2015.05.31 自宅茶事
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紅壺に入れた下野草(しもつけそう)、この園芸種が京鹿の子(きょうかのこ)
京鹿の子の方が花も大きく色鮮やかであるが、私は下野草を好む

今日は、卒塾者の方が塾生二組のご夫婦を招き、自宅茶事をして下さる
茶事稽古として、ご自宅で気楽乍らも形に則った茶事の形を見せてもらう
茶の稽古とは、茶事を学び、自分なりの茶事が出来るようになることだと、私は思っている
四季の茶事をふた回りすること、その為に炭・薄茶・濃茶と会席料理の習得がある
稽古通いは三年を目途に五年以上は掛けないというのが、私の茶の稽古方針としている

今日の茶事稽古に参加する二人の塾生は三年目に入ったところである、残り一年が目途
しっかりと、卒塾者の自宅茶事の形を学んでもらいたいものである
茶事とは基本を理解の上で、自分なりの味付けや工夫をするもの、形は其々である
茶事の基本とは宴会に他ならない、違いは飯を先に出すのが茶事、後に出すのが宴会である

茶の先生方には、仕出し屋を頼み、教科書通りをモットーにされる方が多いようだ
元来、茶事に教科書というものは無い、其々がやった茶事を学び合ったものである
それ故、沢山の茶会記が残され、それを参考に自分の茶事を工夫したと云うことだ
皆で風呂に入り、酒を酌み交わし、歌を詠み、一差し舞い、そして茶を喫したもの
女衆は裏方に徹して、男衆の宴会を支え、旦那の面子を守ることに女の意地を見せる
後で、旦那に褒められ礼を云われることで、女の生き甲斐と幸せを感じるものである

茶の湯・茶事は男のものである、それは偏見だと云われることもあるが事実は事実
最近は、女子衆の先生方が集まって「茶事」なるものをされているようだが、奇妙なこと
そんな「茶事もどき」なら、女先生同士の「女子会」をされる方が良いと思うが、如何
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2015.05.29 太平洋の覇権
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長崎県の端島、通称「軍艦島」、海底炭鉱の採掘基地で近代日本の産業革命の遺産
建造物が並ぶ島の姿が「軍艦」に似ているということで、何時しか「軍艦島「と呼ばれた

ユネスコ世界文化遺産登録云々で地元関係者と支那・南朝鮮が是非を違えて喧騒中
欧米人解釈の曰く「世界文化遺産」とやらに、支那人・朝鮮人・倭人が右往左往では見苦しい
何せ、日本第一の遺産は「姫路城」だというレベル、アホらしい話に騒ぎ立てるこそアホ
奈良が「指定」された時、奈良では騒ぐ者はいなかった、認定書受け取り役も市の課長
ローマが認定された時もローマは静かであった、「世界遺産認定?何じゃそれ」である

さて太平洋、大西洋は欧州の西の大きな海、太平洋は太平(泰平)の海という字の違いとか
その太平の海で日米両国海軍が覇を争ったのが先の日米大戦、彼の云う「太平洋戦争」
さてさて軍艦、日本の軍艦行進曲・通称軍艦マーチは明治三十年に作られた帝国海軍軍歌
(念の為に断っておくが、この軍艦マーチ、決してパチンコ屋のテーマソングではない)
それに応ずる米国海軍軍歌が「錨を上げて」で、明治三十九年に作られたものである
「錨を上げて」が喧伝されたのは、米海軍のサイパン・硫黄島攻略作戦の映画である

中学校時代の話だが、放送委員であった私は運動会の行進曲に「軍艦マーチ」を流そうとした
音楽の先生はそれを止め、替わって流された曲が「錨を上げて」、私の「怒り」は上がった
幼心にも、日本攻略へ向う米軍の軍歌を日本の運動会に流すことに疑問を感じたのである
私が文句を云うと、芸術家気取りの音楽教師曰く「軍艦マーチでは、ややこしい問題になる」
治まらぬ私は帰って父親に云うと、父曰く「お前が云うのが正しい、然し日本は負けたんや」

今日の新聞に、「アメリカ太平洋軍司令官に日系人海軍大将就任」とあった
「アメリカ太平洋軍」とはアメリカ合衆国軍が有する9個の統合軍のうちの一つ
統合軍の中でも最も古くから存在しており、ハワイ・オアフ島に司令本部を置く
太平洋陸軍、太平洋海兵隊、海軍太平洋艦隊、太平洋空軍で、兵員はおよそ三十万人
初の日系人司令官・ハリス氏とあるので、私はうん?と思い調べてみたが違っていた

何のことはない、横須賀の米海軍軍人の父と日本人の母の間に生まれたとあった
昔で云うなら進駐軍と日本女性の「合いの子」、今で云う「ハーフ」であって日系人ではない
日系人とは、祖父母が海外に渡り、そこで生まれた子供の子孫で父系血筋の者をいう
母系は嫁いだ先の男の家系に入るので、日系人とはならない、父系血統主義が日本伝統
先場所活躍した力士・魁聖(かいせい)は祖父母が日本人移民、ブラジル生まれの父は二世
母親は毛色の違う他の血筋であるが、魁聖自身は苗字「菅野・スガノ」の日系三世である
「ハリス」という苗字の日系人はいない、単に母親が「日本女性だった」だけの話

ともあれ、同盟国アメリカの太平洋軍司令官が日本生まれで、日本への理解があるなら朗報
日本とは北東アジアの国というより、米国と共に北西太平洋の国と見た方が話が解り易い
そう云う意味で、安倍総理の日米同盟強化策と太平洋諸国との連携策は正しい方向であろう

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梅雨を待つ紫陽花(あじさい)の蕾、このところ晴天が続いている

新聞は英語でニュースペーパー(NEWSPAPER)だが、このNEWS
私は長い間、North(北)、East(東)、West(西)、South(南)の頭文字と思っていた
東西南北あらゆる方向から話題を集めたものという意味だと信じていたが、違った
NEW(新しい)のS(複数)という最新を表すそのままの意味で、東西南北とは無関係
どうも、小中学校の先生が云い始めたデマ・ウソであったらしい、恐らく日教組の「罠」
嘘を吐くのは泥棒の始まり、と教える側がこれでは、戦後の日本はコソ泥が増えたハズ
笹川良一のテレビ・コマーシャルが懐かしく蘇る

「世界は一家・人類皆兄弟、戸締り用心・火の用心、カチカチ」、笑うて納得したもの

さて新聞、当初は知識人向け大新聞と大衆向け小新聞があったそうで、一枚紙の二つ折り
一面が広告、二面が政治・経済、三面が社会、四面が連載小説と家庭・文化記事で編集
ニュースだけを報じていれば、それはそれの存在意義があったものを、いつしか増長する
世の中のことを政治経済に引っ掛けてアレコレ注釈を入れるようになり、論評し始める
エリート路線から落ちこぼれた半端者・似非エリートのよる真のエリートへの嫉妬・中傷である
戦後のテレビ普及により、新聞とテレビが「マスメディア」の主体となり、世に放言を垂れ流す

TBS元代表取締役会長・日本民間放送連盟会長(現職):井上弘の発言がスゴイ

「テレビは洗脳装置。嘘でも放送しちゃえばそれが真実。」
「社会を支配しているのはテレビ。これからは私が日本を支配するわけです。」
「日本人はバカばかりだから、我々テレビ人が指導監督してやっとわかるんです。」
(民間放送連盟会長就任式にて)
「君たちは選ばれた人間だ。君たちは報道によって世の中を動かす側の人間。
 対して一般国民は我々の情報によって動かされる人間だ。
 日本は選ばれた人間である我々によって白にも黒にもなる。」
「マスコミは国民を洗脳することができる唯一の機関である 」

この井上はんというか、マスメディアの輩、全く何をか況やである
それにつけても思うのは、先の大戦での敗戦責任と戦争責任の放置である
帝国陸海軍の敗戦責任と朝日新聞の戦争責任を日本人は総括すべしと思う
何故負けたか、誰が何処が間違ったかという研究はされても、責任追及と裁きはない
責任追求が曖昧では、同じ間違いが繰り返されることになり、戦死者は浮かばれない

時の軍部と国民の情緒にへつらい、好戦気分を煽り、「国民を洗脳」した「朝日新聞」
戦後はGHQにへつらい、日本国民を反日左翼の思想に洗脳しようと同じ轍を踏む
この厚顔無恥で「小ずるい心根」を持つ「朝日新聞」の特性は「暴力に弱い」ということ
子供の頃の経験からも、「小ずるい」奴は大概が暴力に弱いのはよく分かる
私は愛国左翼の出現を心待ちにしているが、反日右翼の出現も見てみたい気がする
朝日新聞の社旗は「旭日旗」なんだが、特定アジア国からの受けが良いは如何なもの

然しながらである、私は新聞ほど価格価値の高いものは無いと思っている
百円少々で、日本中或いは世界中の話や新鮮な情報がギッシリ詰まった逸物
それを毎朝宅配してくれる制度を持つのは日本だけとのことである
新聞各社には矜持と責任を自覚してもらいたい、特に朝日新聞
2015.05.26 昨今京都情景
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京都東山にある一澤帆布の店
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熱い日中、昼飯屋に並ぶ行列

昨日は近鉄丹波橋駅で京阪に乗り換え祇園四条駅まで行った
橋向うは阪急河原町四条駅、どういう根性か近畿の私鉄は我が道路線である
八坂神社の前を通り東山を少し歩くと、長い行列が出来ていたので何事かと聞く
御婦人が答えて曰く「美味しいご飯(五穀?)で有名、テレビで紹介された店やねん」
私「ふ~ん、京都の人は飯やラーメンを並んでまで食べるんやね、気が知れんわ」
御婦人「京都の人だけちゃいますよ、外人さんも並んではるねんで」、私「そうでっか」

一澤帆布の店に入ると、結構賑わっていた、外人客が多いのは意外であった
A4サイズが入るカバンが欲しかったので店員に探してもらう、色は茶緑にした
掴むと確かに相撲の褌(まわし)の感触である、匂いもそのままであり嬉しくなった
「左おっつけ、右前みつ」という高校時代の得意型が彷彿として頭に浮かぶ
値札も皆外してもらって、手持ちのものをカバンに入れ店を出た
歩いて気付いたのは、カバンに付いた大きな「信三郎帆布」の所謂「ブランド」商標
何で私がカバン屋の宣伝をして歩かんなならんのやと思い、帰宅後カッターで外した

京阪四条駅のエスカレーターは近鉄同様に右立ちで、まだ矜持を残していた
京都高島屋で買うた「サーモンマリネ」と「小鯵の南蛮漬け」を一澤帆布に入れ奈良へ
高島屋の食品売り場、スーパーより高値であるが客は多かった、京都人の気が知れん
まま、サーモンと酢物は女房殿の好物である
2015.05.25 帆布
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水芭蕉(みずばしょう)、夏が来れば思い出す花と歌われるが、私には帆船に見える


金毘羅(こんぴら) 船々
追い手に 帆かけて
シュラシュシュシュ
回れば 四国は
讃州(さんしゅう) 那珂(なか)の郡(ごおり)
象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(だいごんげん)
いちど まわれば


前回の「金毘羅狗」を引っ張るつもりはない
昨日の大相撲千秋楽でまたもモンゴル力士が優勝した
国歌演奏の時、この力士、君が代が歌えていない

私は褌(まわし・フンドシ)を見て「金毘羅船」を思い出した
実はこの褌、和船の帆布から作られているのである
江戸中期に倉敷の工楽松右衛門が日本の帆布を発明し、「松右衛門帆」と呼んだという
それまでの和船の帆は蓆(むしろ)や、綿布を2枚から3枚重ねて縫い合せたのは刺帆
刺帆は、製造に手間がかかる割には、耐久性が低かったらしい
松右衛門帆の発明した綿や麻の平織物による帆布は丈夫で重宝がられ世に広まった
西洋の帆船は、大麻で作られた帆が出来てから遠洋航海に耐えられるようになったとか

然し、和船もなくなり帆船も少なくなった、ヨットの帆は化学繊維である
そんな中、倉敷の帆布は服飾品の素材として、カバン・ランドセルの袋物に使われ
和装の素材としても、帯や半襟の下地、襦袢というか腰巻の紐にも使われている
一時期、御家騒動の裁判沙汰になった京都の一澤帆布は大塚家具同様に有名になった
褌と袋物、考えてみれば褌も袋物であった、解けたら即負けというルールもご愛嬌である

今日は京都である、一澤帆布の近くに行くので寄ってみよう




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掛軸「金毘羅狗図」(金比羅宮HPより) 、昭和十三年 作者:平林春一 所蔵:金刀比羅宮

今朝の新聞で「金毘羅狗・こんぴらいぬ」なる話を初めて知った
調べてみると、こう書かれていたので転載

江戸時代、「お伊勢参り」をはじめ、「讃岐の金比羅(こんぴら)参り」など、参拝の旅は長旅で大変だったことなどから、他の人に代理参拝を依頼する「代参」もひろく行なわれていました。 「代参」を依頼されたのは人ばかりではありません。 飼い主に代わって犬が「こんぴらさん」に代参することもあったといわれます。このような代参犬は、 「こんぴら狗(いぬ)」と呼ばれました。
飼い主は、犬の首に「こんぴら参り」と書いた袋を下げ、中に初穂料(賽銭)や道中の餌代などを入れて、讃岐方面への旅人に「こんぴら狗」を託します。
犬は旅人や街道・宿場の人々の世話を受けながら、「こんぴらさん」まで連れて行ってもらいます。
金刀比羅宮について代参をすませ、お宮で「御神札」を首の袋に入れてもらうと、犬は再び街道筋の人々の世話になりながら飼い主の元に戻り、「代参」の役割を終えます。
宿場や街道で、旅人から旅人へと引き継ぎ、託されて、讃岐方面へと旅をする「こんぴら狗」、遠い江戸時代ののどかな世界を感じさせてくれる風習です


私は奈良で生まれ育ち、鹿や鯉・亀が人と共に生きている姿を普通と思って来た
況や、犬は家族同様であり、縄文遺跡からも犬の埋葬跡が幾つも発見されている
然し、東アジアでは犬を食糧品と認知し、犬肉をご馳走として食する人々もいる

日本には金毘羅狗というものが居た、そういう風習があったことは素晴らしいこと
江戸から金毘羅までの往復となると、千キロを超え、渡海の船便もあろうに
金毘羅狗の代参があったということ、それは日本人の美質を示してくれる話だと思う
今日は朝から気分が良い、「ハナ」を相手に一杯飲もう

こんぴら ふねふね~♪、鮨食いねぇ~♪、俺の名前を知ってるかぃ
ご存知、森の石松は金毘羅代参の一席

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桃色の「都忘れ」、野春菊や東菊とも呼ばれる、ミヤマヨメナの園芸種、日本原産
佐渡に流された順徳天皇が、この花を見ると都への思いを忘れられると云われたとか
この由来によって花言葉は「別れ」や「しばしの憩い」などとされる

私の茶会忘れの前に、ふとした出来事があったので書き残す
一般にいう茶会とは「大寄せ茶会」というもので、二・三十人の客を迎えて行われる茶会
先の大徳寺法要茶会は五席皆五十人を越え、最大六十人になった正に「大寄せ茶会」

大寄せ茶会の始まりは、明治の数寄者(茶人)が道具見せに行った茶会であった
自分が入手した茶碗や茶入等の焼物、書画、工芸品を人に鑑賞してもらう趣旨である
美術館が無い時代に在っては、美術芸術品の一般展覧会という意味合いを持ったもの
故に、あの鼻に付く道具観賞作法と会話が、「茶会の作法」として成立してしまった

先の法要茶会では、多人数故に席の中央ど真ん中を点前座、その前後左右を客席とした
四方八方から点前が見える、逆に云えば、四方八方から点前を見られる形にした
点前役と亭主(席主)役、半東(亭主補佐)役の三方を一組とし、二組の役回りをつくった
一組の稽古不足というか、三方の連携稽古が出来ていないことを、前日に知らされた
別々の稽古場からの集まりではよくあることなので、例年は拙宅で連合稽古をしていた

今年は連合稽古は無しでも良いということであったので、それは何よりと安心していた
本番前日の道具運びを終え、本チャン稽古、つまり本番道具を使った空稽古をしてみた
私には仕上りチャックのつもりでいたが、そこで三方の連携稽古が出来てないことが判明
それから正に泥縄特訓を始めた、少々血圧が上がった私は自身の手落ちを痛感した

本番の朝、宗家の師範代と点前役が部屋の奥で正座で向かい合い話をしていた
点前役の目が沈んでいる、何があったのかと問うと、ぎっくり腰で点前が出来ない云々
私は切れた、「高熱で倒れても、血へどを吐いて倒れても席に出ろ、その時は対処する」
うっ血した顔で目を潤ませながらもその点前役は、意を決して本番の席に出て行った

案ずるより易し、何とか無事に終え、戻って来た時の表情は明るかった
ふと思ったのが、云い訳口上のこと、遅刻した時や欠席の云い訳とは
「車が込んで」、「来客があって」「急に何とかが」挙句に親危篤になることも多いようだ
私は何はどうあれ、云い訳は無用と思っている、携帯電話の普及は云い訳を増長させる
云い訳をしないがために被る諸事は、そのまま受ければ良いことであろう

古田織部四百年忌、織部は内通疑惑での切腹沙汰に、一切の弁明・云い訳をせず、自刃
2015.05.21 赤花夕化粧
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赤花夕化粧(アカバナユウケシュ)、南米原産、明治期に観賞用として入り帰化
今朝の散歩途中で見掛けたもの、夕暮れから咲くのが多いというが、日中も見る

今朝は清々しさを感じさせた、昨夜の雨で肌にひんやりとした空気があたる
朝の光が風景を照らし出してくれ、大袈裟ながら生きている喜びを感じさせられる
私は、初夏の朝方と晩秋の夕方が好きである、光陰の味わいが常にましてある

前のブログ記事に、あんな長々と何の話という声を聞いた、確かにそうである
云い訳がましいことを云えば、伊400潜水艦の生き残りとしてテレビに出た御仁
今は百三店舗、五千八百億円の売上高を持つ中四国一番の量販店企業の創業者
株式会社イズミの会長・山西義政氏は大正十一年生まれで私の父親の一歳下である
山西会長の妹ご夫婦と私たち夫婦の仲人が同じであったことで、何となく可愛がられた

私の父は人間魚雷・回天の特攻隊員で、直接の潜水艦乗りではなかったが近かった
潜水艦に回天を載せ、敵艦に遭遇したら潜水艦から回天が発進、敵艦に特攻する
故に、潜水艦に同乗して敵艦発見まで共に艦内生活をして僅かな「生」の時を過ごす
飛行機の神風特攻隊は、多くの見送りがあるが回天出撃には数名の見送りだけだ
そして、回天は発進し母艦との電話線を切った刹那、閉ざされた狭い艇内に一人となる

神風の戦いぶりは敵艦から認知され、映像も多く残るが、回天には何一つ残っていない
神風は撃ち落とされるか、体当たりに失敗となれは海面で墜落死か爆死する
回天は、体当たりが不首尾となっても、そのまま深海の中に沈んで行くしかない
その時のため、隊員には短刀と青酸カリ一服が渡されている

山西会長は、私の父親が回天搭乗員だったことを、やはり海軍軍人だった仲人から聞き
回天の人達は辛かったと思うが、しかし、よくやってくれたとボソっと語ってくれた
会長曰く、「海軍はワシみたいな優秀な男を釜炊きのままにしていたから負けた」とか
その冗談とも本気とも付かぬ言葉に、私は妙に納得した想い出がある
正に光陰矢の如し、過去は確実に過去のものとなっていく
然し、出来事や数字に残る記憶だけは過去のものとせず、広く伝えたいと思った次第
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帝国海軍水上攻撃機「晴嵐」、知る人は少ないと思われる
生産機数はフロート(足船)型・車輪型合せて二十八機であった
帝国海軍伊四百型潜水艦の搭載機として開発されたものである

>晴嵐は伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、戦略的な目的での攻撃に使用されるために計画された特殊攻撃機。最大速度時速474km(フロート投棄時560km)、単発、複座、双フロート装備。
「潜水空母」伊四百型潜水艦に搭載するため、愛知航空機において母艦と同時期に開発に着手され、昭和18年11月に試作第一号機が完成した。92式改3航空魚雷による雷撃、または250キロ爆弾(4個まで搭載可能)、または800キロ爆弾による水平および急降下爆撃が可能であった。
実戦における攻撃時には、エンジン出力の関係から大型爆弾の場合はフロートを装着しない仕様になっており、攻撃後は艦近くの海面に着水、又は搭乗員を落下傘降下させ乗員のみを収容する予定だった。この場合の機体の回収は無論不可能である。一方、潜水艦には予備魚雷と予備爆弾が装備され、状態によって再出撃も可能であった。ただし、唯一にして最後の出撃時は特攻が予定されていた。
晴嵐は伊四百型の飛行機格納筒に納めるため、主翼はピン1本外すと前縁を下に90度回転して後方に(鳥が歩行時に羽を胴につけているイメージ)・水平尾翼は下方に、垂直尾翼上端は右横に折りたためる。フロートは取り外されているが、機体近くに置かれており短時間で装着できるようになっている。また、暖機のかわりに、加温した潤滑油・冷却水を注入できるなどの工夫で、作業開始後約3分以内で発進可能と言われている。伊四百型は晴嵐を3機搭載でき、潜水艦搭載時には既に雷装、爆装していた。
3分で発艦可能と言っても、実際には搭乗員・整備士の技量による。搭乗員の淺村敦によると、最初のうちは3機発進完了まで20分以上かかっていたが、最終的には十数分に縮められたとの事。特に母艦自体が上下に動振しているため発艦のタイミングが難しく(艦が下を向いている時に発艦すると、機体が海面に突っ込む事となる)、射出指揮官が慎重に判断した。このように発艦には危険が伴ったので、搭乗員には訓練時には1回の発艦につき6円の危険手当が加算された。当時の大卒の初任給は60円である。
潜水艦搭載のための折りたたみ構造と高性能を両立させ、またその任務により世界中で(極端な話、北極や南極でも)使用を可能にするためジャイロスコープを装備するなど、非常に『凝った』造りの機体であった上に製造数も少なかったため一機あたりのコストも高く、零戦50機分に相当すると言われた。<

以上、「晴嵐」のことを転載した、「晴嵐」と伊四百型潜水艦の記憶を日本国民に残したい
先の大戦では、日本が軍機の開発は最多種、一機種当たりの生産数は最下位
コスト高になり、生産力と軍事費に劣る国にとって採ってはならん戦略肢ではある
当然のことで、皆百も承知しながら結果的には、その戦略肢を採ったということだ
その前に、陸海軍の縦割り意識という田舎の組織根性が宿痾(しゅくあ)であったがさて置く

ともあれ、その「晴嵐」を積んだ伊四百型潜水艦のこと、潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称
その水上排水量3530トンは大戦中に就航した潜水艦の中で最大のものであった
通常動力型潜水艦としては、2012年竣工の中国海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797tトン)
それに抜かれるまでは世界最大であった、全長はアメリカ海軍のガトー級を27メートル上回る
地球を一周半航行可能という長大な航続距離を誇り、地球上のどこへでも任意に攻撃を行え
そのまま日本へ帰投可能であった伊四百型潜水艦
伊四百型潜水艦は、「晴嵐」を二機から三機収納に向け5ミリ1センチの拡張への工夫・努力は
正に血の滲むものがあったという

この話をするのは、先日のNHK番組「歴史ヒストリア」で伊四百型潜水艦の特攻秘話放映による
その番組は私は見なかった、広島のかつての職場の知人から朝にメールが入っていた
その職場の会長は創業者で、私をその企業に招いて頂いた御仁が番組に出演していたということ
会長は大正十一年生まれ九十二歳、もう一人の出演者は八十八歳、当時最年少であったとか

伊四百型潜水艦の建造計画は三十隻で、その艦載機として開発された「晴嵐」二機を収納
その計六十機の「晴嵐」を以って米国を空爆する戦略であった
然し、生産が遅れ伊四百型潜水艦は三隻しか建造されず、ウルシー環礁へ向け特攻出撃
昭和二十年八月十八日に突入予定であったが、十五日の終戦の報があり、突入を中止し帰還
私はその時の艦長の判断は英断と思う、生き残った「釜焚き水兵」は今や中四国一の流通王
三十年ほど前、その艦長がご存命の時、広島で伊四百の戦友の集まりがあり、二十数名が参加
今、ご存命であられるのは数名と聞く

私は、「伊四百型潜水艦」と「晴嵐」を開発した当時の日本技術陣に敬服の念を持つ
所詮は国家全体の総合力だとは云え、其々各所では頭の下がる善戦をしていたと思う

以下は第二次大戦に於ける各国の機種別生産数である

戦闘機

 日本(生産数と終戦時残存数)

  三菱  九十六式艦上戦闘機                 982/    38
  三菱  零式艦上戦闘機                10,044/ 1,157 注1
  中島  二式水上戦闘機                   254/    24
  三菱  局地戦闘機 雷電                  400/   179
  川西  局地戦闘機 紫電                1,000/   376合計
  川西  局地戦闘機 紫電改             415~428/   376合計
  月光                            477/    40
  強風                             97/    31

  一式戦 隼                       5,751
  二式戦 鐘馗                      1,223
  二式戦 屠龍                      1,687
  三式戦 飛燕                      2,750
  四式戦 疾風                      3,500
  五式戦                           398

 アメリカ

  グラマン F4F ワイルドキャット           7,500
  グラマン F6F ヘルキャット            12,272
  グラマン F8F ベアキャット             1,263
  ボート F4U コルセア               12,000
  ロッキード P-38 ライトニング           9,923
  ベル P-39 エアラコブラ              9,558
  カーチス P-40 ウォーホーク           13,783
  リパブリック P-47 サンダーボルト        15,683
  ノースアメリカン P-51 ムスタング        14,819
  ベル P-63 キングコブラ              3,300
  ノースアメリカン F82 ツインムスタング         273


 ドイツ

  メッサーシュミット Bf109            35,000
  フォッケウルフ Fw-190             20,000
  メッサーシュミット Me262

 イギリス

  スーパーマリン スピットファイア           22,000

爆撃機・攻撃機

 日本
 
  中島 九十七式艦上攻撃機                1,250/   134
  愛知 九十九式艦上爆撃機                1,492/   135
     天山                       1,274/   187
     流星                         111/    58
     彗星                       2,150/   317
   九七式陸攻                           /    74
  三菱 一式陸上攻撃機                  2,416/   162
     銀河                       1,002/   182
     極光                          96
  特別攻撃機 桜花                     
  
 アメリカ

  ボーイング B-17 フライング フォートレス    12,977
  コンソリデーテッド B-24 リベーダー       18,181
  ノースアメリカン B-25 マローダー        11,000
  マーチン B-26 マローダー             5,157
  ボーイング B-29 スーパー フォートレス      3,970
  ダグラス SBS ドーントレス             5,936
  グラマン TBF/TBM アベンジャー        16,603

 ドイツ

  ユンカース Ju52/3M               4,800
  ハインケル He111                 5,656

偵察機・練習機等

 日本

  九三式陸上中間練習機                  5,591/  2,223
  九四式水上偵察機                      530/     78
  零式練習戦闘機                       517/    239
  零式水上偵察機                     1,423/    201
  二式飛行艇                         131/      4
  彩雲                        398~498/    173
  白菊                            798/    375


 アメリカ

  パルティー BT-13 バリアント          11,500
  ノースアメリカン AT-6 テキサン         15,000
2015.05.19 褒め殺し
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担い茶屋を前に、精神統一を図る卒塾者の肩、本番前の朝である

後ろの荷い箱に、前の板が二枚に別れ、二枚其々蝶番があり箱に切妻屋根状に被さる
銅製の風炉釜は小ぶりで玩具の様な感じで、釜・水差も蓋口が小さく、点前がし辛い
置かれた茶器と茶杓は、根来塗りの金輪寺茶器と上田家二代備前守重政の二重曲
根来塗りは紀州和歌山の産で金輪寺は後醍醐天皇が吉野で作らせた茶器ということ
広島に入る前の浅野家は和歌山を治め、宗箇は家老、金輪寺は吉野の茶会を連想
二代重政の茶二重曲茶杓の銘は「おもかげ」、まま、吉野茶会を偲ぶという話である

さて、点前本番中のことである、黙って坐っておられた御正客の華道家元から一言
「上田流の点前は男らしくて美しい、惚れぼれします」、五十人を超える視線が集まる
後ろで控える私の目には、点前をする卒塾者の肩に心なし微妙な動きが見えた・・
後で聞くと、その褒め言葉に、湯を汲むところで柄杓が水差へ向い水を汲んだとか
続いて、右手で茶器を取るところで左手が出てしまったとか、まま、動揺を来した由
点前とは不思議なもので、リズムが狂うと次の手もおかしく為りがちである

点前をする卒塾者からすれば、正に「褒め殺し」であった
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大徳寺塔頭・総見院にある織田信長公の木像

昨日の宗箇忌・織部四百年忌の法要茶会の薄茶席は総見院であった
何とかそれなりに終わり、昨夜は快飲快眠、今朝の目覚めは遅かった
私は名言名句の中で、好きというか納得する言葉に「是非に及ばず」がある
本能寺の変で、敵は智光秀だと森蘭丸が報告した際の信長の言葉である
まま、その時の光景・会話は誰が残し伝えたかという微妙な点はさて置く

今朝の新聞は「大阪都構想反対」が躍る
私が橋下徹と云う男から感じるのは、「織田信長的タイプ」というところだ
事の意味合いを核心に絞り、一点突破全面展開を目指すという思考タイプである
「大阪都構想」ではアレコレ各論戦に入ったことが敗因になった、と私は思う
「東京一極体制を壊し、大阪の復権を果たすべし」、これだけで良かった

法要茶会の濃茶・点心席は同じく大徳寺塔頭・三玄院であった
三玄院には石田三成の墓があるが、森蘭丸の位牌もある
まま、「是非に及ばず」
2015.05.17 地獄の沙汰
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大徳寺・三玄院本堂に置かれた古田織部と上田宗箇の位牌
右が織部で、「金甫宗屋禅人」
左が宗箇で、「清涼院上林諸大夫竹隠宗箇大居士」
宗箇の兄弟子で師でもある織部の方が位牌も小さく文字も少ない
罪人としての扱いがあったのと、寺からすれば金、実入りがあるかどうか
地獄の沙汰も金次第、という現実がよく表れているということか
とかく坊さんの行動規範というか思考体系は解り易い

今日は奈良を六時半出発で、京都・大徳寺に七時半着の予定
あれやこれやの課題も残るが、まま例年のこと、蝸牛の歩みである
直前の現物(実際に使う道具)稽古と点て出しの指導で体力が尽く
明日の本番は気力勝負となるが、つくづく老いを感じる今日この頃
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一服一銭の荷い茶屋を担ぐ(担う)売茶翁(ばいさおう)、付き合いのあった伊藤若仲の画
売茶翁(延宝三年・1675)- 宝暦十三年・1763))は、江戸時代の黄檗宗の僧、煎茶の中興の祖
本名は柴山元昭、幼名は菊泉、法名は月海で、還俗後は高遊外(こうゆうがい)とも称す

明後日十七日に、大徳寺で開催される上田宗箇忌と織部四百年忌を併せた法要茶会のこと
濃茶席と点心席は石田三成の墓地・三玄院で、薄茶席は織田信長の墓地・総見院となる
薄茶席の趣向は「担い茶屋」、古田織部の吉野茶会を偲ぶものである、以下多少の薀蓄

慶長四年(1599)三月二十二日に織部は伏見から奈良に入り、奈良衆・堺衆と合流(松屋会記)
織部は木津川の賀茂に所領があったが、新たに大和・井戸堂に所領が与えられていた
それもあり奈良入りした織部に、金森可重(宗和流の祖)や小堀佐介(遠州流の祖)らが同行
松屋久好らの奈良衆、天王寺屋宗凡らの堺衆と合せて四十人ほどの一行となって吉野へ向かう

前年八月に豊臣秀吉が亡くなったことで、一行には期するものがあったとか云われている
千利休が秀吉の命で切腹したのは天正十九年(1591)、その三年後に秀吉の吉野巡行があった
同行者は徳川家康・前田利家・伊達政宗・細川幽斎ら大名衆、公家衆、寺社衆、連歌衆であった
後に切腹となる関白秀次、そして織部も加わっていた、織部と幽斎は二人で利休を見送った仲
浮かれる秀吉一行の中に、利休の命日と重なることを知るのは、二人以外にも居たはずである

その秀吉が死んで半年後の織部一行の吉野行きである、吉野では竹林院々主・竹林坊が居た
竹林坊が織部一行を待ち受けて持ち出した物が「荷い茶屋」、打たれた額には「利休妄魂」
織部一行の吉野茶会は、利休を偲んだ茶会と云えるが、一行に上田宗箇の名が見えない
然し、一月前には奈良衆が伏見へ行き、同日に織部と宗箇の茶事を受け、奈良に帰っている
吉野行きを知らぬ訳がない宗箇に、どんな用事があったのかどうか、少々気になるところ

ところがである、上田家に「担ぎ茶屋」が伝来する、宗箇が一服一銭で茶を売り歩いたのか・・
そこらの意味合いが分らないが、何かしら織部を偲ぶものがあったのかと、私には思える
そして、翌慶長五年に関ケ原の合戦があり、宗箇は旧主・丹羽家救援のため出陣、西方となる
関ケ原の西軍敗北を知り、財を全て皆に分け与え、自身は剃髪し宗箇と名乗り、沙汰を待った
慶長二十年の大阪夏の陣で、織部は豊臣方への内通をしたとされ、切腹の沙汰が下る
その時、織部は一切の弁明をせず、子息共々切腹をして果てる

明後日は宗箇忌・織部四百年忌、「担ぎ茶屋」で薄茶をという宗家の意向、重々に受け止める
因みに、宗家の奥方のご実家は奈良・春日大社宮司家、参道の「担い茶屋」は歴史を持つ

2015.05.13 ゴンを偲ぶ
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平成二十年に広島の保健所の殺処分用ガス室の前で震えていた「夢之丞」
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ネパールの震災地で救助犬として広島から派遣され活躍する「夢之丞」

先日、広島から来てくれた茶友がブログで「夢之丞」のことを載せていた
広島の新聞・テレビで、「夢之丞」の活躍が大きく報道されていたということだ
去年の八月二十五日のブログに、「男の涙・ゴン」として書いたあの仔犬である
同じ広島の保健所で、殺処分を待っていた仔犬を私が連れ帰り、「ゴン」と名付けた
「夢之丞」の記事とその仔犬時の写真で、「ゴン」のことを思い出されたとブログに書いた

私は、「ゴン」を一年足らずで保健所に返したのだ、辛かった、
「夢之丞」の活躍を伝える広島の報道に、私は「ゴン」を偲び、また胸が詰まる
やはり私には、してはいけないことをしたという、慙愧の念に苛まされる
そのブログを再掲する、クリックされ度
統計によると、犬猫の殺処分は年間三十万匹を超え、一日で八五十匹とか

http://houan7010.blog.fc2.com/blog-entry-436.html
2015.05.12 白花紫蘭
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紫蘭(しらん)と白花紫蘭、関東以西の日本列島に分布、自生種は準絶滅危惧種
「白花紫蘭とは妙な名付けやな」と愛犬ハナに云うと、横を向き「しらん」ふり

この一月に「奈良・大和路・茶の湯逍遥」という本が淡交社から出された
著者は、東京出身の日本文化・茶道史研究家の神津朝夫氏である
本の帯には「奈良の茶の湯を知らずして、茶の湯は語れません」とある
奈良生まれの奈良育ちの私が、「そうだったのか」と知ることが多く書かれてる
出て来る多くの場所・地区は、私自身が子供の頃から遊んでいたところである
東京の人から奈良を教わるとは、少々面映ゆいものではあるが、参考になった

中に、古田織部の茶仲間一行が吉野で「担い茶屋」の茶会を催した話が出ている
その話自体は、それなりに知られているところではあるが、この十七日の茶会
宗箇忌・織部四百年忌法要茶会の薄茶席は織部を偲び「担い茶屋」を出す趣向
上田家に伝来する「担い茶屋」を持ち込んで行なう点前は初めてのことである
今日も台風を心配しながら、点前担当者が稽古に来られる
この期に及んでは、「担い茶屋・点前」のことを「しらん」と云えないのである

取り敢えず、茶に興味を持たれている方にはお奨めの一冊である

2015.05.11 差別と区別
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木瓜の枝に鉄線が蔓を伸ばして花を付けた

流祖宗箇忌及び織部四百年忌の法要茶会に向けた稽古が続いている
稽古後の「車座反省会」も連日の如く続き、私の命は縮んでいっている
亭主・点前・半東という三人組稽古は云わば「阿吽の呼吸」の稽古である
点前の流れに合わせた亭主の語り文句と半東の動きは、正に一蓮托生の如し
点前の粗相への半東の動きと亭主の対応、自然に出来れば美しくもある「技」

点て出しは目線と足運び、立ち坐りと茶を出す手の所作、余韻を残す立ち去り方
稽古の基本は「目配り・手配り・気配り」、多数の人の動きを一つにすること肝要
我が流儀では本席に入るのは原則男性である、云わば女人禁制の場
然しながら、本席を支える裏方・水屋仕事は女性陣の力に頼ることが多い
つまり、男女の果たすべき役割りを区別している、いわゆる差別ではない

男性陣が表役を立派に果たしてくれることを願いながら、シッカリと裏を守る女性陣
裏を守る女性陣に感謝しつつ、表舞台の役割りを務める男性陣という構図
戰に出る男と家で銃後の守りに就く女という昔からの情景である

明治六年(西暦1873)に制定された我が国の父系優先血統主義国籍法
それが昭和五十九年に父母両系血統主義へと変わったことは、正に改悪であった
個人情報保護法と共に日本の社会を歪めつつある、と私は思う
2015.05.09 シャーロット
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高崎山動物園の日本猿の赤ちゃん・シャーロット

公募に基づき命名された「シャーロット」ではあるが、千程度の抗議があったとか
慌てた動物園では命名中止を検討し、その旨を大分市に報告したと先の報道
そこで、佐藤樹一郎大分市長は公募名の「シャーロット」で良いと判断したという
市長の判断や正しい、まま、英国大使館に是非を問うたのは余計なことだが・・
それにしても、多くの抗議が来れば右往左往で命名中止を検討する小役人根性
今の日本人に求められるのは、「矜持と恥」を持つことという反面教師の姿である

この話は新聞三面記事であるが、一面にはスコットランド党躍進が載っていた
そう云えばNHK「マッサン」のスコットランド人妻を演じた女優の名も「シャーロット」
話題になった番組であり、人気を博した女優の名が可愛いいというオシもあったろう
この赤ちゃん猿、よく見るとそれなりに可愛い、恐らく別嬪さんになるだろうと思う
やがて、シャーロット王女も高崎山を訪れるであろう、ぐらいの気概があって良し

私自身には「シャーロット」と聞いて浮かんだのが二つの食べ物である
洋式搔き氷・シャーベット、それと西洋ラッキョ的ネギ・エシャロットの二つである
私は搔き氷が好物だが、鼻の奥が痛くなって困るのが玉にキズである
西洋ラッキョネギ、もろみ味噌を付けてかじると旨い、酒が進み過ぎるのが玉にキズ

さて、日本猿のこと、人類以外では地球の最北に住む霊長類である
さすがに日本の猿というか、温泉に浸かったり、芋を海水で洗って食する輩もいる
尾長猿科に属していながらその尻尾は短いという日本列島固有種の猿である
猿カニ合戦や桃太郎の鬼退治にも出て来て、日本人には親しみを持たれた動物

日光では反省芸までキチンとする日本猿、戦後七十年、反省ばかりで芸がない日本人
ゴリラやチンパンジー、ヒヒに比べて、日本猿は何となく日本人に似ている気がする
スコットランドには猿が居ないようだが、竹鶴はん、リマ嫁はんを娶ったのは勲章もの
日本猿に茶をさせたら面白いと思うがどうやろうか、うん?ワシそのものか・・
2015.05.08 嫌われ口
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「山是山 水是水」
一か月前のこと、私の誕生日に女房殿と二人で入った店に掛けられていた
私が「当たり前田のクラッカー」と云うと、店主が嫌な顔をしたのであった
仕方なく、お愛想に写真を撮らせてもらったが、ブログに載せてなかったもの

昨日、卒塾者の奥方の見舞いに女房殿と二人で三条通りへ行った
奥方は少し痩せられていたが、口調はシッカリされていて一安心をした
例の如くというか、当然の如くに卒塾者の御主人と私で酒盛りが始まった
然し、さすがに時宜を考え、後ろ髪を引かれたがホドホドで帰ることにした
奥方から聞いた「カンボジア料理店」を探して歩いたが見つからない

聞いていた場所から横丁に入った所も見たが、そこにも無い
横丁の創作料理屋で聞くと、「ベトナム料理店」なら表の二階にあると云う
親切にも、その店の人は横丁を出た所まで付いて来てくれ場所を示してくれた
私達は「ベトナムもカンボジアも隣同士、似たものや」と礼を云い、二階に向った
その店は休みであった、結局さっきの横丁の創作料理屋に戻り、中に入った

カウンターに就き、「女房にはお奨め料理を出して、ワシはツマミと酒だけ」と云う
女房にサーモンマリネ、生ハム、サラダが出た、女房殿は嬉しそうに食べ出した
私が「この組み合わせなら別にせんと一盛りにしてもエエのにな」、店長はブスッ
ニンニクの臭いがしたので、私は「ワシのツマミはニンニクひと塊丸焼きでエエ」
焼いたニンニクがオリーブ油に浸けて出された、私は「これは旨い」と愛想を云う

その店主と私の女房殿が小中高一緒と分かり、二人の表情が緩む
愛想の続きで、私がその高校の校歌をうろ覚え乍ら口ずさむと、店主は括目
「何で知ってはるんですか」と聞くので、私は「女房の学校やからな」、店主ニコリ
私の頭に去来した言葉、「嫌がられても嫌われるな、好かれても舐められるな」

誕生日に入った店の主人には嫌われたままだったような、また今度行こう
そして、「山是山・水是水、エエ言葉や、ご明察ご慧眼」、と云おう
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萱草(かんぞう)に矢筈芒(やはずすすき)、卒塾者の奥方が持参され挿された

昨朝は四十年来の広島の茶朋と「ピュアモルト竹鶴」を飲み空けて四時に仮眠
七時から茶粥にかき餅・紀州南高梅を添え、今度は宮崎焼酎「百年の孤独」を開ける
度数四十%である、四十三%の竹鶴に負けず劣らず旨い、昨夜からの話が弾む
前日の夕餉でインド料理を共にした和歌山の朋友・碁仇が口にした「内接円外接円」
広島の茶朋はその話に興味を持ったようで私に説明を求めた、私は酔いもあり喋る

和歌山の朋友は中小企業の二代目ながらも別会社を起して新規事業を立ち上げる
そして、親会社と関連会社を包含して株式上場を果たしたのだが、苦労もした
その間、私は仕事の繋がりもあり、同じ年ということで、結構辛辣な助言・諫言もした
ある時に彼のトップとしての在り方とのことで「内接円型と外接円型」の話をした

自分の手の中、自分の器の内側に接する形の人を求めるのが「内接円型」発想
自分の器の外側に接する形の人を求めるのが「外接円型」発想、私の思い付き用語だ
内接円型ではトップの器以上の企業は出来ないが、外接円型ならトップの域を超える
然し、その外接円にくっ付く円、それも自分より大きな円・人を引き寄せる力とは何か
つまり、その人の持つ「求心力」に他ならないが、「求心力」の源泉は何を以って為すか
とか、まま、語り合ったという想い出話であるが、実は二人の喧嘩のついで話だった

私と和歌山朋友とは、二十数年の間に二度三度の絶交を繰り返した
その絶交期間に、反って相手の良さが見えたり、言葉の意味が解ったりしたのである
そんなこんなの話をしていると「ピンポーン」、卒塾者の方が花を持って早めに来られた
今日は私の古い茶朋が来ていると云うんことで、臨時稽古日としていたのであった
卒塾者の方は京都大徳寺の織部四百年忌・宗箇忌法要茶会の点前をされるのである
故に、私の茶朋に一手ご指南をという算段で、他の塾生も見学と稽古を兼ねることにした

私は寝間着姿で酒瓶を退け、「破顔一笑」の照れ隠し
それで卒塾者の奥方が花を挿して下さったという次第
酒飲み茶人のお粗末の一席であった
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秋篠川の亀、ミドリ亀のようだ

朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや
紀州の碁仇来たる、年二回春秋定例の一局、遂に九連敗を喫する
そこへ芸州の茶友来りて、一服喫する、皆でインド料理店へ繰り込む
紀州の朋帰りて、芸州の朋と「ピュアモルト竹鶴」一本飲み明かす
いつしか、四時を過ぎた、もう寝ることにする・・ZZZ
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公園の藤棚、微かに香り心が和む

世に「源平藤橘・げんぺいとうきつ}と呼ばれた日本の家柄の貴種とされるもの
いわゆる、源氏・みなもと、平家・たいら、藤原・ふじわら、橘氏・たちばな、である
最も古いのが藤原姓で、中臣鎌足が天智天皇から賜わった大和・高市郡の地名

鎌足以外の中臣一族も藤原姓を賜ったが、後に鎌足の子・不比等流だけに限定
不比等の死後、四兄弟が北家、南家、式家、京家を起したが、北家が主流となる
そして、公家社会の高位を占有し五摂家・清華家・大臣家などの 多くの家門に分かれた
昇殿の出来ない下っ端公家となる地下家は、都を離れ地方に下る者も多かった
下った地方で、武家の名門として地方に勢力を扶殖し、戦国時代に大名としてあらわれる
伊達氏、 結城氏、上杉氏、竜造寺氏など、いずれも藤原氏の流れを汲んだ諸氏 であった

ここで面白いのが「藤家紋」のこと
藤原氏の家紋は名字にちなんで「藤」とされると思いがちだが、ところがどっこい
藤原一族の家紋を見ると摂関家筆頭で嫡流の近衛氏が「牡丹」、 次席の鷹司家も「牡丹」
続く九条・二条・一条家が「藤」紋、他の公家をみると、三条家が「唐花」、西園寺家が「巴」
徳大寺家が「木瓜」、今出川家が「楓」、冷泉家・大飯御門家が「酢漿草」紋を 用いている
因みに、上田家当代の奥方の実家は清華家侯爵の花山院家 で家紋は「杜若菱」である

藤原氏系武家では、伊達氏が「引き両」、上杉氏が「竹に雀」、 宇都宮氏・小山氏らが「巴」
伊東氏が「庵に木瓜」、大友氏が「杏葉」、竜造寺氏が「日足」、 藤紋を用いる家は少数派
どうやら、家系を藤原氏に求めた家の多くが藤紋を用いているようだと、研究調査がされている
何かしら、権威権力にすがる小者というか、位打ちに弱い輩の心中が透けて見える話である
2015.05.04 手毬
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小手毬
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大手毬

小手毬(こでまり)と大手毬(おおてまり)、茶花には小手毬が使われることが多い
然し、大手毬も優雅な味が有り、私は時々使う

紀州の殿さまと手毬の話は童謡で有名である
殿さま行列は、和歌山から吉野川沿いに五条、次に越部、鷲家口と泊まる南伊勢街道を通る
天誅組の蜂起が五条、鷲家口は天誅組終焉の地という明治維新の先駆けとなる街道である
街道は高見山山麓の峠を越えて名張に向かう、名張は紀州藩の領地であった

私は小学生の頃、今の近鉄線の越部駅と六田駅の間に住んで居て、学校は六田にあった
その地に伝わる話が、後世の「殿様と手毬」の童謡となり日本全国で歌われ知られるところ
然し、その地に伝わる話は凄惨な出来事であった、以下引用して掲載する

>文久2年(1862年)、薩摩藩主の父、島津久光の行列の前をイギリス人が横切って殺傷事件が起こった。世に言う生麦事件である。ペリーが黒船に乗って鎖国に日本にやってきてから9年も経っていながら、まだまだ斬捨御免は罷(まか)り通っていた。

と、なると大名行列華やかなる時代ともなれば、「下にー、下に!」のとき
ちょっと頭を上げて行列も見ようとしただけでも、斬り捨てられることだってあった。
子供とて同様。誤って武士にちょっとぶつかったぐらいで、無惨に殺されてしまった。
子供だけではなく、親兄弟、親戚まで同罪という連座制まで敷かれていた。
だから庶民は、いつもびくびくしていた。それなのに、この歌はあまりにも、お気楽である。

 ♪てんてんてんまりは てんころり
 ♪はずんでお駕籠の 屋根のうえ・・・。

行列が見えてきた。人々はひれ伏す。そのひれ伏した目の前を異様なものがころころ転がった。それは毬だった。そう思った途端、お河童(かっぱ)頭の女の子が飛び出してきた。もちろん毬を拾いに出ていったのである。しかし次の瞬間、侍(さむらい)の大きな声が聞こえた。

「無礼者っ!」

ただひと声だった。刀がキラリと光った。"ばさっ"という音とともに女の子の体が崩れ落ちた。
即死で悲鳴すらなかった。肩先から胸に切り裂かれた傷口から赤い血がどくどくと流れていた。
そして殺された女の子はというと、丸いお気に入りの毬に変身していたのである。
魂が移ったとでも申そうか。実は当時の毬というもの、今みたいなゴム製ではない、
丸めた綿を芯にして表面を毛糸や糸で覆(おお)ったものだった。
さまよう霊というものは、こういった動く動物の毛を大変好むという考え方がなされていた。

大好きな手毬を追っていった女の子は、何の前ぶれもなく理由を聞かされることすらなく、
ただばっさりと斬り捨てられた。「一体、何が起こったのだろうか?」
即死してしまい、痛みさえ分からぬ女の子は、目の前の毬に魂をのり移らせてしまったのだ。

 ♪はずんでお駕籠の 屋根のうえ・・・。

死ぬことにより浮遊した霊が、殿さまより上にいるという状態を歌っていたのである。
でなければ、殿さまのお駕籠の上に乗るなんて、あまりにも不謹慎すぎるではないか。
死んだ女の子の心は、毬にのり移って東海道を旅するのである。
死んでしまったという意味、いなくなってしまったということを、

 ♪一年たっも もどりゃせぬ
 ♪三年たっも もどりゃせぬ・・・

と著した。戻らないとは、もう二度と帰ってこない、つまり死んでしまったという意味である。<

今は舗装道になっているが、私の居た頃の街道は木材馬車が行き、馬糞が散らかっていた
この日本で身分保持者とは天皇陛下ただ御一人、他は無い、皇太子とて陛下候補者に過ぎない
差別という概念には胸糞が悪くなる、茶家の似非身分制度も乗る方も乗せるも同じ穴の貉
貉(むじな)のヒエラルキーに擦り寄る有象無象の輩の貉糞、臭気紛々として吐き気がする
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黒田ならぬ秋篠川でユッタリ泳ぐ鯉、五〇センチ程度の大きさのものが群れていた

恐らく、この鯉は日本古来の「野鯉」ではなく、飼育種の野生化した鯉であろう
もう野鯉は四万十川など自然豊かな大きな川の底や琵琶湖にしか居ないと云う
野鯉は水面近くを泳ぐことはなく、川の淀んだ深みで二・三十年位は生きるとか
飼育種の鯉は稲作と共に日本へ来て、池や田圃で飼われ生域を広げたものと云う
食用に飼育した鯉が繁殖して、野川や池に出て、在来種の野鯉等の生息域を侵食
従って、飼育種の鯉はブラックパス同様に日本の淡水生態に害をなす魚と云える

淡水魚の鯉・鮒・ナマズ・メダカなんぞが、水域の繋がらないところにも棲息すること
私には、それが不思議で調べてみたことがあった、それで知り得たことが幾つか
先ずは、魚卵の付いた藻や水草が鳥に運ばれるという鳥の介在論、まま納得
次に洪水論、確かに今でも、水系の違いを越えた大洪水が時々発生している
太古、氷河期の終わりの頃は海面位が下がっており、氷河が溶ける洪水範囲は大

成る程と各論に納得したが、もう一つの話、淡水魚の一次性と二次性には括目した
コイやナマズなど、淡水中で生涯を送るものを純淡水魚(一次性淡水魚)と云う
ウナギやアユのように、一生の一時期を海水中で過ごすものを通し回遊魚
ボラやスズキなど海水魚・汽水魚であるものが淡水域に侵入するものを周縁性淡水魚
メダカのように通常は淡水で偶発的に海水域に進出しうるものが二次性淡水魚

絶滅危惧種となっている「日本メダカ」、我が家の火鉢のメダカ水槽は写真でも掲載
この小さなメダカが海の中へ出て、また陸に入って自らの生息域を広げていたとは・・
人は見かけに因らぬものと云うが、魚も見かけに因らぬものと、ある種の感慨を持った
それともう一つ、淡水は地球の水のコンマ01%も無いが、魚種は半数を占めるという
アマゾン川だけの生息魚種が大西洋の生息魚種より多いともいう、唸ってしまった

森と水を大切にする日本古来の心、持ち続けたい

五月晴れ 鯉に恋する 黒田圃 ・・・ 広島を掛けたが、我ながら駄作
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「姫あやめ」、卒塾者が届けて下さった、水辺が好かろうかとメダカ鉢の中に置いた
然し懸念もある、土肥料を入れて下さっていたのだが、半分が水に浸かって流れ出した
花の肥料はメダカに害を与えるのかどうかと心配になり、水を足して流してみた
今朝早々に、水鉢を覗いて見るとメダカは元気に泳いでいた、ひと安心

「姫あやめ」を調べようとネット検索をする、出て来たのは「零式支援型戦闘姫アヤマ」
まま、この手のもの異次元の世界ではあるが、名付けが気に入ったので紹介する
と云うのは、先に書いた自衛隊が開発した先進型ステルス戦闘機「平成の零戦・心神」
二日後に産経新聞で「心神」を取り上げていた、莞爾というか、その流れで「零式姫アヤメ」
ただこの「零式」、何の年号の「零式」やらどうか分らないが、西暦二千年生まれとかだろう
つまり、今年一五歳の少女という話かな・・
http://monst.appbank.net/monster/96.html

そこで気付いたことは新聞の日付のこと
産経新聞は、平成27年(西暦2015年)とある、他紙、朝日・毎日・読売・日経の日付は
揃って、西暦2015年(平成27年)とある、どういうことだろう
「西暦」とは、キリスト生誕から数える年号、欧州キリスト教文化圏諸国の年号に他ならない
イスラム諸国には「イスラム歴」、日本には皇紀(二千六百七十五年)があり、元号は平成
産経以外の新聞は何故に、西暦というキリスト教年号を先に表示するのか不可解である
因みに、日本帝国の海軍零式戦闘機・零戦は皇紀二千六百年制定の機種ということである