2016123017310000.jpg
昨日、黄昏(たそがれ)時の我が家の前、今朝の散歩の空も略同じ模様であった。
夕刻なら暮れゆく中で「誰そ彼・たれそかれ」と急ぎ早やに聞く、たそがれ時である。
朝は明けゆく中で「彼は誰・かはたれ」と穏やかに聞く、かわたれ時である。

確かに日本語は美しい、日本語そのものが芸術作品であると思う、今日この頃。
散歩から戻ってテレビを点けると、BSで「クール・ジャパン」という番組が放映されていた。
在日外国人30人程が、日本の常識や日本人の行動について討議する番組である。
その中で、一つの言葉の違いが説明されていた、「個・インディビジュアルと孤・アローン」。
日本人は個の主張より、孤の環境を厭うとか云々と外人はんが小生意気にオヌカシ。
まま、それはそれとして、私はそこに「古」を付け加えて考えていた。
私は今年で、つまり今月いっぱいで茶道・上田宗箇流の組織を離れる。
後は、私個人が独りで茶を楽しむこと、つまり孤の茶をしようと思っている。
勿論、その茶は千宗旦以後の金持ち町衆や富農の習い事の「新流茶」ではない。
戦国武将が命の遣り取りの中で辿り着いた武家の「古流茶」である、利休も古流である。
明治以降.に武家茶の多くが千家の新流稽古茶に転向し、古流茶の流れは途絶えて来た。
私はその「古」の武家茶の流れと心を大事にし、「孤」で「個人」で続ける所存。
来年は「鶏年」、コッコッコッケッコ―、個・孤・古・結構と鳴いても可笑しくはなかろう。



スポンサーサイト
2016.12.30 賀状付き合い
2016121607440000.jpg
秋篠川で時々見掛けるアオサギである。連れ合いを亡くし今は一羽で暮らしている。
このアオサギには来年が酉(とり)年とは知る由もなかろうに、と思う今日この頃。

最近の私の心根は「明日出来ることは今日するな」である。
お蔭で、今になっても年賀状の宛名書きが出来ずにいる。
座卓の上に去年と今年の賀状、および住所一覧と筆が置きっぱなしである。
一昨日、仕事仲間である友人が私の削除したホームページの写真を届けてくれた。
私の一つ年下になるその友人が云う「賀状付き合い」という話に納得。
我々世代の最近の「流行」に家の物を処分して捨てる「断捨離」がある。
その流れとして、中元歳暮の贈答や年賀状を「虚礼」として止める風潮が出て来た。
確かに「今後の季節のご挨拶は遠慮申し上げます」云々の年賀状も目にする。
友人もそうしたいと思ったが、どうも踏み切れないものがあると云う。
それは、今では年賀状だけの付き合いになってしまっている人への思いであるとか。
今現在の交友関係者には、「これからは年賀状は止める」と云うのは造作ない話である。
しかし、何十年も年賀状がたった一つの繋がりになっている人たちへは「虚礼」と云い難い。
過去の想い出や交誼という自分史を捨てる気がして、止めることは出来ない賀状もある。
その友人の話に私は同意、今日こそ宛名書きに精を出そうと気を引き締めるところ・・。
元来の年賀状は正月二日の「書初め」に書き「松の内」に届けるものであったという。
郵便制度が出来てから、「元旦の消印」が年賀状の値打ちとする風潮が生まれたとか。
少々ピンボケした風潮であるので、私は元来の姿を求める、と自己弁護をする・・。
2016.12.29 大根焚き
2016121818040000.jpg
この前、京都・千本釈迦堂の大根焚きがテレビで放映されたいた。
皆がふうふうと息をしながら旨いと云って食しているのが印象的だった。
そこへ碁仇の同級生が白菜と大根をくれたので、大根焚きを作った。
土鍋でコツコツと焚くと旨かろうと思い中火のガス台に掛け、そのまま忘れた。
一時間余りしてから、ガス台から警報音が聞こえてハッと気付いたが手遅れ。
土鍋の底部分は焦げていた、まま、上部は何とか食えそうなので皿に盛る。
醤油味が滲みて少々辛口になり酒のアテにしたが、老いの忘却が身に沁みた。
2016.12.27 アマゾンCM
2016122507200000.jpg
ご近所の庭の侘助椿が花を道に落していた、ハナが気にするそぶりであった。

テレビコマーシャルは詰まらんものが多いが、たまに良いものもある。
アマゾンのフラフープCM、サラブレッド数頭と一頭のシェトランドポニー。
サラブレッドが飛び越える障害柵を前にして、うつむくポニー。
女性調教員がフラフープを出すと、元気に飛び越え嬉しそうにするポニー。
何か胸を打たれる作品だ。味が有る。フラフープも懐かしい。
ハナにも輪くぐりをさせようと思うたが、無理のようだ.。

https://www.youtube.com/watch?v=gideL9hFk0k
gennseijinnrui_no_kakusannkeiro.jpg
人類の遺伝子の話を書くと、ブログ来訪者が減るという不思議な現象がある。
8千年前頃、満州の遼河流域に黄河や長江の文明に比する遼河文明が存在した。
遼河文明の遺跡の骨から検出された遺伝子の68%がN型という調査結果であった。
日本では縄文時代であり、その頃の北海道でも帯広辺りで土器が出土している。
やがて遼河流域には西からC型の蒙古族や満州族、南からO型の漢族が侵攻、N型は北へ離散。
遠くウラル山脈を越えたスカンジナビア半島のフィンランド人のY遺伝子の65%がN型。
アイヌのY遺伝子は88%がD型で10%前後がC型、Cはギリヤークかオロッコの遺伝子。
アイヌにN型が見られないが、三内丸山遺跡がある青森で8%四国・徳島で7%がN型
N型遺伝子の拡散ルートも興味深い。

300px-Albero_Y-DNA_svg.png
7万3千年位前のこと、スマトラ島のドバ火山が大爆発を起こしたらしい。
その火山灰はインド・アフリカをはじめ世界中を覆い日光を遮断したといわれる。
地球の気象に大きな影響を与え温度は急激に低下、多くの動植物も生存の危機を迎えていた。
東アフリカを誕生の地とするホモサピエンス(現生人類)も生死の際にあったとか。
生き残った人は大陸の南へ西へと向ったが、2百人前後と云われる人たちが「出アフリカ」。
アフリカ東岸とアラビア半島の間にある紅海の狭い海峡を渡り、アラビア半島南岸沿いに移動。
イランからインド西岸辺りで落ち着いた後に北へ東へ西へと向かい、地球上に拡がった。

そして時間が経ると、その人たちのY染色体遺伝子に変異が起こった。
アフリカではA型とB型であったが、7万年位前の出アフリカでDE型が現れ、D型とE型に分化。
次にC型が現れ、続いて現れたFT型は多くの亜種に分化、中のON型がO型とN型に分化。
O型は東アジアで十五億超の人口を有する大集団となるが、一方のN型はシベリアの少数民。
出アフリカを果たした人類はDE型C型FT型の三つの集団に大別される、そこで日本列島の話。
この三つの遺伝子集団が同一地域に残されている場所は世界中で日本列島だけだと云われる。
人類史から見ると、日本列島は極めて珍しい場所だとされるが、このことは大きな意味を持つ。
人類史では征服された民族の男は殺戮か奴隷として支配され、女は征服者の子を産まされる。
つまり、被征服者の男系遺伝子は残らないのが通例、中南米人のY遺伝子は欧州の父系一色。
原日本列島人は、他民族男性の遺伝子継承を認めるという特異な心根の持ち主であった。
原日本列島人の優しさや相手への思い遣りを持つ民族性は今の日本人に連綿と続いている、と思い度。
2016.12.24 続・奥蝦夷譚
30年余り前のこと、流通業二世夫婦の集団と共にカナダを西から東へ旅をした。
バンクバーからエドモントン・カルガリー・バンフ・モントリオール・ハリファックスへ。
流通業二世たちの目的はカナダ物産の買い付けと奥方孝行という云い訳であった。
案内役はカナダ大使館の日本人商務官で、カナダにまつわる色々な話を聞いた。
その中で、面白い話というか興味を持った話があった、オットセイの話である。
カナダで行われた海洋動物の学会で、日本の大学の先生がオットセイのことを論じた。
しかし、他の者にはオットセイが伝わらないので、発音やイントネーションを変えて発言。
やはり伝わらないので絵を描いたら、出席者たちから It's fur seal(ファー・シール)。
日本の学者はオットセイを英語と思っていたが、実はアイヌ語だったという笑い話である。
アイヌ語から来ている言葉には「トナカイ」もある、サンタクロースが乗ったソリを牽く大鹿。
トナカイはシベリアの動物で日本列島にはいない。それがどうしてアイヌの言葉にと思う。
そこが奥蝦夷につながる話である。
間宮海峡は凍結時には陸と地続きとなり樺太にトナカイが来る、カムチャッカ半島にもいる。
トナカイと云う言葉がアイヌ語であることは樺太・カムチャッカ半島が奥蝦夷であった証。
つまり、蝦夷はアイヌの地、奥蝦夷は日本固有の領土であったということである。
安倍・岸田・世耕はん、奥蝦夷はロシアに奪い取られた日本の地であること、
奥蝦夷で平穏に暮らしていた日本人がロシア兵に虐殺蹂躙されたことを知るのかどうか・・

images_20161224020507a28.jpgRangifer_tarandus_map.png
今夜が出番の「トナカイ」の写真とトナカイの分布図(赤の部分がシベリアのトナカイ)
漢語では馴鹿(じゅんろく)と書き、人に馴れた、すなわち家畜化可能な鹿を意味する。
犬と共に最も古い家畜と云われ20000年位前からシベリアの民が飼い馴らしていたという。
樺太探検に赴いた間宮林蔵の話として残されている書物にトナカイの記録がある。
「唐太の地にトナカヒと云う獣あり。大さ大八車を引く牛程ありて頭に大なる角あり。全体鹿の如し。」
恐らく、樺太やカムチャッカ半島のアイヌはトナカイを狩猟或いは飼育していたのであろう。

450px-Haplogrupo_N_(ADN-Y).png
上の図は人間のY染色体遺伝子N型の分布図である。(男性の遺伝子)
青色の濃い部分、つまり60~100%、30~60%の部分がトナカイの分布図と重なる。
Y染色体遺伝子N型は、20000年~25000年前位に東アジアか東南アジアでNO型から分岐。
N型遺伝子を持つ民族は、ユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布。
フィン・ウゴルやサモエード系にN型が多い。北欧人と云われるフィンランド人の65%がN。
N型民族の多くはロシア帝国の軍靴に踏みにじられた歴史を持っている。
因みに、日本犬とサモエード犬は近縁種であり、共に最も古い犬種と云われている。
日本人のY遺伝子はD型(D1b)が主流だが、少数ながらN型も存在する。
D型はアイヌで88%沖縄で65%本土和人で40%だが、青森ではN型が8%を占める。
D型遺伝子は6万年位前にDE型から分岐、D1b型は3万年位前に日本で生まれた。
D1b型は日本列島以外にない遺伝子、他のD型はチベットやアンダマン諸島で見られる。
云っても、その間に3万年以上の時間差。一代20年として1500代で3万年、まま近いか・・。
東アジアはO型で漢族はO3、朝鮮はO2b、東南アジアはO2a、台湾原住民はO1型が主流。
ohotukusen.png
元禄13年(1700)、 松前藩は北海道・樺太・千島・勘察加を松前藩の領土として 幕府に報告。
勘察加(カムチャッカ)とは肉を乾かすという意のアイヌ語でありアイヌの居住地であった。
本州から見て渡島半島は口(くち)蝦夷・近(ちか)蝦夷と呼び、半島から北や東へ入る奥地を奥蝦夷と呼んだ。
.後に、北海道太平洋側と千島・勘察加を東蝦夷、北海道日本海側と樺太を西蝦夷地とした。
そして幕府は南下政策を強力に推し進めるロシアを警戒し、寛政11年(1799)に東蝦夷地を、
文化4年(1807)に西蝦夷地を天領として、樺太島の呼称を北蝦夷地と正式に定めたという。

ロシアは1590年頃からウラル山脈を超え、 東の大地に進み始めた。
シベリアの原住民には火力武器を持つものもなく、 順調に東進を続けていた。
1638年頃にコサック騎兵がオホーツク海北岸に到達し占拠駐屯。
そこから更にカムチャッカ半島西岸を南進し、半島全域の征服を目論む。
元禄10年(1697)、アイヌとの戦闘が始まりアイヌの砦は次々と占領された。
部落には和人も居たが、 宝永3年(1706年)勘察加はついに陥落した。

ロシアのコサック騎兵の兵器は銃であり、対するアイヌは弓であった。
圧倒するロシア人たちはアイヌを捕らえると 、手を縛り上げた上で鞭を打ち続けた。
体中が膨れ上がった遺体を海中に投げ込み、これが「ロシアのやり方だ」と見せ示す
アイヌはそれらを見せ付けられると、ある者は 子供や女性を連れて逃げ出し、
ある者は激しく抵抗したという・・・、このことは知っておきたい「北の元寇」である。
まま、モンゴル帝国とロシア帝国、露助の方が性質が悪い。

百年後になるが、ロシアの南下に対し幕府は文化4年(1807)に蝦夷地防備の出兵を命ず。
津軽・南部・秋田・庄内の4藩に4藩では計3000名の兵を出したと記録される。
翌5年には津軽・南部の2藩を残し、庄内・秋田の替わりに仙台藩・会津藩に出兵を命ず。
仙台藩は国後・択捉・箱館を2000名で、会津藩は松前・宗谷・利尻・樺太を1500名で守備。
会津藩が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留した出来事は、会津藩の樺太出兵とも呼ばれる。
時の幕府は田沼意次が主導してあり、勘察加(カムチャッカ)までの出兵計画があったとか。
然しながら、田沼は失脚し前任者否定の定例通り、奥蝦夷出兵は立ち切れになったという。
この話は、私が残念無念に思うところ大である。
げに真っこと、肝が薄くて小賢しく嫉妬深い輩を為政者にしてならん。



廃医師はんから、「語り部・長老の話」に続いて「北の元寇」にもコメントを頂いた。
> 「北の元寇」のお話を広く日本国民に、周知される試みには、全く同感です。元寇での、対馬などの九州北部での蒙古・高麗の非道はそれなりに浸透しています。最近『アンゴリモア』という元寇を扱ったコミッックがあり、それなりに面白く読んでいます。同じ頃、樺太や沿海州で行われたアイヌ民族(「骨嵬」)と、ニヴフ(ギリヤーク)族(「吉里迷」)などとの戦いについては、ほとんど知られていません。昔、北の元寇についての本を読んだことがありますが、史実なのか、想像が入っているのか、判断に迷う代物で、蝦夷代官(蝦夷管領)安東氏が、樺太や北海道のアイヌを率いて、強大な蒙古を背景とする樺太のギリヤーク族などと戦ったと書いていました。しかし安東氏の関与はおそらく想像であり、現実には、北海道から樺太に進出したアイヌに圧迫されたギリヤーク族が、元に助けを求めたというのが真相の様です。元もアイヌが黒竜江に沿って、河口部から沿海州方面に進出する情勢を放置できなかったのでしょう。  昔読んだ山川出版社の「民族の歴史」シリーズの1冊に、東北アジアを扱った分冊があり、それには沿海州方面のツングース系諸民族の中には、その氏族の起源を、アイヌ民族だとする伝承を持つ者がいると記載されていたのを思い起こしましたが、具体的な氏族名の記載がなく、残念に思ったことを思い出しました。ともあれ、樺太や沿海州方面では、むしろアイヌが攻勢に出ていた状況があった事が、感じられました。  蛇足ですが、北蝦夷地=樺太島ですが、「奥蝦夷地」は、カムチャッカ半島方面だったように記憶していますが、或いは、北蝦夷地と同義に使用されていたのでしょうか?或いは奥蝦夷地は、樺太やカムチャッカ半島を漠然と指した言葉だったのでしょうか?<
2016.12.21 北の元寇
今朝の産経新聞に、安倍首相が北方四島の日露共同を語ったという記事が出ていた。
私は「何かが違う、何かが理解されていない」という思いにかられた。
樺太・千島・北海道は有史以前から縄文人が居住し、その末裔といわれるアイヌ民族の地。
少々混血はしているものの、本土和人や琉球人も日本列島人として縄文人の血を色濃く残す。
私は、北方領土はアイヌ自治国として、日露双方と友好条約を結ぶという案を考えたい。

E58C97E696B9E38080E5BA83E59F9FE59CB0E59BB33.jpg
江戸期に間宮林蔵が樺太と大陸間の不明地帯を探検し、「間宮海峡」を確認した。
地図名の通り、昔は北海道・千島・樺太は蝦夷(えぞ)の地、アイヌ民族の国であった。
鎌倉期に九州へ元寇があったが、その十年前にアイヌ人は間宮海峡から元の侵攻を受けている。
原因は黒龍江地帯の古シベリア語族のギリヤークやオロッコ達との交流のもつれとか。
黒龍江の支配権を持っていた元軍が間宮海峡を渡って樺太に侵攻、アイヌも反撃する。
いわゆる「北の元寇」である、元軍相手に北海道アイヌも協同して戦い最後は和睦している。
元軍との和睦後は交易が再開、アイヌは黒龍江沿いに内陸まで入り活動したという。
アイヌは巨大なモンゴル帝国相手に戦い抜き、自分たちの領土を守り抜いたのである。
ことほど左様に、オホーツク海を囲む北海道・樺太・千島は、アイヌ民族の古来の地である。

a_1245927_4d5dfaae35d027b810d9abf96bf60c4d62806930_jpg.jpg
樺太アイヌ人(骨嵬・クイ)

305px-Nivkh_People.jpg
ギリヤーク人(吉里迷・ニヴフ)

300px-Uilta_People.jpg
オロッコ人(ウィルタ)

images_201612210705472b2.jpg
樺太犬。千島や樺太でアイヌ人の使役犬として育てられた日本犬種。
南極大陸で日本の探検隊のソリ犬して活躍しながら、置き去りにされたことで有名。
自動車の普及で使役犬の用途が無くなり、昭和四十年代には純粋種は消滅した。
元軍との戦いではアイヌ軍に樺太犬も従軍、アイヌ人には戦友に見えたであろう。
2016121817330000.jpg
玉子焼きの手鍋で餃子を焼いた.。合う蓋が無いので表裏共に焼く。

先日の忘年会で、最長老は来年90歳になるという満州で生まれ育った御仁。
終戦の時に、旧制中学五年であったというその長老は色々話を聞かせてくれた。
その中に成程と納得した面白い話が二つあった。

一つは餃子(ギョウザ)。
満州では、主人が食べる餃子は水餃子であり、焼き餃子は召使が食べるものとか。
主人の餃子の残りを翌日に召使が焼いて食べるという話だった。
つまり、水餃子が正当な食べ方で、焼き餃子は下民が食べるものということだった。
その話を聞いて、私は台湾での経験を思い出し成程と納得した。

女房殿を連れて台湾に一週間程行った時のことである。
餃子が大好物の女房殿は本場の餃子が食べられると喜び勇んで食堂に向かった。
餃子を注文するが出て来たのは水餃子、そんなことが何回も続いて女房殿はしょげた。
帰国する前日になって日本語の出来る現地の人に話をしたら、餃子の店へ案内してくれた。
曰く、献立表に「餃子」とあるのは水餃子で、「鍋貼」とあるのが焼き餃子だと教えてくれた。
「鍋貼」を注文すると、正に焼き餃子が出て来て女房殿は大満足で食し、追加注文をした。
確かに現地人客を見ていると殆どが水餃子で、焼き餃子を食べている人は少ないかった。
嗜好の違いかと思っていたが、食文化の歴史であったということが良く分った。

もう一つは、軍人の慰安所の話である。
軍隊の駐屯する界隈には赤線があったという、赤線は当時合法の売春施設である。
いわゆる「慰安婦」なる女性が軍人相手に春を売っている場所である。
長老の話では女性の価格にハッキリとした身分格差があったということだった。
軍人でも将校は日本人女性が相手をして、料金は一円。
下士官は朝鮮人女性が相手をして、料金は50銭。
兵隊は現地人(支那人・満州人)が相手をして、料金は10銭。
兵隊は並んで順番を待ち、女性は十人以上の相手をしたらしいということであった。
訊き忘れたが、将校の相手をする日本人女性は一晩の泊まり料金であろう。
現地人女性は10人の相手をすれば、日本人女性と稼ぎは同じになる。
では、朝鮮人女性はどうであったのか、客一人の泊まりか何人かに相手をしたのか。
もし、朝鮮人女性が複数の客をとっていたなら、一番稼いだには朝鮮人女性となる。
今、韓国でいう「慰安婦問題」の根源となる話であり、生き証人というか時代の語り部の話だ。

因みに、時折コメントを下さる廃医師はんの父君は軍医であったと聞く。
父君の曰く、帰国船の中で朝鮮人女性が仲間同士で札束を見せ合って楽しげにしてたとか。
この軍人相手に春を売っていた女性の話、卑猥下品な話と思うか、社会史実の話と思うか、
それは聞く側の心の在り方になろう。
今度長老に会った時に、私は日本人女性と朝鮮人女性の料金制度を確認してみたい。
まま、長老も当時は中学生、どこまで実態掌握をしていたかは少々疑問ではあるが・・。

因みに、彼女等の稼ぎがどれだけのものであったかを知る資料がある。
兵隊の月給の数倍といえる彼女たちの収入は性奴隷と云えるものでないことは明瞭。
昭和18年の日本陸軍軍人の月給(単位:円)。
大将 550
中将 483
少将 416
大佐 370
中佐 310
少佐 220
大尉 155
中尉 94
少尉 70
准尉 110
曹長 75
軍曹 30
伍長 20
兵長 13
上等兵 10
一等兵 9
二等兵 6

当時の諸物価   
はがき      2銭
銭湯       8銭
米(10kg) 3円36銭
巡査初任給   45円

2016121404210000.jpg
廃医師はんから焼酎一個連隊が贈られて来た。その中の一つがこの高千穂焼酎。
何でも母君が薩摩おご女とか。糖尿に効くということらしい・・。
今朝の産経一面「日露『領土』進展なし」であった。
安倍政権の日露交渉団はロシアに完敗、ロシア側は乾杯であったろう。
世耕担当大臣や岸田外務大臣の面構えを見ていると勝つ気がしなんだが案の定。
先の大戦の終戦後に、北方領土と日本婦女を守るために戦った男たちがいた。
昭和20年8月18日、侵攻して来たソ連軍との占守(しゅむしゅ)島の戦いである。
この話は以前にブログ記事とした、添付する。
http://houan7010.blog.fc2.com/blog-entry-442.html

Kuriles_Shumshu.png
千島列島の最北端に赤で示された小さな島、それが占守島である。
北海道の東端沖の四島が南千島、いわゆる北方四島である。

2009102417221304a.jpg
戦車第十一連隊隊長池田末男大佐。
昭和20年8月18日未明、ソ連軍が占守島を攻撃、上陸を開始する。
池田大佐は戦車第11連隊本部で師団長から戦闘配備命令を受ける。
ソ連軍上陸部隊の攻撃で日本軍守備隊の孤立を知ると、戦車隊員を集合さす。
「赤穂浪士となって恥を忍び後世に仇を報ずるか、白虎隊となり民族の防波堤として後世の歴史に問わんとするか」、
「赤穂浪士たらんものは一歩前に出よ、白虎隊たらんものは手を挙げよ」と部下に問う。
池田連隊長の言葉が終わる間もなく、嘆声とともに全員の手が挙がったという。
全員が戦闘を決意したことを受け、敵・ソ連軍に向けての出撃命令を下す。
池田戦車第十一連隊長は師団と旅団の両司令部に打電。
「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。祖国の弥栄(いやさか)と平和を祈る」
ソ連軍を撃破し日本軍守備隊を救援するも、続く戦闘で戦車が攻撃を受け炎上、戦死。

images_20161217073045271.jpg
北海道を守る陸上自衛隊第七師団の戦車連隊は第十一戦車連隊の名を継ぐ。
十一を「士」と読み、「士魂戦車連隊」として北海道の守りに就いている。
後日譚ながら池田連隊長の御子息は自衛隊に入隊、士魂戦車連隊隊長になったという。

世耕はんや岸田はんの顔付・所作を見るに、喧嘩に向いているとはとても思えず。
2016121207440000.jpg
昨夜の雨溜りが凍っていた。

今日はある会合の後、忘年会があった。
実は一昨日の火曜日も大阪で忘年会があって誘われていた。
しかし朝から一日中雨降り、気温も下がって来たので出掛けるのは止めた。
漸く体調が戻りつつある状態で、またゾロ風邪をひくのは御免と断りを入れた。
今日の忘年会は、会合の場所からバスの送迎があると聞き出掛けた次第。
まま、忘年会の時季なので会食や宴会の席のことで一言。

席に入ってから「三配り」が出来るかどうかである。
「気配り」「手配り」「目配り」のことで、これは客側にも店側にも云える話。
会社の仕事でいう、「気働き」「手働き」「勘働き」という「三働き」である。
意外な人の「配り・働き」で、その人の見方が変わったこともある。
それと会食の所作・仕種に、その御仁の人生が垣間見えるという話。
特に箸の扱いが、それを顕著に示すようである。
茶の湯をやって来た身として、ついつい所作・仕種が気になる悪い癖。
一応、忘年会時季の参考までに「嫌い箸・禁じ箸」の一覧。

振り上げ箸:箸を頭より高く振り上げる。
握り箸:箸を握って持つ。
寄せ箸:器を箸で引き寄せたり、移動させる。
刺し箸:料理に箸を刺す。
指し箸:箸先で相手を指す。
渡し箸:箸を器に乗せて橋みたいに置く。
探り箸:器の中の食べ物を箸でよって探る。
迷い箸:器の上で箸を行き来させて迷う。
空 箸:一度箸でつかんだお料理を放す。
移り箸:箸を器から器へ移動させる。
もぎ箸:箸についた食べ物(ご飯粒など)を口でもぎ取る。
涙 箸:食べ物からポタポタ汁を垂らしながら食べる。
横 箸:箸をそろえて料理をすくう。
噛み箸:箸を噛むこと
移し箸:箸から箸へと食べ物を受け渡す。
ねぶり箸:箸をペロペロ舐める。
持ち箸:箸を持ちながら、同じ手で器を持つ。
押し込み箸:口の中へ食べ物を押し込む。
立て箸(仏箸):ご飯にお箸を突き刺す。

要は、人が見て嫌な気分になる所作は慎むということである。
とは云え、変に所作を気遣っていては酒も食事も美味くない。
自然な所作として身に付けることだが、日々の食事が稽古であろう。
まま、もう遅いか・・。

2016.12.11 夕去り茶事
2016121009290000.jpg
夕暮れの数寄屋に侘助一輪、花入は先代宗家の作、裏に「獨座」と揮毫あり。

2016121016340000.jpg
腰掛待合には正客の脇に手炙りを、手水の桶石に湯桶を出し無言の挨拶。

2016121018350000.jpg
暗くなり、玄関の提灯に火を入れる。これからは夜咄の茶事と同様になる。
初入り挨拶で水屋から前茶を出し(正客以外は二人一碗)、初炭の点前を始める。

PC100402.jpg
炭点前を終え、燭台を立てた広間に移って会席。

2016121017270000.jpg
今回は土鍋でつくね汁。

2016121020000000.jpg
中立ちの露地に行灯を灯す。この行灯、本来は吊り灯籠だが、まま転用。
銅鑼の替りに喚鐘を打つが、朋庵では鰐口を鳴らす。手燭交換をして後入り。

2016121016530000.jpg
後入りの数寄屋、床の「するめ瓦」に火をつける、イ草の芯は五本。

2016121018470000.jpg
短檠(たんけい)と手燭(てしょく)の灯りで濃茶を練る、菜種油と和蝋燭の火が揺れる。
数寄屋では中板(外畳)の蓋置だが、手燭を置くために内畳とする。

マッカ―サー証言では日本の開戦動機を日本側の事情を組んだ証言となった。
その後の彼の話にもの、多々思い感ずるものがある。
例えは、日本人の思考が欧米人の十二歳児程度のものであるとか云々。
これには少々云いたいこともあるが、云われて仕方がないところもあるやに思う。
そして、彼の云う名言ともなっている言葉、
Old soldiers never die, but fade away.
老兵は死なず、ただ消え去るのみ。

この言葉は、米国仕官学校で流布している軍歌に基づく言葉であったという。
問題は日本語訳。老兵は「去る」などとは証言本文ではまったく述べられていない。
老兵は「fade awayする」と述べている。
軍歌のフェイド・アウェイの日本語訳は「老兵は皆さんとともに生き続ける」こと。
この意味の本質が良く伝わっていないのではないとの指摘がある。
これは、「(目には)見えなくなる」というのが正しい訳で。つまりマッカーサーの言葉は、
「兵は老ゆとも死なず、その姿が見えなくなるだけだ」
心は皆さんとともに今までどおり、永遠に生きてゆくのだ!」ということを云っている。

「消え去るのみ」という日本語訳を最初に紹介された方は内容を理解をしていなかったようだ。
その軍歌の解釈は、老兵は輝かしい戦功を残そうが残さない場合があろうが、
幾多の戦いを戦ってきたその魂は永遠に生き続けるのであり、
たとえ肉体はフェィド・アウェイしたとしても、その心は皆さんとともにあるのだ、
というような意味だとか。
やはり、十二歳の子供感覚である翻訳者には解釈は出来なかったのか。
それとも、軍歌拒絶感覚の一般人には内容解釈は所詮無理ということなのか。

恩師の御主人に関連する記事は全て削除した。
恩師から叱られたのである、五十五年ぶりのお叱りの言葉。
申し訳なく思うと同時に、何やら懐かしく嬉しくもあった。
私自身のこと、もう私は「消え去るのみ」で良いように思う。
人知れず消え去りたい・・。
2016120316230000.jpg
秋篠川の土手が刈り取られ、野花一つも見つからない。

雨の春日茶会で悪くした風邪をこじらせ、十日余り万年布団状態であった。
女房殿は長期お出掛けであり、愛犬「ハナ」と二人で人生の悲哀を語り合っていた。
明日は「夕去りの茶事」の稽古をするので、今日は布団を上げて準備をする。
夕去りの茶事は栗名月の旧暦九月十三日辺りに向いた茶事である。
夕暮れ時に席入りする客に水屋から薄茶なんかの温いものを出す。
普通は初座が軸で後座が花となるが、暗くなるので先に花となる。
炭と食事を終えた後の中立ちから、照明が入り夜会の雰囲気が出る
腰掛待合には露地行灯、灯籠、それに手燭の灯りで足下を照らす。
旧暦九月十三日なら、夜空には栗名月の十三夜という寸法である。
手水の桶石には湯の入った桶を用意しておく、水では冷たいという気遣いである。
後入りの合図は銅鑼ではなく喚鐘を使うが、朋庵では鰐口を使う。
数寄屋では短檠(たんけい)や手燭(てしょく)の灯りで点前をする。
和蝋燭や菜種油の灯心の火が揺れ、まま、幽玄の世界となる。
さて、これから散らかった部屋の片付けをして準備に入ろう。
本日、十二月八日を以って
朋庵のホームページを閉鎖します
「風翁ブログ」は残しますのでご来訪を宜しく
2016113013020000.jpg
我が朋庵の一坪露地、紅葉は今が盛りと照り輝いている。

春日茶会の後、風邪をこじらせていたが漸く治癒したようだ。
茶会のことでメールや手紙を頂いた。
皆、朋庵塾生の下足番に対する仕事ぶりと姿勢への感状・賞賛であった。
雨の中、ひたむきに下足番と云う役目に専心した朋庵塾生への手向けである。
私は、只々有難く嬉しく思い、便りを下さった方々へ逆感状を送り度思った次第。
「士は己を知る者の為に死す」という武の心、それを知る方々の惻隠の情であろう。

頂いた中に、学生時代を奈良で過ごしたという御婦人からの手紙があった。
奈良に居た間、円照寺の山村御流の花を学び、奈良の地を巡り歩いたとか。
彼女は茶会の前日に奈良に入り、浄瑠璃寺や岩船寺へ参ったという。
有名観光場所でなく、やや遠くながら隠れ寺を訪ねたということである。
次の機会には法蓮の一条通りを歩き秋篠寺まで行って見たいともあった。
法蓮という町は私が生まれ育ち、小中高の学校に通った処である。
御婦人は「青春を奈良の地で過ごせたのは私の財産です」と記されていた。

私は嬉しくなった、「人が自慢して良いのは故郷と友人である」。
とは私の高校時代の古文の先生の談、今以って私はその先生の言葉に納得。
由って、奈良のことと朋庵塾生のことは大いに自慢したい。
私は三十代初め頃、立原正秋という小説家の著書を通読していたことがある。
朝鮮半島出身で九歳で日本に来て、日本語と中世文学の勉強に傾倒した御仁である。
彼は昭和五十五年に逝去するが、その二か月前に家族皆で立原姓に改姓した。
その年に彼が発表した遺作ともいえる「帰路」という作品がある。
その中で彼は云う、日本人の帰路は「奈良と茶」であると。
その話に私は大いなる感銘を受け、今は更にその思いを強めている。

朝鮮人であった彼が、日本人であることの意味を突き詰め続けたその答えである。
その「帰路」という本に接した時、私は広島で上田宗箇流の茶を習い始めていた。
本を読み終えた私は、自分の恵まれた環境背景を嬉しく思った記憶が残る。
自慢しても良いもの、それは故郷と友人、高校時代の古文の先生の言葉、是である。
その先生が宿直の時、家が近かった私が宿直室へ行くと、一升瓶で酒を注いでくれた。
先生と生徒の在り方、法蓮町の古き良き時代の話である。



2016120113050000.jpg
コタツ布団に横たわる愛犬「ハナ」。
目を悪くしてからは私の居る傍に屯するようになった。
自分の居場所であったソファーへの上がり下りがシンドイようだ

昨晩の私の夕食はアンコウ鍋、あることに気が付いた。
ハナにアンコウの骨を与えても食べないのである。
以前もそうであったが、その時は腹が空いてないのだろうと思っていた。
前にも同じことがあったのは、ハモの骨と赤エイの骨である。
つまり、ウロコのない魚である。
ウナギ・ドジョウはハナも旨そうに食べる、この二種はウロコがあるらしい。

ユダヤ人はウロコのある魚を食べないのは周知のところ。
旧約聖書の中にユダヤの失われた十支族という話があるとか聞く。
その一支族は日本列島に行き着き日本人になったという伝説がある。
まま、「トンデモ説」の一つであろうが世界中に広まった説でもある。
私もトンデモ説と思っているが、ただ満更嘘でもないことも分かって来た。
日本人の遺伝子が東アジア人とは別種の系統であるとDNA研究で示された。
日本人の系統に近いのがチベットやアンダーマン諸島の人達とか。
次に近いのが地中海沿岸の人達であるという、ユダヤ人もその中に含まれる。

日本犬は狼に近い世界で最も古い犬種として、アメリカで研究発表がされた。
今、世界で発見された犬の遺骨は一万五千年前位で、日本では一万年位前。
柴犬の祖先・縄文犬は中央アジアの地で縄文人の祖先と巡り会っていたようだ。
つまり、人類と犬の初めての出会いは縄文人と柴犬(縄文犬)であったということ。
日本列島への縄文人到来は三万年位前で縄文文化の萌芽は二万年前位。
遺骨はまだ出ていないが、縄文犬も一緒に来たものと想定される。
ユダヤ人の日本人祖先説は少々トンデモだが、もしそうであればである。
日本犬はユダヤ人の風習により、ウロコの無い魚を食べないとしたら面白い。
縄文犬「ハナ」は、風邪の治りかけの私の頭に色々と話を投げかけてくれる。
2016.12.01 ズボン
2016120109140000.jpg
目の悪い愛犬「ハナ」が墜落した川の擁壁に、はこびるヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)。
タデ科の植物の一種で別名はカンイタドリ、ヒマラヤ原産で明治中期に渡来。

今朝は七時過ぎに目が覚めた。
常なら四時過ぎに目が覚める私には珍しいことである。
喉の痛みも和らいでおり、詰まっていた鼻孔も開通している。
体調に回復のきざしにあるようだと、嬉しくなって起きた。
豆腐汁で朝飯を済ませ、ハナの散歩に出掛ける。
帰ってから、買い出しをを兼ねてスポーツジムの風呂へ三輪車で出掛けた。
一週間ぶりの風呂である、体を洗い流し湯船にジックリ浸かった。
体重計に乗ると二キロ減っていた。
スーパーで、天ぷらとアンコウ、そして太ネギを買い帰宅。
帰ってからズボンをはいていないことに気が付いた。
風邪のため、ラクダのバッチをはいていたのでズボンをはき忘れたのである。
小学校の時、ズボンをはき忘れパンツ一丁でランドセルを背負い学校へ行き、皆に笑われた。
その懐かしい想い出以来のことだ、明日ジムへ取りに行こう。
今日の昼は天ぷらでビール、夜はアンコウ鍋に芋焼酎の湯割りとする。