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秋篠川の近くに茂る駒繋ぎ(コマツナギ)、マメ科、実際の花は写真よりもっと朱色である
駒繋ぎの名の由来は二つあり、この草の根茎が抜き難いので駒を繋いだという説
もう一つは、この草は馬の好物なので駒の足が停まるからという説、まま、コマった
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無題
ベニス(ヴェネツィア)の風景、ゴンドラとサン・マルコ寺院

五月一七日(月)

朝食のバイキングに日本人男女の団体が群がり、がさついている。ウエイトレスは困惑顔で適当にあしらっていた。私達は少し離れた席につく。昨夜見かけた添乗員らしき女性が私達の横に相席をした。聞くと、関西から来た二〇人程の団体だと言う。物怖じしない人々ということであろう。

カウンターへ行き、ムラーノ島に行きたい旨を伝えると、一人一〇〇〇〇リラで手配をすると言う。五分も経たずに迎えのガイドが来た。向かいの船着き場から水上タクシーに乗り、ムラーノ島に向かう。ベニスの大運河を快速に走って行く。バポレットという乗合船や荷船が行き交っていたが、まだ早いためか、ゴンドラは岸辺に繋がれているを見かけただけであった。途中で大運河を左に折れ、狭い水路に入り、暫らくすると海に出た。沖に島影というより、洋上の町影が望めた。ムラーノ島である。船はスピードを上げる。右手に水上の建物が近づき、やがて遠ざかった頃、ムラーノ島に着く。灯台が立つFAROの船着き場である。所用時間二〇分程であった。

船を降りた所が、ガラス工芸店の裏口であった、話は付いているようだ。人が出て来て中を案内する。店内は結構広く、数多くのベニチアグラスの工芸品が並べられていた。大きな男がいて、片言の日本語混じりで説明する。工房を見せると言って、隣へ連れて行く。マエストロと呼ばれるガラス職人が、棒の先にガラスの塊を附け、炉の中に入れたり出したりしながら、形容を整えている。棒の口元から息を吹き入れて膨らませたり、鉄鋏の様な物で伸ばしたり、切ったりしている。みち子さんは興味深げに見ていた。ふと、子供の頃によく見かけた鍛冶屋の風景が頭に浮かび、懐かしい想いがした。


特別展示室が二階にあるというのでそこへ行く。ジャンル毎に三部屋に別れて展示されていた。下の階は一般の土産品であり、ここは美術工芸品のコーナーだと言う。結構高いものがあった。ひとくさりの説明を受ける。曰く、ベニチア・グラスのデザインは一七世紀頃の伝統的な形を踏襲している。ルビーを使用した赤色が高級とされたが、今は他の色とも左程の変わりはない。金箔の焼き付け具合と花柄の絵付けの良し悪しで値段が付けられる。絵付け職人に格付けがある。等であった。他の店も回ってみると言うと、彼は、他の店はボヘミヤや台湾製のイミテーションが多いが、ここはベニチア・オリジナルだけだと強調する。また戻ってくることを約束し、店を出る。

店を出た右手は船着き場である。左手に行くと、広場の様な通りがあり、水路に突き当たっている。橋が三本架かっていた。水路に面した通りに店が並んでいるので、橋を渡る。殆どの店がガラス工芸店であった。ぶらぶらと歩き、店内を覗いて行く。店には少しづつ特徴があり、土産物屋然とした店から、伝統調、モダン調、個展風の店といった観であった。

ある店に入ると、中から日本人青年が出て来て、ここは私が経営している店だと言い、工房に案内してくれる。五人が作業していたが、三人は若い日本人男女で、馴れていない様子であった。彼等は見習いだと聞く。特別展示室があると言うので付いて行く。入口にはロープが引いてあった。何軒かの店でこの手の特別展示室を見た。青年は地元との商売は当てにしておらず、日本との取引きが多いと嘯き、日本の有名人の名を親しげに口にする。彼の作品というガラスの茶器なるものを見せられた。幼拙で話す気もしなかった。裏千家の某がローマの茶会に使ったと言う。本当なら顔が見たいと思った。ともあれ、長く時間を過ごしたので、この店で事務所の加藤さんと百合への土産にベニチア・グラスのペンダントを買う。

通りに出ると、すぐ横がCOLONNAの船着き場で塔が建っていた。近くの橋を渡り、戻りかける。岸辺にテーブルが数卓出ていて、三組の客が食事をしていた。TRATTORIAと書かれたその店は、昼時でもあり、人が出入りしていた。私達もテーブルにつく。メニューをもらい、周りのテーブルの上を見ながら思案していると、最初の店にいた大男が誰かとこちらに歩いてきた。私達に気付き、ここは良い店だ、これから友達と食事をすると言う。何がお勧めかと訊くと、「サカナテンプラ」と答える。他に、みち子さんはサラダとシーフード・スパゲッティ、小生は白ワインを頼む。みち子さんはイタリアでスパゲッティを食べ続けている。隣のドイツ人カップルが席を立つ際に、ウエイターから皿を一枚プレゼントされた。鶏の絵にAIVETRAIと記された店のマークが入ったものである。料理はなかなか旨かった。八万リラである。私達には皿のプレゼントがなかった。

大男と最初の店へ行き、戻ると約束していただろうと言うと、肯いて、店員にコーヒーを用意させる。他の店を回って見て、色々と良く解かった、日本人の経営する店があったので、ペンダントだけは買ったと話すと、それを見せろと言う。ペンダントを手に眺め透かして、これは大丈夫、オリジナルだと品定めをしてくれる。そして、あの店は日本人の経営ではなく、その日本人青年と店のオーナーの娘がくっ付いたのだと島の内輪話をしてくれる。

商談を再開して、一輪ざしの価格を指し値すると、すんなり受け入れた。表示価格の半値以下である。どの店より安くなったので、金箔のもの五個と無地のもの四個を買う。大男は船着き場まで送ってくれる。彼は一九二センチ一〇五㎏の体格を持ち、スモウ・レスラーに興味があると言う。憎めない四五歳の男だった。店の名はCivamと書かれていた。一人六〇〇〇リラのチケットを買って、乗合船バポレットに乗り込み、サンマルコへ向かう。

バポレットの中は満席になった。老夫婦が離れた席になったので、周りの人達が席を替わろうと喋り出す。話しの輪が広がり賑やかになる。イタリアでは、見知らぬ同士が喋り合う光景をよく目にする。小生はみち子さんの写真を撮るため前に回る。男性が前の席の横に立っていた。写そうとすると、その男性がポーズをつくる。退いてくれるように言って、みち子さんを写す。前席の女性には意味が分かり、大笑いをして、男性に注意をする。男性は照れくさそうに立っていた。女性は後ろ向きになり、私達に話しかけてくる。余程おかしかったのか、男性を指差しながらまだ笑っていた。スペインから来たという楽しいカップルであった。三ヶ所の船着き場を経て、サンマルコに着く。桟橋でその女性と写真を撮る。

囚人が牢獄に送られる時に渡ったという、ため息の橋が架かる水路を横切ると、すぐサンマルコ広場に出た。右手に豪壮なサンマルコ寺院が建ち、立派な回廊に囲まれた大広場に無数の鳩がいた。回廊には一流どころの店が並んでいた。みち子さんが疲れたのでホテルに帰りたいと言う。広場から島内へ続く路地の様な商店街を曲がりくねりながら、リアトル橋に向かう。大運河に架かるこのリアトル橋がベニス建築の始まりだという。橋の両岸付近はレストランや市場があって賑っていた。バポレットに乗り、大運河を通ってサンタルチア駅まで戻る。

ホテルで一息入れてから食事に出る。ホテルの前通りを歩くと、ケースに魚介類を並べたレストランがあったので入る、魚のグリルとサラダ、及び白ワインを頼む。日本語のメニューに値段が書いていないので文句を言うと、ウェイターは恐縮していた。歌声に振り向くと、娘連れの夫婦がいて、旦那が歌っていた。親指を上にしてサインを送ると、日本人だろう、一緒に飲もう、おごると言う。ロシア人であった。私達は食事を済ましていたので、断ってホテルに戻る。
2014.09.29 月下美人咲く
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我が家向いのお宅の庭に咲いた「月下美人」、メキシコ原産のサボテン科

昨夜のこと、アジア大会のテレビ放映を観ていた八時過ぎの頃である
チャイムが鳴り女房殿が玄関に出ると、近所の奥様方が集まっておられた
「月下美人の花が咲いたので、皆で見ている」というお誘いであった
それは、と私も携帯を片手にお向いの庭まで行き、その花を見せてもらう

私が携帯の写真に収めようとすると、奥様方が懐中電灯で照らしてくださった
ナカナカ幻想的に「月下美人の花」を写すことが出来た
以前のブログで「月下美人」という呼び名が昭和天皇によるものという話を記事にした
その時はネットからの写真を使ったが、今回は自分で写したものである(^^)

月下美人は、夕方に蕾であったものが夜にはじけるように咲き、朝には萎れていると聞く
ほんの数時間の花の命であり、花言葉は「はかない恋」、だとか何とか・・
一説に、野生の「月下美人」の受粉はコウモリがするので、花が咲くのは「新月」の夜辺りだいう
新月は二十四日だったので、二十八日は遠からじとも云える、それに昨夜は曇り空であった
この説、信じておこう、「幻想的な月下美人」のお相手には、「コウモリ」がお似合いのようだ

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フィレンツェを流れるアルノ川に架かるヴェッキオ橋、

五月一六日(日)

八時頃、部屋に朝食が運ばれて来た。コンチネンタル・スタイルであった。九時一五分にフィレンツェの中央駅へ着き、列車から降りる。約三時間の小観光が組まれている。乗客は言語別に三組のグループに分かれ、私達は英語組に入る。二〇人足らずのグループで、例のイギリス人夫婦も一緒であった。メインガイドは年配の婦人で、伊、仏、独、英、スペイン語に通じていて、見事に使い分けていた。サブガイドの若い女性が、グループの動きを気遣いながら、メインガイドをサポートしていた。親切で気立ての良い娘であった。傘を手に雨上がりの街へ出て行く。

フィレンツェの路も石畳であった。石の一つ一つがローマのものより大きくて、歩き易い。何かの記念日であったらしく、色々な旗を持った行列が賑やかに通っていた。露店が並ぶ通りを過ぎ、サンロレンツォ教会を見てから、ドウォモ広場に出る。ゴシック様式の大聖堂、サンタクローツェ教会、ジョットの鐘楼、礼拝堂等を巡る。幾何学模様の特徴的な外観であった。ヴェッキオ宮殿の前にあるシニョリーア広場まで行き、皆と一息入れる。私達はエスプレッソを飲む。みち子さんは苦いと言う。皆との会話が始まると、口々に昨夜の着物姿のことを話題にした。結構、印象的ではあったらしい。

次にアルノ川に架かるヴェッキオ橋へ行く。この二階立ての橋は、かつてはメディチ家のものであり、宮殿をつなぐ回廊が通っていたと言う。アルノ川を後にして街中に戻り、メディチ家の家族専用の礼拝堂であったという所に寄る。小さく簡素なもので、中に二間四方位の祠の様なものがあった。近くの辻路で、家の壁に施されたマリア像のレリーフを見つけた。お地蔵さんの感覚だなと思う。少し行くと、広い庭園に囲まれたサンタマリア・ノヴェッラ教会に出た。その向い側が中央駅であった。列車に戻る。

ルネサンスで名高いフィレンツェの町は、案外と小さな町であった。
一二時三〇分に列車が再び動き出す。昼食時刻に食堂車に行くと、昨夜とは違い、皆カジュアルな服装でくつろいでいた。私達の隣の席に二組のカップルがいて、写真を撮り合っていたので、私達もお願いする。その女性達が昨夜のみち子さんの着物姿を見たと話しかけてきて、ビューティフル、エレガンス、写真を撮っておきたかったなどと言ってくれる。悪い気はしない。部屋に戻り、和歌山の村上氏にオリエント急行の絵葉書を書く。列車の揺れが気に障る。みち子さんは娘の百合宛に書いていた。車窓に海が映り始めた。

一六時五〇分にベニスのサンタルチア駅へ着き、列車を降りる。乗客はホームの一隅に集まり、預けた荷物が出るのを待っている。二〇分位かかると言うので、手持ちの荷物を先にホテルに運ぶことにした。ホテルは駅のすぐ横に手配をしていた。みち子さんに駅で荷物を待つように言って、駅前の広場を急ぎ足で通り、ホテルに着くと、みち子さんが後に来ていた。人込みの中を懸命に付いて来たと言う。小生は駅に引き戻す。

駅のホームではトレイン・マネージャーが夫々の荷物の確認と受け渡しを行っていた。荷物を受け取り、顔見知りになった人達と挨拶を交わし握手をして別れる。オリエント急行の二日間は、まずまずの旅と言えた。因みに、一人一〇万五千円とはディナー付きホテルに一等特急運賃、そしてプラス想い出料であろう。

サンタルチア駅は「旅情」の場面である。階段下の駅前広場が船着き場に面しており、人々が行き交っていた。私達の泊るベリーニ・ホテルは広場の入口付近にあり、島内に渡る太鼓橋が架かっていた。当初は島内のホテルを予定していたが、翌々日の出立がサンタルチア駅発朝八時〇二分の列車になっているため、駅に近いこのホテルに変更したのであった。便利ではあるが高級感はない。部屋は二二二号室であった。裏側の、何となく薄汚い感じの部屋である。壊れかかったドアが開けにくくて困った。

食事に出るため、カウンターでレストランを訊くと地図に書いてくれた。太鼓橋を渡り島内に行く。島内の路は総じて狭く、入り組んでいる。地図に書かれたレストランを見つけたが、客がいなくて、割高の感じがしたので、入らずにしばらく歩く。路角で店を見つける。店外のテーブルや店内にも客が入っていた。地元の人が多い様であった。窓を覗くと若いカップルが旨そうな野菜サラダを食べていた。みち子さんに訊くと、ここで良いと言うので中に入り、そのカップルの隣に坐る。

カップルに英語が分かるかと尋ねると、アメリカ人だと答える。私達に旨いお勧めの料理を教えてくれるように言うと、二人は快くアレコレと説明しながら、注文までやってくれた。会話が途中で日本語になって驚く。二人は千葉の中学校で英語教師を二年間していた、この旅は一年後れのハネムーンだと言う、明るく親切なカップルであった。パン、サラダ、肉スープ、スパゲッティを食べる。安くて旨かった。AIBARI・RATTORIAという店である。
暗がりの中、太鼓橋を渡り、ホテルに戻る。長く感じた一日であった。

2014.09.28 ミニ同窓会
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葛の花、秋の七草、別名「うらみくざ・裏見草」、風が吹くと葉裏の白地が翻って見える由
大和の国(奈良県)の国栖(くず)というところが、葛粉の産地であったところからの命名とか

昨日、久しぶりに伊賀越えをした、林には葛がシッカリと蔓を伸ばしていた
今日は高校のミニ同窓会があったので、伊賀から一泊で戻って出席する
学年全体の同窓会はオリンピック開催年、つまり四年に一度の開催である
その間、各学級四名づつの同窓会幹事が集まるミニ同窓会がアジア大会の年と重なる
今日のミニ同窓会の司会役をした幹事、ナカナカ面白い狂歌を紹介した

妻旅行 俺は入院 猫ホテル

手をつなぐ 昔デートで 今介護

お辞儀して 皆んなよろける クラス会

・・ワロタ

今一つ、今回のミニ同窓会では吉報を得たのである
奈良県の医師会の幹部となっている同級生から得た話である
私の糖尿病のことで、「飲んだら食うな・食うたら飲むな」の世間話になった
彼曰く、「酒が糖尿に悪いと云うことはない」とのこと
私は思わず立ち上がり、両手でビール瓶を持って彼のグラスに注いだ
「おおきに・おおきに、貴君は立派な医者だ」と笑顔で褒めた




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コロッセオ(コロッセウム)と呼ばれる古代ローマの競技場
その競技とは、奴隷と奴隷或いは奴隷と猛獣の死闘であった

五月一五日(土)

バイキングの朝食を済まして、一〇時に部屋を出る。みち子さんが待望するオリエント急行は、今夕一七時のチェックインタイムである。昼間はこのホテルのベルキャプテンに荷物を預けておき、市内を観光する予定である。チェックアウトをすると、朝食代十一万六千リラの追加料金が示された。バウチャーに朝食込み記されていると言うと、それはコンチネンタル・スタイルであって、あなたはバイキングを食べていると答える。それなら、ルームナンバーを確認していながら、席に案内したのは何故か、コンチネンタルは何処に用意されていたのかと畳みかけ、少し睨み付ける。すると一人分で良いことになった。荷物を預かってもらうこともあり、矛を収める。

ホテルの隣にある美容室に行き、みち子さんのヘアーセットをする。男性美容師と女性助手がつく。髪の毛を逆立ててから、順々に納めて行く。なかなかの手際である。小生が横で見ていて写真を撮るので、意識をしている様子であった。メイクアップも頼むと年配の女性が担当した。

美容室を出てスペイン階段に向かう。みち子さんが初めはどうなるかと思ったが、あの美容師は結構上手だと言う。どうもメイクは気に入らない様子であった。バタ臭くなったともいえるが、目元がクッキリしているので、こちらではそれで良い、と小生は世辞を言う。スペイン階段の上に似顔絵書きが何人も席を出している。その中の上手そうな一人にみち子さんの絵を頼む。周りに人が集まり眺めている。三人連れの若い東洋系の女性がいたので、日本人と思い、声をかけると韓国人であった。そういえば、バチカンでも若い韓国女性のグループを目にした。以前に比べ、日本の女の子と区別がつきずらくなったと感じる。

昼食はこの前のNAUTILUSという店にもう一度行くことにした。昼はスタッフとメニューが変わっていた。ボンゴレとチーズ・スパゲッティを食べる。店の近くのBARBERINIという駅から地下鉄A線に乗り、コロッセオに向かう。ローマの地下鉄はA線とB線があり、テルミニ駅で交差している。料金は全線均一の一五〇〇リラで、市内バスと同額である。

コロッセオの地下鉄駅を出ると、目の前に古代競技場の威容が広がる。入口に近づくとローマ兵の姿をした者達が、観光客を相手にポーズをとっていた。一万リラを払って中に入る。以前に写真を撮った場所を思い出さした。それにしても、斯くも多くの席から、人殺しを楽しみ、死を前にして脅え苦しむ姿に喝采を送ったとは、人間の持つおぞましさに気が滅入る。階段をあがると、フォロ・ロマーノの遺構が望めた。下に降りて外に出る。

コンスタンティヌス帝の凱旋門からパラティーノの丘に沿って、途中で道を尋ねながら、サンタマリア・イン・コスメディアン教会への道を歩く。教会そのものは、六世紀にギリシャ人によって建立されたというものだが、その入口にある「真実の口」が観光のお目当てである。入口付近には人が群がり、代る代るその石像に触れて、写真を撮っていた。小生も、みち子さんを石像の前にやり、写真を撮る。

教会の中は、厳かな雰囲気があった。みち子さんが坐りたいと言うので、後ろの壁際にある腰掛けの様なものに二人で坐った。足が下に届かなかった。熟年の夫婦連れが寄って来たので、腰をずらして場所を空ける。夫婦は礼を言って、横に腰掛ける。ドイツから来たと言う。私達がモーゼルに居たことを知り、打ち解け合う。男性の膝頭は小生のそれより二〇センチ程先にあり、床の上で足首を重ねている。話す視線は合っていた。それに気付いたみち子さんは、座高はかわらないのにと言ってくれる。

寺院の前は大通りに面していた。フォロ・ロマーノまで歩こうとすると、みち子さんがもう歩きたくないので、バスで戻ろうと言い出す。バス停で路線の案内を見ると、九五系統のバスが最初に乗った地下鉄の駅を通ることが分かった。スペイン階段で見た韓国の女の子達が来て、馴れた様子でバスに乗って行った。バス待ちをしている人に切符売場を尋ねると、一駅向こうだと言う。とはいっても、二〇〇メートル位の距離なので移動する。しかし、切符売場は見当たらない。まずは乗ってしまおうと思い、バスを待つ。

次々にバスが来るが、違う系統のバスばかりである。三〇分程してあきらめかけた頃、九五系統が来たので乗り込む。料金をどうするかと見ていると、大きく開く扉が前後にあり、人が自由に乗り降りしている。切符や料金の受け払いは見られない。私達も目的地に着き、ままよ、と降りる。ホテルに着いたのは一七時を過ぎていた。一八時にタクシーを呼ぶように頼み、ロビーで休む。

時間通りタクシーが来た。荷物と共に乗り、一八時二〇分頃にオスティエンセ駅に着く。タクシー料金は市内均一で四〇〇〇〇リラだと言う。そうだったのかと思う。オスティエンセ駅はローマの南はずれにある比較的小さな駅で、利用客も少ない様であった。オリエント急行の運行準備には具合が良いということであろうが、旅情としてはテルミニ駅であって欲しいと思った。駅の入口横にVENICE.SIMPLON・ORIENT.EXORESSの立て看板とデスクが出ており、すでに受付けが始まっていた。ホテルボーイの様な制服を着た係員が名前とチケットを確認し、持ち込む荷物を使用(キャビン)、不用(スルー)の区分をして預かってくれる。私達はS一号車の〇一室であった。マネージャーとおぼしき男が、ナンバーワン・ルームと口にする。


構内に入ると、すぐ前のホームにオリエント急行の紫紺の車輌が連なっていた。一三輌編成で食堂車三輌、バーサロン車一両、ブティック車一輌が中央に位置している。辺りでは乗客らしき人達が列車をカメラに収めていた。夫婦連れがやって来て、シャッターを押してくれと頼むので、こちらもカメラを渡す。受付に戻り、乗車時刻を確認すると、一九時四〇分だと言い、ディナーは二〇時三〇分と二一時に分かれるが、どちらにするかと聞く。みち子さんが二一時にして欲しいと頼む。待合室にいると、先程の夫婦連れの男性が入ってきて横に坐った。私達が結婚二五周年でヨーロッパを旅行していると話すと、彼は明日が女房の誕生日なので、ベニスで四泊するつもりだと言う。結婚一六年のイギリス人であった。

定刻になり、列車に乗り込む。S一号車は寝台車三四二五という一九二九年に英国バーミングで建造された車輌である。客室には私達の荷物が置かれてあった。室内は思ったより狭い感じであるが、マホガニーと金縁を基調にした内装は優雅な落ち着きを持っている。〇一室はトイレの隣であった。それが良いのかどうかは解らない。

キャビン・スチュワードが来て、室内の使用方法を説明してくれる。チップとして五万リラを渡す。早速、着替えを始める。みち子さんはこの日のために和服を持って来た。薄い緑地に萩を描いた、帯と揃えの京友禅の付け下げである。ディナーの服装が男性はタキシードまたはダークスーツ、女性はイブニングドレスと案内されていたためである。小生も手伝うが、太鼓造りに手間取り気が焦る。二一時五分頃に漸く着付け終える。みち子さんがディナーを二一時にしてくれと言ったことに納得ができた。
通路に出て、食堂者車向かう。

食堂車の中は着飾ったカップルで賑っていた。二〇時三〇分の組である。みち子さんを前にして中に入ると、彼女の着物姿に視線が集まる。小生は低く静かに、グッド・イブニング、と言う。例のトレイン・マネージャーから日本人は私達だけと聞いているので気が楽であった。みち子さんに背筋を伸ばし、ゆっくり歩くように言い聞かす。スチュワードが大股で先へ案内する。みち子さんが小走りになりかけるので、慌てずゆっくり歩けと再度声をかけ、進んで行く。少し遅れて来たため、食堂車の客席はほぼ埋まっており、通る先々のテーブルから視線を受ける。案内された席は三輌目の奥の方であった。従って、乗客全員の前を通って来たことになる。

飲み物を訊きに来たので、白ワインを頼む。レストラン・マネージャーに袖が長い着物は、ナイフとフォークが使いにくいため、箸を持参したので料理は小さくカットして、小皿を添えてくれるように言い、漆塗りの夫婦箸箱を置く。快く対応してくれたが、何故か小皿に金属・ボールを乗せて持って来たので、皿だけで良いと言う。料理は細切れの様になっていた。更に、卓上でサラダを刻みかけるので制止する。メイン・ディッシュは蟹のクリーム煮であった。みち子さんがおいしいよと言う。小生は居眠りをしていたらしく、皿が替わったことに気付かなかった。

コーヒーを飲み、部屋に戻ると、室内がきれいに片付けられて、二段ベッドがセットされていた。着替えのため脱ぎ散らかしたたままであったはずの衣類が、一枚づつ畳んで置かれていた。感心と気恥ずかしさを覚える。着物を納めてベッドに入る。列車は時間調整のためか、よく停まる。

窓を眺めながらウトウトする。
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岩沙参 (いわしゃじん)の花、キキョウ科、沙参 とは釣鐘人参のことだとか
近隣のホームセンター店頭の園芸植物売り場で見付けた
日本原産とあり、一鉢購入する、本州中部の山間部に自生する高山植物の一種
最近の花屋で和花を見掛けることが少なくなったが、岩沙参 は日本固有種という
それでかどうか、花言葉が見当たらない、ちゃらけた言葉は和花に似合わないと納得
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バチカン市国のスイス傭兵、十五世紀からの伝統がある
傭兵の採用基準は身長が百七十五cm以上で、伍長以下は独身が条件とか

五月一四日(金)

今日は半日コースの市内定期観光を手配しており、八時一五分頃ホテルのロビーでピックアップしてもらう。若い女性が二人で来て名前の確認をする。ホテルの近くにマイクロバスを待たしていて、中に先客が七、八人いた。更に四、五ヶ所を回って客を拾い、九時頃バスセンターの様な所に着く。大型バスが何台も並んでいて、マイクロバスの客を区分けして収容していた。まるで観光客のスィッチ・センターである。

日本人女性ガイドが来た。彼女が日本人は三人だけなので、イングリッシュのバスに乗って、前後の席に一緒に坐ってくれと言う。先に若い日本人女性が席についていた。その隣にガイドが坐り、私達夫婦は前に坐った。ガイドの有り様は、視線を合わさず、紋切り型の口調で、疎ましげに応対する。みち子さんと若い女の子にはガイドの態度は癇に障るらしい。確かに、海外に渡り住んでいる日本女性の中で、特に異国の男性と暮らしている人によく見かけるタイプである。屈折したものが体現化されていると思うと気の毒になる。

同行の女の子は息子と同じ昭和四九年生れで、奈良のシャープに勤めており、天理に住んでいる、出身は青森県だと言う。一人旅で両親には知らせていないと聞いて、みち子さんは女の子に小言を言い出す。その子は明日にはバス便でフィレンツェに行くらしい。私達のバスが動き出した。

バスは一〇分程走って停まった。最初の観光ポイントである。案内に従って皆と一緒に行くと、トレビの泉であった。一応の見物を終え、パンテオンまで歩く。途中に石柱が並んだ古い建築物があり、多くの凹んだ傷跡が付いているので、大戦時の弾痕かと思っていると、宝石が埋められていた跡だと聞く。奈良の古刹と同様、ローマの建築物も当初は金ピカであったようだ。

パンテオンに着く。紀元前二七年建立の古代ローマの神殿跡であるが、七世紀初期にカトリック教会となったらしい。中に入ると正に伽藍堂であった。天井中央の吹き抜け部分で四三メートルの空間構造を保っているらしい。壁面の一ヶ所にラファエロの墓があった。

五分程歩いて、古代ローマの競技場跡であるナボーナ広場に行く。ベン・ハーも斯くと思われる、大トラックの形状が残っていた。トラックを三分して、ムーア人の噴水、四大河の噴水、ネプチューンの噴水がある。中央にある四大河の噴水の人物像が手を伸ばしているのは、向かい側のサンタニューゼ・イン・アゴーネ寺院の建物が倒れないように支えていると俗に言われているが、寺院は像より後にできたものだと日本人ガイドが説明をしてくれる。小生が気持ち良く接しているためか、彼女も徐々に和んで来ているようだった。バスが停まっている道端に可愛い電気自動車があった。

テベレ川を渡って、バチカン市国に行く。八億人クリスチャンの総本山である。サンピエトロ大聖堂が荘厳な構えで建っている。ガイドがこの後どうするかと訊く。ここがコースの最後の場所であり、一時間後の一二時半にバスが出るので、一緒に戻るか、ここで別れるか、ということである。時間の余裕があれば、バチカン博物館に行き、門外不出の名画を観ることを奨めると言う。私達も天理の女の子もここで別れることにした。

サンピエトロ寺院は一六世紀初頭から一二〇年かけて、ラファエロやミケランジェロといったルネサンスの巨匠が建築工事を受け継いでいきながら、完成したと言う。寺院の入口では入場者の肌の露出をチェックしていた。中に入り、豪華な大円屋根を望む。空間の造形美という表現が相応しいのかもしれない。静寂な雰囲気が漂っていた。祭壇には無数の蝋燭が燈っていた。蝋燭を燈して拝むという姿には、お寺という心理的な親しみを覚えた。

広い円形の回廊を左に歩くと、バチカン博物館へ通じる道があり、横がバスセンターになっていた。露店でアイスクリームを買い、足を休める。ついでに、帰りのバスの切符を自動販売機で買ったが、紙幣の読み取り具合が悪く、何人もが往生をした。立派な門構えの建物があり、美術館の入口かと思い入りかけると、バチカンのスイス兵がいた。美術館へ行くのなら、この先の角を左にまがれと道を示してくれる。緩やかな登り坂の歩道の途中で、人通りが混雑してきた。美術館の入口に続く行列の末尾であった。ガイドが時間の余裕を持ってと言った意味が解かった。

腕にスカーフを掛けて子どもを抱いた女が物乞いに回っていた。彼女がコインを落としたので拾ってやると、小生に付きまとい、子どもを見せながら、しつこく金をせがむ。後ろにいた男性が、大声で彼女を追い払い、小生のベルトバッグを指差す。チャックが開けて中身が出かけていた。あっぱれと感服。

バチカン美術館に入り、お目当ての「最後の晩餐」を探して回る。なかなか見つからず、広い館内を二周する。多少くたびれながら、近くの女性客に訊くと、ここにあるのはミケランジェロの「最後の審判」であり、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」はミラノにあると言って、頭上を示す。振り返り上を見ると、壁面に荘大に描かれたミケランジェロの「最後の審判」があった。ウカツであった。

みち子さんが足を引きずりながら、帰りたいと言うので、市内バスに乗る。テベレ川を渡り、ベネチア広場を通って、テルミニ駅に着く。二〇年前に見た「終着駅」を今一度見ておきたいと思って降りたが、みち子さんが帰りたがるので、タクシーでホテルに戻る。一〇分足らずの運転で四〇〇〇〇リラだと吐かす。文句をつけると、運転手は料金表を示し、市内均一だと説明する。小生がノンチップだと言って料金を渡すと、彼は肯いて去って行った。

一九時前にスペイン広場へ食事に行く。ガイドブックに書いてあるトト・アッレ・カッロッツェというレストランが道角にあり、日本語のメニューが掲げてあった。一九時二〇分開店と言うので、近くのテラスでワインを飲んで待ち、一番客で入る。窓側の席を望むと、リザーブの札が無いのに予約席だと言って、奥隅の小さな席に連れていく。席を替えろと言うと、全部予約だと言う。次に来た日本人カップルも奥隅に連れていかれた。此奴等と思い、注文をキャンセルして店を出る。日本の旅行業界の矜持を疑う。

近くに料理四品ドリンク付きコース三〇〇〇〇リラ、と張り紙をした店があった。取りあえず何処でも良かったので入る。四品の内容はオードブル、パスタ、ステーキ、デザートである。みち子さんはボンゴレ・スパゲッティ、私は隣席の客と同じものにする。それはニョキといって、水団をトマトソースで和えたようなものであった。デザートにはケーキ、ドリンクは白ワインを頼んだ。結構、客が入って来る店であったが、味は左程でもなかった。どうも大衆食堂の様な店だったようだ。

薄暗がりのスペイン広場では、破船の噴水の周りやスペイン階段にまだ多くの人がたむろしていた。ホテルに戻ると近畿ツーリストの松村氏からFaxで新聞が届いていた。何よりのものである。彼の心配りには本物の味がする。みち子さんは足の痛みが辛いと言い靴を脱いで横になる。


2014.09.26 金木犀の香り
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今朝、玄関の戸を開けると芳香が漂った、我が家の金木犀である
なる程に仲秋と実感,、清々しい心地で愛犬「ハナ」を連れ散歩に出掛けた
家に戻って暫らくすると、先に記事した大口憔翁の「刀自の袂」現代語訳が届く
表題は「大口憔翁・女性茶の湯のすすめ」となっていた
そして広島と土佐の銘酒が同梱されていた、まま、送り主に感謝
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ローマ・スペイン広場の階段に立つ妻と私・・(^^)、妻は今もソフトクリームが大好物
階段の上にある寺院の裏隣に、私達の泊ったデラ・ヴィ・レ・ホテルがある

五月一三日(木)

中村青年が九時過ぎにホテルに迎えに来てくれ、タクシーでドゴール空港に向かう。三〇分程で着き、搭乗手続きを済ませてカフェで一息いれる。みち子さんがカフェ・オ・レはな何故泡立っているのかと聞く。コーヒーの漉しカスを牛乳に混ぜて煮た「コーヒー風味の飲み物」ということを話す。中村青年に礼を言って別れる。彼はゲートに向かう私達を見送ってくれた。

一二時発アルタリア航空三二一便ローマ行きに搭乗する。一時間程遅れて出発、機内ビデオが放映されると、私達の隣にいた若い黒人女性が涙を拭きながら笑いこけている。眼下にアルプスへ連なる雪嶺を眺めながら、飛行機は南へ向かう。

一五時前ローマFIUMICINI空港に着く。両替をする(一〇〇リラ七円)。タクシーに乗り、三〇分程でデラ・ヴィ・レ・ホテルに着く。大きくはないが、建物や内装、調度品には古風な趣が見られるホテルである。部屋は一一二号室、二階の裏側であった。窓から路地裏の屋根と洗濯物が見えている。黒猫が一匹、塀伝えにウロウロしていた。荷物を置き街に出る。

ホテルの隣角がトリニタ・ディ・モンティ寺院の前通りで、スペイン広場の階段の上であった。みち子さんも一見して分かったらしく、「ローマの休日」と口にする。一三七段あるという階段には人々がそこかしこに坐っていた。降りて行くと、人混みの中を花や人形の物売りが行き交っていた。南アジア系と思われる肌の黒い人達であった。ジプシーに気を付けるようにとよく言われたが、ジプシーとは人種・民族を特定した本来の意味ではなく、どうやら外から来た悪い奴等という意味で使っている様である。ベルニーニの破船の噴水がある広場を横切り、コンドッティ通りという街路に出る。

みち子さんがズックかカジュアルな靴が欲しいと言う。靴擦れを起こした中ヒールの靴ではローマの石畳はキツイらしい。三軒ほどの靴屋で尋ねてみたがソフトタイプの靴はなく、更に歩くとCRISUTINA.TOMASSIという靴屋があった。店頭の道端に犬の糞があり、小生は気付かずに踏みつけていた。みち子さんにウンコ、と言われたが、すでに店内に入っていた。中の店員はそれを見ていたらしく嫌な顔をしている。ままよと、素知らぬ顔でスニーカーはないかと話しかける。すると、こういうのはどうかと表のウィンドウケースに連れて行く。青いローヒールの靴があった。柔らかい皮製でサイズも合ったので買うことにした。五六〇〇〇リラであった。店員の顔は和んでいた。早速その場で履き替える。みち子さんは履き易くて具合がいいと言う。着ていた紺のニットスーツに合う色彩でもあり、高くない買い物だとも言って喜んでいた。

スペイン広場の街中は地図で見た感じより意外に狭く、石畳の細い通りを歩いていると、つい行き過ぎてしまう。しかしながら、人通りは多い。小生が二〇年前に泊ったプラザホテルをコルソ通りに見つけ出す。当時そのままであった。みち子さんにそのことを言い、写真を撮る。

コルソ通りから、中央郵便局の古い建物の横を折れて、トリネートという通りに出る。狭く曲がった小路を入ると、目の前に空間が広がっていた。トレビの泉である。観光客や物売りで賑っていた。物売りの人間や商品はスペイン広場と同様であった。道端では観光馬車が客待ちしている。みち子さんと二人で池端に坐り、百円玉を後ろに投げる。トレビの泉を後にして、クイリナーレの丘の方へ歩いて行く。大きな日章旗を掲げた店があり、寄ってみると両替屋であった。途中でカメラ屋に寄りフィルムを買う。中では純朴なオバサンが店番をしていた。

みち子さんが、お腹が空いたのでパスタ料理を食べたいと言う。道端の人に訊くと、パスタ・レストランを教えてくれたが、一九時三〇分開店である。まだ一八時過ぎなので仕方なく歩いていると、大通りのトンネル前に出た。通りを渡ると、すぐ横角にRISTORANTE.PIZZERIAという看板が見えた。覗いてみると店は開いている様であった。

パスタ料理があるかと訊いてから中に入る。入口にレジがあり、階段を降りると客席と厨房になっていた。階段横のテーブルにハム・ソーセージや魚介類、野菜等の料理が一〇数種類トレイに盛られている。ウェイターに訊くと前菜として好きに取ってよく、一皿で一六〇〇〇リラだと言う。その皿も三〇センチ程あるので、早速に二人分を一皿に盛る。他にサラダとシーフード・スパゲッティ及びハウスワインの白を注文する。気のいいウェイターで、小皿を二枚持って来てくれた。いい味付けで旨かった。七四〇〇〇リラであった。みち子さんも気に入り、また来ても良いと言う。NAUTILUSという名の店であった。

デラ・ヴィ・レ・ホテルに戻る道を聞くと、店の近くがラル・トリトーネの五差路であり、そこからフランチェスコ・クリスピ通りの坂道を上がって行くと一〇分ぐらいでホテルの通りに出る、スペイン広場に行くにはドゥーエ・マチュッリ通りだ、と言う。意外に近いと思いながらクリスピ通りを歩く。坂道をぶらぶら上がって行くと、左側に下り道があり、先の方にPIZZAの看板が見えた。夜食に持ち帰ろうと思い、立ち寄る。鉄板の上で幾種類ものピザが新聞の片面ぐらいの四角い板状に焼かれており、それを幾つかにカットして売っていた。一切れ買う。七〇〇〇リラであった。店を出て道を下ると、スペイン広場に通じるドゥーエ・マチュッリ通りに出た。通りが広くなった街角の店で胸ポケット用のハンカチーフを買う。スペイン広場の階段を上がってホテルに戻る。
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パリ、セーヌ川とルーブル博物館の風景

五月十二日(水)

やはり三時頃に目が覚める。みち子さんも同様である。無理にもう一眠りするが、なかなか寝つかれず六時過ぎに起きる。みち子さんも起きていて、二人でガイドブックや地図を見ながら今日の予定を話す。八時前に朝食をとる。アメリカンスタイルのバイキングであった。

一〇時に中村青年と共に、ホテルを出る。セーヌ川の船便でノートルダム寺院まで行き、戻る道すがら、あちらこちらを見て歩くつもりであったが、セーヌ川の船便は、乗った所に戻ってくる遊覧船なので、途中で降りることはできないと言うので、セーヌ川を北沿いに歩いて行くことにする。

河畔には高く茂った街路樹が続く。何の木だろうと言いつつぶらぶら歩く。パリ万博の建物というグラン・パレを左手に見る頃、大通りの中央道が地下に潜る入り口付近に金色のモニュメントがあった。ここはダイアナ妃が事故死した場所だと教えてくれる。モニュメントそのものは以前からあり、ダイアナ妃の事故とは別のものだが、今では妃の追悼碑の様に扱われていると言う。側に行くと、手紙、写真、花束、落書きが散らばっていた。

金ぴかの像が立ち並ぶアレクサンドル三世橋を横切る。この前も思ったが、ヨーロッパの都市には銅像や記念塔の類いがやたらと多い。力を顕示する文化には何となく馴染めないものがある。川の向こう岸に東京駅を立派にした様なオルセー美術館の建物があった。少し行くと、さほど大きくない橋があり、人が群がっていたので近寄ってみる。木板を使った歩行者専用の橋で、中沿いにアフリカ芸術として黒人と白人の戦いの場面をモチーフにした創作物がいっぱいに並んでいた。怨念か芸術表現なのか、見ている内に、だからどうなのだという気になった。

ルーブル美術館の長い建物の裏側を通り過ぎると、ボン・ヌーフという橋があった。パリで一番古い石橋だそうである。ノートルダム寺院が見えてきた。寺院の前の大広場に着いた頃は一二時になっていた。二時間歩いたことになる。近くのクレープの店に入る。カフェ・オ・レとドライ・クレープを注文する。クレープにはソフトとドライがあり、ソフトは玉子と砂糖が入った甘いもので日本のクレープと同じおやつだが、ドライはそば粉の生地を焼いた薄皮にハムや野菜を包んで食べるもので、主食代りにする。タコスの様な感じであった。


寺院の入口に向かう。広場に鳩がいる光景はお馴染みだが、ここは鳩だけでなく、植込みの中に雀も沢山いて、観光客の手や肩に群がり餌を啄ばんでいたのには驚いた。ノートルダム寺院の中は広くて薄暗く、高い天井の壁面にはステンドグラスが輝いていた。

地下鉄で一つ戻るとルーブル美術館である。車両の中で楽器を奏でる者がいた。カメラを向けると手を挙げて応じてくれる。そう言えば、傷痍軍人の姿を見かけなくなって久しいことを思い起こす。地下道が美術館の入口に通じていた。中村青年に仕事に戻るように言い、一九時に凱旋門の角で会うことを約束して別れる。ルーブル美術館は広いので、お目当ての物から探し歩くことにした。スフィンクス、シェリーの翼、ミロのヴィーナス、モナリザを見て回る。どれも手の届く距離に無造作に置いてあったが、モナリザはガラス張りになっていた。画面に傷を受けた後からそうなったと言う。入館した時にトイレで会った年配の中国人夫婦と所々で出会い、その都度カメラを交換して写し会う。やはり名物コースなのであろう。

それにしてもルーブル美術館の所蔵物の夥しい量には圧倒される。広い館内に所狭しと置いてある。古代オリエントやアフリカの遺物が、こんなに多くこのヨーロッパに所蔵されていること自体に腹立ちと悲しみを覚えた。絵画の部屋も大小様々の作品が展示されていた。その多くは人殺しと祈りの絵であった。やや気が滅入りながら美術館を後にする。

地下鉄で三つ戻ったCLEMENCEAUという駅で降り、シャンゼリゼ通りを歩くことにする。まだ一七時過ぎである。少しばかり行くと、みち子さんは足が痛いと言う。モーゼルで傷めた踵の靴擦れである。道端の露店で水を買い、通りの公園に入ってベンチに座る。地面に紙を敷いてみち子さんは靴を脱ぐ。小一時間程休んでからまた歩き出す。

マロニエの並木の向こうに凱旋門が見えた。シャンゼリゼ通りのゆったりとした並木道には所々にカフェテラスが出ていて、人々が時間を楽しむ様にくつろいでいる。通りに面したショッピング街は奥行きが広く、裏道に通じたモール街になっている。みち子さんは足を引きずりながら店を見て回っている。障子を使ったウィンドーディスプレイを見つけ、面白がって小生に教えてくれる。表通りに戻り、リドの前を過ぎ、凱旋門に到る。凱旋門では音楽隊が出て、何かの式典が行われていた。中村青年はまだ来ていない様子である。一九時には少し間があるので近くのカフェに入り、みち子さんの足を休ませることにする。

雨が降ってきた。みち子さんをカフェに残し、凱旋門に出向く。中村青年はまだ来ていない。もしやと思いリドの前まで行くが、やはりいない。再び凱旋門に戻ると来ていた。地下鉄が遅れたと言う。今夜の食事を予約している店は、地下鉄で一駅先にあるということなので三人で向かう。

街角にあるTAIRAという日本人シェフの店であった。中村青年は、知る人ぞ知る店でパリの著名人もよく来ると言う。一〇卓程の店内に日本人客二組と地元客二組がいた。日本人シェフが私達の席に来ると中村青年が挨拶をする。魚が中心のメニューということなので、前菜とマグロのオイル漬け、サワラのホワイトソース、及び白ワインを頼む。フランス料理に懐石料理の盛り付け手法を取り入れている様である。シェフに懐石を何処で習ったかと聞くと、自分は日本で料理を習ったことはない、と気色ばんだ口調で答えるので、小生は少し鼻白む。味はそこそこであった。みち子さんは、こちらの方が見栄えはするが、マグロのオイル漬けの味は昨夜の店の方がおいしいと言う。途中、地元客が二組入ってきた。人気があるようだ。三人で一三〇〇フラン余りであった。

夕食後、三人でリドに行く。社長の佐藤さんから奨められていたものである。但し、ディナーセットは高くつくので、観劇だけにするとよいと言うことであった。二二時頃入る。一人三七五フランの料金を払う。インド系の風体をした団体客がバスで着き、入って来たところであった。館内はほぼ満席になりかけていた。私達は二階の二列席に案内されて、ほどなくショウが始まった。歌劇、コント、奇術、トークが次々と繰り出され、小気味のよいテンポで進んでいく。外国人客を意識した配慮が見られ、盛んにパリ、パリが連呼されていた。なんとなく、東京や大阪の大型キャバレーを思い浮かべた。勿論、規模やレベルは違っていた。二時間余りの公演であった。ほぼ連日に亘り興業されているとは、やはり世界のパリであると感心する。

タクシーでホテルに戻る途中で、中村青年から知人の児玉さんがこの二月に退職したことを知る。MR・ドーナツの仕事仲間であった児玉さんと一緒に研修を受けたのは二八年前になるのかと指を折る。
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フランス平原の風景

五月十一日(火)

空は晴れていた。九時にチェックアウトを済ます。二人二泊の朝食付きで三五〇マルクだと言う。二万五千円余りである。割安感がする。約束通り、グランバッハ女史が迎えに来てくれ、ウィトリッヒ駅に一〇時前に着く。女史に礼を述べ、小生はカバンを忘れても、貴方の厚意は忘れない、と大真面目に言う。本当に、控えめながら心遣いの行き届いた人であった。

列車が来た。ウィトリッヒ駅一〇時一四分発の特急列車で、トリア駅を経てザールに入り、ザールブルッケンが終着駅になっている。そこでパリ行きの特急に乗り継ぐことになる。モーゼルから列車でフランスに入るこのコースは、日本人は殆ど通らないが一見に値すると、この地を知る日本の知人が薦めてくれたのだ。列車はぶどう畑に囲まれたモーゼルの河谷を走っていく。川幅が徐々に狭くなり、山あいが迫る。一時間程すると山が開け出し、川が運河の形態になってくる。モーゼルを過ぎザールに入った。
 
ザールブルッケンの駅に一一時四二分に着く。次のパリ行き特急列車は、一三時一三分である。時間待ちに駅横のセルフ・レストランに入り、残り少ないマルクでコーラとポテトフライの昼食をとる。レストランの隣の店で、パンとノンガスの水を買いホームに戻る。暫くすると列車が来た。荷物を持って車室に入る。この列車は、フランクフルト発でライン河の本流に沿って上がり、マンへイムを経由してきた本線のパリ行き特急である。


扉が閉まり、程なくしてドイツの検査官が来てパスポートの提示を求める。荷物のチェックはない。一〇分程でフォーバッハという駅に停まった。今度はフランスの検査官が来てパスポートの提示を求める。フランス領である。やはり荷物のチェックはない。簡単な出入国であった。

車窓の外にはフランスのなだらかな丘陵が続き、山影は遠くなっていく。畑地が広がり、所々に牛や羊が群れているのが見える。みち子さんが白い牛だと最初はめずらしがっていたが、見えてくる牛は殆ど白い牛であったため、後では黒い方が牛らしいと言う。牧歌的な風景の中に民家が三々五々点在し視界を過ぎていく。少しまとまった集落には教会が建っているのが見える。モーゼルでもそうであったが黄土色の屋根を持った民家が多く、その濃淡で村全体がカラーコントロールされている様で美しい。ヨーロッパ中世の姿が多分に残されているようであった。

一四時過ぎにメッスの駅に着く。連絡の時間調整のためか一五分少々停車する。小型のトラベルバッグを持った三〇歳前後の女性が部屋に入って来た。私達と会釈を交わし座席番号を見てからドア側の席に就いた。列車が動き始めるとその人は本を取り出し読書に耽りだした。私達は視線を窓に移し、静かに外を眺めていた。都会のためかビルや工場の建物が目についたが、すぐにまた田園風景が現れてきた。列車はフランス平原を西に走り続けている。暫らくすると、辺りにはぶどう畑が多くなってきた。


一五時四五分頃シャンパーニュのシャロン駅に着く。小生は同室の女性にシャンパーニュとはあのシャンペンで有名な所か、と初めて声をかけた。
すると、そうだと言って、読書に耽っていた彼女の寡黙な表情が一変する。明るい口調で喋りだし、自分はパリに住んでいる、広告関係の仕事をしている、ホテルはどこか、私達が日本人だと自分は解る等々が続き、彼女なりのジョークかユーモアなのか何度も自分の話に自分が声を立て笑う。小生には半分も意味が解らないままであった。小生の反応に物足らなさを覚えたのか、携帯電話を持ち出し誰かと話を始めた。やはりよく喋り、よく笑っている。そのイメージの落差に苦笑させられる。列車はパリの郊外に入った。

一七時過ぎにパリ東駅に到着する。終着駅のためプラットホームが櫛形に幾本もの線路を受止めている。駅構内に繋がる出口は一ヶ所であった。「井谷様」と書かれた紙を持った青年がいた。中村君というエクセルのパリ駐在員であった。エクセルはイズミの系列企業でブランド品の輸入販売をしている会社である。社長の佐藤さんとはイズミ時代からの親しい付き合いで、このヨーロッパ旅行ではパリやウィーン等の道中に配慮をしてもらっている。

タクシーの中で中村青年からパリ滞在中の予定を聞かれたので、観光は定番コースでよく、観劇をしたいと考えていると答える。彼は明日のリドには予約を入れていることを伝え、私達のために時間を空けてあるので遠慮なく申し付けてくれ、社長にもそう言われていると言ってくれる。厚意に感謝をする。彼はイズミではなくエクセルのプロパー社員であり、パリ駐在は二年近くなると言う。赴任の時は一週間前に聞かされ、取りあえず行けと言われて観光ビザで入り、一年ぐらいかけて就労ビザをとった、一人身だから動かし易かったのでしょう、今は良かったと思っている、と笑顔で話す。二七歳の好青年で、学生時代はキック・ボクシングをやっていたと言う。ふと、小生の中にイズミにいたその年頃の自分の姿が重なって見えた。

一五分程でヒルトンホテルに着く。エッフェル塔のすぐ近くであった。チェックインと両替を済ませる(一フラン二一円)。七三七号室と言われて飛行機の型番だなと思う。ヒルトンのフロアーは1Fからになっていた。部屋に荷物を置き、中村青年と共に食事に出かける。時間がまだ早いのでエッフェル塔の辺りを散歩する。みち子さんはエッフェル塔を近くで見ると大きいものだと驚いていた。小生には二〇年前のヨーロショップツアーのことが思い出された。


地下鉄に乗り四つ目ぐらいの駅で降りる。街角を少し入ったところにアルトポスタルという小さなレストランがあった。中村青年が日本人の口に合うという店である。店内には三組の客がいたが皆な日本人である。雑誌か旅行ガイドに載ったことがあるらしい。サラダとヒレステーキ、マグロのオイル漬け、及び赤ワインを頼む。マグロのオイル漬けが旨かった。日本に帰ったら作ってみたいと思う。三人で一〇〇〇フラン程であった。オペラ座の辺りからタクシーに乗り、ホテルに戻る。部屋の窓にはエッフェル塔のネオンが映し出されていた。


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モーゼル地方の中心地トリノにあるローマ軍の要塞跡

五月十日(月)

夜中の三時ごろ目覚める。みち子さんも起きていた。時差が七時間なので日本時間では午前一〇時である。着替えるため荷物の整理をする。みち子さんが自分の財布が無いと言う。ドイツに入って一度も財布を手にしていないので関空で失ったらしい。日本円六万円程と他に免許書と銀行のキャッシュカードを入れていたと言う。どうしてそんなものを持って来たのかと、一悶着する。取りあえず日本に電話を入れ、カードを止める。スタートからつまずいていたとがっくりする。

八時に〇階で朝食をとる。私達以外に二組の客がいた。バイキング方式で黒パンとライ麦の乾パン、シリアル類が並び、他にハムやソーセージが豊富に揃えてある。量が結構多いので、思ったより宿泊客がいる様である。

一〇時に女性が迎えに来てくれた。マーリース・グランバッハさんである。モーゼルワインを輸入する日本の知人から聞いていた人である。四〇歳過ぎに見えたが、歳は聞かない。口調の静かな賢そうな婦人であった。やはり日本語で書かれた名刺を持っていた。彼女は挨拶を済ますと今日の予定を聞いた。モーゼルの河畔を車で巡り、その後トリアというこの辺りの中核的な都市まで行き、ローマ時代の遺跡を見学してはどうか、望むなら、ワインセンターにも案内すると言う。無論、私達に異存はなく感謝してお願いする。

車で一五分ほど走るとワインセンターに着いた。モーゼル地域のワイン生産者協同組合中央醸造所である。果汁圧搾設備、貯蔵設備、ビン詰設備等が整えられている。生産量はこの地域の二五%を占めていると言う。
グランバッハ女史は私達を資料館へ導き、モーゼル地域のワイン造りについて、その歴史や現状を話してくれた。そこには古い巨大な木樽や手動の圧搾機、樽を運ぶ時に使った修羅の様なもの等が展示されており、館内はワインの香りが醸し出されていた。

館員らしい中年の男性がいて日本語のビデオがあると言うので、ビデオ室に入る。男性はグラスを持ってきて白ワインを注いでくれる。二十分ほどのテープでモーゼルワインのことが簡潔に説明されていた。一応の見学を終え、
ワインセンターの玄関に戻ると、ワインの小瓶や土産物が置いてあったので、絵葉書を数枚買って外に出る。

車で十分ぐらい走った時、小生のカバンが無いことに気付く。ワインセンターにとって返すと、やはりビデオ室に置き忘れてあった。グランバッハ女史に恐縮しながら、また車に乗る。

町を抜けるとモーゼル川が近づいたり、隠れたりする。川を挟んだ両側の山肌一面にぶどう畑が続き、すそ野には菜の花畑が広がっている。みち子さんは急斜面に作られたぶどう畑に驚き、感心をしていた。女史がシーズンになると辺りは色付き、絨毯を織りなす様になると言う。そうだろうと思う。彼女の実家もそうだが、家族ぐるみでぶどう畑の世話をしており、収穫時期にはポーランド辺りから季節労働者が来ると言う。なるほどと思う。

街道沿いに小さな集落を幾つか通り過ぎる。民家の佇まいは閑静で、人影は余り見当たらないが、古くからの暮らしの息遣いが感じられる。何とはなしに、木曽路の風景を想い浮べていると、車の走り方に緩急のあることを気付く。グランバッハ女史の奥ゆかしい心遣いである。いい所ですねと話すと、彼女は少し笑顔をつくり、モーゼル地方の歴史を語ってくれた。

このモーゼル地域は元々ケルト人が住む処であった。ケルト人とは元前千五百年頃、中央アジアの宗源からヨーロッパに入った印欧語系の民族で、今のドイツとフランスにまたがるモーゼル川流域を本拠にして、やがてスぺインからバルカン半島にまで活動地域を広げ、ローマ帝国と対峙するまでになった民族で、ローマ人からはガリア人と呼ばれた。そしてローマ軍の圧迫を、更にはゲルマン人の侵入を受けたケルト人はヨーロッパ大陸からその姿を消した。今、ケルト人の残存する処は大陸を離れたスコットランド・ウェールズ・アイルランドとフランス北部の半東・ブルターニュ地方だけである。私の今回の旅はケルト人の故地ともいえるモーゼル川流域の地を見たいと思った故である。

紀元前一世紀頃、ガリア戦記にも書かれているようにローマ軍がモーゼルの地まで来て要塞と町を造った。やがてゲルマン人、つまりドイツ人の祖千が移り住む地となるが、グランバッハ女史の話ではフン人やサラセン人も来ており、最近では第二次大戦後にフランス軍の駐留地区になっていた、それ故、この地方には髪の毛や肌の色に先祖を偲ばせる人々がいると言う。小生が日本人はいなかったのかと聞くと、昔、日本から来た男に息子がいて、その息子がベルンカステルの警官をしていたことがあったが、その後はいないと話してくれた。口調はあくまでも静かであった。

空が少し曇ってきた。モーゼル川を一望できる岡の上のレストランに急ぐ。なるほど、そこは眺めのよい場所で、レストランが一軒建っており、広いテラスが見晴らし台になっていた。モーゼル川の景観を写真に撮っていると雨が降り出したので、慌ててレストランの中に入る。グランバッハ女史は、このレストランの眺めは良いが、料理は期待できないと言う。子牛の串焼きとアスパラガスのボイル料理を注文する。女史はアスパラガスだけであった。

料理が出るまでの間、日本から持ってきた土産を彼女に渡す。和紙の貼絵でそれぞれ五種の花をあしらったコースターと箸箱と箸の夫婦セットである。包みを開くように促すと彼女はコースターを取り出して、恐る恐る花模様のところを指で触りながら、VIPゲストに使うと言う。ウエイターが来てめずらしそうに覗き込む。夫婦箸の説明をして、これは旦那さんへと言うと、彼女は一人身であることを告げる。ドイツでミセスというのは既婚者に限らず、年齢による使い分けだと言う。小生は肯き、次の言葉を捜していると、彼女は日本に行った時にもよく間違われた、と続けて言う。料理が出た。そんなに不味くはなかった。


トリアに向かう。人口一〇万人ぐらいの町で、この辺りの中心都市でもある。女史は街を歩いて案内するつもりであったが、雨のため車で回ると言う。大きな寺院の前に着き、車を置いて中に入る。昔の聖者の衣が所蔵されており、クリスチャンにとって高名な寺院だということであった。確かに平日の雨の中であっても結構多くの参観者がいて、見学したり祈ったりしていた。外に出ると雨脚が強くなっていた。

雨の中、グランバッハ女史は一本の傘をみち子さんのために使い、自身は濡れながら車に向かう。その態度は爽やかであった。心で頭を下げる。車に乗り、ローマ時代の遺跡である城壁を一回りする。途中に発掘中の崩れた建物の遺構があり、中の様子を垣間見る。トリアの町を一望できるという場所にレストランがあるのでお茶でもどうか、と女史が訊く。ただ、今日は月曜日なので休業しているかもしれないとも言う。取りあえず行く。晴れた日には、さぞかしの眺めと思われる場所であった。案の定、レストランの門扉には鍵がかかっていた。

一五時頃ホテルに帰る。グランバッハ女史に今日の夕食を御一緒頂きたいと誘うが、彼女はこれから会社で仕事があり遅くなるので遠慮したいと言う。無理強いはしないことにした。明日の朝は九時半に向かえに来て、列車の時刻に間に合うように駅まで送る、と言ってくれる。謝意を示して、彼女をホテルの前で見送る。

部屋で服を着替えて少し休み、一八時頃食事に出かけた。今日は橋を渡り、川向こうの町まで足を延ばすことにした。と言っても歩いて一五分程である。四・五軒のレストランを見かけたので、どこがいいかと思って、道にいた男性に訊くと、その男性は、ここが良いとすぐ横の店を示す。

店内に入るとカウンターとテーブルに別れていた。ウエイトレスが来たが言葉が通じないので、隣席にいた二人組みの男性に応援を求めると、その一人が快くメニューを説明してくれていたが、急に小声で橋向こうに良い店があると言う。トニーに教えられたあの店である。今日はこの店でいい、と言うと豚肉のフリッターを薦めて注文をしてくれた。他にサラダとビールを頼む。隣席の二人組にもビールを渡す。もう一人の男の髪型が段々刈りの縞模様なので初めて見たと言うと照れていた。やはり料理と共に、じゃが芋が一盛り出た。料理の味はまずまずであった。食べていると、道にいた男性が入ってきた。この店の人間であったらしい。

ホテルに戻る道で、みち子さんが左足を引きずりだした。馴れない靴を履いて歩いため、踵の皮がめくれて血が出ていた。ホテルで長い絆創膏を貰い、切って貼る。ワインセンターで買い求めた絵葉書に一筆入れ、日本に置いて来た娘や今回のことを知る友人に宛て投函、眠りに就く。


2014.09.22 彼岸
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昨日今日は稽古日、床花には紅白の彼岸花と水引、(お彼岸である)
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モーゼル川、河畔のブドウ畑に囲まれた村の風景、川に沿,う線路(写真右端)

 ヨーロッパ旅日記 (平成十一年)

五月九日(日)

朝五時起床。みち子さんは既に起きていて旅支度中であった。娘の送りで家を出て、学園前六時二〇分発空港バスで関空へ向かう。ルフトハンザの窓口で搭乗手続きを済ませて朝食をとる。出国手続きをして、五万円をマルクに両替し(一マルク七二円)九時四〇分発LH七四一便に搭乗する。

去年は結婚二五周年ということで、どこかに行くつもりであったが、母親の看病が長引き、そのままになっていた。今年に入って人の奨めもあり、小生が職を退いたのを期に、ヨーロッパ夫婦二人旅に出かけることにした。
みち子さんは夢がかなったと喜んでいる。

所要時間一一時間余、快適な飛行であった。バルチック海上空を経て、予定より一時間ほど早くフランクフルト着。現地時間一四時(時差七時間)。手荷物受取場が分かりにくく、探し回る。やっとのことで荷物を受け取り、検査カウンターに行くと、担当官がトランクやバッグの中だけでなく土産の包みまで開けろと言う。ムッとする。みち子さんがトイレに行ったが、すぐ戻って来て、トイレ料金〇.六マルクが要ると言って持って行く。用を足して出て来たみち子さんは手を洗っていないと言う。手を洗うのに更に〇.二マルク要る、と言われたとのこと、暫し唖然。


列車に乗り換えるため、今度はDB(ドイツ鉄道)センターを探して行ったり来たりする。途中、みち子さんが若い日本人カップルから成田に帰るにはどこへ行けば良いか、と尋ねられたが、急ぐからと振り切る。相手の女性は必死の形相であったらしい。何とかDBセンターに辿り着き、ユーロパスにスタンプをもらう。漸くのことで当該列車のホームに立つ。

一五時〇三分発の特急に乗車。ホームが低く列車のデッキにタラップを踏んで上がる。六人掛のコンパートメントルームに二人で座る。この旅行はヨーロッパの列車を楽しむため全てファーストクラスにした。マインツを過ぎ、車窓の右手にライン河の景色が展開する。ライン河に沿って走るこの線は小生が二〇年前にチューリッヒからジュッセンドルフに向かった時に一度通っている。二〇年前のその日は小雨模様であったが、本日は快晴で視界は良好。大小の古城が車窓に現れては消えて行く。

ローレライを過ぎて暫らくした一六時一〇分頃、コブレンツに着き下車。近くの人にモーゼル川に向かう列車を訊き、示された列車に乗り換える。念のため車内の人々にモーゼルに行く列車かと確かめると、モーゼル行きは向こう側のトラックだ、と言って外を指差す。発車寸前であったため荷物を抱えて慌ててタラップを降りる。車両の窓から幾つもの顔がこちらを覗いていた。プラットホームを示すのにトラックと呼ぶ。時刻表の看板に予定していた列車の記載がないので、周りの人に尋ねると、ドイツ語、英語、フランス語、日本語が入り乱れる状態になった。ともあれ、一七時一五分発ザールブルッケン行きの特急に乗る。

列車はモーゼル川を山峡沿いに上がって行く。その景色はライン本流に比べ小ぶりであるが、河畔には教会を中心にした絵本のような村々が点在していて美しい。所々で山肌に築かれた砦のような古城が見え隠れする。みち子さんはメルヘンチックだと言いながら眺めていた。

ドイツの駅は改札口がなく、ホームへは自由に出入りができ、駅員も少ない。構内放送も殆どなく、ホームのベルも耳にしない。発車時刻が来ると動き、駅に着くと停まる。粛然としたものである。座席に停車駅の発着案内のパンフレットが置かれてあって車内放送は次の駅を一言告げるだけである。無駄口がなく心地よい。効率の美を感じる。ただ、車両の扉が閉まる時は自動で、開く時は手動のため降りる時に戸惑った。

約一時間でウィトリッチに着く。プラットホームの最後尾に降り立つとそこは長閑な田舎駅であった。少ない降車客の人影が消えていく中、ホームを歩いて行くと向こうから若い男性が近づいて来た。知人から紹介を得ていたアントニオ・ナシメントというワインランドの社員であった。彼は二八歳のポルトガル出身の青年で、日本語で書かれた名刺を出し、日本に行ったことがあり、皆にはトニーと呼ばれていると言う。ひと安心で駅を出て彼の車に乗り込む。

二〇分ほど林の中を走ると川沿いの町が見えて来た。町はモーゼル川の両岸を挟み形の良い橋で繋がっている。私達のホテルがあるベルンカステルの町は橋を渡った向こう側であった。人口は千人程度だという小さな町だが、街並みはきれいで石畳の路に瀟洒な建物が並んでいる。そこかしこにお洒落な宿屋といった感じのホテルがある。トニーに訊くと、モーゼルに来る観光客は多く、ドイツ国内の名所であるらしい。日本人は少ないと言う。

一九時位に私達の投宿するPOST・HOTELに着く。白壁に垂木が通った小粋な建物のホテルであった。トニーを夕食に誘うが、母親と約束があるので、お二人でどうぞと言う。そういえば今日は日曜日であった。彼に礼を言い、土産に持ってきた和紙のコースターと箸箱セットを渡して別れる。

部屋は三三四号室である。さほど広くはないが片付いている。リフトのボタンはロビー、1F,2F,3Fとなっていて、どういう訳か、三三四号室は2Fであった。みち子さんは〇階というのがピンとこないと言う。

荷物を置きホテルの外に出る。二〇時を過ぎていたが日本より緯度が高いので外は明るい。ホテルの前の路を馬車が通っていく。カメラを向けると笑顔で手を振ってくれる。散歩がてらにトニーに聞いていたレストランへ向かう。路のすぐ横がモーゼル川の船着き場になっており、スマートな遊覧船が二隻繋がれていた。岸辺に佇むと川面に白鳥が一羽浮かんでおり、こちらに近づいて来る。人に馴れているらしい。

五分足らず歩くと、来る時に渡った橋のたもとに出た。トニーの言う店は橋の前からマーケット広場に通じる路添いにあった。店頭にテーブルが四脚あって二組の男女が何か食べていた。店内に入ると中央がカウンターになっており、中に若い女の子がいた。何か食べたい旨を伝えてみたが、言葉が通じず要領を得ない。店頭のテーブルに座り、隣の客にメニュー書の説明を求める。この店は魚料理が良いと言うので鮭のグリルを二つとサラダを一つ、それと白ワインを頼むことにした。その客が店の女の子に注文をしてくれた。

トニーがいう店は、本当にここなのかと不安がよぎった。暫らく待つと、じゃが芋の蒸したものが一盛りと注文の料理が出てきた。ドイツを実感しながら食う。味はまずまずであった。
食事を終えて、みち子さんがマーケット広場に向かう。小生も供をする。四百年前の姿を留めるという奇麗な建物に囲まれた石畳の小さな広場であった。今も現役の商店が並んでいる。その国の生活文化のレベルは商店街を見れば解かるということが実感させられる。

暮れなずむ広場を後にして、ホテルへ向かう。ヨーロッパ大陸の真中に来ていると思いながら歩く。長かった一日が漸く終わりになる。





2014.09.21 欧州旅行記
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桐箱入り、表装は京都龍村の裂地、私の欧州旅行記一冊、平成七年の作
ただ一人の読者(女房殿)への銀婚記念の贈り物である

其処彼処とケルト十字のペーパーナイフを探したが、見つからない
私にとっては、哀しいことである
スコットランド・ウェールズを訪れた時の記念品だった

七年前になるが、友人が英国に居たこともあり女房殿との夫婦旅だった
事情があり、香港を拠点とするキャセイパシフィック航空で行った
事情とは、女房殿の亡き父親を偲んで、香港立ち寄りを兼ねた旅でもあった
私にとっては、先の欧州旅行に続くケルト文化の痕跡を訪ねる旅でもあった
女房殿の父親は逓信省、後の電電公社の職員で戦時中は香港に居た
女房殿は子供の頃に、生前の父親から香港の話をよく聞かされていたという

ロンドンに着いてから、バスツアーを利用しウェールズ三泊四日の旅
ロンドンに戻って今度は、国内便航空を使ったスコットランド三泊四日の夫婦二人旅
その時訪れたエジンバラ城で記念に購入したのが、ケルト十字のペーパーナイフ
旅では余り買い物はしない私である、理由は荷物が増えるのを厭うためである
買うとしても、軽くて小さい物にする、そして女房殿は物欲が無い女性である
その代わり、写真は多く取る様にしている、幾ら撮っても目方は増えない

英国では二百枚余り撮り、帰路寄った香港では三十枚余り撮った
最後に九龍島を訪れ、列車で帰った後で、車内の写真機を忘れ、そのままとなる
警察に行って事情を伝え、写真機は渡すからフィルムだけと願ったが、無駄だった
ホテルで買うたインスタントカメラで撮った二十枚程度の香港の写真だけとなった
スコットランド・ウェールズ旅行の唯一の記念であったケルト十字のペーパーナイフ
探しても見つからないとは、私には哀しい話であるということ

然しながら、引っ張り出した先の欧州旅行記、読み返しながら思った
十二日間、五十頁余り、このブログに載せてみようと邪まな思いである
明日から「お目だるいこと」になりますが、ご容赦を
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ケルト十字のペーパーナイフは見つからなかった
代りに、埃を被ったスコッチウィスキーを目にしたので、玉杯であおる

スコットランド独立はならなかったが、スコットランドは勝利したと私は思う
当初は三割にも満たなかった独立派を、僅差の接戦まで押上げた独立党
選挙当日になって、心情独立派ながら反対票を入れる住民が多かったとか
それで良いのである、独立のリスクを回避して現実的な利益獲得を得た
選挙結果を見て、スコットランド民族党のサモンド党首は辞任を表明したと云う
彼は「してやったり」とほくそ笑んでいるだろう、多くの独立派も同調のハズだ

スコットランドは独立への選挙戦へ持ち込んで、独立運動を精一杯に戦い抜いた
そして、選挙戦は敗れたが、実質的な勝利と民族の矜持と誇りを歴史に残した
更に、同じケルト系のウェールズや北アイルランドへの間接的支援にもなった、
私は今回のスコットランド独立運動で、欧州人の強かな政治風土に触れた気がする

先の日曜日のNHKのBS放送で「元寇」の話を取り上げた番組をみた
世界最大最強国・元の侵略を前にし、日本の時の権力者・北条時宗の決断と行動
屈服し隷属するか、敢然と戦うかという選択で、戦うことを決断した是非である
四人の論者の中で是としたのは一人、残り三人は非とする見解であった

後の風評で、元寇は「神風」の所為で日本がタマタマ勝てたという話に作られていく
然し、元軍十四万を相手に、二か月間も上陸を許さなかった鎌倉武士の戦いぶり
元軍は昼は上陸を試みるが成功せず、夜は軍船に退去ということが二か月続いた
二か月である、元軍の士気も萎え水食糧も欠乏し病人も多く出て、軍船も傷むという状況下
その上に、絶え間ない日本軍の夜襲が続き、挙句に元軍の副将まで打ち取られる始末、
タマタマ風雨か荒れたというより、この時期の二か月、台風が来て当り前である
そこまで戦い抜いた鎌倉武士の完全勝利であったと、元寇の役を私はそう思っている

非とした三人は、「タマタマ勝てたから良かったが、もし負けていたら・・」
「屈服・隷属したとしても、うまくすれば何とかやれたと思われる・・」
「戦闘は武士(兵)だけでなく、一般民衆も巻き込まれる危険な選択だ・・」
云々カンヌンのご意見であった、私はこれが今の日本人の良識派かと、唖然・アングリ

スコットランドの選挙は平日に行われた
選挙といえば日曜日と思っている日本人には意味が分かり辛いところだ
欧州人の社会常識は、一にプライベート、二に民主主義、三に仕事だと聞く
その選挙投票率が九割近くあったことでも、政治・社会の熟性度が感じ取れる

無題
ケルト十字の剣

昨夜から今朝にかけて探し物をしているが見つからない
探し物とは、ケルト十字の剣を象ったペーパーナイフである
七年前、スコットランドのエジンバラ城を女房殿同伴で訪れた時に買うたもの
菓子切に丁度具合が良いと思ったのだが、茶会では目立ち過ぎた
キチガイ(私)が刃物をちらせているようで、茶会の雰囲気に沿わない
それで、どこかに仕舞ったままとなり、ボケの進行、仕舞った場所を忘れた

実は私、若い頃にアイヌ民族とケルト民族に関心を持っていた
北海道に行き、コタン巡りをしてウタリ協会の記念館に行ったりした
そして、ケルト民族の故地とも云われるドイツのモーゼル地方を十五年前に訪れた
ケルト民族は紀元前に今のスペイン。フランス・ドイツ、バルカン半島にかけ活動
ほぼ欧州中央部全域の先住民といえる民族で、独自の文化と言語を持っていた
それがローマ帝国やゲルマン人、フランク人、サラセン人の圧迫を受け消滅したとか

そのケルトが今の英国と云われるブリテン諸島やフランスのブルターニュ地方に残存
然し、更なるローマ帝国の侵入でブリテン諸島の片隅へ追いやられたのである
ローマ帝国の衰退でローマ軍がブリテン諸島を去った後、これまた新たな異民族が侵入
北ドイツ辺りからのアングロ人とサクソン人、北欧のバイキングが入って来るという難儀
ケルト系の人達は、今のウェールズ、アイルランド、スコットランドに追い詰めながらも抵抗
三百年前に事実上の併合でアングロサクソン人のイングランドとの連合王国へ組み込まれる
私は七年前にウェールズ、とスコットランドにケルト文化を訪ねる旅をした、勿論女房殿同伴

今日のスコットランド住民選挙とは、ケルト国家の復活・独立を賭けた闘争になっている
私はスコットランドの、更にはウェールズ、アイルランド、ブルターニュのケルト連邦を支持したい
同様に、日本の北方領土が戻るなら、そこはアイヌ民族の人達の自治国でありたいと願う
そして、アイヌ自治国と沖縄自治国は国連に議席を得て、日本との三本の矢となればと思う

もう一度、ケルト十字のペーパーナイフを探してみよう

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近所の花屋さんで見付けた「サザンクロス」、花言葉は「願いをかなえて」
花の名は、オーストラリア原産の星形の花であることから日本で名づけられた
英名のサザンクロス(南十字星)はセリ科の別の花だとか
南十字星は地球の南半球で見られる星座で、北半球の北斗七星と対比される

思うに、日本文化の感性(感傷?)の対象は「花鳥風月」とかいわれ、星が無いこと
和歌・俳句にも「花鳥風月」に比べて「星」は少ないように思われる
茶の湯の中、曰く「茶噺」でも星を対象とした話が少ないのは何故だろうか
その訳が知りたく、「願いをかなえて」と夜空を見上げても、南十字星は見えない

私が初めて南十字星を見たのは、南洋の木材を日本に運ぶ船に乗っていた頃
二十三歳の時で、感傷じみた思いを持ったことが今以て記憶にある
「二十年余り前、自分と同じ歳ぐらいの多くの若者がこの星を見ながら死んでいったのか」
先の大戦では、百数十万の日本軍将兵が南方戦線で戦死、多くは二十代であった

南十字星を見ながら、私には「日本に帰りたい」との彼らの願いが伝わってきた気がした
恐らく、彼等には南十字星の星座と北斗七星の星座が重なり合ったのだろうと思う
近頃、長生きすることが良いことかどうか、悩ましい思いになることがある、感傷か?

願いがかなった・・、朝刊に天皇陛下のパラオ諸島訪問の話が報じられていた
ペリリュー島で眠る一万人余の日本軍将兵の「願いをかなえて」に報いる日が来る
パラオ共和国の国旗は日本の「日の丸」に似せたと聞く、嬉しい
2014.09.17 才色兼備
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、曼珠沙華(まんじゅしゃげ))が咲き出した、彼岸花(ヒガンバナ、死人花(しびとばな)とも

満州生まれの李香蘭、こと山口淑子のことを書いたが、散歩途中で曼珠沙華を見た
そして思い出した歌

わたしゃ十六満州娘  春よ三月雪解けに
曼珠沙華(ちんちゅぅほぉお~わぁ)咲いたなら
お嫁にゆきます隣村  王さん待っててちょうだいな 


散歩から帰って、産経新聞の朝刊にある「産経抄」で山口洋子さんの死を知った
「山口」続きの洒落話と云うには不謹慎だが、共通するものを感じた
山口淑子さんと同じく、山口洋子さんの人生も女優から始まった

昭和三十二年の東映ニューフェイス四期生、同期に佐久間良子・花園ひろみ・山城新伍等
然し、山口は女優を諦めてクラブ「姫」のママとなり、銀座の有名人として頭角を現す
そして、作詞家として「よこはま たそがれ」等をヒットさせ、昭和六十年には直木賞授章、

♪ 妻をめとらば才たけて みめ美わしく情ある ♪

まさに、亡くなった山口さんという二人の女性は、歌の文句そのもの、才色兼備であった
然り乍ら、才たけて、みめ美わしき二人の山口さん、妻としての人生は、とも考えてしまう
2014.09.15 李香蘭死去
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今日の新聞に「李香蘭」こと(山口淑子)死去の記事があった
昭和15年の映画「支那の夜」の劇中歌となり主演の李香蘭が歌った「蘇州夜曲」
私は、この歌に何とも云えぬ哀愁と異国の旅情を感じて好きな歌である

満州生まれの李香蘭は、終戦を上海で迎えて、祖国を裏切った漢奸として連行される
中華民國の軍事裁判で死刑のところ、日本人であることが証明され助命、国外追放処分となる
歴史学者の古川隆久は国策映画説を否定し、「典型的な娯楽映画」であると主張しており
実際、「支那の夜」は公開当初から終戦直後まで、次の国々上映されている
支那全土・香港・[台湾・朝鮮・米国・ベトナム・タイ・フィリピン・ビルマ・インドネシア等である
大衆的な歓迎を受けた李香蘭は、南方華僑の崇拝の対象となりつつあった
「支那の夜」の成功は、李香蘭の魅力と共に、華僑の郷愁を含めての支持があったとされる

日本に帰へした後、「山口淑子」に戻って銀幕に復帰、日本映画を中心に活躍する
また、アメリカに渡り、シャーリー山口(Shirley Yamaguchi)の名でハリウッド映画に主演
ブロードウェイでのミュージカルにも主役で出演。彫刻家イサム・ノグチと知り合い結婚。
鎌倉の北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエと住まいを構えたが、昭和三十六年に離婚する。
そして、昭和四十九年)に時の総理・田中角栄の要請で参議院議員全国区に出馬し、初当選
その波瀾の人生は、宝塚出身の美人女優が参議院議長にまでなった扇千景」の姿ではなく
私には、あの「新橋芸者・照葉」、祇王寺庵主・高岡 智照」の生き様が思い浮かぶのである
李香蘭・山口淑子・・大正九年満州生まれの享年九十四歳、私の母親と一つ違いである

今朝は、唐代の詩人・張継の「蘇州・寒山寺・楓橋夜泊の詩」の拓本を掛けた(写真)
「蘇州夜曲」の調べと「李香蘭」の生涯に思いを馳せつつ、「山口淑子」の冥福を祈る
2014.09.13 花所望
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今日は二時席入ということで、、いわゆる「飯後の茶事」である
前に、三条通りの蕎麦屋さん「かえる庵」での失態に対する「詫び」茶である

「かえる庵」での失態とは、庵主が一服点てる準備をしてくれた時のこと
薬師寺茶会で知己を得た御二方と塾生も集まり、庵主は炭を熾し釜を掛けていた
中に入った私は「おや、今日は茶の用意までされてエエ雰囲気ですな」と一言
すると庵主が手を差し出すので、私は「何に?握手?」と云うと、庵主が怪訝な顔
「貴方がお茶を持参してくれるハズだったでしょう」と庵主、私は泰然自若が茫然自失へ
私の完全なるボケ失念、その日は皆で日本酒とそば、奥方の肴を黙々と頂いた

そんなことで、薬師寺茶会の御二方への「詫び」茶事をしたと云う次第である
幸い、以前より機会があればと云うていた青年華道家も来てくれることになった
それでは「花所望」と云うと、その青年華道家は快く受諾してくれた
私も四.五種の花を用意していたが、その青年華道家も四.五種の花を持参
青年が花と花入、花台の前に出、花鋏み、剣山、水次、霧吹き、布巾を載せた盆横に坐す
さすがにと云うか、その所作・仕種、そして表情と姿勢に凛としたものが漂う

談笑していた皆の衆、何時しか押し黙り姿勢を正す、静謐な時が流れた
前日に東京で葬儀があった為、準備を手伝いに来てくれた半塾生も一緒した
青年華道家は、五つの花入に花を挿してくれたので、其々似合いの場に置く
それから露地待合いに出てもらい、銅鑼の音で茶囲い「朋庵」へ、茶席となる
折り敷盆に汁椀と柳箸、汁椀には白玉に金時豆の「黒糖琉球ぜんざい」仕立て
因みに、「善哉・ぜんざい」の名付け親は一休宗純和尚だとか
一畳半の小間に男四人、濃茶を練り、そのまま続いての薄茶、「直ぐ点て」とした

あれこれと会話が進み出し、茶事が初めてと云う男衆四人ながら、好い茶の湯となった
黒糖がぜんざいの元祖、茶は花入で華道は花器、暑さを和らげる「朋庵雨馳走」云々
広間の色紙の一文字「和」、やわらぎの茶の湯となったと、私は得意の勝手読み
皆の衆、其々に「茶の湯」の認識を新たにした様子であったと、これまた勝手読み
帰り際に青年華道家がボソリ一言、「これまでの茶会と違い、思いが変わりました」、
そして、「今度、彼女を連れて来ても良いですか?」と続ける・・隠れ茶房「朋庵」?

そんなこんなで、最後に土産の「どら焼き」を渡し忘れた、ボケの進化は止まらない

2014.09.13 東司の門番
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トイレの神様用に云うと、青年華道家の目が沈んだ、では東司の門番と云うと彼の目は和らいだ
花は「沢桔梗・さわきよう、秋海棠・しゅうかいどう」
まま、蛇足ながら「東司・とうす」という言葉、便所のことを云う寺院言葉である
茶会が寺院でよく催されることから、茶人の間で使われることも多い
2014.09.13 玄関の花
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玄関は「秋海棠・しゅかいどう」、花入は「春日野」、裏の板地は「春日杉古木」
掛釘は無視のこと
2014.09.13 小間床の花
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花は「葛・かずら、濃りんどう」、花入は青銅、小間床壁に掛ける、下地窓の明りを受ける
2014.09.13 広間床の花
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花は「檜扇・ひおうぎ、濃りんどう」、花入は備前、花台は春日杉
この花挿しの味わい、私は唸った、こんな濃竜胆の挿し方は初めて見た
私の仕事の恩師の訃報が入り、本日は通夜で明日は葬儀と云うことである
私が流通産業に身を置いて間もない頃、学校の先輩の紹介で/知己を得た
私は未だ二〇代、教えられる内容が新鮮で解り易く、渇きに水の如くであった
流通産業を超え、人生観・歴史観というものまで、肌から伝わって来た

昨年、八月二五日の私のブログ「流通革命の旗手Ⅲ」にその恩師のことを載せさせてもらった
「U氏」その人が私の恩師である、体力・知力・胆力に頭抜けた御仁であるが、何より
その人柄・徳性、そして清心、「素晴らしい」の一言に尽きる、私は心より尊敬申し上げている
協業体チェーンであるニチリウとCGCジャパンの育ての親でもある
昨年八月二五日のブログ記事、ここに載せて恩師のご冥福を祈る

http://houan7010.blog.fc2.com/blog-entry-107.html

2014.09.10 猿の壺
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近所に畑で見たエンドウ豆の花
エンドウ豆の栽培は古く、古代オリエントで麦作と同時に始まったという

この前の日曜稽古の雑談で、「猿の壺の中の手」の話題になった
猿が壺の中の麦か豆を握って手が抜けず、捕まったあの話だ
出典は、聖書か論語がイソップか忘れたが、日本の昔話ではなかろう
要は、握っている物を捨てれば救われるという、捨てて棄てての仏法臭い
先のブログでも「断捨離」を記事にしたが、日曜日の稽古のあと思ったこと

この「猿壺」の話、欲得の我執と見做せば、神も仏も孔子も訓示を垂れるだろう
しかし、その猿が「すずめうり」のブログ記事にした「すずめのかあさん」の母すずめなら
壺に手を入れ、食べ物を持ち帰ろうとする猿が、飢えた小猿を持つ母猿ならどうだろう
猿に所有権の論理・善悪は通じない、山の木の実も畑の作物も、皆同じ餌である
そうすると、「猿壺」の話は違ったことになってくる気がする

人間の「猿壺」話は人が捨てるべき我執や嫉妬の話と繋がる説法じみたものになる
昔に聞いた話で、我執や嫉妬に二種の思念があるというのを、近頃分る気がしている
エンヴィー(envy)とジェラシー (jealousy)とかいう、うろ覚えの話ではある

元々自分に持っていないものを、人が持っていると欲しいと思うのが「エンヴィー」
自分が持っているものを失いたくないと思うのが「ジェラシー」と区別する哲学くさいもの
有体に云えば、別嬪さんを恋人に持つ男を羨ましがる思いが羨望「エンヴィー」
自分の惚れていた女性を恋人にした男に対する思いが嫉妬「ジェラシー」
こう見ると「ジェラシー」の方が怨念や憎しみがが生まれ、事態は悪化するようだ

この「エンヴィー」という感情は、時として、曰く「ルサンチマン」という情念になり易いとか
嫉妬や羨望が底意にある情念は、憤り・怨恨・憎悪・非難、そして自己欺瞞を含み、他へ転嫁する
自分の陥っている状態を正当化しようとする願望こそ、奴隷精神の最大の特徴であるとする。
つまり、自分は無力非才だが、アイツ等が立派であるのは許さないという「逆切れ」である

ルサンチマンの表れとして敵を想定し、自己の正当性を主張するイデオロギーにあるとか聞く
敵が悪の元凶であり、反対に自分は道徳的に優れていると主張する思考形態になる
「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」ということで、持てる者恵まれた者への攻撃を始める
一口で云えば、ヒガミ・ネタミから来る自己正当化と、力や才のある者へのソシリ根性である

話の流れで、知った気に小難しい話を書いたが、云いたいことは「耳順」への実感話
三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う
とうの昔に還暦を超えた私がこんな話を耳にして、素直に頷けるようになったかな、と思えること
さすれば、「エンヴィー」と「ジェラシー」そして「ルサンチマン」の思考が見える様になるハズだが
「猿の壺」、必死で欲しがるなら壺を割って、その猿に渡してあげるのが良いのかも

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昨夜は中秋の名月、新塾生の「盆点前」の稽古風景
まま、円いお盆を十五夜満月に見立てたのである

三人の真ん中には、高坏に月見団子を盛り、窓は開けた
但し、デング熱への「緊張」から蚊を恐れ、網戸は閉めた
窓外の名月がクッキリと映え、さすがに中秋の名月と納得
空調を切り、窓を開放すると涼風が入り、近年になく中秋を感じた

然はあれど、新塾生のお手並み・・、アクセルを踏みたい・・
どうも着こなしが今一つで、点前稽古の前に、帯の結び方稽古をする
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男帯の結び方稽古、「貝ノ口」結びの変形型である
細身の体ながら帯が長いという新塾生の帯結びだ
昔、「長谷川和夫」が結んだもので、いなせな結びといわれたもの

男帯の巻き方は上方と関東で反対になることを知る人が少なくなった
上方は時計回りに巻き、関東はその逆である
故に、「貝ノ口」や「浪人結び」は左右反対向き、逆に仕上がる
テレビ時代劇では、江戸者役が上方巻きであったり、上方者が関東巻きとか
NHKの時代考証のずさんぶり同様、気に掛るところである

時代劇の製作者のレベルの低さもあるが、云いたいのはそういうことでない
連綿と続いて来た日本人の生活文化が、ここ五〇年位で崩れていくこと
尺貫法が無くなってから、日本文化の風化が急速に進んだと、私は思う
貨幣と計量法、そして暦が国の独自性、真の独立を表すものである
そういう意味では、英米国の独自精神はそれなりに大したものだと思う
グローバルじゃなんじゃとオヌカシの御連中、お尻をフリフリ歩いていなさる

お尻ふりふりで思ったのだが、最近の女子衆はんの帯結びのこと
武家結び(一文字)を目にすることがなくなったが何故だろう、いい形だが
薙刀は武家結びの女子衆に似合うが、お太鼓帯に薙刀では鼻白む