rannzyatai900.jpg
蘭奢待(らんじゃたい)、長さ156cm、重さ11.6kgの錐形の香の原木
東南アジア産出の高級香木、成分から伽羅(キャラ)に分類され、「黄熟香」と呼ばれる
「蘭奢待」の三文字には、「東」「大」「寺」の字が隠されていると云うのが「ミソ」とか
香木の一般的なランクは「白檀」「沈香」「伽羅」の順で,、伽羅が最上物とされている

百年ぶりの改修を終え、今一般公開されている東大寺正倉院に収蔵されている
聖武天皇の代(724–749年)に唐土から渡来したと伝わっている
また、「日本書紀」や聖徳太子伝暦の推古天皇三年(595年)記述という説もある
天下第一の名香と謳われ、時の権力者の行状が伝えられている

寛仁三年(1019年)、藤原道長が宝物を見る
•至徳(元中)二年(1385年)、足利義満が宝物を見る
•永享元年(1429年)、足利義教(よしのり)が宝物を見る
•寛正六年(1465年)、足利義政が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る
•天正二年(1574年)、織田信長が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る
•明治十年(1877年)、明治天皇が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る

近年の調査によると、切り取り跡が三〇箇所以上見られることが判明
運搬者なり、保管者なり、時代時代の邪まな連中がくすねたのであろう
まま、上記の中では、明治天皇は別であろう、何せ天皇家の物なのだ

足利将軍は明皇帝から「日本国王」として冊封を受けた不届き者
そして、明皇帝へ朝貢する形で貿易利益を得たという邪悪者
更には、明銭を日本国内で流通させろという、国家を損なう痴れ者
何より、後醍醐天皇を吉野に追いやり、将軍になったという慮外者家系
そういう邪まさが、天皇家宝物「蘭奢待」切り取りの先例を作ったのである

実は、私も邪まな連中の一人、正倉院は中学からの遊び場であった
ここだけの話ながら、ある時に正倉院の屋根裏から侵入したのである
「蘭奢待」を見つけたところで「落下意識」に襲われ、そこで目が覚めた(^^)
スポンサーサイト
2014.10.30 独楽香合
2014103005110000.jpg
独楽(こま)香合、中の香木は正倉院から失敬した「蘭奢待・らんじゃたい」(^^)
香合は風炉時期は木製を使い、炉時期は陶器を使い、貝は何時でも良しとされる
貝殻も角も似た様な物だと、私はアフリカ水牛の角製小箱を年中香合に使っている

昨日、高校の同級生が自作の米を娘一家の分まで持って来てくれ、碁を打った
自分達も分け前に預かるとあってか、早速に娘は赤子を抱いて挨拶に出て来た
同級生は赤子を見ながら「女の子か、エエな、女の子は親の世話をしてくれる」と話す
私がチラっと娘に顔を向けると、娘はシラっとした顔で受け答えをする
「そうとは限りませんよ、その人にも、その親にも依ります」、とヌカシタレタのだ・・

同級生は息子二人で女の子がいない、長男は嫁の実家近くに家を建てて住んでいる
にも拘らず、同級生は今、家の補修改装をしていて、「後、五〇年持つように」と云う
彼が云うには、「息子も、定年になったら戻って来ると、云うとるさかいな」
私は思わず、「そんなこと、あらへんて」と云いかけたが、彼が妙に真顔なので止める
碁は、一時間足らずで負けた

夜には違う同級生から電メール入る、「ハロウィンの記事見たで」で始まっていた
彼は水産会社定年後、子会社の社長を三期務め、去年から顧問として週三日出社になった
仕事好きの彼は「毎日出社する」と云うので、私は「傍迷惑やで、三日以上はアカン」と諭す
少しは彼も分ったのか、余った時間を「活動」、体を動かすことに振り向けていると聞く
昨日のメールでは「一昨日は自宅(生駒)から正倉院を歩いて往復した」とあり、更には
「先週土曜日は十津川村果無集落に、今月初めには和歌山の太地に、中頃は佐賀の唐津、博多、岡山と出張やプライベートなどで、旅をした」、と続いていた

私はその彼に、「マグロ人間やな、生きている間は泳ぎ続けんと溺死する奴」と返信した
そう云えば「独楽人間」も同じ、回り続けている間は立っているが、止まると倒れる
まま、それも人生、一局の碁であろうかと、私はパソコンを閉じた
十一月三日の「明治節」は和歌山の朋友との囲碁定期戦、春秋の年二回やっている
これまで私の七連敗、そろそろ勝たねばと、胸に期するところあり
2014102807030000.jpg
竹藪の道で見た「ヒヨドリジョウゴ」の赤い実、ナス科
「ジョウゴ」とは「上戸・下戸」の上戸、いわゆる酒に強い「飲兵衛・のんべぃ」
飲兵衛の顔が赤いところから、「ヒヨドリ上戸」と名付けられたという


赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた
白い鳥 小鳥 なぜなぜ白い 白い実を食べた
青い鳥 小鳥 なぜなぜ青い 青い実を食べた

北原白秋作詞の童謡歌、単純と云えば単純だが、分かり易くて良い
大正七年に夏目漱石門下の小説家・鈴木三重吉が独自に雑誌「赤い鳥」を創刊
三重吉は白秋に童謡部門の執筆・構成を依頼、白秋の窮乏を救う

白秋は伝統的なわらべ歌の味わいを大切にしつつ、新しさを出すことに努めた
中でも「赤い鳥小鳥」を「私の童謡の本源である」とまで白秋は云ったとか
北海道帯広に伝わる子守唄をヒントに創作したということである

鈴木三重吉とは酒の上の争いから袂を分けたと聞く、お互い「上戸」だったようだ
そう云えば、白秋と懇意であった同郷の詩人・若山牧水も酒豪で知られていた
余談ながら、大阪・法善寺横丁に「牧水」という酒場がある、床の軸には「牧水」とある

白秋は糖尿病の悪化で五七歳で逝去、死の前に奈良を訪れたことは前に記事にした
私には身につまされる話であり、ヒヨドリジョウゴの「赤い実」、歌は哀調を帯びて聞こえる
法善寺の「牧水」に「ウズラ」の丸焼きはあったが、「ヒヨドリ」は無かった
2014.10.28 カミ
2014102415350000.jpg
花名は知らない、今朝の散歩途中の近くを流れる川の岸で見掛けた花、
ブロック壁の隙間から出て、妖艶な花を付けている、和花ではないと思うが・・

妖艶と云えば、昨日の続きになるがケルトの神には妖怪が多いらしい
押しなべて、キリスト教浸透前の北欧には妖怪話があり、今に伝わっているようだ
それも人に親しまれる存在が多いようだ、「ムーミン」もその一つという
日本の神にも、可愛い神(少彦名)や悪戯神、乱暴神や祟り神、福の神、幸の神等がいる

ギリシャ神話や旧約聖書も民族の神々の系統を記録や記憶に残したものと云える
我々に残された古事記も、大和民族と国の起りを神々の話に織り成して伝えたもの
その民族が伝え残した神話とは、その民族の至宝と云えるであろう。

この多神教でいう神々の「神」と一神教の「神」とは、その概念が違っていると思われる
一神教は「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」という「選民思想」を元にする教え
それは「神との契約ありき」が元になり、旧約・新約の聖書やコーランの啓典宗教である
どうにも、我々の持つ八百万の神様方とは、毛色を異にする概念であるようだ
江戸期末に和訳された聖書には、「神」という概念を記すのに苦労の後が偲ばれる

「始まりに賢い者ござる。この賢い者、極楽と共にござる。この賢いものは極楽・・.云々」

ここでは「神」という言葉を使えないでいる、それが正しい感覚だろう
一神教は「神」と「教え」の名の基に、昔も今も人殺しロジックを操り、大量殺人を繰り返す
多神教の寛容性がない人々は、いつ何時にも、人殺し集団に変身する危険性がある
そう云えば、「変身」が得意技であった「ウルトラマン」、多神教では一つの神であろう

「貴方は神を信じますか」 「信じる者は救われる」

昔、公衆便所の大便器の前に、気の利いた落書きがあり、感心した記憶がある
「 カミに見放された者よ、ウンは己の手でつかめ 」
後で私は、念入りに念入りに、シッカリと手を洗った
2014102316340000.jpg
暗緑色の実を付けた空木(うつぎ)、ユキノシタ科、近くの公園に植わっていた
熟すと赤や黄色になる実が多いが、空木の実は暗緑色のままである
中が空洞になった木と云う意味で空(うつろ)木と呼ばれているとか
花は「卯の花」と呼ばれ、卯月の花、旧暦卯月は新暦の五月半ば過ぎ

中は空洞で、ウツロな木と云われると、何となく身につまされる
ウツロ(虚ろ)な身では、後は神頼みしか有るまいと思ったが、はてはて、神無月
日本全国の神様衆は出雲大社に集まっておられて、土地土地の神様は留守とか
よって、出雲の国だけは、十月を「神在月・かみありつき」というとかなんとか
ヒガミ根性の強い私は、ここであることに気が付いた、高松宮内親王の出雲輿入れ

日本中の神様を集め、そこで華燭の祭典をなんぞとは、知恵を利かしたつもりの宮内庁
然し、本来の神無月は旧暦十月のこと、まして今年は閏(うるう)九月が入っている
となれば、今年の出雲神在月は新暦一月頃となるハズ、八百万の神々はまだ自宅
小役人の浅知恵め、と、ほくそ笑む私、また「神在月」も出雲大社の後付け話とか聞く

調べると、「人口に膾炙される出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなると言われるものは、後付けの中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた民間語源とされる。なお、その説においても、留守神という性格を持つ神も存在し、すべての神が出雲に出向くわけではない」、とあった

こんな話を思い出したのも「ハロウィン」の「カボチャ提灯」からである
先に「ハロウィン」はケルト民族の行事であったと書いたが、そのケルト神話
日本と同様、多神教であって、名前を付けられた神でも三百神が存在するという
まま、日本の八百万(やおよろず)とまではいかなくとも多神である
そして、パンテオン(全ての神々)宮殿に集まるというのも神無月と同じ思考である

日本人は外来宗教である仏教の釈迦や菩薩も八百万の神の中に入れている
仏教の元、ヒンズー教も多神教なので、それはそれで許される話であろう
しかしどうも、イエスもマリアも、ペトロ・ヤクボ・ユダ・パウロ達も入れているようだ
桃山期のバテレン武将茶人の思考と行動には、そんな節があるような感じに思える
今の日本の無為徒食の若者は、アラーの神も入れてイスラム国へ行きたがるかも

この辺りで、頭が空ろ木になって来た・・



2014.10.26 カボチャ提灯
2014102514170000.jpg
近所の塀に置かれた「ジャック・オー・ランタン」
いわゆる、ハロウィンのカボチャ提灯である

産時里帰り中で我が家を民宿然にしている娘一家とのボタンの掛け違い
先日、婿殿がソフトボール大のカボチャを持って帰って来て置いてあった
以前、第一子の里帰り中に、彼がカボチャが好物だと聞いていた
その時は、「カボチャ天ぷら」や「煮物カボチャ」を作ってやった記憶がある
なんだ、そうか、それならそうで遠慮せず云えばエエのに、と私は思った

早速、その置いてあったカボチャで「パンプキン・スープ」つまり、カボチャ汁を作った
食べ終えた後の娘夫婦からは、そんなに感謝の表情が見られなかった
「やっぱり煮物か天ぷらにした方が良かったかな」と聞くと、「美味しかったです」とだけ
ふ~ん、せっかく気を利かして、云われる前に「カボチャ料理」を作ったのに・・と私

昨日のこと、近所の子供が集まってワイワイ騒いでいるので見てみると
あれ、ハロウィン柄のスカーフや仮面を付けて歩いているのである
女房殿曰く、町内会の回覧で子供に菓子配り「トリック・オア・トリート」をする話だとか
迂闊であった、私はすぐ気付いた「婿殿のカボチャ」、悪いことをしてしもた

ハロウィンの起りはケルト民族の新年・正月行事の一環のもの
ケルトでは、冬至にあたる日から一年の始まりとして、色んな祭りや行事があった
焚き火をして周りを踊ったり、その火を持ち帰り、新しい年の家の暖炉の元火にする
ケルトでは元々「かぶら提灯」であったが、米国に渡って後「カボチャ提灯」になったとか
米国に渡ったケルトとは、イングランドの圧政から逃れたアイルランドやスコットランドの民

我々の茶の湯でも、冬至辺りの柚子が色付く頃に炉開きとなり、茶人の正月とする
ケルト民族と大和民族には何か共通点があると感慨を深めつつ、「カボチャ提灯」を見る
婿殿は、私の孫娘、つまり彼の娘に「カボチャ提灯」を作ってやろうとしていたのだった・・
2014.10.25 人類のDNA
2014102406530000.jpg
近所の垣根樹に植えられた山茶花が咲いた、白と赤のめずらしい種類である
咲く時期も少しづつ違えているということで、垣根は長く花模様となる
この垣根樹、樹上生活には適しない

昨日は低血糖を起し、冷や汗と震えが出た、糖尿病の私には時折起す症状である
インシュリンを打つ時間と量、その時点の血糖値とがバラランスを外すと起きる
里帰り中の二歳の孫娘の相手をしていると、否応なく体を動かすことになる
近所の公園の階段を三度も四度も上がったり下がったりの挙句、抱っこにおんぶ
私のカロリー消費量は多くなる、そこへ常のインシュリン投与、低血糖症状は理の当然
低血糖症状を起こすと、震えと共に冷や汗が出る、手の平・足の裏・ワキの下、額である

冷や汗は、鳥肌、落下感覚等々の恐怖性症状の一つだという、面白い話である
手に唾(つば)をして作業に取りかかると同様、手の平・足の裏を滑り難くするもの
それで、樹上移動をやり易くして、危険対象から遠ざかれるようするものだとか
眠りの中の「落下感覚」で正気になるのも、樹上生活時代の体感を残すものだそうな
「鳥肌」とは、逆毛を立てる症状で、危険相手に対して自分を大きく見せるためのもの
つまり、人類の遠い遠い過去に身に付けた名残りを引くものだと云う話である

学舎が云うには、六五〇〇年前頃に起こった隕石衝突に遡る話だとか
隕石衝突の結果、地球生物の王者であった恐竜が死滅し、小動物は生き残った、
小動物の中に哺乳類の祖先もいて、その中に我々人類の祖先「子ねずみ」もいた
「子ねずみ」の恐怖の対象は捕食動物である爬虫類や鳥類、特に「ヘビ」は第一の恐怖
我々の脳は、今以って「ヘビ」を見ると「鳥肌」が立ち、「冷や汗」が出るようにDNAが働く

地球の温暖化云々が云われているが、一千万年前頃は今より一〇度以上の平均温度
雨も多く地上は樹林で覆われ、動物は樹林生活に適応すべく変化と淘汰をしたという
我々祖先は外敵が来ない樹上に上がり群れを作って種の生存を図っということだそうな
樹上生活で最も危険なのは「落下」である、樹下には多く外敵が待ち構えている
故に、何時しか「落下」に反応できる自衛本能を身に付けたということである
我々が居眠りをしていて、落下意識に襲われ「ハタ」と正気に戻るのは、そのDNAだとか

昨日の低血糖症状で「冷や汗」、そのまま寝た今朝、「落下意識」で目が覚めた
私の体内は遥か昔の「DNA]が色濃く残っているのだろう
2014.10.23 無辜(むこ)
2014102306440000.jpg
アレチウリの花、秋篠川土手にはこびっている、北米原産の帰化植物
日本生態学会によって日本の侵略的外来種に選定されている、進駐軍である

今朝、愛犬ハナとの散歩帰りの途中、近所にお住いの卒塾者の方に会った
新聞を取りに出て来られたところであったが、明るい笑顔をこちらに向けられた
「昨日、初孫が生まれました、母子とも無事で安心しました」ということ
我が家に居候中の娘夫婦の第二子と二週間違いである、善き哉、善き哉

我が家に居る二歳前の孫娘、歩き出したのをエエことに、悪さをし出した
言葉みたいな語を五つ六つを口にし出す様になり、女房殿も振り回されている
「あっち」「こっち」「ないない」「おいちぃ」「あちっ」「ばっちゃ」「じっちゃ」等々
言語学でいう日本語の原形が「こっ」と「あっ」であったということが実感させられる

そして、もう一つ、悪さをしながら「にこっ」とする笑顔が何とも「無辜・むこ」で憎めない
一体全体、人間の本性、性善なるや性悪なるやと、考えさせられるところ

告子曰く
「性は猶ほ湍水のごときなり
諸を東方に決すれば、則ち東流し
諸を西方に決すれば、則ち西流す
人の性の善不善を分かつ無きは
猶ほ水の東西を分かつ無きがごときなり」と
孟子曰く
「水は信に東西を分かつ無きも、上下を分かつ無からんや
人の性の善なるは、猶ほ水の下きに就くがごときなり
人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し
今夫れ水は、搏ちて之を躍らせば、顙を過ごさしむべく
激して之を行れば、山に在らしむべし
是れ豈に水の性ならんや
其の勢則ち然らしむるなり
人の不善を為さしむべきは、其の性も亦猶ほ是くのごとければなり」と

まま、エエやないか
「無辜」とは善悪の分別無きカオスの如きと思うが如何
2014.10.22 エビガニ
2014101508520000_20141021042748a17.jpg

田圃の畦道で見掛けたエビガニ(ザリガニ)の死骸、尻尾部分がない
他にも数個が周りに転がっている、カラスに捕食された残骸である

私の子供の頃には「エビガニ」と呼んでいたが、最近は云わなくなったようだ
教科書や図鑑等の書物には「ザリガニ」と記載されているためであろう
図鑑の注釈に「エビガニという地方もある」と書かれている、まま、仕方ない

そして正しくは「アメリカザリガニ」とある、なれば「二ホンザリガニ」はと調べた
日本固有種で「ザリガニ」、「ヤマトザリガニ」とも呼ばれるとあった
かつて北日本の山間の川に分布していたが、今は北海道と東北三県だけとか
秋田県・大館市の生息地では国の天然記念物に指定されているが絶滅危惧種
二ホンザリガニはアメリカザリガニの半分にも満たない大きさで足がふと短い・・

私の子供の頃は、おやつは自給自足であった
山では柴栗、山柿、アケビ、グミ、銀杏、蜂の子、山芋、よその畑のスイカ・マクワウリ
川では鮒、鯉、鰻、鮎、川エビ、シジミ、池・田ではドジョウ、タニシ、どぶ貝(カラス貝)
そして「エビガニ」、エビガニは蒸し上げ頭部を捨て、尻尾の身を食べる(カラスと同じ)
私の母親は海育ちで川魚は鮎しか食べなかった、況や「エビガニ」、気持ち悪いの一言

中学の頃はエビガニでショックン(食用かえる)を釣り、学校に持って行き褒められた
でかいショックンを解剖実験に使うためである、学校は「カエル業者」から買うていた
私は「カエル業者」に売っていた、然し、学校にはタダで持って行ったので褒められたのだ

この食用カエルは日本人のタンパク質補給のため、アメリカから輸入されたものとか
それが逃げ出して各地の川・池で繁殖したのが「ショックン」だと後で知った
「エビガニ」も「アメリカザリガニ」であると知り、進駐軍め、毒を以って毒を制すだと思った

エビガニを見ていて、ふと思ったことが他にもあった
「肉を切らせて、骨を切る」という剣術の極意があるが、骨を切らせて、身を守るエビガニ
エビガニの骨はどこだろう、ショックン同様に解剖してみるか、「かに道楽」に聞くかと悩む

因みに、ザリガニのいわれは「いざり」カニであるという、差別用語かな
2014.10.21 でんでん太鼓
images4XQEQO0E.jpg


「でんでん太鼓」を持つ赤ん坊、ネットからの引用写真で私の孫の姿でない

「おでん」が「関東煮」のことだと知ったのは、私が中学生になってからだ
漫画で見た「おでん」は、三角や丸の形をしたもの三つぐらいの串刺しだった
どんなものか何時か食べてみたいと、子供心に思っていた
中学へ入学したある時、意を決して「おでん」を食べたいと親に無心してみた

次の日の夕飯は「鍋」、中には竹輪や厚揚げ、大根、コンニャク等であった
母が云うには、「ほら、おでん、作ったったさかいな、食べや」
私、「何や、関東煮(かんとうだき)やん」
母、「そうや、東京ではおでんて云うねんで」
私、「・・・、」 気が抜けた思いがしたこと、今も鮮明に記憶が残っている
然し、その鍋の中には、玉子と「はんぺん」は入っていなかった

玉子は当時の高級食物で病気の時にしか与えてもらえないものであった
「はんぺん」は奈良では売っていなかったようだ、私は東京へ行って初めて知った食物
「はんぺん」、他の「おでん種」より大きく立派で値段は同じだった、私は二個注文した
皿に出された「はんぺん」を愛おしく眺めてから口にした、「??」、歯ごたえが無い
屋台の親父が「はんぺん」を鍋の中に追加していた、先の物の半分以下の大きさである
つまり、水膨れというか、汁膨れするものだった、でも旨かった思いが残る

この前の稽古日のこと、件の「千家の茶人」を呼んで来た我が塾生の後日談が面白かった
無礼な仕儀に、私が「叩き出すで」と叱った「千家の茶号を持つ身」とオヌカシの件の御仁
後日、塾生のところへ御仁が謝りに来たという、その謝った内容を聞いて、私も皆もアングリ
「貴方のお茶の師匠を怒らせたことで、貴方のオデンに支障が出る」との心配だったと云う
オデンとは「相伝」のこと、芸道で師匠や家元が允許する「位」で、関東煮のことではない

私は成程と一面納得した、私の茶の稽古とは茶事を楽しむことが出来るようにするもの
早く習得してもらい、自分の茶事をする、茶事の亭主や客が出来るようにというものだ
何段階のも相伝とやら云う代物を、後生大事な嫁入り道具にする為の稽古ではない
「茶」で作り上げた「似非身分制度」の虚構や組織的集金システムとは、一線を画す

そもそも論で云えば、「伝・でん」とは儒教の経典の注釈書を記した「伝記」と云われるもの
孔子の教えの正統性を受け継ぐ者の証とされるようになったのが起こりのようだ
明治になるまで、上田宗箇流の茶には「台子の伝」、つまり免許皆伝の「伝」しかなかった
多くの武道もそうで、「伝」は免許皆伝一つであった、「段級位」は明治以降の産物である

稽古事の「伝」を階層付けすることで、稽古内容を増やし、稽古も増やすという悪循環
それが、稽古料や「おでん」料へと知恵が働いて、今の稽古茶・相伝の仕組みとなったもの
よって、何十年も稽古のための稽古を続ける「稽古事・習い事」の世界になる

世間を渡って仕事をして来た男がやる「茶の湯」、「お稽古事」とは別物である
出来れば三年、長くとも五年、それ以上の受け入れ拒否が「朋庵塾稽古」の掟
その辺り私の思惟、どうも「件の千家の茶人」には理解不能であるらしい

「でんでん太鼓」、子供の遊具だわな・・
2014.10.20 前礼後礼
2014101706320000.jpg
昨日の日曜日で、近くの田圃はすっかり刈り入れが終わったようだ
奈良の米は「ヒノヒカリ」という晩作型の品種で、なかなか美味い

日曜農家であった同級生も定年・嘱託を経て、今では純朴な農夫然
その同級生から電話が入った、「刈り入れ終わったさかい、来週持ってわ」
毎年のことであり、去年からは娘夫婦分まで一年の米を届けてくれている
然し、何度押し問答をしても代金は受け取ってくれない、私は礼を述べるだけ
その気兼ねの所為か、その同級生にどうにも碁が勝てないでいる・・言い訳か

昨日の稽古では、茶事の前礼と後礼の話をした、
茶事の案内があれば、自ら出向いて礼を述べ、行く行かないをを伝えるのが昔の礼儀
これは、案内が先方自らお越しの案内なれば、今でもそうするのが礼儀ということ
書簡での案内なれば、こちらも書簡の答礼でも良しとされる

茶事当日の土産は、人の好みのある物や飾り・器の類は避け、茶巾等の消耗品が良い
当世、御礼として金子の「お包み」を持参する人が多い、その場限りということであろう
然し、茶人は古来「茶事には茶事で返す」というのが本道とされていたようだ
「これはこれでお仕舞い」という意もある「お包み」に、私は賛成し難いところ

御礼も同じく自ら赴くのが良い、書簡でも許されるが「略儀にて」の言葉は入用となる
この後礼、目上の者からはしないとされたが、当節ではする目上も多くなったようだ
ただ、目上の者であっても、前礼を欠かすことはあってはならないことである
同輩や目下の者にあっては御礼は必須、帰宅し帯を解く前に書くものとされている
私が頂いていた、当流・他流の方々の書簡を参考までに「チラリ」とだけ見せる
多くは巻紙に筆書きで、塾生一同はその筆致には少々唸るところと相成り候

前礼には、「何月何日何時に必ず」という文言が入っていること
そして、場合によっては「誰と誰・何人で」という伝言も加えらてられていること
それは相手の準備への気遣いである
この辺り、茶人云々だけでなく、大人の社会人としても心得あるべしところ
他家や他者を訪問する際、訪問した後の分別・礼儀は、その人の人生が出る
と、私自身に対しても訓をタレタ
2014.10.19 野牡丹
2014101816590000.jpg

紫紺野牡丹(のぼたん)、我が家の垣根に咲いたもの、ブラジル原産
牡丹の仲間では無いが、そこはさて置き、「お萩」に対抗しての「牡丹餅」
茶花で牡丹と桜は「富貴」として使わないが、初釜に牡丹が使われるようだ

さて、奈良はこの秋一番の冷え込みとなった、セッシ七度である
この時季になると、私には思い浮かべる「三行句」がある

  カチリ 石英の音  秋

藤井壽雄という、旧制沼津中学三年生だった人の作である
修正のしようがないと思えるほどに、完成度が高い、

私の学生の頃に読んだ井上靖の作品「夏草冬濤」の中に出て来る
井上自身も、その藤井壽雄に詩というか文学の影響を受けたとある
曰く「香木は双葉より芳し」であろう、藤井は早世したしたようだ

井上の「北の海」から知ったことに「高専柔道」があった、今は「七帝大柔道」
彼は柔道部に所属し、柔術の流れを汲む高専柔道の練習に明け暮れた
オリンピックや講道館の柔道とは違い、高専柔道は寝技が主体で優勢勝ちが無い
寝技は立ち技と違い、偶々という「偶然の勝ち」が少ないと云われる

「稽古した分だけ確実に強くなる」と書かれていたことへ、感銘の記憶が残る
その母体となった「高等専門学校柔道大会」へ向けた稽古のことである
その出立時に金沢第四高等学校で歌われたのが、あの「南下軍の歌」
後の七帝大柔道(北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、福岡)となる

この高専柔道の影響を受けてできたのが「ブラジリアン柔術」である
講道館柔道が日本の本流になり、幾人もの柔術家が世界に渡った
柔術家は、その地で「柔術」を教え伝えた、ブラジリアン柔術もその一つ
露西亜のサンボや世界各地の格闘術に影響を残している

今、「日本柔道」.が世界で苦戦している背景に柔術と柔道の確執がある
そのことは、武道家の中では語り継がれている話だ
分かり易く云うと、スポーツ競技と化した柔道と武術たらんとする柔術
この違いということであろう
2014.10.18 白花萩
2014101806460000.jpg
白花萩、マメ科、日本列島や朝鮮半島で見られるもの
朝鮮半島原産とも云われるが、日本のものは山萩から分れたものとされる
山(野)萩からは宮城野萩(宮城県の県花)をはじめ色々な萩に分れている

さて、「萩」という字、植物学者の牧野富太郎によると
「艸+秋」という会意による国字で、ヨモギ類の意味の「萩」とは同形ではあるが別字という
なんとも、ややこしい、同じ字なら「借字」でエエように思うが、学者は扱いにくい存在

仲秋の名月には芒8すすき)と萩の花、それに団子が定番セットになってうるようだ
そこで、萩と団子を一緒にまとめるという庶民の知恵が「おはぎ」の餅になったとか??
「粒あん」にすると「ぼた餅」、つまり「牡丹・ぼたん餅」になるので、秋は「こしあん」とか

上方が「ぼた餅」で、関東が「おはぎ」と呼ぶと、私は子供の頃に教えられていたのだ
そして、子供心に伊勢の「赤福」は上方唯一の「おはぎ」と思っていた
その所為か、今もって「ぼた餅」の方に郷愁の味わいを感じる、思い込みは難儀なものだ
ところが、その話は逆だとも聞かされた、常に何だらカンダラ云う御仁が多い
つまりは、季節の違い呼び名が変わるのとも・・、この時季、去年も同じ話をした

今年は秋の到来が例年より早くので、季節の情感にも古の郷愁が漂う

「高円(たかまど)の 野べの秋萩 いたづらに  咲きか散るらむ  見る人なしに」
 ・・万葉集 作者不詳

そう云えば、高円宮家の内親王、出雲へ嫁がれたとか


2014.10.17 端坐喫茶
2014101607220000_20141017053646b76.jpg
ご近所の庭に咲く浜坊(はまぼう)の花、「黄槿」とも表記される、アオイ科
江戸期に長崎に来たシーボルトが、日本原産のハイビスカスとして名付けたとか
木槿(むくげ)の花は時期を過ぎたが、やはり黄色花は遅咲きの傾向がある

先に記事にした「奈良・大和の薬売り」の続きになるが、大和家の話
日本の茶と云えば、栄西が南宋に留学して茶種を持ち帰ったこと
それを明恵上人が栂尾の地で栽培し、喫茶の習慣を日本に広めたこと
そして栄西は「喫茶養生記」を著し、源実朝に献上したとされている
従って、茶は栄西からというのが通説となっているが、実はそうではない

わが国ではじめて茶の記録が見えるのは、天平元年(七二九年)聖武天皇の時代のこと
「宮中に僧を召して茶を賜った」(公事根源より)と記されているのが最初とされる
茶樹の栽培歴史においても、大同元年(八〇六年)に弘法大師が唐より茶種を持ち帰った
弟子の堅恵大徳が宇陀市榛原赤埴の佛隆寺に播種されたと伝えられている
その製法を伝えられたのが、今の「大和茶」のはじめといわれている

宇陀地方は古くから朝廷の薬園としてあり、曰く「和漢薬」の研究がなされた地である
茶も薬草として栽培されていたもの、栄西の「喫茶養生記」も長寿と養生の薬としている
大和の薬売りの品揃えの一環とされ、茶の普及は大和の薬売りによると云える
茶杓の原型は「薬匙」であり、それは「鹿の角」で作られたが、今では殆ど見られない

喫茶の伝統としては、橿原市にある環濠集落・中曽司という地の「振る舞い茶」が興味深い
高取藩風俗問状答には、次の様に記されている
「中曽司村一村にかぎり昔より法事仏事をせず、村内に茶園あり。茶を摘製し家毎に茶を点ず。村人も昔より至って質朴也という。」

中曾司の産土神、つまり鎮守の氏神様は「磐余神社」で祀り神は「神武天皇」である
その茶は、神武天皇から頂いたという伝承も残されている
それ故か、仏教の垢に染まらない在り方を通して来た地とも云えるであろう

細々ながらも、昔からの家々では今に伝わる「振る舞い茶」の習わしを残している
まさに、「喫茶去」や「端坐喫茶」そのままの世界である
「端坐」は縁側に腰掛けること、「まぁ、掛けなされ、お茶の一服でも如何」という話

民族主義ならぬ、民俗主義はシッカリと維持・継承したいもの



2014101609250000.jpg

軸は書家の「好日」、花は秋明菊と恐らく初嵐、卒塾者の庭のもの、一日で開いた
手前の子は娘の上の子、皆は私似だと云う

娘夫婦と新生児・上の子が出産里帰り、我が家が保育園になるのは承知
然しである、娘はあれこれ注文を付け、食事の好みに調理法、洗濯方法まで云々
今朝は娘たちの部屋前に燃えるゴミ籠置いてあった、今日はゴミ出しの日
私は保育園の園長と民宿のオヤジを掛け持ちするハメに・・まま、仕方ないか

前の記事で、私が三歳の頃に病気になり死にかけた話をした
私にその時の記憶は無い、父母とその薬売りの人の心の中にあるだけの話だ
こうして孫娘たちを見ていると、同じ年子で生み育てた息子と娘のことを想い起す
勿論、御本人たちには記憶も無ければ、自分たちの知らない話となっている
なるほどと、私の頭に浮かんだ言葉、「 人は人の心の中に生きる 」

自分と云う人間が、世に知られるところとなるのは母親の懐妊の報からであろう
そして、出産から赤ちゃん・幼児となり、自分自身の記憶の断片に残るのは四歳ぐらい
然し、小学校までのことは、自分より親や親戚、近所の方々の心の中に残る
小学校に入ってからは、近所や学校の友達、そして先生の心の中に残してもらっている

自分の死後は、自分の姿や息遣いを覚えてくれる人の心の中に生きることになろう
そう考えると、人の一生とは、人の心の中に生きている期間ということになる
自分の姿や息遣いを覚えてくれている人が全部、この世から消え去った時が自分の終焉
自分とこの世の繋がりが無くなった時になるのだろう、それがこの世との本当の別れ
そう考えると、寿命が延びた心地になる

先の記事、広島の保健所の係員に生後十ヵ月程度で引き渡した犬・「ゴン」のこと
今も記憶してくれる人が広島に居てくれた、然すれば「ゴン」は未だこの世に居るということ
私は、孫の記憶の中に自分の姿と息遣いをシッカリ残すべく、接していこうと思う
「 人は人の心の中に生きる 」、歴史上で名を残す話とは意味の違う話であろう
2014.10.15 薬売り
8130084246_a19a928d24.jpg
奈良の配置薬、いわゆる置き薬である、その商標がレトロというか懐古調である

大阪の大幸薬品が「正露丸」の名と商標の類似で富山の製薬会社を訴えた判決
最高裁で大幸薬品が敗訴、つまり「正露丸」は一般名称で特定名称でないとのこと
周知の通り、日露戦争では「赤チン」と共に日本軍の常備薬であった丸薬である
故に、露西亜(ロシア)を征した丸薬、いつしか「征露丸」と呼ばれたものだ

今では、「征露」ではマズイとロシアに気兼ねして「正露丸」になったという代物
そんな「正露丸」なら最高裁の判断や良しである、腰砕けの大幸薬品は負けて然り
ロシア領となっている港町「ウラジオストック」の名は、露語で「東方を征せよ」の意
今もその名が通り、日本人の政治家や政府高官も平気で使っている、舐められた話

富山は奈良の並ぶ売薬の地、「富山の薬売り」としても名を売るが、本家は大和の薬売り
奈良では弘法大師の昔より、仏法の有り難さを示すものとして、製薬と売薬を行っていた
私が思うに、「正露丸」より効く丸薬、それは役行者の「陀羅尼助・ダラニスケ」
吉野・大峰山の行者の秘薬であった、今は一般販売されているが知名度は低い
我が女房殿は「陀羅尼助」の信奉者で、「正露丸」には見向きもしない、正しい判断だ

私は三歳の頃、医者にも見放された病気をしたらしい
父母の話では、そんな時に家の前を自転車で通り掛かった知人の薬売りがいた
父母は、私の病状の話をすると「ほな、これ飲ましてみ」と箱から薬を出したという
それで、父母が代金を払おうとすると「エエねん、エエねん」と云って去ったとか

不思議と云うては何だが、その薬を飲んでから私の体調は回復したと聞かされた
その薬が何処の何という薬であったかは、今となっては知る由もない
思うに、何処の何と云うものであっても、薬は効けばそれで良い
正露丸、裁判云々より効き目で勝負しなはれや、と云いたい

今日十月一五日は、私たち夫婦の結婚記念日である
その日に、第二子の出産を終えた娘が赤子と上の子を連れ我が家に里帰りする
感慨深い好日である、愛犬「ハナ」には迷惑な日が続くこととなるが・・
2014.10.14 パンとむすび
2014100408450000.jpg
ご近所の塀からたわわに垂れ下がる「紫式部・むらさきしきぶ」
見事ではあるが、立派過ぎて茶花にはどうかと思ってしまう

さてさて、昨日は散々であった
京都高島屋で開催中の日本伝統工芸展が最終日なので出掛け、正午頃に着く
台風接近中で風雨もあり、人は少なかろうとフンだが然に非ず、会場は盛況
人混みの中で展示品を見ていると、向うから当流のお弟子二人が来た

二人は工芸展の出品者(審査合格者)であり、陶芸家とガラス工芸家である
聞くと、午前中も来客が多く、もっと混雑していた、祭日の台風だからだろうと云う
二人の情報では、台風の祭日の月曜日なら「国博」が今日の穴場だと勧める
今は「高山寺・鳥獣戯画展」が開催中で、常は月曜が休みだが祭日で開いているとか
「そうするか」と会場を出掛ける私に、次は大阪あべのハルカスだと券を呉れた

二人の云う「国博」とは「京都国立博物館」のこと、「奈良国立博物館」ではない
「国博」に着くと、さすがに人はマバラ、門には柵が閉ざされ「臨時休館」の貼り紙
門番の人に聞くと、「田風接近で警報が出た、もうすぐ電車も止まるらしいですよ」
私は京都駅まで戻り、構内にある百貨店へ行くと、店から人が送り出されている
警報が出たので閉店すると云う、周りの飲食店も閉まり出していた
近鉄線まで急ぐと、電車はまだ動いていた、特急やJR各線は止まり出しているとか

京都駅の弁当屋も閉まっていたので、取り敢えず電車に乗り込む
奈良・高の原駅で降りるとコンビニが開いていたが弁当は無い、パンとむすびを買う
タクシー乗り場も待ち人が居ない、お蔭で風雨の中を待たずの済み、家に戻られた
その日の夕餉の膳はパンとむすび、それでも焼酎は飲んだ
2014.10.13 黄色の彼岸花
2014101306510000.jpg
近所の庭で見た黄色の彼岸花、もう川土手や田の畔に彼岸花は見られない
どういう訳か、菖蒲(しょうぶ)の花も黄色の花、曰く「黄菖蒲」が最後に咲く

茶花の世界では季節外れ、曰く「狂い咲き」の花は使わないである
然し、その手の種類がその時期のものと分っている場合は使う
つまり、菖蒲の時期には遅れても、黄菖蒲には黄菖蒲の時期のものということ

昨日は近所の碁友である、元新聞記者の方と碁を打った
私の惨敗であった、囲碁の師匠から聞いた言葉が頭に浮かんだ
「囲碁は相手の上手い手に負けるのではなく、自分のミスで負ける」という話
全く以って、その通りだと実感する

この元新聞記者の方、先に茶の見学に来た「千家の御仁」の同窓の先輩である
この方はブログを見たとかで、「本人がおかしいので、学校には無関係」とキッパリ
先にも、その同じ千家の茶歴五十年という私の茶友からも話があり
「その本人を教えた先生の問題で、千家ではそんな無礼をしない」ということであった

この九日のブログ「アオサギ」の記事に件の「千家の御仁」からコメントが入った
礼状も詫び状もなく、このブログへ子供じみたコメント、何かしら憐憫を誘う
学校の問題でもなく、流儀の問題でもなく、御仁は単なる狂い咲きであろう
仲介者の面目を潰し、迷惑を掛けたという自覚は全くないようだ
2014100507210000.jpg
散歩途中の路傍に落ちている「団栗・どんぐり」
「どんぐり」は落葉樹ブナ科の樹木が付ける果実、種子でない

秋が深まると、日本の熊やリスには「どんぐり」が主要食物となる
高い栄養価をもつ「どんぐり」は熊やりすの体内に取り込まれれ冬眠に備えられる
植物は葉や箕の皮にタンニン等の苦味・渋味を作り、動物の餌から自衛している
日本の熊やリスは平気で大量の「どんぐり」を食しているが、人には食べられない
然し、その「どんぐり」を主食にしていた人々がいる、私達の祖先である縄文人だ

考えられている縄文人の「どんぐり」調理法は「水晒し」の技術である
タンニン等の毒素は水溶性であるため、何度も水に晒すと溶け出していく
その効果を高めるのが「灰」である、そのことを縄文人たちは知っていたという
「灰汁」とかいて「あく」と読むように、「灰」はあく抜きの効用をもつ
この水に晒して「灰汁(あく)抜き」する調理法は世界的にも珍しいとされる

何故、こんな話をしているかと云うと、お気づきの方もあられるだろうが「灰型」
「掻き上げ灰型」を作っていた明くる日の散歩途中で、「どんぐり」を見たためである
遥か一万年前の日本列島で、我々の祖先・縄文人が、この「どんぐり」を調理にしていた
恐らくは、その傍には縄文犬(柴犬)が屯(たむろ)し、おこぼれを待ったであろう
そんな思いで、朝の散歩途中に「どんぐり」を眺めた私と愛犬・柴犬のハナであった

因みに、上田流の「灰」は牡蠣殻で作っていて樹木の灰ではない
故に、上田流の灰であく抜きが出来るのかどうか、とも頭をよぎっていたのだった
更に因みに、「どんぐり」調理法とは

①「どんぐり」を十分少々煮詰める
➁煮つめた「どんぐり」を畏週間ほど天日で干す(日射はタンニン等を薄める)
③干した「どんぐり」の皮を剥き、石や木で潰して粉にする(最近ではコーヒーミル)
④灰を加えた水に何度も晒し、あく抜きをする
➄出来た「どんぐり粉」は団子にして、煮るなと焼くなと、好きにして食べる、
2014093010140000.jpg
鉄風炉に掻き上げの灰型、先日の稽古のもの

秋も深まると、茶の世界では「名残り」や「窶(やつ)れ」の趣を出す
名残りの花は多く入れ(当流では五種)、葉っぱの虫食いや枯れも「味」とする
灰押しと云われる灰型も、名残りの時期には火箸で掻き上げた線を入れる
掻き上げ灰は土風呂や唐金の風炉ではなく、鉄風炉とされるのが一般的である
その鉄風炉も写真の様なものより、欠けや穴のある「やつれ鉄風炉」を使うことになる
当流では掻き上げる線の間隔は狭く入れるが、他流では数本だけのところもある

昨夕は娘の病院へ行き、新生児(名はまだない)と上の子を見た後、三条通りまで出る
私達「じぃじぃ・ばぁばぁ」夫婦二人で祝杯を上げに「かえる庵」さんを訪れたのであった
私達の前の席で飲んでいた男性二人組の会話が聞くともなく耳に入って来る
その話の中に、私の高校の同級生と思しき名前が何度か出て来るので、つい聞いてみた

「その○○さんとは、斯く斯くの○○さんのことですか」と私
すると、「そうですが・・」と二人は顔を見合わせて、そして私を見た
「彼なら私の高校の同級生でよく知っています」と私が云うと、相手の御一人が破顔一笑
その御仁の小学校の同級生であったのだ、更に話が進んむと思わぬ朗報があった
住所が変わり音信が途絶えていた私の小学校の同級生とも同じ学校で、連絡が取れると云う
それはそれはと名刺交換をし、その音信不通となっている彼への伝言をお願いした

それからは話題が色々と盛り上がり、私達夫婦が店を出たのは十時になっていた
少し前にも、この「かえる庵」さんの四人掛け席で私と一緒になった三人組が同級生だった
何かしら、縁(エニシ)の糸を感じさせてくれる「かえる庵」さんである
家に戻ると、愛犬「ハナ」がフテクサレタ表情で待っていた、私は早速に散歩へ連れ出した
2014.10.10 おおきな実
2014100510550000.jpg
沙羅(さら・しゃら)の実と不如帰(ほととぎす)
沙羅双樹、娑羅双樹、シャラソウジュ、サラノキ、シャラノキと呼ばれる
フタバガキ科の常緑高木で三〇メートルにも達するものもある

仏陀(ぶっだ)、つまり御釈迦(おしゃか)さん入滅時に四辺にあったとされる大樹
ヒンズー語で「サーラ」と呼ばれるのが、日本で「さら・しゃら」となったという
耐寒性に弱いので、日本では温暖地の寺院の植物園に植えられている程度とか

柘榴(ざくろ)、山吹、沙羅と近頃実入りが多いと話したが、昨夜には「大きな実」が
娘が陣痛の報に、私達夫婦が病院に駆けつけるやすぐに出産、女の子であった
第二子の為か、陣痛が始まって四五分で出産という早業、でかした、でかした
何日かすると、私は井谷保育園の園長となる予定
2014100807070000.jpg
秋篠川の土手道に上がって来た「アオサギ」を撮った、前の桜の木と重なっている
常は魚を狙って川中に立っているか、川面沿いに飛んだり、空高く舞ったりしている

散歩途中に出くわして、思わず携帯に収めたもの、ズーム拡大は間に合わなかった
「アオサギ」は一メートル近い「鳥」、愛犬ハナも「キョトン」として見ていているだけであった
「風」翁ブログ、このところ「花」と「月」ばかりであったが、これで「花鳥風月」と相成った次第

この散歩途中では、「悪魔のささやき」に応えなかったことを悪魔に嘲笑された気がした
先日の千家の御仁のこと、私は仲介した塾生のお得意さんの関係者かと合点していたのだ
それが反対で、塾生が仕事を出している先の下請け事務所の人間だと後で聞いたのだ

「悪魔のささやき」とは、その無礼な仕儀にウツツヲおぬかしの自称「千家の茶人」へのこと
実は、私が濃茶を出す際に「足元がツマヅキますね~」と、悪魔がササヤイタのであった
おっとっと、あれま、と粗相をしでかし、その無礼な茶人もどきに頭から濃茶を馳走する
私は、この「悪魔のささやき」の誘惑に必死で耐えていたのであろ
何故ならは、私には関係ないとはいえ、わが塾生の得意先の人間と思うからであった

後で聞くと、何のことはない、その塾生が仕事を出している先の人間だという
なら、その御仁、お得意先の人の師匠筋へ無礼千万な仕儀をしでかしたことになる
私は、その塾生に「何で先にそれをい云うてくれんかったのや・・、」と文句を云うた
「悪魔のささやき」が思い起こされていた散歩道で出くわした「アオサギ」、悪魔に見えた
そして、私に「ほれ見たことか・・、ワシが云うたのに」と、その眼が笑うた気がした

昨夜の皆既月食」堪能、赤黒い「中秋の名月」であった、「花鳥風月」の段



2014.10.08 実入り
2014100510410000.jpg
卒塾者の方から頂いた山吹の枝、黒く可愛い実が付いている
恐らく一重咲の山吹であろう、八重咲の山吹には実が付かない

「 七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき 」
【後拾遺和歌集】兼明親王の御歌

薀蓄・・
>親王が小倉の山荘に住んでいました頃、雨が降った日に蓑を借りる人がいましたので、山吹の枝を折って取らせました。その人はわけもわからずに通り過ぎまして翌日、(蓑を借りようとしたのに)山吹を折って渡された意味がわからなかったということを言って寄こしてきましたので、返事として詠んで送った歌
意味するところは、七重八重に(あでやかに)花は咲くけれども、山吹には実の一つさえもないのがふしぎなことです。わが家には、お貸しできる蓑一つさえないのです。
 
若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話が『常山紀談』に載る。<

柘榴(ざくろ)の実、山吹の実、次は沙羅(しゃら)の実と、近頃実入りが多い、ホクホク

ついでに、もう一つ薀蓄・・
「 月々に 月見る月は 多かれど 月見る月は この月の月 」

一昨夜は、台風の雲間に出た栗名月、味わいのある月夜であった
今夜は十五夜、仲秋の望月であり、而も皆既月食となるそうな
天気は良さそうである、七時半頃から夜空を見上げよう
2014.10.07 柘榴と栗名月
2014100622210000.jpg
月曜稽古組の新塾生が持って来てくれた「柘榴・ざくろ」の実と枝
見事なものである、彼もこれはと思い持って来てくれたのだ

そんな彼に云いにくいが、茶の湯の「禁花」の狂歌
「 花入に 入ざる花は 沈丁花 深山しきみに 鶏頭の花
  女郎花 ざくろ かうほね 金銭花 せんれい花をも 嫌なりけり 」

とあるが、入れてみた

昨日の稽古も珍事続きであった
初めて袴を着けて風炉の薄茶点前に挑んだ新塾生
何を思ったか、柄杓を裏返しにして湯を入れようとナサル
唸り声をあげて立ち上がろうとナサルが、体が震えて動けない

ようやく立ち上がり、歩き出す様は酩酊状態そのもの
何とか、水屋の前までたどり着いたその時、あろうことか
「カ゚シャン、コロコロ」の音・・茶器を落として転がしたのである

辺り一面は抹茶の海、女房殿お気に入りの茶器が横たわっている
この光景、前にも誰かが同じことをやったと、記憶が蘇る・・
私、「そこまでして稽古を終わりたいか、よっしゃ、もう稽古は止め、酒や」
知人から届いていた土佐と広島の酒四合瓶四本を持ち出し、畳に坐す
稽古応援に来てくれていた「卒塾者」、ニコリと懐から桜えびの珍味袋を出す

夜空には中秋の栗名月が神々しく照っていた

2014100510290000.jpg
宗全籠に芒(すすき)・綿の実・不如帰(ほととぎす)・嫁菜(よめな)・イヌタデの五種
季節としては少し早いが、卒塾者の方から色んな花を頂いたので、名残りの花とした
綿の実を使うのは初めてだが、中々に味わいがあると思った

昨日の稽古は中置、つまり風炉を点前畳の勝手側から中央へと位置をずらした
秋も半ばを過ぎ涼しくなった頃、火元を客側に少し近付ける十月だけの点前である
中置では、水指が客側から勝手側に移り、柄杓の扱いが正面真っ直ぐとなる
常と変るところは、この二つであるが、やはり常と景色が変ると感が狂うというもの
塾生は、あらぬ仕儀・仕草や発明に近い所作・点前をヤラカサレあそばす始末
私は「ウソやろう」と絶句、見ている皆も唖然、やってる本人は思考停止で硬直

さてさて、昨日の稽古では、もう一つの絶句・唖然の話があった
我が塾生の仕事上の知人に千家さんの茶を教える男性が居るとの話
その御仁から申し入れがあり、我が上田流の茶を見学したいということを聞いた
私は「何時でもどうぞ」と云っておいたので、御仁は流儀の御婦人二人を伴い昨日来駕
茶室に入りたいというご希望なので、茶庭の待合から小間の茶囲いに入ってもらった

私が小間の中で、上田流の茶室での所作や手水の使い方を説明しかけると、その御仁
「我々は、何処ても千家の流儀を通すことになっているので、上田流の話は無用に願いたい」
と、おぬかしアソバサレタ次第、私はアングリ、「この御仁、気は確かか」と御仁の顔を見る
私が、「貴方が上田流の茶を見学したいということなので、説明しているのですよ」と諭すと
大学茶道部出身というその御仁、私に向かって「まあ、お座り下さい、話し合いましょう」

稽古場に戻り、仲介人の塾生や皆の前で、私が御仁に「論議は不要、厭なら帰りなさい」
御仁、またも「お座り下さい、話し合いましょう」・・、私、「エエ加減にせんと、叩き出すで」
お連れの御婦人二人と仲介人の塾生が、申し訳なさそうに私を見ていた
私は御仁に「そこで自分の好きにしとき」と云って、御婦人二人に塾生の点前を説明する
御婦人二人は興味深げに話を聞き、素直に反応してくれるので、私の気分は好転した

彼女たちは帰り際に「今日はありがとうございました、勉強になって良かったです」と云う
彼女たちを駅まで送って戻って来た仲介人の塾生、私に頭を下げ「すみませんでした」
床の軸は「掬水月在手」、菓子は木曽路の「栗きんとん」、今夜の栗名月や如何
2014.10.05 蔦(つた)
2014093017250000_2014100500531744d.jpg
蔦(つた)の実、ブドウ科、蔦の仲間は世界に十五種ぐらいあるが日本には蔦だけだとか

蔦の木を使った茶器には、棗(なつめ)や中次(なかつぎ)・金輪寺(きんりんじ)がある
千家の始祖・宗旦は蔦茶器の中次を好んだと云われるが、私も蔦の金輪寺が好きだ
蔦の棗には、蒔絵(まきえ)で蔦柄をあしらっているのがあるが、お洒落な感覚である

蔦をあしらった紋様は、八代将軍吉宗が使用したものが有名だが、多くは女紋に使われている
蔦の語意は「つたう」、つたって伸びることから来ているので、「つたう」を「寄り添う」としたもの
女名でも蔦、「つた」が使われている、有名どころでは「お蔦・主税( おつた・ちから )」
明治から昭和初期に活躍した小説家・泉鏡花の代表作「婦系図(おんなけいず)」の主人公だ。
その「婦系図」の中で、最も有名な「湯島境内の場」。お蔦と主税の切ない別れの場面

お蔦 「いい月ね。ああ、いい景色…ちょいとごらんなさいよ、この景色を」
主税 「あゝ、なるほどねぇ」
お蔦 「嫌だ、初めてでも気がついたようにさ、あなた今夜はよっぽどどうかしているのねぇ」
主税 「どうかもしようよ、月は晴れても心は闇だ」

とある
明日は旧暦九月十三日、中秋の「栗名月・十三夜」、台風の動向が気になるところ
まま、実は今年の中秋の名月は三回あるという、百七十一年ぶりの稀有な出来事とか
常は、旧暦の八月十五日芋名月(一五夜)と九月十三日栗名月(十三夜)の二回
然し、旧暦では今年は閏(うるう)月の閏九月があり、新暦十一月五日も「中秋の名月」となる
団子屋は嬉しかろうが、花屋はどうだろう、芒(すすき)は未だあるのかな・・枯れ芒やろな

気の利く友人から「栗きんとん」が届いた、今日の稽古で頂こう
2014.10.04 不如帰去
2014100306400000.jpg
路傍に咲く杜鵑(ホトトギス)の花、毎年この場所で見られる、近隣の方の心遣いだろう

ホトトギスの漢字は、時鳥・子規・郭公・杜魂・蜀魂・田植鳥と色々ある
中に「不如帰」というのもある、本来は「不如帰去」(帰ることが出来ない)と書くとか
帰ることが出来なかった旅日記なら、遺稿となったろうが、幸か不幸か帰って来ている
平成十一年のヨーロッパ旅日記を長々と連載したこと
まことに、「お目だるうございました」 
Tr00100420130327030140500.jpg
前日の写真と逆方向から見た夜景、こちらがペスト側で向うがオーブタ・ブタの王宮
手前に見えるのが、ドナウ川ナイトクルーズの観光船である


五月二一日(金)

七時三〇分に朝食をとる。昨夜は殆ど眠れていない。レストランの席に就くと、係員が来て、向こうの室にオリエンタル朝食を用意していると教えてくれる。行ってみると、団体ツアーが来ているのか、日本人ばかりであった。白飯と具のない味噌汁、キューチャン漬け、豆腐があった。他は、煎り玉子やハム・ソーセージ、サラダ、シリアル等の何処変わらぬ定番のバイキングであった。茶碗も汁碗もなく、深皿を代用にして食べる。

部屋に戻ると電話が入り、フロントにガイドが来たとのこと。ガリバー・トラベルのPeuさんの厚意であった。先に断りを入れていたが、折角だからと言って、手配してくれていた。チェックアウトに向かうと、日本語を話す大きなハンガリー人男性が待っていた。彼は運転手付きのベンツで来ていた。そのガイドは空港への道中で街の説明をしながら、日本語が出来るハンガリー人は一〇〇人程であること、蒙古斑のでるハンガリー人がいること、自分もそうであったこと等を話す。

 空港に着く。搭乗手続きを済まし荷物を預ける。荷物が関空までスルーかどうかを確認する。スルーだと言うので安心する。ガイドに一〇〇〇フォリントと運転手に五〇〇フォリントのチップを渡して別れた。ブタペスト発一〇時二五分LH三四八七便で立ち、フランクフルト発一三時二五分、関空着七時四〇分のルフトハンザ航空七四〇便に乗り換えることになる。

ブタペストの出国手続きは簡単であった。中に入って、ネッカチーフ等の土産を買う。みち子さんは刺繍に目をやり、昨日買ったものと価格を比べていた。店の人に残った五〇〇〇フォリントを出し、何か適当な物をと言うとリュック型のバッグを出してくれた。

三四八七便は機体の到着が遅れ、一時間程ブタペストの出発が延びた。お陰で、フランクフルトで慌ただしく乗り換える始末になった。七四〇便の席は五六番のEとFであった。つまり最後尾四人掛けの真中二つの席である。日本で仮予約を入れていたはずだがと、旅行社の担当者の顔が目に浮かんだ。来る時はビジネスクラスの窓側席で快適に過ごしたが、帰りはうまく話しが通らなかったようである。行きは好い好い、帰りは怖いということか。

そして、私達二人はハンガリー・ブタペスト空港を出立し、ドイツ・フランクフルトで日本行きのルフトハンザ機に乗り換え、ヨーロッパの地を離れた。五月二一日朝、無事関空に着く。娘の百合へ電話を入れ、空港バスの停車場へ向かう。



今回の旅に関係してもらった多くの人々に感謝をし
旅先の地で出合った人々との一期一会を懐かしみつつ
この旅日記を、我が妻・みち子さんに想い出の銀婚記念として贈る

平成十一年七月十一日脱稿

井谷直人
2014.10.03 白花桜蓼
2014100106080000.jpg
白花桜蓼(シロバナサクラタデ)、タデ科、分布地は日本列島と朝鮮半島、シナ大陸の一部
隣家との境にある花鉢から出て来たもの、恐らくは誰かにもらって植えたと思われるが・・
サラシナショウマ(更科升麻)かアメリカ半夏生(ハンゲショウ)かと思ったが、葉形が違う
知人の青年華道家に尋ねると、白花櫻蓼でしょうということであった
images_20141003035848842.jpg
ハンガリー・ブタペスト、王宮から見た風景、、流れる川は「美しく青きドナウ川」である
ドナウ川の向うが「ペスト」の街、こちら側が「オーブタとブタ」

五月二〇日(木)

朝食を済ませ、八時にチェックアウトをする。みち子さんをロビーに残し、小生は急いでガリバー・トラベルの事務所に行く。昨日の集合場所を間違えたのは当方であり、よってブタペストの件は無用に願いたし、と一筆紙に書き、戸口に挟んでおいた。タクシーでウィーン西駅に行く。発車一五分前である。九時〇七分発ブタペスト行き特急二六三便はすぐ解かった。列車に乗り込むと、客室に入ると、老夫婦が坐っていた。私達も向かいの席に坐る。お互いに女性が窓側になっている。この特急列車は、ウィーン西駅が始発でブタペスト東駅が終着である。ヨーロッパの主要都市では、どういう訳か発着駅が分散している。それ故、駅名に風情を感じさせる。列車が動き出し、ウィーンを離れ出した。

向かいの御主人がメモ帳を取り出して、熱心に書き込みを始めた。時折、隣の夫人に食事内容や時間の確認をしている。どうやら旅日記をまとめているようであった。小生のメモ帳の紙が無くなっていたので、少し分けてくれるように頼むと、一〇枚程剥いでくれた。夫婦はサンフランシスコから来ていた。私達が結婚二五周年と知ると、自分達は五二年だと言う。逆数字の冗談かと思ったが本当らしい。イスタンブール迄の旅だと言った。

国境を越えたのであろう。オーストリアの検査官が来た後、次にハンガリーの検察官が来て、私達に、こんにちは、ありがとう、さよなら、と日本語で応対したので驚いた。この路線を利用する日本人は少ないと聞いていたが、やはり血は水より濃しかなと有らぬことを思ってみた。


列車はハンガリー大平原を行く。小生が一度行ってみたいと思っていた国である。ハンガリー人は自らをマジャールと呼ぶ。モンゴル高原から現れ、シナ古代史の一方の雄であった騎馬民族のフン族(匈奴・フンヌ)の末裔と云われている、フン族は二世紀頃にシナの歴史から消息を絶ち、四世紀に突如ヨーロッパへ侵攻してきたという、そのフン族末裔の国である。第二次大戦では、ドイツや日本と共に戦い、負けた国である。国名のハンガリーとはハン(フン)のガリア(国)である。北欧のフィンランドもフィン(フン)のランド(国)で同系統の民族国家だ。ハンガリー人もフィンランド人も千数百年間に亘って母系が代々欧州人女性であったため、顔・形は欧州人そのものである。しかし、文化・言語はアジア系という興味深い民族である。

ブタペスト東駅へ着いた。老夫婦に別れを言って、タラップを降りる。
ホームの中までタクシーの客引きが来て、網を張っていた。ブタペストには、カロイという旧知の人が居て、ホテルで会う約束になっていた。もしや駅まで来てくれているかと思い、周りを見渡していると、客引きがやって来た。友達を待っていると言って断ったが、カロイさんは来ていなかった。構内で両替をして(一フォリント〇、七円)、タクシー乗り場へ行く。一五分程でインターコンチネンタル・ホテルに着く。五〇〇〇フォリントであった。高いと思い首を傾げると、メーターを指差す。数字は合っていた。後で教えられたが、メーターに細工があるらしい。

ホテルはドナウ川に面した絶好の場所にあったが、私達の六四七号室は六階の裏側であった。どうも、今回の旅行では部屋の当りが悪いようだ。何となくヨーロッパ人の底意を感じる。ただ、ドイツはそうでもなかった様な気がする。松村氏から新聞のFaxが来ていたので目を通す。カロイから二時にホテルに来るという電話が入り、安心する。何かを食べておこうと、近くの広場に出かける。色々な売店やレストランがあったが、急ぐのでケンタッキーフライドチキンでチキンバーガーを食べる。他にもマクドナルドやピザハット等があり、街の営みには共産国家の面影はなかった。


ホテルに戻ると、カロイが来ていた。彼は和歌山大学に留学していた人で、その当時、和歌山留学生交流会の中谷女史に紹介され、食事を共にしたことがあった。彼はハンガリーに帰って七年になり、最初は現地のトヨタにいたが、今は父親が経営する釣り用具の会社を手伝っていると言う。日本語は殆ど使わないので、忘れかけていると笑う。彼は、夕方から雨になるので、先に市内を回ってから、ドナウ川のナイトクルーズを楽しむのが良いと提案してくれた。小生は国立博物館には行って見たいと頼むと、そうするつもりだと言い、車に案内する。和紙のコースターを渡す。彼は一八八センチあるが、此方では大きいとは言えないらしい。

ブタペストの町は、ドナウ川を挟んで、東の丘側になるオーブタとブタ、西の平地側になるペストの三都市が統合されたものである。正確にはブッダ・ペシュトと発音するらしい。まず、ペストに向かう。塔が高く聳え立つ英雄広場で車を降りる。建国千年記念塔で百年前に建造されたという。塔の下に武将の騎馬像が七基あった。フン族の王、アッチラがこの辺りを拠点に活動したのは五世紀のことである。解せない気がした。湖に架かる橋を渡ると、緑豊な市民公園であった。水鳥が遊び、鯉が群れ、人がくつろいでいた。カロイはここに鹿がいたら奈良公園ですねと笑顔で話す。

街角に車を置いて、国立博物館に行く。道端にトランバットが停まっていた。かつて、東欧を代表した東独製の大衆車で、ガソリンでは走らないという代物である。近くに旧式のシェトロエンもあった。いずれも、テレビ、映画でお馴染みのものである。そういえば、カロイの車は三菱製の四輪駆動ワゴンであった。カロイは、トヨタは良いが自分はこの車が好きだと割り切っている。みち子さんは、そんなものかなと首を傾げていた。


博物館に入ると、金の王冠が大事そうに飾られていた。撮影禁止である。館内には歴史的遺物が展示され、説明がされていた。その殆どはこの地で建国して以来のものであった。それ以前のことは、パネルにマジャールが遠くウラルの地からこの地にやって来た経路が記されていただけである。小生が見たいと思っていたのは、モンゴル高原から消えた後のフン族の痕跡であり、ハンガリーの文化の中にアジア的残滓を確かめたかったのである。

モンゴル高原から中央アジアにかけて、古来、数多くの遊牧騎馬民族が活動し盛衰したが、彼等は見事なまでにその軌跡を残していないらしい。シナやヨーロッパの史書の中にその名を留めるだけである。この博物館で見る限り、ハンガリー人はフン族と直接的な繋がりはないとしているようである。といっても、ハンガリー人の祖先はアジア系遊牧民族のウラル語族であることに違いはない。ウラル語族とフン族との関係は定かでないようだが、小生は両者には何らかの繋がりがあったハズと思っている。美智子さんにあれこれ説明をしたが、あまり興味は無さそうだった。そして一言「貴方はこんな話、好きですね」だった。

博物館の上の階では、多くの絵画が展示されていた。何ヶ所かで白衣を着た人達がキャンパスを広げて、作品を模写していた。結構、上手に写されていて、真贋とは何を以って言うのかと考えてしまった。館内に雰囲気の良い喫茶コーナーがあり、みち子さんが気を引かれていたが、博物館を後にして車に戻り、ブダに向かう。

両岸を結ぶ鎖橋を渡る。この橋の完成が三都市統合の礎になったという。車を坂道の脇に置いて、明治一〇年に出来たというケーブルカーに乗り、王宮の丘に上がる。カロイが丘の上は涼しいので上着が要ると言う。少し大袈裟であったが、丘の上では、ドナウ川に架かる鎖橋と対岸のペストの町を眼下に望むことが出来た。王宮北側の柵の飾り門で若い女の子が二人でフルートを奏でていた。ケースが開いてあったので、みち子さんが一〇〇フォリント硬貨を二枚入れる。ハンガリーの硬貨の単位は一、二、五、一〇、つまり二円玉や二〇円玉、二〇〇円玉があるのだが、我々の感覚としては不慣れである。欧米では二の単位をよく使うようだ。王宮の入口では青年がオーボエを吹いていた。日本でもギターやフルートを道端で奏でる姿は見かけるが、オーボエを目にすることはまずない。

広場の前でドナウ川を背景に写真を撮っていると、みち子さんがアレッと言って指を差す。そこには、坂道を登ってくるカップルの姿があった。ウィーンからブタペストに来る列車の中で同室であった夫婦である。声をかけて近づくと、私達に気付いた夫婦は、顔面を笑み一色にして抱き着いてきた。共にカメラに収まり、名残を惜しみながら、また別れた。

ブダの最も古い地区であるタールノク通りで、カロイお勧めの喫茶店に入り、アイスコーヒーとケーキで一息入れる。昔、包囲攻撃に対し漁夫達が守ったという漁夫の砦に行く。要壁を登る階段の入口で番人が箱を置いて料金を徴収していた。自由化されてからだそうである。資本主義と拝金主義は紙一重の様だが、その本質は違うことを知るには時間がかかりそうだ。次に、塔が聳え屋根が色タイルで覆われたマチャーシ教会へ行く。館内は撮影禁止であったが、その美しさはこれまでに見た中で、随一のものと思えた。外に出て振り返ると、教会と馬車との風景が絵になっていた。

一八時を過ぎていたので、近くの店でハンガリー名産の刺繍入りレースを買って、車に戻る。道すがら、カロイとブタペストの印象を話す。小生が彼に、ハンガリーはヨーロッパだなと言うと、彼は立ち止まり、指先で自分の胸や肩を押さえながら、ハンガリーはヨーロッパだが、マジャールの体の中にアジアは残っていくと言った。この名所巡りでは、カロイが入館料や飲食の代金を全て払おうとするので、小生はそれを制した。彼は日本に居た時、多くの人々から物心共に支援をして貰ったことを忘れてはいない、訪れてくれたあなた方に負担させる訳にはいかない、ハンガリー人の恥になると言う。彼の気持ちそのものが、アジアの残滓かも知れない。

ホテルには、カロイの奥さんと二人の子供が来ていた。ナイトクルーズは。一九時に出帆と言うので、部屋に荷物を置いて、すぐに出かける。桟橋はホテルの前から三〇〇メートル程先にあった。乗船し、船尾の甲板のテーブルに就く。子供は九歳と六歳であった。カロイは下の子供を指差し、メイド・イン・ジャパンと言って笑う。船室にバイキング様式で料理が用意されていた。ハンガリーの名物であるパプリカの煮込みと、黄色のつぶつぶした焼飯の様なものを食べる。

船は私達のホテルの前を過ぎ、鎖橋を潜って、西陽に映える国会議事堂やペスト市街のハンガリー・セッセシオン建築群を右手に見ながら、ゆっくりと航行する。左手の丘には王宮、漁夫の砦、マチャーシ教会、岸辺には聖アン教会が過ぎて行く。丘から見下ろした光景が川面から見上げるアングルになった。中州になるマルギット島の森を回って、再び鎖橋へ向かう頃に夕闇が深まり、川面の両側にライトアップされた建物が先程とは違う景色を見せている。ドナウの宝石とか女王と呼ばれる所以が解かったような気がした。この町が世界遺産に登録された云々とは何程の意味もない。

ブタペストは過去に幾度も戦禍に見舞われている。一三世紀のモンゴル軍や一六世紀のトルコ軍には壊滅状態にまで陥れられ、先の第二次大戦では灰燼に帰した。そして、その都度毎に復興し、元の形を再現して来たという。立派という他はない。民族の執念のようなものを感じる。

船は元の桟橋に着いた。二一時半を過ぎていた。案の定、カロイは支払を済ませていた。そのまま甘えることにして、子供二人にはお土産代わりに夫々一万円札を渡す。ホテルに戻ると、カロイは車から包みを持って来て私達に渡す。日本語で書かれたハンガリー小史と写真集であった。ハンガリーの思い出を忘れない様にということであり、中谷女史の分も預かった。彼の人品の良さを感じさせた。カロイはまた日本に夫婦で行くつもりだと言う。その時は、奈良にも寄るようにと言って別れる。

みち子さんと昼に行った広場まで出かけて、女性にハンガリー料理店を尋ねると、案内してくれた。グラーシュを注文する。実は、船でこの料理を期待していた。牛肉とパプリカのスープに唐辛子を手でほぐして入れる。旨かった。遊牧民の名残りと思う。他に鳥の肝が出た。カロイから聞いていたものである。赤ワインでヨーロッパ最後の夜を楽しむ。隣にカジノがあるので覗くと、中国人客が多く居た。ドイツマルクしか駄目だと言うので、自国の通貨に誇りを持てと言い放ってそこを出た。

その夜は、二人共なかなか寝付かれなかった。時計を見ると二時である。ホテルのレターセットで中許氏に手紙を書く。文明には進歩と汎用性があるようだが、文化はどうなのか、価値体系に優劣や善悪があるのか、国家の本質とは何なのか、秩序とは、歴史とは、日本とは、そして自分とは、云々と頭が巡る。夜が更けていく。みち子さんは寝息をたて出した。