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玉簾 (たますだれ)、「珠簾」とも書く彼岸花の仲間、秋を知らせてくれる

:廃医師はんから私の質問に回答があった、こちらに転載する
いつも通り「真っ向兜割り」の論調、中身が重くて濃い

回答・廃医師
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 日本列島に渡来した「日琉祖語話者」=倭人は、Y-O2b系統の集団だったと考えられます。野生種から栽培稲を作った珠江中流域の人々、おそらくは、南アジア語族モン・クメール語派に属するY-O2a系の人々と姉妹群(Y染色体は男性のみの保有なので、兄妹群の方がよさそうですが)のY-O2b系統に属しており、古本的には、y-O2a系の人々と同調して行動していたと考えられます。その証拠に南アジア語族モン・クメール語派の代表的言語であるヴェトナム語とカンボジア語の話者が建国した両国には、最多頻度のY-O2a系の他に、少数ながらY-O2b系も見出されます。Y-O2a系が単独で見られるのは、他に南アジア語族ムンダ語派の人々(インド9であり、同様に殆どY-O2aを伴わずにY-O2b系が存在するのは、日本列島と朝鮮半島が中心であり、満州にも少数認められています。
 移住者が少数集団だった場合、偶然の作用により、母体となった集団の遺伝子組成を反映しない事は集団遺伝学などで認められており、一般に「創始者効果(始祖効果)」と「遺伝的浮動」で説明されます。気候温暖期に灌漑水田農耕の適地が長江流域から黄河方面へと北上し、殆ど黄河南縁に達します。これに伴って北上し、山東方面から更には満州にまで進出した水稲農耕集団が,Y-O2b系を主とした南アジア語族モン・クメール語派の一派だったと思われます。彼らは黄河流域の雑穀農耕や小麦主体の農耕民と競合しつつ、黄河河口域や山東方面に進出したと思われます。環境に適合した栽培穀物を優位として、先住のアルタイ系と混淆しつつ、Y-O2B系の氏族、部族は山東方面から更に一部は稲作が困難な遼東半島にも進出しますが、その集団の生業は既に雑穀農耕と河川漁労などに変化していたでしょう。
 さて、アルタイ化したのは、少数のY-O2b集団が、父系制氏族集団を形成し、同じく父系制氏族集団を形成していたアルタイ系のY-C2b(旧Y-C3)系集団と、父系制氏族社会での氏族間の競合緩和策でもある「氏族外婚制」により、先住のアルタイ系の女性から配偶者を得た事により、原倭人集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)は、急速に北方系の者に置換します。又音韻なども母系のアルタイ系の特徴がこの伝えられます。又原倭人の男性も、地元で多数派の北方系の人々との交流上、文法等は、南方系から北方系のアルタイ系に変化しますが、基礎語彙や主たる生業の稲作関連の語彙など、殆どの語彙は、南アジア語族のそれを維持します。その結果南アジア語族モン・クメール語派に近い言語の話者だった原倭人(Y-O2b系)は、日琉祖語という混成言語を完成し、「倭人」に変容します。
 温暖な山東竜山文化期が終わり、寒冷化に向かうとともに、東夷諸民族の動揺と移動の時代が到来します。これはユーラシア大陸の東西で同時的に進行した現象のいわば東アジア版ですが、東夷系の雄であった商(殷)民族の建国と安陽遷都、殷周革命と言った500年程のめまぐるしい変化も、この環境の変化による民族移動期のものでしょう。当然倭人集団も移動を余儀なくされます。特に漢民族などの母体であるY-O3系統の膨張が大きな要因となって、倭人主力は、山東半島から黄海を渡って、対岸の朝鮮半島へ、更に間をおかずに日本列島に移住します。山東省南部の稲作地域(北部は雑穀栽培農耕が優越した)からの朝鮮と日本への移住は、或いは同時だった可能性もありますが、それは今後の考古学界の成果にゆだねられます。
 これで、風翁道人のご質問の?アルタイ化の祭祀、何故アルタイ系のY-DNAであるY-C2bやあるいはウラル系?のY-Nが入っていないのか?と言う疑問に対する答えになると思います。要するに、三島地域に少数進出したY-O2B集団は、アルタイ系の父系制氏族外婚制社会に適応して、多数派のアルタイ系から嫁を迎え、結果,Y-DNA以外の殆どの形質は、北方系モンゴロイドの者になっていきます。勿論環境に適応した一部の遺伝子は、長江流域以来の南方系の遺伝子が残ります。おそらくアメーバ赤痢への抵抗性と関連すると思われるいわゆる「下戸遺伝子」などは、温暖期のアメーバ赤痢の北上と言う条件下に、倭人集団内に維持されたと考えられます。しかし、南方系の男が、北方系の妻を迎え、その男子がまた北方系の妻を迎える、と言う繰り返しが続けば、その集団御形質が、急速に北方系モンゴロイドの者になる事は、直ぐ分るでしょう。
 次の?については、始祖効果なり、遺伝的浮動と言った「偶然」によるY-O2b1-47zNOY-O2B系集団内の下で説明可能でしょう。
後一つ、原始古代は母系制社会だった、と言うのは「青踏派」の宣伝、標語であり、おそらくは原始社会は、圧倒的に父系制氏族社会だったと考えられる事です。ヒトに最も近いアフリカの大型類人猿のチンプ(ナミチンパンジー)、ボノボ(ピグミー・チンパンジー)のいずれも父系制の社会を作っており、メスが群れを移動します。又ゴリラも、「単雄複雌群」という父系聖家族を作ります。ヒトも基本的には、同じ様に父系制(男系)家族や氏族だったと考えるべきでしょう。
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葉が散り出した秋篠川土手道の桜、朝日に佇む縄文犬「ハナ」
「犬から探る・古代日本人の謎」田名部雄一著という本が手元にある
PHP研究所・昭和六十年九月二十四日・第一版第一刷発行である

私が奈良・宇陀郡に住んだ四歳から七歳の頃、家には白い紀州犬「五郎」が居た
当時の犬は放し飼いであり、「五郎」は付近の犬達の番長的存在であった
父親が仕事仲間と共に自動車で吉野へ出かけた時のこと、「五郎」は追いかけた
直ぐに諦めるだろうとタカをくくって、そのまま行った父親達が吉野に着いた時のこと
遥か向うから「五郎」の走って来る姿を見つけて、父親の仲間は皆感動したとか

当時の宇陀と吉野の間は細い山道が曲がりくねって繋がっているという代物だった
車の速度はそんなに出すことも出来ず、対向車が来ると一方が後退して待ったらしい
故に、「五郎」は車を視界に留めることが出来、付いて来られたのだろうという大方の弁
それにしても一時間程の道のりである、「五郎」の頑張りは皆の感動ものであった
勿論のこと、帰りの道は「五郎」も自動車に同乗させてもらって戻って来た

宇陀の村で放し飼いされている地犬は、一般に紀州犬と呼ばれている犬かその雑種だった
当時の村人は農作や山仕事の合間に猪や鹿或いは熊の猟をする人が多くいた
地の人は紀州犬を「猪犬・ししいぬ」と呼んでいた、昔は発情した雌犬を山に置いたとか
「山犬」と地の人が呼んだ日本狼との交配目的であったが、その風習は今では無くなった
村の放し飼い犬集団は、猟の時には人と共に山に入って猟犬集団になったという話だった

私達家族が宇陀から吉野に引っ越す時のこと、「五郎」は宇陀に置いておくことになった
犬集団の番長だった「五郎」をそのまま貰い受けたいという話があり、私の親が同意した
環境が変わる地に連れて行くより、慣れたところに残る方が「五郎」に良いということだ
放し飼いの犬とは、日中は村の其処彼処にたむろ、夜になると主人の家で餌を食う生活
「五郎」を人に渡すのではなく、村に残して行っても餌を与える人が居ると云う話だ

「五郎」残して吉野に行った私達は、そこでまた紀州犬の仔犬を育てて「五郎」と呼んだ
私の小学校後半に奈良へ戻ることになった時も、近所の人が五郎を引き受けてくれた
昔の犬の放し飼いと今の犬の家飼いとでは、人と犬の拘わり方や風習に隔絶感がある
小学校五年の時、紀州犬と四国犬(土佐闘犬の原種)の合いの子をもらい「五郎」と名付けた
呉れた人は「日本犬保存会」の会員で、日本犬のことを私に教えてくれ、私も会員になった

その「五郎」は白黒のブチだった、白い紀州犬と黒い四国犬の合いの子の証の様な白黒顔
喧嘩が強く近所の犬を制圧し、肥桶大八を牽いて通る牛の背に飛び乗り首に噛みついた
親は平謝りであったが当時は人情も長閑、次からはその農夫が先に来て「犬押えといてや」
然しながら、この「五郎」、我が家の雌猫には全く無頓着で自分の腹に来て寝ても知らん顔
ブチ犬「五郎」は私が高校の時に死んだ、遺骸は散歩道のウワナベ古墳の堀に埋めた
今の「ハナ」は柴犬の雌、女房殿が「私が連れて行ける小型の犬がええ」ということで飼った
柴犬の雌は体重七㌔から九㌔ということだったが、今の「ハナ」は十九㌔、タテヨコ共に規格外

近年、米国で世界の犬種の遺伝子調査をしたところ、柴犬が一番古くて次は秋田犬だとか
この調査には、紀州犬や四国犬・北海道犬等が入ってなかったが恐らく似た結果だったろう
「犬から探る・古代日本人の謎」で田名部雄一氏は、縄文犬が柴犬や北海道犬の祖先と説く
犬は人と共生する動物であって家畜ではない、縄文遺跡では埋葬された犬の骨が出ている
由って、犬の移動歴史とは人の移動歴史でもあるという、「犬から探る古代日本人」である
「縄文犬」の出自は支那大陸南部辺りで、その痕跡が強いのが北海道犬(アイヌ犬)とか
続く・・
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投槍の刺さった腰骨と頭蓋骨、発見当時は男性の骨とされたが後に経産婦の腰骨と判明
昭和三十六年発見された縄文早期一万二千年前の上黒岩岩陰遺跡から出た人骨である
愛媛県松山市から四国山中を経て高知市に到る国道三十三号線沿い久万川の対岸にある
この地は四 国の最高峰・石鎚山(いしづちさん)の西南麓の山地で標高は約四〇〇m、

四年ほど前に、敬愛する友人に誘われて四国山中にある御母堂の実家を訪れたことがある
そこは二十代続く村上水軍の末裔という旧家で、大きな屋敷には殿様のお成り口があった
近くにある親類の家が炉を切ったので、友人が一族を呼び茶事をやりたいということであった
つまり、友人が主人で従兄や姪甥を呼び、私は点前と半東および炉作りもせよ、ということ
国道三十三号線は、私が高校入学前に一人旅で松山から高知へ向かったバス行路の道
その懐かしい思いでの四国山中、及び縄文遺跡の見学云うことで引き受けたのだった

御母堂の実家も炉を切った家も、土間から板の間に上がるようになっていて囲炉裏があった
沖縄で見る釜屋と母屋は、内地では土間と板の間と囲炉裏が釜屋で奥座敷が母屋だろう
囲炉裏端会食では「茶煮座」へそこの主婦、奥の「横座」に友人と私、後は其々の座に着いた
友人は南大阪の開業医で、彼の車で大阪港から松山港へ渡って三十三号線を走った
友人は古代史研究が趣味で専門誌へ投稿もする御仁、帰路の岩陰縄文遺跡訪問が裏目的

岩陰遺跡の洞窟調査で出土した物から縄文時代の実像が見えて来たようだ
猪や鹿・熊・狸・兎・日本狼・カワウソ等の動物の骨の中に大山猫や犬の骨があった
大山猫はシベリヤ原産の豹ほどのネコ科動物、縄文時代の日本列島に生息していたこと
八千年前の日本最古となる縄文犬の骨三体分が埋葬された形で出た、柴犬に似ている
縄文犬は東南アジア系とされると、この地の縄文人は南方系ということになる・・
沖縄の宝貝や海産物が出ており、交易・交流の広さが縄文社会の広さを物語る

発見当時は世界最古と云われた一万二千年前の土器も出土し、煮炊き生活を証明
そして、鹿骨の槍先が刺さったままで埋葬されている女性の骨、殺されたにしては異様
槍で突き殺したなら、槍先は引き抜くのが普通であろう、それとも死体に槍を刺したのか
男性なら未だしも経産女性の腰の骨である、この女性は女酋長なら何があったのか・・

肉や魚は焚き火で串焼きにして食えるが、ドングリやトチの実は土器が有用である
ドングリやトチノ実を潰して灰汁でアク抜きし、それをコネて土器で煮て食したのだろう
その際、草や木の葉を一緒に入れて煮炊きしたハズである、茶粥の始まりと云える
一族の女酋長が瓢箪の勺で、各自の、これまた瓢箪の椀に分け与えたのであろう
後世の振り茶の場面が重なる

稲作が始まる弥生期に、人はこの洞窟を去り平地へ移住したようだ
稲作農業で母系社会と父系社会との文化混在が進んだ、と思われるが如何
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雑木林の散歩道に落ちていた栗、日本栗は縄文時代の栽培植物だとか
朝夕がめっきり涼しくなった、なるほど涼風は「すずかぜ」と読むのが相応しい

縄文時代の農耕とは焼畑であり、焼畑農法は最近まで続いていたとは既述
日本各地に焼畑の痕跡が残り、奈良・若草山の山焼きもその一つと云われる
焼畑で最初に芽が出るのが「茶の木」で、それが各地で「山茶」として採取された
焼畑文化のルーツである東亜半月弧、アッサムから雲南・ビルマ・タイ・ベトナム
この辺りでは「茶」を飲み物というより、食べ物とする見方の方が古い食文化であった

成熟した茶葉を茹でてから、発酵させて漬け込み保存食とする方法である
発酵を済ませた茶葉に白カビが付く頃、天日干しすると固まり黒茶になる
四国の碁石茶・阿波番茶や北陸の黒茶、大陸で今も流通する団茶である
この黒茶の類が振り茶に使われて来た「番茶」であるが、今では少なくなった

古い時代は茶葉に限らず、色んな草木が代用茶とされた、弘法茶もその一つ
茶が食べ物であった名残りが「茶粥」であり、西日本各地に茶粥文化があった
私の子供の頃の宇陀・吉野地方では、大きな鍋に芋や豆が入った茶粥が炊かれた
家族は其々に箱膳の中から茶碗を出して差し出すと、母親が粥をよそったもの
食事が済むと番茶で椀の中を漱いでから飲み干して、そのまま箱膳の中に収めた

茶汁を上げたもの、つまり掬い上げた飯を「上げ茶」、茶汁が多いものを「ごぼ」という
奈良地方は米を晩に炊くので、朝は晩の残り飯でサラサラの茶粥をつくって食べる
サラサラして熱い茶粥・「おかいさん」を常食にするから、奈良県は胃癌が多いとかで
昭和二十九年に「茶粥の廃止」が呼びかけられ茶粥の常食が減った、この説は怪しい
食事と喫茶の同根を示すものが茶粥文化なら、この呼び掛けは文化破戒に等しい
西大寺の大茶盛りも元は茶粥、「おかいさん」を救民に振る舞ったものと私は思う

吉野の各家ではオクド(かまど)のある土間から板の間に上がると茶粥鍋が炉にあった
其々の席があって、土間を右か左側にした場所が主婦、その横の土間の対面が亭主
この席順は、振り茶の風習があったところでは似たような仕来りがあったようである
沖縄の古い民屋は棟が母屋と釜屋に別れ、母屋の主座は亭主で釜屋の主座は主婦
戦災後はひと棟形式が多くなって、これまでの伝統的席順が混乱しているということ

振り茶の際の主婦の座を「茶煮座・チャニザ」、或いは「カカザ」「カミザ」と云うのは前述
座を仕切る人の席は「カシキザ・炊き座」とも云われ、カシキと仕切るは繋がる気がする
採取した茶葉や草木を煮出し米や芋・豆を土器で似ていた縄文時代の主婦像にも繋がる
縄文一族の母である主婦は一族の仕切り役をしており、入り婿の亭主は主婦を支える役
母系家族制の縄文社会では、一族の長とは巫女的立場にあった主婦だと思われる
その巫女的立場にある主婦は「戸畔・トベ」と呼ばれる一族の女酋長であった

主婦・女将を表す古い言葉の「刀自・トジ」も、この「戸畔・トベ」に通じる気がする
振り茶を主宰する主婦、それは古代の母系一族の女酋長・トベに他ならない
続く・・

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布袋(ほてい)草の花、去年に背丈十㎝位の布袋草五株をメダカ鉢に入れたもの
それがこの夏にグングンと成長、メダカ鉢から溢れて葉茎を広げ、昨日は花を咲かせた

テレビの話で、三代目何某かの歌舞伎役者が派手な動きの新作歌舞伎を公演とか
何年か前に、猿の助がパリかどっかで宙吊り歌舞伎を披露したことがあった
派手な衣装や常軌を逸脱した行動に走ることを指した語を「かぶき者」と云うたとある
「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いの「かぶき踊り」が慶長年間に京で一世を風靡
これが出雲の「お国」から今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっていると聞く
成る程に、芸を見せて銭を貰う大道芸「河原乞食」の伝統芸能という側面が見てとれた

この話で私には気付かされたところがある、外向きの文化と内向きの文化ということ
スポーツ芸能というのが文化であるなら、それを職にして、それで飯を食う者とは
それは外向きの文化の担い手と云える、人に見せてナンボ、うけてナンボの世界である
本来は「糊口を凌ぐ」ための芸であって、世の日陰者の世界であるというのが真っ当
「芸人はエエ家に住んだらアカン、長屋住いが芸を生む」とか云うた大阪の芸人がいた
米国ではベイブ・ルースの給料が大統領を上回ったことが話題になったぐらいである

内向きの文化とは、己の心と向い合う世界で、一つの芸を極めることで行う世界であろう
大道芸人も、懸命の稽古で芸を極める努力はするが、それは「銭稼ぎ」の糧である
とは云え、大道芸人も芸を極めるまでに来ると、そこに「銭稼ぎ」を離れた心境を得るようだ
人に見せて銭稼ぎを意図するのが外向き、己に問い自身の納得を意図するのが内向き
工芸家や絵師は外向きの文化になりがちで、書道や武道は内向きの文化になりがちだ
「道」を付けるということは、そういう一面を表しているように思える、諸芸道然り

「茶道」だが、私はこの言葉が好きでない、世間で云う「茶道」は外向きの茶に思えるのだ
茶で飯を食う者を昔は「茶の湯者」と呼び茶人とは云わなかった、茶技の芸人ということ
茶で飯を食うことを生業とすれば、必ずや集金マシンの考察が入り込み「邪道」と化す
同じことが宗教にも云える、宗教で飯を食うことを意図すれば、臭気紛々とした「邪宗」になる
宗教は内向き文化の最たるものであるハズが、「銭稼ぎ」になると破戒僧や身分が生まれる
対価を求める形は外向きになるのは致し方ないが、本分を失念しては「外道」に堕ちる

「茶」は禅でいう見性(けんしょう)、自分という人間本性を徹見することに玄旨があろう
命の遣り取りを稼業とした戦国武将が、茶の湯にはまり込んだ訳はその辺りにあると思える
茶技を教えることを稼業とした茶家の流れを汲む町衆の茶とは、似て異なるものであった
明治維新で碌を失った武家の茶方が、食うために町衆の茶を模倣してまったのは残念な話
だが、芸の三昧にまで進んだ方は、外向きから内向きへ、内向きから外向きへと自在に変化
そこに文化の文化たる所以があると思われるが、私には及ばない遠い話というか無縁の話
私は外向きの茶は出来ず、かと云って内向きの茶にも成れずにいる
未達の人生を、それなりに納得するしかないようだ・・
2015.08.25 世界陸上
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鷺(さぎ)草の写真を載せた日に秋篠川で青鷺(あおさぎ)が佇んでいた
鷺草は白鷺を想起させる花で青鷺ではないが、まま詐欺師よりマシか
私には、欧米の白人と支那の漢族が世界の詐欺師に見えて仕方ない

世界陸上選手権のことがテレビ・新聞で報道されている
国籍はともかく黒人勢の活躍は際立ち、何時もながらのものがある
同じ黒人であっても西アフリカ系は短距離、東アフリカ系は長距離に強い
中でも品種改良された黒人、つまり米国黒人奴隷の子孫の身体能力は高い
人はそのことを口に出したがらない、今ではタブーとされているが、触れる

元々牧畜民である白人は奴隷を家畜とみて、運動能力の高い者を交配させた
白人たちにとって、高い商品価値・利用価値を持つ子供奴隷をつくるためである
アフリカから壮健な者を選別した上に、更に奴隷船航海の劣悪環境化での淘汰
中で生き抜いた黒人奴隷を人工交配、即ち人種改良を試み身体能力は高まった
今はそれらのことに口を拭って平然としているところが、白人の人種感覚の凄さ

米国の黒人は常に社会の最下層に在り続けていることの不可思議
移民社会とは、後から来た者が下に入り、先に来ている者が上に行くもの
黒人より後から来た東欧系白人、アジア系、ラテン系が黒人を越えて行く
何故か、それは奴隷黒人に家庭や家族が与えられなかったことが起因
家庭が文化を作り、家族がその文化を共有し、伝えて行くのが人類社会
それが、家畜として交配させられ、出来た子供は物心の付く前に売買された

民族の言葉も価値観も、人としての家庭・家族という文化土壌さえ奪われた
民族基盤を失い、自分の文化を持たない人達は向学思想が失われる
そして、後から来た他民族に次々と追い越され、何時までも最下層民でいる
個々には成功した黒人や大きな仕事を為した黒人は居るがそれはそれだけのこと
アイデンティティを喪失した人間集団に民族としての自立と進化は望めない
本当の奴隷解放とは、アイデンティティと自文化の尊厳を取り戻すことだと思う
真以って、白人とは罪作りな連中である

ここでY染色体遺伝子、父親の系統が黒人と同祖であるのは日本列島の人
つまり、DE型遺伝子から分れたE型集団がアフリカに出戻って今の黒人になる
同じくDE型から分れたD型集団は略絶滅し、チベット高原と日本列島だけに残る
日本列島がD型の最大集積地だという話は、縄文人に関して連載した通りである
支那や朝鮮、東南アジアの人々はO型でFR型系統から分れた、つまり白人と同祖
東アフリカ人に混ざって長距離を走る日本人選手に血は争えないと思って見たが
今回の日本マラソンはボロボロの結果、頑張れ日本人選手、血は水より濃し
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鷺(さぎ)草、我が家の鉢植えで二株咲いた、まさに白鷺である
蕾より開花した今が見頃と、昨日の日曜稽古組の床の花にした

産経新聞朝刊で記紀の神武東征を解説する「海道東征をゆく」が連載されている
昨日で連載第八部がおわり、十一月に大阪フィルハーモニーの演奏会があるとか
「海道東征」とは北原白秋作詞・信時潔作曲の交響曲名で、戦前に公演されたもの
私は入場券を確保済みだが、略満席ということである

連載では、熊野から吉野・宇陀に至り、国中(くんなか・大和盆地)ヘ入り、大和を制す
カミヤマトイワレヒコ(神武天皇)が大和の豪族ナガスネヒコトミヒコ(登美彦)を打ち取る
これで神武東征が成就、第八部おわりとなったが、私には二つのことが気になっている

一つは、神武軍によって討たれた和歌山・熊野・奈良の女酋長三人のことである
紀ノ川河口のナグサトベ(名草戸畔)、熊野地方のニシキトベ(丹敷戸畔)、
および大和国層富県(そほのあがた) のニキトベ(新城戸畔)という女性首長達
それも八つ裂きにされて殺されている、「そほのあがた」とは大和六郡の添郡のこと
つまり、私の生まれ育った奈良界隈である、ナガスネヒコ亡き後の掃討戦で殺された

「戸畔」は戸女(戸の辺りにいる女)であり、女性首長を指すものと云われている
他にも、日本各地にトベ(戸畔)という名の女酋長が居たことが書き残されている
記紀に残る景行天皇の九州討伐では九州のトベ・女酋長のことが記されている
このことは日本の古代社会とは女酋長の存在が居たことを示している
母系社会なのか、シャーマニズムの巫女的存在なのか興味深いところである
考えてみれば、天孫皇室の祖先とされる天照大神の存在とも関係するであろう

この話と日本各地の振り茶がシッカリと繋がっていることは、私の確信的類察である
振り茶の考察をする民俗学者の話では、振り茶の場を囲む各自の居場所の名称
その家の主婦、つまり振り茶の主宰する女性の座をチャニザ(茶煮座)、カカザ
そして、カシキザ(炊き座)と呼んだと報告されている、この「炊き・かしき」を思う

神武天皇の大和平定には、同じ天孫族の二ギハヤヒノミコト(饒速日尊)の存在がある
二ギハヤヒは土着豪族ナガスネヒコ(長髄彦)の妹の(三炊屋媛)を娶る
二人の間の子がウマシマテノミコト(可美真手命・ウマシマテ)、後の物部氏の祖である
神武天皇がナガスネヒコと戦ったとき、ニギハヤヒはナガスネヒコを斬って神武に帰順

ミカシキヤヒメの兄はナガスネヒコ、ニギハヤヒは婿、卑弥呼にも兄弟が居て取次役をした
その取次役の兄弟を殺して、神武に恭順したのが天孫を名乗る「婿殿」、義より実である
私が思うに「ミカシキヤヒメ・御炊屋媛」こそ、母系社会の一族を率いる女酋長そのもの
ミカシキヤヒメの了解無くして、ニギハヤヒがナガスネヒコを討つことは無理だったろう

登美(とみ)の里の隣村、今の郡山市新木(にき)のニキトベ(新城戸畔)という女性首長
ナガスネヒコ暗殺後も道義を守り、外敵に抵抗して殺されたのであろう、さすがは奈良女
振り茶の風習にある「座」のこと、茶煮座(ちゃにざ)とカカ座、そして炊(かしき)座のこと
そこに、振り茶の風習と古事記・日本書紀の叙事に縄文時代からの繋がりが見える

二つ目の気になることとは、神武東征そのもの
日向から紀伊までは縄文船で一昼夜、瀬戸内海を何年も掛けて往かずとも良いはず
それに、九州南部から来たのが神武族なら、後の大和政権の南九州征伐とは如何が
江戸幕府を倒した薩摩が、西南戦争では薩摩が官軍に打たれる話と同じいうことか
私には、神武東征そのもが作り話に思えてしまう、然し焼畑と振り茶、主婦の座のこと
炊(かしき)とは、茶が喫と食に別れて辺りの話、東亜半月弧の民俗にまで繋がる話
それこそ、母系社会であった縄文人文化まで堀り起される茶の話であり、そこそこ深い

下の写真は、昨日の稽古に御亭主と同伴されて来た奥方衆の「番茶振り茶」の準備様子
右は番茶薬缶と湯こぼし(建水)、盆に茶碗・茶筅・茶巾・サジ・茶漉し・塩皿・布巾とキリコ
奥方衆は御亭主衆の茶点前より、闊達に振り茶を楽しまれた様子、振り茶のトベ姿である
考えてみれば、茶の稽古場で振り茶稽古なんぞをするところは皆無であろう
続く・・
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破った土嚢袋に広げた番茶浸け楠木灰

昨日は久しぶりに日が照ったので番茶に浸けていた楠木灰を干した
鍬でなるべく薄く広げ早く乾く様にする、乾いて固まると次にその固まりを潰す
潰した後は金ザルに取り杓文字で濾す、サラサラの粉末にして炉灰の出来上がり
土嚢袋は水捌けが良いので灰干しに良い、私は頭陀袋(ずだぶくろ)と呼んでいる
店で聞くと、頭陀袋は元々坊さんの「何でも入れ」が、今は若者のバッグだとか
さて「各地の振り茶」、知られている地方と呼称、その実態を上げてみる

木鉢の振り茶
沖縄のプクプク茶・・・木鉢に支那茶を入れ、片膝を立てて大きな茶筅で泡立てたとか
幾つもの碗に配り、食事の前後に出すもので、油濃い沖縄の食材に合うということ
親戚や気心の知れた仲間との間で行なったという、今は廃れた

木桶(茶桶)の振り茶
徳之島のフイチャ・・・釜で弘法茶(代用茶・浜茶)と番茶を混ぜて煮立てる
茶柄杓で人数分の量を茶桶(ちゃおけ)に入れ、熊笹で作った茶筅で泡立てる
茶桶から直接それぞれの椀に注いで渡し皆で飲む、今は廃れた
奥三河の振り茶・・・柴茶(山茶)を臼で挽いた「チャノコ」を使い、茶桶の湯の中に入れる
茶筅の先に塩を付けで泡立てる、チャノコにせず煮るやり方もあったが共に途絶える
茶桶(ちゃおけ)を「さつう」と呼ぶ言葉が今の茶道界にある、関係があるかどうか・・
また埼玉地方にもこの茶桶を使う振り茶があったとか聞くが、今は跡形もないようだ

茶碗を使う振り茶
島根・愛媛のボテボテ茶、福井・富山・新潟のバタバタ茶がある
本来は発酵茶の黒茶を使ったようである、茶筅の塩を付けて泡立てるの共通する
泡立った茶に、何がしかの具材を入れて飲む(食す)が、そのやり方には地方差がある
然し、今では松江の観光催事となって残るだけで、戦後には見られなくなったようだ
他には青森・津軽地方でもあったようで、津軽藩士によって書かれたものが残っている
北陸の振り茶は、真宗の仏事と関係しているところがあるとか云われている
その一つの中曾司の茶が一番大がかりで長く続いた、否、続いている、細々であるが・・

振り茶で使う茶碗は、今の抹茶茶碗より少し小ぶりである、即ち普通の飯茶碗の大きさだ
飯椀は元々木地の椀あり、湯呑茶碗は焼物の碗である、字が違う
飯を食う椀が碗になり、それを茶碗と呼ぶ魔訶不思議、この謎解きが振り茶にあるようだ
今の茶事では飯と汁は木地の塗り椀、茶と菜は焼き物の碗か皿である

地方の振り茶の様子はこんなところだが、民俗学者は面白いことを見出した
それは、「ソト・オトコ・サケ」に対する「ウチ・オンナ・チヤ」という社会構図である
振り茶は勝手(土間・台所)を上がった囲炉裏端で行なわれることが普通であった
家の女房の坐る場所を茶煮座(チャニザ)、とか「カカザ」とか云い、上(カミ)とした
どうやら、「女将・おかみ」や女房を「カミさん」という話に繋がっているようだ

この話、続く・・






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秋ナスビ、雨上がりの散歩で目にした、濡れていて瑞々(みずみず)しい

「秋なすび わささの粕につきまぜて よめにはくれじ 棚に置くとも」
鎌倉時代の「夫木和歌抄」の一首が「秋なすび嫁に食わすな」の元だとか
美味しい秋なすびは憎たらしい嫁には食べさせない、とか
秋なすびは体を冷やすので大事な嫁のは食わさない、とか
秋なすびは種が無いので嫁に食わすと子種が出来なくなる、とか聞いていた
実は違った、「わささ」は「若酒」と書き「新酒」、「よめ」は「夜目」と書き「鼠・ねずみ」
新種の酒粕に秋なすびを漬けると美味だが、棚に置くと鼠に食われるから気を付けろ
昨日のNHKテレビで得た話で私には初耳であった、NHKもタマには良い話をする

さて振り茶に使う番茶、どうも元々は完全発酵させたものを使っていたフシがある
大陸の団茶は、完全に成長した茶の葉から作られたものほど価値は高いとされた
自然の恵みを充分に吸収しているということで、幼芽を貴重とする日本茶と違う
日本でも、緑茶の摘み頃から一か月遅れの葉を完全発酵させる製法の茶がある
福井の「黒茶」、四国の「碁石茶」「阿波番茶」というものだが、今では少なくなった

元々の振り茶とは、この黒茶類の番茶を使ったものであったろうと考えられる
茶の葉を摘んで放置しておくと自然発酵するので、黒茶は古い段階の製茶法である
振り茶の風習があったのは、沖縄・鹿児島から日本海の島根・福井・富山・新潟・青森
他に愛媛・愛知・埼玉・栃木で、遠い昔は日本各地に伝わる民俗・風習であったようだ
振り茶経験者が今も居るのは愛媛の松山市、島根の松江市、富山の朝日町である
抹茶を使った振り茶が奈良・橿原市の中曾司の茶であるとされていた

それが、奈良の古い町衆の流れを汲む塾生の家に伝わる「番茶のキリコ入り振り茶」
聞いて、中曾司のキリコ(切子・あられ)を入れる茶の原型が見えて来た思いがした
中曾司では今は抹茶を買うて使っているが、中曾司の茶道具から察するに元は粉番茶
昔自分は自家の手作り茶葉を蒸して小さく刻み、焙じて石臼で挽いたようである
黒茶と違い、発酵させないが番茶そのもので、今の抹茶の原型であったと云える
塾生の家伝「番茶を泡立ててキリコを入れて飲んでいた」とは貴重な民俗学的遺産
成る程に栄西が宋から持ち帰った云々の戯言、奈良の人達に相手にされてないハズ

中曾司では「茶を入れる」とは云わず、「茶を立てる」と云う言葉を使っていたと云う
今、茶の湯の世界で云う「茶を点てる」「点前」の原語であろうと思われる
「茶を点てる」とは「泡立てる」から来たもので、「虹が立つ」「夕立ち」と同源と聞く
神が現われる、お出ましになるという「出現」の意味合いを含んでいるとか云々である
神々しい現象であり、ある種の神事だということ、この話に寒毛卓竪(かんもうたくじゅ)
茶の湯が持つ凛とした空気、空間、所作、振舞いの原点は神事に在ったかと頷かされた

因みに、当上田宗箇流の古文書では「茶立て」とある
続く・・


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番茶の煮汁に浸した灰、竹でよく混ぜて全体に色付けする

昨年末に、陶工の塾生が窯の焼き入れに使った樟の灰を持って来てくれた
三日前に番茶の煮汁に浸して、一晩置いてから天日干しをするつもりであった
そころが、昨日今日と連続の雨降りで少々滅入っている、灰の水気が取れない
次の月曜稽古では、塾生に炉灰の作り方を学んでもらう予定が、乾くかどうか・・

ところで番茶、奈良・京都では焙(ほう)じ番茶で江戸では青柳番茶が一般的のようだ
焙じるかどうかの違いのようだが、実は「番茶」の定義はなく、まま、日常茶飯事の茶
つまり、日本人なら何処でもタダで出される感覚の緑茶が番茶であろう
この日本人の感覚には外国人が驚くらしい・・「所さんのニッポンの出番」より

http://officiallist.videotopics.yahoo.co.jp/video/tbs/25785/

日本人の「水と平和はタダ」という思い込みを皮肉る話をよく耳にした
中学・高校ぐらいまでの汽車の旅は駅弁と四角い陶器に入った「茶」が付き物
茶の代金として幾らかを払ったが、ほとんど陶器代のつもりでいたものだ
流通産業に身を置いていた私は、どうにも解せなかったのが茶の缶飲料商品
昭和の六十年頃の話である、誰が茶の一杯に金を払うものかと思っていた
更に「水の商品化」に至っては「眉唾話」として聞き、貴族趣味と私は断じた
それが、今や茶と水は食品売り場でのメインコーナーとなり、ジュース類を圧倒する
中学校時代に牛乳配達をしていた私には、水が牛乳と似た価格とは未だ信じ難い

少々逸れた、閑話休題、茶の木の話である
焼畑農法では森の樹木を伐採して枯らし、火を付けて一帯を燃やし土地を肥やす
耕耘・施肥を行わず、作物の栽培後に農地を一定期間放置して地力を回復させる
古代より東亜半月弧で行われている粗放的な農業形態で、縄文前期に列島に伝わる

焼畑で最初に芽を出すのが「茶の木」であり、それからソバ・ヒエ・アワや豆・芋を植える
茶の木は森林で根を深く下して環境に耐えており、森林が焼かれると直ぐ芽を出すとか
このことから結婚の結納に茶を用いて、嫁が家に根を下ろすことを願う形だと聞く
結婚式の酒宴が終わると嫁は普段着になり皆に茶を出し、家の者になった区切りを示す
墓地に茶の木を植えて現世とあの世の区切りとし、家と家の境界にも茶の木を植える

焼畑の自生の茶の木を山茶とかヤブ茶とか呼ぶが、「ヤブ」とは焼畑を意味するという
民俗学者の柳田國男は山茶を日本在来種としたが、近年の研究では渡来種と判明した
縄文早期に大陸から渡来といういうことなので、私はY-O2b集団が持ち込んだと踏んでいる
柳田を始め民俗学者や農学者は、平安・室町期に僧侶が茶を日本に持ち込んだ話は否定
日本の人々・村々では山茶を摘み、番茶として「日常茶飯事」の中に取り込んでいるのだ
僧侶や貴人の「茶の湯」の歴史とは違って、番茶は茶の木のような深い根を持つようだ

外の気配では今日も雨が降っている、炉灰は何としょう
続く・・
2015.08.20 番茶の振り茶
1無題
茶の花、山茶花(サザンカ)と共に茶席では使わないとされている
その曰く、「茶」という字が含まれているので無粋(ぶすい)とかなんとか
そこで「山椿」とかの名にして使う人も居る、なかなか粋(すい)な話

話が逸れるが、今年の夏の新聞・テレビは例年より戦争物が多かった気がする
気付いたことは、ますます現在の価値観で当時の話を作る感がみられたこと
本当の戦争体験者が減れば減るほど、この傾向が強まるのであろう

盆前に伊賀越えで読んだ中日新聞の読者投稿欄にはアングリとした
沖縄で日本軍は住民虐殺をし住民の食糧を奪った云々とあった、投稿者六十二歳
戦争体験談の中に混ざっての安保法案反対意見、新聞社の邪心が見てとれた
戦争は嫌、平和が大切、命を尊ぶ・・誰もが百も承知、二百も合点である

沖縄や広島の慰霊祭で安倍首相に罵声が浴びせる人々が居たことに愕然とした
国民を代表して献花する日本の首相に、日本人が為すべき態度ではなかろうに・・
日本社会は、村八分に於いても火事と葬式は別ものとする価値観を持っていた
事の是非や人の行動は、その時の価値観に依って律せられるもの、後の話は無用

話は戻して「番茶の振り茶」、茶と云っても広うござんす、とは茶処清水の次郎長はん
茶の種類は大きく分けると、緑茶系、烏龍(ウーロン)茶系、紅茶系と三つになる
製法の違いによるもので、上の三つは其々不発酵茶、半発酵茶、発酵茶ということ
これらに対し後発酵茶というものがある、大陸の団茶や日本の黒茶・碁石茶である

生の茶葉は、摘まれた瞬間から酵素による酸化が始まり、色も香りも変化していく
緑茶製法の基本は、蒸す・炒るなどの熱処理をして酵素を失活させること(殺青・さっせい)
逆に、酵素を発酵させて緑茶とは違う色や香りを出すのが烏龍茶や紅茶である
この発酵は菌による真正の発酵ではなく、本来は酸化であるが慣用で発酵と云うとか
後発酵とは、蒸してから床上に積んでカビを付け、後で桶に漬け真正発酵させるもの
ここで云う「番茶」とは、不発酵茶(緑茶)と後発酵茶(団茶・黒茶・碁石茶)に該当する

続く・・
2015.08.19 奈良の振り茶
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秋篠川の土手をトボトボ登る「ハナ」、可哀そうやら、可笑しいやら
土手道を散歩中のこと、左目が見辛い為か土手道の窪みに足を滑らせて落ちた
太り過ぎで窪みから這い上がることが出来ず、土手を回って登って来たのだ

前回の月曜組の茶稽古で一人の塾生から興味深い話を得た
その時の稽古では、抹茶を点ててキリコ(おかき)を入れた
先日紹介した橿原市の中曾司でいう「振る舞い茶」という古い喫茶形式である
似た喫茶風習の「番茶の振り茶」が沖縄・九州・山陰から裏日本には最近まであった
今では年寄りの記憶に残るだけになり、民族学的見地の研究対象になっている
この番茶とは自家の茶を蒸し焙じたもので、要するに自家用茶というものである

塾生がポツリと、「親父が番茶を泡立て、このキリコを入れていた」と話した
親父さんの話では、家代々の喫茶風習だということで祖父も好んで飲んでいたとか
その塾生は奈良の地の人で、元興寺界隈という古い奈良町を本貫としている御仁
私は驚くと共に嬉しくなった、中曾司が抹茶を用いる前の奈良の振り茶の話である
私の本貫は奈良の東山中・柳生の荘であり、育ちは宇陀・吉野、つまり茶粥の地
茶粥と「番茶の振り茶」はある種一体のもので、奈良の振り茶を聞き嬉しくなったのだ

この番茶というか、日本の茶の歴史は縄文時代の焼畑農法に話が遡る
それは、Y染色体O2b集団が日本列島に持ち込んで来たものと私は踏んでいる
茶の故地は東亜半月弧と云われるアッサム地方から雲南・東南アジアの照葉樹林帯
つまり、Y染色体O2b集団の居住地であり、照葉樹林文化の根源をなすのが焼畑農法
この焼畑農法は茶樹の埴生に適しており、それが自生茶・山茶となり採取された
「縄文人話」を延々として来たのは、日本の茶の文化の源流を明かしたかったため
Y-O2b集団は照葉樹林文化の担い手でもあり、その列島到来は縄文早期か以前と類推
その痕跡が「茶粥」と「番茶の振り茶」で、つい一世代前まで続いた日本の底流文化と思う
この話続く・・
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朝夕に涼風が流れる様になった、爽やかな朝顔が秋を告げている

「縄文蓮」のコメント欄に廃医師はんからの書き込みがあった
もう医師は引退はされているが、正に「博覧強記」の見本ような御仁
コメント欄は見落としがち故、ここに掲載する

名前:廃医師
********************
 日本人の起源とは基本的に日本語の起源の問題と言うことになります。日本語は文法的にはアルタイ語族~諸言語に近いが、基礎語彙などで共通性が少なく、現在の日本語形成論の主流は、日本語は近隣の語族に帰属しない孤立言語(唯一、姉妹語の琉球諸語などと併せ、日本語族、或いは日琉語族を形成する)であり、その形成には、南方系の言語(南島語族の言語を想定する論者が多い)を基層として、アルタイ系の上層言語が被覆して形成された「混成語」(混合語)であるという主張でしょう。
 UNESCOが日本国内には8つの少数言語があると認定していますが、それは上代日本語東国方言の直系の子孫「八丈語」(八丈小島で話されている)、琉球諸語(奄美、国頭、沖縄、宮古、八重山、与那国の6言語)と、唯一日本語族(日琉語族)に属さない『アイヌ語』の8言語です。さて、日本語が縄文人の言語の直系であるならば、縄文人主流派のY-D1b(旧分類では,Y-D2)が80%以上を占める少数民族アイヌ民族の言語が、日本語族に属さない事は、説明できません。
 アイヌ語から類推される限りでは、上代日本語以来の日本語族の特徴である語彙の開音節構造(母音終りで子音で終わる音節が存在しない)などはアイヌ語の特徴ではありません。これらの開音節構造、語頭に流音(ラ行音)や濁音が立たないなどの古い特徴は、縄文人ではなく、弥生人の言語の特徴と言うことになりますが、先ずアルタイ系の影響を受けたものと考えて良いでしょう。東アジアで繁栄したY-O系統の諸言語は、Y-O1が、南島語族とタイ・カダイ語族,Y-O2aが南アジア語族、Y-O3aが、漢蔵(シナ・チベット)語族とミャオ・ヤオ語族という主な分布を示しています。渡来系弥生人と考えられるY-O2b(O2b1-47a含む)は、隣国の朝鮮半島でも多いのですが、O3系総計よりは少ない比率です。従来は,Y-O3系を細分化し過ぎて比較していたため,Y-O2bが韓国で最多と考えられ、従ってY-O2bこそが、韓国朝鮮語の話者であり、日本にもその話者が流入したものがY-O2bだと考えられていました。しかし、実はY-O2bは、南アジア語族の国々であるヴェトナムやカンボジアでも,Y-O2a Y-O3系の膨張に押されて南下した歴史を考えると、その一部が、朝鮮半島や日本列島に入ったと考えれば、合理的に解釈できます。
 2013年の日中共同研究で、栽培稲は中国華南の珠江中流域の野生種から、先ずジャポニカ種の栽培稲が確立され、その後の野生種との交配により、インディカ種が成立したことが判明しています。長江中下流域から温暖期に山東方面に進出した南アジア語族系のY-O2b集団が、殷周革命前後に、気候の寒冷化と民族移動の波の中で、朝鮮半島・日本列島へと移住して来たと考えれば、日本の弥生時代の開始時期と日本列島への日本語の到来とを同時的現象として、説明できます。彼等こそが、山東方面でアルタイ系の言語と接触して、南アジア語族と言う南方系の言語(南島語族とアウストリック大語族を形成する)に、アルタイ系の文法と少数の基礎語彙と北方系モンゴロイドの形質の獲得という「アルタイ化」を成し遂げ、日琉祖語を山東方面で形成し、朝鮮半島を経由して、日本列島に入って、縄文人と同化して、現代の日本人の祖先となった集団だと考えられます。

 縄文系の人々も積極的に弥生人化している事は、弥生時代前期の甕棺(九州北部)に、北部九州型(渡来系)と西北九州型(在来縄文系の形質を持つ)が存在する事から明らかです。むしろ積極的に灌漑水田農耕を採り入れるために、渡来系弥生人を迎え入れたのが縄文人であり、融合した弥生人諸部族は、共通の大倭王に、感謝の意を込めて、在来系弥生人(すなわち縄文系の弥生人化した人々)の首長を、推戴したのでしょう。そうだとすれば、いわば渡来系と縄文系の融和の象徴としての大王家=天皇家の血統が古くから尊重されたのも、当然だと思われます。
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花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに

我が愛犬柴犬雌11歳半「ハナ」、本名「竹姫号」の目がおかしくなった
今月初め頃から、「ハナ」の右目に目ヤニが多く付くようになった
私はチリ紙で拭き取りながら、どうしたのかなと心配をしていた
それが、先週には左目もおかしくなり出し、やはり目ヤニが出だした
不思議なことに、左目の悪化につれ右目が少し良くなり出した
然し、左目の悪化は進み、殆ど塞がり出して食も減った
獣医のところに連れて行きたかったが、車の無い私は考え込んだ
そして、「ハナ」の掛り付けの獣医に電話で往診を願うと受けてもらえた

その獣医の診断によると、ばい菌が入って炎症を起しているとのこと
食も進まないし散歩どころか、歩くのも尻尾を垂れ、ヨタヨタである
それを獣医に云うと、猛暑が続いているからだろうと少々軽い診断
私も太り主義の「ハナ」には丁度良いかという思いが頭を過った(反省)
とは云え、目元の可愛さが「売り」だった「ハナ」の変わり様に胸が痛んだ

取り敢えず、炎症の塗り薬と液体目薬ニ種、それに飲み薬一種をくれた
それから「ハナ」の目が白内障の症状が出ているとも診断された
私が太り過ぎが原因かと問うと、そうでもないということだった
つまりは老化現象の為すところ、人間と同じ老人病だと云う
白内障の進行を抑える目薬があるとか、後日私が貰いに行くことにした
三日ほど所用で私は家を空け、一昨日にその薬を取りに行き施薬
左目も開眼状態になって来てはいるが、手を触れると鳴き声を出す
牛乳だけしか口にしなかったのが、ミルクパンなんかを口にし出した

あの元気だった「ハナ」が白内障という老いの病を患うとは、愕然たる思い
考えてみれば、「ハナ」も十一歳半、人間で云えば七十代だとか
我が家も私、女房殿、「ハナ」と老老介護のトライアングルが鳴り出した
昨夜の「月下美人」、「ハナ」の命は短く儚いものかと連想した次第


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昨夜に御向い宅の垣根越しに咲いた月下美人、クジャクサボテン属の常緑多肉植物
購入された昨年には、一輪の花が咲き近所の奥様方が夜更りに大はしゃぎだった
今年は幹も大きく育ち、六輪も花を咲かせた、残念ながら御当家のご夫婦は旅行中
まま、ご近所の奥方衆は夜更けの女子会の如しで楽しく集まられていた

この月下美人のこと、去年にも取り上げたが、命名の経緯は次の通りだそうだ
>若かりし頃の昭和天皇が、台湾を訪れた時の話。
時の台湾駐在大使であった田(でん)氏(元、参院議員・田英夫氏の祖父)が、昭和天皇にこの花の名前を尋ねられ、とっさに「月下の美人」と答え、この名前が定着と言われています。<

「月下美人」、地元では「下がり花」とも云うらしいが、本名は何であったのか
思うに、新月の夜にコウモリを誘って咲くらしいので、「コウモリ花」かな?

月下美人の様子が気になったので、昼三時ごろ行って見た
下の写真である、月下美人を別名「下がり花」というのが分った
正に一夜だけの花、命は短く儚い、人生も斯くの如しか・・

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百合の化け物?、背丈は軽く三メーターを越えている我が家の巨大百合
何処からか種が飛来し、モチノキの植え込みに芽を出したのは四年前
当初は茎と葉っぱだけで、一メーター程の高さに根付き、何かなと思っていた
次の年は茎が二メーターほどに成長して花を咲かせた、白い百合だった
鉄砲百合だろうと思いながらも、こんな大柄な百合は初めてだと感心した

それが去年には、二メーター半ぐらいにまで茎が延び、花を付けた
今年は茎が三メーターを越えて延び花を付けた、そして何と家族が出来た
子供は五本で、其々背丈が六〇センチ程度の普通サイズの鉄砲百合
茎も親に比べれば、華奢に見えるのが何とも親百合の巨大さを物語る
どうも気になり、鉄砲百合のことを調べてみたら、高砂百合というのがあった
鉄砲百合は日本固有種だが、高砂(タカサゴ)百合とは台湾原産種とあった

>タカサゴユリはテッポウユリに似るが、茎が比較的太く丈夫で、丈が 1.5m ほどに生長するものもある。花期は7 - 9月、花長は 15-20cm、直径は 5cm より大きめと、テッポウユリよりも大型になる。また葉が細く、花は白を基調とするものの薄い紫色の筋が入り、花被片は6枚で(やはり根元がつながっている)、外側の花被片は橙褐色になり、花は横向きだが少し下に傾くことが多いとされる。
ただし、本種はテッポウユリとの交雑種が多くまた変異も起きやすいと考えられており、たとえば花が純白でありながら葉が細く大型の個体が観察されるなど、その違いが外見からは判別しにくい場合も多い。
種子を多くつけ、風で運ばれて分布を拡げる。水はけがよく明るい草原や荒地などに到達すると根付いて葉を伸ばすが、初年度は茎や花を出さずに数枚の葉を出すだけで球根を太らせ、球根が充分太ると翌年度以降に茎を伸ばして大型の花をいくつも咲かせる。その場所の日当たり具合により球根の太り方に差があり、球根の状態により茎長や花の数などに差が生じる。<

「丈が 1.5m ほどに生長するものもある」とあるが、我が家の百合は優に三メーターを超える
子供たちは楚々とした白百合だが、この親百合、お化け百合と云っても良いぐらいの巨大さ
最近のブログで遺伝子の変異や亜型とか、訳の分からんことを書き込んだ報いかも・・
来年も更に成長して花を付けるのか、それとも子供が出来たので、自分は死に逝くのか
今日の安倍首相の談話と重なる思いがした

「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

反省と謝罪だけの自虐史観は我々世代が棺桶に持ち込んで済まそう
2015.08.12 縄文蓮
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縄文蓮(じょうもんはす)、別名・大賀蓮(おおがはす)

戦時中に燃料不足を補うため、千葉県東京大学検見川厚生農場で草炭の採掘していた
昭和二十二年に作業員が採掘現場でたまたま一隻の丸木舟と六本の櫂を掘り出した
慶應義塾大学(東大ではなく)による調査が始められ、東洋大学の日本考古学研究所も加わる
発掘調査では、更にもう二隻の丸木舟とハスの果托などが発掘され、落合遺跡と呼ばれる
「縄文時代の船だまり」であったと推測されている

私の「人類皆兄弟・縄文人」のブログ記事に廃医師はんからメール・コメントを貰っていた

>さて、貴ブログはPCを覗いた日には拝見しておりますが、ネタ元が少し古いようなので、コメントを差し控えておりました。特にY-O2b1-47z(昔のYHT2006では,Y-O2b1aとされたが,YHT2008では何故かその前のYCC分類のY-O2b1となった。崎谷氏が原因不明と書いていましたが)が、渡来系弥生人の指標ではなく、縄文系にされているのはいかにも不審であり、日本民族の形成を古くしようと言うバイアスが働いていると思われます。まあ、どなたかがコメントされるのでは?とも思い、少し様子を見ていました。もうちょっと経過観察し、変化が無いようでしたら、コメントさせて戴きますので、その節は宜しくお願いします<

明晰なるご指摘である、私は意図的に渡来系弥生人の存在を無視していた
昔は文化人類学者・鳥越憲三郎の弥生人を長江文明稲作民族の「倭人」説が有力だった
鳥越氏は呉が倭人の国であり、呉の滅亡後朝鮮半島に渡り、そして日本に渡来した
つまり、二千五百年位前からの渡来した「倭人」が弥生人で、縄文人を圧倒したというもの
文化的特徴が、集落の門・鳥居、しめ縄の風俗、高床式住居、文身(いれずみ)、貫頭衣
そして、稲作であったとしているが、最近の遺伝子研究から疑問点が出ている

弥生時代の稲作について、農学者の佐藤洋一郎氏が興味深い指摘をしている
大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から生米のDNA分析を行なった結果
朝鮮半島には存在しない支那固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったという
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートを裏付ける証拠とされる
また、岡山県にある彦崎貝塚から、イネのプラントオパールが大量に見つかっている
約六千年前のそのイネは支那大陸のものと同種で、半島には無い種類であったという
縄文時代前期の焼畑農法で陸稲が栽培されていた証とみられている

九州で始められた水稲栽培は、紀元前三世紀に瀬戸内海を東上、近畿一帯を経過し
紀元前一世紀半ばには伊勢湾沿岸に、前一世紀頃には、本州北端まで伝播している
北海道と琉球を除く日本列島の全域で水田稲作がほぼ形を整えたとされること
その驚くべき伝搬スピードの背景には何があったのか興味深いというもの
つまり、渡来弥生人による縄文人征服説は疑わしいというか、あり得ないということ

弥生人のY染色体遺伝子がO2b1a型(O2b1-47z)ならば、それは日本列島固有種
遺伝子の変異は一万数千年位必要とされていることから、弥生人が半島渡来とは無理筋
つまり、O2b1a集団はD2集団と共に縄文文化の歴史を作った人々であり、渡来人はO3型
言語学に於いても日本語は独特の発展をした言語で周囲の諸言語とは孤立したものだとか
比較的近いとされる朝鮮語も、日本語とは六千五百年以上前の分岐といわれている
支那語は日本語と全く別系統言語、日本語の源流はY染色体D2型同様に大陸には存在しない
征服者・支配者が渡来系なら、その集団の言語が主流となり、今の日本語とは違った言語になる

Y染色体遺伝子と日本語・稲栽培を考えれば、東シナ海大陸棚が陸地であった二万年前頃の事情
大陸から逃れて来たO2b1集団が日本列島でD2集団に同化し、共に縄文文化の担い手となった
三千年前頃の弥生時代の始まりとは曰く「弥生人」の渡来によるものではなく、縄文人の弥生化
つまり、海洋縄文人の支那・江南辺りとの交易交流によって持ち帰った稲作・弥生文化である
人間も連れ帰ったが大半は女子であった、こう考えれば納得できると私は思っている
二・三万年位前の日本列島と東支那海や北方海域の様子を見れば分り易い
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六千年位前には縄文海進で、朝鮮半島や山東半島の間に黄海出現、日本海へと繋がった
縄文海進と繁殖力旺盛なO3集団の侵攻で居住地を追われたO2b集団の日本列島へ逃避
最近分ったことでは、D型男性は他の人種より精子が二割程度少ないという事実があるらしい
そのこともD型が滅びの血となった原因かといわれているが・・
因みに皇室のY遺伝子はD2型、藤原氏はO2b1a型またはO3型であるとかどうとか・・?

千葉の落合遺跡の「船溜まり」も海洋縄文人の存在を示したものと、縄文蓮が云っている

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狗尾草(エノコロクサ)、曰く「猫じゃらし」で秋の草、猛暑が続くが八日は立秋

また、何時ぞやのザッケローニはんからコメントをもろたので掲載

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自己犠牲について西洋と日本の比較論を興味深く拝読するうち「またもギリシャは無視された」とティプラス首相の不満顔が浮かび参上仕りました。キリスト教成立より500年以上も前の話、ペルシャに攻め込まれたギリシャでスパルタ兵全軍が玉砕した戦いがありました。このときのスパルタ兵のBraveなheartを理想とした人格教育を国家的に行ったのが英国、時に日本は江戸時代、有名な寄宿学校パブリックスクールの誕生。大英帝国の管理者に求められる資質とは「滅私奉公」であると法文で規定。自己犠牲はあくまでも「公のため」であらねばならない、個人的美意識や親族のためではダメだとプラトンの書が紐解かれた。滅私奉公なるBraveheartを人為的に、しかも大量に育てむと、幼い頃から親元の快適環境を離れた寄宿生活。卒業者はジェントルマン階級と看做されるも貴族階級とは異なる。その出身はジェントリが主、日本の名主・庄屋に相応。むしろ地方郷士に近いかとも。英国のBraveheartは近代国家制度が育てたのに対し、日本のBraveheartは郷土で親元で自然に育った。それを風土と呼ぶなら、明治近代制度はそんな風土を壊したのか?
投稿者 : ザッケローニ

08/08 15:11
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今朝の散歩道、シダ(羊歯)の葉の中に「お化粧花」が顔を出していた

ブログ記事に、ある御仁からメールでコメントを頂いた
私の返信と併せて掲載する

>元々日本人には、おそらく自己犠牲、義務感と言った概念は、稀薄なのではないでしょうか。
本来、自己犠牲というのは、西洋のキリスト教に於ける『神に選ばれし神の下僕』と云った、エリート意識や騎士道などの義務感の事だと思いますが、如何でしようか?<

下部分はその通りだと思います
ノブレス・オブリージュ、つまり「高貴さは(義務を)強制する」
それは欧州貴族社会の選民意識の為せるものでしょうし
背景はキリスト教の源流・ユダヤ人の選民意識に由来するのでしょう

上部分の話は違うでしょう、と云うより封建社会・身分制度に基なす思想と思います
どうも、世界史上に出現した封建社会とは日本と欧州だけのようです
やがてそれは、勤労や奉仕を美徳とする思想を生み、資本主義の土壌となったようです
欧州の騎士道と「ノブレス・オブリージュ」、日本の武士道と「卑怯を恥じる文化」
この二つは世界地図の端と端で生まれた世界史の生物学でいう収斂進化だと私は思っています
欧州のカソリックに対するプロテスタント、日本の公家社会に対する武家社会の対比が底流で似る
士農工商とは武家・封建社会の身分制度で、士が士の誇りを持つように商は商の誇りを持つ
江戸期の石田梅岩の心学思想は、欧州プロテスタントの労働・勤労を尊ぶ思想と重なろ
欧州のノブレス・オブリージュに似た「卑怯を恥じる文化」は武士の誇りという思想になります
その思想は階級其々に分相応の誇りを持って、その職に励めとなって行った様に思います
故に、元々日本人には義務感と自己犠牲という概念は大いにあったと思っています

> 従って、その一瞬の勝負の瞬間には、その闘いの事以外何も無いんです。決して何かの為などの意識など、入る筈が無いのです。
例え『相打ち』であろうと、敵を倒すことができれば、勝負としては、負けでは無く、むしろ勝ちなのですから。<
> つまり、その時、一人の武人として『一瞬の三昧境にあって、永遠の命を生きている』と云う事なのだと思います。したがって、其処には何の生死(仏教で云うところの迷い)は無いのです。<

戦う動機云々はともかく、戦いになった瞬間からは云われる通りだと私も思います

> しかし、問題なのは、その後の『特攻』です。
『これまで散っていった、多くの命を無駄にする気か。』などと如何にも官僚的な問題提起をして、多くの殆ど素人同然の若者達を、強制的な下知命令で持って、死に追いやったことです。<

特攻隊の多くは学徒出陣者でした、優秀な頭と分別能力を持っていました
そして世界の事情や歴史にも自分の考えを以って判断していたと思います
出撃した人々の遺書や手記を見ましたが、殆どは真っ当な考えの若者たちです
こんな若者を死なすのは惜しい、と思わずには居られないほどのものです
出撃者の殆どは日本の負けを意識していましたが、無駄死とは思っていなかったようです
分った風に云うと、「負けの勝ち」を取りに行ったように私には思えます(父の話の影響あり)

特攻を「強制的な下知命令で持って、死に追いやったことです」とは少々云い過ぎと思います
私の父親も学徒出陣組の回天特攻隊で、後の歴史哲学者・故上山春平氏と同隊でした
父から聞いた話は、特攻に志願してからでも申し出をすれば除隊が出来たということです
そして、除隊して他の部署に回った人は何人も居たということでした
ただ、後世の曲学阿世・阿諛追従の輩が好き勝手なことを最もげに云ったことの言害です
強制的に無駄死にをさせられたとは、特攻で死んで逝った人間への冒涜だと私は思います


以上、私の思いです



2015.08.07 黒蟻
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黒蟻(くろあり)、何の葉か分らない

先日、油虫が家の中をウロチョロするので取り箱・ゴキブリホイホイを置いた
我々の子供の頃は油虫(アブラムシ)と云い、ゴキブリとは云わなかった
最近はゴキブリ呼称がメジャーとなり、油虫呼称は死に言葉になったようだ
さて今朝、私が取り箱の蓋を開けて中のあり様に驚いた
五匹の油虫の死骸と共に、隅には四・五十匹の黒蟻の死骸が点々としていた
私の頭に、玉砕島で死んだ日本兵の死体と米兵の死体の姿が重なった

蟻は蜂の仲間でスズメバチ科に属し、スズメバチからみてもミツバチより近親だ
家の木を食い荒らす白蟻は蟻に非ず、油虫(ゴキブリ)の類に属しているとか
人家に仇為す害虫である白蟻の天敵は黒蟻である、黒蟻は人に害を及ばさない
人を噛む赤い小蟻とは違い、私は家の中をウロツク黒蟻は益虫として遇している
まま、可愛い掃除屋さんである
背中や横腹に登られるとこそばゆいが、手で払い落すだけで殺さないでいた

その黒蟻の大量死体を目の当たりにして、今朝は少々滅入った次第

Ki-45 tei
陸軍二式複座戦闘機(にしきふくざせんとうき)キ45改、愛称は屠龍(とりゅう)
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B29へ肉迫攻撃をする二式複戦「屠龍」、米軍撮影

今日の八時一五分は米軍B29機による広島原爆投下の日である
B29は日本の高射砲が届かない一万メートルを超える高々度を高速度で飛行
その為、B29への攻撃は日本軍戦闘機の瞬時の交差攻撃が唯一の方法であった
マリアナ諸島を進発したB29は富士山をめがけて飛来、大井川上空で東西に分れる
昭和二十年五月二十九日、原爆投下日の一週間前の日のことである
B29の大編隊が大井川中流域の上空を通過している時、事件は起こった。

午前九時頃空襲警報が発令され、「巨大な」B29が幾編隊も幾編隊も通り過ぎていた
午前十時頃、一機の日本軍機「屠龍」が現われB29の編隊に向け攻撃を行うのが見えた
そして、その「屠龍」は全速力で体当たり攻撃を敢行した。B29は空中分解しながら落下
「屠龍」も墜落していった、その後に落下傘が三個空中に舞ったが、一個は開かなかった
その様子を見上げていた人々は感激し、ある者は思わず「万歳!」と叫んだとか
その「屠龍」の体当たり攻撃とは、乗員の瞬時に下された判断であったろう

体当たり攻撃を行った日本機は、清洲飛行場(愛知県)を基地とする飛行第五戦隊の「屠龍」
午前八時頃基地を発進、哨戒中に大井川中流域上空B29の大編隊を発見して攻撃を行った
その「屠龍」の搭乗者は操縦士河田清治少尉(二十二歳)と後座・土山茂夫兵長(二十歳)
河田清治少尉は朝鮮人名を「慮龍患・ノ・ヨンウ 」という朝鮮半島出身の学徒出陣者である
京畿道で産まれ、仁川北商業学校から京城法学専門学校(現ソウル大学校法科大学)に入学
落下傘三個の中、開かなかった落下傘は河田少尉のものであった、開いた二つは米兵のもの

河田少尉(慮龍患・ノ・ヨンウ )の遺体は発見され荼毘に付され、遺骨は靖国神社に安置された
その遺骨は朝鮮の故郷・遺族の元には帰っていない、否、帰られないままなのである
朝鮮の「反日感情」の為せるもので、日本軍の協力者は「親日の売国者」とされるためである
私には「反日」「嫌韓」はどうあれ、河田少尉の義務感と自己犠牲の精神には尊崇の念を持つ
半島で愛する我が子「慮龍患」の帰りを待ったご両親の思いは幾何であったろうか
ご両親にとっては優秀な期待のご子息であったろうに、反日も親日も関係なく・・
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来客があり、薄茶の中にキリコ(あられ)をたっぷり入れて出した
橿原市の環濠集落であった中曾司の「振る舞い茶」を真似たのだ
古来から伝わる喫茶風習のひとつである、学者は「振り茶」と呼ぶ

またテレビの話になるが、例年になく今年は戦争関連の話が多いようだ
戦後七〇周年ということもあるのだろうが、少々気になる話もあった
日本軍の「特攻」とは「自爆テロ」と同じである云々という番組である
私は、これには驚いたというかアングリとしてしまった
分った風に得々と喋る進歩的知識人と云うか似非知識人たちのアホ顔
「靖国を参拝するのは当然」と云った朴クネ韓国大統領の妹が賢く見える

「テロリズム」の語源はフランス語のterrorisme、フランス革命での恐怖政治に由来
ラテン語のterreōから派生した語で「恐怖」を意味するとかである
直接の攻撃対象以外である大衆を操作・支配する目的で無差別に攻撃、あるいは
象徴的な人物を攻撃する手段で、強い道徳的・倫理的非難の対象となるもの
よって、ハルピン駅での安重根による伊藤博文射殺事件はテロである
イスラム系が行う「自爆テロ」とは、女子供を含む一般市民の殺害を実行することだ
日本軍の「特攻」は敵艦・敵軍への攻撃手段であり、非戦闘員の殺害は全くなかった
明解に云えば、「特攻」と「テロ」の違いは「卑怯を恥じる概念」の有無だと私は思う

然しではあるが、女性テロリストを見ていると感じることがある、「自己犠牲」である
もし、「特攻」と「自爆テロ」とに共通するものが有るとするなら「自己犠牲」であろう
更に然しではあるが、罪のない一般市民への無差別攻撃とは、殺人罪そのもの
そこが「特攻」との違いを明解にするところで、戦闘行為と殺人罪の根本的相違である
「大衆を操作・支配する目的で無差別に攻撃」がテロ行為なら、それは「原爆投下」

ただ、「特攻」の始まりの根底に「自己犠牲」があったのは事実である
大戦末期に「特攻」が始まる以前に、自発的な自爆攻撃が現場で行われることはあった
私が知る印象的というか感銘を受けた話がある、あのD型遺伝子のアンダマン諸島
昭和十九年四月十四日、アンダマンへ向かう陸軍輸送船「松川丸」の直掩機(護衛)
飛行第二六戦隊の一式戦闘機「隼」の操縦士・石川清雄曹長(十八歳)のことである

米海軍の潜水艦が発射した魚雷三本を発見、魚雷目掛け機銃掃射するが残る
「松川丸」に迫った魚雷を目掛け海面に突入、石川曹長は爆死するも魚雷爆破に成功
「松川丸」の乗員は目の前で見た石川曹長の義務感、自己犠牲精神に声を失ったとか
「松川丸」自身も、飢えに苦しむアンダマンの日本軍と住民へ決死の食糧運搬をしていた

七十年前の明日・八月六日の朝八時十五分、米軍は軍事施設の少ない広島に原爆を投下
死者は十四万人に及び、多くは女子供老人を含む一般の民間人であった
2015.08.04 現の証拠
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裏の神社の竹藪で見付けたゲンノショウコ(現の証拠)の花、フウロソウ科
生薬のひとつで和名は「実際に効く証拠」を意味、玄草ともいう
種子を飛散させた後で果柄を立てた様から神輿(ミコシ)グサとも呼ばれるとか

ゲンノショウコは、古くから下痢止めの妙薬とされる民間薬で古くの書に
「根苗ともに粉末にして一味用いて痢疾を療するに効あり、故にゲンノショウコと言う」
という記述があり、そのことから「現に良く効く証拠」が名の由来になったとか
優秀な整腸生薬であることから、イシャイラズ(医者いらず)の異名も持つ

女房殿は時代劇の大ファンであったが「水戸黄門」を最後にTVドラマ番組から消えた
その後はテレビ番組の多様化もありCSやBSで時代劇のビデオ版が流されている
女房殿に付き合って観ていると、女房殿の好みが見えて来た
一番が「暴れん坊将軍」、二番が「大岡越前」、三番が「剣客商売」である
そして女房殿の曰く、「悪者は、尾張藩と薩摩藩と北町奉行や、役者で分る」とか云々
まま、幸せというか単純というか、女房殿の思考回路は真空管が一本である

ある時、「遠山の金さん」を観ている女房殿に、私が「金さんは北町奉行やで」と云う
すると女房殿の曰く「加藤剛の方が松方弘樹より品格がある」とオヌカシ下さる
そんな中で気が付いたのは「証拠」、南町でも北町でも、お白砂の場で出る常套句
白砂の見せ場ば、「証拠・証拠とやかましい、では見せてやる」との奉行の台詞
で、私は「証拠」と云う言葉は江戸時代に使われたのかどうか気になり調べてみた

明治の日本で西洋文献の和語化が行われた時のものかと思っていたが違った
江戸カルタにあったのである、それが「論より証拠」である、つまり「現の証拠」
要は、江戸者社会は証拠好き、証拠がなければ何をやっても良い・・?
ついでに云うと、大阪カルタと京カルタの「ろ」では
大阪カルタが「六十の三つ子 」、京カルタが「論語読みの論語知らず 」である

「六十の三つ子」とは、還暦を過ぎると子供に還っていくという話らしい
京者の「論語読みの論語知らず 」、京都の坊主は「弄言振りまく破戒僧」か
では、ここ奈良の「ろ」のカルタ・・、「浪漫満つる奈良大和路」
この私が「現の証拠」(^^)



2015.08.01 悪夢の寝覚め
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木槿の枝にへくそ葛(かずら)が絡まっている、何か気が悪い

昨夜、暑さの所為で中々寝付けないでいた
私はあまり冷房が好きでないが、女房殿が除湿にすると心地良いというので付けた
ついでにタブレットの地上テレビをつけるとロードショウで「永遠の0」を放映していた
見るともなく付けていたが、結局最後の突入場面まで観てしまった
風呂で水浴びをしてから空調を消し、窓を開けて夜風を入れて床に就いた
ウトウトしながら何時しか眠りに入ったようだったが、これが悪い夢見となった

どういう訳か、大きな寺で私が唐突に献茶の場面で居るのであった
それも正客の住職を始め、当流の宗家やソコソコの面々が着座されている
点前座に就くと、何と風炉の炭に火が付いていないので慌てて火を熾しに行く
花入に花が入っていないので花を探しに行く、菓子が出ていない云々の声が聞える
手伝いの衆が来てはいるが、素知らぬ顔で他の用事らしきことをしていて反応が無い
今更云うても詮無いと腹を据え、水のままの釜で茶を点てようとする私が居た
すると、住職が何やら中傷めいた小言云ったようで、当流の宗家も相槌を打っている

くそー、何でこうなるの、何で私がこんなハメになるのかと焦ったところで目が覚めた
何とも寝覚めが悪かった、「永遠の0」が敵空母へ垂直降下しながら終わったこと
加えて、呉坐禅道場で参禅する老師との会話が噛み合わず気が悪かったことも蘇った
まだ寝ている愛犬「ハナ」を起し散歩に出掛け、帰宅後に朝飯にしようと女房殿を起す
炊飯器の釜を開けると飯が一人分しかない、飯を女房殿に渡し、私はビールにした
テレビを付けると土曜日で常の番組が無い、BSにして見ていると映画が始まった

藤子不二雄原作の「少年時代」、戦争中の疎開先での想い出を映す物語である
昭和六十年頃の公開作品で、私には観た記憶があったが女房殿は初めて観るという
それなりに出来た物語であり、子供や先生の服装や木造校舎、水田の牛が懐かしい
最後の場面では井上陽水の歌が流れ、青空が広がった
漸く、悪夢の寝覚めから解き放された

https://www.youtube.com/watch?v=Y1z4so1VBRI