2014.04.30 饒舌癖開花
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苧環(おだまき)・、別名「糸繰草・いとくりそう」、花言葉「必ず勝つ」
茶の稽古日と云うことで、隣家の方がくださったものである
苧環は青色が多く、偶に白色も見掛けるが、赤色の苧環は初めて見た

苧環の名の由来は、苧(お)という繊維を中を空洞にし、丸く巻き付けた苧玉(おだま)
その苧玉に花の形が似ているところから名付けられた、とある
つまり、苧(お)、玉(たま)、巻き(まき)が「苧環」という漢字のなり
「おだまき」と呼ばれるようになったということ、小田巻きとも書くそうである

義経記の舞台、一番の見せ場である静御前が吉野山の別れの段

「 しづやしづ 賤(しず)のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな
    吉野山嶺の 白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき ... 」


昨日は雨の中、女房殿と二人で奈良の街まで買い物に出掛けた
一時になるので三条通りの「かえる庵」に立ち寄ると、もうすぐ朋庵の塾生が来店との由
盛りそばを食べ掛けているところへ日本酒二瓶を手に塾生来店、たちまちに酒盛りとなる
そして、塾生から聞かされた本音「あなたのブログ記事は長い、読み辛い」云々
すると、それを聞いていた庵主の佐藤さんも「それに誤字が多い」云々と追い討ち

その日の目当ての買い物は、店のすぐ横にもあるとかで、庵主が同行してくれた
買い物は奈良晒、布巾と手拭いそしてハンカチを求めた、庵主の顔で饅頭がオマケに付いた
その店を出たところで、「かえる庵」の常連客という御仁と庵主が鉢合わせする
その常連さんと共に「かえる庵」に戻り、飲み直しとなった次第

話が進む中で、その常連さんが私の中学・高校の一年後輩と分かり、また話と酒が進む
「かえる庵」を出たのは八時頃、女房殿はクタビレ顔であった
最近つとに、酒が入ると私の饒舌癖が開花するようで、反省シキリ
その饒舌がブログのクドクド文となっているのかと、これまた反省ザル(猿)
今日はここ迄としよう
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2014.04.29 昭和の日
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遊鯉の軸、花は菖蒲(ショウブ)、花入はお歯黒入れの壺である
昨日は新入塾生三人の稽古日、その床の様である、登竜門のつもりであったが

今日は昭和の日、緑の日なんぞとオヌカシであったが、世情も多少は健全化されたと云える
五月五日の端午の節句は江戸期以来「男児の節句」であるが、今は「子供の日」だとか
昭和の大戦後、「平和教育者」とかがオヌカシアソバシ、今も法律上の呼称はそうなっている
端午とは、端(始まり)、午(五)、つまり五月初めての五日ということであるそうな

端午の節句の行事は、汨羅江(べきらこう)に入水自殺した楚の愛国の士・屈原の供養
その無念を鎮めるため、また亡骸を魚が食らわないように、人々が魚の餌を投げ込んだとか
それは笹の葉に米の飯を入れたもので、これが「ちまき」の由来といわれると聞く
そして、古くは邪気を払うとされていた菖蒲(しょうぶ)を飾るようになったといわれる

旧歴五月五日とは新暦の六月中旬で、日本では梅雨の季節であり、雨の日々である
雨の日に、男児の出世と健康を願って家庭の庭先で飾られた鯉の絵柄が「鯉のぼり」である
鯉のぼりは日本独特の風習とか、それも江戸の武家風習で、上方にはない風習であった
鯉を描き、風になびかせる吹流しを皐幟(さつきのぼり)、鯉の吹き流しと云ったとある
武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった
この日、武家の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に沖飾り
玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れたとかいう

我が息子を「鯉の滝登り」に重ね、世の中を逞しく登り切り、出世せよとの親の願い
かつて卒業式で「身を立て、名を上げ、やよ励めよ」と詠われた、あの「仰げば尊し」
因みに、先の記事にした幼馴染の稲荷寿しの話、茶店「のぼりや」も宮の参道の幟
まま、「幟・のぼり」ついでの脇道話ながら・・

さて、鯉の滝登りといえば「登竜門」、これの読み方や如何に
「登竜の門」か「竜門を登る」かとか云う話、これは「竜門を登る」である
「竜門」とは夏朝の皇帝・禹が黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流のこと
その急流を登り切った鯉は、やがて竜に出世(?)するとかいう古の逸話だとか

なるほどに五月五日、「男児の節句」とは日教組の先生方には聞き捨てならん話であろう
男女平等の「子供の日」が正解なのであろう、然し、三月三日は「ひな(雛)祭り」
これも「子供の日」として然るべきだろうにと皮肉るは、先の短い翁の繰り言
何故、女子大学が今もって存在し、男子大学はなくなったのであろうか
最近の防衛大学の首席卒業生は女子が多いとか、にも拘わらす卒業式の祭典の総代は男子
そういうことなのかとは?、やはり翁の繰り言か

屈原を偲ぶ、昭和維新の歌(青年日本の歌、海軍中尉三上 卓作詞 ・25歳時)

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は亂れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
國を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし

三、
ああ人栄え國亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踴る
治亂興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
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台目席の小間で透き木釜の炭点前稽古
釜は先の記事にした奈良・橿原の釜師の作になる「弓張り鐶付平釜」である
写真の手元は少々暗いが、平釜の羽に半月形、つまり弓張り形の取手が付いている
いわゆる透き木釜造りであり、炉壇の上に敷いてあるのが黒柿の透き木(敷き木)

塾生にとっては、五徳を外した炉の炭点前は初体験である
昨日の稽古は、広間で吊り釜の炭点前をする予定であった
それを先輩塾生が台目席での濃茶点前稽古を所望したことで、急遽小間稽古に変更
小間は一畳台目中板の席故に吊り釜はなく、透き木扱いの平釜炭点前となった次第
然れども、この塾生、初体験もなんのその、堂々たる稽古ぶり
大分に、茶ずれした来た様子である
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シャガ(射干・胡蝶花・著莪)、花言葉「抵抗・決心」
学名は「アイリス・ジャポニカ」、つまり「日本アヤメ」である

 譲ることのみ多き日々著莪の花       塙 義子

愚痴になるが、この金曜日、木曜日と連日の郵便局通いであった
投函した手紙が、二円が不足しているという貼紙が付いて戻って来たのだ
吉野山の桜の記念切手を貼って、遠方の友人達へ出したものだった
何のことはない、消費税の値上がり分を失念していたのである

ままよ、と郵便局で二円切手を買い求め、吉野桜の下に貼り足して投函
今後のために、その二円切手を二十枚ほど余分に買うことにした
その二円切手、何故か白兎の図柄である、干支切手の売れ残りかと疑った
然し、それを云うのは控えた、譲ることのみ多き日々である

さて、シャガのこと、名前の由来もハッキリせず、漢字名も唐土の借り物とか
シャガは史前植物で、弥生・縄文という古い時代に人間が日本列島に持ち込んだものらしい
何でも、三倍体植物とかで胚や種子が付かず、栄養繁殖、つまり茎や根で増殖するもの
よって、人間の手で株分けして生域を広げることはあっても、鳥や風では運ばれない
つまり、シャガの自生しているところは、かつて人が住んでいた跡だということになる

シャガの原種は支那大陸の南部で見られるものらしいが、台湾・琉球には見られない
ということは、南支那から直接日本に持ち込まれたということになるそうだ
面白いことに、人間のY染色体の遺伝子の流れと同じような移動経緯を想像させる
このY染色体遺伝子の拡がり経路とは、人類史の侵略と支配の過去を示している
つまり、支配者の男の遺伝子は残されるが、被支配者の男の遺伝子は残り難いということ

ややマイナー話になるが、日本列島には人類がアフリカ出立後のY遺伝子全てが存在する
それは、世界の中で日本列島だけに見られる極めて珍しい現象だとされている
恐らくは、他族の男を皆殺し(ジェノサイト)或いは奴隷化する様なことが無かった証だろう
日本列島で最も多いY遺伝子は「D2]というタイプで日本列島だけにしか見られないものだ
次に多いのが「O2b1」というタイプで、南支那の少数民族やベトナム辺りに見られるものと遠戚
その次には、北支那の漢族や蒙古・満州等やシベリア系のもので、朝鮮半島のものは意外と少ない

前には、朝鮮半島から渡来した騎馬民族が日本列島を征服・支配したという説が賑わったでいた
今は、その説は完全否定されているようで、江南の地から亡国の民が日本列島に直接来た説
弥生人江南説が再評価されているが、これも日本列島の先住民を征服ではなく、中で同化したらしい
何故なら、日本列島は独特の日本語文化のままで、連綿とそれが続いていることが証であるとか

そういう話の中で、シャガを考えると真に興味が尽きないところである
では、シャガは何に使われたのかということであるが、そこが今はよく分らなくなっているとか
そのヒントになっているのが彼岸花の存在である、彼岸花も史前植物で三倍体植物というもの
飢饉の際には食用にもされたが、その葉が持つ抗菌性で食物の防腐・保存用に使われていたという
つい最近(戦前)までは、彼岸花の葉をミカンの出荷箱に入れて出荷していたということだらしい

シャガに、「アンタは何者、何処から何をしに、誰に連れられてここに居るの」と聞いてみたい     
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少し見辛いが、白藤と青藤が重なっている、近くのドングリ公園で撮った

藤は中臣氏(藤原氏)の象徴であり、「下り藤」が一族の紋章となっている
藤原一族の氏神と氏寺である春日大社と興福寺の紋章も「下り藤」である
春日大社は藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷し創祀
武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は白鹿に乗り、香取の経津主命と共に来たという
河内・枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せて春日神と称したのが春日社の始まりとか
よって、春日大社は雷神、刀剣の神、弓術の神、武神として信仰されている

昨年は、出雲大社と伊勢神宮の遷宮式典で結構賑わったが、実は春日大社も遷宮中である
春日大社の遷宮は、出雲大社や伊勢神宮のように旧宮を全て作り変えて新宮とする形式でない
式年造替として二十年毎に神殿や御神宝などを造り替え、修繕を行う形式になっている
第六十年次となる今次造替は平成十九年の一ノ鳥居の改修より既に始まっているのである
そして、 平成二十八年の御本社御本殿の正遷宮をもって完了する予定になっている
出雲や伊勢の遷宮と同様に、春日大社の式年造替は日本建築や伝統工芸の伝承の機会を与える

ところで、藤原氏の氏神とは、元々はこの春日野の地ではなく藤原京の近くにあったという
この春日野の地は、古代豪族和邇一族(春日・多・柿本・大宅・粟田・小野・和仁の各氏)の地
そこには和爾氏の祀神・榎本社(古春日社)があったのだが、都が平城京に移ると藤原氏は一計
この地を乗っ取り、自分たちの祀神を以って藤原一族の氏神・春日大社としたのである
この土地に語り継がれる「つんぼ春日に土地三尺借りる」と呼ばれている話がある

>武甕槌命は春日野一帯に広大な神地を構えようと一計を案じ、地主である榎本の神に「この土地を地下三尺だけ譲ってほしい」と言った。榎本の神は耳が遠かったために「地下」という言葉が聞き取れず、「三尺くらいなら」と承諾してしまった。武甕槌命はすぐさま、榎本の神が所有する広大な土地に囲いをした。榎本の神が「話が違う」と抗議すると、武甕槌命は「私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかっただけでしょう。約束通り、境内の樹木は地下三尺より下へは延ばしません。あなたは住む所がなくては困るでしょうから、私の近くに住んで下さい」と言ったので、榎本の神は春日大社本殿のすぐそばに住むようになった。これが今日の榎本神社であるという。
いずれにしても、榎本神社の祭神がこの土地の元々の神と考えられていたということである。明治時代までは、春日大社の参詣者は、まず榎本神社に参拝し、柱を握り拳で何度も叩きながら(榎本の神は耳が遠いので)「春日さん、お参りました」などと言い、榎本神社の祠の周りを廻った後に本殿に参るという慣習があった。<

と、いう伝承になっている
因みに、私の初宮参りも、この春日大社であった
春日大社と三輪神社、そして橿原神宮は大和の三社会として交流があるとか
何故、吉野神宮がそこに入っていないのだろうかと思うのだが・・
大和一之宮は三輪神社である、これはまま納得できるが

もうひとつ、因みに
上田宗箇流が畿内の地で初めて茶会を催したのは、この春日大社であった
昭和六十一年十月二十六日のこと、二十八年前になる
男ばかりで毅然と構えた茶席の風景は、他流の方々に強い印象を与えたとか(手前味噌)
裏方は広島からの応援団、女性陣であったが・・




2014.04.22 掻き立鐶
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雲龍釜の釜蓋は釜と同じ材質の共蓋、摘(つまみ)は掻き立鐶(かきたてかん)である

摘は、唐銅・黄銅・南鐐(銀)製で、釜蓋に下敷の座と天座とともに、かしめて取り付ける
摘の意匠は、柑子(こうじ)、山梔子(くちなし)、梅、菊、箪瓢(たんぴょう)、繭(まゆ)
方喰(かたばみ)、切子(きりこ)、掻き立鐶(かきたてかん)など種々あるようだ
掻き立鐶は、釜・蓋と同じ鉄製の鐶つまみであり、摘みの元々の形、原形を留めたもの云われる

釜の蓋を取る時には、当流では男女共に帛紗(ふくさ)で掴む、熱が冷めて戻す時は素手で行う
千家さんでは男は素手で掴む、摘には熱を逃がすための透かしが施してあるとはいえ、熱い
何故だろうと思い、千家の古い茶人に聞いたことがある、その答えには成程と思った次第
昔の男の手の平は、鋤鍬(スキクワ)やノコギリや鎚(ツチ)或いは竹刀を振り、分厚いもの
それが証拠に、きさみ煙草の火を指先と手の平で扱ったとか、確かに爺さんも親父もそうだった

云われてみると、当流は女同様に男衆が帛紗を使うのは女々しい軟弱点前に思えて来た
何が武家、「もののふ」の茶かと、考えあぐんで、熊本の武家茶の重鎮にその辺りを尋ねてみた
その答え、武家の茶とは本来は殿・貴人に出す茶を基本にするが故、点前も丁寧なものになる
釜の蓋を取る時も、先ず帛紗で蓋を清めて、そのまま帛紗で摘みを持ち蓋を開けるのだとか
これまた納得した次第、当流でも献茶の時は同様のことをしているのは古式の形であろう
実際、織部流も遠州流も石州流も釜の蓋を開ける最初に帛紗で蓋を清めている
まま、武家・武人の茶が女々しいとは思わなくで済み、胸を撫で下ろしたのであった
どこでどう話が変わったのか、当流では蓋の摘みが熱いから帛紗を使用するような話

ここで、閑話休題、実は雲龍釜の掻き立鐶、この扱いが不慣れな者には少々面倒なのである
掻き立鐶は釜蓋の上に鐶付があり鐶が通されて、鐶の輪先が曲がって延び、蓋に降りている
そのことで、鐶自身には熱が伝わり難くなっているという寸法で工夫されている
掻き立鐶を取るには輪先の爪に親指を当て、人指指を鐶の輪に入れて掴み親指で押上げる
決して、鐶をぶら下げて持って、それで蓋を開けるということはしない
そして、蓋置の上に蓋を置いた後は、茶巾を乗せ易すいように掻き上鐶は向う側へ倒す
口で表現するには難しいが、要は帛紗を使うと少々小難しく、素手なら楽に出来る
由って清めないなら、今後我が朋庵では熱くない掻き立鐶の扱いを素手でも良しとしよう
2014.04.21 家の伝統文化
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近所の庭の花水木(はなみずき)、満開となっていた

前の記事の稲荷寿しのこと
持って来てくれた幼馴染みは、法連町の佐保田に家があり、常陸神社の参道に面している
彼の家の前には祠があり、昔そこには「のぼりや」という茶店があったとか
まだ法連村と呼ばれていた頃、毎月一九日は村人の宮詣りの日で、茶店では稲荷寿しを出した
建具屋をしていた彼の父親は、その一九日には参拝に訪れる村人の接待をしていたという

時は移り、奈良市と合併した法連村は住宅地化して町になり、いつしか村行事も潰えた
茶店も人が死んで店を閉じ、その跡地を彼の父が譲り受け、仕事場としたのだった
アルミサッシが普及し出してからは、建具の仕事も減り、彼の兄はサッシ屋に転業した
そして、その兄は表通りに店を出し、その屋号を「のぼりや」として一軒を構えた
幼馴染み彼は、ご両親と実家に住んで、建具仕事から大工仕事に転業したのだった

ご両親は、毎月一九日になると「のぼりや」で出していた稲荷寿しを作り、近所に配っていた
六人兄弟の二男である彼は、ご両親亡き後の実家を譲り受け、一九日には稲荷寿しを作る
そして兄弟の家や親戚・知人にその稲荷寿しを配っているのだ、奥さんも大変だろうに・・
私は伝統文化というのは、その家の中の仕来たりを守っていく、そういうことだろうと思う
その大きな稲荷寿しを見ていると、私も子供の頃にご馳走になった想い出がよみがえる
そして、かつての法連村の人々の息遣いまでが偲ばれてくる

どういう訳か、畿内は稲荷寿司が三角形、おにぎりは俵形、関東はその逆である
何故なのか、いつか調べてみたい
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こぶし大の稲荷寿し、上方式の三角形である

一九日は古代史愛好家の集い「埋もれ木座談会」があった
一時に近鉄奈良駅で東京組を待ち受け、三条通りの「かえる庵」へ行く
盛り蕎麦とビールで遅めの昼食を済ませて、会場のある東大寺南大門へ向かう
途中、国立博物館の前にある古美術商「友明堂」に寄り抹茶一服を喫す
車両進入禁止となっている南大門の前の参道に車を乗り入れ、旅館「観鹿荘」に着
つまり、参道の店関係者の車は進入可ということで、観鹿荘が座談会の会場だった

観鹿荘(かんかそう)は、昔には東大寺の塔頭があった処で、庭園や建物も中々趣きある
恐らく、廃仏毀釈で興福寺五重の塔が売りに出された頃に旅館になったのであろう
大阪組も其々に到着し総勢八人となる
その間に、東京組は季節物の大根奈良漬を買い求め、南大門を潜り抜け、大仏参拝

大阪組の一人は、イチゴ大福の一尺四方位の冷蔵ケースを人数分大阪からタクシーで持参
この御仁、引退した医者ながら、なんともバサラである
大阪組の今一人、此方は奥方同伴ながら、奥方の靴を忘れたとかで、東大寺と西大寺を往復
この御仁は開業医である、近頃の医者の行動様式、なんとも解し難い

ひと風呂浴びて、六時から座談会を始めたのだが、話は次から次へ、あちらこちらと飛んでいく
宴もたけなわで時計を見ると午前三時である、朝食は七時半との由、渋々ながら皆は床に就く
思うに、アラセブンながらも、皆さんタフであった
翌日は、興福寺から猿沢池を通り、曰く奈良町界隈を歩き近鉄奈良駅で東京組と分かれる
家に戻ると、大きな稲荷寿しが来ていた、昨日十九日に私の幼馴染みが届けてくれたという

2014.04.19 えんどうの花
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えんどう(豌豆)の花、最近は畑だけでなく庭や玄関先、ベランダでも見かける

えんどうの花
作詞:金城栄治
作曲:宮良長包

えんどうの花の 咲く頃は
幼い時を 思い出す
家の軒場に 巣をくって
暮れ方 かえった あのつばめ

えんどうの花の 咲く頃は
冷たい風が 吹きました
妹おぶって 暮れ方に
苺を取りに 行った山

今朝は冷たい 風が吹き
つばめが一羽 飛んでいる
えんどうの畑は 寒けれど
わたしゃ一人で 帰りましょう

この歌、今は琉球民謡として歌い継がれているようだ
作曲者の宮良 長包(みやら ちょうほう)は明治十六年に石垣島で生まれる
沖縄師範学校を出て、郷里の尋常小学校の先生として勤める
大正十年に沖縄師範学校の音楽教諭となり、数々の名曲を残している
しかし、先の大戦で原曲の譜面がほとんど失われたが、曲は歌い継がれていた
平成十八年に「沖縄のフォスター」と云われた彼のことがドキュメンタリー映画となろ

そう云えば、沖縄師範学校のこと
全国の師範学校は、戦後に学芸大学や総合大学の教育学部となって踏襲され歴史を繋ぐ
しかし、唯一そうならず廃校となった師範学校が沖縄師範学校である
先の大戦で戦場となった沖縄では、住民をも巻き込んだ激しい戦闘が行われた、「沖縄戦」
その時、沖縄師範学校の男子部生徒はその教員と共に「鉄血勤皇隊」として銃をとった
女子部生徒は、沖縄高等女学校の生徒と共に「ひめゆり部隊」を結成、戦火の中に身を投じた
そして、多くの生徒は戦場の中で死んで逝き、その短い生涯を終えたことは周知の通り
沖縄師範学校は、学校としての存続が不可能になったということであろう

その時期は、六十九年前の[えんどうの花]が咲く頃、今頃からであった

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日本犬保存会の血統書を持つ紀州犬の雄犬、物静かで精悍な姿である
前の記事に掲載した珍島犬の写真と見比べると区別が付かないほど良く似ている
紀州犬は四国犬(土佐闘犬の原種)と同様に熊や猪と戦う武闘派である

日本犬保存会は、国の天然記念物、日本特有の畜養動物としての日本犬の登録・保存を行う
昭和の初めに、柴犬・紀州犬・四国犬・甲斐犬・北海道犬・秋田犬・越犬の登録を開始した
しかし、残念ながらこの中の越犬は純血種が居なくなり、登録から外された
四国犬、以前は土佐犬と云われていたが、闘犬にした「土佐闘犬」と区別し、四国犬とした
北海道犬は「ソフトバンクの犬」でメジャーになったが、以前はアイヌ犬と云うマイナー犬だった

小型日本犬が柴犬、大型日本犬が秋田犬、中型日本犬が紀州犬・四国犬・甲斐犬・北海道犬
日本犬は赤(茶)・白・黒・胡麻(ゴマ)色とされるが犬種によってやや偏りがあるようだ
柴犬の八割は赤(茶)で、紀州犬や北海道犬の八割は白、四国犬は黒と胡麻がほとんどである
秋田犬も赤が多いが、白や胡麻もいる、面白いのは甲斐犬で虎毛と云われる黒の縞模様が多い
それに甲斐犬は、他の日本犬が巻尾であるのに、立ち尾を特徴とする、やや変わり種である

私が子供の頃に飼っていた紀州犬「五郎号」は白と黒のブチという珍しい紀州犬であった
そのため、日本犬保存会の主催する品評会には出られなかったのだ
兄弟犬は黒犬と白犬がおり、それらは品評会に参加していて、その理不尽さを嘆いたものだった
まま、その代り格安でもらい受けたのではあったが・・、でも五郎の方が良い犬であった
お蔭で、私はメンデルの法則を実感したのだが、メンデルはブチは品種外とは云っていない

日本犬保存会の対象から外れた越犬のように、かつて日本各地には地犬・日本犬種が多くいた
今も有志による保存が続けられている地犬・日本犬とは
川上犬(信州系の柴犬)、琉球犬(沖縄県の天然記念物に指定)、薩摩犬(鹿児島)
十石犬(群馬・長野)、美濃柴(飛騨柴とも、岐阜県)、山陰柴(鳥取県・島根県)

保存への努力がされているものの、もはや風前の灯となっている地犬は
肥後狼犬(熊本県)、岩手犬(岩手県)、三河犬(愛知県)がいる
また、純血種は絶えたものの、その血を引く和系犬として、今も地元に残されているのは
仙台犬(宮城県)、越路犬(同)、屋久島犬(鹿児島県)、大東犬(沖縄県)である

家畜遺伝子学の田名部雄一氏は、世界の犬八七種類・三七三二頭の血液から遺伝子を調べた
すると、HbAという特殊な遺伝子持つのは、日本犬とエスキモー犬、珍島犬だけと分ったとか
米国で行われた世界の犬種の遺伝子調査の結果では、オオカミに最も近かったのは柴犬であった
そして二番が秋田犬だった、その時に他の日本犬種は調査外だったが、調べて欲しかった

田名部氏は、犬の遺伝子の流れを人の移動、つまり民族の起源と変遷を物語る証だと考える
まさに慧眼、一考に値する論理だと思う
朝鮮半島南部に「前方後円墳」の跡があることと珍島犬の存在、興味あるところ


2014.04.17 珍島
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珎島犬、朝鮮半島南部の離れ小島・珍島に生息する、この写真の個体は紀州犬そっくり
客船が珍島沖で転覆したとのこと、死者の冥福を祈りたい

その客船は仁川港から出港したと聞いて、私に思いが過った
二〇代前半の頃、私は船で漢江河口の仁川港に入ったことがある
今もそうだが韓国では日本の歌や映画は禁制であったが、港に流れる歌は「湊町十三番地」
当時、四十代以上の人は日本語世代であり、日本文化への郷愁が残っていたのだろう
日本文化の禁制を続ける今の韓国にあっても、衛星テレビでは日本の番組に人気があるとか

先の大戦が始まった際に、日本では英語を敵性語として禁制とし、英語教育を抑圧した
そして、英語の日本語化が行われ、野球のアウトを一本と云い替えたとかの話が残る
しかし、米国では敵国の言語・日本語教育が盛んに行われ、日本語の習得が進められた
その結果、情報戦で有利に立った米軍の戦略の前に、日本軍は敗れたとも云われる

昨日のSTAP細胞の論文に関して、笹井氏の記者会見があったが、その中の言葉
「科学は宗教ではないので、信じる信じないという話はありません」、と述べたのは正解
まさにその通りである、どうも日本人は情緒的心情的に流れる悪い癖があると思う
軍事・戦争と云う、科学と論理を競う中にあって、教条や情緒を持ち込んでしまった日本
そして、結果として無残な敗北をした日本、我々は未だその教訓を活かしていないようだ

翻って韓国、表立っては「日本文化の禁制」を声高に上げながら、実は日本文化大好き
「嫌い嫌いは好きの中」と云う言葉そのものの韓国人の心理、したたかで面白い「反日」
比べて日本人は真面目である、何かあると本気で取り組んでしまう、悲しいほどに・・
しかし、情緒に流される癖は欠点・弱点だと自覚することが必要だと、最近しみじみ思う

珍島犬、そのDHNは世界の犬の中でも特殊で、日本犬とエスキモー犬だけが持つものである
次にその話を・・

2014.04.16 春日野
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右は会津八一の歌碑の拓本
 かすがの に おし てる つき の ほがらか に 
 あき の ゆふべ と なり に ける かも
左は国宝・東大寺八角燈籠音声菩薩の拓本、昭和三七年に修学旅行生が破損、後修復

この二枚の拓本を入手したので、表具師に屏風にしてもらったもの
菩薩の拓本に合したため、定番の利休屏風(五尺×五尺)に収まらず、別注となった
一昨日の誕生日茶事までにと頼んだものが昨日届いたのだ、寸前で間に合わなかった
箱根駅伝で見られる「前走者を目の前にしながらの見切りスタート」、涙の場面である

春日野(かすがの)は奈良公園そのものから佐保路付近を含め、奈良市の東北部全域に及ぶ
古代豪族・和邇氏の本拠地であり、古代より歴史の舞台として記紀にも色々と出て来る
今は東大寺の南西から春日大社・若草山山麓一帯をいうようになり、春日野町とされている
私は春日野に因んだ二人の美人の歌が好きである

<物部影姫を詠った歌>

 石の上(いそのかみ)  布留(ふる)を過ぎて
  薦枕(こもまくら)     高橋(たかはし)過ぎ
  物多(ものさは)に    大宅(おほやけ)過ぎ
  春日(はるひ)       春日(かすが)を過ぎ
  妻隠(つまごも)る     小佐保(をさほ)を過ぎ
  玉笥(たまけ)には     飯(いひ)さへ盛(も)り
  玉盌(たまもひ)に     水さへ盛(も)り
  泣き沾(そほ)ち行くも   影媛あはれ

<吉永小百合が唱った歌>

奈良の春日野 青芝に
腰を下ろせば 鹿のフン
フンフンフン 黒豆や
フンフンフン 黒豆や
フンフンフンフン 黒豆や

2,牡鹿牝鹿は 子鹿連れ
鹿に梅干し やったらば
フンフンフン いによった
フンフンフン いによった
フンフンフンフン いによった

3,春の鐘鳴る 東大寺
さぞや眠かろ 坊(ボン)さんも
コクコクコク こっくりこ
コクコクコク こっくりこ
コクコクコクコク こっくりこ
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奈良公園の鹿、確かに草食動物である

今朝のテレビワイドショウ、奈良の県民性が話題となっていた
何でも、全国統計で奈良の「男子の結婚願望率」が全国最低、それも断トツで
その要因として示された、他の項目で全国トップの数字となったのが、これ等
県外就業率最高、平均帰宅時間最遅、専業主婦率最高・・とか云々

これらの内容を鑑みてとかで、テレビコメンテーター殿の曰く
「奈良の男性に、まじめで気の優しい草食系男子が多いのは県民性なのでしょう」
と、ヌカシクサッテおくれやしたのであった
生粋、正統の大和男児(オノコ)に対し、なぬ~ッと、テレビの前で私は気色ばった

大和ついでながら、戦艦大和の記事に対し、こんな話を頂いた
戦艦大和は海上特攻の出撃に際し、その積荷のことである
女性の生理用品十万個と歯磨き歯ブラシも積んで出港していたということだ
塩野義製薬関係者の話では、この為に各倉庫にあった在庫を全て供出したとか
この話、私は初めて知った

戦艦大和の男たちとは、気の優しい男たちであったと思う
気の優しいとは、弱い男をいう言葉ではない、強くなければ優しくなれない
この大和男児の行動規範とは矜持とも云えるし、男の優しい心根だとも思える
人の矜持への惻隠の情無き者たちとは、お付き合いはしたくないものである

昨日の誕生日茶事、続いて入塾者たちへの歓迎稽古、楽しく無事終了
少々酔いの回った卒塾者の点前ではあったが・・

2014.04.13 蓮華草
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蓮華草(レンゲソウ)の花を久しぶりに目にした、蝶々も舞っていた
花言葉「心が和らぐ」、室町時代に唐土から入って来たとされている
蓮華とは蓮(ハス)の花に似ているので付けられた名だとか

♪ 春の小川はさらさら流る
 岸のすみれやれんげの花に
 にほひめでたく、色うつくしく
 咲けよ咲けよと、ささやく如く

 春の小川はさらさら流る
 蝦やめだかや小鮒の群に
 今日も一日ひなたに出でて
 遊べ遊べと、ささやく如く

(高野辰之・作詞、岡野貞一・作曲)

明治四十五年(大正元年)に作られた「春の小川」の原文である
作詞者の高野は東京府豊多摩郡代々幡村の一角(現在の代々木三丁目)に居を構えていた
当時の一帯は一面の田園地帯であり、河骨川と呼ばれる小川が田を潤していた
高野は家族ともどもこの川に親しみ、それを謳ったのがこの歌であるという話である

河骨川は1昭和三十九年に暗渠化されたが、かつての小川の岸辺には歌碑が建てられている
小田急線の代々木八幡駅にほど近い線路沿い(代々木五丁目六十五番地)にあるとか
暗渠とは暗黒の地下溝である、蓮華もすみれもめだかも蝦(えび)も小鮒も死に絶えたであろう

蓮華草は田の肥料・緑肥とされ、蓮華畑は春の風景の定番であった
子供の頃には、男も女も蓮華畑に入って遊んだものだ
女の子は蓮華草を摘み、輪状に結って首飾りや冠にしていた
つまり、ザ・タイガースのヒット曲「花の首飾り」である
男は赤Mのゴム球(軟式テニスのボール)で野球ごっこをして駆け回ったもの
そして、小川では手拭いを広げ、めだかや川蝦を掬(すく)ったものだった

話は飛ぶが、散蓮華(チリレンゲ)のこと、鍋料理屋などで用いる陶器の匙(さじ)
野草の散華草と同じく蓮の花に似ているので付けられた名という
蓮の花が散り、水面に浮かぶ姿から「散り蓮華」とはナカナカ粋(すい)といもの
唐土や朝鮮では、単に匙・サジというだけでのこと、つまりスプーンである
思うに、この「匙」は日本料理の中に入って来なかった代物である
茶の会席料理でも「匙」が出される料理はまず無いようだ

朝鮮の人が云うには「文化の低い倭人には、匙は勿体ないので教えなかった」とか
まぁ、よくぞオヌカㇱ、アソバスことではあるが、面白い話である
確かに、汁椀を直接口に持って来て食すというのは日本で、朝鮮ではしないようだ
どうとは云うことも無いが、朝鮮料理が「世界文化遺産」に指定されることはないと思う
まぁ、「世界文化遺産」なるものも、所詮は欧州人たちのジコチュウ遊びではあるが・・
2014.04.12 職人芸
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タイの民芸漆器、左が本体、右が箔絵の蓋、本体の上からすっぽりと蓋を被せる形
本体の底裏にはシャム文字で何か書かれているが、私に読解能力が無い
週明け十四日の誕生日茶事で初使いの予定である、中次扱いとしようと思う

この漆器は、前にも書いた私の高校の後輩でもある奈良漆の工芸家(塗師)が呉れたもの
その工芸家は、高校では美術部の部長で大学は哲学科を卒業して、奈良塗の師に弟子入りした
彼自身はクリスチャンで、若い頃から有楽流の茶を嗜んでいて、何となく私と平仄があう
その彼が銘木を所蔵しているので、先の話になるが透き木に使う木片の加工を頼んだ次第
それで、先月末に朴の木と黒柿の二種の透き木を拵えて持って来てくれたのである

タダという訳にもいかんので費用を聞いても、これぐらいのことタダでエエと云う始末
私も仕方なく、些少ながらの一封を無理に渡すと、二・三日してこの漆器を持って現れた
彼曰く、大した金額のものではないが、過日の東南アジア旅行の際に見付けたものだとか
少々痛みがあったが、彼自身が新たに漆加工を施して自分の所蔵品にしていたという

この漆器も素地は、木胎(もくたい・木材)か乾漆(かんしつ・麻布などを固めたもの)
或いは、籃胎(らんたい・ 竹を編んだもの)かどうかであろうが、彼の見立ては籃胎という
本体の台は木だとか、修復作業をしていて手触りや見えた部分から解かったらしい
蓋は箔絵の技法というもので、漆を塗った上に金箔を貼り、竹ベラで削ぎ取る技法らしい

彼は塗師でありながら、旅行先で漆器の民芸品をを買い求める癖がある
その意図というのが、今回のこの漆器への彼の薀蓄で解かったような気がした
彼は手作りの民芸品の中に、本物の職人技を感じさせられる物があると云う
それは、淡々とした繰り返しのリズムの中で、媚(こび)や迷い、ビビりが見えない物

そう云えば、国宝の茶碗十個の中で、作者が分っているのは光悦の「不二山」だけである
他の茶碗は皆んな、職人芸のものである、作者どころか窯も分かっていないものもある
誰かにどう見てもらおうとか、この作品で名を売ろうとか思うと、その心が作品に出るという
この彼の、民芸品の職人芸に圧倒されることもしばしばというのは、真摯な思いであろう

三年ぐらい前に、その彼と日本工芸会の集まりのシンポジウムに参加したしたことがある
その時に彼は、大勢の参加者の中で一論を述べたのだが、私は全く然り同感であった
その話は、また後日
2014.04.11 空の神兵
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秋篠川畔の鈴蘭水仙(スノーフレーク)、欧州原産、ヒガンバナ科
花言葉の「汚れなき心・純潔」とは、まさに御意である
川面に浮かぶは、舞い降りた桜の花びら

写真はボケていて、花の形が解りづらいが、私は純白の落下傘を思い浮かべる
子供の頃、平城旧跡に遊びに行くと、自衛隊の落下傘部隊が舞い降りて来た
近くに航空自衛隊の基地と幹部候補生の学校があるので、そこの訓練と思った
しかし、後で知ったのだが、落下傘部隊とは陸上自衛隊の空挺団である
旧軍でも、挺進連隊の名で空挺団が編成され、陸軍の中にあった

昭和十七年一月にインドネシアのバレンバンへの空挺団の落下傘部隊による奇襲が最初
昭和二十年五月に沖縄の米軍飛行場に九七式輸送機で強行突入した義烈空挺団が最後
空挺団というか落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれ、その名の歌もあり、有名である
この「空の神兵」の歌、一応軍歌とされるが、実はあの時代にあっての反戦歌だったとか
確かに歌詞と曲をジックリ聞くと、なるほどと思える、私の愛唱歌でもある

♪ 藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
 真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
 見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

 世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
 捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
 この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

 敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
  いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
 ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

 讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
 撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
 我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る
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蒲公英 (タンポポ)の花、花言葉「真実の愛・神のお告げ・別離」
このタンポポは花の下に総苞(そうほう)片がついているので西洋タンポポである
別名を鼓草(つづみぐさ)、茎の両端を細かく裂くと反り返って鼓のような形になるからとか
この鼓を打つ音の「たん、ぽんぽん」の略が名の由来、ともいわれる

昨日のテレビと今朝の新聞は「小保方晴子さん記者会見」一色である
私もテレビを見たが、途中から痛々しくなって来た、身びいきのかも知れないがが
というより、質問する新聞記者の横柄な物言いが、耳障りになり出したのである
どうも新聞記者は、世の中の事件・事故を追いかける家業の所為か立ち振る舞いが品性に欠ける

タンポポの花言葉「真実の愛・神のお告げ・別離」とは、小保方さんのそのままのようである
真実・・は、神のお告げ、これで来る別離、と勝手な思いを持ってしまった
まま、まだ三十歳、私から見ると目映い(まばゆい)ぐらいである、先で輝いてもらいたいもの
少し思ったのは顔と化粧、耳飾り・指輪・付けまつげが消え、首飾りは真珠であった
論文発表当時は首を傾げざるを得ない化粧・衣装・装飾であったが、それが変わったようだ
こちらの方が、本来似つかわしいと思った次第、テレビを見ての雑感である
「たーん、ぽん、たーん、ぽんぽん」、そう云えば私は小学校の頃、能楽の後「太郎冠者」をやった
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百田尚樹著「永遠の0」、太田出版2006年10月7日第一版の表紙、定価1600円

この本が話題を呼び、2009年7月15日初版で講談社から文庫版(本体876円)が出された
この文庫版は300万部を超え、文庫史上歴代二位の部数を記録したとかで、映画化された
映画は昨年末に公開され、この三月で興行収入85億円を超え史上5位になっているとか
邦画歴代興行成績1位は「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」の約173億円
2位以下は「南極物語」「踊る大捜査線 THE MOVIE」「子猫物語」「天と地と」とのこと

本も好評で映画もヒットし、マコトに結構と云いたいところ
私は太田出版の初版を購入して読んでいた、昨年の暮れには近くのイオンシネマでその映画を観た
本の方が私自身の思いと行間の味わいが一致したが、映画の方は左程でなかったという所感だ
白田氏は父親が特攻隊員でもあり、関係者にも取材をして書き下ろした作品ということである

であるならばと思うことが、この本を手にし、表紙を見た時から私にはあった
それは、「0」を「ゼロ」と読ませていることである
正しくは零式艦上戦闘機、略して零戦「れいせん」、当時の日本では皆がそう呼んだのである
「ゼロ」とは、「ゼロ・ファイター」という米軍による「零戦」の呼称である
因みに、「零式・レイシキ」とは皇紀二千六百年、2600年式という零式である
日本軍の武器の年式は皇紀の下二桁であり、自衛隊のそれは西暦の下二桁である

百田氏もそれぐらいのことは知っておられたであろうにと思っていたが、最近ふと気付いた
本のエピローグが、特攻を受けた米兵の感想というか、想い出話になっていたのだ
そうか、もしかすると百田氏、米軍の記憶に残した「永遠のゼロ」と云いたかったのかと

今は日本でも「れい戦」という人はいなくなり、皆が「ゼロ戦」と呼ぶようである
十年ほど前の話であるが、大学を卒業し大阪府の高校教員に採用された後輩に会った時のこと
戦争の話になり、私は教師になるのならと、「太平洋戦争」というのは米国の用語であると云い
日本では「大東亜戦争」が正しい用語である、ところでレイ戦、ゼロ戦のことだが、と続けると
時に特攻隊員と同世代の二十三歳であったその後輩は、「ゼロセン」って何ですかと私に聞いた
私はアングリと口を開けたまま、言葉が出なかった
先の「戦艦大和散華」の流れでこんな話を書いているが、「永遠の・・」は無理なようだ
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路傍のカラスノエンドウ、本名「矢筈豌豆・やはずえんどう」、花言葉「絆・小さな恋人たち・未来の幸せ」
この季節に花をつけ道端や草叢でよく見かけるが、古代は農作されていたらしい、唐土では「野豌豆」
実の鞘(さや)が黒くなるので、カラスの名がついたとか

昨日の続きになるが、戦艦大和の乗員の平均年齢は二七歳だったということである
昨日は私の誕生日で、古希近くなって来た我が身を思うと、彼等の倍以上生きたことになる
何やら、今朝の散歩は気乗りが悪かった、目にしたカラスノエンドウが可憐で健気に思えた

その昨日の記事、大和(おおやまと)神社のことを書いたが、「おおやまと」の呼び名の由来
「やまと」と「おおやまと」の違いは奈良以外の人には分りづらいと思う
「やまと」を大和・倭と書くが、「おおやまと」を大大和とは書かない、しかし大倭とは書く
近隣に「大和町」があるが「だいわちょう」と読む、そこの病院は大倭「おおやまと」病院である

奈良盆地(大和盆地)の南部では、今もって奈良は「やまと」ではないという感覚の人たちが居る
彼らがいう「やまと」は、桜井から今の天理市南部まで、つまり大和神社がある辺りまでらしい
学者は、「古代やまと」の場を巻向川と初瀬川に挟まれる地域、三輪山周辺のことだと云う
確かに、仁徳天皇の皇妃・磐之媛の歌には、奈良と大和(倭)が区分されている

>あおによし 奈良を過ぎ 小楯大和を過ぎ  我が見が欲し国は 葛城高宮吾家(わぎえ)のあたり<

つまり、「おおやまと」とは「やまと」の向う側から平城山丘陵の辺り、まさに今の奈良である
磐之媛の歌は、山背川(今の木津川)から平城山を越えて奈良・大和を通り葛城の実家へ向かう歌
小楯(をだて)は大和に付く枕詞ということで、山が連なるという意だとか

この磐之媛、かなりのヤキモチ屋で、亭主・仁徳天皇の浮気を許さず、平城山の裏(筒木)に独居した
そこから実家のある葛城を詠んだ歌だ、とはいえ後三代の天皇、履中・反正・允恭は媛の生んだ子
夫婦中が良かった故のヤキモチであろう、仁徳天皇は自ら迎えに行ったが玄関払い、なんともはや・・
磐之姫の御陵は私の実家のすぐ近く、ウワナベ・コナベ古墳と連なるが、この古墳は先妻後妻だどか
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昭和二〇年四月六日一五時二〇分、山口県徳山沖から戦艦大和出撃
伴艦「軽巡洋艦矢作、駆逐艦冬風・涼風・磯風・浜風・雪風・朝霧・初霧・霞」
同四月七日八時四十分、敵機発見
同四月七日一二時三四分、射撃開始
同四月七日一四時二三分、大和沈没、鹿児島県薩摩半島坊が岬沖と云われる

後年云われる「戦艦大和の海上特攻」である
併せて六日・七日には特攻機三百機が沖縄に向け出撃し、散華した
毎年、四月七日には奈良・大和(おおやまと)神社で戦艦大和の慰霊祭が行われる
戦艦大和の艦内には大和神社の分祀がされており、大和の守り神となっていた
大和神社には戦艦大和の慰霊碑と、運命を共にした乗員の霊二七三六柱が祀られている

この戦艦大和の海上特攻に至るまでに、海軍内に三つの意見があったという
一、米軍の沖縄上陸に対し、これを迎え撃ち、砲弾尽きたる後は上陸し、陸戦隊となる
二、朝鮮南部か日本海側本土の比較的安全な場所に待機させ、戦況の好機を待つ
三、浮かぶ砲台として係留し、不要なものは陸に揚げて敵に備える

採用されたのは一案、後世に云う「戦艦大和の海上特攻」の作戦であった
採決の過程で、海軍の底意には「散り華を咲かしてやる」という思いがあったとか
作戦決定に伴い、第二艦隊では年少の見習い兵や老兵は傷病兵と共に下艦させた
その是非を云々するは後世の後知恵となるので、ちゃちな論評は避けたいと思う
私には、二つのことが胸に残る

一つは、片道燃料とした司令部に艦長達が抗議したこと、よって往復に十分な燃料補給があった
その時に基地油槽の底までの油を汲み取って注いだという、そのことで残存艦は帰還できた、
二つは、沖縄守備の陸軍海軍双方共に大和の特攻作戦に反対、思い止まるように進言したこと
以下、沖縄の軍司令官・牛島中将から大本営宛の電文である
「皇国ノ運命ヲ賭シタル作戦ノ指導ガ、慎重性、確実性ヲ欠ク嫌アルコトハ極メテ遺憾ナルモ戦艦ノ価値昔日ノ比ニアラザルヲ以テ驚クニ足ラズ」

四月六日、戦艦大和以下の第二艦隊が出撃、徳山沖の大和から伊藤第二艦隊司令長官の訓示打電
「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」
この決定に、第二艦隊の艦長達から「連合艦隊司令長官の陣頭指揮ありたし」との声があったとか
この大和出撃を、徳山沖にあった人間魚雷・回天の基地・大津島から、私の父親達も見送ったという

四月七日、この作戦で海上の戦没者三千余名、六日七日の間に特攻機で突入した戦没者約三百名
今日この日の大和(おおやまと)神社での慰霊祭、今は大和以外の戦死者を併せ三七二一柱だとか
因みに、四月七日、私の誕生日でもある

2014.04.06 忘れな草
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勿忘草(わすれなぐさ)、本名(フォーゲット・ミー・ノット)の和訳そのままである
明治期の帰化植物で、植物学者・牧野富三郎が名付け親だが、その時は「忘るな草」
それが、いつの間にか「忘れな草」となったとか、花言葉「私を忘れないで」そのまんま

昨夜のBS放送では、相和五四年作の「男はつらいよ・寅次郎春の夢」を観た
相変わらずの失恋物語で、初めから先の読める筋書ながら、いつも楽しませてくれる
妹役は「倍賞千恵子」、東京松竹歌劇団(SKD)出身の歌手・女優である
昨夜観た作品の前後、昭和五三年の「寅次郎我が道を行く」、五七年「花も嵐も寅次郎」
この二本に「SKD]が競演している、「浅草」はOSKと寅さんの渥美次郎の故地であった

前の記事の続きのようになるが、東京少女歌劇団の出身者を調べると、アイウエオ順で

逢初夢子・暁テル子・朝霧鏡子・旭輝子・芦川いづみ・淡路恵子
幾野道子・歌上艶子・江戸川蘭子・沖千里・小倉みね子・小月冴子
桂木洋子・加藤治子・加藤みどり・川路龍子・草笛光子・九條今日子
榊ひろみ・椎名亜衣・千葉裕子・並木路子・野添ひとみ・倍賞千恵子・倍賞美津子
長谷川待子・瞳麗子・姫ゆり子・松尾明美・真屋順子・水久保澄子・水の江瀧子
美空ひばり・矢口陽子・雪代敬

ああ、この人、あれ、この人、へ~ぇ、あの人、えッ、あの人、と頷きながら見た
あれ、芦川いづみ、ええ女と私が密かに憧れた人である、SKD出身とは知らなんだ
えッ、美空ひばり、ぬぬーッと思い、再度調べると別人であった
ご本人は今もご存命で横浜に居られるとか、当時それなりに有名だったとか、初めて知った
あの演歌歌手の美空ひばりの前からの芸名であるが、互いに連絡等は無かったという

個人の生涯となると話は別だが、組織の生涯というか歴史となると色々なものを巻き込む
そして、人々の記憶から忘れ去られ、やがて「歴史の埋れ木」となるのであろう

私も参加する歴史愛好家の座談会、その名を「歴史の埋れ木座談会」といっている
今月の十九日に奈良で集まることになっており、楽しみにしているところ
2014.04.05 玄鳥至
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秋篠川の桜並木は満開を過ぎ、早くも散り始めている、今日の夕方には桜祭りがある
川原では、今年初めて燕の飛ぶ姿を見た

今に時期のこと、七十二候(しちじゅうにこう)でいう清明の初候だそうだ
この初候を日本では 「雀始巣」 雀が巣を構え始める頃と呼び
唐土でが 「玄鳥至」燕が南からやって来る頃と呼ぶらしい
七十二候とは、古代中国で考案された季節を表す方式のひとつ
二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のことだとか

燕がやって来る頃、ピタリとその飛来を確認したということになろうか
燕尾服とはよくいったもので、燕の飛ぶ姿をよく表している
この燕尾服を身に付け、断髪の麗人として名を上げた少女歌劇の男役が水の江滝子
前の記事の後、水の江滝子のこと、どうも東京の女という雰囲気がすると思い調べた
すると、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)でなく、東京松竹少女歌劇団(SSK)の方だった
男役デビューでの裏話話の記事があったので掲載する

>水の江滝子、この名前は『万葉集』所収の柿本人麻呂の一首「あしかものさわぐ入り江の水の江の 世に住みがたき我が身なりけり」に由来する[8]。後に初めて役が付いた際に、ポスターのレイアウト上の都合から「水の江瀧子」となり[8]、以後定着した。初舞台は1928年12月、昭和天皇の即位礼に合わせ、先に発足していた大阪松竹楽劇部が浅草松竹座で上演した『御大典奉祝レビュー』の中で、奉祝行列の山車の紅白綱を曳く子供役であった[9]。なお、瀧子の初めての舞台化粧を施したのは当時大阪松竹に所属し、後に「ブギの女王」として国民的歌手となる笠置シヅ子(当時の芸名は「三笠静子」)で、笠置とは後々まで交流が続いた[9]。<
とあった
笠置シズ子が、三笠宮に恐れ多いということで、元の名の三笠を笠置にしたとは初めて知った
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菫(すみれ)草の花、歩道のアスファルトと街路樹の囲いの間で頑張っていた
花言葉「小さな愛・小さな幸せ・純潔」
菫の花言葉は「清く・正しく・美しく」と思いそうだが、それは阪急電鉄創業者・小林一三の作文
    
♪ すみれの花咲く頃
  はじめて君を知りぬ
  君を思い 日ごと夜ごと
  悩みし あの日の頃
  すみれの花咲く頃
  今も心奮(ふる)う
  忘れな君 我らの恋
  すみれの花咲く頃

宝塚歌劇団を象徴する歌として有名であるが、正式な団歌ではない
原曲はフランツのシャンソンに白井鐵造が日本語詞をつけた『パリ・ゼット』の主題歌
それが何となく、「宝塚・すもれの花・清く正しく美しく」が三点セットになったようだ
大正三年四月一日が初公演ということで、今年は百周年となり、産経新聞では特集連載中
極道のそれよりは可愛い、花言葉を偲ばせる名の五つの組で公演活動し、有名である

阪急電鉄の沿線開発事業の一環として宝塚の遊園地・温泉地等と共に始まった少女歌劇団
然し、私にとって少女歌劇団といえば、菖蒲(あやめ)池少女歌劇団が先に浮かぶ
宝塚少女歌劇団に少し遅れて大正十一年に誕生した大阪松竹少女歌劇団(OSSK)である
東京の松竹少女歌劇団(SSK)と共に日本の三大少女歌劇と呼ばれて人気を博した
少女歌劇団の名から「少女」が外されたのは昭和十五年、大東亜戦争開戦の前年であった
それにより、「OSSK」は以後{OSK]、「SSK]は{SKD」になろ

かつて、宝塚とは同じ関西でしのぎを削り、「歌の宝塚、ダンスのOSK」と並び称された
また同じ松竹が経営していたSKDは、OSKの後に東京を本拠とする劇団としてつくられた
大阪本拠のOSKとの棲み分けを図った為、OSKは東京での公演が長らく不可能となった
その間、宝塚は東京に東京宝塚劇場を設置して常時公演できる体制を整えた
全国レベルとなった宝塚に、人気・知名度で大きく差を付けられることになった
近鉄あやめ池遊園地の閉鎖、そこの円形劇場を本拠にしていたOSKも平成十五年に解散

少女歌劇団の化粧方法と衣装には独特のものがあるようだ
菖蒲池駅では、乗り降りする女性の中に、すぐそれと分かる娘たちを見かけたものだ
何とも云えぬ雰囲気を漂わして輝いていた娘たちの様子が、私の記憶の中に残っている
その彼女たち、歌・洋舞・和舞なんかの稽古に併せて、茶の稽古も必須にしていたと聞く
宝塚歌劇団の百年祭を祝うことに吝かでないが、菖蒲池のOSKのことも忘れないでおく

OSK出身と云えば、京マチ子、笠置シズ子、千賀かおる、林美智子、水の江滝子等だ
水の江滝子(ターキー)は東京の女という感じだったが・・
2014.04.03 コブシ
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早くも散りかけたコブシ(辛夷・拳)の花、モクレン科、花言葉「友情・歓迎・信頼」
コブシという名はその果実の形が赤子の拳(コブシ)に似ているからとか、古名「山アララギ」
芳香を放つので、アイヌでは「オマウクシニ・良い匂いを出す木」「オプケニ・放屁する木」と呼ぶとか
それにしても「良い匂い」と「屁」を同列に感じるとは、アイヌの人たちの嗅覚は・・

もう七・八年ほど前になるが、私は女房殿を連れ金沢の茶会に出掛けたことがあった
他流の茶友からお誘いを受けた為で、その御仁が濃茶席を受け持つということであった
茶友の濃茶席に入ると、私が正客となり、まま女房殿も続いて次客の席に着いた
濃茶点前は厳かに進み、練り終えた茶碗が外畳に出されようとした、その時のこと
その静謐な茶室の空気を破る大音がしたのである、女房殿の放屁の音であった

茶碗を出す茶友の手が、一瞬ピクリッと止まった様に見えた
室内の他の客にも、やや緊張が走ったが、女房殿、平気の平左で済ました様子ている
すかさず私が、「失礼」と声を上げたのであった、場には何ら反応もなく、茶会は粛々と続いた
「大音が出る放屁は臭わない」という話の通り、それ以上のことはなく濃茶席は終わった、
終わった後、茶友に「申し訳ない」と詫びたが、そこは茶友、「いやいや」と笑顔を見せた

後で女房殿に「あんな席では控えなさい」と小言を云うと、女房殿曰く「出るものは仕方ない」
私はもう云うのを止めた、確かに「粗相の心得」に「放屁」のことは書いてはいなかった・・
というより、旦那の私の対応そのものを、女房殿に試されたような気にさせられたのであった
その時の私の思い、我が女房殿は大物じゃ、と納得させられた次第

2014.04.02 蹲踞
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朋庵の蹲踞(つくばい)、これは立ち蹲踞の形である
写真の手前の石から「前石」、その上が「ごろた石」、また上が「手水(ちょうず)石」
後ろが「屏風(びょうぶ)石」、手水石の左手が「手燭(てしょく)石」、右手が「湯桶石」
但し、裏千家では手燭石と湯桶石が逆になっているらしい、表千家は当流と同じであるとか

蹲踞、ここでは「つくばい」であって、手水石の水を使うための蹲(つくば)ることから来た言葉
しかし「立ち蹲踞」となると奇妙な言葉となる、ここに武家の茶の言い分がなされている
つくばって身を処す云々、「茶道」という概念に小理屈を付け、大理屈とした論旨であろう
元々は神社で「手と口、心を清める」のが手水で、多くのそれは身を屈めさせつことはないものだ
「茶の道」として妙な宗教的教義にまでにしたいという、「茶家」「坊さん」の論旨だと私は思う
従って、手水石は背丈の低い、屈んで使う形のものにして、手水石そのもの「蹲踞」とも呼び出した

それが後世、武家の茶事で使う丈の高い手水石を、「立ち・つくばい」という可笑しな言葉を被せた
武家の茶事は二本差しのまま手水を使った、つまり「つくばう」姿勢では刀が邪魔になるということ
故に、武家の茶事では手水石の高さは腰辺りまでものを使ったのである
それが「茶家」の茶が広まり、手水処を「蹲踞・つくばい」という言葉が一般的になると、それではと
立ったままで使う武家茶事形式の手水処を「立ち蹲踞(つくばい)」と呼ぶという「お噺」
何とも奇妙奇天烈な造語である、茶家と坊さんがこじつけた「蹲踞」に合わせることもなかろうに・・
因みに手水、「粋(すい)言葉」としては、便所のことを「はばかり」云う、「手洗い」の原語である

蹲踞を「そんきょ」と読むと、相撲や剣道・日本拳法では「立ち合いの構えの姿勢」となる
即ち、踵(かかと)まで腰を落として背筋を伸ばし、相手と向かい合う形である
この「蹲踞・そんきょ」、加齢と加重・脚力の衰えで出来辛くなり、後ろにひっくり返り易くなる
最近気付いたのだが、洋式トイレの普及がそのことを加速化させて居るようだと、私の思うところ
今では、和式便所にしゃがみ込むには辛いものがある、我が家を様式トイレにしたことを悔やむという
今日この頃である・・然し、更に歳をとると、やはり様式で良かったと思うかも知れないが・・

今日ならぬ昨日のこと、私の後輩に当たる御仁が朋庵茶の湯塾に入門希望者二人を連れて来た
折角だから小間「朋庵」で茶を一服と思い、来る前に手水処曰く「蹲踞」を洗っておいた
三人に路地を通って「躙り口」から入るように云って、自分は小間で迎え、濃茶・薄茶を出した
七時を過ぎ、暗くなって来たので手燭を出し、和蝋燭の燈火で茶を点て、喫してもらった
朝、路地を片付けに行って見ると、手水石の水は満杯のまま、つまり「蹲踞」は使われてなかった
当り前ながら、これから「茶の湯」を習おうかという人達だ、私の思ひが過ぎたようだ
更に因みに、「躙り口」のこと、元々は「くぐり戸」「くぐり口」といったものだとか
2014.04.01 四月一日
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鎖を天井から下し、雲龍釜を吊るす
床の掛軸は「徳如海壽似山」、日本拳法最高師範であった故・森良之祐先生の揮毫

昨日は広間と小間双方の炉の五徳を外し、広間には鎖を下げて雲龍釜を吊るした
雲龍釜の特徴は胴体が筒型で口造りがなく、胴にそのまま蓋を被せる形である
従って、胴径と蓋の大きさが同じになる、雲龍釜の蓋は共蓋、即ち釜と同じ鉄である
他の釜は唐銅製が殆どで、その摘みは色々な形があるが、雲龍釜の蓋は掻立釻(かきたてかん)
この掻立釻の扱いは、少々面倒くさく慣れが必要となるのも雲龍釜の特徴と云える

雲龍釜とは、その胴体に「雲龍」の模様、つまり雲と龍が描かれていることで、その名がある
雲龍は「うんりゅう」と呼ばれるのが一般的だが、その筋(?)では「うんりょう」が正しいとか
坂本龍馬(りょうま)は日本初の新婚旅行で有名だが、その妻もお龍(りょう)だったような
大相撲新横綱は鶴竜(かくりゅう)、それでかどうか、雲竜(うんりゅう)型の土俵入りだ
雲龍型と云えば、帝国海軍の空母の形体、雲龍・天城・葛城があった、ちぃと話がそれてきた・・

閑話休題、四月一日
この日から当流では炉の五徳を外す、と前の記事で書いた
「呼び名」ついでに、この四月一日の呼び名のこと、「わたぬき」と云い、苗字にもあるという
旧暦四月一日は今の五月中旬頃で「衣替え」の時期に入る、故に、衣の「綿を抜く」ワタヌキとか
この日から炉の五徳を抜くとは、昔の茶人、ナカナカに粋(すい)、上方では(いき)とは呼ばない
同じ様な話で八月一日を「ほづみ」と呼ぶのも、旧暦なら稲穂刈り穂積の時期だからとか、苗字もある
決して、嘘ではない・・オチ四月一日・・クドイか