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千島笹、隈笹(くまざさ)ともいう、隅(すみ)が白くなることからで、熊笹は誤記
千島から日本列島が原産地、江戸期に孟宗竹が入ってくるまでは竹の本流
万葉集に詠まれている「竹」とは千島竹のこと、別名「根曲がり竹」といった

昭和二十年の今日、八月三十一日、ソ連軍は北方四島を含む千島列島の占拠を終えた
六十九年前のこの時期、千島列島最北端の占守島は千島笹で覆われていた
占守とはシュムシュと読む、アイヌ語シュム・ウシ(南西・そこにある)とか
昭和二十年八月十五日にポツダム宣言を受諾、降伏した日本軍は武装を解いた

だが、八月十八日から日本陸軍の最後の戦いがあった、占守島の戦いである
突如上陸して来たソ連軍と日本軍守備隊との三日間の戦いである
私はこの戦いで、私自身の価値観ながら、心を打たれた話が三つある、

①、米軍の介入もあり停戦に応じたのは、婦女子の無時避難の確認後ということ
②、戦車第十一連隊・池田末男連隊長の言葉と行動
③、その時の北部方面軍司令官・樋口季一郎陸軍中将の決断

①の話、満州・樺太へのソ連軍侵入で起きたソ連兵の日本人婦女子への非道極まる凌辱
このことを伝え聞いていた占守島日本軍守備隊は、最後まで婦女子を守ろうとしたこと
我が部族の婦女子を守る、それが男の戦いの原点であると、私は思っている
日本軍将兵はシベリヤ抑留となり、辛酸をなめることになるが、婦女子・島民は救われた

②の話、学徒出陣兵士に対する池田連隊長の言葉。
「大学在学中の者まで動員せねばならぬところまで戦火を拡大してしまった軍上層部は間違っている。貴様たちはご両親が苦労して大学にいれて、その得た知識を国のため生かすのが使命で、その知識を命に代えてしまうのは残念である。自分たち軍人とは、国民皆兵の時代とはいえ、全く立場が違うはずだ」

そして、ソ連軍侵入の報を受けた池田連隊長の訓示
「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、事ここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆にあえて問う。諸氏は赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。」
「赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。白虎隊とならん者は手を挙げよ」

全員が歓声を上げて両手を挙げる、「ありがとう」と池田連隊長
「連隊はこれより全軍を挙げて敵を水際に撃滅せんとす」
池田は先頭を進む戦車の砲身に日章旗を手にしてまたがり、三十数台の戦車が続く。
池田連隊長は学徒出陣の少年兵に命令、「お前は、生きて帰れ」
池田は壮烈な戦死を遂げるが、戦車隊は前線の日本軍守備隊を救援、ソ連軍を粉砕

三日間の占守島の戦いで、日本軍戦傷者は約六百名、ソ連軍戦傷者は約三千名
この戦車第十一連隊は、その十一から「士魂戦車連隊」と呼ばれ、現在も存在する
北海道第七師団戦車第十一連隊であり、後に池田連隊長の御子息も連隊長となる

③の話、時の北部方面軍司令官・樋口季一郎陸軍中将のこと
ソ連軍襲来の報に、「なにっ、ソ連軍が揚がったと・・・」と黙り込んだとされる
「自衛のための戦闘」を行なうべきか、大本営の停戦指示に従うべきか」
樋口司令官は、今戦わなければ千島・北海道が沖縄の二の舞なるとして、決断
「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と命を下す

北海道占領の目論見を壊されたソ連は樋口を戦犯として引き渡しを要求
しかし、アメリカはソ連の要求を拒んだ、その背景に在米ユダヤ人の声があった
ユダヤ人にとっては、樋口は多くのユダヤ人を救った恩人であった

一九三九年の「オトポール事件」に於けるユダヤ人の樋口への恩義である
ドイツの迫害を逃れてソ満国境までユダヤ人難民二万人が逃げて来た時のこと
ドイツへの遠慮から、日本政府もソ連政府もユダヤ人難民の受け入れ拒否
ハルピン特務機関長であった樋口のところに、ユダヤ人が救いを求めて来た
樋口は東条英機参謀長に具申、ユダヤ人難民を満州に受け入れを決断

今、イスラエルの世界に偉人を記す「ゴールデン・ブック」に載る日本人は二人
樋口季一郎と「命のビザ」で知られる杉原千畝の二人である

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2014.08.30 葵Ⅳ・和三盆
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近所の庭のオクラ(okra)、和名「秋葵」オクラと読ます、アオイ科、木槿や扶桑の仲間
さすがアメリカ芙蓉の親種、立派な花を開かせた後、これまた立派な実がそそり立つ
以前、私はオクラとは下向きにぶら下がっているものとばかり思い込んでいた

葵Ⅲが「水戸黄門の印籠」なら、葵Ⅳは「暴れん坊将軍・吉宗」にならざるを得ない
ご存知の様に吉宗は、紀州徳川家の四男に生まれながら兄達の死で紀州藩主となる
更に、七代将軍家継の死で、徳川宗家に入り八代将軍となって、享保の改革を実行
政治改革に財政復興、大岡越前の登用や小石川養生所の設立、目安箱の設置云々
多くの功績を遺した将軍として有名であるが、実は茶の湯の世界にも功績を遺したのだ

和菓子、ことに茶菓子に使われる高品質砂糖・和三盆(わさんぼん)のこと
香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている砂糖の一種
まろやかな独特の風味を持ち、細やかな粒子と口溶けの良さが特徴である
盆の上で砂糖を三度「研ぐ」」という日本独自の精糖工法がその名の由来だ

古来、日本では唐土の糖が知られていたが、国内で糖の生産はなかったとされる
江戸期には、唐船とオランダ船が舶載してくる輸入砂糖が高価なものとしてあった
薩摩藩が琉球支配をしてから奄美大島・徳之島・喜界島や琉球産の黒砂糖が来た
砂糖の元となるサトウキビの栽培地は南西諸島に限られ、日本本土に無かった
作られる砂糖も黒砂糖が一般的であった

やがて、吉宗が享保の改革で全国にサトウキビの栽培を奨励することになる
高松藩がこれに呼応、その後、徳島藩でもサトウキビが育てられるようになる
しかし、精糖の方法については不明だったため、他国における情報を収集したとか
やがて日本独自の精糖工法を確立させた、それが和三盆(わさんぼん)である
徳島県のものを阿波和三盆糖、香川県のものを讃岐和三盆糖と呼ぶ

和三盆は貴重な特産品として全国へ出され、和菓子や郷土菓子の発展に貢献
倹約将軍で有名であった暴れん坊将軍吉宗、酸いも甘いも分かっていたようだ
さて、次回の稽古、茶菓子は落雁(らくがん)にしよう、「かえる庵」さんにもらった(^^)
「葵」シリーズ、これにて終り






2014.08.29 嬉しい電話
先のブログを投稿したすぐ後のこと
嬉しい電話が入った、広島の友人からである
「男の涙・ごん」の記事を見たという、そして「ごん」のことを覚えているとも
「ごん」のことを覚えているので、あのブログ記事は味わいがあったと話してくれた
嬉しく思う、それはブログを見てくれていたというだけではない
僅か十ヵ月余りの短い命だった「ごん」
その「ごん」のことを覚えてくれている人が居たことである
本当に嬉しく思った、「ごん」、良かったなぁ
2014.08.29 葵Ⅲ・印籠
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ご存知、水戸黄門は葵の御紋の印籠
「この紋所が目の入らぬか!」 「へっへー、はっはー」の例のもの

葵の御紋というのは、将軍家や御三家および一門の松平家等で少し違うらしい
同じ将軍家でも時代によって違うとか、つまり家康と吉宗とは紋が違うという
葵の紋とは、元々は双葉葵で賀茂一族の紋であり、賀茂神社の紋所となっている
徳川の出自とは、三河・賀茂の庄の松平家であり、賀茂一族であるらしい
それが清和源氏と名乗り、双葉葵を三つ葉葵にしたということ、葵に三つ葉は無い
と、まぁ、葵の御紋の薀蓄はさておき、時代劇「水戸黄門」の主題歌の話

大方の人は、「あゝ人生に涙あり」(木下忠司作曲)の歌を想い起すであろう
昭和四十四年からの長寿番組となった「ナショナル劇場」版である

人生楽ありゃ苦もあるさ
涙の後には虹も出る
歩いてゆくんだしっかりと
自分の道をふみしめて

人生勇気が必要だ
くじけりゃ誰かが先に行く
あとから来たのに追い越され
泣くのがいやならさあ歩け

人生涙と笑顔あり
そんなに悪くはないもんだ
なんにもしないで生きるより
何かを求めて生きようよ

実は、昭和三十九年に「ブラザーミシン劇場」版の水戸黄門が放映されていた
その主題歌の歌詞は以下の通り、忘却の彼方になったかどうか・・
「水戸黄門旅日記」という題名であった

  昭和三十九年発売
  作詞:藤田まさと 作曲・編曲:福島正二
 
  風吹くままに 花は散り
   雲行くままに 人は去る
    世の移ろいを 観るなれば
    貧しきものも 富むものも
     おなじ仮寝(かりね)の 露の宿
     あゝ水戸黄門の 夢はるか

  身は百姓に 窶(やつ)せども
   昨日の錦衣(にしき) 今日の襤褄(ぼろ)
    かくせぬ旅の 旅衣
    たずぬる里の 空(むな)しさは
     道を説きつつ 泣くこころ
     あゝ水戸黄門の 道はるか

  つばくろの春 雁(がん)の秋
   廻(めぐ)りし国は 数あれど
    廻りし事の おもいでは
    心を責むる ものばかり
     義心一道(ぎしんいちどう) なお遠し
     あゝ水戸黄門の 旅はるか

以上、覚えておられるであろうか、私の高校生時代の話である
従って、当初は「越後のちりめん問屋」ではなく「百姓」の三右衛門
この歌が世の「進歩的文化人」なる人々達の批判を受けて消されたのである
理由は「百姓」が差別用語である云々とか、何ともはや・・

私はこちらの歌詞の方が、格調が高く気品があるように思う
特に一番歌詞の最初の二行、好きである
再々のボケ症状
申し訳ないことながら、前のブログ記事
「立山淳人花展」と書き入れたが、「江木淳人花展」の間違いであった
よって、前の記事を訂正致したところ

名前を間違えて記載するという大失態をしでかしてしもうたのである
江木氏は帝塚山大学大学院で日本文化の学究をされている青年華道家
生家の所以で、京都の華道大学を経て帝塚山大学の大学院に進まれた由
新進気鋭の華道家であるが、その人物像は「清々しい好青年」の一言に尽きる
私の方が少々年配ということで云わしてもらう、ままご諒恕頂き度

名を間違えてブログに書き込んだ失礼の段、御本人に深きお詫び申し上げる
同時に、このブログを見て頂いている方々にも、失態をお詫び致しまする
このボケ茶人擬きのヤツガレにお許しを、m(__)m

江木はん、堪忍な・・
2014.08.27 葵Ⅱ、訂正
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去年、十一月二十四日の記事「江木敦人花展」の写真の拡大版で再掲
中の薄紅色の花が「葵・あおい」である

私が前々回に撮った花を、「立ち葵」かと思って載せたが間違いであった
ある女性茶人からご指摘を頂いた、あの花は「高砂芙蓉」であるということ
再度調べてみたが、その女性茶人のご指摘の通りであった、我が身の浅学を恥じ入る
ここに、お詫びとと共に、そのご指摘を下さった女性茶人に御礼を申し上げるところ
木槿や扶桑の様に艶やかさを誇示するでもない、楚々とした小ぶりな「高砂芙蓉」、
同じアオイ科といえ、私の見間違いであった、申し訳なしm(__)m
そう云えばご指摘下さったお方に、どこか似ているような・・(^^)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140825-00000039-mai-soci.view-000#contents-body
このサイトをカーソルでなぞって右クリック、google検索してもらいたい
すると、<広島土砂災害>殺処分寸前だった救助犬「夢之丞」1人発見>と出る
更に、「全文を見る」を開いてもらうと仔犬の写真が出る、「夢之丞」の写真である
毎日新聞社提供のyahooニュースでは、写真が転載できないのでこんな形にした
保健所で殺処分されかけていた仔犬が貰われ、救助犬として育ち活躍している話だ

私はこの「夢之丞」と全く同じ表情、眼つき・顔つき・体つきの仔犬を知っている
「夢之丞」と同じ広島保健所で数匹の犬と共に檻の中に容れられた黒い仔犬だった
もう四〇年余り前のこと、私の結婚間もない、つまり新婚時代のことである
当時の私は外食事業や生鮮食品を扱う仕事をしており、勤務時間が長く不規則だった
京都から広島まで来てくれた女房は、こちらに親類や友人の一人も居なかった
言葉にも馴染めず、人付き合いが上手く出来ない女房はホームシックに陥っていた

そんなある日、訪れた広島保健所で見たのが、今から殺処分される犬たちであった
私は可哀そうというか切なくて、犬たちを捨てた元の飼い主に腹立たしくなった
その時、一匹の黒い仔犬私を見てくれていた、色は違うが写真の「夢之丞」そのものだった
帰るに帰れなくなった私は、女房のことも頭に浮かんで、その仔犬を貰って帰ることにした

ジャンバーの懐に入れてバスに乗り、家に帰って女房に見せると正に破顔一笑、喜んでくれた
その仔犬は男の子だったので「ごん」と名付けた、「ごん」は私たちによく懐き、すくすく育った
十ヶ月くらい経った頃から、外の気配に咆えるようになった、主人に危険を知らせているのだ
すると、夜間に「犬の声がうるさい」との女声の電話が何度も入り、聞いても名乗らないのである
私は夜勤も多いため、一人で居る女房は夜には「ごん」を布団に容れ、口を押えて寝る日が続いた
電話の声で、その相手は略見当が付いていると女房は云う、妙な集まりをする中心人物だとか
女房もその「妙な集まり」に誘われているが、参加しないので「イジメ」にあっているらしかった

私がまともに家に帰っている人間なら、相手の家に行き旦那も交えて「話を付ける」のは吝かでない
しかし、家にいることが少なく、近所にはその「妙な集まり」の仲間衆も多いと聞かされている
ホームシックになり、神経が細くなっている女房のことを思うと、私が一戦を交える訳には行かない
私と女房で話し合った結果、「ごん」も大きくなったので山中で一人で暮らせるだろうということにした
明くる日、大きなむすび二つと水を持ち、私は「ごん」を連れ裏山のもう一つ向うの山の奥まで行った
水を置き、むすびを食べさせている間に、私はこっそりとそこを離れ後は走って帰った、目が潤んだ

それから三日後のこと、夜勤明けの私が家で寝ていると、「あ、ごん」と女房の声である
三日も掛けて、あの山の奥から道や橋・川を彷徨いながら帰って来たのであろう、思わず抱きしめた
私達夫婦は「ごん」を抱き、撫でながらひとつの決意をしたのだった、「やはり、保健所に頼もう」と
保健所が引き取りに来るその日、私は仕事を休み家にいた、女房は色々「ごん」に食べさせていた
やがて保健所の人が来たので、私は「ごん」を鎖につなぎ、道端まで連れて行き、引き渡した
「ごん」は車に乗せられ去って行った、私は涙が止まらす、家に戻ると一升瓶を抱え込んだ

その日一晩中、涙が止まらず一升瓶を一本以上空けたが酔えない、女房も涙ぐんだままだった
次の日、近隣の件の女性を見掛けた時、私はすごい形相で彼女を睨みつけた、彼女は怯んだ
保健所の殺処分をうける犬たちを見て、私は飼い主を恨んだものだが、自分もそうなったのだ
今頃になって女房殿が云うには、「結婚してあなたの涙を見たのは、あの時だけ」、とか

「ごん」が去って、しばらくした頃、女房殿が懐妊した、私たちは「ごん」が帰った来たのかと思った
「夢之丞」の写真に「ごん」を思い出して胸が熱くなり、昨日書きかけた指が止まって寝てしまった
先の記事にもしたが、私達の新婚生活は、広島の土砂崩れの被災地となったところである
救助犬「夢之丞」は、その地で活躍している由、あの世に居る「ごん」に代わっても頑張ってもらいたい
例え、小意地の悪い地区住民が未だ居てるとしても
2014.08.24
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小粒な木槿(むくげ)と思ってみたら、どうも立葵(たちあおい)のようだ、、
原産はシナ西域から西アジアという、花言葉「「大望・野心・豊かな実り・気高く威厳に満ちた美」
源氏物語には光源氏の最初の妻「葵の上」が出て来るが、元々は若菜を食用にする作物だったとか
そのためか、万葉集には余り詠まれていないようだ

葵と云えば徳川将軍の御紋、「この紋所が目に入らぬか!」「へっへー」である、
だが、花は存外可愛いもの、「あおい」とは陽に向かう花、「あふひ」と云われたらしい、
静岡は日本一の茶の産地であるが、家康の茶とはどのようなものであったのだろうか
信長、秀吉の茶とは聞くことが多いのだが、家康の茶については具体的なことは知らない

二代将軍秀忠には古田織部、三代将軍家光には小堀遠州が茶の湯指南に就くいている
然りながら織部は切腹、小堀家は改易となり、四代将軍家綱には片桐貞昌が茶の湯指南
貞昌の石州流が将軍家の茶の湯として名を高め、江戸の大名茶の主流となっていく
家康自身の茶の湯は、利休との一客一亭の茶と信長の末弟・有楽を招いた茶しか知らない
それに、家康は多くの茶道具を所持したが、「家康好み」と云う物は寡聞にして耳にしない
家康の道具は素朴なものが多いらしい、家康の茶への存念、聞きたいところではある

2014.08.24 盆踊り
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盆踊りの和太鼓、愛犬ハナも何事かと穏やかならぬ様子であった

昨夜は我が町内自治会主催の盆踊りであった
以前、と云っても三十年ほど前には、付近各地の町内でも盆踊りが開催されていた
盆前後の夕方ともなると、彼方此方から囃子太鼓の音が聞えて来たものである
何時しか取り止めになったと云う所が出だして、今では盆踊りの行事は付近から消えた
子供の減少や自治会員の老齢化、盆踊りへの住民の参加意欲が薄れたこともある

最後まで残った町内盆踊り行事とは、ついに我が町内だけとなったのであった
勿論、自治会内では「面倒だから止めたい」とか「他も止めているのでウチも止めよう」
という声が出ていたのだが、「五十年余りの新興住宅街での唯一の全員参加行事だ」
という真っ当な意見の持ち主が多かったためか、なんとか続けて来たのであった

それがここ四・五年のこと、我が町内の盆踊りは盛況を極めて来たのである
理由は簡単、他の地域の盆踊りが無くなったため、近隣彼方此方からの来訪者が増えた
特に、子供連れの夫婦・爺さん婆さん、中学生同士のグループあたりが来ている
やはり、盆踊りの光景に郷愁があるのと、地域行事への関心であろうと思われる

ところが、ここで難儀な問題が出て来たのである
つまり、観客が増えると町内手作り夜店の品がすぐ無くなるし、ゴミも増えるのある
それでなくとも、手間暇が掛かることで反対意見もある中のこと、先行きは怪しくなる
私が思うに、解決策は三つ、一つは広域盆踊りにして他地区の応援参加を求めること
二つは、それなりの専門業者の頼み、出来る予算の範囲内の盆踊りとすること
三つは、我が町内も盆踊り行事も取り止めにすることである

マスコミと政治家のレベルがその国民のレベルを示すと云う話はよく聞くところ
国民のレベルとは、蓋し、その地区、町内住民の意識レベルであるとも云えよう
2014.08.23 親の背中
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我が家の玄関横のモチの木に添って百合が花を付けた、高さは二メートルを優に超える
根元にある黒茶に枯れた四・五〇センチ程の二本の枝はこの親百合である、
何処から来たのか、去年枝葉を付けたので時に水をやり、花の咲くのを楽しみにしていた
やがて、楚々とした可愛い花を付けたので嬉しくなり、枯れても切らずにそのままにしていた

すると今年も親株の背元から芽を出したので、また嬉しくなり水やりをして水生養分も挿した
茎や葉はドンドン成長し、ニメートルを超えるまでになったのだが、花どころか蕾も付けない
近所の百合はすでに花が咲いている、どうもこれは違う植物だったかと気分が暗くなった頃
枝のテッペンに,,モチの木に隠れながらも沢山の蕾らしきものが出ているのに気が付いた
あれれと思っていると、ポツリポツリと白百合が見事に花を付けてくれ、う~むと唸ったのだ
見上げて見る白百合は初めてではあるが、嬉しくなった、(正にメグ・カナ百合である)
実は、このところの女子バレーボール世界大会のテレビ放映で、メグ・カナがゲスト出演していた

然し、これはどういうことであろうか、親株は普通サイズのものながら、この子供株
突然変異というか、枯れた親株をはるか足もとに見下ろして花を付けるまでに成長した
私は、何故か中学時代の学級担任であった女性教師の言葉が脳裏に蘇った
確かホームルームの時間のことだと記憶する、何故勉強が必要かと云う話だったと思う

「勉強は自分のためにだけするのではありません、あなた方の子供のためにやるものです」
「子供は親の背中から育ちます、子供の踏む台になれる大きな背中を作る為に勉強して下さい」

この言葉、妙に私に印象に残ったのであり、一言一句、記憶を間違えていないように思う
その女先生は、広島女子高等師範学校の出身者であり、広島で被爆されていた
広島女子高等師範学校は、お茶の水、・奈良の女子高等師範に次ぐ第三の女子高等師範学校
そして、最後の女子高等師範学校であった、 その沿革を載せる

広島女子高等師範学校1944年(昭和19年)12月 - 広島女子高等師範学校の設置申請が閣議で受理。
1945年(昭和20年) 3月31日 - 財団法人山中高等女学校解散。(私立)山中高等女学校廃止。
4月1日 - 広島女子高等師範学校および広島女子高等師範学校附属山中高等女学校が設立。
7月21日 - 女高師入学式。
8月6日 - 原爆投下により校舎焼失、生徒教職員多数が被爆死。
11月6日 - 慰霊祭挙行。

1949年(昭和24年)5月31日 - 広島大学に包括され広島大学広島女子高等師範学校と改称。
1951年(昭和26年)3月 - 附属山中高女廃止。
1952年(昭和27年)3月 - 最後の卒業式。広島女高師廃止。


入学式から二十日足らずでの原爆被災、校舎焼失、生徒教職員多数が被爆死
先日からの広島報道のためか、親の背株から出た背高白百合を見ていて恩師の言葉が想い出された
不肖の弟子(教え子)の私は、まともな背中を作ることが叶わなかったが・・
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今朝、散歩道に「珠簾・たますだれ」の花一輪、秋が来たことを告げていた
向うに見えるは「朝顔ドーム」だが、ドームは竹製で重みでへこんでしまっている

先ほど近鉄ケーブルの人間が来て、パソコン周りの点検をしてくれた
結果分った不具合の原因は、ケーブルネットの回線を配信するルーターの故障であった
三週間ほど前に同じ会社の違う人間が来て、コードがおかしいとしてコードを取り替えていた
説明をする相手に、「何なの、その話」と私、少々目付きが険しくなっていたかも知れない
その彼、汗だくになりながら会社に電話を掛け、前に来た人間に事情を聞いて叱っていた
まま、その場の私の重苦しい雰囲気から、開放されたかったのだろう

修理を終えた彼は、新しいルーターにはワイファイという無線発信装置を付けておきましたと云う
これで、もう家の近辺どこでもコード無しにパソコンが使用可能となりますと付言するのだった
更に、本来この修理は有料ですが、無料にさせて頂きますと云って、引き揚げて行ったのである
得をしたのか損をしたのか首を傾げたが、この三週間のことを考えると明らかに大損である
追いかけて優しくジックリと文句を云ってやろう思ったが、彼の車はもう無かった・・
やまり、パソコンの具合が悪く、写真掲載が出来ない
まま、それなそれで仕方ないとして
昨日の私のブログで広島の地のこと、しかも私の新婚当時の山本の町
そして、曰く意を決して「マイjホーム」を建て、子育てをした可部の町、
その二つの町が土砂に流されたことを書いた
そして広島は我が上田宗箇流、友人知人も多い
故に、皆の無事を祈ると書いたのだが・・三拍手、微妙な気分である

その広島から大阪に嫁いで来られた当流の女性門人からメールが入った
広島の状況が心配で、私の方に何か情報が入っているかどうかというもの、
私の知る限り、流儀の人達に大きな被害を被ったという話は聞いてない旨返信

彼女の心配を伝えるメールながら、少々話題がブログ記事のことにも言及
彼女は「盃洗・はいせん」を知らなかったということで調べてみたとあった
色々な形があり、返盃の仕来りの必需品であったことを知って面白かったとの由
中でも、世に云う「水に流す」と云う言葉がこの「盃洗」から来ていると知り肯いたとか
そして、我が家は夫婦ともに「無調法ですので」、全くに縁のない言葉のようです…、
とあった、なかなか洒落た筆致である

しかし、広島は「水に流す」程度の話では済まなくなったようだ
ついでながら、「流れに掉さす」とは水の流れの勢いに乗ることであって、
流れに抵抗するとか、話に「水を差す」という話ではないこと、蛇足一言

とうにもパソコンが上手く機能しない
朝から、何度となく写真の添付作業を繰り返すが、状況は悪化の一途
この金曜日に近鉄ケーブルが来て、光ファイバーに切り替えてくれると云う
来週の月曜日には、パソコンを見てもらうことになっている

そんなこんなの今日、テレビでは広島の大雨・土砂崩れが報じられている
土砂崩れのあった安佐南区の山本は私達夫婦の新婚生活を送った町
安佐北区の可部東は、二児を授かって夫婦で我が家を建てた町
テレビの画面に表れるのは、無残に崩れたこの二つの町の姿である
私達が広島で生活を送った痕跡が失われるとは、悲しい思いであるが
ともあれ、広島の皆さんのことが心配になり、彼方此方へ電話を入れる
可部東の知人は、家族は無事であったが、道路は土砂で埋まっているとか
宗家事務局の電話には誰も出て来ない、各自の家のことで手一杯なのだろう

・・無事を祈る
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このところ、パソコンが不具合で扱いにくい、朝から何度も写真添付を試みるが不調
夜一杯飲んで、再々度、パソコンを開けると、菓子のコメントが入っていたので返事を書く
なんとそこで、写真添付が出来た・・ナンジャラホイこのパソコンは、と云う気分

この写真、昨日の月曜稽古に指導応援に来て下さった卒塾者と空けた日本酒四合瓶
右から、奈良吉野の「前鬼」、広島廿日市の「弥山」、愛知岡崎の「三河武士」
横にあるのは「盃洗・はいせん」、新たな酒を口にする時に盃を洗うものとして私が用意
月曜塾生達も加わり盛り上がる、彼等の稽古は三歩進んで二歩下がる・・時々四歩下がる

昨日のブログ記事へのコメントと私の回答、以下に記載

> > 茶会で、はじめに「菓子」を食べるようになったのは、いつの頃でしょうか?
> > 濃茶から始まるとの考えは、いかがでしょうか。
>
> 茶の湯の菓子というものは、干し柿や焼き栗の類であったようです
> 当流でも、炉開きや初釜なんかでは「干し柿」を出すのが本来とされています
> よっで、村田珠光の一番弟子であった古市播磨が淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)に菓子を出したようですが、これもその類であったとみています
> 千利休が茶菓子の創始者(何でも利休?)の云われるのは「麩焼き」で、小麦粉を薄く引いて焼き、それに味噌のを引いたで丸めた、まま、お好み焼きの原型みたいなもの
> よって、桃山期にはいわゆる「和菓子」はまだ無かったと思います
> 時々、私も「麩焼き」とやらを作るのですが、甘味のある味噌だったと思い、黒砂糖を混ぜた味噌にしています(そんなに旨いものではないですね)
> 和菓子として登場するのは、十五世紀半ば室町期に宋人の林浄因と云う者が、唐土の肉饅頭というかー肉を小麦粉の皮で巻き油で揚げたもの、これが日本では肉は御法度故に代用にアンコを入れ作った、あんドーナツのようなものです
> 今でも、奈良の菓子屋によっては「ぶと饅頭」とか「二つ梅枝」とかいうて作られています、私も奈良土産に時々使います(これはナカナカの評判)
> 因みに、林浄因を祀る林神社が「饅頭神社」として奈良にあり(件のかえる庵さんの近所)、その子孫は今も塩瀬本家という菓子屋を東京でしているとのこと
> 尚、濃茶は歴史的に薄茶より古いので、和菓子の誕生を濃茶と繋げるのは無理があると思います
>主菓子は、あくまでも会席の締めくくり、今風に云うとデザートと考える方が素直でしょう
>菓子がない会席には、菓子切用黒文字を一本を膳に付けるのが菓子がない印になっています、参考まで

> パソコンが昨日より具合が悪く、写真貼り付けが不調
> こんなことでご容赦を・・、折角だから表ページに載せましょうかな
>
> 風翁


日本酒に菓子、私の持病・血統書付糖尿病にはスコブル効く

風翁
2014.08.18 茶箱の考察
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昨日の日曜組の稽古は、炭点前と濃茶手前、それに茶箱手前であった
この写真は今朝撮ったもの、後ろの酔芙蓉は手前のしょぼんでいるの昨朝は満開
そして昨夕には、うな垂れていた、蕾は皆小さかったが、中の一つ朱を覗かせていた
その蕾が花を開かせた

昨年の六月のブログ記事には、陣中茶箱のことを書いている
薬師寺橋本凝胤管長と裏千家淡々斎家元のお二人が考案し、海軍に五十個送ったものだ
実際に陣中で使った方々も多くは亡くなり、その手前を知っているのは千宗玄氏ぐらいであろう

さて、写真の茶箱、私が若い頃に古道具屋で安く買うたもので、千家さんか他流のものである
我が上田流にも先々代の御宗家好みの物があるのだが、当時の私には高い物であった
今からみると、さほど高い物でもないのだが、二つも要らないのでこの茶箱をそのまま使っている
そのお蔭で、当流の茶箱と私の手持ちの茶箱の使い勝手の違いが分かるので、少し触れる

上の写真でいうと、茶箱のある左側の板は茶箱の表蓋で、真ん中に取っ手がある
茶箱の手前に置いたのが引き出し状菓子入れで、茶杓と共に茶箱最上段に入る
その左下側が茶碗棚、その右は中棚になっている、この中棚には私は帛紗を置いている
下段左は建水置きで、右側が奥に茶器、手前に茶筅を載せる木細工が入るようになっている
写真の便宜上、その木細工を引き出して、横向けにして前に置いた

実際の点前でも、菓子の引き出しは抜き出して、茶杓を取り出してから客に出す
そして、茶器と茶筅は写真の様に木組を横置きにして、そのまま使うことになる、
実は茶筅の置くところには棒が立ってあり、その棒に茶筅を被せると風が吹いても倒れない
というのは、茶箱の扱いとは野外、野点を考えたものということである

上田流の茶箱では、建水を箱中に入れない、その場所には帛紗や茶杓を入れる
よって、点前は建水持ち出しの形になり、柄杓と蓋置も持ち出すことになる
私の茶箱では、柄杓はどうするかということになるので、少々悩むところ
他流では茶箱の上に置くか、立て掛けることになるのであろうと思う

建水を茶箱に入れ置いた形なら、最後に建水を茶箱に中に仕舞置くのが道理となる
よって、私の茶箱では、建水の中を捨て、汚れを清めてから仕舞い入れることになる
出て戻るのは無駄であり、清めたとは云え、汚れ物の建水と茶碗を置き合わすこと如何
こうしてみると、上田流の先代好みとしてある、当流の茶箱が理に適っていると思うところ
まま、身びいきでもなく、そう思えるのである、重ねて云う、身びいきではなくそう思う・・
2014.08.17 本呆け
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散歩途中で目にした「ど根性大根」ならぬ「ど根性白百合」、鉄砲百合であろう
アスファルトとコンクリートの隙間から、たった一輪の花を健気に咲かせている
茎と葉は小さくて痩せている、さすがに劣悪な環境なのであろう、頑張ってくれ

実は昨晩、老いの荒(すさ)みを改めて実感したのであった
薬師寺イタ飯屋「日本文化の真髄を語るエンターテインメント茶会」の後日譚ながら
茶会でご一緒したお二人と三条通りのそば屋さん「かえる庵」へ行くことになった
「かえる庵」の庵主は朋庵卒塾者、それではということで塾生二人も合流することに

私は電車に乗る時に「かえる庵」へ電話を入れると、庵主は「では、湯の用意を」と
午後の開店時間の五時に合わせての「そば湯」のことかと、私は合点していた
店に着くと、お二人の好漢は先に着いておられ、やぁやぁ~となり、さて席は見ると
囲炉裏席には炭火が入っている、更に水差しも出ているのである
さすがに卒塾者の庵主さん、体裁を備えてくれなさった、夏に炭火は少々暑いが・・
と思っていると、奥さんが私に「では、お茶を」と手を出されるのである、??

話は簡単、件のお二人が来られるなら、茶の一席もということになっていたのであった
そして、庵主手持ちの茶が切れているので、私が流儀の茶を持ってくる話になっていた
完璧なる私の失念、同行の女房殿は非難の目付きで、「忘れてはったん?また」
庵主は「折角だから、釜を掛け雰囲気だけは出しましょう」、とキツイ慰めを云いなさる
私は席に坐り、小声で「のどが渇いたので冷たいビールを」と、女房殿は未だ私を見ていた

その中に、朋庵の塾生二人も来たのでお目当ての日本酒となる
三種の日本酒とそば、それに奥さんが小イワシの煮付と焼きナス、冷奴を出してくださった
私は「茶のこと」を忘れたかのように振る舞い、皆さんと楽しくシャベクリ明かしたのである
皆さんもご一緒に楽しく会話をしてくださっていたが、時折、キツク冷ややかな視線も・・

老いの荒み、いよいよ「マダラぼけ」から「本呆け」に近づきつつある自覚と自戒をする
今朝、目にした「ど根性白百合」に、色んな思いを馳せる私であった
2014.08.15 敗戦責任
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曰く「戦犯」として、シナ兵の公開銃殺に処せられる日本兵

六十九年前の今日も、暑く蝉の音が喧しい日中であった
正午に、昭和天皇のポツダム宣言受諾のの玉音放送が流された
終戦と云う名の「敗戦」である、そして「戦争責任」とやらの摘発がされる
連合軍の一方的な、かつ事後法で「戦犯」が裁かれ、千余人の日本人が処刑された
外地の収監所では、死刑宣告を受けた日本人が拷問を受けて死ぬ者もあったと聞く

今年も天皇陛下の靖国参拝はなかった
「戦犯」が合祀されているから云々という話はあるが、陛下のお言葉は耳にしない
私は、今上天皇はともかくも、昭和天皇には靖国神社の参拝を賜わりたかった

一方的な連合軍の裁判に東南アジア各国では日本兵に同情する住民も多かった
昭和二十八年八月三日、衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
これは、自由党・改進党・左右両派日本社会党との全会一致の可決であった
「戦犯」釈放要請の署名は四千万を超えた、当時の日本の人口は約九千万人

然しながら、一つ大事なことが抜けた
それは日本人自らの手による「敗戦責任」の追及である、

戦後のこと、「醤油組」の自慢がはこびった
つまり、醤油を飲んで似非病気になり、兵役を逃れたという「自慢話」である
同様に、国民全体の金属供出運動の中にあって、我が家では上手く隠したという話
そういう人達の話・声が「自慢話」として賛美される風潮が世の中に蔓延した
家宝の刀まで供出した人達の思い、忸怩たるものがあったろうが、声にはならなかった

「敗戦責任」、何としても日本人の中で総括しておくべきものであろう
それにつけても、つくづく思うは南方諸島で戦った日本軍将兵
武器・弾薬、水・食糧が欠乏する極限の環境にありながら、日本人の民族的美質を見せた
私は英霊に対し、感謝と尊崇の念を持つ

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歌川広重の近江八景の錦絵、「堅田の落雁・かただのらくがん」、江戸後期の刊行

堅田落雁(堅田に降りる雁の群れ)
峯あまた 越えて越路に まづ近き 堅田になびき 落つる雁がね

日本各地には○○八景と云われるところが多く、それなりの観光名所になっている
近江八景の成立は、南都八景に次いで古いと云われている

さて、お盆である、シナ仏教の盂蘭盆(うらぼん)から来た風習らしい
盂蘭盆経に基づき,苦しんでいる亡者を救うための仏事で旧歴七月一五日に行われた
日本に伝わって初秋の魂(たま)祭りと習合し,祖先霊を供養する仏事となった(神仏合体?)
迎え火・送り火をたき,精霊棚(しようりようだな)に食物を供え,棚経(たなぎよう)をあげる

それが何時しか、精霊棚のお供えに、落雁菓子を供えるようになった
その形は、蓮花に野菜・果物、そして鯛というのが相場のようだ
本来は、本物の食物と正月同様に餅が供えられたらしい
しかし、生ものは傷みや腐りが来易いのと、幽界の奥までは届かないとか
餅にすると幽界の奥まで届くとされ、正月と同様に餅が供えられていた

そこで「落雁」、もち米粉に砂糖と水飴を混ぜて固める、云わば餅の一種と云える
更に、蓮花・野菜・果物に鯛の形にし、色付けすると、それだけで十分と考えた
さすれは、天国でも地獄でも幽界の奥へ、ご先祖のオワス処にへ供え物が届くハズ
なんとも人間様とは、ものごとの話を都合よくコジツケル癖があるようだ

では、「落雁」という名前の薀蓄を
唐菓子である軟落甘(なんらくかん)の「軟」がなまったことで欠落
そこに近江八景の「堅田落雁」と、唐土の「平砂の落雁」の景色をゴジツケ
軟落甘の名前から「落雁」の字を用いたという話だそうな

今一つ、本願寺の坊さんがこの菓子を後小松天皇に献上したときのこと
白色の地に黒ごまの点在する様が、雁の渡る姿を連想され「落雁」とか
まぁ、こちらの方が雅に聞こえるが、どうであろうか
2014.08.12 さざれ石
無題
さざれ石(細石)、細かい石が長い歳月を経で固まったもの
やがて、大きな巌(いわお)となり、苔が生す様になる

やっと、パソコンが正常化した
一時間余りキーボードをいじくっているが、画像貼り付けが上手く出来ない
最近どうもパソコンの調子がおかしいと云うか、クルクルマークが出て動かない
今日は大坂・和歌山を一回りする予定だが、雨が本降りとなっている

今日八月十三日は「君が代の日」、つまり日本の国歌制定記念日だ
まま、試みに、ここに世界主要国(国連常任理事国)の国歌歌詞を並べてみた

ロシア国歌
「鍛えられし わがつわもの 攻めくる敵 討ち破り 断乎と守る 尊き国わが祖国に栄あれ。栄光の民よ 自由の祖国 結ばれしその誉れ 旗のかげで 導けよ勝利の為 進めよや」

中華人民共和国国歌
「立て、奴隷となるな、血と肉もて、築かんよき国。立て!立て!立て!心あわせ、敵にあたらん、進め、敵にあたらん。進め、進め、進めよや」

フランス国歌
「ゆけ祖国の国民 時こそ至れり正義のわれらに。旗はひるがえる 旗はひるがえる 聞かずや野に山に 敵の呼ぶを悪魔の如く 敵は血に飢えたり。立て国民 いざ矛とれ 進め進め仇なす敵を葬らん」

イギリス国歌
「おお神よ 我らが神よ 敵をけ散らし降伏させ給え 悪らつな政策と奸計を破らせ給え 神こそ我らが望み 国民を守らせ給え」

アメリカ国歌
「おお激戦の後に 暁の光に照らし出された星条旗が見えるか 夜どおし砲弾が飛びかった後に、われらの星条旗が翻っている。自由な祖国、勇敢な家庭 星条旗をふれ 星条旗をふれ 戦闘がやんで微風が吹く中に 濃い朝霧の中 見え隠れしているものは何か これこそわれらが星条旗 神よ!星条旗をふり続け給え 自由の祖国勇敢な家庭の上に」

日本国歌
「君が代は 千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて、苔のむすまで」。

君が代の原典は、約千年前に編集された「古今和歌集」巻第七、賀歌の部の第343番
読み人知らずの歌、だとか
「我が君は、千世にやちよに、さざれいしの いはほとなりて、こけのむすまで」

明治になり日本古来の雅楽の旋律を取り入れて現在の曲としたもの
ドイツで世界の国歌の評価判定会があった時に、君が代はその第一の秀歌に選定された

それにしても、世界の主要国の国歌歌詞
人類の歴史の是非観を如実に物語っている
先の大戦での米兵の愛言葉、「死んだ日本兵はいい奴だ」
つまり「生きている日本兵はみな殺せ」という彼等の思考、ように分かる
日本列島の歴史と文化、世界の人類史から見て真に稀有なものと思う
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薬師寺の守神・休ヶ岡八幡宮の萩、一輪花を付け立秋を知らせてくれていた
昨日行った薬師寺イタ飯屋「AMRIT]の横に鎮座されておわす

中に御坐すは、僧形八幡神[そうぎょうはちまんしん]、つまり応神天皇が中心蔡神
向かって右に母君神功皇后[じんぐうこうごう・オキナガタラㇱヒメ]が坐す
皇后は夫の仲哀天皇を見捨て朝鮮へ渡った御婦人、戻っては先妻の子を攻め殺す女傑
左に奥方仲津姫命[なかつひめのみこと]、この三神が一具の像として安置、国宝である
応神天皇と中津姫は半跏坐、神功皇后は立膝坐り、つまりキーセン坐りである
この神功皇后像の写真は中学や高校の教科書にも載せられている有名な木像
残念乍ら、この日台風の所為が戸は閉じられていたので拝観は出来なかった

近くにいたイタ飯屋の支配人とおぼしき御仁に、この三神像のことで話をすると
彼は、「そんなこと知りません」とオヌカシアソバス、(アンタの店は薬師寺の店やろに)
つい私は、「アンタ、学校へ行ってはったん?店の隣にある国宝やで」と嫌味を云う
まま、店名のアルファベットの読みの遣り取りから続く腹の虫の蠢き(うごめき)だ、
それが私のベージュの麻布服に対する赤ワインの洗礼になろうとは・・
オキナガタラシヒメからの恩賜の赤ワインタラㇱと思えば幾分因縁になる話(--)

昨日、その麻地服を洗濯屋に持って行くと、「赤ワインの汚れは特殊シミ取り」とか
「それにこれから工場は盆休み入りますので、仕上がりは二十日以後になります」
私、「あっそう、ご随意しておくれなはれ、また着るのは来年になるようやさかい」

台風一過、明け方は涼しいと云うより、寒いくらいであった
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イタリア国旗とカキ氷の旗が翻る薬師寺のイタリアン・レストランの入口

昨日は大雨の中、タクシーで薬師寺へ向かった
運転手はんが「何と云うお店でっか」と聞くが、案内状にあるアルファベットが読めない
「AMRIT」とあるが、アムリットというのかな、イタリア語なのかな云々と会話する
「まあ、何でも薬師寺直営の和食屋がイタ飯屋になったいう話やけどな」と云うと
運転手はん「もしかしたら、寺の南の駐車場の横の店ちがうやろか」
私「まあ、ともかくそこへ行ってみて、寺の敷地にあるイタ飯屋はそないないやろに」
「AMRIT」と書かれた寺院風の建物があり、入口には写真の二つの旗が翻っていた

店の中に入ると受付の女性がいきなり「井谷さんですか」と問い掛ける
「井谷やけど、ちょっと教えて、この字なんて読むの?」と私、女性「アムリットです」
そこへ現れた支配人らしき御仁「サンスクリット語で不老長寿という意味です」と云う
「サンスクリット語なら、アルファベットでなく、梵字で書いて日本語読みを入れたらええ」
と私、そして「イタリヤ語でも英語・フランス語でもないのに、読みが分らへん」
すると支配人「普通に読めばアムリットでしょう」、私「・・・あっそう、ワシはよう読まん」
受付の女性、アカラサマに嫌な表情を私に見せた、確実に嫌われたらしい

日本文化の真髄に迫る『知的エンターテインメント』、という触れ込みの講演が一時間半
続いて立礼席、というても、テーブル席そのままでの薄茶席となった
くじ引きで正客を決めると云うので引くと五番席とあった、客は八名
席に置かれた皿には紙に包んだ飴玉二個と干しナツメ、それにゼリー風の黄色い羊羹
別段正客との挨拶も無く、やおら電気ポットの湯で茶が点てられ、アレコレと話が続く

まず正客へと一服目が出され、二服目を次客に出そうと正客の前に亭主の手が伸びる
さすがに正客、「私がお渡ししましょう」と亭主が出した茶碗を次客に取り次ぐ
後はその正客、八人の客皆に亭主が点てた茶のお運び役をした、つまり半東役を努めた
亭主は喋り続けている、私の茶を点てる番になった時、私は挙手し注文を付けた
「申し訳おまへんが、私の番の茶やったら、茶碗の上で喋らんと点てておくんなはれ」
席は静かな雰囲気になり、心なしか頷く人もいたよう見えた、私は無言で茶を喫した
講演者亭主が曰く「私は蚊みたいなもの、キンチョウに弱い」、ワロタ

イタリア料理のディナーはそれなりに旨かった
食前酒で乾杯の後、「お飲み物は如何致しましょう」と聞かれたので赤ワインを頼む
グラスに注いでくれた後、私の膝にまで注いでくれ、ベージュの麻地ズボンが赤染めに
膝掛ナプキンの掛かってない部分を上手く狙ったかのように注ぐ・・(コ奴、確信犯か)
そのボーイはん、慌ててお絞りを持って私のズボンを拭きに来た
私は御大人風に「まま、エエがなエエがな、気にせんとき」・・(実は洗濯上がりの物)

店を出る時、件の支店長らしき御仁、千円札の現ナマ二枚を出し、私に手渡そうとした
「これでクリーニング代に」、これには私は💢「もうエエ」、そのままタクシーに乗り込んだ
日本文化の真髄に迫る『知的エンターテインメント』??、せめて袋に包まんかい!
と云い掛けたが、そこは御大人、「オンドラ」と心でつぶやく
2014.08.09 かち合い弾
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旅順攻防戦の薬莢(やっきょう)、私は火箸の柄頭として使っている

昨夜から雨が降り続いている
昨日は心地よい風が吹く抜け、窓を開けていると涼しいぐらいであった
今朝の雨は、ただただ降り続くというもので、雨音がひたすら続いているだけ
何故かふと、田原坂の戦いのことが頭に浮かんだ

雨は降る降る 人馬は濡れる
  越すに越されぬ田原坂
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
  馬上ゆたかな美少年
山に屍(しかばね)川に血流る
  肥薩の天地秋さびし
草をしとねに夢いずこ
  明けの御空(みそら)に日の御旗(みはた)
泣くな我が妻 いさめよ男子等(おのこら)
  戦地に立つは 今なるぞ

この歌、今も熊本国府高校の校歌として卒業式に歌われていると聞く
田原坂の戦いは「かち合い弾」でも知られるところである
参百メートルの戦線で両軍は一日三十二万発の弾を一七日に亘り撃ち合った

狭い場所で一秒に三発の弾が交差する銃撃戦となり、ぶつかり衝突する弾が続出
それが「かち合い弾」といわれるもの、世界戦史上でも稀な戦いとして知られる
日露戦争の激戦で知られる「旅順攻防戦」でさえ、一日の弾丸使用量は約二十万発
しかも、旅順は田原坂に比して広大な地である、弾同士がぶつかり合うことは稀有

熊本国府高校、この校歌を守り続け、歌い続けてもらいたい

薩摩兵の多くは、今の高校生ぐらいの年恰好だったのだ
思うと私は徒に歳を喰ったようだ、窓の外の雨音はまだ静まりそうもない
これから、薬師寺のイタリアン茶会に出掛けるのだが・・
2014.08.08 胡麻
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近所の畑の胡麻(ごま)の花、可憐さがある、昨年も写して載せた、
だが、ゴマの蠅・ゴマかす・ゴマすり・開けゴマ・臍のゴマ・ゴマと百姓は絞れば出る
どうも、余り明るく楽しい言葉に使われていないのは何故だろうか

最近のテレビコマーシャルは「健康食品・いわゆる「サブリメント」たらが大賑わいである
「胡麻」と云わずに「セサミン」と云えば、どこかカッコ良く、健康剤に聞こえるのであろう

畑の人たちは、ゴマの種を植え、育てて、身を収穫し、その胡麻油を絞り、使う
ゴマ油ひとつに、半年以上の時間をかけることになる、その絞りかすをまた畑に蒔く
ゴマ油を求めてスーパーへ行き、必要分買い求めて帰ってくる所要時間は半時間
車で行くので半時間と思えるが、昔の店は徒歩範囲にあったし、山里には行商が来た

文明の力、科学の進歩の真髄とは、突き詰めると時間と空間を縮めたことだと思う
ではその恩恵で、人々の生活が或いは人生そのものの充実が図られたのであろうか
思うに、やることが増え、行く所が増え、時間に追われ、余裕が失われただけのようだ
ただただ、急かされるように時間と空間を走り回って、右往左往しているだけようだ
人生五十年が八十年になっても、人生は充実はせずに、右往左往がヒートアップしただけに思う

ゆったりと時間・空間を我が五感で味わい、先達の伝えたことを確かめたいものである
それには、先達と変わらぬ時空の動きに入り、同じ呼吸がすることが大事と思う昨今
象の時間もネズミの時間も、蝉や蚊の時間も宇宙神から授かった人生(?)の時間であろう
ゴマ油の天ぷらは少々高くつくが旨い、メリケン粉を黒糖を混ぜ練り、揚げてみよう、ゴマ菓子だ
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先の朝茶事稽古で、亭主役の塾生が灰押しした鉄風炉
前土器(かわらげ)は手前に赤の大土器と向うに白の中土器の二枚立てだ

土器・かわらげは御神酒の素焼の酒盃が原型であり、かわらげを「瓦げ」とも書く
土風炉や唐銅風炉は白、鉄風炉は赤の土器を使う、確かに似合いである
通常は小型の土器を使い、暑い時は大型のものを使う、涼しくなると低く埋め込む
盛夏には大小二枚の土器を並列もしくは段違いに入れるが、流儀で違いがあるようだ
私には、土器・かわらげを手にする度に想い出の場面が浮かんでくる

奈良の中学校の恒例行事に、男子の大峰山登山と女子の洞川漫歩というのがあった
大峰山は吉野の女人禁制の霊山で、洞川はその麓の清流渓谷の温泉地である
大峰山では断崖絶壁から修験道者に下へ吊るされ、「親に孝行するかと」聞かれる
眼下は山林が霞むように見えるだけであり、突き出されるとギョッと冷や汗が出る

「はい、します」と云うと、「先生の云うことをよく聞くか」と問われ「聞きます!」と叫ぶ
肩と胴を括ったロープが外されても、まだ足がすくみ震えていたものである
中には小便をちびった奴もいた、名は明かさぬが・・

その後には断崖絶壁からの土器・かわらげ投げを楽しむのである、それがまた絶景かな
遥か絶壁下へ吸い込まれて行く土器に、こちらまで吸い込まれそうになり、寒気がした
最近の奈良の中学校では、この大峰登山の行事を取り止めにするようになったと聞く
曰く「男女差別の権現に参るとは何事か」という「良識派・進歩的人権団体」の御意向とか

昔の寺社には女人禁制が多く、高野山もそうで、代りに女人高野の室生寺が宇陀にあった
今もって女人禁制を守っているのは大峰山と大相撲の土俵ぐらいであろうと思う
以前に、大阪府の女性知事であった太田はんが土俵に上がると云い出し、物議を醸した

大峰山では、地元住民が「結界門」で女性の入山者を止めているが、世の騒ぎ屋女たち
「人権団体」「障害者団体」たらの看板をあげる女集団が「結界門」を超え、禁を破ったと聞く
曰く「世に問題提議をしたかった」、確かにその女集団、「別の問題提議」をしたようである
「世に大衆指導家ほど、大衆を馬鹿にし愚弄する者はいない」と云うが、ホンマにそう思う

云ったように、私は土器・かわらげを見ると大峰登山を思い出す
奈良の教育関係者は文化と伝統をどう教えると云うのであろうか
因みに「結界」のこと、茶の湯でも使い、青竹とシュロ縄で作る
仏教にも神道にもあり、聖と俗或いは魔界との境で、和語は「端境・はざかい」
「魔界」の有象無象たちを相手にするのは御免被りたいもの
2014.08.06 息遣い・呼吸
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「生」の象形文字は、新芽が出る形を象ったものだそうな

一昨日の「新芽」の記事で、「芽吹き」か「息吹き」か逡巡し、寝てしまったことを書いた
「息吹く」として良かったようだ、「生」は「いく・息く」で「息の内」が「いのち」とか
「命」という漢字は、「口と令」であって「いく・息く」ことを神からの「令」を受けた意とか
そうすると「生命」とは単に自分でどうこう出来るのものでなく神の付与とも云える
「生きる」ではなく「生かされている」と云うと、どうも宗教臭い話になり易いようだ
こんな話をするのは、理研の笹井氏が自殺したニュースが出ていることに由る

有名な英国の科学雑誌「ネイチャー」では、、「笹井氏は多くの先駆的な成果を出した、たぐいまれなる科学者で、世界の科学界にとっては計り知れない損失だ」、と報じたという
確かに、笹井氏はips細胞の山中教授をライバル視していた節や顕示欲の強さ
そして何より、小保方女史の論文への不正疑惑等があったのは事実のようだ
しかし何より自殺、自ら命を絶つのは、神の令からして神への冒涜かも知れない
素晴しいものを持った御仁ということなので、残念に思うところである

閑話休題、「息」のこと、すなわち「呼吸」である
茶をしていて、この「呼吸」ということが大事と、つくづく認識するところである
「語先後礼」も然りで、言葉を申し述べてからお辞儀・礼をすること
しゃべりながらの辞儀は腰が折れるし、語尾が崩れることになり易い
「息」を吸いながら頭と腰を曲げずに折る、そして「息」を吐きながら戻す

点前の所作もそうである、息遣い・呼吸に合わせて動きを作ることが肝要
息を吸いながら手が出て、吐きながら手が戻る、そして手は腰と共に動く
息を吸い切り、止める、そして息を吐く。、その止めの入れ方が「呼吸の間・ま」
出る、坐す、立つ、歩く、目を入れる、目を外す、語る、辞儀をする、去る
全て「息遣い」、呼吸であると思う今日この頃、とにかく暑い
心頭滅却とばかり、都度水風呂に浸かる私である

「人生」にも、息遣い「呼吸」が大事と、最近つと思い知らされることもあり・・
2014.08.05 生き物の死
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萩(はぎ)と野萱草(のかんぞう)
朝茶事稽古の前日夕方に亭主役の塾生が秋篠川畔で摘んだもの
稽古当日は野萱草の花が萎れていたので、仕方なくつぼみ部分を厠に挿した
それが夕べ咲いていたので萩を入れた宗全籠に挿し替えた
なるほどに「夕菅・ゆうすげ」と納得

日中の暑さは厳しいが、萩が秋の訪れが近いことを告げる
野萱草は別名「夕菅・ゆうすげ、黄菅・きすげ」、万葉では「忘れ草・わすれぐさ」
「笹ユリ」と同じく日本列島原産のユリ科の植物である

昨日のこと、東京に住む女性茶人から電話をもらった
その女性茶人、鳥取県の出で季節になる鳥取のスイカやカニを送ってくれる
この前にもスイカをもらったばかりで、その礼状を出したところである
礼状の礼とはご丁寧にと思いつつ電話の話を聞くと違っていた、涙声である

彼女は私より少し年上で若くはない、骨の具合が悪くなりに二か月ほど入院していた
数日前に退院したのだが、飼っていた十六歳になる愛犬が衰弱していたという
そして一昨日、彼女の腕の中で息絶えたということを泣きながら話してくれた
彼女は私の「朋庵」へ二度ほど知人と来駕、私の茶を楽しんでもらったことがある
私の愛犬「ハナ」のことをよく覚えていてくれて、それで私に電話をしたとの由

彼女の愛犬は、彼女が入院して以来、物を食べなくなり体重は半分になっていたと云う
一人住まいの彼女の家に、知人やお弟子さんたちが犬の世話をしてくれていたらしい
何も食べず水分を飲むだけなので、水っぽい流動食を与えたら少し舐めたという話だそうな
彼女が心配するといけないというので、そのことを彼女は知らせていなかったという

彼女が家に戻った時には、愛犬は嬉しそうな表情ではあったが、もう起きて歩けなかったらしい
愛犬の目から「何処へ行っていたの、何で置いて行ったの」という思いが伝わって来たとか
それから三日間を添い寝をして、やがて愛犬は彼女の腕の中で息絶えたということだった
愛犬は日本犬の雑種だったというので、私が日本犬にはそういう話を聞くと伝えるとまた泣く

私の体験談を彼女に話す、十九歳の飼い猫が死ぬ時、私の膝で四・五日寝ていて、その最期
もう動けないはずの猫が起き上がり、外に出ていこうとしたので私は戸を開けてやった
覚束ない足取りで、家の裏山に行こうとして歩き出し、そして茂みに入って行くその時
猫は此方を振り返り、私を見た、そしてまた歩き出しそのまま茂みの中に消えて行った
その話を彼女にすると、嗚咽が強くなり声にならずにいた、私も電話を切らずのいた

昨日、その日の夕方は新塾生達の盆点前稽古であった
六尺ふんどしが又一人増えた、まことに「マタ・マタ」である
稽古を始めると、其々各自に得意下手が出て来た様子であった



2014.08.03 新芽
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挿し木した山アジサイの新芽が息づいた

昨夜、朝茶事で使った酒「風の森」と「米百俵」の残りと茶粥を胃に掻き込んだ
お采は塾生の皆さん持ち寄りの梅干・野菜煮物・小鯛酢〆である
何せ、早朝から何も食べずに朝茶事の稽古、七時半開始で十一時終了予定であった
それが準備に手間取り、八時開始となり稽古終了は二時半と相成った次第・・
片付けは皆で一斉にやったので、半時間ぐらいで済んだ

亭主役の塾生が持って来た酒「米百俵」を冷蔵庫に入れておいたのだか
会席が始まり酒を出す時に、私が飲んでいた酒「風の森」と取り間違えた
客役の塾生が「このお酒は?」問い掛けたのでラベルを確認すると「風の森」
この「風の森」は客役の塾生が中元として私に呉れたもので、半分飲んでいたもの
女房殿が開いている方から出したということ、急いで「米百俵」と取り換えた
酒を尋ねた塾生、日本酒の薀蓄家を自称しているが、さすがにナカナカの舌感

皆を送り出し、朝飯も昼飯も食べずにいた私は、残り物の酒と茶粥とお采を抱え込んだ
一息ついてパソコンに向かい、今日の稽古風景を書こうとしたのが、最初の一行で沈没
「芽吹き」と「息吹き」、どちらが言葉として適切かと逡巡していたら、そのまま眠り込んだ
「挿し木に新しい芽吹き」、「挿し木に新芽の息吹き」、起きて尚迷う・・
まま、ハナの散歩に行くか
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茶事の亭主役の塾生が青竹で箸を作るところ

当流の茶事で使う箸は四種類
青竹の中節の箸と節止めの箸の二種と菓子用それに客用の箸である
中節の箸は料理の取り回しに使い、節止めは最後の料理(香の物)に使う
菓子の取り回しには黒文字の七寸箸、菓子切りのを出す時は黒文字の四寸
そして折敷盆に付ける客用には片細の柳箸、因みに千家さんは両細の箸

茶事の献立は一汁二采と香の物とするのが原則で、多くて三菜までとする
つまり、飯と汁におかずが二種、多くても三種まで、他に酒と菓子である
二采とは向う付となる魚の〆もの類と煮物である、焼物が付くと三菜となる
ただ、盃事に出す取り肴、他流でいう八寸の品は飯の采に数えないことにする

料理を食べ終える頃、湯と香の物が出るので使った椀と皿をそれで拭う
湯は、常には飯を炊いた釜の縁に付いた焦げ飯を炊きこんだ粥を出す
香の物は漬物であるが、大根の沢庵漬けが器を拭い易いので定番である

朝茶事は、時間のかからない料理とし、夏の朝の涼しい中に終えるようにする
本日の朝茶事稽古の料理は、冷やし茶粥とアオサ汁に向う付と煮物である
その向う付と煮物は客役となる塾生方の持ち寄りなので、何か未だ分らない
酒と取り肴は亭主の用意とするので、亭主役の塾生が昨日に持ち込んでいる
酒は「米百俵」で既に冷蔵庫に冷やしてある、取り肴はアジみりんと泉州ナスだ
菓子は、資産家の友人から中元に頂いた京割烹の和菓子(上物?)を私が供出

六時過ぎには亭主役の塾生がやって来て、炭熾しと手水洗い、スダレ掛けをする
客役の塾生方が夫婦連れでやって来るのは七時半としている
私は三時頃に目覚め、このブログを書き込んでいるが、愛犬ハナはまだ寝ている
私もまだ眠たい・・
2014.08.02 鼻緒修繕
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鼻緒を修繕した露地草履、本来竹皮であるが、ここはまま、豆手拭い

明日三日は朝茶事稽古、亭主役の塾生が今日の昼から準備に入る
表道具や水屋道具、それに茶事道具の確認から始まることになる
昨日、露地草履を確認すると経年の痛みが進み鼻緒が切れていた
以前から気になっていたので、履物屋や道具屋に修繕を頼みに行ったもの
履物屋も道具屋も、自分のとこでは鼻緒の修繕は出来ないと断られていた
それに、「修繕するのも新品を買うのも値段的にも変わりまへんで」と云う

何のことはない、仕入販売するだけの店ゆえに、修繕技術が無いだけのこと
「履物屋という職人稼業の店も、今では仕入販売のただの小売屋か」と私が云う
すると店の主人、「そんなこと云わはっても、今では問屋にも職人は居てまへん」
続けて曰く、「下駄・草履の修理が出来る専門の履物屋はもう奈良におまへんで」
つまり、草履なんぞ痛んだら修繕するより新品に替えるものだというニュアンスだ
今の家電量販店と同じ論法、「壊れたら修理するより新品を買う方がお得」と同様

私の臍が曲がり出した
昔の電気屋さん、時計屋さん、金物屋さんは皆修繕をしてくれたものだ
そして、「大事に使うたってや」と、修繕した物を愛しむ渡してくれた・・
「ほんならエエわ、鼻緒ぐらい自分で何とかするわ」と持ち帰っていたのだ
その鼻緒がとうとう切れたので、昨日は草履二足分の鼻緒を豆手拭いで修繕

久しぶりの鼻緒修理、高校時代の下駄以来やなと、何か嬉しくなった
ところで修理と修繕、何が違うのやろかと思いつつ・・・、横でメダカが跳ねた
よし、この豆手拭い鼻緒の二足、亭主と正客用としよう、それが侘び茶じゃ

考えてみると、足袋の新しきが良し云々という利休の教義、草履もそうと思う次第
然し、利休の頃に足袋は無かった、素足だったということだが・・