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二・三日前から女房殿は夜が寒いと云って掛け布団を出した、早速に「ハナ」がごろ寝。

この火曜日に大阪成人病センターまで女房殿と一緒に行き、知人を見舞った。
知人は私と同い歳で薬局薬店ボランタリーチェーンの社長をしていた御仁である。
学生運動の活動家として刑務所に収監された若き日の想い出を持っていて話が楽しい。
病状は大腸ガンのステージ4とかで、医者からもって四年の命と云われているとか。
私とは酒を飲み論争する間柄で、大たいは私が云い勝って、彼はブツクサと酒を飲んだ。
この日も、私が「寿命があと四年とは充分な人生、万歳や、その間に先に逝く者が仰山おる」
御仁はムッとした顔で「四年は上手くもっての話や、あと一年か二年か、分からへんのや」
私「誰でもそうや、この歳になったら先の命を読める者は居らへん、何を云うてんねん」
「死期が分ったら延命を願うたらアカン、早よう楽に死なせてもらい、女房子供の為や」
御仁「ステージ4のガンで入院している者の病室で、そんな憎まれ口をよう云うわ・・」
そこへ看護婦と検査員が来たので、私は「まま、しばらく生きときや」と云って室を出た。
女房殿曰く「ようあんなこと云わはるわ、アナタは・・」
私「薬局やってて、病気になるという根性が気に食わん」

家に帰ると、テレビで政府は大阪万博の誘致を決めたと報道していた。
その万博のテーマは「人類の健康・長寿への挑戦」とか。アホラシ
私は、日本社会がおかしな方向へ舵取りされていると思い、嫌な気分になった。
まま、愛犬「ハナ」にはもう少し元気で居てもらいたい。
ハナの寿命がもう尽きるという時は、安楽死をさせてやるつもりだ・・
もし、私の方が先に逝ったらどうしょうかと考えるこの頃。
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2016.09.26 下足番
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当代宗家の軸元に花ナスビとススキを入れた。

昨日は、友人の南都塗師が10月末週に開く展示会の添え釜に向けた稽古をした。
会場の今西家書院の茶室は三畳、同じ囲いにして薄茶の主人点前の稽古である。
点前畳の前と横に客が坐ると、少々迫った雰囲気となり戸惑いがあった様子。
客に扮した卒塾者が至近距離からアレコレと話し掛け、その受け答えをしながらの点前。
客に顔を向けたり目をやると、手が止まり点前が進まず、飛んだり戻ったりもする。
まま、四苦八苦の稽古であった。

11月の春日大社式年造替の行事の一環として我が上田宗箇流は献茶に併せた茶会を開く。
献茶席・拝服席・濃茶席・薄茶席・点心席があるが、私達は下足番をさせてもらうことにした。
明治の財界茶人が始めた茶会形式は一席に何十人も入る「大寄せ茶会」と云われるもの。
財界茶人の功罪は半ばするが、日本の文化財の海外流失を少しでも阻んだことは大いなる功。
茶会で、客が道具類をやたら褒めそやすという妙な茶会風習を作ったことは大いなる罪。
茶の古書には、道具類を褒めたり論評することを諌める箇所が出ている。
客が露地で道具を褒めたのを主人が聞き、「腹具合が悪い」と茶会を止めた話もある。
今の褒め合い茶会とは明治以降のもので、以前はそのようなことは無かったようだ。
まして、戦国・桃山期の茶会とは今で云う茶事であり、尚更のことであったろう。

私が大寄せ茶会に出向いた折、注意深く見るのは「客案内」と「下足番」の巧拙。
その流儀のこと、その社中のことが如実に分るものである。
春日茶会で私は下足番に徹し、茶会を成功裡に収めるための尽力をしたい。
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赤い彼岸花の手前に、同じ科目の玉すだれ(珠すだれ)が白い花を咲かせていた。

昨日は、散歩仲間(先輩)であり、飲みの先達でもあった御仁の仏前に参った。
御仁が好きだった麦焼酎「二階堂」を遺影の前に供え、線香をあげた。
御仁は昭和三年生まれの一徹男で、圧力への抵抗精神旺盛という快男児であった。
飲むと、「ホンマに旨いなこの焼酎」と云って頬を崩し、二階堂の瓶を眺めていた。
御仁は偉そうなことや知った気なことは一切口にせず、いつも豪放磊落そのもの。
その御仁の姿勢から、私は云わず語らすの教えというか薫陶を受けた気がする。
ご子息の話では、この7月末の出張前に病室を訪ねたのが最後になったとか。
「ほな、行って来い」と云われ、病院を出て十五分後に病院から電話があった。
急ぎ戻ったが、すでに息を引き取った後だったということだ。
最近の世情は葬儀や訃報の連絡がない、その是非は云々しないが寂しい。

話は変わるが、この十月下旬に奈良で正倉院展が開催される。
期間中に、曰く「奈良町」で山本哲氏という南都塗師が「百碗百杓」展を開く。
氏は私の高校の後輩に当たり、織田有楽流の茶人でもあって私と気が合う御仁。
氏が昨日、その出来たばかりの「百碗百杓」の案内状を持参してくれた。
私というか、朋庵の塾生が添え釜をすることになっているので、ここに掲載する。
開催場所は今西家書院、国宝であったが法改正で今は重要文化財。
その今西家書院のHPと併せて、山本氏のことを記した書き込みサイトも添付する。
http://www.epochtimes.jp/jp/2011/11/print/prt_d53299.html
http://www.harushika.com/study/
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昨日は秋分、彼岸の中日、卒塾者の方が「おはぎ・ボタモチ」を届けて下さった。
私の夕飯は焼酎二杯とボタモチ二個、美味。

昨日は、囲碁教室へ出向いて上達せぬ棋力の向上に努めていた。
久しぶりに来られた教室の長老と一局相手をしてもらった。
昭和三年満州生まれのその長老は、一昨年の十二月のブログ記事にさせてもらった御仁。
http://houan7010.blog.fc2.com/blog-entry-565.html
満州鉄道が運営する鞍山中学でラグビーに明け暮れていたが、五年生の時に終戦(敗戦)。
中学生の身で満州の悲劇を目の当たりにした御仁に、前の記事の私の従兄の話をした。
御仁の碁石を打つ手が緩み、「ワシは開拓団のところへ行かされた」と語り出した。
「男が軍に取られ、女子供老人ばかりになった開拓村へワシら中学生が手伝いに行った。」
「ソ連軍が来て女を出せと云う。村長は女たちに皆の命を守るため行ってくれと云った。」
「そして、内地に帰ったらこの報いは必ずすると云いよったが・・・。」
「戦争は負けたアカン。惨めなもんや。」
御仁の手が碁石を握ったまま止まり、目が潤み出した。

私は、返す言葉もなく聞くだけであった。
相槌を打ったり、分かった気な物言いは出来ない、すべきでないと思った故。
そして、語り継がれている満州開拓団の悲劇を思い浮かべていた。
下は「売文業者たちの戦争責任」から

●在留日本人の中でも、最も悲惨なのは満州の僻地に入植していた開拓団の人々である。若い男たちは軍隊に現地召集されて既にいなかったので、老人・女・子供たちは荷物を担いでひたすら南へと歩き続けた。ソ連軍と暴民はこれに襲いかかり、また略奪暴行、殺戮をほしいままにした。一時に200人以上が殺され、または自害した事件だけでも21開拓団もあり、殆ど全滅したものも7つを数える。

●幸いに日本居留民の多い大都市にたどりついた集団は、手荷物がないのはもちろん、文字通り一糸まとわず、やせこけた体をさらしている男、素足で麻袋に穴をあけ首と手だけを出して、新聞紙にくるんだ赤ん坊を抱きしめている婦人、それはまるで「幽鬼の行列のよう」であった。

●これら難民の収容所では、毎日のように何十人もの人が息絶え、ついには死体を片付ける体力のある者もいなくなった。そして収容所のまわりには中国人がむらがった。日本人の子供を買うためである。しかし、この親をどうして責められようか。もし子供を手放さなかったら、数日のうちにその子が飢え死にすることは明らかだったからである。

●こうして満州では20万余、北朝鮮では2万6千人が殺害・自殺・餓死・凍死・のたれ死したのである。
これは一体、誰の責任なのか。日本軍のせいにする者が多いが、日本軍は既に降伏して武装解除しているのである。この責任は占領軍たるソ連軍にある。ヘーグ条約には占領軍は「公共の秩序維持」「占領地の住民の保護」「その名誉、権利の尊重」「略奪の禁止」その他が詳細に定められている。
    《若槻泰雄 「売文業者たちの戦後責任」》
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台風一過の今朝、近所の庭木が路上に落下していた。

一日前、台風に追いかけらるように岡山・虫明海岸から帰宅した。
虫明海岸にある従兄の別荘へ出向き、赤穂へ討入りしたことは先に記事にした。
久しぶりに、その従兄と二人で枕を並べて昔話をしたのだが、初めて知ったことがあった。
その従兄は満州生まれの満州育ち、小学校三年の時に大連で終戦を迎えた。
その時には、母親同士が姉妹であるもう一人の従兄が大連で生まれていた。
もう一人の従兄の父親は満州鉄道の関係者として奉天に居た。
日ソ中立条約を破りソ連軍が満州へ侵入、ソ連兵は日本人に筆舌に尽し難い暴虐を働いた。
日本人婦女子がソ連軍兵士の凌辱を受け、辛苦の逃避行を続けた史実は忘れ難い。
その中にあって、もう一人の従兄の母親は乳飲み子を抱えて大連から奉天へ向かったのである。
大連は日本への帰還船が出る港、奉天はソ連軍が侵入している内陸部である。
日本人の多くは満州の内陸部から帰国の舟が出る沿岸部へ逃避している時に逆行である。
昔、親族が集まった時なんかで、その話を聞いた時は私は子供心に変だな思っていた。

虫明海岸で聞いた従兄の話で、その疑問は解けた。
従兄の母が、乳飲み子を抱かえた自分の妹に云った言葉。
「女は亭主のネキ(側)で死ね。」
終戦時の満州の日本人の間で、日本人は皆殺されるか奴隷にされる話が流れていたとか。
男が出払っている中、一族の女の長であった虫明別荘の従兄の母はトップ判断をしたのだ。
更に、彼女は自分の息子(従兄)に云った、「あんたは男や、二人を守って送って行け。」
ソ連軍侵入の混乱の中で、彼女は九歳の息子を自分の妹の死出の旅へ共に送り出した。
姉として母として、一族の男が居ない中で一族の生死に臨場しての決断である。

満鉄関係者であったため、運良く列車に乗れて叔母親子を奉天まで連れて行けたと云う。
帰路は、混乱する列車に行き先も分らず乗り込み、支那人・満人、ソ連兵を警戒したとか。
ソ連兵の残虐を目の前で見たり、逃げて来た日本人の話を聞き、ソ連軍を憎んだと云う。
列車が右へ曲がると北京、左へ曲がる大連という処で、右に曲がると飛び降りようと思った。
その時、九歳の従兄は死を覚悟したという。
従兄の思いは、こんな惨状を生み出した当事者の日本軍人への恨みが強かったとか。
戦争の悲惨さと平和の有り難さは身に染みている、と従兄は語った。
彼の持つ反戦思想は、負ける戦争をしたことへの怒り、実体験に基ずく自分の思いである。
戦後の日教組教育が生んだ似非平和主義や朝日あたりの薄っぺらいマスコミ思想ではない。

従兄は現役時に、技術職上がりながら一部上場企業の専務として会社経営を担っていた。
労組とも対峙し、その背景にある社会党や進歩的云々とか云われた弁論人を嫌っていた。
実体験でない聞きかじりや端折り読み知識でものを云う連中と俺は違う、と胸を張った。
ペリリュー島や硫黄島、拉孟・騰越、占守島での日本兵と神戸・東北震災での日本人のこと、
日本兵の戦いぶりと震災での日本人の行動、ここに日本人の持つ悠久の美質があると語る。
面白い話もした、あの悪名高い日本陸軍の元参謀・辻正信大佐のことである。
あれほど悪名が高く、多くの批判を受けながら、戦後は衆議院四期・参議院一期を務めている。
つまり、辻に多くの支持者・共鳴者・投票者が居たことをどう考えるか云々と話は続いた。
従兄は、無責任で軽薄な世相がまかり通っていることを嘆いた。
戦争責任云々ではなく、日本人が判決を下すべきは敗戦責任のことだと意見の一致を見た。
外が明るくなりかけた頃、従兄は静かになった。

2016.09.20 赤穂へ討入り
私の囲碁の師匠が囲碁アマチュア選手権で奈良代表として全国大会に出場。
予選リーグで一勝二敗となり、残念ながら決勝トーナメント進出ならずであった。
聞くと、予選リーグの相手三人の年齢の総和と私の師匠の歳が同じだったとか。
優勝者は二十歳の大学生ということであった。
そんなこんなで、囲碁好きの私の従兄の別荘へ行き、囲碁仲間五人で師匠の慰労会をした。

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別荘は岡山の虫明海岸の入江にあり、家のデッキは海に繋がっていた。
前に写る船は蛸(タコ)漁の船だとか。

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地元漁港の朝市に食糧買い出しに行き、その価格の安さに釣られ、少々買い過ぎる。
このコブダイ、五十センチはあるが五百円、多くの支那人が買い出しに来ていた。

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隣町の日生(ひなせ)を挟んで向う側が兵庫県になり、塩と義士で有名な赤穂市である。
そこに私の従兄が知る碁会所があるので、討入りを掛ける魂胆になっていた。
まま、忠臣蔵は赤穂義士の吉良邸討ち入りに掛けた逆討入りという従兄の洒落心、ダジャレ。

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折角なので、義士の遺髪が眠る花岳寺へ行き。義士墓所を参る。
四十七士の墓標には「刃」の字が頭に刻まれていた。最後の墓標だけは無かった。曰く、
「一番最後の順の寺坂吉右衛門は、建立当時は存命中であり、後年、森家の同じく足軽であった野山斧右衛門によって建てられました。『彼も足軽、我も足軽。同じ忠義を働きながら、足軽であるからという理由で墓を建てることができないというのは誠に残念』 とし、自ら施主を務めました。」

面白いことに、浅野家が断絶して森家が入った赤穂の地に「大石神社」がある。
勿論、祀られているのは大石内蔵助その人、主筋である浅野内匠頭の神社はないという。

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討入りの場は「赤穂碁楽会」。娯楽に掛けた名とはナカナカ洒脱。
(訂正:写真を見直すと、「碁楽」ではなく「楽碁」つまり落語の洒落、私の勝手読みだった)
相手側は、六段二人と五段と三段、それに級位者の計五人。
此方は、師匠が七段、従兄が六段、他に五段が二人に無段の私の計五人。
結果は、此方の四勝一敗、一敗は不詳ワタクシめ。
その夜は、漁港の市で買い付けた魚介類を男調理で食し、囲碁談義。
一番酒が進んだのは、斯く云う不詳ワタクシめ。

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散歩道で、先日の白い彼岸花に続き、今度は黄色い彼岸花を見つけた。
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その道で野萩も花を付けていた。一昨日は仲秋の芋名月、秋分は二十二日である。
春分と秋分を中日に前後三日が彼岸である。
彼岸にはボタモチが出て来るのが日本の仕来り。

実は、私は母親からボタモチはつぶあんが西国、オハギはこしあんが東国と聞いていた。
なるほど、伊勢の赤福はこしあん、伊勢国は東の始まりかと妙に納得していた。
ところが、誰かから秋は萩でオハギ、春は牡丹でボタモチと教えられ、母親の教えを覆した。
ところがである、気になって調べてみると、定説というか正しい答えはないとかである。
曰く、
ぼたもち(牡丹餅)とおはぎ(御萩)の関係については諸説ある。
「ぼたもち」については春の牡丹の花、「おはぎ」については萩の花とする説がある。
その上で春のものは「ぼたもち」、秋のものは「おはぎ」と名前が異なっているだけとする。
なお、東京では春秋ともに「おはぎ」と呼んでいたとの指摘がある。
もち米を主とするものが「ぼたもち」、うるち米を主とするものが「おはぎ」であるとする説。
餡(小豆餡)を用いたものが「ぼたもち」、きな粉を用いたものが「おはぎ」であるとする説。
その他に、 「ぼたもち」は、ぼたぼたした感じに由来するという説もある。
『物類称呼』(1775年)では「おはぎ」は「女の詞」であるとする。
また、地方によって
こし餡を使ったものをぼたもち、つぶ餡や煮た小豆そのままを使ったものをおはぎ(逆もあり)。
餡ではなく中の米の状態によって区別し、完全にもちの状態まで搗いたものをぼたもち、搗いた米の粒が残っているものをおはぎとする説。
また、二口程度で食べられる小さいものをおはぎ、それより大きいものをぼたもちとする。
等々、さまざまな場合がある、としている。

私は母親の言葉を無知・見識不足と思ったことを詫びたい。
彼岸には仏前にボタモチを供えよう。畿内は何時でもボタモチやな、かあさん。
2016.09.16 差別意識
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昨日の夕刻、近鉄奈良駅の商店街で采女神社の花扇祭りに遭遇、
例年、中秋の名月の日には猿沢池にて采女祭(うねめまつり)がある。
夕方、JR奈良駅前から猿沢池のほとりに建つ采女神社まで花扇奉納行列が行われる。
この祭りで云う花扇とは、秋の七草で美しく飾られた高さ一間余りの物。

先のブログ記事につき、知人から電話をもらった。
私が「犬猫同然」と記したことへの忠言である。
わざわざの忠言電話、その意を善しとして犬猫同然との文言は削除した。
然しである、私の思いは変わらない。
奔放な恋愛や愛欲の先に子供があるのではない。
家同士家族同士が祝う結婚の先に子供があると私は考える。

女子はこの人の子を産もうとして、その人の元に嫁ぎ、子を為し育てる。
男子は嫁と子供を入籍し養うだけの甲斐性を持つことが本筋。
女に子を産ませ、ほったらかす様な外人男は下衆、そんな外人男に遊ばれる女も女。
結婚してから恋愛感情を抱く方が真っ当な気がしている。
この手の話に差別意識云々という類の話は不要、お門違いと考える。
本当の差別意識とは、やたら混血児をテレビアナに登用するマスコミの意識である。
ある局では、日本名の混血児をわざわざカタカナ名にして出演させているという。
まま、大衆を最も軽蔑しているのは大衆指導家だという話がある、似た話だ。

「まず恋をしようね。そして夫婦になっていこうね」という夫の言葉を守り抜いた女性。
女手一つで二人の子供育て上げた、九十四歳の戦争寡婦のラブレターである。

 流れる雲よ/心あらば/私の想いを伝えておくれ
 遥かに遠い/ニューギニア/ジャングルの中に/今も尚眠る貴方(あなた)に届けたい
 貴方!!/貴方!!

http://www.nishinippon.co.jp/feature/story_blue_sky/article/174603
2016.09.15 国籍法
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時々見掛ける秋篠川の青サギ、小魚を狙ってジッと立って待つ。
二年ほど前までは、二羽で空を舞ったり川面の上を飛んでいたものだ。
多分、番(つがい)、つまり夫婦であったのだろう、神社の森で巣作りをしていた。
ヒナがかえった様子は見たことはないので、ずっと二羽で居たようだ。

リオ五輪では、毛色の違うカタカナ名の日本選手が目に付いた。
数年前からであろうか、陸上やバレーボール、或いは高校野球でも目に付いた。
容姿を例える時に、日本人離れしたという言葉は「美しさ」の形容詞然としている。
身体であれ、容姿であれ、日本人は劣るという話なのかと少々気になる文言。
カタカナ名の混血児は、大抵は母親が日本人であるようだ。
父親が日本人の混血児、室伏広治はハッキリ日本名であり、感覚も日本人である。

日本は伝統的に父系血統主義の国籍法であった。
父親が日本人であれば、その子供は日本人とするということである。
父親が外人で母親が日本人の混血児は、日本人とされなかった。
父親の国・民族の子供だとされた、つまり女性の嫁いだ先の国民という考えだ。
父系血統主義の国籍法とは、真っ当であり、何の問題もない法概念である。
出生地主義は、生まれた国の国籍になるというもの、米国がそうである。
日本で米軍兵士の子を産んだ日本女性、子供の国籍がないということが多発。
そこで、「人権屋さん」とか「市民運動屋」とかが後押しして、裁判を起こした。

何度か、敗訴却下になっていたが、国連のフェミニズム活動に押されていく。
昭和五十九年に国籍法が父母両系に改定される。(改正ではないと私は思う)
夫の元へ嫁いで子を為すのが当たり前という日本社会の倫理道徳観が否定された。
結果、外人と国内外で交渉を持った日本女性が生んだ混血児も日本人となる。
本来なら、外人といえど婚姻届けを相手国に出し、相手国に出生届けを出すもの。
外人の子種を孕んで生み、その混血児にカタカナ名を付けて日本国籍を申請するオナゴ。
私は差別主義者ではないが、その混血児に対してでなく、その手のオナゴを厭う。

蓮舫はん、父親が中華民国人、つまり中国籍である、台湾と云う国はない。
日本生まれながら、彼女は生まれた時から今に至るまで中国人である。
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秋篠川の土手横の林に咲くヒガンバナ(彼岸花)、めずらしい白花だったので撮った。
彼岸花に野生や自生はない、稲の到来と共に持ち込まれた一株からの株分けである。
異名は、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)等。

連想したのは、リオ五輪で日本シンクロチームを復活させた井村雅代コーチ。
過去に中国チームのコーチに就き、裏切り呼ばわりされていた御仁である。
現在六十六歳で結婚経験なし、旦那も子供もなくシンクロ一本の人生とか。
昨日のテレビ番組で観た、井村コーチの云った言葉に同感した。
井村はシンクロの子供教室を運営しており、親に連れられて来る子供達も多い。
楽しいだけでない練習では、子供は泣いたり嫌がったりすることもあると井村は云う。
「結果がどうあれ、頑張ったんだから褒めてやりたい」という親御の言葉に対し、井村は、
「オリンピックは頑張った子が行く、だから頑張るのは当たり前、頑張りの質が問題です」
「上手い子供が贔屓されるのは当たり前、悔しければ、贔屓されるくらいの子に育てなさい」
「私はよく叱ります、言いたいことは我慢しません、嫌われるのは大いに結構」

斯く云う私は、流儀の中では嫌われているらしい。
「らしい」とするのは、好かれようが嫌われようが、私の知ったことではないからである。
ある稽古場が茶会を開いた時のこと、初めてとかでダラつき、粗相・失態が多かったとか。
その時の企画者の言葉、「これも皆にはエエ経験、次にちゃんとやればエエ」とか云々。
私、「次は無い、今が全てや、来てはった客にとっては、今のそれが上田宗箇流や」
自分達の企画した茶会が自分達の楽しみにして満足していることに、私は腹が立った。
茶会が、自分達のティーパーティであって、来客へのティーセレモニーとは考えていない。

正式茶会での発言、「失敗はだれにもある、次に活かしたエエ」、「茶は楽しくやればエエ」
私、「その時その場が客にとっては上田宗箇流、アンタらの稽古の時でも場でもない」と睨む。
稽古は、本番を全うするためのもので、本番を稽古代用に考えるのは見当違いも甚だしい。
軍事演習と実戦本番の違いである。実戦本番で負ければそれまで、全て失うということ。

井村はんのこと、半端な男衆ではこのオナゴはんには勝てんやろうと思った次第。
然しである、彼岸花で何で井村はんを思い起したかは、我ながら不明。
古希を過ぎ、社会から忘れられた頃の井村はんには、彼岸花がどう写るであろうか・・
先に載せた歌川広重の絵に、広島の茶友から洒落た一句が。。

「 大江戸で  真鯉は昇る  天高く 」

さすがである、機転が利いている。
カープファンなら、本拠地広島でなければ、
巨人相手に東京ドームでと、思いんさるじゃろう。
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歌川広重の描きんさった「各所江戸百景」の中の一枚じゃと。
当時は未だ錦鯉が居らんかったけ、こげんな真鯉じゃったけん。

昨晩の広島の町は端午の節句ならぬ「鯉祭り」で賑おうた云うとりました。
そう云えば、昭和五十年のカープ初優勝の時、ワシは広島に居ったけん。
本通りを初めとした繁華街にはようけの人が来んさって騒いでおいでんさった。
店の衆も酒を出して道ゆく人に飲ましんさって、皆はワイワイ浮かれていんさった。
知らぬ同士が肩組みしんさって、オナゴはんも鯉が虎になっておりんさった。
虎贔屓のワシにはどうでもエエで話、好きにしんさいと思うてはおりましたが、
彼方此方でタダ酒の振る舞いを受けると、えたしいことに飲んでしまうのじゃけんワシは。
時の日本シリーズ、セリーグのお荷物球団広島とパリーグのお荷物球団近鉄じゃった。
じゃけん、まま、広島が日本一になったんじゃが、今度は日本ハム。
163㌔投手の大谷に鯉の洗いにされるような気がするけんのぅ。
じゃが、広島を本拠とする上田宗箇流の茶を喫し出陣すれば、日本ハムが福留ハムに・・
因みに、福留ハムとは広島のローカル・ハムのことじゃけ、それなりに旨いんじゃて。
他には、おたふくソースにチチヤス・ヨ―グルトもあるんじゃけ、馬鹿にしんさんな。
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茶の前で神妙に正座する欧州娘三人。真ん中が飛び入りのドイツ娘。
教えていないが、私が坐れと云うと三人ともチョコンと正座をした。

我が家に来ている留学生を奈良案内してくれている私の息子から連絡があった。
何でも、京都まで来ている友達(ドイツ娘)と連絡を取り合って合流した由。
息子の話では、その娘も今晩連れ返っても良いかと聞いているそうな。
もう来てしまっているのなら厭とも云えず、まあエエよと云うことにした。
夜九時半頃、欧州娘三人がタクシーでご帰還、タクシー代は息子が払ったとか。
そのドイツ娘はキャンプ道具一式をリュックに入れ、日本各地を一人旅していると云う。
私が、日本ならエエが他の国では危ないと云うと、ドイツでも危ないと応える。
日本の治安は安全で素晴らしいと欧州娘三人が口を揃える。

そうか、日本人の気がエエことをダシに、アチコチで親切心を享受しているな、と勘ぐる。
懲らしめようかと、茶席に来させ小一時間正座させるとさすがに堪えた様子であった。
脅かしついでに、和服姿で脇差を腰に彼女等の前へ出て、静かに彼女等を見渡した。
いきなり抜刀して、日本刀の抜き身を彼女等の顔面に近付けると少々ビビった様子。
昨日の愛犬「ハナ」の気持ち、思い知れとばかりの私の面相は可成りであったろう。

朝食は、ジャーマンカレーと銘打ってジャガイモとソーセージのカレーにライ麦パン。
ところが、飛び入りのドイツ娘が私はベジタリアンとかオヌカシ、肉食人種のくせ。
では、パンと牛乳だけで済ませろと云い放って、私は知らん顔を決め込む。
そもそも、急に人の家に来て食事に注文をつけるなんぞ、怪しからん話である。
このドイツフーテン娘は、「善良」な日本人達が甘やかした挙句の産物であろう。
指の一本ぐらい、ソーセージ替りに切り取っておくべきだったと後で反省。
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肉食人種に体つきを眺められ、ビビる愛犬「ハナ」、尻尾が下がっている。
二人はこれから奈良公園まで行き、鹿を物色するとか・・
2016.09.08 外国娘来訪
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娘宅でくつろぐドイツ人(左)とフランス人(右)の女子留学生。

昨日、関西空港第一ターミナルまで出向き、ソウルからの便で来た外国娘二人を拾う。
18時50分着が18時35分に到着、関空発学園前行きのバスは19時20分。
これならと思い、バスの予約券を三人分購入して、出口で待ったが中々出て来ない。
19時23分頃、白人の女の子が私のところに来て「イタニさんですか?}
もう一方の出口から出ていたらしい。(少々イラついたが顔には出さず・・)
バスの受付に行ってみたが、既に出発した後だった。
しかし、バス代は戻って来た、これはおおきにと私は笑顔になった。

直ぐに南海電車の改札へ向かって、特急券を購入すると三分後の発車、急ぎ乗り込む。
難波に着き、地下街を通り近鉄難波駅まで急ぎ足、つまり二人を気にせずスタコラ歩く。
近鉄特急に乗り込んで、ドイツ人娘のリュックとコロ付バッグを荷物置き場に運ぶ。
二つともズッシリと重たい、170センチの体格だがこの荷物でよくぞ付いて来たと感心。
やはり、北欧人の身体能力は日本人とは違うと実感.


西大寺に着くと娘婿が迎えに来てくれていた。
この晩は娘宅に泊めて、明くる日は英語が達者な息子に預ける予定。
写真は、娘婿が撮って今朝送信してくれたものを使用。
今日は、雨の中を娘婿の車で法隆寺に向かったとか・・
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兵馬俑の展示。

昨日は脳ミソのMRI検査を受けるために大阪赤十字病院にいった。
私は閉所恐怖症のため、エレベーターや満員電車がダメである・
ましてや、棺桶に閉じ込められ半時間余り過ごすこの手の検査は無理。
酒を飲んで酩酊状態で臨むか、安定剤を服用するかであるが大体は酩酊を選ぶ。
検査を終えてから、中の島・国際美術博物館の「始皇帝と大兵馬俑展」まで足を延ばす。

写実的な兵馬俑の面は、北方モンゴロイドそのものの顔で騎馬族のものである。
展示資料を見ていると秦と西戎の居住地が重なっていることを示していた。
要するに、秦と西戎は出自が同じというか、周王朝に面従する西戎部族であると云える。
周王朝の衰退した戦国時代に、秦は周辺の漢族国家を征服して支那大陸の大半を制した。
そして、「皇帝」を名乗った。今の世界には日本の天皇しか皇帝は居ない。
つまりと云うか、やはりと云うか、秦は漢族国家でなく西戎国家であったのだ。
秦が本当に恐れいたのは周辺の漢族でなく、北の遊牧民族・匈奴だったということ。
要するに、春秋戦国時代とは漢族の教科書歴史では語れない史実があったと納得する。

美術館を出ようとすると、外はドシャ降りの雨、館内の売店で傘を買う、390円と良心的だ。
前の道まで出てタクシーを拾い、近くの旧友の鮨屋に電話し雨宿りをすることにした。
タクシーに乗って五分で雨が上った、まま、折角なので大阪の卒塾者を呼ぶと彼は快諾。
鮨屋では、先のブログに書いた東京の下宿の○○ちゃんのことを知る店主と話が弾んだ。
○○ちゃんに電話を入れブログにコメントが入ったと伝えると、彼女は既に目を通していた。
そして曰く、「私、168センチでなく、167センチだからね・・」、と念を押してござる。
今となって1センチの差が何であろうに、私は分った分ったと云って電話を切る。
2016.09.06 三献の茶
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オスマン・サンコン..。

先日のテレビで関ケ原の戦いを振り返るという番組があったので観た。
主題は石田三成と徳川家康の人物像に迫るというような制作意図のようであった。
三成の話には例の「三献の茶」が語られ、光成の客への心遣いが云々されていた。
つまり、秀吉が喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄って茶を所望した時のこと。
対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。
喉が乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。
次に小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶をだした。
秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。
相手の様子を見て、その欲するものを出す、この心働きに秀吉は感じいった。
秀吉はその小姓を城に連れて帰り家来とした。
この小姓が、その後累進し五奉行の一人となった石田三成である、という出来た話。

この話は「おもてなし」の言葉と合い重なって、茶道の心得の原点として語られている。
然しである、私には全く腑に落ちない世評であると思われる。
「三献の茶」なんぞ、こまっしゃくれた小姓の小賢しい仕儀としか思えない。
この手の小賢し者を気が利く人間として重用しても、それは執事長程度で止めるもの。
毛利輝元を担ぎ出す小知恵で以って、西軍十万の大軍を動かすのは笑止であろう。
それに、「以って為す」という言葉には、「おもてなし」という意味合いはない。
そもそも、日本語に「おもてなし」という名詞の言葉はない、広辞苑にも出ていない。

まま、「おもてなし」の達者が、戰場の将に相応しいかどうかは大いに疑問のある話。
百人規模の兵を動かす程度なら未だしも、万を超える兵を動かすには小賢しさの才は不要。
この手のモテナシ上手者は、主君が愛でるサラリーマンの出世人間タイプというだけ。
私は、関ヶ原の戦いのことを聞いて、心情的に動かされる武将の戦いぶりとは、二人。
負けを意識しながらも義に殉じて大いに戦い死んだ大谷刑部吉嗣。
自軍千五百人で、敵味方関係なく数万の戦場を切り開いて本拠地・薩摩へ戻った島津義弘。
私は、上田宗箇流の流儀を「おもてなし」でなく、「武」に通じるものでありたいと願う。

明日には、独人と仏人の二人の女子留学生が我が家に来ることになっている。
バケツとタワシ・雑巾を渡して、部屋と便所・洗面所・風呂を掃除させるつもり。
英文の奈良地図は市役所で貰っておいたので、二人にはそれを渡すだけである。
「オ・モ・テ・ナ・シ」とは茶心ではなく旅館の女将の心、私の心には無い。

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昨日の稽古の床、吊り舟に宗旦木槿を挿しフウセンカズラ(風船葛)を垂らした。
本来、軸と花を共に飾ることはしないものだが稽古の時は両方出す、曰く「稽古のため」。
床の蛭釘の位置は一間床では三分一の軸脇、数寄屋(小間)床なら中央とするのが御定法。
我が家では逆にしてしまったので、一間床の落し掛けと天井の間の横木のもう一本釘をした。

この吊り舟は陶工の塾生が持って来てくれたもの、私が置き場所忘れた吊り舟の代用である。
風船葛は卒塾生の玄関先の窓にゴーヤと一緒に伸びていたものを夜中に切って来た。
その日は早く寝て朝練習に備えたが、花を忘れていたことを思い出して夜中三時に起きた。
水揚げをする為、ハサミと紙袋を持ってシャツのまま、腰の痛みを堪え卒塾者のお宅まで行く。
門扉の音を気にしてユックリ、じわーと開けて入り窓に手を伸ばして一本の風船葛を頂く。
外灯に照らし出された我が姿は、どう見ても「夜中の空き巣かコソ泥」そのものである。
まま、前日に卒塾者には断りを入れているものの、どうにも罪悪感に襲われた次第。
そう云えば、風船葛の種は「猿顔」に似ていると云うが、窓に手を掛けた私も猿顔行状。

稽古では、濃茶と薄茶以外に、冷たいウーロン茶とかき餅も出した。
地元では有名な生駒・高山のおかきで、同級生が呉れたもの。
高山は、茶筅の古里として茶人には知られた処である。
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花が先に咲く彼岸桜(ヒガンザクラ)、姥桜(ウバザクラ)の例えになった桜である。

姥桜とは、葉が出るよりも先に花が開く桜のこと。
「葉がない」→「歯がない」→「姥」(老女)にかけた言葉。
本来の意味は、女盛りを過ぎても、美しさや色気が残っている女性のこと。
現代でいえば「美魔女」のような存在のことを指すとかいう。

先週水曜日のこと、友人からもらった米袋を抱かえて玄関の階段を上がった。
身を屈め米袋を置くと、腰というか大腿骨と骨盤の付け根辺りがズキンとした。
少し前から違和感はあったのだが、腰がのけるような激痛が走り動けなくなった。
行き付けの整形外科に電話を入れると留守電であり、本日休診とのこと。
その日は傷みで冷や汗を垂らしながら横たわったままで居て、次の日に病院へ。
最近の医者は何故往診を、患者の家まで来てくれないのかと、つくづく思った。
皆、自分の診療所に患者を来させて自分は診察室に坐ったままに居てごさる。
ソロリソロリと動きながら診察室に入り、最近の医者事情に文句を云いながら受診。
四ccの注射を打たれ、一週間分の痛み止め薬を貰い帰宅、また横になる。

九月は四日が稽古日で、七・八・九日に独人仏人の女子留学生が来ることになっている。
語学事業とホームステイなんかを手掛ける先輩から半ば強制的に受けさせられた話だ。
食事をする居間の障子紙を愛犬ハナがボロボロにしているので、貼り替えよう思っていた。
然し、この腰痛である、そこで幼なじみの建具職人に窮状を訴え、家に来てもらった。
障子紙の張替えを終え、二人で一杯飲みながら話していて、ある女性に電話を掛けた。
留守電だったので、「○○ちゃん、ナオトです、久しぶり、△△君が来ていますよ」、と残した。
○○ちゃんは私の東京の下宿先の主人の妹で、△△君も東京へ来た時はそこに泊まった。

その夜である、彼女から電話がかかって来た。
「ナオトちゃん、番号を間違えたでしょ、あの番号は自宅の電話、長男家族が住んでいる。」
家に戻ると、長男が『○○ちゃんとは母さんのことだろう、男の人から電話が入っている』云々
長男と嫁は訝しそうな顔、中学生の孫娘はニコニコ、そして彼女はドキマキ慌て顔とか。
「昔、下宿していた学生さんで、物静かな文学青年だった人、私はチャキチャキだった」
御亭主に先立たれて、一人身の彼女は何か意味不明の云い訳めいた答えをしたらしい。
私は話を聞いていて可笑しくなった、しかし初めて知ったことがあった。

彼女の知り合いの多くは身長が縮んで来たが、自分は168・5センチのままだと云う。
「アンタは164センチやったんと違うのか」と私が云うと、「ナオトちゃんにはね」と彼女。
私は身長162センチだったので、彼女は身長を誤魔化していたのである、五十年間も・・
長男に「男の人からの電話」と云われてドキマキしたのなら、それは人生の幸福というもの。
「姥桜の花が咲いた気分になったやろ、ワシに感謝せんとアカンで」と云って電話を切った。
2016.09.02 サクラ散る
無題
今日の花はベラ・チャスラフスカ、東京五輪の写真、「プラハの春」に咲いた可憐な花。

八月三十日にチェコスロバキアの体操選手だったベラ・チャスラフスカが亡くなった。
先に書いた全学連時代の花であったと云っても間違いではないだろう
1964年の東京オリンピック、続く68年のメキシコオリンピックで個人総合「金」の連覇。
東京・メキシコで合せて七個の金メタルを獲得した「オリンピックの花」であった。
この時代、全学連闘争の最中であった日本の若者達にとっても彼女は「憧れの花」だった。

東京オリンピック前後のチェコはソ連の傀儡(かいらい)共産党政府に支配されていた。
反抗するチェコ市民制圧のため首都プラハにソ連軍戦車が侵入、「プラハの春」である。
チェコの人は「二千語宣言」を掲げ、市民はそれに署名してソ連の支配へ抵抗を示した。
国民の英雄であったチヤスラフスカも署名活動に参加、そして政府から迫害を受けた。
住居も追われた彼女は、山中に逃れ枯葉の中で体操の練習を続けたという。

危ぶまれたメキシコ五輪に何とか出場できたチャスラフスカは見事に金メダルを獲得。
正に「オリンピックの花」であり、ソ連軍支配に抵抗するチェコの「国民の花」であった。
そして彼女の優雅な演技と、その行動は全学連も含め日本国民から愛された「花」であった。
その彼女は、東京五輪で日本と日本人を知って、大の日本ファンになったとか。
今朝の産経抄で知った話だが、彼女のメールアドレスはサクラ・1964であったという。
彼女、ベラ・チャスラフスカの冥福を祈る。正に「サクラ散る」である・・

メキシコ五輪のべラ・チャスラフスカ
Věra_Čáslavská_1967e