2014.03.31 織部格茶室
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国の重要文化財に指定されている織部格の茶室「燕庵」の内部
燕庵のこと、文化財としては「えんあん」とされているが、茶の世界では「えんなん」と云われる
この燕庵は古田織部が妹婿の藪之内剣仲(藪之内流の祖)に与えた茶室、後に焼失し再建したもの

「織部格」というのは、古田織部が定めた武家の茶事形式のことである
織部格の茶室とは織部好みの茶室、或いは織部が定めた規格(規矩)の茶室のこと
特徴は大きく三点、三畳台目、下座床、相伴席ということであろうか

三畳台目とは、客座が三畳で点前座が台目畳ということである
台目畳とは、一畳分から台子分一尺五分を切り取った畳、四分の三畳である
台子とは、最も正式な点前として献茶等に使われる棚で、巾三尺・奥一尺四寸、高二尺二寸略
台目席は、点前が見える様に客との間を中柱と袖壁(そでかべ)という下が開いた仕切りがある
この中柱があるので、鎖や自在を吊ると目に煩わしいというのが、台目席では吊り釜をしない理由

下座床とは、本来上座にある床が下座にあるので、わざわざ「下座床」という(写真の左手となる)
つまり、正客が坐す処とは反対の向きにある床、依って床に近い方が下座、遠い方が上座となる
千家さんでは、床前が上座と思い込まれている方が多いので、織部格茶室では席順の混乱が起こる
武家の茶事では、会席が済み茶席になると、席順を入れ替わることにし、、それを居替りという
会席では末客の用事が多いので、末客は亭主や給仕の出入りする側に近い方が良いためである

相伴席とは、客の御供となる人の席で給仕の出入り口と繋がった位置にある一畳、(写真を撮った処)
濃茶を喫した後、この相伴席から給仕口を通り、書院に向かう途中に鎖の間という広間がある
鎖の間には、年中吊り釜が掛かっており、くつろいだ形で薄茶を頂戴する処になる、という話である
本式の客室である書院の間と侘びの草庵である小間とを繋ぐ処という「鎖の間」と掛けたとも云える

以上、織部格の台目席小間では鎖や自在で釜を吊ることをしない理由を記した
我が「朋庵」は、客座一畳と台目席に中板、合せて二畳程の狭く侘しい茶囲いである
「茶囲い」とは、茶をする囲いのこと、後に、即ち「茶室」と云われる処となった、
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2014.03.30 透き木
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透き木(すきき)、左が利休好みの朴(ほお)、右は私が頼んだ黒柿
千家さんの祖・千宗旦は桐、当流・宗家に伝わるものは杉である、

透き木とは、五徳を用いないで、炉に羽釜(はがま)を掛ける時に羽の下に敷く木
その「敷き木」から転化した言葉という、炉と釜との間に空気を通す隙き間(透き間)をつくる
そのため、透き木を使う茶釜を「透き木釜」ともいう、
透き木は炉用、風炉用があり、『茶道宝鑑』には炉用が長さ三寸九分、幅七分、厚さ四分
風炉用が長さ三寸、巾六分五厘、厚さ三分八厘とされ、他流ではその規格が一般的だ
当流・宗家に残されている透き木は長さ二寸二分、巾五分五厘、厚さ五分(写真右側のもの)

五徳を炉から外す時期は、表千家は四月で裏千家は三月と千家さんの中でも違うようだ
他流も三月四月は五徳を外すようで、従って、吊り釜か透き木釜を使う時期とされる
当流では、吊り釜は季節に関係なく、年中吊り釜の鎖が掛かる八畳の「鎖の間」がある、
そして、台目の小間では鎖を掛けることをしないので、台目席では透き木釜となる
台目の小間には中柱があるため、その横に鎖をぶら下がるのは煩わしいという理由である
当流が台目の小間の五徳を外すのは、表さん同様に四月となっている

実は昨日、三月中にと頼んでいた透き木を作成者が持参してくれたのであった
作成者は有楽流の茶をする奈良の塗師で、私の高校の後輩に当たる御仁である
届けてくれたその時の我が家は、碁仲間との対局の最中であった
対局を中断して、その塗師と透き木のことで遣り取りして送り出したのだ
それでかどうか、碁は連敗、やはり我が未達の所為であろうと自戒
対局相手の曰く「碁は、着目大局・着手小局」、とかなんとか、正にその通りと納得
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国鉄・修学旅行専用列車、左「ひので号」・右「きぼう号」

前の記事に修学旅行専用列車に乗った、東京からは「ひので号」というコメントが入った
え~っと思い、ネットで調べてみたらその通りであった、そこには

>1959年(昭和34年)4月20日 新製された日本初の修学旅行専用電車である155系電車を使用して、品川[12] - 京都[13]に関東地区用修学旅行列車として「ひので」が、品川 - 京都・大阪・神戸に関西地区用修学旅行列車とした「きぼう」が「集約臨」として運転を開始した。また「ひので」は下り昼行・上り夜行、「きぼう」は下り夜行・上り昼行の時刻で運転された[14]。また、これら修学旅行列車の時刻は荷物列車などとともに市販の時刻表にも掲載されていた。<

とあった、初めて知った
私は、どちらも「希望号」と今日の今までそう思っていた、どうも私は思い込みが強過ぎるようだ
そして、昭和四六年十月十六日の大阪発が最後の「きぼう号」
同二十六日の品川発が最後の「ひので号」であったと記されていた
我々の中学・高校・大学時代とピタリ一致していたのだとも、初めて知った
更にネットで画像を探してみたら、あった
2014.03.29 連翹
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連翹(レンギョウ)、原産地は唐土北部から朝鮮半島、花言葉は「希望」
「レンギョウ」という名は、もともと唐土では別種「トモエソウ(巴草)」のことだった
渡来したときの誤用がいつの間にか定着したものと言われている、 唐土での表記は「黄寿丹」

連翹で知られるのは「不退寺」、在原業平の寺として「業平寺」とも呼ばれている
私の生家の近くだったので、しょっちゅう遊びに行って四季を楽しんでいたものだ
その頃の奈良の寺は殆どが無料で出入りできた、勿論、不退寺も無料で何時でも出入りできた
今では「拝観料」なるものを取っている、奈良の寺も段々と京都の寺の様になって来た

そう云えば、「希望号」と云う国鉄列車があったことを、花言葉で思い出した
修学旅行専用の団体列車だった、中学の修学旅行は東京タワー見物、「希望号」に乗って行った
新幹線が出来てから、利用度が減り廃止になったとか、「希望号」とはよく出来た名だったと思う
それにしても、日本の宇宙ロケットの名が「ホープ」とは何故だろう、「希望号」で良いものを
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氷室神社の枝垂れ桜(しだれさくら)が満開、横の木蓮も見頃であった

所用で春日野まで出掛けたのだが、氷室神社が賑わっていたので寄ってみた
大勢の見物客の話し言葉に日本語は聞こえてこない
顔付、目の色、髪の毛で外人だと分かる人達も居たが、多くは東洋人である
国立博物館を抜け、興福寺から三条通りまでの道でも異国の言葉ばかり聞えた
確かに奈良は国際的観光地と、改めて実感する

そう云えば、大仏開眼供養の導師を勤めたのはインドの僧・菩提僊那(ぼだいせんな)
唐土や朝鮮を始め諸外国の珍しい音楽や舞踊が、春日野の地で披露されたとか
当時、東アジアの中で最大級の国際的イベントがこの奈良であったのだと、思いを馳せた

さてさて、この日は「奈良まほろばの酒の会」が開かれたので参加する
場所は件の「かえる庵」、また飲んだ
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雨上がりの今朝の散歩、秋篠川の桜が開花寸前となっていた

テレビで「緩和ケアー」という番組があった
つまり、余命あと何か月と宣告されたら、あなたはその間どう生きるか
と、いうことである、私もつい考えさせられた
読みたかった本がある、会っておきたい人がいる、見たかった処がある、話しておきたいことがある
まま、あれこれ思ったりしたが、どうも結局のところ、落ち着く話がである
その間、ただ飲んで過ごすだけのことだ,と思った次第

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着物の洗濯と洗い張りの懐かしい風景、黄色の生地に線があるのは竹棒、伸子(しんし)
布地を洗って「ふのり」をつけ先の尖った細い竹棒(伸子)で広げて干す「伸子張り」
私の中学生頃までは近所でも良く目にしたが、我が家の伸子は何時しか見なくなった

今日は夜さりからの雨が続いており、本降りの様子になってきた
「土方殺すに刃物は要らぬ、雨の三日も降ればよい」とは昔よく云われた言葉である
同様に、昔の洗濯屋さんも雨には泣かされたであろうと、ふと思った

時代劇の再放送番、私は「剣客商売」を好むが、女房殿は「暴れん坊将軍」と「水戸黄門」
二人が共通して好むのは「大岡越前」、よって日に二本は見るところとなる
長屋の場面には、必ずと云っていい程、「仕立て致します」と軒に吊った木札を見る
或いは「洗たく・洗い張り」「包丁研ぎ」の木札も見る、私はあることに気付いた
「小唄」「琴三弦」「清元」の稽古、まして「茶の湯師範」という木札は長屋の軒先にない
やや広めのアバラ家の門先に「剣術指南」の看板というのは、よく見る場面設定ではある

何を気付いたかと云うと、長屋の木札は須らく経済論でいう「比較優位」の仕事だということ
「仕立て」「洗い」「包丁研ぎ」は、出来栄えはともかく、時間があれば自分で出来る仕事、
長屋の木札仕事は、他の人の時間節約への対価を受けることで、それがセミプロ仕事になる
それに比べて、「稽古」や「指南」というのは、人の生活に利便を与えて得る対価ではない
つまり、対価の交換、すなわち貿易や実経済の取引という代物には成り難いのである

「比較優位」とは、英国の経済学者デヴィッド・リカードが発見した、貿易の大原理とか云々
何のことはない、日本では江戸時代の昔から長屋暮らしの住民の常識、実践経済であったのだ
まま、この際、機会費用云々とかの小難しい話には置いてもらって
私は、云い過ぎかも知れんが、簡単なことを難しく云う御仁は余り賢くないと思っている
今話題の早稲田出身・小保方女史は、難しいことを簡単に云い過ぎたのかな・・と、つい思う
自動乾燥機付の洗濯機でなく、手洗い・ふのりつけ・伸子で日干しの方が、割烹着が似合うのに
2014.03.25 此方が馬酔木
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この写真が馬酔木(あせび・アシビ)、前の写真は雪柳(ユキヤナギ)であった
我が目も我が携帯写真もボケの症状が進んでいる
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馬酔木(あせび、あしび)の花が咲いた、奈良公園の象徴的な花である
馬酔木の名の謂れは、馬がその葉を喰うと酔っぱらってようにふらつくことからとか

>日本の本州、四国、九州の山地に自生する。やや乾燥した環境を好む。
多くの草食哺乳類は食べるのを避け、食べ残される。そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがある。たとえば、奈良公園では、シカが他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっている。逆に、アセビが不自然なほど多い地域は、草食獣による食害が多いことを疑うこともできる。<、とかいうこと

確かに、一昨日の私は馬酔木を喰った馬鹿宜しく、酔っぱらって三条通りで鹿を構っていた
今朝、パソコンを開くと「かえる庵」の庵主・佐藤さんから次のコメントが入っていた

>昨日は誠に有難うございました。実質7名で一升瓶3本+αでしたが朝の寝覚めも良く、奈良県吉野、葛城地区の日本酒の素晴らしさを身をもって再認識至しました。本日テレビ大阪放送翌日、放送の威力は流石でした。12時30分には多目に用意したつもりの蕎麦が売り切れました。その後も訪問者が多くあります。今丁度2時です。全ての皆様に感謝です。有難うございます。<

放映前に行ったのは正解、七人で三升を空け、空け切らず残したのが一本とは、一人五合は飲んだこと
その割には、後で聞くと誰も悪酔いも二日酔いもして居らんとか、ホンマエエ酒と宴であった
次の日の佐藤さんの準備不足は、どうやら私の所為だったかも知れないと、深く自戒するところ
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美吉野醸造のにごり酒「花巴」、菩提元造りの酒である、能書きは以下の通り

>菩提元造りとは、室町時代に奈良県は菩提山正暦寺において創醸された醸造法です。製造工程で「生米」を使用することが特徴で、正暦寺寺領の米と水を用い、境内より分離した「正暦寺乳酸菌」「正暦寺酵母」の働きにより「もと」を造り、これに近代醸造法を融合させた奈良県独自の地域特性ある濃醇な純米酒です<

昨日は、昼間から飲んだ、ええ酒であった、気分善く飲んだ、飲み処は件の「かえる庵」
お店の昼休時間である二時から五時までを過ごし、そのまま夕刻の客となって居座った
庵主の佐藤さんには大変迷惑を掛けたことになり、後で女房殿にキツク叱られたのであった

元々の話は簡明なこと、先の記事にもした和歌山の会社の話の流れである
三月六日の株式上場も想定以上の人気で、この二八日には株主総会をひらくとのこと
その社長と専務が、総会前に挨拶がてら奈良に来られるという話になった
このブログで知った「かえる庵」で蕎麦を肴に一献やりたいが、テレビ放映の前に行きたいとの由
私に予約をしておいてくれ、ということであったので、早速に庵主の佐藤さんに電話を入れてみた
佐藤さんは、酒を飲むなら昼の一般客の時間を避けて、即ち、店の休憩時間前という話になった

黒塗りのセダンで我が家まで迎えに来て下さったので、女房殿も同行した次第
途中で造り菓子屋に寄ってもらい、上場祝いに奈良の「古代菓子・二つ梅枝」を本社人数分贈った
一時半頃に「かえる庵」へ到着、早速に出された「霧下そば」十割そば、一杯目だけビールで乾杯
後は日本酒の「冷や」、冷酒ではない、大和の酒が先ずはにごりの「花巴」、次に清酒「篠峯」
飲んだ飲んだ、旨かった旨かった、社長は七時に和歌山で会合があり、四時過ぎには出たいとか
専務が勘定を済ませて戻ると、社長は酒を二本注文している、それを飲み終える頃、また勘定に
戻ると、また二本が追加されていた、とは後で専務から聞いた話、ままホンマに酒が進んだ

結局、その社長と専務が「かえる庵」を出たのは六時半になっていたとのこと、和歌山の会合は・・
私の方は、後輩三名が来たのでそのまま宴会の延会となったのだが、そこに店の常連ご夫婦来店
その常連さん、なんと都合の良いことに同窓の先輩になる御仁、また宴会、最後は校歌斉唱となる
ように飲んだが、今朝はスッキリ、エエ酒であった、佐藤さんには迷惑を掛けた・・

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姫踊子草(ひめおどりこそう)、散歩途中の畦道に群生している
この前までは「仏の座」が目立っていたが、いつの間にか様変わり
この二種、よく似ているが「仏の座」は日本の在来種、「姫踊子草」は帰化植物

散歩から帰って来て、前の記事「ウクライナの騎士道」を見直すと、確かに長い
よって、元英国外相エドワード・グレイの話は、別途に分けることにする

ウクライナを故地とする遊牧人戦士の行動規範が西洋の騎士道になったことを書いたが
英国騎士道の実践とも云える英国紳士、そのエドワード・グレイの人生観の話が中々良い
慶応大学元塾長・小泉信三の著書によると、グレイの言葉として人間が幸福であることの条件四つ

一つ、自分の生活の基準となる思想
二つ、良い家庭と友人
三つ、意義のある仕事
四つ、閑を持つこと

自分に省みて思うに、この二つ目はまま良であったと思うし、四つ目は完璧に優であろう
つまり、人間の幸福の半分は達成したということになるのであろうか
「閑を持つこと」を信条に挙げるとは、グレイはん、さすがである
但し、「小人閑居して不善を為す」ということもある、ゆめゆめご用心
私も、ちょこちょこ不善を為したかも知れない、否、為しただろう、否、為した

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桜草(サクラソウ)日本の固有種、隣家の奥さんが園芸好きで種から育て、苗をご近所に配った
それ故、我が家の町内班の庭先、玄関、塀の上と桜草が満開の花盛り、あちことから香りが漂う

この桜草、朝鮮半島や満州でも見られたらしいが、彼の地では野生の群落は見られないとか
桜草の花言葉は何故か沢山だ、希望」「かわいい」「少女の愛」「初恋」「少年時代の希望」「あこがれ」
「青春の歓びと悲しみ」「青春の始まりと悲しみ」「若い時代と苦悩」「幼い時の悲しみ」とある
もう私には遠い過去の話

桜といえば、連想されるのは「大和男児」そして「武士道」があるようだ
その「武士道」に対するものとして西洋の「騎士道」がよく引き合いに出される
前の記事にした鈴木勘太郎日本国首相からの米国ルーズベルト大統領への弔電に対し
ドイツの文豪トーマス・マンが、次の様にように語った話

「・・あの東洋の国日本には、今なお「騎士道精神」と、人間の品位に対する感覚が存在しています。
死に対する畏敬の念と、偉大なるものに対する畏敬の念とが存在しています。」とか云々

その西洋騎士道の源流が今お取込み中の「ウクライナ」であることを知る人は少ないようだ
アジア系遊牧民族、サルマタイ人の行動規範がその元となっていると云う話である

>紀元前五世紀頃、ユーラシアのステップにおいて、西にスキタイ人、その東にサルマタイ人、その東方にサカ人が暮らしていた。サルマタイ人は、紀元前3世紀頃、西方の南ウクライナ(黒海北岸)に移動し、四世紀頃、フン族とともに西ヨーロッパになだれ込んでゴート族を脅かし、民族大移動を起こした。その後に、スラヴ人の南下と東方からの遊牧民の侵入により衰退し、散り散りとなった。
一〇世紀にポーランド人が、サルマタイ文化を真似る程に影響を遺した。ポーランド・リトアニア共和国の貴族階級は、自らの祖先をステップの武人であった東方のサルマタイ人だとする「サルマタイ人起源説」に基づき、サルマティズムと呼ばれる独自の東方趣味や貴族文化を花開かせた。現在、コーカサス山脈に住む少数民族のオセット人は、サルマタイ人の末裔だと言われている。
また、ブリテン島に伝わる、アーサー王伝説は、この地に派遣されたサルマタイ人の伝説が起源だという説がある。なぜなら、帝政ローマ時代のブリテン島には多くのサルマタイ人が駐屯していて、彼らは自分たちの伝説や神話を持ちこんだとされる。事実、アーサー王伝説のストーリーの一部はサルマタイ神話と奇妙なほど酷似している。<、とのこと

このころからスラブ(ロシア)人のウクライナへの空き巣狙い的侵入が始まっていたのである
サルマタイ人の戦士が欧州各地を転戦している隙に、その母屋に入り込むというケシカラン話
欧州各地に散りじりとなったサルマタイ人戦士のY遺伝子と行動規範が今も欧州に受け継がれている
このロシア人のやり方は、日本の北方領土・千島列島への終戦後の侵入侵略と同じ心根である
米国騎兵隊がインディアン(ネイティブアメリカン)戦士の出陣した留守部落を襲撃した戦法と同様だ
(先の大戦で、日本の一般住宅都市への深夜の大空襲で女子供を焼き殺す米軍の戦法も同じである)


ともかくも、欧州騎士団がウクライナをスラブ・ロシア人から守るのは、歴史の必然である、
ついでながら、サルマタイ戦士の一騎討ちには槍矛弓矢は用いず、長剣を使用したという、
何やらサムライを思わせる



2014.03.21 仰げば尊し
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手前が満開の紅梅、向こうにに見えるのは紅藪椿の花

今日は春分、二十四節気の区切りであり、昼と夜の長さが等しくなる日とされる
天文学的に云うと、太陽の黄道と地球の赤道が重なる日、実は日中がわずかに長いとか
黄道とは天空に太陽が通る軌道、赤道とは地球の北と南を分ける線である
私は二十歳代の頃、東南アジアから豪州への航路の船に乗って働いていたことがある
初めて赤道を通過して、南半球へ航海をした時の鮮やかな想い出がある

明日が赤道を通る日だと知らされた夜、先輩がおっしゃりぬかされた話
「井谷、オマエは赤道を見たことが無いやろ、きれいなもんやで、よう見とけよ」
私は、まさかとは思いつつも、朝起きてすぐに甲板に出て空を仰いだのだった
勿論、赤道は見なかったが、代わりに美しい虹が三重に大海原の天空に掛かっているのを見た
見渡す限りの大海原以外に何も無い中、天空に浮かぶ美しい三重の虹は私の赤道の想い出となった

春分を中日に前後三日、いわゆるお彼岸であるが、卒業式の時期でもある
今日の産経朝刊の投稿に、消し去られた「仰げば尊し」の二番歌詞という話があった
私も、以前から小学校唱歌の歌詞を戦後に改編したことには腹立たしい思いを持っていた
今日は、卒業式でも歌われなくなりつつある「正調・仰げば尊し」の歌詞を記す

一番
 あおげば とうとし、わが師の恩。
 教(おしえ)の庭にも、はや 幾年(いくとせ)。
 思えば いと疾(と)し、この年月(としつき)。
 今こそ 別れめ、いざさらば。

(消された二番)  
 互(たがい)にむつみし、日ごろの恩。
 別るる後(のち)にも、やよ 忘るな。
 身をたて 名をあげ、やよ はげめよ。
 今こそ 別れめ、いざさらば。

三番
 朝夕 馴(なれ)にし、まなびの窓。
 螢のともし火、積む白雪。
 忘るる 間(ま)ぞなき、ゆく年月。
 今こそ 別れめ、いざさらば。
 

私の小学校・中学校では、この二番歌詞を歌った記憶があるのだが・・
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木瓜(ボケ)の花が満開である
我がオツムもボケ満開(自覚症状有り)
どうも、番組制作会社にもボケが咲き出したような

奈良三条通り「かえる庵」のテレビ放映の件
放映時間が違うようだと、庵主の佐藤さんから知らせが入った
以下、佐藤さんからのメール文

>昨日、青柳さんから奈良テレビの放送日時が違っているとのご指摘を頂き、
番組制作会社に確認をしました処、
 大阪テレビが3月22日(土)18:30から
   番組名「おとな旅あるき旅」
 奈良テレビは同名番組名でその後の金曜日17:30からとの事。
早くて3月28日(金)だそうです。
番組制作会社も間違ってFAXを流し恐縮していました。<
 
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日曜日の稽古の床、桃の枝も菜の花、物は未だ蕾である
軸は東大寺の管長であった故橋本聖準氏の揮毫「和」
「わ」と読むか「なごみ」と読むか定かでないが、私は「なごみ」と読む
ただ、今日の「和魂」、「やまとこころ」と読みたい
(軸の字が少し傾き加減なのは塾生の粗相のたまもの)

昭和二十年四月一二日、ルーズベルト米国大統領が急逝
三月十日の東京大空襲、同じく一三日の大阪大空襲の一か月後のことだ
これに対して日本国首相の鈴木貫太郎がアメリカ国民に弔電を出した

「今日アメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力の賜物でありましょう。
であるから私は、大統領の死がアメリカ国民にとって非常な損失である事を理解します。
ここに私の深甚なる弔意を米国民に表明する次第です。
しかし私は、ルーズベルト氏の死によって、貴国国民の戦意が変わるとも思っていません。
同じように我々も、米英のパワーポリティックスと世界支配に反対する。
すべての国家の共存共栄のため、戦争を続行する決意をゆるめることは決してないでしょう。」

鈴木首相はルーズベルト夫人にも非常に丁寧な哀悼の意を表した親書を送っている
ニューヨーク・タイムズは、この話を、
JAPANESE PREMIER VOICES "SYMPATHY" (日本の首相、「弔意」を表す)
という見出しでセンセーショナルに報じて読者を驚かせたという
礼儀正しい態度を取る日本の首相の品格に全米は感動したという

当時アメリカに亡命していたドイツの文豪トーマス・マンが、次の様にように語った

「・・日本はいまアメリカと生死を賭けた戦争をしています。
だがナチスの国家社会主義が、我が惨めなるドイツ国においてもたらしたのと同じような
道徳的破壊と道徳的麻痺が、軍国主義の日本で生じたわけではありません。
あの東洋の国日本には、今なお「騎士道精神」と、人間の品位に対する感覚が存在しています。
死に対する畏敬の念と、偉大なるものに対する畏敬の念とが存在しています。
ああ。それに比べて我がドイツは・・・・・・」

ドイツでは、ヒットラー総統が次の声明を出したばかりであった
「神が、歴史上最大の戦争犯罪人ルーズベルトをこの地上より遠ざけたのだ!
鈴木首相の弔辞のことでは、日本国内でも異議があったようだ
然し、私は評価したい、よくこそ「和魂」を世界に示してくれたという思いである

「和魂」を「やまとだましい」と読ませる時、そこには「尚武」や「戦意」も感じられる
然し、「わこん」即ち「和魂洋才」の「やまとこころ」とは唐土・西洋の才に対するもの
鈴木勘太郎首相は海軍大将、優れた武人でもある、「和」を「なごみ」と読んだ気がする

昨夜は、卒塾者夫婦、塾生夫婦、それに入塾予定者が寿司屋で貸切歓待を受けた
株式上場のおこぼれである
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深夜の空襲で焼き殺された母子、写真掲載が辛いので小さくした
我が娘と孫に思いを重ねると、この影像、悲痛で堪え難い

昨夜七時半から九時の一時間半、NHKスペシャル番組が放映された
題名は「東京大空襲、で消防に命を懸けた若者たち」であった
内容で追及されたのは今風の価値観と演技に替えられていたが、まま仕方がない
それより、三月一二日のブログ記事「捨て去れてた記憶」で、東京大空襲に触れた
もう、テレビ新聞や雑誌でも「捨て去られた記憶」になってしまったと書いたのだが
昨日15日になって東京大空襲の惨事が放映された、東日本大震災報道を一段落した後の
土曜日に当ててくれたのが、せめてもの気遣いであったのだろう

東京大空襲、その日の深夜に米軍が襲来し東京の一般住民の居住地の周りを焼き
住民の逃げ道を塞いでから、住宅地への焼夷弾燈下、焼き殺された人は十万を数える
史上最大の大殺戮、ジェノサイト(皆殺し)である、それも女子供たちが残された居住地でだ
かつて米軍はインデアンとの戦いでは、戦士が出陣した後の女子供の集落を襲い皆殺しにした
彼らの習性、行動規範とはそういうものなのだろう

東京大空襲の指揮官であったカーチス・ㇽメイの云ったこと

>戦後、ルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女子どもを殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは―ふざけるな」と語った<

昭和三十九年一二月七日(開戦記念日前日)日本は勲一等旭日大綬章をカーチス・ルメイへ授与した
勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、昭和天皇は親授しなかった
後年『NHK特集 東京大空襲』でのNHKの取材で、戦争責任についての問いに対して
カーチス・ルメイはその勲章を見せたという

写真の母子、熱くて苦しかったろうに、痛ましく切ない・・日本、日本人を考えてしまう
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大犬フグリの実、なんとも、かわゆいではないか
ハナにも付けてやろう
名前の由来、正しく的を得ている
2014.03.15 大犬フグリ
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畑地の溝に群生する大犬フグリ、フグリとは陰嚢のこと、平たく云うと「犬のキンタマ」
西アジアの原産で日本に入ったのは明治以降とか、花言葉は「清らか・忠実」
別名、瑠璃唐草・天人唐草・星の瞳とかいうらしい、「星の瞳」なんて浪漫派なんだが・・

誰が名付けたのか「犬フグリ」、この名が一般的に流布していて、「星の瞳」とは初耳でる
我が愛犬・ハナにはフグリは無い(キッパリ)、如何に大柴犬であろうと、雌は雌である
何故こんな名称がつけられたのか、可愛い花なのにと、以前から訝しく思っていた
花を見ていると、瑠璃唐草もいいが、「星の瞳」なんかピッタリである
そこで名の由来を調べてみたら、解した、納得・・ 名前の由来は花でなく、実にあった
大犬フグリの実の写真を、次に付けるとする
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秋篠川の支流にたむろする鴨
この川岸の畑地にはネギが植わっている

>ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。<

鴨長明「方丈記」の書き出しである
学校で習ったのは、この書き出し部分だけであったが、薄い本なので読めと先生に云われた
夏休みに一応読了したが、分かったような分からんような感じが残った記憶がある
還暦過ぎて読み直してみたら、中々面白い書き物だと納得した

筆者・鴨長明の生涯というものへの多少の知識を得て読み直したこともあるが、年齢である
長明がこの方丈記を著したのは還暦前後と云われているので、読み手の私と似た歳であった
やはり年齢と云うものは、それなりのものであると、つくづく感じ入ったものだ

ところで、この鴨長明は神職であった、それが出家して方丈をむすんだとは何だろう
いったい神職とは何屋さんだろうか、そもそも神道とは何か、思い悩むところ
ローマ法王が出家、つまり仏門に入ることがあるのどうか、高山右近に聞いてみたい
右近曰く「それは茶の世界に入ることにて候」とか、ホンマかいな(^^)・・有り得る
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昼前から、女房殿と村田眞人さんの個展に行って来た
緑釉花入の作品に有楽椿(太郎冠者)とレンギョウが入れられていた
百貨店の花屋さんにお任せだったらしいが、茶人なら自分でやられたしと諫言
そこには、村田さんの嬉しい誤算があって、花まで手が回らなかったと云う

先の広島個展では、予想外に作品が売れ、今回のための取り置きが無くなったとか
個展前日まで、ドタバタと製作と準備に追われていたとか、まま結構なことだ
とは云え、花を入れるのは自分の美感のを示すこと、ぬかり無き様にするが肝要

村田さんの今回の作品を見て、「肩の力が抜けた」と感じた
云わば、「もう一枝あれかし」の味わいが出ているようで嬉しくなった
楽焼は村田さんがせんでも他に人も居るので、絵唐津を極める方が似合う云々
とか、まま、芸術・美術への造詣を持ち合わせぬ身の私が云うたのだが、村田さん
ふむふむと頷いてくれるあたり、作品同様に人柄にも余裕と円熟味が出て来たようだ
それとも、素人類の戯言と、さらりと受け流されたのかも知れないが・・

展示場の端に八寸四方位の呉須染付皿が十枚ほどが並べられていた
彼の特徴的な赤絵も良いが、こちらはまた別の中々に味のある山水画である
今日は見学に止め、売上協力せずに引き上げてしまった、申し訳ない

帰りに相国寺に寄り、開催中の「円山応挙展」を覗いた
応挙のほか、与謝蕪村、長澤芹雪、呉春なぞの絵が展示されていた
相国寺の蔵する伊藤若冲の絵もあったが、残念ながら、鶏図ではなかった

三井南家伝来の円山応挙関連資料というコーナーで見た画帳、応挙の山水画
まさに村田さんの染付皿の山水画の画風であった、う~むと唸って次を見ると
鶏や仔犬に絵柄と共に、鯉・ウグイ・アユ、ナマズという魚の見事な絵図だ
そこには、村田さんの作風にどこか繋がるものがあると感じた

村田さんの作品は、斬新な技巧の器に黄や緑、青の鮮やかな釉薬が掛かる物が多い
違う見方をすると、前衛的な作風の作家ともいえるであろう
然し、やはり村田さんは正当派の伝統工芸・日本画をきっちり勉強されていると納得
今更ながらに、彼には感服させられた、
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近隣の庭の紅梅、見頃である
梅も馬も外来語がそのまま日本語なったもの

この二・三日のテレビ・新聞は東日本大震災の話で埋まっていた
私も犠牲者と遺族の方々、そして今もって避難生活をされている方々を気の毒に思う
然し、同時に思うことは被災した犬や猫、牛・馬・豚・羊・鶏の家畜達のことである
テレビが捉えた野生化しつつある家畜達の姿を見て、その幾倍もの家畜が小屋の中で
或いは繋がれたままで津波に呑まれて死んでいったのかと思うと心が痛む
生き延びても、飼い主がいなく、風景の変わった場所でうろついている犬の姿があった
今だに、人を見かけると寄って来ると聞いた、愛犬ハナに重ねると切なくなる話である

先の大戦では出征兵士が大陸や南洋各地で、二百七十万人の戦死者を数えたと聞く
毎年八月十五日には慰霊の式典があり、その特集記事や番組放映がある
然し、出征軍馬の話は聞かなくなった、軍馬の多くは家族と共に暮らしていた役馬だった
各家庭から徴集され出征した軍馬は百万頭に上り、ただの一頭も日本に帰還出来なかった
戦記の中に、棄てられ痩せた軍馬が日本兵を見るとよろよろと付いて来る話があった
その文に接した時、何か眼が潤み本が読み進めなくなったことがある

その軍馬を送り出した人達も、送り出したきり、二度と愛馬に会えなかったのだ
その馬のことを記憶する人が亡くなった時、その馬のこと、その馬が生きた証や姿が
その馬と家族が過した日々、戦場で活躍した雄姿、この世から忘れ去られてしまった
同じく、軍用犬も数万頭が出征し、一頭も日本の家族のもとに帰って来られなかったと聞く
軍馬、軍用犬、それぞれにどんな活躍ぶりをしてくれたのだろうか、一頭一頭が・・
そして、どこで、どんな死に方をしたのだろうか、「ありがとう、お疲れ様」と云ってやりたい
またそして、東日本震災地の避難地区で残されながら生き延びている犬猫、家畜たちには
「すまない、少しでも生き延びてくれ」と云うしかない

東日本大震災の一日前の三月十日、米軍B29爆撃機三百六十機による深夜の東京大空襲の日
十万人余り、その多くは女子供と老人という一般の非戦闘員が計画的に焼き殺された日である
テレビや新聞での扱いは少ないものであった、もう忘れられた話になったかのかようである
この世の出来事は、いつしか、捨て去られた記憶となって、消えていくのだろう
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茶粥、「ごぼ」

左記の東大寺をテーマにした茶会の写真の中にある水指のこと
東大寺の坊さんが使う粥食器を写したもので、云わば茶粥飯のお櫃(ひつ)である
お櫃とは、炊いた飯を取り置くもので、湿した晒しか綿布を木の器に敷いて蓋をする
最近では見かけなくなったが、お櫃は昭和三十年代まで家庭の一般常備品だった
然し、粥の櫃があるとは知らなんだが、恐らく「あげ茶」の櫃であろう
「あげ茶」とは茶粥の茶汁をあげたもので、云わば茶飯で、それを櫃に取るのであろう
「ごぼ」とは、茶汁を残したままの茶粥で、写真は奈良の旅館で出している「ごぼ」
茶粥は大和の食文化を代表するもので「大和の茶粥、京の白粥、河内のどろ喰い」
この話は以前にも書いた、北前船の影響か、山口や能登・津軽・仙台にも伝わっている

ところで、NHK朝番組の「ごちそうさん」高視聴率だとのこと、我々も見ている
NHK番組は以前から偏重あることや、最近は時代考証が粗雑であることはさて置き
「ごちそうさん」で母親役の主役が息子と疎開している状況が物語になっていた
疎開先は山間の村、「柿の葉すし」が作られ、猪が出る辺り、食事は茶粥、とされる
まず、吉野を想定しているのであろうが、大間違いのシーンがあったのである
茶粥を作っている際に、何度も杓でかき混ぜていたのだ、有り得ないシーンである
茶粥は、晒しに炒った粉茶(番茶かほうじ茶)を包んで炊き、煮立ったら洗い米を入れる
出来あがるまで、決してかき混ぜない、かき混ぜると粘りが出て拙くなるのである

茶粥の話はここまでとして、先の記事の「織部流の点前」のこと
云い忘れていた織部流点前の特徴である所作を追記しておく(遠州にも同様の形がある)
それは「手前手水」という所作があることだ、「手前手水」いわゆる「手揉み」である
手前中に道具扱いの粗相が無いように、精神統一と手を潤うために手を揉み、身構えをする
平たく云うと、ひと仕事をするのに両手の指を鳴らし手の平を揉む、あの仕草に似ている
この所作を女性がすると、何とも「おっかない」、首をすくめて見ることになる(^^)
2014.03.09 東大寺、Ⅱ
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二月堂修二会(お水取り)の大松明を模した風炉先(結界)、水差は東大寺の粥食器写
炉縁は東大寺古材で面に「東大寺」の焼印あり、中々に見事な趣向と云うべきであろう
釜は霰丸、拝見に出たのは、棗、扇子に乗せた茶杓、茶碗は主・替・三・四客のものである

織部流では、拝見に茶杓を出す時に扇子を広げて置き、その上に茶杓を乗せる
古石流では濃茶の仕覆の上に茶杓を掛ける様に置き、宗偏流では小盆に乗せて茶杓を出す

織部の師は千利休、宗偏の師は千宗旦、石州の師は桑山宗仙でその師は千道安である
茶杓を畳の上に直接置かないのは、畳の上が人の足裏で踏み歩く場で、不浄とする故だとか
私は理にかなった考えだと思う、当流では手の平を畳の上に付けて挨拶するのを厭う
畳に触れた手で点前をし、茶を点てて、その茶碗を出すことを良しとしないのだ
ところがである、当流では茶勺を直接畳の上に置いて出す、今の三千家さんと同様にである
何故こうなったのか解せないままである、私が宗家に問うと、前からそう受け継いでいるとか
う~む、と考え込んむ春の日である


2014.03.09 東大寺
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首が痛いが、写真の右から見てもらうと、床飾り正面になる
本日の席主は奈良の御仁、本日の茶会テーマは「東大寺」ということであった
奈良、東大寺二月堂の椿、「糊こぼし」に因んだ床飾りつけである
待合に床の茶席床の軸は、東大寺管長や長老に揮毫によるものであった

今日、大阪城を真の当たりに望んだ大阪KKRホテルの清芳会茶会に行った
席主は奈良の裏千家の方で、茶席のテーマは「東大寺」にしたということだ
それ故、席作りと道具の苦に組合せは席主の存念がそこかしこに表されていた
然し乍ら、茶の形というか、点前や所作は「織部流」というのもであった
つまり、点前やお運び、半東、それに亭主は織部流の方が行うというものだ

席主と亭主の二本立て茶会という話である
今日は、織部流の古式と云うことであったが、当流と織部流は関係は深い
よって、当流に似た所作や仕儀があるが、違うところもあり興味深かった
織部流では、左に扇子を差したまま、右に袱紗を付けて点前をする
上客への茶には、扇子を広げ茶碗の上を覆うように置いて出す作法がある
そして、上客の前に茶を出しに行く際に、膝行(しっこう)という所作をする
足首を跪坐(きざ)、つまり踵を立てて、そのまま膝を進めるのである
他流では見かけない作法である、納得しながら拝見させてもらった
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茶の湯釜造りに励む釜師 三代 川邊庄造氏

<略歴>
昭和27年 二代目庄造の長男として奈良県橿原市に生まれる
父に茶の湯釜造りの技法を学ぶ
数江瓢鮎子 古賀健蔵の両師に指導を受ける
「川邊憲一(けんいち)」の名で作品を発表する
奈良西大寺「大茶盛」の大釜を奉納
奈良秋篠寺に常住釜を奉納
大徳寺徳禅寺に釜を奉納
東大寺北林院・宝珠院に常住釜を奉納
中宮寺に釜を奉納
薬師寺に釜を奉納
野村美術館 他各地で作品展を催す
平成16年 三代庄造の名を襲名
東京 大阪 福岡等 各地で襲名記念展を催す
平成25年 伊勢神宮に釜を奉納

鉄には和銑(わずく)と洋銑(ようずく)の二種類があるとか
茶書には
> 和銑は日本古来の砂鉄を炭で精錬した釜や工芸品に使われてきた地金です。砂鉄地金
材料の入手が難しく熟練の経験と技術を要し生産性が低いのが問題。
それに対し幕末に輸入された洋銑は、鉄鉱石を石炭等で大量生産出来る鉄でした。鉄鉱石地金
高い生産性に加え切削・塑性のしやすさで大きく変わることになりました。
しかし洋銑で製作した釜は錆びが出易いのである。
表面加工と内側の錆び止めでなんとか使用には耐えますが和銑の鉄味には勝てません。
釜の値段は原料の差と言っても過言ではありません。<、とある

私が和ズクと洋ズクの違いの実際を知ったのは三年前のことである
底の穴開きがひどくなった茶釜の修繕を川邊さんに依頼した時だ
和ズクと洋ズクの原体を見せてもらうと確かに違いはある
日本刀を代表とする日本の刃物や鉄器の優秀さを改めて知った
今、川邊さんの仕事の半分ぐらいは唐土向けの鉄瓶作りだと云う
それも、あちらでは日本の二倍三倍の値で取引されているらしい
それほどに日本製鉄器の優秀性が向こうでは評価されているのだ
逆に、日本では外国製の鉄鍋・鉄瓶が安価で売られているとは・・

日本の釜師の技術は高く、今では洋ズクも和ズクと殆ど変わらない物に出来る
洋ズクの錆び易いという欠陥を、日本の漆技術で問題解決を図ることが出来た
それ故、今の釜の大半は洋ズクで作られているらしい、見た目も変わらない
それでも和ズクの釜は価格が倍ぐらいするのは、原料が希少であるからだ
まま、拘る方は和ズクの物をと云われることがあるので、幾つかは作っているとか

実は昨日、以前に頼んでいた透木釜を川邊さんのところへ見に行っていたのである
透木釜(すききかま)とは、炉の五徳を外した際、つまり4月頃に使う釜だ
五徳を外すと、釜を天井から鎖や竹自在で吊るすか、炉壇の上に釜を置くことになる
この炉壇(炉の内側)に置く時、炉壇と釜の羽の間に挟む板を透木(敷き木)という
従って、透木を使って炉壇に置く釜を透木釜といい、羽付き釜や富士型の釜が多い

色々な釜を見ていて、「これはええ」と感じたのがあったが、ひとつ問題があった
川邊家では、御主人が表千家、奥方は裏千家である、ええと思ったのは奥様愛用の釜
擦ったも揉んだのあげく、私が貰い受ける運びになった、少々奥方に気の毒であった・・
その釜、いわゆる平蜘蛛釜、松永弾正が信長を拒み火薬を詰めて信貴山で爆死した釜だ
後で聞くと、以前に我が宗家もご所望した釜型だとか、が、こちらは鐶付のない取手付
それに「洋ズク」であると云うので、私は「納得ズク」だと云った、「腕ズク」かも・・
手直し、化粧直しをして今月末には我が家に届けてもらえるそうだ、楽しみである


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村田眞人(まこと)さんの作品

当流・京都稽古場の門人である陶芸家の村田眞人さんから作陶展の案内が来た

◆会期=2014年3月12日(水)→18日(火)
◆会場=高島屋京都店6階美術画廊 ※最終日は午後4時閉場

ごあいさつ
時間をかけて焼く
釉と土の同化
焼くことの不思議が
生み出す秘色
求問の日々を送っております
何卒、御高覧下さいますよう
お願い申し上げます
 2014年3月
          村田眞人

作家・略歴
●1956年 京都に生まれる
●1976年 父八代目亀水 並びに村田陶苑に薫陶を受ける
●1983年 日本工芸会近畿支部展にて日本工芸会賞を受賞
●2000年 日本伝統工芸近畿展にて日本工芸会近畿支部長賞を受賞
●2002年 日本伝統工芸近畿展にて京都府教育長賞を受賞
●2003年 日本伝統工芸近畿展にて日本工芸会近畿支部長賞を受賞
     日本工芸会正会員に推挙される
●2005年 高島屋京都店にて個展開催(同08年、11年)
●2007年 京都府美術工芸新鋭選抜展2008に推挙される
●2014年 高島屋京都店にて4回目の個展開催

と、あった
嬉しいことに縦書きの二つ折り葉書である
最近は年賀状ですら横書き葉書が多くなって来たのに、である
村田さんのことは、NHK総合テレビでも「京都の名匠」として放映された
確かに、その技巧は卓越したものがあり画風もセンスがある(私が云うのも・・)
然しながらである、私が村田さんを評価するところは別にある

着物屋さん、菓子屋さん、料理屋さん、道具屋さん、そして工芸家と
仕事柄というべきか、茶を学び茶家に出入りする人が結構多いようだ
仕事柄というのは、顧客の対象に茶人が多いという面との拘わりは否めない
よって、多くの門弟というかお弟子のいる流派に行く方が利得につながるところ
で、然しながらである、村田さんは京都の九代目を継ぐ陶芸師でありながら
何万人の門弟がいる京都の流派ではなく、広島に本拠を置く武家茶道の当流を学ぶ
畿内の当流は百人程度の人数、云わばマイナー流派であるにも拘わらずである

村田さんは、自分の仕事と茶への思いは別物と思っておられるようだ
別物と云うのは、顧客を得るために茶をやることはしない、ということである
自分の生き様への思いと、自分の作風への拘りを持つが故、ということである
彼の作風が、今後多くの人々から認められるようにと、願うところ
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証券取引所の鐘

件の記事にした和歌山の情報ネットワーク会社は本日株式上場
社長は東京証券取引所で取引開始の鐘を鳴らす恒例の行事に参加とか

一昨日のこと、その社長は私のブログを見て、電話で文句を云って来た
「人は信じても、その言葉は信じない」とは云っていない
「人は信じても、その判断は信じない」と云ったのである、と
確かに、ニュアンスは少々違う、彼のいう方が正しいであろう
だがである、もう二十数年以上も経つ昔のこと
云った方も、聞いた方も、その場面と言葉を心に残していたとは頷ける

株価の高値を期待する、金を成らせ、否、鐘を鳴らせ!
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「かえる庵」の佐藤さん

卒塾者の佐藤さんから連絡があり、「かえる庵」のテレビ放映があるとのこと
以下、連絡文

>昨日話しました大阪テレビの取材の件報告致します。
番組名は「おとな旅あるき旅」です。
出演者は、三田村邦彦さんと大塚アナウンサーです。
放送時間は、大阪テレビが3月22日(土)午後6時30分~7時
      奈良テレビが翌23日 同時刻です。
取材は2月23日に終了しました。
以上報告致します。<
2014.03.05 濃茶武者点前
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武者点前で濃茶を練る卒塾者

池田炭持参の件の御婦人が、たっての願いと云って「武者点前」の見学を所望
十二時四〇分頃着の電車で来るというので、一〇時半に卒塾者へ緊急通報
今の塾生では、濃茶武者点前の腕はまだ出来ていないためである
卒塾者にとっては、一年ぶりの炉点前、しかも唐突の濃茶の武者点前である
早速に来られて、空の釜と水差しを置き、いわゆる空点前をされ、頭と体のリフレッシュ
何とか勘が戻ったところで、御婦人を駅まで迎えに(何せ五キロの炭持参)

御婦人は炭切り、炭点前の後、念願の濃茶武者点前をご覧あそばれたのであった
さすがに卒塾者、すっかり勘を取り戻し、堂々の武者点前ぶりである
件の御婦人は感激した様子で、「この風格・品位は若い男性では無理ですね・・」
?と思ったが、一応褒め言葉と受け取った(爺のヒガミ?)
居た塾生も納得の見稽古、真剣な目付きで動きを追っていた
2014.03.03 炭のこと
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池田炭を持参、炭切り・炭割り稽古をする御婦人
写真は炭割り、つまり割毬杖(わりぎっちょう)を作っているところ

炭切り稽古をしたいと申し出があった当流の御婦人
五キロの池田炭を抱いての来訪であった、バス・地下鉄・近鉄を乗り継いでのこと
熱心というか、健気というか、中々の心意気、私は受けて立ったのである
持参の炭を新聞紙に出して並べてみると、無残というか、哀れというか、可愛そうな話
太さが四寸(一二センチ)もあるもの、一寸にも満たないもの、曲がりもの、節くれもの
炭切り研修を主催した池田市の面々云わずもがな、講習の茶の先生は炭焼の現場現実に疎く
炭焼きの人は茶に疎く、悪気なく三者其々に話を勝手読みしたのだろうと思うところである

取り敢えず、使える状態に炭を切り、炭を割り、炭点前の用意を間に合わせた
私が作業をして見せるのと、二年目の塾生が「いつもこうして切ってもらっていたのですか」
その塾生、何も思わず消耗品感覚で炭を使っていたことに、何らかの思いが過ったようである
御婦人が自分が切り割った炭で、炭点前をした、我が家では珍しい女炭点前に皆は興味津々
彼女曰く「置く炭其々に、切り難かったあの炭、節くれたこの炭と、一個一個に思いがこもる」
私は嬉しくなった、大量生産・大量消費の文明観の中にあって、燃えていく一個の炭に心を置く
文明感覚と文化感覚の違いと云えば良いのでのであろうか、些か大袈裟であるが・・
まま、今回の炭きり稽古、其々の人達に何かが伝わったものと私は思った次第

この炭は形は不良であるが、生まれは育ちはさすがに池田炭である
一度の炭点前て五時間の茶の稽古が出来た、それに久しぶりの釜鳴りを聞き、皆は感動
これまでの稽古で使っていた「四〇年来の田舎炭」は一時間一点前で燃え尽きたものである
「火相・湯相」「ひそう・ひあい、ゆそう・ゆあい」ということが分かってもらえたようだ
釜鳴りのこと、茶書に曰く

>湯の沸きかげんのこと。「ゆあい」ともいう。「一座一会の心、只この火相・湯相のみなり。」とあり、茶の湯では湯を沸かすための火の興り具合(火相)、湯の沸き具合(湯相)に特に気を配らなければならないとされ、抹茶ことに濃茶を立てるのに適当な温度は、茶の味や香りを損じやすい沸騰の頂点ではなく、それを過ぎて、少し下り坂の煮え加減の時、あるいは沸騰の一歩手前の時で、この時の釜の煮え音を「松風」という。茶事においては、この湯相が最も適当な「松風」の時に濃茶点前ができるように、炭の加減(火相)が考えられ、炭点前が決められている。湯相を「蚯音(きゅうおん)」「蟹眼(かいがん)」「連珠(れんじゅ)」「魚目(ぎょもく)」「松風(しょうふう)」の五つに分けて「松風」をよしとしたとされる< 
、とある

松風は松籟(しょうらい)ともいわれているようだ、蚯音とはミミズの鳴き声のこと
だが、私は実際のミミズの鳴き声というのは未だ聞いたことはない