れも無しで乗り付けて来た
頭の打ち傷の痛みで夕方から伏せていた私、何か知らんと寝着姿のままで私は玄関に出た
「挨拶に来た」という言葉に、無性に腹立たしくなった私は、取り敢えず家に入ってもらう
若い支店長が、年配の顧客の家の前まで運転手付き黒塗りセダンで乗り付ける感覚や如何?
顧客相手の商売では、先方の家の百メートル先で車を降り、歩いて来るのがマナーである
貴方のその分別、どこで習ったのか?親か、地域社会か、学校の先生か、それとも会社か?

頭の鈍痛で寝ているところを起こされたのと、野村のファンドで損をしていることもある
私が詰問すると、支店長は「誰というなら、それは私自信です」とか仰り賜る
「赤ん坊が自分の分別を持って生まれてくるハズが無かろうに、つまらん言い訳無用」
出身は?と問うと東北の田舎だとか、親は?実直者です、先生は?いい人でした、とか
・・ほんなら?と云うと、暫く時間を置いて苦し気に「企業体質かも知れません・・」

話題を変えて、何かやっていたのかと問うと、「ラグビー」と応えなさった
私は破顔、「ラグビーならエエ、あれは紳士の武道や、まあ足を崩しなされ」
二時間正座の彼は破顔、「では」と云って崩そうとしたが、尻もちをつき、足をさすった
そして用事はあくまでも「挨拶に寄った」との一点であった、この支店長はん、エエ男

比べて南都銀行、過去に失策をして先代・先々代の支店長は家や病院まで来てくれたものだ
しかし、時は移り、人は変わった
本当は、「変われども」、と書きたいところだが、これ以上は悪口になるので止める

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我が家の愛犬、通称ハナ、二月六日の今日が誕生日で満十歳である
人間なら七〇歳とか、老いの域に入ったが女坐りをとり品位を保つ
日本犬保存会の純血甲斐柴犬「竹姫号」としての矜持だろう・・(親馬鹿か)

晩酌を終えた昨夕八時頃、件の同級生女級長から電話が入った
「井谷クン、今夜十時のNHK歴史ヒストリアは古田織部、知ってる?」
私「いや知らんかった、というより十時は寝てる時間やし・・」
女級長「お茶の話もあると思うよ、見たらエエのに」
私「分かった、観るようにする、教えてくれてオオキニ・・」
私は十時まで頑張ろうと、再び晩酌を始めたのだ
ウツラウツラしていると、女房殿が「10時ですよ」と私を小突く

ヘウケモノに秘めた真意云々
ゆがみ、ひずみ、織部釉の緑と模様の意匠云々
僅か三十年ほどで消えていった織部焼云々
武勲の無い織部は交渉力で活躍云々・・
・・私は、もう半分頭は薄れていた・・

ある場面で、ハタと耳目に正気が戻った
織部切腹の段である
色々云われている巷の話や本、研究家先生の各説が有るのは承知ながら
一点、皆誰もが認める織部最後の言葉
「かくたる上は、申し開きなし」
確かに、利休も死を授けた時の権門への申し開きはしなかった
ふむ、二人の共通点は・・、と思った辺りで、ZZZ

気がつけば、朝六時の蒲団の中であった
ああ、今日はハナ十歳の誕生日と思い出し、玄関先で写真を撮る
そういえば、自害した犬の話は寡聞にして知らないが、主人に殉じた日本犬はいたようだ
日本犬の特性なのかどうか、死んだ主人の傍を離れず餓死したとか聞く
ハナの長生きを祈る、私が死んでも後を追うでないぞ、と頭を撫ぜた
2014.02.05 徳利と孤独
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徳利に黄色いバラ
そう云えば徳利、「徳」と何がしの謂れがあるのかと思いきや
何のことはない、酒を注ぐ際の音「トクトクトクッ」からというのが風説とやら

「徳不孤必有隣」、もう少し話を延ばす
今度は「孤」のこと、漢字辞書には親を無くした「みなしご」とある、「孤児」だ
ついでに孤独の「独」開けてみると、「子を無くした老人」とあった
また「群れを成さない強い雄犬」ともあった、「一匹オオカミ」に近いのだろう
因みに、独の旧字「獨」ツクリ(旁)は犬のことである

では、ここは何故「徳不孤」で、「徳不独」ではないのだろうと思ってみた
何となく、字の意味に微妙な違いがあるようだと解った
つまり、この二字には周りの環境が違うということのようだ
周りの援助なしでは生きていけない環境か、援助なしでも生きていける環境かである
孤児と老人、どちらも一人ぼっちながら、微妙に違う意味合いを持つ

こうしてみると、以前に書いた井伊直弼の「獨座観念」のこと、「孤座観念」にはならない
もう一味、解ってきた気がする

>客の帰る路がみえなくとも、取り片付けはいそいではならない。
心静かに茶席に戻り、炉の前に独座して、まだまだお話もあったろうに、
今ごろはどの辺まで歩みを進められたか、今回この一期一会は二度と
再び帰るものでないこと等と思いめぐらし、または独りでお茶を立てて
一服したりする。
 これが一会極意のきまりである。この時は寂漠森閑としてうち語らう
ものとしては釜一口だけで、ほかに何物とてない。 <
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今夜の我が家の食卓
横の破れ目は炬燵の天板を踏み台の足で破った跡である

先の記事にした新規上場が決まった話の続きとして、幹事証券会社の支店長と大阪で会った
午前中に病院に行き、頭部から額、眉間の抜糸を終え、傷跡がスッピンのままで行った
左手首はギブスに包帯巻なのでYシャツと背広の袖口が通らず、和装にした
お召に羽織、トンビのコート、頭の傷を隠すカンカン帽という出で立ち
和装故、腰に扇子を差すのだが、当流の扇子の設えは竹が太くて長い
見様では、帯にドス(短刀)を仕込んでいるようで、而も額に傷のある髭面男

幹事証券会社の支店長との名刺交換の時、その表情に対し、私は念の為に伝えた
「ワタクシメは極道ではおまへんよって、宜しゅうにお頼み申しまする」と
横に居た事務所の後輩が机にある書類の一項に指を示して、私に見せた
「上場会社が反社会的勢力の関与を受けている事実が判明した場合云々」とあった
支店長は私に愛想笑いを示したが、何となく目が引いていた

「徳不孤、必有隣」の追記
「徳」ということに思いを巡らす今日この頃の私である
我の不徳は十二分に思い知らされてはいるが、一体「徳」とは何であろうかと考える
「徳」の旧字体(正字)は「德」、「彳」「直」「心」で出来ているらしい
「彳」は「道を行く」、よって「徳」は、まっすぐの心で道を行くという意味だとか
私は猪年生まれ、猪突猛進が向いているのにと思っていると、違うらしいのである
唐土の「猪」、つまり干支の猪とは豚のことだとか、何とも物悲しい気分になった

そんなこんなで帰宅して食膳に坐すと、巻き寿しと焼きイワシが出されてあった
イワシの頭が右向きであっても、そんなことは気にしない
その年の「徳」の神様が居る方向に向かって巻き寿しを丸かぶりする習いである
大阪のミナミ界隈の料理屋・水商売の世界にあった風習が全国に拡がったものだ
私には、ほろ苦くも懐かしい想い出を残すもの・・と、何となく気分が立ち直った
単純というか、直の心ではあるが、「徳」には程遠いようだ
2014.02.02 徳有隣
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花は白梅、軸は[徳、隣有り」
論語のの一節「徳不孤必有隣」に依る、元東大寺管長故橋下聖準長老揮毫

考えてみれば不可解な話である
東大寺と云えば単なる大寺ではなく、歴史的にも日本の仏教学問の府である
その菅長が儒教の論説を揮毫するとは・・面白いというか、他国では聞かない
いわば、バチカンのローマ法王がイスラム法典・コーランを読み上げ祈るもの

思うに、江戸時代の小学校教育とも云える寺小屋制度とは世界に冠たるものだった
国民の識字率や算術能力が世界一であり、それが今日の日本を築く基になった
寺小屋の教育カリキュラムとは「読み書きソロバン」そして「論語」であった
つまり、寺小屋では儒教の聖典を論じ教え、以って日本人の思想教育としたのである
勿論、徳川幕府の朱子学重用と寺社支配と云うか、檀家制度による民衆掌握がある

因みに、故橋本聖準長老は私の父親の旧制中学の恩師であり、この揮毫を頂いたとか
然しながらである、東大寺の管長が論語の一節を揮毫し、教え子に授けるということ
実に面白いと私は苦笑、というか日本人と日本文化の強かさに莞爾とするのである
東大寺は昔より、寺財によって奈良の子供に教育を施すという歴史を繫いで来た
その旧制中学、今は東大寺学園という中・高等学校として、その伝統を受け継いでいる

「徳有隣」
私は不徳ながらも、これまでケガ病気・入院という際には本当に近隣の方に助けられている
有り難いと思う、感謝である
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枯草の中に姫踊子草の花が見えた、もう立春となる
よく似た仏の座は在来種、姫踊子草は外来種である

昨夕、事務所の後輩やパートナー会社の専務常務等と鶴橋の焼肉屋で大いに盛り上がる
その会社は七年越しの計画が実って上場認可が下り、この三月に株式上場の運びとなった
私も現役の頃には顧問として経営や事業の計画に拘わり、未だに何くれ口を挟んでいる

この会社は、少々ユニークな成り立ちを持つ
情報ネットワークの展開に興味を持つ高校の同級生八人の集まりから生まれたのだ
私は同い年で共通の知りあいもあり、業界も近いことから繫がりを持つことになった
この同級生の集まりは其々が本業や勤めを持つこともあり、株式会社の形態にした
そして、二人の仲間に運営を任せ、他は出資者として参画する形にしたのである

運営を託された一人は父親の無線会社の専務ながら、この同級生会社の社長に専念
もう一人は、家業を父親と妻そして職人に預け、大半を同級生会社の常務職に費やした
理系で根っからの技術屋の社長と、文系で人の輪を考える常務とは良き補完があった
出資者に報いる為に、何とか株式上場を果さんと頑張って来たが、数年前に常務は逝った
その葬儀参列者は会社関係でない人々も多く千五百人を超え、そこかしこに涙があった

棺桶を閉める時にその人の価値が分ると云う言葉があるが、私は一概にそうは思わない
名刺だけを置いて、そそくさと帰りを急ぐ人達や、談笑の場が多くみられる葬儀会場
参列者の数で、その人間の業績や地位は略分かるが、その人柄までは分らないと思う
葬儀場に駆け付けずとも、遠くで本当に涙を流し、その死を悲しむ人達も居るであろう
とは思いながらも、この常務の参列者の数と涙の数に、改めて彼の人となりを知った
私の本当に好い友であり、心底から利他を願う心の持ち主であった、私はとても敵わない
私の葬儀は妻に見送られるだけで十分であると思わされ、個人葬の契約も済ませた次第

まま、色々あり、漸くのこと、今年三月に上場の運びになったという話である
世にいうアベノミクスで、経済環境が良くなっており、上場の遅れは幸いしたようだ
同級生八人の集まりから生まれた会社の昔話を社内で知る者は、社長だけとなった
今では、八人の同級生も三人が他界し、五人となっていろ

昨夕、上場説明に来た専務も常務も当時を知らない人達である
鶴橋の焼き肉屋に陣を張って、念願の上場が決まったこととお零れの嬉しさの懇親会
声も高々朗らかに、哄笑・爆笑・照れ笑の宴となり、タチマチ終電列車の時間が近付いた
その曰く「うちの社長はウン億円の失敗を平気でするのに、十万円のパソコンをケチる」

私曰く「十万円でも単なる無駄は無駄金、ウン億円でも次に繋がる失敗は無駄金とは云わぬ」
「要は、失敗からウン億円以上の価値を見出したかどうかだが、どうなんや?ウン?」
「さもないと、その話は単なる社長の悪口になるだけだ、それを酒の肴にしてオモロイか?」
急に酒が覚めた様になったが、三分も経たぬうちに、またぞろ大声・大笑い、タク~

やれヤレと仕方なく、私も芋焼酎のストレートをジョッキでアオッタ、傷の消毒でもある(^^)