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今年も立派に花開いたお隣の「桜草」、町内には桜草の甘い香りが漂う
毎年お隣から近隣に桜草の苗が配られ、この時期の町内は桜草街となる

五代友康、三木武吉の話から大久保利通のことが思い起こされた
大久保の暗殺事件後に分ったのは彼の八千円(今の三億円弱)の借金である
大久保はその半年前に鹿児島県に学校設立費として八千円を寄付している
西南戦争後一年間の話、大久保への貸主は同じ薩摩藩士の借金王・五代
西郷の「子孫に美田を残さず」と云った政治理念と共通したものであろう

私が師事した流通業の恩師から教えられた話が思い起こされる
売り上げをつくる、利益を出す、そのことの上手な経営者は名を上げる
然し、多くの収益を上げる経営者は人から注目されても人の尊敬は受けない
経営者の心、その人の真の姿は金の集め方より使い方で見えるという
集めた金の配分、使い方にその経営者の経営理念が表われるということ
その恩師の話は経営者にも政治家にも云える話だと私は思っている
田中角栄も金の集め方と使い方の上手さで、天才的な政治家であったろう

次に女の話
五十年近く前になるが、大阪ミナミのクラブの姐さんの話である
当時の夜の世界の姐さんとは「場所借りの自営業」というものであった
贔屓の客が店に来てくれると売り上げの何割かが姐さんに還る仕組みだが
自分の贔屓客がツケで飲むと、その保証は姐さんがするということになる
一人の姐さんが店を替わるということは、その贔屓客も一緒に店を替えた
よって、店と姐さん方とは雇用契約というより商取引契約に近いものであった

ある時、珍しく一人で寿司を食べに来た顔見知りの姐さんが云うた話
「なぁ、いーちゃん(井谷)、男は金やで、金が無い男は首が無いのと一緒」
「女に惚れたらアカン、男は女に惚れられてナンボやで、分るか、いーちゃん」
私は、その姐さんの支払いに白紙の小切手を渡す贔屓客を何人か知っていた
大阪商人の「信用払い」という古き良き商習慣が残っていた頃の話である

姐さんは酒のお替りをしながら、ぽっつりと云った、「あの人の会社、潰れてん」
贔屓客の借金はその姐さんが持つことになるが、姐さんの話に恨み節はない
その贔屓客の会社や顔見知りの奥さんと子供のことに思いを馳せている
私は思った、男は玄人女にモテてこそ男、自分もそうありたい、と
素人にも玄人にも持てないままに今に至っている私であるが、思いは残る

何の勘違いがあったのか私の嫁になった女房殿、私は聞いたことがある
奈良と東京を行き来していた頃の話、「向うで世話をしてくれる女を作ってもエエか」
女房殿応えて曰く、「女房心配するほど、亭主モテもせずと云うやろ」
続けて曰く、「一人だけはアカン、複数やったらエエわ、そんな甲斐性ある?」
その時に思ったのが、前の記事・三木武吉の逸話であった
改めて三木に畏敬の念を持つところ


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無題
多くのワニに見つめられながら湾岸に降下する落下傘、降下者の気持ちや如何
こんな事態になった責任はどこにあるのか、だれの責任か、と云うても詮無いこと

甘利明経済再生相が地元事務所の金銭授受疑惑の責任をとり閣僚辞任とか
金と女に関する政治家への責任追及は、国政の重要課題より大きく取り上げられる
この金と女のことで責任を問われた政治家として、三木武吉の話がおもしろい
今の自由民主党を作り上げ、政界の寝業師とも呼ばれ、中学校は二校で退学になった好漢
先ず、その三木武吉の「金」に対する責任追及と三木の回答とは

>「名前は言わないが、某候補は家賃を2年分も払っていない。米屋にも、1年以上ためている。
このような男が、国家の選良として、議政壇上で、国政を議することができるでありましょうか。
某候補のごときは、いさぎよく立候補を辞退すべきものと、と演壇場で三木を批判した。
すると三木は次の演説会場で、
「某候補がしきりと、借金のあるものが立候補しているのはけしからんと、攻撃しているそうだが、
その借金がある某候補とは、かく言う不肖この三木武吉であります。
三木は貧乏ですから、借金があります。
米屋といわれたが、それは山吹町の山下米屋であります。
1年以上借金をためているといわれたがそれは間違いで、
じつは2年以上もたまっております。家賃もためているのは2年以上ではない。
正確にいいますれば、3年以上も支払いを待ってもらっておるわけです。
間違いはここに正しておきます」と反論し、
会場は拍手と爆笑に包まれ、「えらいぞ、借金王」と野次が飛んだ。
その会場には、三木の大家や借金先の山下米店の主人山下辰次郎も来ており、
その後、三木に促されて両者とも立ち上がった。
その時山下が「私は米屋の山下です。
どうか皆さん、三木先生をご支援願います」と述べ、
すっかり参った坪谷はそれ以来三木の借金の話をしなくなった。<

次に女関係に対する責任追及への三木の回答

>「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。
かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と相手候補の福家から批判された。
ところが、次に演壇に立った三木は
「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、
不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、
先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。
正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。
私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。
5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。
1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、
役には立ちませぬ。
が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」
と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。
「およそ大政治家たらんものはだ、いっぺんに数人の女をだ、喧嘩もさせず嫉妬もさせずにだ、
操っていくぐらい腕がなくてはならん」
と、男っぷり溢れる発言をしたり、松竹梅といわれた3人の妾を囲ったりした。
(ちなみにこれは、愛人のランクではなく、実際に名前が松子、竹子、梅子だった)
松子には神楽坂で待合茶屋を持たせた。晩年も精力に衰えはなく、
72歳で亡くなるときも愛人が5人いたという。
その一方で愛妻家でもあり「本当に愛情を持ち続けているのは、やはり女房のかね子だ。
ほかの女は好きになった…というだけだ」と述べている。
妾たちもかね子を別扱いにして、世話をしていた。<

三木武吉は昭和三十一年に七十二歳で没した、今の私も近い年齢である
まだまだ私は金と女に修業が足らんと、自戒する今日この頃

2016.01.27 手前みそ
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卒塾者の手作り味噌、金山寺味噌と麹味噌の中間味である

日本の味噌の原型は歴史が古く、弥生時代だとする説がある
日本では縄文時代から製塩が行われ、塩蔵食品が作られていた
縄文時代後期から弥生時代の遺跡に穀物を塩蔵した跡があるという
古墳時代からは塩蔵食品に麹発酵の技術を加えたものとなった

塩蔵食品とは醤「ひしお」であり、現在の味噌の起源に連なる
奈良時代の文献に「未醤」(みさう・みしょう)と呼ばれた食品の記録がある
まだ豆の粒が残っている醤という意味だが、味噌の原型であろう
近年は味噌を家で作るの珍しくなったが、かつては多くの家で自作されていた
中世には、自作の味噌を自分で自慢する「手前みそ」という表現が生まれた

ヤマサ醤油の話では、醤油の元となるものが作られたのは鎌倉時代とか
作った人は紀州由良の興国寺の僧であった心地覚心だという
覚心が金山寺味噌の製法を紀州湯浅の村民に教えた時の話である
仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油
それが日本の醤油の原型だとしている

この話を聞き、卒塾者の台所には「自作のたまり醤油」があると私は睨んでいる
まま、菓子作りや味噌作りに列車旅行と、人生を楽しまれているご夫婦である
2016.01.25 茶事の流れ
昨日は、私の弟弟子が経営する割烹料理店「鬼楽」で茶事の流れの総まとめの稽古
茶事の流れは、会席一時茶席一時の合せて二時、つまり四時間程度のことである
炉の炭を直す点前から開始、写真は胴炭を据えているところ、炭箸を取り忘れている
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炭を直して鷲の羽箒で畳を掃く、棚には早くも濃茶が置かれている(段取り良過ぎ)
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冬期、つまり炉の時期は炭の後に会席、夏の風炉期は先に会席で後に炭
この日は今季一番の寒気到来、先に炭を直してから配膳、奥方衆も客として参加
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茶事稽古を何と心得るのか、塾生は盃だけでなく湯飲み茶碗と一升瓶を持ち込んでいる
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当流の茶事は一汁二菜が基本、飯椀と汁椀に向う皿の魚が配膳された後に煮物が出る
会席の中心料理、つまり洋食で云うメインディッシュは煮物である
一汁三菜というと更に焼物が出る、料理は魚菜が普通だが昔は鶴や雉・雁も出たようだ
他流では強肴(しいざかな・酒のおかず)、精進物という菜の和え物、ツボという小鉢も出る
私は三菜より二菜、本来は素うどん一杯の茶事が好ましいと思っている

焼き物の後は箸の汚れを落す箸洗いという小吸物が出され会席は略終了
後は酒席になる、酒器と取り肴、他流でいう八寸が出る、つまり酒とツマミである
取り肴は山と海の乾き物ニ種とするが、鬼楽の主人はフキに伊勢エビと奮発
(後日、フキではなく「ちしゃとう・萵苣塔」ですと、鬼楽から訂正が入った
京懐石なんかで使う野菜だと云う、私は食べなかったのが悔やまれた・・)

当流の会席では酒は三献までとしているが、この日は他流に習い「千鳥の盃」をした
亭主が客の個々と盃を酌み交わして回るもので、酒好きの作法というか邪道である
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「十分頂戴したので湯を所望」と客が云うと、亭主は焦げ飯を煮た湯と香の物を出す
客はその湯と香の物で器の汚れを取り、当初出された膳の形にして置く
それまでに使った飯器や酒器、皿類は給仕口に並べて置いておく
正客の「では」の言葉で客は一斉に箸を落す、その音を聞いて亭主が膳を引きに出る
最後に手作りの主菓子が縁高で出され会席は終了
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茶席に改める間を客は外で待つ、用意が出来ると鳴り物、昼は銅鑼、夜は半鐘を鳴らす
この日は鳴り物を忘れ急遽店の鍋の蓋を拝借、猿のタンバリン玩具の如くとなった
(記事を掲載した日に、それはタンバリンでなくシンバルでしょう、という指摘があった)
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茶席は、奥方衆の前で風炉点前、男衆の前は炉点前とした
この写真は風炉の濃茶で茶入を拭うところ、後ろの釜鐶が目ざわり
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炉の薄茶は当流の好みの薄茶器「宇治山」を使用
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薄茶では「濃茶生落雁」という金沢の菓子を出した、宗偏流の茶友から頂いたもの
こうして、茶事の流れを習得する稽古は終えた、塾生は立派な茶人と化した
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2016.01.23 五代死す
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ご近所のロウバイ(蝋梅)、別名カラウメ(唐梅)、クスノキ目・ロウバイ科、
名前に梅がついているためバラ科サクラ属と誤解されやすいが、別属である
唐の国から来たこともあり唐梅(カラウメ)とも呼ばれるロウバイは晩冬の季語

NHK朝ドラ「あさが来た」では、五代友厚の死が伝えられた
死因が「糖尿病」と聞いたので、同病の私は気になり調べてみた
実話では死没明治十八年(1885年)九月二十五日(満四十九歳没)
尊敬する郷里の先輩大久保利通(明治十一年に満四十七歳で暗殺)とは六つ違い
気の合った坂本龍馬とは同じ歳、長崎海軍伝習所では勝海舟と共に学んだとか
薩英戦争では五代の乗る藩船が英海軍に拿捕され、捕虜となっている

日本初の英国留学へも当時のエリートたち十六名の一人として派遣されている
まま、結構な人脈に恵まれ、官吏を辞した後も「政商」と云われたとある
大久保や木戸孝允、板垣退助が進めていた「大阪遷都」の実現に夢を描いたとされる
四十代で死ぬ五代の大阪での遺業を見て驚いた、

英和辞書を刊行、金銀分析所を設立、紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)
そして、製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力し、後は大阪の基盤づくりを行う
大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した
若干四十九歳で亡くなった男の仕事である、今の私から見れば感服としか云いようがない

しかしながら、自分の蓄財はせず、死んだ時の借金は百万円を数えたとか
同郷の西郷・大久保も蓄財がなかった、この辺り、薩摩の郷中教育であろうか
当時の百万円とはどれぐらいのものか、物価から類推すればどれぐらい巨額か分る
借金も男の信用、甲斐性の内というのも良く分る
因みに、明治38年頃と平成12年頃の物価比較があったので掲載

食べ物 たまご(1個) 2銭4厘 18円 750倍
白米(10Kg) 1円19銭 4,934円 4,100倍
カレーライス 6銭 656円 11,000倍
そば(もり、かけ) 2銭 443円 22,000倍
高等国家公務員の初任給 50円 18万円 3,600倍
大銀行の初任給(大卒) 35円 18万円 5,100倍
小学校の先生の初任給 10~13円 20万円 15,000~20,000倍
大工さんの手間賃(1日) 85銭 18,940円 22,000倍
サービス 国鉄初乗り料金 5銭 130円 2,600倍
はがき 1銭5厘 50円 3,333倍
映画館入場料 20銭 1,800円 9,000倍
理髪代 15銭 3,612円 24,000倍

それにしても、高等国家公務員の優遇ぶりはすごい、教師の五倍である
かけそば、大工手間賃、理髪代の物価上昇率が高いのは時代事情を示している
つまり、明治は人件費が安い時代であったということだ
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沖縄・宮古島の海岸で気絶(仮死状態)している魚たち

沖縄では気温が摂氏十四度を下回ると魚が気絶するという
今日のネットニュースに取り上げられていた話で、この写真が載せられていた
笑い話に「犬の気絶」、即ち「ワンパターン」というのがあったが「魚の気絶」
沖縄の魚は気温十四度を下回ると気絶して浜に打ち上げられるとは知らなかった
犬猫や人に拾われると食べられ、海水に戻ると蘇生するというのが運命の分かれ目

この話を聞いて、私は逆に「茹でガエル」の話を思い起した
熱い湯の中にカエルを放り込むと、カエルは慌てて湯から飛び出すのだが
水から入れて煮ると、熱湯になりかけてもそのまま出ることが出来ず、茹で上がる
逆に沖縄の魚は温暖な海水に慣れて、寒気(タカが十三・四度)に触れると気絶する
今の環境に慣れ親しみ、それが何時までも続くと思っていると、突如の変化に耐えられない
人間個人も組織も、そして国家も同じ話であろうと、沖縄の魚の気絶話で思った次第

話が替わるが、魚の締め方と人の締め方の違い
魚の締め方は、その身の味を保つための技術である
跳ねまわる獲り立ての魚を気絶させ、血を抜き冷水に浸けて保管するもの
人の締め方は、その戦闘能力を奪うための技術(裸締め、送襟締め、三角締め)
暴れる相手の首(頸動脈)を締めて落とす、気絶させて殺すのがそもそもの術
稽古では落ちた相手の胸腹を押え、背中に膝蹴り(活・かつ)入れる蘇生させる
まま、落ちた相手の頭から冷水を掛けると大概は目を開ける

ともかく、「茹でガエル」や沖縄の「気絶温暖魚」の感覚にならないように
日々の感覚練磨に心掛け度、・・私には無理であるが




2016.01.21 耳付き
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伊賀古窯の耳付花入、桃山から江戸初期の作、国立博物館所蔵

伊賀焼はもと農業のかたわら粗雑な農具を焼くのに始まったもの
室町末期、茶の湯が盛んになって伊賀・信楽の種壷・種浸壷が 花入・水指に転用された
これに茶器転用の妙味に促され、 陶業は農夫の手を離れ技巧的あるいは職業的に転化
筒井定次が伊賀国主に任ぜられると、古伊賀の真髄を具えた雅致ある作品を出した
世間でいう筒井伊賀である、 次いで藤堂伊賀、遠州伊賀という作陶がなされた

今朝のNHK朝ドラ「あさが来た」にエエ台詞(セリフ)があった
「これまでは命令する力が必要、これからは聞く力が求められる」
確かに、時代の先が見えない激変と創造の時は「命令する力」が求められた
しかし、時代が治まり形が見えてくると「聞く力」が求められるようになる
人の年代に重ねると、還暦過ぎたら「聞く力」が付くかどうかが人生の分かれ目
世に云う「六十而耳順」、耳従うという話もこの辺りを云うのであろう
この「耳付の古伊賀花入」の味わい、当にその姿ではなかろうかと思った次第

最近、私の「耳鳴り」が酷くなって来ている
昨年、大阪の日赤病院で診察を受けたが、その広大医学部出身の主治医曰く
「耳鳴りは今の医学で治らない、薬は有るが気休めです、私の家族なら飲ませない」
我が上田宗箇流宗家の近辺に実家があるという主治医、「妙に親切」であった
私は「ほんなら、エエわ、飲まんでおく」と答えた

正月明けが三か月ぶりの診断日で病院へ行くと、主治医が替わり女医はんになっていた
前の主治医は転勤したという、その女医は三か月分の薬ニ種を袋一杯に呉れた
前の主治医は嬉しいことに、時々このブログを覗いていると云いなさっていた
この記事を耳に、否、目にされるかな
2016.01.20 給食・喫食去
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ウメ(梅)、学名:Prunus mume、英:Japanese apricot、バラ科サクラ属

先の稽古日に卒塾者が持って来られた梅の枝、花が開いた
昨夜から風が強く、外の体感温度もこの冬最低とかいう天気予報
「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
菅原道真の云う東風とは和らかい風であろう、今日の風では花は縮込む
紀南農業高校、今の和歌山県立南部高校の園芸科で作られた南高梅
梅そのものより、梅干として全国的に有名である、事実、大きくて旨い

梅干むすび、或いは日の丸弁当という飯に梅干一個は昼飯の定番だった
しかし、昔にはそんな弁当も持って来られない児童、欠食児童が居た
私の小学校低学年の吉野では、昼飯時間になると教室を出る子が二・三人居た
家に帰って食べると云うが家は遠いハズだった、皆も知っていた、欠食である

当時は、吉野の小学校でも「給食」が始まり出した頃である
給食と云っても、何人かの母親が当番制で芋入り味噌汁を作るだけのもの
完全給食とはならず、皆は自分の弁当箱の蓋に味噌汁を注いでもらっていた
母親達にも欠食児童のことが分っていたのか、それとも教師の思いからか
「家に帰る」と云う児童に、調理室で芋が多めに入った味噌汁を食べさしていた

明治二十二年、山形県鶴岡町の私立忠愛小学校でおむすびと漬物を出した
欠食の貧困児童を対象にしたもので、これが我が国の学校給食の起源とされる
学校の経営は僧侶、まま寺小屋の名残りということであったろう
そして、広がり始めた給食も戦争中の食糧難で中断、欠食児童が復活
昭和二十二年の今日、一月二十日がララ物資の学校給食が始まった日である
ララ物資とは米国から戦争被災国へ送った救援物資で、当初は欧州向けであった
それを米国の日系人が主体となり日本向けに送ったことで、給食の食糧となった

始まった当初は全国主要都市の300ヶ所で、吉野の山中にはその恩恵が無かった
私が四年生で奈良の小学校に転校して、一番驚いたのは「給食」であった
コッペパンにカレースープ、そしてミルク(脱脂粉乳)が出された、私は唖然
皆が教室で一緒に食べている、欠食者は居ないが給食費未納という言葉も知った
給食の対語は喫食である、喫食と摂食とは意味合いが違うそうな
喫食とは食を楽しむこと、摂食とは生きるための食で欠食の対語となろう

今にして思えば、欠食児童も辛かったろうが、その親も辛く切なかったろう
この地球上にはまだまだ欠食児童が居る、そのこと重々知っておき度

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日章旗を振る台湾原住民・高砂族の女性、恐らく高砂義勇隊を送った情景であろう

ここ四・五日のこと、阪神大震災と台湾選挙の報道が多かった
その台湾の選挙のことを耳にしながら、私には少々胸に蘇ることがあった
台湾の選挙は本省人の民進党と外省人の国民党との抗争というのが大方の見方
ざっくりした数字では、日本統治時代から台湾に住む本省人の漢人が84%
二次大戦後の支那の内戦で、蒋介石軍と台湾に入った外省人の漢人が14%

漢人初の民主主義国家・台湾の選挙になれば民進党が圧勝して当然だが
前回選挙も国民党が勝利した、これは「省籍矛盾」といわれるのが要因
つまり、人口比とは逆に政財界は外省人が支配的で、民意も権力に尾を振る
今回、民進党がやっと過半数を得て勝利とは、本省人の体たらくとも云える
まま、所詮は漢族同士、それはさて置き、表に出ない人達の話に私の気が行く

人口比2%の台湾原住民の話である、先住民とは云わない、原住民である
沖縄の翁長知事は沖縄の人を沖縄先住民と云ったが用語間違いである
先住民とは、かつてその地に居て今は居ない、或いは滅んだ民族のこと
原住民とは、元々からその地に居て、今もその地で暮らしている民族のこと
台湾の原住民は約五十万、台湾人口の2%で台湾では「山の人」と呼ばれる
日本統治時代は「高砂族」と呼ばれていた人達の話が思いに深い

私は高砂族の住む土地を二度ほど訪問をした
一度目は三十歳の頃の一人旅である、知り合いの本省人の父君に案内された
台湾南部の都市・高雄から車で東海岸の台東まで行き、一泊して山地に入った
高砂人部落の周りは遠巻きに政府軍の駐屯場が配置され、監視状態にあった
部落の中に入ると、家々から此方を伺う様な眼差しが送られていた
私が日本人と分かると、おばあさんから日本語で話しかけられたのが印象に残る
幾つかの家の男性は外省人であった、蒋介石軍の元兵士が婿入りしていたのだ

二度目は四十歳の頃、女房殿と二人で台湾中央部の避暑地に行った時である
そこは「日月潭」、昭和天皇が夜に咲く花を見られて「月下美人」と名付けた場所とか
昭和五年に「霧社事件」で日本人と高砂族に多くの死者を出した地区でもある
我々が行った時には、半ば観光地として高砂族の民家や風俗が公開されていた
女房殿は、そこの原産という石「猫目石・キャッツアイ」が気に入り土産に買った

高砂族の男は、先の大戦で日本軍の徴用に応じ、軍属として南方戦線に出て行った
身体能力があり、勇猛果敢で信義と忠誠を尊ぶ彼等の働きは敵味方から賞賛された
そのことを語る当時の映像「高砂義勇隊」、一見の価値がある
我々日本人は、彼等台湾原住民・高砂族のことを記憶に留めておかねばと私は思う

https://www.youtube.com/watch?v=hKpVDy6os9Q

実はこの高砂族、漢族や東アジアの人達とは違うY染色体遺伝子を持つ
そして、地球上で世界一の版図を広げたマレー民族の元祖でもある
フィリピン・マレー半島からインドネシア、マダガスカル島からポリネシア諸島までの版図だ
フィリピンやインドネシアのジャングル戦で活躍し、日本軍を助けたのも頷ける
十種競技で世界記録を樹立した楊 伝広は高砂族、蔡英文女子の祖母も高砂族である
2016.01.16 人生決算
無題
武野紹鷗好みの棚で、紹鴎棚あるいは紹鴎袋棚という
宗家の初釜では濃茶席が紹鴎棚、薄茶席が志野棚であった

村田珠光の弟子で堺の豪商・鳥居引拙が使用した水指棚は「引拙棚」と呼ばれた
のちに武野紹鴎がこれを改良して袋棚を作った、檜材の春慶塗に襖戸が付く
左戸には柄杓と蓋置、右戸には砂張(サハリ・胡銅)の平水差しが入る
紹鴎は珠光を慕っていたというから、引拙は紹鴎の兄弟子、即ち先輩となる

宗家の初釜では、大学の先輩宅というか、仲人宅に一泊した
先輩宅は宗家の屋敷まで歩いて一分という距離のため、毎々お世話になる
先輩の今は亡きご両親は私達夫婦の仲人でもあり、云わば親戚宅の感覚である
私が上田宗箇流の茶に入ったのは、先輩の母君の勧めによるものだった
「あなた方の様な人達は、お茶でも身に付けると少しはマシになる」と云われ
「私の知り合いが武家茶の宗家だから連れて行く、町のお師匠さんでは無理だから」
先輩の母君と上田流の先代宗家の妹君、即ち今の宗家の母君とは女学校の同窓とか
云われるまま四十年余り続けることになったが、先輩はすぐ逃げ出してしまった・・

その先輩とアレコレの話もあり、久しぶりに夜中の二時半まで語り合った
学生時代のこと、世の中に出てからの自分達や仲間、仕事のこと、家族のこと
更には、今の世情や世界観、人生観や歴史観ということまでヤヤ真面目に話した
三十にして立つことは立った、惑いながらの四十、天命の分らぬ五十も過ぎた
六十にしても耳従わず、七十にして何とした、ただ光陰矢の如しと知ったのみ云々
夜半、急速湯沸かしでジャスミン茶を入れ、珍しく真面な話に時を過ごした

二人が頷き合ったことは、自分の人生は自分で評価するするしかない
名を残す、事を残す、金を残す云々は、そんなに大したこととは思わない
残すのは子供で充分で、死ぬその時、死を迎える時に何を思うかが全て
この歳になると、一応の人生決算は自分自身でそれなりにしている
しかし、これからは毎年の決算が必要になる、つまり何時でも死ねるように
身辺や世の中のアレコレ、人との交わりと因縁、残して来たもの、置き忘れたもの
貸借対照表と損益計算書というより、受けた恩と借りた義理と我がの貸借対照
そして、何らかの益を少しだけ残したいが、その益は何かという話になった

朝、目が覚めると、先輩は保温カップにコーヒーを入れて持って来てくれた
二人でコーヒーを飲みながら、嫌味と悪口を云い合う元の二人に戻っていた
まま、人生
虹は消えぬうち、花は散らぬうち、恋は冷めぬうち

2016.01.14 夢枕の樺太犬
無題
生きていた南極・昭和基地の樺太犬、タロとジロ

今朝の産経抄を読み、ビックリ・ポン、偶然に驚いてしまった
五十七年前の今日、一月十四日が南極昭和基地でタロとジロが発見された日だと知った
昭和三十二年、日本の南極第一次越冬隊に犬橇(そり)をひくために樺太犬二十二頭が同行
隊は越冬に失敗、犬達は一ヵ月分の食料を与えられ、基地に繋がれたまま置き去りにされた
一年後、越冬隊が昭和基地へ戻ってきた時、生き延びていたのはタロとジロの二頭だけだった
タロとジロは一躍有名になり、後に映画『南極物語』にも取り上げられた

驚いたのは、昨夜の私の夢枕に樺太犬が出て来たこと、当然ながらタロとジロも居た
この九日から十二日まで広島の宗家で初釜が開催され、私も十一日と十二日は広島に滞在
他流派の私の茶友が、其々に茶人を連れられ全国各地から来て頂くのでお待ちしたのである
十一日の夜は、伊勢と九州の十人程を当流のお弟子が経営する広島料理の店に案内した
牡蠣(カキ)とアナゴが主体となるのが一般的広島料理、堪能してもらったと思ったが
九州から来られていた女性が多く残されいるので聞くと、「私、牡蠣が苦手で」・・

料理はままとして、その流派の総師範と子供の頃の雪遊び、竹橇(そり)に話の花が開いた
その九州の女性が雪遊びは殆ど知らないと云うことから、話が始まったのである
私と総師範は同年代なので話が共通し、竹橇(そり)作りが「茶杓」と同じだとか云々
水に浸けた竹をカンテキ(七輪)の火で炙って曲げ、紐で固める云々である
その時の私は、二つに割って先の一方曲げた竹にミカン箱を載せた竹橇を想い出していた
当時の飼い犬、紀州犬・クマの首輪と胸に紐を付け、竹橇を引かせて遊んだものであった

その話が頭に残っていたのであろう、昨夜の寝枕には犬橇を引く樺太犬達が立った(四足で)
北方の日本人の暮らしを支え続けて来た樺太犬は、昭和四十年代に絶滅、もう居ない
日本人と共に生きた自分達を忘れないでほしいと夢枕に立ったのであろう
それも、偶然というか、タロとジロの発見日という記念すべき日の前夜にである
極寒の地へ連れていかれながらも人を信頼し、そして繋がれたまま置き去りにされた樺太犬
私は樺太犬のことを思うと切ない気分になる、その樺太犬のことを記す

樺太犬(からふとけん、英: Sakhalin Husky)は、樺太および千島列島で作り出された犬種である。アイヌ・ニブフなどの北方の民族が犬ゾリ・猟犬に使っていた(いる)犬種。
1910年から1912年の白瀬矗を隊長とする南極探検隊に同行し犬ぞり用の犬として活躍し、戦後の南極地域観測隊第一次越冬隊でも犬ぞり用の犬として採用されたこととでも有名。下記のタロとジロのエピソードにより有名な犬種。北海道では昭和40年代くらいまで、車や機械にとって替わられるまで漁業、木材の運搬、電報配達、行商などに使役犬として働いていた。
車社会の到来とともに使役犬として必要のなくなった樺太犬は他犬種と混血して雑種化したり、野に放されたものはちょうどエキノコックスの発生とも時期が重なって野犬掃討にあうなどして、1970年代頃にはほぼ絶滅してしまった。

(昭和三十年代の樺太犬の特徴)
大きさ:中型〜大型犬
体長:64〜76cm
体高:54〜67cm
体重:22〜45kg
性格:稟性はなく従順で融和性をもつ。忍耐強くて勇敢。忠実。優れた方位感覚や帰家性をもつ。
毛質:密毛におおわれ、体毛の長短によって長毛種と短毛種がある。北海道に渡った樺太犬は長毛種が多い。
毛色:黒、白黒ブチ、狼灰色、茶、薄茶、白など。

耳は立ち耳。たれ耳のものもいた。尾は巻き尾と差し尾。体高に比して体長が長い。胸部がよく発達して幅が広く四肢もよく発達し前肢は特に太い。 耐久力に優れ耐寒性も強く、粗食に耐え、飼い主に忠実。


もう、この地球上に居ない樺太犬という種族の冥福を祈り度
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結び柳を垂らし青竹の径元、根締めに二月堂の椿「のりこぼし」を挿した

根締めには縁起の良いとされる椿・千両・万両・松・南天・水仙等を活ける
当流では紅白の椿を併せて挿すが、無いので紅白の紐を括って場をしのいだ
そうすると昨日、卒塾者の方が庭の椿「のりこぼし」を持参された
私はそれを見てホクソエム、「これで紅白の椿が一枝になった」と挿した

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赤膚焼の「猿香合」、今年の干支香合である

干支香合は、初釜と納め釜には使うのが習わし
この猿香合は赤膚焼窯元の塾生が焼き、一刀彫の職人が絵付けしたもの
赤膚焼は、春日大社の土器を焼くのがその起こりとされ奈良の伝統工芸
一刀彫も、鎌倉時代に春日若宮祭で木偶を飾ったのが始まりとされる
当流の宗家へ猿香合一合送ったとの由、宗家の奥方は奈良春日大社の出
まま縁ある話である

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志野棚で大福茶を点てる塾生、地袋の蓋を閉め忘れている

志野棚とは、元は香道具を飾るために桑で作った香棚であった
それを利休が桐木地で好んだということで、千流では「利休袋棚」という
大福茶とは、「王服茶」あるいは「皇服茶」とも云われている正月の茶である
薄茶に山椒をまぶした黒豆と小梅を入れて喫し、その年の福を願うもの

平安時代に、京の都に悪疫が流行した時の話である
空也上人が、自ら刻んだ十一面観音像に青竹を八葉の蓮片に割ってお茶を立てた
中に梅干と結昆布を入れて仏前に献じ、人々にそのお茶を飲ませて病魔を払ったとか
時の村上天皇も、このお茶で病気を快癒したと伝えられ、王服茶とも呼ばれています
天皇が服した茶、即ち王(皇)、服、茶、京都の下手な駄洒落とも云える茶である
当流では昆布の替りに山椒付黒豆を入れる、理由は忘れた
明日は広島の宗家の初釜に出掛けるので、黒豆のことをコッソリ聞き直そう

2016.01.09 花びら餅
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菱葩餅(ひしはなびらもち)、通称「花びら餅」

ごぼうと白味噌餡とピンク色の餅を、餅もしくは求肥で包んだ和菓子である
平安時代の新年行事「歯固めの儀式」を簡略化したもので、宮中のおせち料理の一つ
写真は奈良の菓子屋を継いだ息子さんの作、先代は去年三月に亡くなった私の茶友

京都の菓子屋の能書きでは
>餅の上に赤い菱餅を敷き、その上に猪肉や大根、鮎の塩漬け、瓜などをのせるたもの
簡略化され、餅の中に食品を包んだもの(宮中雑煮とよばれた)を、公家に配った
さらには鮎はごぼうに、雑煮は餅と味噌餡でかたどったものとなった
当初はごぼうが2本であったが、現在では1本のものが主流である
明治時代に裏千家家元十一世玄々斎が初釜のお菓子として使った
以後、全国の菓子屋で作られるようになった<
と、ある

確かに、今では初釜の菓子として有名になり、使う流派も多いようだ
上田宗箇流の初釜の菓子は「干し柿」であったが、今は薄桃色の和菓子
武家茶と云えども弟子の大多数は女性、武骨な伝統は薄れつつある
私は、初釜を兼ねた今年の大福茶稽古で「花びら餅」を用意した
つまり、[世間にはこんな初釜の菓子もある」、と見せる話である
同時に、私個人としては亡くなった菓子屋の茶友を偲ぶ話


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五つ珠の算盤(そろばん)、NHK朝ドラ「朝が来た」でよく出て来る

算盤の起源はハッキリしないというか、世界各地に似た物があったらしい
写真の五つ球は「東アジア式算盤」で、今の四つ珠は「日本式算盤」だそうな
英語でも「soroban ないし Japanese abacus」と呼ばれているという
電卓やPCの普及で算盤が廃れたといわれるが、最近は復活していると聞く
カシオ計算機の樫尾俊雄は「算盤は神経。されど計算機は技術なり」と云ったとか

算盤は数字を表す計算補助具、その数字を表す文字は世界に多く有る
ラテン数字やアラビア数字、そして漢数字等であるが、その漢数字にある大字
壱(いち)弐(に)参(さん)肆(し)伍(ご)
陸(ろく )漆(しち)、捌(はち)玖(く )拾(じゅう)
「会計」「登記」「戸籍」などの日本の法律で使用が定められている大字漢数字がある
「一」は「壱」、「二」は「弐」、「三」は「参」、「十」は「拾」というものである
ハズカシナガラ、私はこの四つと伍以外の大字漢数字は知らないでいた

シカシナガラ、私の知っている数字の特殊な呼び方がある、つまり符牒(ふちょう)
私の知る符牒は、奈良・大阪の魚市場や板前世界の中で使われているもの
ソク(1)、テン(2)、チカラ(3)、ワ(4)、オンテ(5)
カミ(6)、ホシ(7)、バンド(8)、キワ(9)、となりソク(10)へ戻る
そして、二桁のものとしては
ヨソオイ→15、ソクバン→18、ブリガネ→25、テンコ→28、キリガネ→35
ダリハン→45、シャクリ→55、カミアミ→65、ホシアミ→75、バンガネ→85
キワハン→95、という数字呼称である、語意・語源は知らない

最近は、市場でも板前世界でも符牒を使うことが少なくなっているようである
そこで、簡便な符牒として使われているのが、「さりとわおもしろい」
即ち、さ→1、り→2、と→3 は(わ)→4、 お→5、も→6、し→7、ろ→8、い→9
組み合わせ自由な符牒で、14は1→さ 4→わ 「さーわ」で、14となる
38は、3→と 8→ろ 「とーろ」で38となるという簡易なものである
前回の「魚河岸」の記事で思い出した話である

私の同級生に水産大学を出て、大阪中央魚市場の業務を全うした男が居る
彼は大阪黒門市場の子会社へ社長で出向し、外人向けメニューを整備
それまで赤字続きであったその子会社を見事黒字化し、面目躍如で退職
退職後も、近大大学院の研究室に通い、鮭の商品化研究を続けている
趣味は歩行で奈良県内を歩きまくっている、その彼から電話があった
「井谷のブログを見て、桜井の魚市場跡まで行って来たで、エエ話おおきに」

高校一年からの付き合いになるが、好い奴である
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我が国魚市場の発祥の地に建つ大和・桜井の「旧跡桜井魚市場」の石碑

昨今、東京・築地市場の移転話が新聞テレビを賑わしている
築地市場も、関東大震災の後に日本橋の魚河岸が越して来たもの
日本橋魚河岸を作ったのは摂津佃村の漁民であることはよく知られている
然し、日本橋魚河岸、つまり東京魚市場の歴史の原点は大和・桜井にあった
あまり知られていないが、この話は流通業に関係する面白い話である

話は、四百年前の本能寺の変にまで遡る、明智光秀の織田信長殺害である
その時、堺見物を終えた徳川家康は河内・四条畷に少人数で滞在中だった
異変を聞き駆け付けたのが摂津佃村の武装漁民の一族であった
後は「伊賀越え」として話が有名であるが、佃の漁民は伊勢湾を越えて従行
家康から森姓を与えられた佃の名主は一族と共に江戸に入り,白魚漁に着手
その後、一族一党を江戸に移住させ,白魚漁のかたわら魚問屋を開業する
ここに日本橋魚河岸が成るが、森一族は旧来手法を墨守して問屋業は先細る

桜井出身の大和屋助五郎も江戸に下り、森一族と対抗しながら魚問屋を始める
助五郎は,駿州各浦に鮮魚の仕込金をもって敷浦(浦方への敷金)を設ける
この仕組みで、,産地独占的な流通機構を作出し、魚河岸の運営に成功
それが、日本橋魚河岸から築地市場へと今に引き継がれたと云う話
助五郎の江戸行きには桜井の市場の人間が協力し、手伝ったとある

海のない大和に魚河岸の原点?と思うが、それは市場の仕組みのこと
桜井には最古の交易市場として知られる「海柘榴市(つばいち)」があった
海のない大和の国へ伊勢・大阪・熊野の産物が集められていた市場だった
殿様へ上納後の魚を庶民にも下し売る、というお抱え漁民発想が佃・森一族
価値ある商品を如何に流通させるかという仕組み発想が大和屋助五郎
少し云うと、「魚屋・業種」発想が森一族、「市場・業態」発想が大和屋助五郎

市場の問屋(荷受)と仲買い、産地の問屋という流通機構は世界に誇れる日本の発明
「そうは問屋が卸さない」という言葉通り、流通の基本は卸問屋の仕組みにあった


2016.01.05 年賀状
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正月の床飾りの定番「結び柳」、今年は色合いが悪く葉もしょぼくれている
二日に近くの公園に植わっている柳の大樹から枝を一本切って来て結んだ

元々は唐代の「綰柳」という風習であったようだ
旅立っていく際、川辺の柳の枝先で丸い輪を作り旅人に手渡したという
輪の一順が、遠い地に居てもまた無事逢えることが出来るという印である
柳は〝陽〟の木でその芽張りはやがて来る春を表すとされる
一陽来復(いちようらいふく)、冬が去って春が来ることを祝う印でもある

ここ数年、年賀状の宛名だけは筆で手書きにしている
それまでは印刷した年賀状に一筆書き添えるようにしていた
両面が墨になると汚れやすいので、片面だけにという自己都合だ
宛名書きをしていると、気付くことが多い良さもある
住所名の面白さや、知人同士が意外に近隣であって驚いたり
今更ながら、当人の名前の字や読み方を改めて知ることもある

年賀葉書の発行は昭和二十四年が最初で1億8千万枚であったという
平成十五年がピークで44億5千万枚、去年が30億2千万枚とか
国民一人当りでいうと今年は24枚、一世帯当りで60枚程度になる
二十年ほど前のこと、ある個人金融会社の社長から面白い話を聞いた
貸す相手の信用度の査定、つまり与信は年賀状枚数で略分るという

曰く、50枚以上の年賀状を貰う人は信用できるというのだが、点数がある
普通の友人知人からのものを1点とし、弁護士や会計士・医者のものは3点
商売の宣伝賀状は0点、そして恩師からのものは5点として計算するという
その合計点数が50点ある人は、信用しても良いという話であった
利子目当てと云え、自分の金を人に貸すのである、相手の信用をどう見抜くか
さすがに日本有数の個人金融会社にした御仁、妙に納得した記憶がある

恩師のこと、吉野時代の小学校同窓会で当時の恩師は全て他界されたと聞いた
高校学年同窓会の出席恩師も毎回減り、四年前の前回はたった御一人であった
中学時代の担任恩師からは今年も年賀状を頂いた、九〇歳を越えられている
有難いことだとしみじみ感じ入る、確かに恩師を悲しませることは為し辛い





2016.01.03 情報提供あり
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飛火野を西流する御手洗川、春日の神水を興福寺と猿沢池へ導く、との情報あり
この川はよく知っているが猿沢池へ続くとは知らなかった・・、年賀状は出した

> 「出ず入らず」と称せられる猿沢池であるが、「出る」ことに関しては、池から率川へ排水口が設けられている。しかし、「入る」方は分かりにくい。見渡しても、それとわかる取水口を見かけない。しかし、北東の池底に土管が突き出ている。土管は三条通り五二段の西下にある枡に通じる。枡には五二段の側溝から水が取り入れられるようになっている。

 側溝に流れる水は普段はあまり見かけないが、たまたま勢いよく流れるときに遭遇したので、流路を遡ってみた。この時は、五二段下の枡に水が引かれることはなく、そのまま流れ落ちて地下を通り、率川に合流しているようだった。

 五二段側溝は興福寺境内の側溝へ通じる。五重塔下の防火用水を兼ねた池が途中にあり、そこを出て、奈良博物館へ向かう「塔の茶屋」下の歩道側溝を東にたどると、大湯屋のある一画に入る。ここには大きな池があるが、いったんここで水は貯められるようだ。

 流路は自動車道の地下を潜り、春日大社一の鳥居から始まる参道の北側溝へ出る。少し東へ行くと「馬出橋」があるが、暗渠となった参道の下を横断して、浅茅原(あさじがはら)へと入る。料亭の「青葉茶屋」がある場所で、細い流れは九十度向きを変える。片岡梅林の尾根筋を東西方向に走る溝となる。溝の流れは飛火野から来る。

五十二段西側の側溝を流れ落ちる水は、途中の枡から池へ引き込まれる。
 飛火野と浅茅原の間の自動車道は地下のサイホンによって越える。飛火野を流れるのは、これまた一番の高所に沿ってくねる御手洗(みたらし)川である。御手洗川の水源は水谷川(吉城川)の月日磐の近くであり、ここで採られた水は春日大社の御神水となる。

 飛火野と浅茅原の尾根筋を選んで設けられた流路は、御神水を導くにふさわしいルートなのだろう。春日の御神水は興福寺へもたらされ、猿沢池に注ぎ落ちる。興福寺=春日大社の一体化を演出する水の装置である。猿沢池は一体化演出の舞台に繰り込まれ、特別な池、すなわち聖地となった。<

https://www.youtube.com/watch?v=n_-Uxf5wDxc



2016.01.02 猿沢池
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奈良・猿沢池の七不思議を記した図
私は、この文句を今年の年賀状に盗用させてもらった

猿沢池は、興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平二十一年(749年)に造られた人工池
放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式であるそうな

周囲360メートル程の人工池で、外との水の出入りはない
然しながら、水は略一定量に保たれているという不思議
下から湧水が出ているなら、水は澄んで来るが澄まない
ただの溜まり水であるなら、水は汚れて濁るが濁らない

一昨年二月、亀の冬眠中に水抜きをして外来種亀を捕獲した映像がある
その映像で、私は初めて空の猿沢池を見たが深さはない、精々4・5メートル
こんな小さな池に沢山の亀や鯉が生息し続けていることも摩訶不思議
と云うか、猿沢池の命を受け入れ慈しむ包容力には感服させられる
確かに、猿沢池の畔に柳があるが蛙の姿は見かけない、仏心も依怙ひいき
花札・小野道風の図柄では池の畔に柳と蛙が付き物になっているのだが・・
藻が生えないのは、亀や鯉に植物性の餌として食されている、と私は踏んでいる

自堕落な人生を送って来たと、つくづく思う私ではあるが、猿沢池
澄ます濁らず、出ず入らず、蛙も藻も少しぐらいは、わいて生えて
粗飯と安酒が食えて飲める残り人生なら、まま、好し善しである
2016.01.01 謹賀新年
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自作の門松を門扉に取り付けた、梅が無いので松竹梅にならない
裏の竹藪で竹を切り、花屋で買うた松を棕櫚(しゅろ)縄で男結び
旧暦正月は今の二月初旬故に梅も綻びるが、新暦正月では無理
簡潔な景色で、我ながら佳い意匠の門松であると、まま、納得の作

前の拉孟の陣地内で自決した日本軍守備隊の写真は削除した
目出度い正月に、死体を目にするのは不適切と思うた故である
正月を迎えることに、どうも目出度さを感じなくなって来た