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昼間の烏瓜(カラスウリ)の花、原産地は日本・台湾・唐土、花言葉「善き便り・誠実」
夜になると五弁の花が開き、弁の先からクモの巣状に白い糸が延びる
藤圭子の歌・ ♪ 花は 夜 開く~、? 夢だったか

長闇堂記及家傳遺誡(ちょうあんどうきおよびかでんいかい)という古文書がある
奈良春日大社の禰宜・ 久保利世(くぼ としよ)の随筆で、寛永十七年(1640)の成立
久保利世(1571~1640)は茶人でもあり、通称か権太夫で長闇子と号した
この「長闇」、鴨長明に引っかけて、「明」でなく「闇」とかで小堀遠州が名付けたとか
小堀遠州は久保利世より八歳下、考えてみれば随分と失礼な話である

長闇堂記には、山上宗二に関する話など他書に見られぬ記載があることで有名
私としては、後世の利休神格化を本旨とする茶書でないのが、信頼できるところ
この書が、活字本として世に出て知られたのは意外に新しく、大正14年である
本書は当初、久保利世が茶友の手紙の裏に書き留めていた、いわば反古紙であった
茶友とは小堀遠州や松花堂昭乗、瀧本坊という著名人であったのが幸いする

久保利世死後百年余り経って、その書が意外な形で発見されることになった
書が一枚づつ剥がされ、茶人の消息文として奈良の古文書屋で売られていたのだ
それを愉々楽只(ゆゆさいらくし)という人が見つけ、買い集めたので散逸を免れた
以後、幾人かの手で写され、長闇堂記及家傳遺誡として世に伝わるところとなる
興福寺や奈良依水園に伝わるが、原典らしきものを薬師寺の橋本凝胤管長が所持した

茶道史家の永島福太郎氏が、橋本凝胤蔵本を精査覆刻したのが「茶道古典全集」に載る
この全集の発刊は昭和三十一年である、以後、長闇堂記は広く世に知られる茶書となる
因みに、永島福太郎氏はその二年前まで私の高校の教諭で、後に関西学院大学教授
長闇堂記の覆刻作業は、永島先生が私達の高校で手掛けられていたと思うと何やら感慨深い
永島先生は、その全集の中で古田織部と上田宗箇の問答書にも言及されていた

永島先生のお宅は私の生家の近くにあり、私が上田流の宗家をお連れしたこともあった
私の高校で「天動説」の講義をして頂いた橋本凝胤管長と永島福太郎先生という故人御二人
その縁を「カラスウリ」の勝手に偲ぶ私であるが、御二人の茶への造詣に感服するばかり
さて、ある趣味人企画の薬師寺イタリアン・ディナー茶会、どんなものだろう

ところで長闇堂記、「現代語でさらりと読む茶道古典」のシリーズで出版されている
帝塚山大学日本文化研究課程の講師・神津朝夫氏の著作で、読み易くお奨めである


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2014.07.30 唐辛子
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近所の庭で鉢植えされていた「唐辛子」、写真の写りより実物はもっと赤い
この写真の唐辛子は「鷹の爪」であり、乾燥させて刻めば「一味唐辛子」である
生の実は辛くなく、辛いのは種の周りだけだが、乾燥させると全体が辛くなる

朝鮮料理と唐辛子、中でも朝鮮漬けと唐辛子は切り離せないと思われがちだ
然し、朝鮮漬けに唐辛子が使われるのは19世紀に入ってからのことだそうだ
唐辛子は朝鮮では「倭辛子」というように、加藤清正が日本から持ち込んだとする

秀吉の「朝鮮征伐」、朝鮮では「壬申倭乱」、ここでは「朝鮮の役」としよう
日本軍は朝鮮半島各地で明・朝鮮軍と戦い、蔚山では清正が数倍の敵を敗走させる
厳寒期の朝鮮では、南蛮渡りの唐辛子が大いに役立ち、凍傷を防いだという
足袋の中に入れると足が温もり、食すると頭のテッペンから汗が出るほど体が温もる
更には、敵兵への目つぶしとしても使ったらしく、清正軍を初め日本軍の奮戦に役立った

「朝鮮の役」の成果を端的云うと、朝鮮は唐辛子を得て日本は焼物を得たということ
萩焼、薩摩焼、唐津焼、伊万里焼、高取焼、有田焼等々は朝鮮人陶工が窯を開いた
それが茶人の目が入り、桃山期の茶の湯の焼物に和物が拡がっていくのである
こうして「朝鮮の役」は、日本では茶の湯文化に寄与、その発展に繋がることになるり
片や朝鮮では、朝鮮漬けを初めとする「朝鮮料理」、食文化の発展に繋がることになる

面白いと云えば面白い、皮肉と云えば皮肉、沢山の血と涙が流れたと云えば、その通り
まま、歴史とは血と涙で綴られながら動いて行くのであろう・・辛いが
2014.07.28 薬師寺茶会
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隣家の花壇、紅のアメリカ芙蓉が見事に咲いた、原種は「オクラ」である
「 新しき 携帯写真 嬉しがり 」・・・画像に切れ線やボヤケがないことを確認

前の記事、「松永安左ェ門翁」の続きになるが、薬師寺会というのがあった
怪僧と云われた奈良・薬師寺の故・橋下凝胤管長、昭和五三年没、享年八〇歳
橋本凝胤は松永安左ェ門に知己を得て、阪急の小林一三とも茶友の縁を持つ
結果として、政財界の支援を取り付け、平城旧跡の国有化を実演させることになる
小林達との月釜茶会が「薬師寺会」と云う名で長く続けられたことが発端になったという

その薬師寺の近くで、ある趣味人主催の茶会がこの八月九・一〇日にあるという
茶話と薄茶のあとイタリアンレストランのディナーがあり、会費九千円ということだ
元々その趣味人から、朋庵卒塾者の御仁へ案内が来たのであるが、その日御仁は仕事
一昨日その旨のメールが来て、私が代理出席することになったという按配,、楽しみである
「松永安左ェ門翁」の焼酎到来に続いての話なので、ついつい「薬師寺会」を思い起こした

橋本凝胤管長とは、薬師寺の応接間で高校生の私が「サシ」で話したことは以前に書いた
生徒会主催で行う文化祭での講演依頼で行ったのだが、一介の高校生に会って下さった
管長の「地球は平たい」という天動説に戸惑い、唯識がナンじゃらと困惑した思いが懐かしい
後に知った橋本管長の言葉、「食えねば、食わんかったらええ」には感銘を受けた

まま、話のついでと云うて何だが、面白いと納得した「格言・名言」

●「明日できることは、今日やるな」・・・心掛けている
●「嘘はつくな、但し、本当のことは云う必要はない」・・・然り
●「一円を笑う者は、十円で十回笑うことが出来る」・・・ワロタ
●「まず、人の名前を忘れ、次の顔を忘れる
  それから、チャックの上げるのを忘れ、次に下げるのを忘れる」・・・実感
●「人生とは、死ぬその瞬間に何を思うかだ」・・・分る
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本格焼酎・壱岐「松永安左ェ衛門翁」が到来、壱岐は麦焼酎発祥の地とある

瓶には「壱岐玄海酒造株式会社巌封之証」が瓶の蓋の上から貼られている
次いで、「貯蔵熟成」「産地指定」の貼り紙があり、顔写真のラベル名に肩書きされ
「電力の鬼」と記されているが、茶色に金字なので見辛い感が否めない
そして、金字の右下には「限定品、3000本中、№1194」とあった
有り難く頂戴し、「翁」の遺徳を偲びつつ飲むことにしよう

「松永安左ェ衛門」、確かに偉大な男であり、その偉業は瞠目に値する
鉄道、電力、高速道路等の日本の産業基盤の育成と整備への尽力は周知のところ
そして、号を「耳庵」という近代の大茶人であり、美術品の蒐集家としても知られている
桃山期を思慕する豪放な茶を好み、江戸中期以降の茶風や道具は好まなかった、
二歳上の慶應の同窓生・阪急電社の小林一三・逸翁との文人交遊は世上に名高い
そして、意外(?)にもサミュエル・ウルトマンやアー ノルド・トインビーの翻訳者である

青  春
           サミュエル・ウルマン原作
                    松永安左エ門訳

 青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
逞しき意思、優れた創造力、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
 年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うもの こそ
恰も長年月の如く人を老いさせ精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
 年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得る ものは何か。曰く、
驚異への愛慕心、空にきらめく星晨、そ の輝きにも似たる事物や思想に対する欽迎、
事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興 味。

 人は信念と共に若く 疑念と共に老ゆる。
 人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
 希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽い つくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、
この時に こそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。


そして、松永安左ェ門翁の遺書

『一つ、死後の計らいの事
 何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。
墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。
死んで勲章位階(もとより誰も刳れまいが友人の政治家が勘違いで尽力する不心得、
かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。

財産はセガレおよび遺族にくれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。
(衣類などカタミは親類と懇意の人に分けるべし、ステッキ類もしかり)
小田原邸宅、家、美術品、及び必要什器は一切記念館に寄付する。これは何度も言った。
つまらぬものは僕と懇意の者や小田原従業者らに分かち与うべし。
借金はないはずだ。戒名も要らぬ。

以上、昭和三十六年 十二月八日
横山 通夫様
松永安太郎様
田中 精一様
井上 五郎様
木川田一隆様
この大締めは、池田勇人氏にお願いする。以上』

・・・見事な男だ
.
2014.07.26 南京かぼちゃ
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一昨日のこと、葉蓋を求めて近くのカボチャ畑に分け入り、そこで見た可愛い花を写した
まず間違いなく西洋カボチャであろう

この日、碁仇の同級生が「新米までの繋ぎや」と云って、米を一斗を持って来てくれた
「おまけ」と云って、家の畑で採れたという大きな西洋カボチャも一つ持って来てくれた
そのカボチャ、半分を近くの卒塾者のお宅へ届け、半分の半分を煮物に、残りを天ぷらにした
女房殿と二人で平らげるには充分過ぎ、米の飯は不要であった、ふと思い起した一句

「 楽しみは 夫婦仲良く 三度の飯 」

そして、もう一つの言葉

「 かけた情けは水に流せ、受けた恩義は石に固めよ 」

その友人と囲碁を打ちながらの徒然ばなしが、いつもながらの楽しい時間である
日本カボチャ、曰く黒皮南京は八百屋の売り場から消えたことは前にも記事にした
然し、日本料理には欠かせないので市場でひっそり置かれてあるという
昔の青果屋の売り場を陣取った「プリンスメロン」は、今は全く流通していない
むしろ、細々ではあるが、昔ながらの「マッカ」すなわち「マクワウリ」は作られている
日本人参も見なくなり、今では正月用の金時人参が作られるぐらいなものである
最近、日本ウナギがどうこう云うているが、前には裏の溜池でとれたものだとか

と、まぁ云んだらカンダラ三時間余り、気が付くと二局連敗であった・・
2014.07.24 細川九曜紋
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細川家の家紋、「細川九曜」、「九曜」とは印度の占星術の文様が原典との由
細川忠興が、織田信長の仲介でガラシャ夫人を娶った際に信長から得た定紋とか
この「細川九曜」、七代当主が殺害されて文様変更されたと熊本城公式ページにある

前のふんどし記事で、「越中守」を細川幽斎と書いたが、子の忠興・三斎の間違いである
細川家は足利将軍家の連枝になる家筋だが、足利義昭と信長の対立で信長に付いた
その時に細川の姓を捨て、在所の「長岡」を名乗り、大阪の陣の後で「細川」姓に戻る
従って、忠興が利休の弟子であった時分は「細川」でなく「長岡」であったことになる

この細川父子は武勇に優れ武功も多く、正に戦国の武将茶人の名に相応しい
父の藤孝・幽斎は和歌を三条西実枝に古今伝授を受け、茶は武野紹鴎、剣は塚原卜伝
他に弓、囲碁、料理を極めたという当世随一の教養人であったとされる
子の忠興もナカナカの教養人であり、肥後熊本藩の礎を築き藩祖となる武功も上げている
ただ、性格的に問題があったようで、玉子・ガラシャ夫人への愛は異常なものだったという

この忠興ほど利休の茶を極めた者は無いといわれ、利休の茶を忠実に模したとされる
比べて、忠興と共に利休の弟子の双璧と云われた古田織部は型破りな茶だったとされる
利休は、自分と同じ茶をする忠興より、織部の茶を評価していたと云われている
そのことが、忠興の織部に対するコンプレックスを生んだとも云われている

利休が秀吉の勘気に触れて船で追放される時に、見送ったのは忠興と織部の二人であった
大坂の陣の後、織部は利休同様に時の権勢者から死を命じられ、抗弁せず切腹して果てる
片や忠興は、陣後に姓を「長岡」から「細川」に戻し、肥後熊本藩五十四万石の大大名となる
織部と忠興の生き様の違いは何であったのだろうか、多少気になるところではある
忠興の茶は「三斎流」として今も継承されており、利休の茶に最も近いとか云われているが・・

そう云えば、忠興十八代の子孫は、元首相の細川 護熙(ほそかわ もりひろ)氏である
護熙氏の茶をテレビで見たことがある、彼の作陶工房で友人に茶を点てている様子であった
彼は胡坐で点てているのではあるが、自分の足の裏を客側に向けて出していた
まま、殿さまの茶だと理解した,、彼は越中ふんどしをしていたのかな・・
確かに、武道着の下は何も着けないスッポンポンが、常の姿ではあるが
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黒猫褌(クロネコフンドシ)

私の小学校前半は奈良の吉野川流域に住んでいた
この季節には、近所の悪ガキどもと一緒に川遊びに夢中になっていた
その頃の子供は「フリチン」が多かったが、上級生はこの「黒猫」であった
何時かは「黒猫」を着けたいと羨望の目を向けながら、自身は「フリチン」で泳いだ
大人は六尺褌に菅笠で鮎釣りをしていたので、子供は邪魔にならない様にした

小学校後半で奈良に戻って来た頃には、「黒猫」を目にしなかったように思う
奈良では、泳げる川が近くに無かったので、大人の川姿も目にすることはなかった
大人は、越中褌にステテコ姿でくつろいでいる様子が一般的で、上半身は裸も多かった
盥(たらい)に水を張り、「よくぞ男に生まれけり」と行水する横に褌がぶら下り揺れていた

褌の歴史は六尺褌形体が古く、越中褌は江戸後期からで一般化するのは明治に入ってとか
南洋諸島や東南アジアでは六尺褌形態の風習があるので、日本人南方起源説が唱えられた
しかし、日本人が褌をするのは布、特に木綿が普及してからのこと、それまではスッポンポン
鎌倉時代までは、戦死者の貴賤を見分けるのに、褌の有無を確かめたという話もある
室町時代に入って漸く六尺褌が普及し、そのまま男の仕事姿として一般化していったという
つまり、フーテンの寅さん口上で云う、「見上げたものだよ、屋根屋のフンドシ」である

越中褌が現れたのは江戸末で、肉体労働をしない医師や学者、商人、老武士のものだった
明治六年の徴兵制から軍隊の下着として越中褌が採用されたことがその普及の転機とか
皆兵制度の除隊者は、越中褌の利便性と爽やかを知り、その風習を全国各地に持ち帰った
ここで私は面白いことに気付いた、それは越中褌とビールの普及は同じパターンということだ

明治以降、ビール会社の設立、統廃合があったが、日本酒の前には僅かな存在であった
軍隊で採用された今のキリンビールで兵隊たちがビールを知り、除隊後もビールを飲んだ
ビールの販売高が、日本酒を超えたのは昭和三十年代初めの頃である
戦前は大日本麦酒が民間ビールの圧倒的な占有率を持っていたが、戦後はキリンに替わった
因みに大日本麦酒とは、今のアサヒビールとサッポロビールの前身である

昭和四十五・六年頃、私は衣料スーパーで「サムライパンツ」と銘打った褌を売ったことがある
売台に山盛りの褌が瞬く間に売れた、特売だったこともあるが愛好者が多い証だったと思う
昭和六十年頃、大阪日赤病院で入院生活をしたが、屋上の物干し竿には越中褌をそこそこ見た
今、スーパー銭湯やスポーツクラブに行って見渡すに、ふんどし姿を目にすることはなくなった

因みに、「越中」の謂れは武将茶人・細川三斎「越中守」の考案になるものとか
また、学習院では今もって「赤い六尺褌」で水錬学習を行っていると聞く
つまり、日本の皇統を継ぐ「イト、ヤンゴトナキ」皇族男子は皆「ふんどし男」である
2014.07.22 盆の茶点て
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ホオズキ(鬼灯・酸漿)ナス科、伊賀越えの山小屋で育ったもの、花言葉が多くある
「心の平安・不思議・自然美・私を誘って下さい・頼りない・半信半疑・いつわり・欺瞞」
但し、ホオズキの花自体は六月末ごろに咲く淡い黄色の小花、この提灯然としたのはガク
ガク(萼)とは、植物用語で花冠(花弁、)の外側の部分をいうらしい

日本の仏教習俗では、お盆にホオズキの枝付きで精霊棚(盆棚)に飾るところがある
ガクに包まれた果実を死者の霊を導く提灯に見立てるという、ホオズキを鬼灯と書くのも納得
昨日、一昨日の稽古は鬼一色、床に鬼灯、廊下・厠・仏壇は鬼百合だらけにした

昨日の新塾生の稽古は、鬼灯と鬼百合の中で「お盆」を迎えた、いわゆる「盆点前」
三人夫々が盆の中に、茶巾と茶筅・茶杓を仕込んだ茶碗、茶入、帛紗を置き畏まる
最初の一服は自分で喫し味を確かめて、後の二服は其々に喫してもらうという寸法
然し乍ら、茶を点てるまでがナカナカの道のり、前回稽古した帛紗と茶巾の扱いが元の木阿弥

アレコレしていると帯が緩んできて、帯の締め方に逆戻り、「貝ノ口」「一文字」を結び直す
その中の御一人は、六尺ふんどしを締めて稽古に臨むという感心な心構えの御仁
嬉しくなった私は、前垂れ型と「フグリ」を包み込む締め込み型の違いを教授する
残念ながら、昨日の私自身は越中ふんどしだったので、六尺の実施指導は出来なかった・・

漸くにして、茶を点てたのだが、その出来ようがマチマチである
私は、裏千家さんでは全体がモッコリ泡立っているのが好みのようである
上田流は、三日月型を残す程度の泡立ちを好む、表千家も同じと聞くと説明
そして、上田流の茶点ての特徴とは外へ外へと茶筅を振り、内には振らないと付言する
そうすると、マスマス茶が点たない状態になっていくのであった、ムム、我慢くらべ・・

御一人がどうしても上手く点てることが出来ず四苦八苦、六尺の御仁である
「焦りなさるな」「アワてずにアワ立てて」と勇気付けながら、ふと見ると茶筅が違う
彼は濃茶用の三十二本立茶筅の、而も古くなって穂先が失われているものを使っていた
私は、その上田流濃茶用茶筅「大荒穂」と薄茶用の八十本立茶筅の違いを説明
千家さんや他流では百本立や百二十本立を使い、泡立てを良くするところもあると講釈

茶筅の違いだったと分かり、濡れ衣が晴れた六尺の御仁から笑みがこぼれた
床の鬼灯(ホオズキ)が心なし微笑んだ様に見えたのは、私の気の所為か


2014.07.21 葉蓋点前
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片口の水差に山蕗(やまふき)の葉、残念ながら美男塾生の顔は入っていない

平水差や釣瓶(つるべ)と同じ様に、夏のものとして葉蓋の点前がある
この葉蓋の点前、当流ではやらないが、千家さんで行なわれているものである
要するに、水差の蓋に蕗や蓮・里芋あるいは梶・桐の広目の葉を使うだけのこと
とは云え、見た目涼やかな趣があり、私は夏の風物として取り入れている
然し、千家さんのやり方そのままでは芸が無いのでひと味違えている

千家さんでは葉蓋を開けた後、葉を内側に折り畳み、建水の中に入れる(捨てる)
私は葉蓋の内側、水気で湿った側を客付きに向け、水差に掛けて置く様にしている
そのため、水差は片口を使い、片口の向きも常とは逆にして、片口を客向けに置く
そして、葉蓋を裏返しに開け、その茎の部分を片口の中に挿して掛けて置くのである
半時間もすると葉も乾き萎れて来るので三服までとし、仕舞いに畳んで建水へ捨てる

まま、私のカラスの勝手流ではあるが、それなりに風情もあり楽しい点前である
人生、わがまま身勝手も一興であろう、うん?勝手ばかりでは「カタ無し」と・・
2014.07.19 妄想殺人
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小椋 佳(おぐら けい)本名:神田 紘爾(かんだ こうじ)、現在生存中
前の記事にコメントが入り、私は殺意なく彼を妄想殺人してしまったと気付かされた

早速に調べて見ると、小椋桂こと神田 紘爾、昭和十九年東京生まれ、東大法学部卒
第一勧銀(現みずほ銀行)入行、証券部証券企画次長、浜松支店長、本店財務サービス部長を歴任
その傍らで音楽活動を行う、昭和四十六年歌手デビュー
当初は、フォークソングあるいはニューミュージックに分類されていたが、次第にジャンルを広げる、
平成五年、銀行を退職し東京大学文学部哲学科に学士入学、歌手活動と並行して学業に励んだ

他の歌手への提供曲も多く、「シクラメンのかほり」(歌:布施明)は日本レコード大賞などを受賞
その他、「俺たちの旅」・「時」・「俺たちの祭」(歌:中村雅俊)、「愛燦燦」(歌:美空ひばり)などがある
作詞のみの曲としては「愛しき日々」(作曲・歌:堀内孝雄)、「山河」(作曲:堀内孝雄、歌:五木ひろし)
「白い一日」(作曲・歌:井上陽水)、また、アニメーション『銀河英雄伝説』のエンディング曲の他
校歌・市歌なども数多く手掛けている

浜松支店勤務の際、地元の要請に応えて「やら舞歌」を作った
これは今[いつ?]も浜松まつりなど浜松市のイベントで使われ続けている
第一勧銀浜松支店の担当取引先であった縁で、菓子製造会社春華堂のCMソンもを作っている
芸名の「小椋」は、大学の時のこと福島県耶麻郡北塩原村の学生村滞在中にその名を使う
滞在中周りの住民の姓のほとんどが「小椋」姓であったことにより命名したものであるとか
「佳」は、後に妻となる恋人、塚原佳穂里(小学校の同級生)の名の第一字から取ったものである[

現在生存中ながら、実は、この九月十二日(金)に東京NHKホールで生前葬コンサートを行うとか
料金(香典?)は、S席-一万円円  A席-八千円と聞く
生前葬を発表したとは、死んでいるも同然なりや・・?、それとも私の勝手論理なりや・・?



2014.07.19 炎熱商人
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フィリピンの国花サンバギーダ、モクセイ科、原産地はインド、花言葉「永遠の愛」
日本では、茉莉花(マツリカ)、アラビアジャスミン(Arabian jasmine)と云われる
フィリピンの神話で、永遠の愛を誓った恋人の墓の白い花の葉が、風の中で立てている音
それがSumpa kita(恋人に永遠の愛を誓うという意味)と聞こえたことが、その名の由来とか

その神話の場所は、フィリッピンのマニラ郊外にあり、敵対した部族の姫と王子の墓の話である
マニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所、所謂「日本兵戦犯刑務所」
日本人には「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌で知られる感慨深い地
その地で戦犯として死刑判決を受けていた人物の作詞・作曲の歌であった
作詞の代田銀太郎は元フィリピン憲兵隊少尉、作曲の伊藤正康は元陸軍将校
「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の望郷の念を込めた曲である
昭和二七年、渡辺はま子の歌った「あゝモンテンルパの夜は更けて」は日本国民の哀愁を誘った

今日の新聞に作家「深田祐介氏」の訃報が伝えられていた、享年八十二歳
私は、氏の直木賞受賞作品「炎熱商人」を感慨を以って読了した覚えがある
物語は、先の大戦でのフィリッピンを舞台にした話であった
私は二十代の頃、ルソン・ミンダナオ島のフィリピン各地を回ったことがある
その臨場感もあって、私の涙腺が弛み、文字が見えなくなった記憶が二箇所あった

一つは「馬場少尉」という日本軍軍将校がフィリピン民兵に惨殺される箇所である
馬場少尉は、何かにつけてフィリピン人の民衆を庇い続けて来た日本軍将校であった
もう一箇所は、ジャングルの中を逃げ惑う日本人の子供姉弟が米軍戦車に嬲り殺される場面
餓え渇き恐怖の中で、米軍から逃れようとする小学生姉弟を戦車で追い回した挙句に
逃げ場を失い、抱き合って戦車の前に立ちすくむ姉弟に、笑いながら機関銃を浴びせる米軍

モンテンルパの刑務所では、死刑判決が受けた日本兵に対し、容赦ない拷問があったと聞く
被害者の顔、正義面をした加害者という存在には憤りを覚える、今の世でも・・

深田氏と同じ作家の堺屋太一氏、作曲家の小椋桂氏はサラリーマン兼業であった
一流の組織で、要職にも就き、それなりの仕事ぶりのサラリーマンであったと聞く
その彼等の作品には、私も頷かされるものがあった
堺屋氏は存命乍ら、深田氏や小椋氏の冥福を祈りたい

2014.07.17 御宗家上洛
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我が家の椿の実、奈良三銘椿の一つ東大寺開山堂の「糊こぼし」の枝分かれである
因みに奈良三銘椿とは
1,東大寺開山堂「糊こぼし」
2,白亳寺「五色椿」
3,伝香寺「散り椿」

昨日は当流宗家の上洛ということで、私も電車で京都に向かった
そして、近鉄電車である武家茶道の家元とバッタリお会いした
京都高島屋で奈良の門跡尼寺・円照寺の山村御流の花展があり、行かれるとか
それではと、私も同行させてもらうことにする
山村御流の花は慎まやかで、茶花の在り様に通じるものがあり、私は好きである
花入には一種か二種、三種を挿すのは稀である、而もその殆どが和花である
この日も、珍しい和花が幾つも挿されてあり、目の保養をさせてもらった

祇園祭の京都は賑わい、車が動かない状況であった
当流宗家との懇親会は京都駅伊勢丹ビルの九階の粋なお店で開催された
この粋なお店のオーナーは当流のお弟子さんである
ハーフとやらのビール、冷酒、焼酎ロックとシッカリ堪能した
何せ、京都駅で飲む限りは帰路の心配はない、と思ったが・・
終電時刻というものがあったことを忘れ、危うく乗り遅れる一歩手前であった

何とか家に辿り着き、缶ビールを一本飲んで寝た
御宗家もご機嫌で、何より何より・・ZZZ・・
2014.07.16 機種替え
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54" />
メダカ池のオオカナダ藻の花、一日花である、南米から大正期に実験用で入っで帰化
日本のものは全て雌株とか、理由は知らない、私はアマゾネスに関係ありと類推(^^)

前の携帯電話の写真写りが悪いので、新しいものに替えることにした
昨日、ドコモショップで説明を延々と聞き、スマホか親指型か迷い、やはり親指型にした
その代りにというか、時代遅れにならない様にタブレットとのセットにした
このセットでスマホ一台と値段が変わらないのがミソ、とはドコモの担当者の弁

そもそものの機種替え動機は写真写り、今日のものが初使用である、如何
2014.07.15
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このホームページの上田宗箇の生涯に掲載している「織部沓形(くつがた)茶碗」
宗箇が所持し、今も上田家に伝わる茶碗である、織部沓形とは不整形の楕円型が特徴
然りながら、織部焼というもの、織部自身が関わったとされる証はないとされている
また、織部焼の隆盛は短く、慶長年間から二〇年足らずの間で世から消えている
上田の古文書にも、宗箇は織部の沓形茶碗より利休の碁笥(ごけ)茶碗を好んだとある

今年は古田織部四〇〇回忌にあたる
慶長二〇年(元和元年・一六一五年)六月十一日(新暦七月六日)没、享年七十二歳
大坂夏の陣で、豊臣方に内通した嫌疑が掛かり切腹を命じられ、一切の云い訳なく果てた
利休も秀吉から切腹を申し渡され果てるが、死に際の恨みや未練が伝わるのと好対照だ

古田織部を描いた漫画「へうげもの」が好評と聞いた、ひょうげ者とは「ひょうきん者」である
「おどけた・変り者」ということ、いわゆる常識の「型」を破るという話であろう
当初は利休、利休亡き後は織部に師事した宗箇は、二人の師の好みを見分けている
宗箇と織部の茶問答を記録した古文書の中に、含蓄のある話が見える

「かなつかひは、定家せんさく候へとも、定家の書候物にハかなつかいのちかひおほし、
数寄も置合知りたるうへにては、見てさへ能候へハ、何と置き候でも不苦由、御物語候」

藤原定家は仮名遣いの第一人者で、彼の「下官集」という書は仮名遣いの原典とされる
その定家が仮名遣いを間違えていることも多いが、知って間違えている節があるという
織部は、知っていて自由にすることと知らずに無茶をすることの違いを物語ったのであろう
日本文化は「型の文化」とも云われるが、型を知って破るのは「型破り」の面白味もある
しかし、型を知らすに自由にするのは単なる「型なし」に過ぎないということである

私の人生は「型破り」、うん?否、「型なし」であると知る
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雨上がりの公園に「もじずり草」、ラン科、別名「捩花・ねじばな」、花言葉「思慕」
昨年は七月一八日の記事で「もじずり草」を掲載している、同じ場所で咲いていた
草叢や芝地で普通に見られるが、単独栽培は結構難しいようで園芸種は見ない

「もじずり」という名を調べてみた、
現在の福島県信夫(しのぶ)地方で作られていた、摺り衣(すりごろも)のことだとか
摺り衣は忍草(しのぶぐさ)の汁を、模様のある石の上で布に擦りつけて染める
この「しのぶもぢずり」を作るのに使った「文知摺石」は、今も福島県信夫郡に残る
産地の信夫或いは忍草から「しのぶもじずり」と呼ばれ「偲ぶ恋」に詠われたという

陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに
     乱れそめにし われならなくに  (古今集)

嵯峨天皇十二男、源融(みなもとのとおる)が陸奥に赴任、そこで「トラ」という娘を知る
二人は恋仲になるが、やがて源融は都へ戻ることになり、トラは残される(捨てられる?)
トラは融恋しさで、文知摺石を麦草で磨き、ついに融の面影を石に映し出すことができた
が、このとき既にトラは精魂尽き果てており、ついに身をやつして果てたという

上の歌は、都に戻った源融が陸奥の国とトラという娘を偲んで詠んだ歌とか・・
その現代語訳とは

「陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、
 乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう
私のせいではないのに(あなたのせいですよ) 」

・・あほらし
都会の坊ちゃんが田舎で田舎娘を手懐けて、そして捨てて帰っただけの話
この源融は源氏物語の「光源氏」のモデルとして有名であり
かの色男貴種、在原業平の生き方にも影響を与えたとか、(伊勢物語)
然し乍ら、源融は嵯峨源氏として、その子孫は各地で源氏武士の名を残す

トラさんの「思慕」、文知摺(もじずり)哀れ・・

2014.07.13 ハナ爆睡
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爆睡中の我が愛犬「ハナ」、本名「竹姫号」柴犬雌十歳、日本犬保存会血統書付き
ハナの体重十七・五キロ、柴犬の標準体重は雌で七から九、雄で十から十三キロ
タテヨコともハナより大きな雌の柴犬は見たことがないが、性格は極めて温厚

今朝明け方のこと、耳鳴りでない音が聞えるので見ると「ハナ」である
グースカとイビキをかきながら、私の蒲団の横であられもない姿をして眠りこけていた
余程、昨夕の散歩中の出来事が応えたのであろう、自分の褥から私の横に移るとは

昨夕の七時過ぎ、やや薄暗くなりかけた時分に散歩に連れ出した
付近を一回りして戻りかけた頃である、近くの家の垣根の下から子猫が出て来た
一匹一匹と順に出て来て三匹となり、ハナが興味を持って近付いたその時である
垣根の草叢から親猫が現れたと思った刹那、すごい勢いでハナに体当たりを喰らわした
びっくり仰天の面持ちで固まったハナ、更に鼻面へ猫パンチが二発飛んで来た
「キャン」と悲鳴をあげ、後ずさりするハナに対し、親猫は毛を逆立て唸り声をあげる
「母は強し」、子を守るために必死の形相、ハナはシオシオと引き下がったのである

私はその母猫を褒めてやりたいと思った、同時にハナも褒めてやった
日頃は気の優しい温厚な犬であるが、向かってくる犬には立ち向かうハナである
更には、裏山の大きなアライグマにも立ち向かい、追い詰める気迫も持っている
然し、子を守ろうとする必死の親猫の態度を前に、ハナは引き下がったのである

昨夜はその出来事を思い出したのか、夢でも見たのだろう
私の蒲団の横で仰向けに寝て、グーグーと爆睡しているというお粗末の一席
2014.07.12
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セフィランサス、ヒガンバナ科タマスダレの仲間、北米から明治初期に帰化
ギリシャ語のZephyros(西風、ゼピュロス)とanthos(花)が語源
なぜそう名付けられたのかよく分かっていないらしい

よく分かっていないとなれば、調べたくなるのが人情
勿論、西洋の事情云々ではない、本邦、日の本の国のことである
私の茶号は「風翁」、知人に「西風君」も居た

東風・・こち、南風・・はえ、西風・・ならい、北風・・あなじ
これらの呼び名は漢字の到来以前、縄文時代からの大和言葉だそうな
和歌や農業・航海用語、朝廷用語として残ったものとか聞く

東風・・こち
春に東の方から吹いてくる風で、春の季語としても残っている
梅東風(ウメゴチ)、桜東風(サクラゴチ)、雲雀東風(ヒバリゴチ)、などの名をもつ
有名どころでは、菅原道真が太宰府左遷で詠んだ歌がある
「東風(こち)吹かば  匂ひをこせよ  梅の花  主なしとて  春な忘れそ」

南風・・はえ
山陰、西九州地方でよく用いられる南風の呼名
梅雨の初めの黒い雨雲の下を吹く黒南風(くろはえ)、梅雨最盛期の強い荒南風(あらはえ)
梅雨明け後に吹く白南風(しらはえ、しろはえ)、などといわれる。
有名どころでは、漫画「タッチ」の喫茶「南風」、但しこっちは「ミナミカゼ」と読んだような・・
日本の漫画史上、二大名作とは「宇宙戦艦ヤマト」と「タッチ」であろう、私は映画も見た

西風・・ならい、 「ならひ」である
東日本の太平洋側で吹く冬の季節風、冬の卓越風は地方によって風向が異なる
北東風、北風、西風などさまざまであるようだ
有名どころ(左程でもない)では、広島の三月頃の西風を「岩おこし」と云う、菓子ではない
何故そう云うかは、私は知らない(広島に十年住んでいたが聞いたことはなかった・・)

北風・・あなじ
乾風(あなじ)は「あなぜ、あなし」ともいう冬に西日本で吹く強い北西季節風
あなじの八日吹きといって、陰暦十二月八日に荒れ模様になる事があるとか
有名どころでは、「北風と太陽」の小噺、これは日の本の話ではなかったような

ともあれ、この日の本には「風の呼び名」が二千以上もあるという
それぞれ漁業・農業に、古くは狩猟採取にとって、大事な意味合いを持った風であろう
この中には、麻雀の東南西北の風は含まれていないことを付言しておく

若かりし頃に歌った、「風」

♪ 人は誰も ただ一人旅に出て
  人は誰も ふるさとを振りかえる
  ちょっぴり淋しくて 振りかえっても
  そこにはただ風が 吹いているだけ
  人は誰も 人生につまずいて
  人は誰も 夢やぶれ振りかえる  ♪
2014.07.10 蝉の声
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赤花夕化粧(あかはなゆうげしょう)アカバナ科、北米原産で明治時代に帰化
花言葉「臆病」、夕方から夜に咲く一センチ位の花で「夕化粧」の名がある
然し、この写真は朝六時半頃の散歩道でのもの、どうも朝も昼も咲いているようだ
「夕化粧」という名に別花があるので、ご注意ありたし

実は私、昨秋のこと、今年は秋の虫の音が良く聞こえると思っていたら、耳鳴り症状であった
耳鼻科二軒と内科二軒、それに友人の医師にも相談したが、現在の医学では処置出来ずとか
それで、漢方に詳しい知人の薬剤師に相談、漢方薬治療を頼んでみたが、やはり不調
この知人に薬剤師、結構に情緒的というか、人情の機微に通じた義理堅い御仁である
過去に「医者は患者の前では医者を演じる役者である」とその実態を喝破した上で
「本当の友人として、医者との付き合いを持つ人は恵まれている」という話をしてくれた

私が「蝉の音」に困っているが、医者に見放されたので何とかしてほしいと頼んだのである
すると、「耳鳴りは確かな治療方法はありませんが、知っている漢方治療をやってみましょう」
「それには、私は貴方に対し漢方薬剤師を演じなければならないので恐縮ですが、ご勘弁を」
その気の利いた台詞に納得して、二か月余り三種の漢方薬を試したのだが、蝉は鳴き止まない
どうも、加齢から来るもので、蝉と上手く付き合うしかないという話になった
その知人の薬剤師から来たメール、ナカナカの筆致というか、味わいのある文面であった
その御仁の許可を得て、掲載することにした

>年を重ねるということは、若かりし頃の肉体から様々なものが失われていくことなのでしょう。
失われた後の不完全さは苦痛を伴う場合もあるかと思いますが、欠けた茶碗のようにご自分のお体を愛でてあげてください。
うるさい蝉の声の中に寂静、閑寂を求めるのも、又茶の湯の道かもしれません。
頼りない薬剤師の言い訳とお聞き流しください。不尽 <

静けさや 岩に染み入る 蝉の声
と、いう話かと私は納得した
欠け茶碗で一服の茶も、また一局の碁であろう





2014.07.10 三元
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麻雀牌の白・發・中、この三種が三枚づつ揃うと「大三元」、役満・最高点である

東京に居た学生時代の頃、学校のある街のそこかしこに雀荘があった
街の住民はこぼしていた「昔は本屋が多かったが、今は雀荘ばっかり・・」
昔の学生は本を読んだが、今の学生はマージャンに現(うつつ)を抜かす云々
確かにその街では、学生ルールも定まっており、マージャンは流行っていた
斯く云う私も麻雀牌を握って楽しんだものだが、どうも体質に合わないようだった
私は、夜零時を過ぎると無性に眠くなり、思考力が途切れるのある
そうなると、誰の目にも明らかな「大三元」のテンパりにさえ振り込む始末となる

昨今麻雀をしたことは無いが、この中元時期には「大三元」をつもったことが頭に浮かぶ
昨日も日本酒の「中元」が届いた、これで三本目の日本酒,、他に焼酎二本、ワイン一本
送り主は、皆さん私の糖尿病を充分にご存じの方ばかりである
これは、私の「緩慢なる自殺行為への幇助」かと、つい勘ぐる次第
それで「中元」の謂れを調べてみたら、「大三元」とは関係が無さそうである

「中元」とは、「三元・さんげん」という古代シナの道教の行事にあったことからの話と云う
一年の中で上元(じょうげん)・中元(ちゅうげん)・下元(かげん)の三つの日のこととか
上元 ・一月一五日、新暦二月上旬~三月上旬 、賜福大帝・ 堯 、賜福(福を与える)
中元 ・七月一五日、新暦八月上旬~九月上旬 、赦罪大帝・ 舜、 赦罪(罪を赦す)
下元 ・十月一五日 、新暦十一月上旬~十二月上旬、 解厄大帝・禹 、解厄(厄を祓う)

上元は、日本では小正月に当たり、三元の行事からの影響は薄いようである
中元は、人間の贖罪の日で、一日中火を焚いて死者の罪を赦すことを願う日だとか
後に、中国仏教の祖先の霊を供養する盂蘭盆会(うらぼんえ)と習合し一体化する
日本では、お盆の行事となり、お世話になった人等に贈り物をする「お中元」に派生
改暦後は、ほとんどの地域で新暦七月一五日か新暦八月1一五日に移動した
「下元」と称する行事は日本にないが、この前後の日に収獲を感謝する行事はある
西日本では「亥の子祝い」東では「十日夜(とおかんや)」などが行われる処が多い
それは、日本に伝わった下元が各地の収獲祭と結び付いたものと考えられているらしい

この下元の行事、茶の世界では茶壺の口切り行事と繋がっているように思える
口切り行事は、下元の前後の「亥の日・亥の刻」に「亥の子餅」を食べる風習をもつ
その年の収穫を祝い、万病の厄除けをするのである

中元、なるほどに 赦罪(罪を赦す) の行事、日本酒もムベなるかな・・、
そして、酒類には「飲み過ぎないように」との「チュウゲン」が付くのであるが、ユルシタマエ





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挿し木が根付いた山紫陽花の七段花、向こうは水を張った火鉢

この七段花を卒塾者の方から頂き、記事にしたのは五月二六日だった
幻の山紫陽花とされていた七段花が一三〇年経て六甲で発見されたことを書いた
「挿し木すれば付くかも」と云われて、鉢に挿しておいたものである
あれから四〇日、まだ葉は青いというか、緑を保っている
件の卒塾者に見てもらうと、根付いたようだとの由、嬉しいかぎり

向こうは、続いて頂いたシラサギカネツリ草を水生植えにした火鉢の池である
火鉢を池にした話を記事にした際、日本メダカをもらったことも書いた
二センチ位の親メダカ二匹と一センチ位の子メダカ二匹計四匹のはずだった
ところが、一昨日女房殿が二ミリ程の赤ちゃんメダカ二匹を見付けたのである
そして曰く「もらった親メダカは妊娠してたんや、双子を産んでるわ」

私も思わず、「そうか、それは良かったな」と云いかけて、正気に戻った
「メダカが双子を出産?、そんな話は聞いたことはない」、と私が云うと
「せやけど、このチッコイのはメダカやろ、初めは居てへんかった」と女房殿
「メダカも魚や、子は産まん、卵を産んで、それから稚魚が孵(かえ)るんや」と私
「ほんなら、この赤ちゃん、どないしたんやろ??」とまだ不思議がる女房殿
「柄杓ですくった水の中か一緒にもろた水草の中か、どっちかに居たんやろう」
と、私が云う

女房殿はそのまま黙ったので、話が済んだと思っていたら・・次の日に隣の奥さん
「奥さんから聞いたんですが、メダカが双子の赤ちゃん産んだってホンマですか?」
私は言葉を詰まらせた・・、我が女房殿、私の話を聞いていなかったようだ

とりあえず、幻の七段花の根付けと絶滅危惧種の日本メダカが命を繋いでいること
慶事である
2014.07.06 夏は妖怪Ⅲ
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床の宗全籠には白い桔梗とエノコロ草を入れた
花は早くも秋を運んでいる、軸の色紙はアユの姿絵であった
2014.07.06 夏は妖怪Ⅱ
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干菓子は竹籠に盛った「割り氷」と「団扇(うちわ)」、室内に涼やかな風が通った
風は天井の方から吹いている・・、空調機であった
2014.07.06 夏は妖怪
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本日の稽古は夏風景
生地の汲桶水差、卒塾者作の馬盥(まだらい)茶碗、茶巾だけに見える塾生の心霊点前
昨今、幽霊ものは廃れているが、朋庵には茶の妖怪がシッカリ存在するのである
先輩塾生はこの馬盥にタップリと水を湛えての、「さらし茶巾」点前をした
2014.07.06 忘れ草
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秋篠川岸辺の藪萱草(やぶかんぞう)、ユリ科、よく似た野萱草は一重、こちらは八重
種が出来ず根茎で増える植物で、人が運ばないと生育地が増えない「人里植物」の一つ
食べられる野草として重宝されたのであろう、日本に入って来たのは先史時代といわれる
別名「忘れ草」、万葉集にもその名で詠われ、牧野富太郎も「忘れ草」を和名としている
萱草の意味は、この美しい花を見ていると物も忘れると言う故事からの漢名なそうな

大伴家持の歌

” 忘れ草 我が下紐(したひも)に 着けたれど
       醜(しこ)の醜草(しこぐさ) 言(こと)にしありけり ”

・・・忘れ草を私の肌着の紐に着けたけれど、何の役にも立たない大馬鹿なバカ草め
忘れ草なんて、名ばかりであったよ・・・

後に正妻とする従妹の坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌
恋した女性に死なれ、長年離れていて再び交流が始まった坂上大嬢に贈ったとか
有体に云えば、愛人に死なれ失意の時、幼馴染の従妹に会い「たまたま気が行った」
考えれば、家持はんもエエ加減と云うか適当と云うか、まま正妻にしたので善しとするか

万葉集の一割が家持はんの歌という歌人ながら、政界遊泳もナカナカのものだった
色恋の才とは出来る男の証だろう、英雄色を好むとも云うが・・私には無理のようだ
私には、「忘れ草」より「忘れな草」の未練たらしいさが似合うかも
2014.07.05 黒船
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獄中で削った茶杓「珍島の沖」が折れた、蟻腰にする節の付近が朽ちていた
やはり名付けが悪かったようだ、敷いた帛紗は「黒船」と称される織文様である

「黒船」というと、下田に来たペリー率いる米国艦隊の蒸気船を思うが、そうでない
江戸期の前から西洋式の遠洋航海船である大型帆船のことをそう呼んでいたという
長期の航海に耐えるように、黒いピッチ(樹脂)を船体に塗り付けていたためである
朱印船貿易の盛んな頃、南蛮船と云われたスペイン・ポルトガルの船である

慶長一四年のこと、島原藩主の有馬晴信が起した「デウス号焼き討ち事件」
晴信の朱印船水夫たち五〇余名が、マカオのポルトガル軍によって殺傷された
その報復のため、晴信は長崎沖でポルトガル船「デウス号」を焼き討ち沈没させた
時に長谷川忠兵衛という者がデウス号に乗り込み、船主・航海士を打ち取る
奪った荷の中にあった織物の柄が、後に「黒船」と称される裂地柄になったという

「黒船」とは米国の蒸気船のことだけを云うのではないと念を押しながら
その米国、西暦一七七六年七月四日はに英国からの独立宣言、今日はその記念日
宣言文は結構名文として世に評判だが、私には胡散(うさん)臭いモノが感じられる

「・・・我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,・・・」

この時、白人以外に米国に居たのは、アフリカから連れて来られた黒人奴隷と
殺戮され、土地・財産・家族の多くを奪われた先住民(アメリカインデアン)なのだ
宣言文でいう人間の中には、この黒人奴隷や先住民は入ってなく、一顧だにされていない、
自由と幸福求めながら、黒人や先住民へ対する自分達の行為への贖罪感は全くないのだ
自分達白人の欺瞞と独善を主張しているだけの宣言文に、米国人の本性が透けて見える

ふと思うに、秀吉・家康が切支丹禁止令と併せてアメリカ先住民との集団的自衛権の行使
秀吉軍の朝鮮征伐軍、或いは関ヶ原の両軍は、米国本土に向かうべきであったと
さすれば、アメリカ征服を目論むスペインのフェルナンド・コルテス軍どもを軽く一蹴し
南北アメリカ先住民の悲劇とアフリカ人奴隷の悲哀を未然に防げたものを・・
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竹藪の屁糞葛(ヘクソカズラ)アカネ科、別名ヤイトバナ(灸花)、サオトメバナ(早乙女花)
花言葉「人嫌い、誤解を解きたい、意外性のある」

何とも酷な名が付けられているものである、「誤解を解きたい」
その葉や茎を揉むと嫌な臭いがして、その臭いが揉んだ手にも付き嫌われる
「意外」にも、乾燥させると臭いは無くなり、その実はアカギレやシモヤケの薬になる
以心伝心というか、人に嫌われることで「人嫌い」になったのであろう、解る気がする
人間も同様で、嫌な奴と思っていると、大概相手も自分のことをそう思っているもの
従って、人に嫌われない極意とは、人を嫌わないことであろうと思う
まま最近は、人に嫌われようが嫌われまいが、どうでもエエと思うようになったが・・

花芯の紅色がお灸を連想させることから「灸花」とは、これも解らん話ではない
「早乙女花」とは何だろう、確かに「屁糞葛」という名に似つかわない可愛い花を付ける
そこでこんな諺(ことわざ)があるという、「屁糞葛も花盛り」 、その意味は
嫌な臭いがあってあまり好かれない屁糞葛でも、愛らしい花をつける時期があるように
不器量な娘でも、年頃になればそれなりに魅力があるということだとか
一般に云う「鬼も十八、番茶も出花」、同じ類の話であろう

我が人生を省みても、人の人生を見聞きしても、つらつら思うに
「誰の人生でも、どんな人生でも、どこかで花を付けるもの」ということである
その花の色形、大きさ、匂いは、皆夫々のものであろうし、自分だけが知る花もあろう
花によっては外から見えないものもあるし、花とは思えない花もあるものだ
美しく咲いても人目に触れず散ってく花もある、そういう花の方が多いであろう

自己満足で充分である、自分の花を自分でシッカリと見付け、咲かせたいもの
「意外性のある」花もあろう、そして夫々に「花のある人生」を愉しもう
と、キザなことを云う・・、手で揉むと嫌な臭いがするような・・


2014.07.03 半夏生のタコ
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先に掲載した「しらさぎかやつり草」を水生植物として植え直した
火鉢を洗って水を入れ、中に瓦と石と煉瓦を敷き、その上に建水を花鉢にして置いた
卒塾者のお宅に行き、日本メダカ四匹と水草を無心した、子供二匹大人二匹である
メダカの学校で歌われ、身近な存在だった日本メダカも今や絶滅危惧種に指定とか

夏至から数えて十一日目が半夏生(はんげしょう)と呼ばれる雑節の一つである
半夏生(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって半化粧になる頃とか
或いは、半夏(烏柄杓・からすびしゃく)という薬草が生える頃という説もあるらしい
半夏生とは、花の元から出ている葉が白くなり、花弁の役をする現象という
写真の「しらさぎかやつり草」の白い花のように見える部分も半夏生現象である

今年の半夏生は七月二日で、これから五日間が節間となり、昔は農家の休閑期だった
半夏生までに田植えを終えないと不作になるということで、農作業を済ましたという
どういう訳か知らないが近畿の一部には、この半夏生の日にタコを食べる風習がある
しかもそれは、日本記念日協会で認定された「タコの日」にもなっているのである
一説には、田に張られた水をよく吸って、その成長を願う意味で「タコの吸盤」とか

そんなこんなで、昨晩は「タコ焼き」を作り、ビールを飲んだのであった
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会津の友人から届いた佐藤錦のさくらんぼ、「さくらんぼ」の花言葉「小さな恋人」

福島の大学教授を退官したその会津の友人からの添え状、これが面白い
「これは山形産で福島産ではありません、鼻血の心配は無用です」
これは「さくらんぼ」ならぬ「美味しんぼ」の漫画に対する彼一流の諧謔
私は思わず笑ったが、福島の人間にとっては笑い事では済まないだろう

この漫画の鼻血話に、世間はその是非云々で喧騒が続いたのは私も承知
中で「思わず笑った」のは、鼻血の「事実」でなく、福島の「真実」をという論調
人の不幸を飯の種にするは医者と弁護士と坊主というが、マスコミ・言論人も然り
この友人の、話を諧謔にして捨て置く態度に、彼の静謐な矜持を垣間見る思いがした

静謐な矜持という言葉が似合うのは武人、それも今の「自衛隊員」であろう
「憲法違反」「日陰者」「税金泥棒」「人殺し集団」と世間の心無い言葉を受けながら
前身の「警察予備隊」の創設から六〇年間、人に向かって一発の銃弾も撃っていない
海に山に災害復旧・人命救助のため黙々と任務を果たしてきたのは周知のところ
「非難誹謗する人達の生命・安全をも守るのが自分達の任務」と心得た矜持と云える

奈良と大坂を結ぶ「暗がり峠」という国道が生駒山中にある
一部は石畳の情緒ある道で、自動車が通られない国道としても知られる
知る人ぞ知るというか、道路マニアの隠れた名所でもある
この「暗がり峠」の道の歴史は古く、縄文時代からの古道とも云われている
その「暗がり峠」の途中に、「防人の碑」がひっそりと建っている
刻まれた歌

「 難波津を 漕ぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲そたなびく 」

防人の多くは東国から徴発され、大和から難波津に出て、軍船で西の守りに向かう
過ぎ行く生駒山の向うの大和、そのまた東国の故郷・父母・妻子を偲んだのであろう
任地や故郷への帰路で死を迎えた者も多かったとか、その今は際の思いや如何に
現在の防人としての自衛隊に、創設六〇周年を祝したい
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白鷺蚊帳吊り(しらさぎかやつり)草、北米原産の水生植物
先日、卒塾者の方が根付きで水植え用の鉢に入れて届けて下さったものである
すぐに茶花に切るのが惜しくて、プランタンに移し植えたのであった

どういう訳か、この草の名を私は「白鷺草」という記憶があったので調べてみた
「さぎ草」はあっても白鷺草がない、では「しぎ草」かと調べてもない、ムムムっとなる
以前にも植えたこともあったが大きく育たず、明くる年のその地面には小さく葉が出るだけ
ある時、女房殿が草むしりの一環で、その小さな葉もむしりとった後は芽を出さなくなった

故に、正しい植え方を知ろうとしたのだが、図鑑にもネットにも出て来ない
それで卒塾者の方に聞いてみると、「かやつり草」とのこと、早速に調べてみたのだが・・
私の花図鑑にも、ネットでも違う野草が「かやつり草」として出て来るのであった
私の聞き違いかと思い、また卒塾者に電話で尋ねたが、やはり「かやつり草と聞いた」とか

思い余って、この携帯写真を胸に入れ、買い物ついでに菖蒲池の花屋まで出掛けた
花屋に入って、携帯の写真映像を見てもらうと、以前に見たことがあるが名は失念した由
そして、さすが本職、分厚い花図鑑を取り出してきて、親切に調べて下さったのである
そこへ、後ろから声が掛かり振り返ると、件の卒塾者ご夫婦が立っておられた
私が「どうも草の名が違うようなので、引っかかって花屋さんまで聞きに来た」と云うと
卒塾者ご夫婦も「えっ」と驚かれた様子で、その花屋さんに真剣な顔を向けられた

暫らくしてその花屋さん、「あったあった、これですね!」と笑顔で図鑑を示された
そこには、「しらさぎかやつり草」とあった、何故か皆はホッとしたように笑顔を向けあった
私は早速にその名をメモにとって礼を述べ、気が晴れた心地で買い物に行った
ホンマ、皆さんエエ人たちである

新塾生は盆点前の稽古に入った、ナカナカ見応えのある仕儀・手付きである
それになにより、互いの指摘や講釈はご立派ながら、自分の段になると・・いやはや
どうもこの辺り、朋庵茶の湯塾の先輩諸氏が築いた伝統のようである