2014.11.30 大和三山
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大和三山を紋様にした赤膚焼の茶碗、塾生の手になるもの
恐らくは、上が畝傍山、左が耳成(耳梨)山、右が香久(香具)山と類推される

今日は小学校の同窓会があり、これから橿原神宮駅まで出かける
私が一年から三年まで通った吉野の小学校だが、今は廃校となっている
小学校は二学級だけだったので、学年同窓会の形になっている
考えてみれば、二学級なら途中クラス替えもあり、学年全体ががクラスメイトだ
私は三年生で転校したので、実際には一つのクラスメイトしか知らない
といっても、明確には三・四名を知るだけで、後はうろ覚えもあやしいところ

吉野と奈良・大坂の中点となる明日香・大和三山の地が同窓会の場所だ
大和三山、来年の奈良県の年賀はがきのデザインに使われている
大和三山は万葉集にも詠まれ、男女の三角関係の話が有名である

香具山は 畝火ををしと 耳梨と 
相あらそひき 神代より かくにあるらし古昔も
然(しか)にあれこそ うつせみも  嬬(つま)を あらそふらしき 
・・ 中大兄皇子

中大兄皇子(天智天皇)と弟・大海人皇子(天武天皇)の恋の三角関係とか
その相手女性・額田王の歌が有名であり、三角関係の証として万葉集に載る

あかねさす 紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る
・・額田王

才色兼備の額田王は、大海人皇子と結婚をして子どもをもうけていたとのこと
この歌を詠んだときには、大海人皇子とは別れて、天智天皇と恋人関係にあった
宴会の席で額田王は、大海人皇子との昔の関係をネタにして一句詠んだという
現代風の訳本によると

>今は天智天皇と付き合っているけれど、大海人皇子も私も、実はまだお互いに気があって、彼は袖を振って好きだと伝えてくるわ。そんなあちこちで袖を振っていたら、警備の人がこれをみて、私たちの秘めた恋がばれてしまうじゃないの。<

天智天皇も大海人皇子も加わった宴会の席での一興とか
額田王、ナカナカの女である、そして、大海人皇子の返歌とは

紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

大海人皇子、後の天武天皇はんも、ホンマによう云いなさる、
まま、思うに、万葉集が伝えるのは、日本文化の大らかさであろうか・・


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どちらが牽いているのか、孫娘と愛犬「ハナ」の散歩姿

孫娘とハナの間で「友好条約」の締結をみたようである
どうも、孫娘が見よう見まねで犬用ジャーキーをハナに与えたためと思われる
孫娘を見ると逃げ回っていたハナだが、孫娘の胸を前足で突くようになった
ハナが前足を出すのは友好の印で、気に入っている人や犬にする
それに、ハナの孫娘を見る表情が優しくなった、前はアリアリと嫌そうな顔をした

犬の心理学や行動学という「研究」があるそうでアル
それによると、犬は自己中心で組織の関係を測ると云うことのそうな
集団の中の序列関係を知るのが、犬の群れ生活の掟であるらしい
確かに、私に対する仕草と女房殿に対する仕草は違っている
私がエサをやっても、「ヨシ」と云うまで食べずに、私の顔を見て待つ
それが、女房殿がやるとすぐ食べ始める、女房殿が叱ると渋々聞く感じである

さて、孫娘とハナの関係は如何であろうかと注意して見ている
私の娘には、他人ではないという直感があったらしく、以前から喜々として接する
娘の旦那には、「オマエ誰や」という顔付であったが、散歩に連れられて懐いた
孫娘には、母性本能というか、犬が猫の赤ちゃんの面倒を見る心理かと思われる

とは云っても、孫娘とハナだけで散歩に行かす訳にいかないのが難点である
二人の覚束ない弥次喜多散歩、その後を付いて行く「じぃじぃ」の私である
無題
背なで泣いて~る、からじしぼ~た~ん ♪
俳優高倉健の映画ポスターである

「健さん」と親しまれ、文化勲章を受賞した映画俳優である
数々の名作を残して先日亡くなったことは新聞・テレビで報じられた
追悼の番組が放映され、ケーブルテレビでは連続放映となっている

背中に「唐獅子牡丹」の入れ墨した健さんが、義理に耐える姿
人情がついに堪え切れなくなり、悪者ヤクザを相手に大立ち回り
映画館から出て来る人々は、皆健さんに成り切った顔付である
まま、日本文化の継承に貢献ありといえば、そうかも知れない

この「入れ墨」のこと、歴史は古いようだ
アルプス山中で発見された古代人「アイスマン」にも入れ墨痕があるとか
日本でも、縄文時代の土偶には入れ墨の紋様がされている
縄文人と繋がりが深いというアイヌの人たちも、近年まで入れ墨をしていた
その文化の名残りは、アイヌ衣装の文様となって伝えられている

縄文人と弥生人の繋がりが、連綿としている証と思われる文献がある
かの「魏志倭人伝」に、「男子皆黥面文身」との記述である
鯨面は顔(面=つら)に鯨(=刺青)を入れる、文身は身体に文様の意味
弥生時代の倭人の男も、皆が入れ墨をしていたということである

「日本書紀」には、神武東征軍が「黥面」をしていて畿内の女性が驚くとある
つまり、畿内には入れ墨の文化が無かったという伝えになる、興味深いところ
そう云えば「健さん」、九州は福岡の御出身とかなそうな・・

「背なで泣く」、背中に入れた墨「唐獅子牡丹」が泣いているということだろう
この「背中」のことで面白い話を聞いた、西洋人は背中を洗わないそうである
先日、外人六・七人の懇話番組があり、日本人の風習のことを話していた
何でも「手拭い」の重宝さを感心していた、つまり、背中が洗えることにである
聞いていると、出演している外人全員は背中を洗ったことがないとのことだった
西洋の風呂とは、スポンジのようなもので体を洗うので、背中は洗えないとか

この話、私は初めて聞いたので驚いた、そして気が付いた
「唐獅子牡丹」、スポンジで洗われては「背なで泣く」だろう
やはり、「唐獅子牡丹」には手拭いが様になる
2014.11.28
2014.11.27 鷺の絵
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秋篠川で餌探しをする鷺(サギ)、番(つが)いで生息している

五代南唐の画家、徐熙(じょき)の描いた鷺の絵がある
茶祖・村田珠光が、「数寄の根源」とまで賞めた一軸である
当時、「これを見なければ茶の湯を極めたことにならぬ」という掛物だった
奈良・松屋が所持していた、その掛物を掛けるにあたり茶室の床を改修した
そのことに対する、松屋と利久の遣り取りが面白く興味深い

「織部茶書」にある話では
松屋は、長い掛物(鷺の絵)に合わせて床の天井を高くした
ところが、利休はこれを見て「なぜ高くしたのだ」と問うた
松屋は「鷺の絵を掛けることがあるかと思うので」と答えた
利休は「そのつもりでやったことなら、ますます悪い」と云う、そして
「長すぎる掛物であれば、畳の上に余った分を巻きためておけばよい」
「小細工はいらぬこと、すぐに床の天井を下げなさい」と命じたとある

この話、茶人の書として有名な「南方録」では次の様な話になっている
名物といわれるほどの掛物を持つ人は床の間の心得が必要だという
名物の掛物が丈の短い横物のようなものであれば床の天井を低くしたらよく
長い掛物で丈が余ってしまうものであれば天井をあげてよい
他の掛物を掛けた時、かっこうが悪くても少しも気にする必要はないということ
つまり、床は所持する名物に合えば、それで十分である、と利休は云ったとか

同じ利休の話として比べると、それなりに含蓄がある
但し、「南方録」は利休崇拝の偽書だと今では判明している
まま、サギのような話カモ

この「徐熙の鷺の絵」、今は見ることが出来ない
松屋から出た後、最後は薩摩島津家に所蔵されていた
それが、西南の役で焼失したとされ、もうこの世に無い
西郷ドンと運命を共にしたのでゴワリモス



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娘の赤ちゃんを抱く女房殿の膝に身を寄せて眠る愛犬「ハナ」

娘夫婦と孫娘二人が来てから、ハナは居場所が無くなって来た
孫娘が家で活動すると、外に出て家の中に入って来ない
孫娘が寝静まると家の中に入り、自分の居場所を探して寝る

上の孫娘は一歳十ヶ月、ハナはその年齢の時、子育ての時期だった
犬の知能は二歳児並とか聞くが、知能と知恵は違うように私は思う
遺伝子から受け継いだ本能は知恵として備わるのだろう
猫やカラスへ異常に反応し、懸命に子育てをしたハナは立派であった
わが娘と比べても決して遜色はなかった,、健気な姿であった

今、ハナは十歳十ヵ月である
犬と人間の年齢比較を調べると、獣医さんの資料があった
面白いので記載する、先に犬の年齢でカッコ内が人間の年齢である

3週 (1歳)
音に反応するようになり、目も開く。
乳歯がはえ始める。
兄弟犬とじゃれ合い、犬同士のつきあい方を覚える。
基本的な性格が現われてくる。

6週 (2歳 )
乳歯がはえそろう。
離乳開始。

2ヶ月 (3歳 )
親離れの時期。
新しい環境や他の動物 (人間を含む) への適応ができるようになる
飼い始めるのはこの頃 (2ヶ月~3ヶ月になるくらいまで) が最適。
母犬から貰いうけた免疫がなくなり始める、第1回目のワクチン接種 

3ヶ月 (5歳 )
永久歯がはえ始める。
第2回目のワクチン接種。(外への散歩はワクチン接種が済んでから)
狂犬病の予防接種を受け、市町村の保健所への登録が必要になります。 

6ヶ月 (9歳 )
永久歯がはえそろう。
家族の中での上下関係と自分の地位の確認行動 (順位付け) が見られるようになる。
本格的なしつけを始める。

10ヶ月 (15歳 )
メスは、この頃に最初の発情を迎える。
オスは、肢をあげてオシッコをするようになる。

1才( 18歳)
ほぼ成犬となる。(大型犬や超大型犬は、まだ成長途中です)
2才 (22歳 )
大型犬や超大型犬でも体の成長が完成する。
3才 (26歳)
やんちゃだったり騒々しい性格のコでも、落ち着きが見えてきます。
4才 30歳
5才( 34歳)
5才を過ぎての初産は、妊娠中毒症などが出やすくなるので、注意が必要です。
6才 (38歳 )
寒さに対する抵抗力が弱くなってきます。
7才 (42歳)
毛色の濃い犬では、白髪が見られるなど、老化の兆しが現れてきます。
高齢になってからの肥満は危険!老犬用のフードに切り替えましょう。
8才 (46歳)
9才( 50歳)
散歩は犬の体力にあわせて、無理をさせない範囲で行ってください。
10才 54歳 病気に対する抵抗力も弱くなります。
健康診断は定期的に。
11才 (58歳 )
気温の激変で体調を崩しがちです。
季節の変わり目には注意してあげてください。
12才( 62歳 )
暗い所を恐がるようになったら、視力が衰えてきている証拠。
夜、暗くなってからの散歩はやめましょう。
13才 (66歳 )
名前を呼んでも反応しない場合、聴力の衰えが考えられます。
14才 (70歳 )
最近では、痴呆症になる犬もいます。
食餌をさせたばかりなのに催促をするようになったりする。
1ヶ所でグルグル回るような行動が見られるようになったら、注意が必要。 
15才 (74歳)
足腰が弱くなり、小さな段差につまづいたりするようになります。 

・・以上、15歳までしかない、後は介護生活ということかな
とにかく、ハナは太り過ぎ、平均体重の倍ある
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残念ながら写真がピンボケとなった、花入は宗偏流の祖・山田宗偏作の竹筒
三百年経た竹の肌地に白椿が合う、椿は賀茂木阿弥(かももくあみ)である

昨朝は焦って家を出た
近鉄西大寺駅七時十七分発の電車に乗る予定であった、駅までは車で十分余り
準備を済ませて食卓に着くと、出産里帰り中の娘がパンとスープを出してくれた
私は飯と味噌汁の人間だが、昨日の女団長のこともあり、黙って食べようとした
置き時計を見ると、なんと七時十分前、慌ててパン一切れスープ一口で着替えを急ぐ

娘婿に車で送ってくれるように頼み、家を出ようとすると、娘から声が掛かった
「土産は持ったの?」、私は中に戻り、冷蔵庫から「柿寿賀・かきすが」を取り出す
「柿寿賀」は干し柿を棒状にした奈良の菓子で要冷である、私は土産によく使う

婿が何時の電車かと尋ねるので七時一七分と云うと、十分に時間がありますと云う
駅に着いたら七時七分、ゆっくり間に合ったことなる、あの置き時計は・・?
家に電話を掛け確かめると、孫娘が時計で遊んで三十分進めたらしいとか
私は時計の針を合わせるようにとだけ云い、到着した特急電車に乗り込んだ
席に坐って足元を見ると足袋カバーだけであった、足袋を履き忘れていた、

京都駅から金沢に向かう、宗偏流の茶友から古希の茶事に招かれていた
茶事は三日連続で行なわれ、今日が最後の茶事、客は五名である
私以外に、東海地方の宗偏流の先生方三名と名古屋の道具商の若社長だ
私が着いた時には、もう皆さん御揃いであった、私は足袋を忘れたことを詫びる

この道具商の先代には、京都別邸へ当流宗家を茶事に招いてもらったことがある
その時、私も宗家に相伴させてもらったのだが、その趣向に驚かされた
茶室に入ると、中が暗く床の辺りに小さな光がポツポツ見え隠れしていた
蛍・ホタルであった、この蛍茶事のことは前に記事にしている

金沢の茶友には、三度ほど招かれているが、都度新鮮な驚きがある
今回も、北陸の産品を主に充分過ぎるほどの酒肴を馳走になった
色々と、美味しく珍しいものが出て舌鼓を打つ、郷土料理だと大きな鯛が一匹
鯛の腸を取りオカラを詰めた蒸し焼きだが、それを今回は俵形にしたという
その後である、取り残した鯛の頭を鉢に入れ、熱い酒を注ぎ火を付けなさった

鉢の中に炎が上り大火事となる、御亭主夫婦はニコニコと笑顔でそれ見つめる
火が収まると、骨酒ですと云って、正客席の私のところへその鉢をお持ち下さる
骨酒の回し飲みである、私は一口飲もうとした刹那、むせ込んだのである
すると、「出来立ての骨酒鉢には気が充満しており、吸い込むとむせますね」、とか
御亭主はニコニコ、私は息を整えてから飲んだ、旨かった、濃茶要領で御次客へ送る

会席も終わりに近づき、取り肴(八寸)と酒器が出て、千鳥の酒宴が始まった
宗偏さんでは、箸洗い(小吸い物)の蓋に八寸の海山の肴を両細の竹箸で取り分ける
一献頂いた後である、御亭主は復ニコニコ顔で、「金沢では御正客に肴を求めます」
「肴・魚?」、私が聞き返すと、「歌でも詩吟でも、踊りの一指しでも結構」とか云いなさる
私は「奈良には海が無いので魚は」と窮すると、「郷に入ればとか」と追い討ちが掛かる
私は仕方なく、これも奈良土産だと、だみ声で調子外れの「平城山の歌」をガナル

「タビ」の恥は搔き捨てた
帰宅して足を見ると、足袋カバーの足裏に穴が開いていた
2014.11.24 女応援団長
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団長衣を着て、応援の指揮をする「女応援団長」

昨日、武道の全国大学選手権大会が大阪府立体育館で開催された
我が母校は、東日本大会を制したとnokoお、意気揚々と大阪に乗り込んだで来た
OBにも「今年は優勝する」とかで、参集の檄が飛んだ、私も出掛けた
「やぁ~、久しぶり」云々で応援席は半ばOB会然とした様子になった

昔は男の世界というか、男臭い独特の雰囲気で覆われたものであった
それが半数近くが女性観客で、黄色い歓声が耳をつんざく状況であった
それに何より、仰天したのは応援団の光景、写真の通り
この武道部の発祥地と云われる名門・関西大学の応援団は女団長
白い団長衣を身に纏い、声高らかに応援の指揮を執っていた

ほう、世の移り変わりもここまで来たかと感心し、話をしていると
「我が校の応援団も、女性が団長です」と学生が云った
私は黙るしかなかった

我が母校は順々決勝で敗れた
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以前にも瓢箪のことを書いたが、その時の瓢箪を出して写したもの
山小屋に出来た瓢箪を水に漬けて種を抜き、天日でカラカラに干した
素人芸で漆を塗ったが、あちらこちらと剥げ落ちて無残な様となっている(泣)

瓢箪(ひょうたん)の話である
瓢箪が人類の進化と歴史に大きな影響を与えたと前の記事の文末にした
人類の故地・アフリカの平原に棲む動物たちの姿はテレビでもよく放映される
全ての動物たちの行動とは、一に水であり、水を求めての行動が原点となる
その中にあって、現生人類・ホモサピエンスが水の保管と運搬を為し得たのだ
それを可能にしたのが「瓢箪」であった

瓢箪の実は食用にもなり、実の殻は水入れになる、種は寒暖や塩水にも耐久する
現生人類は、瓢箪によって水をコントロールすることが出来る初めての動物になれた
それは、人類の遠距離移動を可能にさせ、生存圏の拡張に繋がったのである
先に居た旧人を追いやり、その地を自分達の生存圏とし、更なる拡散を可能にした
それに併せて火と言語の活用を取得し、現生人類の進化・発展をみたということだ
まさに、「瓢箪様さま」といえる

日本で瓢箪が文献に出るのは日本書紀の仁徳天皇の条にある「瓢・ひさご」とされる
この話、先の「第八連隊」のことにも繋がるようで面白い、次いで話とする
今の大阪は、当時大半が河内湖と云われ、そこに淀川と大和川が流れ込んでいた
治水工事が難渋していた矢先、天皇の夢枕に神が立ち次のお告げがあったとか

>武蔵の人・強頸(こわくび)と河内の人・衫子(ころもこ)の二人を、河伯(川の神)に生贄(いけにえ)として祭れば成功する<

いやはや、人迷惑な神のお告げである
武蔵の人「こわくび」は泣き悲しみながらも入水、川の神に身を捧げた
河内の人「ころもこ」は瓢・ひさご(ヒョウタン)を川に投げ入れて、神に叫んだ

>自分を欲しければ、この瓢を沈めて浮き上がらせるな。もし瓢が沈まなかったら、その神は偽りの神だ<

もちろん瓢は沈まず、この機知によって「ころもこ」は死を免れたとか

「復も負けたか八連隊」と云われた大阪兵、だが本当の強さは大阪兵とか
「第八連隊」の記事に寄せられた東西の御仁からのコメント
日本書紀の瓢箪記事にまで遡り、面白いと思った次第
そう云えば太閤秀吉の旗印、金箔の千成瓢箪だというのも、イトオカシ

この瓢箪、源氏物語では「夕顔」となり楚々とした雅な花となる
干瓢(かんぴょう)のこと、料亭の隠語では「木津・きづ」と云う
奈良の山背の木津が、干瓢の産地であったことからの隠語とか
ちぃと蛇足であったか
2014.11.22 ふくべ酒器
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「ふくべ」の酒器、赤膚焼の陶工である塾生が持って来てくれたもの
花入に使ってみた、時季は早いが「日本水仙」を入れた

柚子が色付く十一月中旬から十二月初めは開炉、炉開きが行われる時季
「茶人の正月」とか云われて、何くれと約束事や決まり事があるようでアル
中でも「三部」というシキタリがあり、「織部・伊部・福部」の三部が使われる
織部とは古田織部好みの織部焼、伊部とは備前焼で、福部とは瓢箪のことだ
織部云々というからには、利休や織部・宗箇の時代のシキタリではなかろう
後世,、どこかの流儀が「べきだ・ねばならない」的に、取っ手付けた話だろう

「三部」、どうも仏教世界の仏部・蓮華部・金剛部の三部からコジツケタようだ
その三部にあやかって、三つの部が揃うと目出度いとか何とかである
まま、私も開炉の初稽古で織部の香合・伊部の灰器・福部の茶器を使おう思った
ところが稽古日、女房殿が気を利かし茶濾しをして、別の茶器で準備をしてくれた
稽古途中で気付いた私は、「三部」の話はせずに炉と風炉の違いの話に終始した

稽古後に陶工の塾生が、「こんなのを焼きました」と呉れたのが写真の「ふくべ酒器」
知ってか知らずか、さすが茶陶、心憎いと思ったが、彼は「三部」は知らなかった
然し、その塾生、窯で出たクヌギの生灰を灰汁抜きをして一緒に持って来てくれた
私は破顔一笑、「三部」の話なんかどっちゃでもエエ話となった

「ふくべ」は瓢箪、ウリ科夕顔の仲間で干瓢の素材である、そして最古の栽培植物でもある
瓢箪は人類の進化と歴史に大きな影響を与えた植物なのだ
その話は次に・・

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呉市西三津田町・鯛の宮神社境内にある第六潜水艇殉難慰霊碑
南斜面にはかつての呉海軍工廠(こうしょう)長の邸宅が残されているとか

昨夜、私の四十年来の茶友から私のブログを見たというメールがあった
彼は広島で在家禅(居士禅)の普及に努めており、「呉坐禅道場」を開いている
道場の近くに「鯛の宮神社」があり、「第六潜水艇殉難慰霊碑」を知らせてくれた

さて、佐久間勉艇長の遺書についての続きである
事故に関する潜水艇隊母艦「豊橋」艦長平岡大佐の証言が残されている

>丁度十一日ヨリ十四日迄第一潜水艇隊ハ六隻、第二ハ二隻出テ行クコトニナ
リ呉ニアルノハ六潜水艇一隻ノミニテ、艇長ノ考ニテハ自分一隻ノミ残サレテ甚タ不
愉快ニ堪ヘス新湊行ヲ願ヒ、吉川司令ヲ介シテ自分ニ新湊行ヲ願ヒ出テタルヲ以テ、
其時自分ハ吉川司令ニ君ハドー思フカ知ランガ(中略)良ク考ヘラレタシト申置ケリ
然ルニ司令ヨリ尚再三願出タルヲ以テ、充分注意ニ注意ヲ加ヘテ出動スルコトヲ初メ
テ許可セリ此許可コソ即チ私ノ意志薄弱ナル点ニシテ何処迄モ最初ヨリノ所信通リ
許可セサリシナラ今回ノ事件ハ免カレタリシナラン<

国産初の第六潜水艇の構造上の制約を巡る、各級指揮官の感情的対立、
そして、今次隊訓練に同行できなかった佐久間艇長の屈折した感情
それが本事故の伏線であったと読み取ることもできる
当時の潜水艇としては異例とも言える単独訓練行動には、このような背景があった
呉工廠長伊地知季珍少将を委員長とする査問会の査問書には、次の通り断じている

>艇長佐久間大尉については、「スルイスバルブノ効用ヲ過信シタルモノニシテ畢
竟疎處ノ嫌ヲ免カレサルノミナラス其理想ヲ實行セントスルニ熱心ノ餘司令及母艦々長ノ
承認ヲ受クルコトナク擅ニ瓦素林航走中潜航ヲ實験シタルハ司令ヨリ典ヘラレタル行動豫
定ニ関スル訓令ノ範囲ヲ逸シタルモノニシテ若シ生存スルモノトセハ其責任ヲ免カレサル
モノト認ム」<

私はこの査問書に、「戦争は技術戦」とて「精神論」を避ける帝国海軍の理性を読み取る
が、遭難事故と佐久間艇長の「遺書」は、査問会の意向とは別の形で流布されることになる
少し数字や詳細部分を伏せたものを、朝日新聞か美談として報じたのである
どういう経路で事故の話が朝日新聞に出たのか、誰が「美談」にしたか、今も謎とされている
やがてそれは、海軍内でも追認される形で美談が「事実」となり、世間に広まっていった
潜水艇の事故とは、海軍として本来積極的に報道したくはない「事実」であるはずだが・・
それほど艇長遺書は、絶大な宣伝意義を有していると理解されていた証左であろう

呉に於いて挙行された公葬に際して、天皇皇后両陛下より祭粢料の下賜があった
次いで下士官以上には特旨を以て位記が追賜せられ、全員の遺族に対して金圓が賜与
そのことで、第六潜水艇遭難事故の真意を歪曲した以後の形を決定的にしたと推察される
朝日新聞の恣意的報道は昔も今もである、それに踊り踊らされる人間も昔も今もである
まま、「同じアホなら踊らにゃ損々の、アホ踊り」であろう

佐久間と海軍兵学校の同期には、後に内閣総理大臣を務めた米内光政がいる
山本五十六連合艦隊司令長官と共に日米開戦の反対を論じ、海軍の良識を示した御仁だ
先の工藤俊作、米内光政、山本五十六、そして佐久間勉
何故か、彼等は日本海側や東北の地の生まれ育ちである

帝国海軍は、東郷平八郎元帥等の薩摩閥の伝統を継いでいると云われている
語る長州人に比べ薩摩人は口が重い、良く云えば寡黙、云い替えれば鈍重
帝国海軍のサイレント・ネービーというのは、その辺りに本質があるのかも・・
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佐久間勉艇長享年三十一歳の遺書、最後の部分

工藤俊作艦長の話から、思い起こしたのは佐久間勉第六潜水艇々長である
明治四三年四月十五日、ガソリン潜航訓練中の第六号潜水艇が遭難
佐久間勉艇長以下十四名全員が配置に就いたまま殉職する

このことは当時の日本のみならず、欧米の海軍関係者に深い感動を与えた
当時は、欧米でも潜水艇事故が多発しており、引き揚げられた艦内は惨状だった
死者は出口のハッチ付近に群がり、乱闘の様さえ残されているのが常態とされた
第六潜水艇のことは、日本で小学校の修身の教材となり、「責任感」を教えた
「沈勇」と称せられた当時のマスコミ等の風潮は、下の短歌にも表れている

 海底の 水の明りに したためし  永き別れの ますら男(お)の文
 (与謝野晶子 )

世の賞賛を受けた佐久間艇長の遺書は、手帳三十九頁に綴られたもの
遺書の冒頭は「小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス誠ニ申譯無シ」で始まる
最後の部分を以下引用

>公遺言

謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭
ニ懸ルモノ之レアルノミ

左ノ諸君ニ宜敷(順序不順)
一、斎藤大臣  一、島村中將  一、藤井中將  一、名和中將  一、山下少將
一、成田少將  一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如キ感アリ)  一、小栗大佐 
一、井手大佐  一、松村中佐(純一)  一、松村大佐(龍)  
一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ)  一、船越大佐   一、成田綱太郎先生 
一、生田小金次先生

 十二時三十分呼吸非常ニクルシイ

瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ ガソリンニヨウタ

 一、中野大佐

 十二時四十分ナリ <

ここで絶筆となっている
私も、三十一歳という佐久間艇長の遺書に感銘し、その統率力に敬服した
然しと云うか、やはりと云うか、帝国海軍には違った見方があった
その話は次に
2014.11.19 清静にして凜
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工藤 俊作(くどう しゅんさく)、明治三十四年– 昭和五十四年、最終階級は海軍中佐
数年前に、敵兵を救助した駆逐艦の艦長としてテレビで紹介されるまで、私は知らなかった
小学校の頃から、戦記雑誌「丸」の愛読者だった私だが、その話は耳にした覚えは無かった
十八日の産経新聞に、「日本史の中の危機管理・埋もれていた美談・敵兵を救った武士道」が載った
そこに救助された元英国海軍中尉のサムエル・フォール卿の英紙への投稿文の紹介がされていた
平成十年四月に予定された天皇皇后両陛下の英国訪問で反日運動が起きていた最中の投稿だ
以下要約

>フォール卿が乗っていた巡洋艦は、大戦中のスラバヤ沖海戦で、日本海軍に撃沈される。
海に放り出され漂、流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。
このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美して、
その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだった。

スラバヤ沖海戦では、日本艦隊は英米蘭の連合艦隊15艘と戦い11艘を撃沈した。
海戦後たまたまそこを通りかかった「雷」の見張りが望遠鏡で遠方に漂流物を確認。
その漂流物は敵将兵らしく、その数なんと400人以上との報告が艦長にされた。
工藤艦長は、「潜望鏡は見えないか」確認させると見えないとの返答に救助を命令。
この海域では前日には味方の輸送船が敵潜水艦の攻撃を受けた危険海域だった。
そこを「雷」の乗員220名は全員敵兵の救助活動を行い、乗組員のほぼ倍の422名を救助。
壮絶な救助行動だったようで、救助中は敵も味方もない懸命な活動だったという。
「雷」の甲板は救助されたイギリス兵で埋め尽くされ、
撃沈された際に流れた重油が体中をまとわるのを日本兵は丁寧にアルコールでふき取り、
シャツと半ズボンと運動靴が支給され、熱いミルクと、ビール、ビスケットの接待がなされた。
その後、イギリス海軍の21人の士官が集められ、
工藤艦長が端正な挙手の敬礼をした後流暢な英語でスピーチをし、
「諸官は勇敢に戦われた。
いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と伝えた。
フォール卿は、これは夢ではないかと何度も手をつねったという。


私が工藤俊介に唸ったのは、家族にすらこの話をすることなく世を去っていたということ
戦後の工藤は、誘われる要職は断り、妻の姪の病院で事務をしていた
まさに、サイレント・ネービーである
戦後、工藤の消息を探し求めて来たフォール卿が、工藤を訪ねたのは卿八十六歳
既に工藤は他界しており、訪ねた場所は工藤の墓であった

武士道とは語らぬことと見つけたり・・
「清静にして凜」
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昨日の床は桜の照り葉と山茶花、この時期から照葉を使うことが多くなる
山茶花は八重ということで茶花に使う人は少ないが私は使う、花は花であろうと思う故

照り葉を一枚だけ畳に置いた、塾生が「わざ落としているのですか」と私に問い掛ける
そう云われてしまうと身も蓋もない、私は奈良出身の新橋芸者「照葉」の話に切り替える
修正の必要が無い云われた美貌の芸者「照葉」、後の比丘尼「高岡 智照」である

そして私は、「勁質にして雅文なるもの」「清静として凛」の言葉をじっと胸に潜める
この二つの言葉は、上田宗箇が伝える流儀の背骨と私は思っている
期せずして、その日、十六日の産経抄で「勁」の字を取り上げていた

> 「つよさ」を表す漢字には、「強(きょう)」とは別に「勁(けい)」がある。例えば書画や詩文に力がみなぎるさまを「雄勁(ゆうけい)」という。「勁草(けいそう)」は風雪に耐えるつよい草から転じ、思想信条の堅固なさまを指す。物の本に、左半分の「●(けい)」は縦糸の意味とあった。さしずめ人の背骨を貫く矜持(きょうじ)であろう。・・・ < 、と

私は、安倍晋三という男に少々首を傾げている
最初の総理就任では靖国参拝をせず、後でそのことを「痛恨の極み」とこぼす
次に総理となっても、靖国参拝を逡巡し、こっそり目立たぬ形で参拝をした
参拝をするなら、堂々と八月十五日にやるが良し、というもの
誰に何を憚るのか、自分の意志・信条を軽々とする根性が垣間見える

今回の締らぬ国会解散にも、同様の彼の弱さが露呈した結果だろうと思える
消費税の大幅増税が必要不可欠と思ったのなら、最初から「10パーセント」で通し抜くこと
それを「兵力の小出し」という最悪の戦法をとろとは、小心者・臆病者のやることである
産経抄に云う、「さしずめ人の背骨を貫く矜持(きょうじ)」が欠落しているようだ
安倍はんには、この「勁」の意を噛みしめてもらい度
2014.11.17 三つ羽
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三つ羽の羽箒、ややこしいが右側が双羽、中央が右羽、左側は「朱鷺・トキ」の箱書
この羽箒は私の叔父の嫁、義叔母の父君の作で、嫁ぐ義叔母に形見として持たせたもの
義叔母の父君は和弓作りの職人、矢羽を集めていた中にあった日本朱鷺の羽である
もう絶滅した日本朱鷺だが、当時は佐渡に特別天然記念物として四〇羽ほど生息していた
十年ほど前に、私はお茶をしないからと云って、義叔母が私に呉れたので大切にしている
恐らく、これからは出ないと思われる三つ羽、三つ羽の薀蓄は以下

>三羽(みつばね)は、亭主が客の前で炉や風炉に炭を組み入れる炭点前(すみでまえ)で用いる、炉縁の周囲、炉壇の上、五徳の爪や風炉などを掃くための羽箒(はぼうき)です。
単に羽箒といえば「三つ羽」のことを指します。
三羽は、鳥の羽を三枚合わせて手元を竹の皮などで包み、元結紐や竹皮で結んであるので「三つ羽」といいます。千家流は元結紐で結びますが、武家流は竹皮を撚った竹皮紐で結びます。
羽箒は、古くは一枚の羽を木や竹の軸に挿したものでしたが、利休が三枚重ねにしたとされ、以降三枚羽の「三ツ羽」が一般的になり、単に羽箒といえば「三羽」のことを指します。
千利休の「三ツ羽」は、二枚横に並べた上に一枚を乗せる形でしたが、古田織部が三本をまっすぐ縦に重ねる、現在の形にしたといいます。
羽箒は、羽の向きによって、「右羽」「左羽」「双羽」の区別があります。
羽の骨を中心にして、骨より右が広いものを「右羽」(みぎばね)といい、左が広いものを「左羽」(ひだりばね)といいます。
羽箒は、風炉用は「右羽」(向って右が広い)、炉用は「左羽」(向って左が広い)を使います。
「双羽」(もろは)は、左右の羽根が同じ幅の羽箒で、炉・風炉ともに使えます。真の炭手前に使うこともあります。
羽箒の仕立や、扱いは流儀によって異なります。<

実は、昨日は炉開きというか、炉の稽古始であった
いい機会なので、風炉と炉で形体の違う道具を比べて説明をした
羽箒・・風炉は右羽、炉は左羽
火箸・・風炉は柄が金属のまま、炉は木製(桑が多い)
炭斗・・風炉は背が高く、炉は背が低い、その方が炭を活け易いため
竹蓋置・・風炉は節止め(竹の節を上部に切る)、炉は中節
灰器・・風炉は陶器の皿型、炉は深い鉢型
香・・風炉は白檀・沈香等の香木、炉は練り香
香合・・風炉は木地または漆り物、炉は陶器
釜・・風炉は小ぶり、炉は大ぶり
・・云々であった
2014.11.16 酵母の役割り
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湿し灰作りで土嚢袋に広げ天日干しをしている
どうも前回から、写真設定がおかしいようで、変な画像になっている
修正方法が分らない・・もう、この世に不適合な人間になっていることを自覚

開炉に合わせて、夏に作った湿し灰を出してみると乾き切っていた
ままよと、乾いた灰を盥(たらい)にとり、煮詰めたほうじ茶を加える
昔なら古いゴザ(茣蓙、蓙)に広げて天日に干すが、今は土嚢袋で代用
土嚢袋は水はけが良く、ゴザと同様の役割をするので、私は重宝している

炉の灰は、草木を焼いた灰、生灰(きはい)を水洗いして灰汁(あく)を取り
篩(ふるい)に掛けて作る、他流では篩の荒さで炉と風炉の区分をすると聞く
炉で火を入れた灰は乾き切ってサラサラするので復篩って風炉灰にするとか
上田流では、風炉灰には牡蠣殻から作った灰、牡蠣灰(かきはい)を使う

湿し灰は蒔き灰として炉の炭点前に使うもので、番茶かほうじ茶で色付けする
通常、炉仕舞い後の灰で梅雨明け時季に作り、湿りを残して甕か木箱等に保存する
私は濡らした新聞紙に包んでレジ袋に入れるのだが、今年は袋の口が開いていた
灰を盥に入れ、ほうじ茶でコネていると、ドーナツやパンの生地コネを思い出す

話は飛ぶが、昨日のNHK朝番「マッサン」、パン生地に酵母を入れてコネ、丸めていた、
パン焼きをした後の主役夫婦の会話に、私は妙に納得したのである

「親は酵母と同じじゃのう、パン(生地)が膨れるためには酵母が要るが、パンが焼けると酵母は居らん様になる、酵母はパンの中に消えてしまいよるのじゃ」

今、我が家に娘家族が寄宿している、出産後の里帰りで我が家は民宿同然
孫を育てている娘を見ていると、子育てに懸命であった女房殿の昔の姿が重なる
親というものは、「酵母の役割り」を順繰りに果たしながら次へ繋ぐものだと実感
2014.11.15 小学校の詩集
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熱田神宮の「四季さくら」、銀杏が色付くこの時期に満開を迎えている

孫の宮参りから戻ると、小学校時代の詩集が届いていた、件の同級生からである
添え文に、「男性合唱」は「声」なんです。皆さんよく間違われますが。とあった
私の不勉強、今の今まで知らなかった・・、下の詩で発声練習をしてみよう

夕焼けの小雨、井谷直人

一足一足
日は十センチメートル、二十センチとだんだん大きくなり
そうして、だんだん生駒山に近づく
近づくに連れ生駒山はダイヤから水晶
水晶からだんだん赤くなりルビーとなる
さらに黒ダイヤと黒くなる
生駒山から飛び出したカラスが
今日の活動は終わりだぞうと言うように
カオウカオウと鳴いて今日の終わりをつげている
すると雨が、
昼はぼくたちのために
ふらないでおこうとがまんしていたが
カラスの声を聞くと、もうがまんができず
ぽとぽとと、ふらしてしまった
その雨にぬれながら、平和行進の一行は
こんな雨ぐらい、原水爆のことを思えばと
力強い足あとをこの大和にのこしていく
この力強いすがたを見て
何かがぼくの心を動かした
ぼくはなんどもなんども
心の中で、ばんざいをくり返した
一行がすぎさったあとは
カエルが「ゲロゲロ」ないているだけだった

※ 全く詩になっていない稚拙なものながら、小学校時代の想い出まで
2014.11.14 春鹿
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春鹿の超辛口三本、左から生(火入れ無し)12度、中取り、生酛(きもと)造り
写真の奥にオワス白髪の男性が春鹿超辛口の仕込み人、南部杜氏の御仁、

昨夕、またまた「かえる庵」さんへ、「大和まほろば酒の会」があり参加する
その話は後でまた、今日はこれから名古屋・熱田神宮まで孫の宮参りに出掛ける

※ 帰宅すると「かえる庵」さんからコメントあり
火入れ無しの春鹿は「12度」ではなく「18度」だとのこと、この酒は旨かった
否、この酒も・・かな(^^)
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奈良県立美術館の入口看板

昨日は、好評だと聞く「大古事記展」を観るため県立美術館まで出向いた
先ず、卒塾者の「かえる庵」で昼食を済ませ、三条通りを上がっていく
途中に洋風の和服店舗があり、看板に「日本和装クラブ」とあった
「日本和装クラブ」とは、「武士のサムライ会合」かと苦笑しながら中を見た
店頭に、和服の白人男性とその白人に抱き付く日本女性のパネルが貼ってあった、
奥から洋装の女性が出て来て云うには、京都に本部がある和服着付け教室だと説明
私に、「和服が似合いそうですね、如何ですか」云々、私は胸くそが悪くなった

美術館に着くと、入口看板に大きな案内ポスターがあった
入場料八百円を払って中に入ると「大古事記展」パンフレットを呉れた
主題は「語り継ぐココロとコトバ」、副題は「五感で味わう、愛と創造の物語」とあった
五か所の「展示コーナー」というのが儲けられ、「コーナー」毎にテーマが記されていた

第一章、古代の人が紡いだ物語、(錘・つむにかけた物語?)
第二章、古事記の1300年、(まま)
第三章、古事記に登場するアイテムたち、(アイテムたち?)
第四章、身近に今も息づく古事記、(まま)
第五章、未来へ語り継ぐ古事記、(まま)

主催・奈良県、朝日新聞、(朝日?内容捏造はあるまいな)
協賛・シャープ㈱、(自社の経営状態は?、小百合はんを悲しませる勿れ)
後援・西日本旅客鉄道㈱、近畿日本鉄道㈱、阪神電気鉄道㈱、奈良交通㈱、㈱南都銀行、奈良県ホテル・旅館組合、歴史街道い推進協議会
(何のことはない、後援と云うよりオコボレ頂戴型である、メセナとは・・)
企画協力・㈱平凡社、㈱ワコールアートセンター、企画制作・㈱アサツーディ・ケイ
(成る程、古事記を材料に現代アートの感覚で開いた美術展であった)

私が足を運んだ目的であった「国宝・七支刀」はレプリカであった、(ア・ホ・ラ・シ)
美術館を出て、歩き疲れた足を引きずりながら国立博物館へ向かった
正倉院展の最終日である、四時前であったためか、入場券売り場に人は居ない
警備員に訊くと、本日は館内を無料開放で、正倉院展始まって以来のこととか
国民に広く見てもらいたいという、今上陛下の思し召しということであった

有難く恩賜の入館を果たした私は、足取りも軽くなり目当てのものを探す
教科書で馴染みの鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)、
桑木阮咸 (くわのきのげんかん)、伎楽面 (ぎらくめん)もじっくり見た
経文が多く展示されていたが、その有難味が今一分からない私ながら
その大量の文字の見事さには、圧巻とも思え納得承服した次第

博物館前の旧知の古美術商に寄ると薄茶と丁稚羊羹を出してくれた
暫らく世間話をしていると携帯電話が鳴った、先に家に戻った女房殿からである
夕餉のお采、買うて帰ってくれとの由、私は現実に戻り、ソソクサとそこを出た
2014.11.12 八連隊異論
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近所の畑に咲く「寒菊」、利休はんはリンドウと菊は茶花に厭うたとか

さて、この四日のブログ「復も負けたか八連隊」に異論が送られて来た
御尊父が大阪出身で八連隊ということである、面白い視点故、以下掲載する

【終戦特集:歩兵第八聯隊】

 日本陸軍の特徴は、兵隊に「中流」の精神があったことである。(日下公人「思考力の磨き方」より)
──部隊の将校が死んでも、兵隊は自発的に戦った。「なぜ自分はここで死ぬのか。ふるさとを守るためだ。女房や子供を俺が守らなきや誰が守るのか」という思いを兵隊は胸に抱いていた。(同上)

■「またも負けたか八連隊...」
 "・・・それでは勲章九連隊(京都の歩兵第九連隊 / 「くれんたい=もらえませんよ」のもじり。民謡。"

 八連隊は大阪鎮台の第4師団傘下で、弱い軍隊の代名詞みたいな扱いを京都九連隊と共に巷に流布されていたようだ。しかし実際は異なり、所謂「しぶとい」連隊だった。橋下大阪市長みたいなタイプでしょう。大阪京都は日本の歴史上、戦(いくさ)の舞台になったこと多い。要するに錬(ね)れている面がある。

■大本営陸軍参謀部の作戦課長服部卓四郎談
 「誰もが大阪の兵隊は弱かったという。しかし、じつは大阪の兵隊は強かった。戦争が終わってから考えると、東北や九州の兵隊は、大本営が命令した通りにやるから、大本営では強いといった。しかし米軍から見れば、一番しぶとくて嫌だったのは大阪の兵隊だった。大阪の兵隊は、大本営の命令通りやらず、自分で考えて一番いいと思うことをやるからだ。」

■「大阪師団はしぶとい」
 (転載始:前略)そのような状況下にあって、『大阪師団はしぶとい』と米軍の記録にある。『機を見て反撃してこないから全滅したと思って安心していると、一カ月後、急に攻めてくる。こんなややこしい軍隊はない。ところが、東北、九州の連隊は全力で反撃してくるから機関銃で一掃できる』と。

 これは大本営でも分かつていたことである。服部も、「結局、一番強いのは大阪の兵隊で、一月も経って、もうみんな死んだだろうと思っていると、突然ニューギニアのジャングルの奥から電報が来て、『われわれはまだ三〇〇〇人生き残っている。これからどうすべきか』と聞いてくる。あんなうれしいことはなかった」と回想している。(終)

■日下公人さん(評論家)の結論
 「結局、大本営は勝つための戦争指導をしていたわけではなかった。それでも、現場の兵隊は強かった。アメリカ軍も、司令部を潰したあとの日本軍の兵隊の強さに困惑した。それは、兵隊の中に「中流」の精神と教養と判断力があったからだ。これが日本である。戦後の日本経済の強さも、『現場の強さ』に裏打ちされている。

■感想
 日本には嘗て二百六十余の国(藩とも言う)があった。多彩(colorful)。「竹中経済構造改革」「サヨク日本精神変造構造改革」は日本を一色に染めようとしている気がします。街角保守の精神を発揮し、大本営発表に惑わされる事なく生活をしたい。近隣のスーパーでは消費増税以後、レジの稼動数が半分になっておりコンビニも安売りキャンペーンが続いています。国民は自分で先行きを判断している。「歩兵八聯隊精神」に学び生き延びましょう!

 ◎オマケ→→アメリカ軍は原住民をスパイにして探らせる一方、綿密に空中偵察をして出入りする人数を調べ、そこが司令部だと判断した。そこへ大型爆弾を集中的に落として、司令部を潰した。アメリカ軍は、これで成功だと思った。ところがアメリカの記録には、「日本軍は不思議な軍隊だ。司令部を潰すと、かえって強くなる」とある。(同上)

<井谷の所感>
知的レベルの低い者を対象にした米国式マニュアル経営は日本人に向かなかった事実がある
日本人は其々の担当や部署が、より良い方法へと変えてしまうところがあったためである
大本営を米国と見れば、八連隊は日本人であったという話であろう、では九州・東国兵は・・
2014.11.11 セカンド
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京都の尼門跡寺院での講習会で頂いた点心風弁当
煮物箱、向う付(造り)、吸い物、栗ごはん、それに酒も出た
昼間から酒と云う勿れ、茶事では朝・昼・晩お構いなく酒は付き物
上田流の茶事では、一汁二菜・酒は三献を基本としている

またまた、教会男性合唱の続き話をする
私の小学校の同級生も、他府県ながら男性合唱団に所属しているという
彼からメールが来て、彼の合唱団のホームページを教えてくれた
それによると、六十人余りの男性で構成、二十年の歴史を持つとあった
彼はセカンドテナーを務め、以下の様なメンバー紹介の序文を書いていた

> 
"2位じゃダメなんでしょうか。"
少々古くなるが、事業仕分けに関する某国会議員の発言だ。まったく同感である
セカンドテナーは主に主旋律の下を歌い、そこに陰影をつけ、深みのあるアンサンブルを 醸し出す。基本は「影」なのである。目立ち過ぎてはいけない。1位になってはいけないのだ。
しかし、影の音の変化は複雑・微妙。ゆえにとりわけ鋭い音感が必要とされる(エ ヘン!)。これを歌いこなしてこそのセカンドであり(ホント?)、そこが快感なのである。
さて、メンバーはといえば、ご覧のとおり全員決して若くはないが、かといって直 ぐにお迎えが来そうな状況でもない(ことを願う)。練習は休んでも写真撮影ともなれば嬉々として全員集合する。 控えめな歌の反動か、性格か、至って目立ちたがりで前向きな連中である。セカンドの未来は明るい。 

(T生) <
2014.11.10 誤解曲解
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ドウダンツツジ(灯台躑躅)の照葉と山リンドウ(竜胆)、京都講習会で掛けられていた
「ドウダン」は、枝分かれの様が結び灯台の脚部と似通っているのが名の由来とか
山竜胆は流祖・上田宗箇が好んだ花で、流儀の炉開きに使う

昨日は京都の尼門跡寺院での講習会へ宗家のご来駕があり私も出向く
雨の尼門跡寺院の雰囲気は何とも云えない優しさと風情があった

尼門跡寺院とは、皇族・公家など高貴な女性の入寺によって営まれてきた寺院
独特な品格と文化を持ち、 正式には「比丘尼御所」と呼ばれるものであった
明治以降は、「尼門跡」ないし「門跡尼寺」という名称が広く使われている
尼門跡には、現世的なものと仏教的なものとの調和の取れた融合が感じ取れる
廃寺が進み、今では奈良と京都に十三ヵ所が残るだけとなっている

一昨日は奈良の基督教教会、昨日は京都の尼門跡寺院、私の心は洗われる(^^)
昨日の教会ワインコンサートの続きになるが、面白い話を書き忘れていた
司会役の団員の話が私には意味が解らす、休憩中のその司会役に聞いてみた

「古い牙は道を失う、とはどういう意味ですか」と私
その司会役の御仁、怪訝な顔で「私がそんな話をしましたか、覚えていない」
「何か、欲の深い心が何とかとも、云われていましたが・・」と私が食い下がる
「ああ、それは古い牙ではなく、降る雪はです」と司会者はニコリと答える
「・・・、?」とした私に、その司会役の団員は私の誤解を解いてくれた

「欲深い,、人の心と降る雪は、積もるにつれて、道を失う」という狂歌であった
「降る雪は」を「古い牙」と、私は聞き違っていたのだった
誤解曲解は話せば解かる、新聞文字も離せば分かる
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興福寺境内にある日本聖公会奈良基督教会の入り口、多神教の懐は深い
前の看板には、「ワインコンサート・こちら→」とある

昨日の午前中、私は囲碁の先生宅を訪ね、和歌山の御仁との棋譜を見てもらった
先生曰く、「最初の十手で負けが確定している、この碁は論評に値しない」云々
私はうな垂れ、神妙に聞き入り、出された煎茶と栗羊羹にはそっと手を付けた
「二年前に会ってもらった女の子、あの時は二級だったが今は四段、小学生大会で二位」
私は小さくなって、うつむくばかりであった・・

正午過ぎ、五十五年ぶりに会う同級生との待ち合わせで、近鉄奈良駅の「行基像」へ行く
「髭面の和服姿で行くからすぐ分る」とメールを入れていたが、二人ほぼ同時に気付いた
小学校の級長で勉強運動共に良く出来た彼は、今以って清々しい雰囲気を持っていた
今回の再会の仲介の労は、三条通り「かえる庵」で偶々隣り合わせた御仁によるもの
その御仁が私の小学校の同級生と中高時代の同級生、つまり友達の友達であった

その仲介の御仁が敬虔なクリスチャンで、昨日には教会でワインコンサートを開催
私の同級生から電話があり、一緒に参加することになったという次第
その御仁が弁護士仲間と作った合唱団は今年二十四年になるという、なかなか立派なもの
終わった後、御仁は片付けがあるとのことで、私と同級生の二人が先に「かえる庵」へ行く
店に着くと、「本日貸切」の看板が出ていた、「朋庵」の塾生が借切り予約をしていたのだ
とにかく店に入れてもらい、別の席に私達は陣取った

暫らくして、仲介人の御仁も合流、我々の小学校時代や彼等の中高時代の想い出話に耽る
また暫らくして、「朋庵」が塾生が奥さんや仲間と現われ、私を認めて怪訝な顔をする
私が「いやいや、偶然のこと」と弁明、「気にせず其方は其方で、こちらは此方」と笑顔を送る
彼方の席から日本酒が来た、此方からはお返しせずに、空いた酒器を持って更に無心に行く
なごやかに二組の酒宴は続き、秋の夜長は深けていった

私の同級生が云うには、「小学校の文集にあった井谷の作文が印象深い」、とか何とか
私は覚えていないし、その文集も手元にないと云うと、彼はコピーして送ると云ってくれた
それは嬉しいと応えて感謝する、本当に楽しみである、鶴首花入の如しで待つ

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ニッカの竹鶴ピュアモルトウィスキー、もう三分の二が空いている

私と女房殿は、NHK朝の連続番組「マッサン」の視聴者となっている
番組はニッカウィスキー創業者竹鶴政孝・リタ夫婦の実話を元にした物語だ
先の記事にした、私達のスコットランド・ウェールズ旅行のこともあり見始めた
エジンバラでは「五つ星レストランのスッコチバー」へ入った想い出がある
それやこれやで、私達はの「マッサン」を楽しんでいるが、少し気が痛む
私自身は、NHK料金の確固たる不払い者であるのだ・・、まま

新聞記事で、「マッサン」が高視聴率を上げており,、ウィスキーブーム到来とあった
更に、「竹鶴」ブランドの販売は昨対七割アップとなり、店頭では品薄状態ともあった
この水曜日のこと、酒屋に行くと「竹鶴」ブランドのウィスキーが置いてあった
白ラベルが4900円、黒ラベルが1900円とある、この際とも思ったが「黒」にした
私は糖尿故、三千円以上の酒は自分で買うて飲むことはない、貰い物は別である
写真を撮った後、飲み干したが旨い酒であった、次は思い切って「白」を買うことに

さて、夕べは閏九月の十五夜、夜空に雲は無く満月がクッキリとして美しかった
昨々夜の十三夜、百七十年ぶりという年三度目の仲秋の名月であったが曇り空
夕べの満月では私は狼男になり、夜空に向かって咆え、罪深き昔話の告白をした

二十歳過ぎの頃、私は遠洋貨物船に乗り、人生の暗闇を航海していた
仏領跡ではブランデー、英領跡ではウィスキーが格安で堪能できた
当時の日本では、輸入洋酒に法外な贅沢税を掛けていたためである
ちょっとした洋酒で、日本での小売価格の元値の三倍・五倍、物によると十倍
当時、スコッチ・ジョニーウォーカー黒ラベル「ジョに黒」は日本で一本二万円
それが、豪州で仕入れた船内価格、つまり免税価格で一本九百円であった

「ジョ二黒」をバーやクラブでボトルに入れると一本三・四万円ぐらい取られた
そこで私はバーのママさんと交渉した、「私の給料は三万円、飲み代はジョニ黒で」
ママさんは話の分かる人、「エエよ、ジョニ黒で」次いで出た言葉、「もっとある?」

いつしか私は、ママさんの仲間に「ジョニ黒」を密輸販売する不埒者になったのだ
ママさん達には小売価格の半値の一万円で渡し、一ダース箱で十万円の荒稼ぎ
正に、三者三人得(ママさん、豪州の元売り人、そして私)、すこぶる善行である
私の羽振りは急に良くなり、持ち帰る一航海毎の土産も高価になっていった

もう半世紀近い前の話、とっくに時効と、狼男は満月にほくそ笑む(^^)
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散歩で見掛けたダリア、キク科ながら和名は天竺牡丹(てんじくぼたん)、でもメキシコ原産
メキシコではダリアを食用に栽培しているとか、その球根を金平にすると美味いらしい

前のブログで竹台子は茶祖・村田珠光の考案になるものと記した
その珠光の竹台子は、「珠光一紙」と共に奈良の塗物商・松屋にあった、
寛永元年(1704年)奈良大火の後、大阪の豪商・鴻池家へ渡ったとされている
「一紙」は、今は京都・平瀬家に伝わるが、珠光の竹台子の在り場所は知らない
「珠光一紙」とは、珠光が一番弟子・古市播磨法師に与えたもので「心の文」と云われる
内容は含蓄があり、茶人の心得の原典になっているので掲載する

「珠光一紙」

> 比道、第一わろき事は、心のがまむがしやう也
こふ者をばそねみ、初心の者をば見下す事、一段勿体無き事共也
こふしやにはちかづきて一言をもなげき、又、初心の物をばいかにも育つべき事也
比道の一大事は、和漢のさかいをまぎらかす事、肝要肝要、ようじんあるべき
又、当時、ひえかるると申て、初心の人躰がびぜん物、
しがらき物などをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也
かるると云事は、よき道具をもち、其あぢわひをよくしりて、
心の下地によりてたけくらみて、後までひへやせてこそ面白くあるべき也
又、さはあれ共、一向かなわぬ人躰は、道具にはからかふべからず候也
いか様のてとり風情にても、なげく所、肝要にて候。ただがまんがしやうがわろき事にて候
又は、がまんなくてもならぬ道也 銘道にいわく、

心の師とはなれ、心を師とせざれ

と古人もいわれし也 <


2014.11.06 竹台子
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竹台子、天板は吉野杉、地板は何処産か分らぬが重みのある杉、竹は煤竹(すすだけ)
前の記事の続きながら、幼馴染の大工職人が風炉先と一緒に作ってくれたもの
巾二尺八寸、奥行一尺四寸、高さ二尺二寸(約91・43・66cm)である
柱は、手前側を勝手柱(左)・客柱(右)、奥側を角柱(左)・向柱(右)と呼ぶ

漢土から渡って来た台子は、巾一間・奥行二尺・高さ三尺余りの大きなものであった
茶では、表座敷とは別にある今の水屋として使ったようで、名のある寺院に今も見られる
茶の点前に使ったのは、鎌倉期末から室町期の僧・夢窓 疎石(むそう そせき)と云われる
夢窓 疎石は伊勢生まれ甲斐育ちで、奈良・東大寺で受戒し、京都・天龍寺の開山となる
竹台子は茶祖と云われる奈良の村田珠光が考案したもの、私は侘びた趣があると思う

新塗り台子点前は格式の高いものとされるが、使用例は松屋日記に記されたのが初めらしい
秀吉が台子点前を秘伝化させ、利休がそれを受けたようで、真行草と「乱置」があるとされる
織部・遠州・石州はいずれも将軍献茶に台子を用いておらず、遠州は台子の茶会をしていない
逆にそれが台子を高尚なものに押し上げ、皆伝の証という位置付けが成立していったようだ
いわゆる奥義や秘伝である、昔の上田流は「真台子の伝」とあり、相伝とはこれ一本であった

因みに、秀吉の奥秘十二段を許された者とは次の七名
豊臣秀次、蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、木村重茲、高山右近、瀬田掃部、芝山監物
上田流の昔の相伝書には、「古田織部から秘伝された奥義」と記されている

私の竹台子は組み立て式にした、格式ばる気が無いのと、かさばるためである
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先週仕上がった檜の肩下がり風炉先と吉野杉の隅切り小板、幼馴染の大工職人の手

去年、従弟が炬燵板にどうかと云って持って来てくれた檜の一枚板が、形をかえたもの
天板としては縦横の大きさや形が歪であったが、その歪さの面白味を風炉先で生かした
元木は縁周りに皮が残っていて、それなりの雅味があったが、綺麗に磨かれて艶が出ている

従弟が見い出した「皮の味」と幼馴染の大工職人が磨いた「木肌の艶」、なるほどに其々である
まま、木地同士の組合せながら、折角故、最後の風炉点前稽古で使用
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昨日の囲碁定期戦、私の投了盤面、私の黒千番、中央右の黒石十二箇が殺され投了
継ぐべきところを継がずに、敵陣に入った黒石だけで生きようとしたが無理であった・・
春秋年二回の定期戦で八連敗、四年負け続けである、作務衣姿が写る碁仇は和歌山の御仁
彼は土産にと、白浜の干物を持参してくれなさったが、負けた口惜しさで味は掻き消えた

「復も負けたか八連隊ならぬ八連敗」と私の口を突いて出た言葉に、和歌山の御仁は「何それ」
大阪第八連隊の弱兵ぶりを囃した巷の言葉だと説明、私の自嘲だと付言する
京都第九連隊は「それでは勲章九連隊」、京都公家兵はともかく福知山や大津の兵は頑張った
第九連隊はグァム島の攻防戦で玉砕、大阪第八連隊はタイ駐屯で終戦まで無事に過ごす

さて、奈良は第三十八連隊、よそ者から「ウソの三八(サンパチ)連隊」と呼ばれたとかと
奈良人が嘘吐きという話でなく、人間心理のことを云った話だ、奈良の名誉もあるので念の為
人間の心理とは、一から四までの数字の中から一つ選ばすと、七・八割が「三」を選ぶとか
一から十の数字では、半数は「八」を選ぶ、故にとっさのウソ数字に「三・八」が多いという
三八連隊も九連隊と同じくグァム島の守備に就き、米軍上陸地点に布陣、敵艦砲と爆撃で壊滅
残存兵はジャングルに入り戦い続けた、あの「恥ずかしながら」の横井庄一氏は三八連隊所属
彼は愛知県人の輜重(しちょう)兵ながら、満州からグァムに転進し、三八連隊に所属したという

ついでに、近畿のオマケと云われる和歌山は第六十一連隊である、世間の囃し言葉は無い
しかし、その戦歴は大したもの、見上げたものだよ屋根屋のフンドシである
あの辻参謀の無謀な「インパール作戦」、幾万もの戦死・餓死・病死を出しながらの撤退作戦
その殿(しんがり)戦の任に就き、劣悪な環境の中で懸命に戦い抜いたのは和歌山第六十一連隊
殿部隊、撤退の最後尾で皆を守りながら戦う役割、迫る来る敵と果敢に戦い多くの死者を出した
その和歌山第六十一連隊、ビルマの地で終戦を迎える

復も負けたか八連敗、勝っても勲章九連敗にはならぬようにと、来年を睨む私であった

2014.11.03 数珠珊瑚
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昨日の稽古の床、片口を花入に数珠珊瑚(じゅずさんご)を挿す、下の二葉を切り忘れた
ヤマゴボウ科で、残念ながら天然記念物の宝石サンゴ・赤珊瑚ではない

この赤珊瑚の密漁、今朝の新聞一面で「中国密漁船急増200隻超」と報じている
肩書きには、「荒かせぎ数千万円・・・安すぎる罰金」とあった
密漁船一隻で数千万円の赤珊瑚を取ることも可能で、捕まっても罰金は数十万円とか

数日前では、小笠原諸島に四十隻から百隻程度のシナ人の密漁船と聞いていた
それが昨日は、更に近海の伊豆諸島沖に二百隻超のシナ人の密漁船となっている
日本の監視船に捕まるのは真に不運、殆どは無事に密漁して帰還するという
密漁の仕方も資源保持云々たらの御題目なんぞ欠片も無く、破壊しまくっている

シナ人の感覚からすれば、至極真っ当な考えであり、当り前の行為である
それをとやかく云うだけの日本人とは、シナ人からすると「アホ・マヌケ」の一言だろう
日本人のことを、負け犬の遠吠えにしか聞こえぬシナ人感覚こそ世界の常識である
暴行・略奪にあっても、「非武装中立」の感覚で対応する日本人の方が世界の非常識

ド突かれたら、「倍返し」でド突き返す根性、それが唯一の平和維持国策である
2014.11.02 犬猿の仲
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「落葉」に興味を持った孫娘の横で、警戒しながらも寝そべる愛犬「ハナ」
孫娘はバナナは好きだが「猿」ではない、だが「ハナ」には天敵ではある
孫娘にとっては「ハナ」は格好の遊び相手であって、敵ではない
孫娘は「ハナ」をを見つけると追い回し、耳や尻尾をつかんで遊ぶ、「ハナ」には迷惑千万
「ハナ」は嫌がって逃げ回っている、それがここ最近の我が家の日常茶飯事行事である

最近のニュースで気付いたことは、朝日新聞と産経新聞のこと
「阪神」の日本シリーズ進出で沸く頃、その本拠地に関係ある話があった
神戸にお住いの「朝日新聞社主」が朝日新聞株を売却・手放したという報道
まま、朝日新聞とテレビ朝日との云々もあるが、「朝日叩き」のこの時期である

産経新聞の元ソウル支局長の拘束措置が韓国が延期したという報道
司法が国家権力から独立していないというか、国家権力の走狗然という韓国の在り様
問題とされる産経記事の出所である「朝鮮日報」には何ら咎め無し、アングリである
日本選手のバッチを「旭日旗」と咎めても、朝日新聞の社旗・旭日旗は咎めない
韓国では朝日新聞に寛大である、さすが「チョウニチ新聞」と云われる面目躍如かも
まま、未熟な国というか、憐憫を誘う民族根性の仕儀であろう

この朝日新聞と産経新聞が犬猿の仲として巷間の口に上って久しい
左の朝日に右の産経、と云った図式で捉えられているのであろうが、それはそれ
実はこの両紙、共に大阪で生まれた新聞であり、読者獲得戦は大正時代からの因縁
因縁は因縁としても、創業理念を蔑ろにするようでは、お里が知れるというもの
朝日新聞の「朝日」の由来は、「旭日昇天 万象惟明」を基にしたものとされる
明治十五年に、朝日新聞は政府と三井銀行から極秘裡に経営資金援助を受け始める
そんな御用新聞社の朝日に政府批判や財界 糾弾の論が書けるはずがないのだが・・

片や産経新聞、その創刊の理念を創業者・前田久吉の言葉として伝えたのが下記

> 大阪人を「贅六(ぜえろく)」と呼ぶ。一体「贅六」の名称には、どんな意味が含まれているのか。
ねばり強くて、底力があって、外柔内剛だと言うのなら、それを甘受して、そしてもっと善い、或る者を取り入れよう。
鈍感で、お座なりで、利己一点張りといったような意味なら、大阪人の冠称から、これをどこかに返上しよう。
此の主張で、大阪の活社会と大阪人の家庭を目標とした本紙は、大阪及び大阪人に親しみのある新聞として歓迎された。
大阪に生きる人も、生きた大阪を知らんとする地方人にも、一日も無くてはならぬ新聞となっている <

大阪は「通天閣」、東京は「東京タワー」というのが世間の通り相場であったが、話が違う
「東京タワー」建造は、この産経新聞の創業者・前田久吉の偉業なのだ
朝日新聞の登記上の本社は今も大阪に置かれているだが、産経はとっくに東京に移している
経営存亡の危機にある朝日新聞、その最中(さなか)に朝日新聞社主は朝日新聞株を売却
産経新聞の後継者は、とっくに大阪を離れて東京に居を構えていなさる、何ともはや・・

新聞社、所詮は「瓦版・かわらばん屋」、人のことをあげつらって飯の種する稼業である
その瓦版屋の後継ぎ連中、自分を何様と思っているのか少々目障りで、鼻に付く
ところで、産経新聞の購読者率全国一位は、ここ奈良の地であるとか・・、私もその一人