70年前の今日、台湾で228事件が起きた。
昭和22年2月27日、煙草売りの本省人(台湾人)寡婦に外省人(国民党支那人)兵士が暴行。
これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。
しかし、外省人憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がる。
国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを本省人を徹底的に鎮圧した。
その犠牲者は二万とも三万とも云われているが実態は明らかにされずに今日に至る。
そんな中で、命懸けで民衆を守った一人の男性弁護士がいた。
日本人の父と台湾人の母を持ち、台南市で生まれた坂井徳章、台湾名・湯徳章。
敗戦で周囲の日本人が引き揚げる中、台湾に残って弁護士活動を続けた。
大陸から渡ってきた国民党政権から民衆を守ろうとしたのである。

日本人を首謀者に仕立てたい当局ににらまれ坂井は逮捕された。
坂井は拷問を受けても、決起しようとした若者の名前を一人も明かさなかったという。
処刑が行われたのは逮捕から2日後の3月13日。
拷問で肋骨(ろっこつ)が折れ、手の指も動かなくなった坂井は、後ろ手に縛られた。
処刑場となった台南中心部の公園に連れてこられても悠然としていたという。
多くの市民が見守る中、目隠しされることを拒否。
蹴りつける兵士にひるまず立ち上がり台湾語で叫んだ。
「目隠しは必要ない。なぜなら私には大和魂の血が流れている。
もし誰かに罪があるとしたら、それは私一人で十分だ」。
さらに日本語で「台湾人、万歳」と高らかに叫んだ直後、3発の銃弾に倒れた。

前に日本列島を離れて神道・神社は伝播しないと云ったが、台湾は別のようだ。
神社の鳥居も残り、日本人を神として祀る廟(神社)や銅像が建つ。
大陸支那や朝鮮半島の反日感情と台湾の親日感情の違いはどこから来るのか・・。

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台南市にある坂井徳章(湯徳章)の銅像。
台南市は、事件から70年の節目となる2月28日に犠牲者の慰霊祭を開く。

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台南「八田與一記念公園」にある土木技師・八田與一の像。
台南の烏山頭水庫(ダム)と嘉南用水路を完成させ台湾最大の穀物地帯を作った。

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北白川宮能久親王を祀る桃園神社(現・桃園忠烈祠)

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台南上空で戦死した日本海軍飛行兵曹長「杉浦茂峰」を祀る「鎮安堂・飛虎將軍廟」
被弾した自機が市中へ墜落するのを避け、旋回して郊外で戦死した。
廟では毎日、「君が代」が斉唱され、夕方には「海ゆかば」が歌われている。

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嘉義の警察官森川清治郎を「義愛公」の尊称で神像を作り、富安宮という廟に祀る。
台湾総督府の新規漁業税に苦しむ漁民が税の減免を森川へ嘆願した。
森川は嘉義庁へ赴き減税を求めたが、支庁長は住民を扇動の罪で森川を訓戒処分。
徴税を重ねて命じたことで森川は所持する銃で頭部を打ち抜き自殺(明治34年4月7日)。

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明石元二郎台湾総督も埋葬されていた三板橋墓地、今も鳥居がある。

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台南にある鄭成功(国姓爺)の廟。日本人の母も祀られている。
どうも台湾人の親日感情の根底には鄭成功の活躍があるように思われる。
平戸島生まれの母・田川まつと、明人の父・芝龍(しりゅう)の間に生まれた。
彼は清に倒された明朝に最後まで忠誠を尽くし、台湾をオランダの支配から解放した。
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2017.02.27 散れば見苦し
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「急ぐとも 外にもらすな 玉の露 吉野の桜も 散ればみぐるし」

短歌の会が開かれる会場付近のうどん屋の厠にあった掛物。
今月初めの例会に参加した際、腹ごしらえに寄った処である。
この辺りは短歌好きの多いのかと妙に感心させられて撮ったもの。
次の例会は三日、規程の詠歌二首の提出期限が来た。
ままよ、今回はこれで許してもらおう。散ればみぐるし。

南京の 大嘘あばく アパホテル アッパレカッポレ 朝日が沈む
アルバムに 挟まりてあり ガリ刷りの  歌集に聞こゆ 若き師の声
2017.02.26 226の日
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以前使った赤ナマコの写真。

昨夕、娘が赤ナマコをニ体持って来てくれたので、写真に撮ろうしたがスマホで四苦八苦。
漸く自分のパソコンに送信は出来たがアップロード失敗、以前使った写真を再登場。
赤ナマコの身はコリコリとして私の好物、大根おろしにポン酢と一味唐辛子で食す。
青ナマコは身がふにゃけた感じで私は好まない。同じナマコでも人間同様に違いがある。

今日の産経一面に「非漁業者のナマコ密漁横行」とあった。
昨年には1308件の摘発があった書かれている。
アワビの密漁も増えており、暴力団の資金源になっているとか。
考えてみれは、干しナマコや干しアワビは江戸時代の日本の代表的輸出品であった。
それは支那料理には欠かせない高級食材として扱われていた。
と、思いながら私は今朝は昨日の残りの赤ナマコを再度アテに、朝酒を楽しむのでる。

ところで、今日は2月26日、226事件の日である。
やや風化されて来た感があるが、日本人として忘れてはならない事件であろう。
「昭和維新の断行」を叫んで決起した歩兵第1・第3連隊、近衛歩兵第3連隊。
約1500人の兵士が、首相官邸、内大臣邸、教育総監邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃。
三宅坂から永田町一帯を占拠した事件、昭和11年(1936)年2月26日のことである。
これまで色んな書物や映画で、その真実・史実を語る話が多く世に出されている。
私も少々は知ってるつもりであったが、昨日の新聞情報で初めて知ったことがあった。
事件決起の青年将校達には、マルクスの資本論を読んでいたと云う話である。
つまり、青年将校らは国家社会主義運動の旗手であったとも云えるということ。
そして、銃殺されるにあたっては、ほぼ全員が「天皇陛下万歳」を叫んで逝ったとか。
以下は、事件の三日後の戒厳令司令部発令の文面である。
 下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
    二月二十九日   戒厳司令部

私は感動を覚えたのは、この令に下士官兵の誰一人も動かなかったことである。
青年将校たちの行動に同調していたのか、それとも上官命令に殉じていたのか、
この下士官兵に先の大戦で絶望的環境にありながら戦い抜いた日本兵が重なる。
そして、今の日本には珍しい愛国思想に立つ左翼というものの具現であったろう。
226事件、私は新たな事実を知ったようで嬉しくも哀しく思う今日である。
226事件の出動部隊は、後日のノモンハン事変の最前線に投入され略全滅した。
「大日本帝国共産党」、私一人の党であるが、226事件の青年将校と兵下士官は入党。
で、今日の226慰霊の直会の膳に「赤」なまこを出し、私が神饌の独り酒を愉しむ次第。

http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060037_00000http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060037_00000
2017.02.24 風のこと
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長崎県壱岐・郷ノ浦港の近くに建てられている「春一番の塔」

この時期の新聞やテレビでの季語と云えるのは「春一番」と「東風・こち」。
安政6年2月13日郷ノ浦の漁師が出漁中、おりからの強風で船が転覆、53人の死者を出す。
昔から壱岐で「春一」と呼んだ強い南風を事件以降「春一番」と呼ぶようになったとの記念碑。
民俗学者の宮本常一は研究のため壱岐・郷ノ浦を訪れてこの「春一番」をいう語を採集。
宮本は昭和34年に壱岐で用いられている語として『俳句歳時記』で紹介した。
「春一番」という語の新聞初出は、昭和38年2月15日の朝日新聞「春の突風」という記事。
このため2月15日は「春一番名付けの日」とされたという、何時もながらの朝日の身勝手記述。
実際には、「春一番」という語は能登半島や志摩辺りで昔から使われていた記録があるらしい。

さて、東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ。
誰もが知る天神はん・菅原道真の歌のお蔭で、東風(こち)は有名である。
因みに、大和西大寺の南の菅原が一党の本貫地、北の秋篠と共に野見宿禰の土師氏。
では東南西北、東風以外の風となると知名度は1翻(イーハン)落ちのようだ。
東風は「こち」、南風は「はえ」、北風(あなじ)、西風(ならい)。
漢字が伝わる前の古い大和言葉(縄文時代含む)から生き残った古語。
南風そのものは「春一番」ではない、「はえ」は隼人の語源という学者もいる。
隼人(はやと・はやひと)の「はや」が南風(はや)に由来する云々とかである。
私はテレビ漫画「タッチ」をよく見た。その女の子「ミナミ」の喫茶店が「南風」。
まま、この喫茶店名は「ミナミカゼ」であった・・。
北風(あなじ)は北陸から山陰、西風(ならい)は伊勢志摩から東国の風のようだ。
私には実感がないが、彼の地辺りでは苗字にもなっているとか。
私の号・風翁(ふうおう)は「かぜのおきな」であった・・。
そう云えば、昭和44年のフォークソング「風」、ええ歌や。
https://www.youtube.com/watch?v=7i1LZIqb_V4

2017.02.23 縮み志向
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娘宅に渡した和傘。そのままにしてあったので水を掛けて干した。
さらのままだと、傘骨と紙の糊がくっ付いて開きにくくなる為だ。

我が家の古い和傘の紙を貼ろうと、油紙を探したことがあったが間違いであった。
和傘に貼る紙は和紙をそのまま貼るということで油紙ではなかった。
傘骨にヤマト糊(澱粉のり)で和紙を形に切って貼り、乾くと柿渋を塗る。
柿渋が乾くと、次に植物油を塗って乾かすということだそうだ。
植物油は「荏の油(えのあぶら)」「亜麻仁油」「桐油」や「丁子油」「椿油」とか。

傘は支那から入って来たものだそうだが、当初は開きっぱなしのものだった。
それを縮む形にしたのが和傘で、一般に普及したのは江戸期からだという。
同じく扇も、日本に来てから縮む形になったものだそうだ。
日本人は縮み志向にあると、朝鮮人学者が書いた本を読んだことがある。
もう私は縮んで生きて行こう、背も縮んできた。
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私のガラ系携帯電話の待ち受け画面にしていた愛犬「ハナ」の写真。

二年前の前に撮ったもので、ハナの目が白内障に侵される前の写真。
このソファーがハナの常位置で、窓際に横たわり外を眺めるのが好きだった。
視力が弱った今ではもうソファーの上の犬マットで寝ることはなくなった。
脚力そのものより、上下移動の降りる行為が盲いたる身には難しいようだ。
今では、昼間はコタツ布団の上、夜は私の布団の中に入って寝るようになった。

実は、先の木曜日に携帯電話をガラ系からスマホに変えた。
ガラ系のネットサービスが終了するとかの話を聞いたからである。
実際のところは今すぐ終了ということではなかったが、この際変えることにした。
理由は、ブログ記事の修正がスマホからなら出来るということであったからだ。
私の書き込みは誤字脱字やテニヲハの間違いが多く、推敲不足の指摘を受ける。
確かに、外へ出た時に携帯でブログを確認するとアチコチに間違いが見受けられる。
ガラ系では仕方がなく後からパソコンでと思いながらそのまま忘れてしまうことが多い。

そんなこんなで先の木曜日にドコモショップへ行って機種の選択、もちろん簡単スマホ。
扱い方の説明を受けるも中々頭に入らない、さっき云ったでしょうという店員の顔付。
何よりも、文字入力がままならない。押さえたハズの英数字が間違ってしまう。
店員は素早い指使いで文字入力してみせるが、そのドヤ顔目付きも気に障った。
二時間程居てると徐々に次の客のことを気にする店員の素振りがアカラサマに。
「よっしゃ、分かった、これにする、箱は要らん、そのままでええ。」と云って店を出る。
近くのミスドへ入り、一時間余りそのスマホをいじくる。
店内でスマホを触っている若い子に近付いて行き、「ちょっと教せて」と声を掛ける。
あれこれ聞くと店員に変な顔をされ、適当なところで席へ戻りまた自分でいじくる。
ミスドを出て、再度ドコモに行くと、順番の待ち時間が45分だと冷たく宣言される。
待合席に坐り、スマホをいじくっていると、先程の男子店員が女子店員に一言。
女子店員が来て、「担当者は他のお客がありますので、私で良ければお聞きします」とか。
私は「ちょっと教えてくれるか」とまた色々聞いて店を出て、家に戻ってからもいじくり回す。
そのうち、要充電のサインが出たので手持ちの充電器に繋ごうとしたが接合できない。
翌々日にまたドコモショップへ行き、充電器を仕入れた。
担当者の曰く「充電器の説明を忘れていました」、私「・・・。」
>田中
貝になる前にもう一つだけ。>上下という感覚から離れる<これが、日本神話が描く神々と人との関係性に重なって見えます。日本神話の神は、耶蘇会のデウスのように無謬性が強調されることはなく、民草と同程度にやんちゃであり、天照大神ですら祭祀する側に立つ場面もある。日本神話は、デウスと人間のような「上下二元論」ではないですね。禅僧の哲学を待つことなく、日本には「茶の湯」の様式を生む土壌があったとはいえないか?してみると、絢爛な時流に逆らうような侘び茶の完成は、縄文回帰のようにすら思えてしまいますw
紹鷗は青年期を吉野で、京には二十四歳から、それから堺。青年期の縄文風土を引きずるのは風翁と重なってきませんか?縄文育ち、都体験、市場参入w <

上つ方、すなわち上方の大和から、下つ方、すなわち坂東の荒武者はんへの返事でおます。
思いまするに、神道というものは曰く宗教に分類されるものではおへんやろう。
日本人の持つ日本文化、即ち日本列島で育まれた精神土壌の価値観体系でおます。
不浄を厭う心、死への見方や対応もアッサリというか、淡々と視界から遠ざけておす
心を暗くする或いは心を痛める要素を排除する、云わば精神衛生学の極めという風俗思想。
思いまするに、茶の湯とは神道の心根を源にして生まれたのではなかろうかと・・。
耶蘇はん、仏はん、邪まな思いで寄って来る茶人、禅坊主も、皆はん茶文化受け入れなさった。
但し、日本列島の精神土壌におへん方々には通用しまへん。
神道が日本列島以外には伝播せなんだのと同じ話だっしゃろなぁ。
紅毛人が茶の湯云々と云うても、所詮はブリーフはいて和服を着てるのと同じこと。
桃山期の耶蘇坊主、茶の世界に西洋思想の価値観体系とは違うものを見つけなはった。
一神教におへん止揚の精神衛生に触れて開眼されなはったということでおますのやろ。
その神道の聖地は吉野、縄文の地、紹鴎の生地でおます。

武野宗延はんと云う御仁が東京・池袋に居てはります。本名は岡本茂延はん。
母君が武野家の出、そして祖母の武野玉治はんが武野紹鷗の流れを伝える御仁とか。
そういう一族の希望もあり、今は紹鴎流武野宗家15代家元ということでおます。
御仁は「利休の師、武野紹鴎」と云う本を上梓されており、他に「武野紹鴎―茶・禅の心」
「幸せを呼ぶ蓄財道―茶人武野紹鴎の真髄に学ぶ」、「大和史空白の謎」の著書。
電話で何度か話をさせてもろたことがおますが、不動産鑑定が本職とかいうこと。
私に対しては「奈良の御方に、それは恐縮です」とか、中々に腰の低い御仁でおした。
蓄財の教授をしていなさるとは、紹鴎の遺伝子を母方から受け継がれていなさると納得。
私は、紹鴎はんが茶の最高峰にある御方と思いまする。
およそ、与四郎宗易 はんの及ぶところではおへん、と存じおりそうらう。



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黄昏(たそがれ)時が遅くなって来て、愛犬「ハナ」の散歩にもゆとり(余裕)ができた。

茶友との二晩三日の会話、彼が帰る日の朝餉は茶粥でなく「きつねうどん」にした。
彼曰く、飲んだ後はラーメンが好いが朝餉はうどんが好いとか、同感である。
まま、私はラーメンとは云わない、「支那ソバ」と云う。
香港へ行った時に、献立表に拉麵と書いてあるので注文すると焼きソバが出た。
私が云う拉麵を説明すると、それは「ヌードル・ウイズ・スープ」だと教えられた。
支那でいうラーメン(拉麵)とは手延ばし麺のことで、一般には焼きソバとして食す。
一方で、日本のラーメンは「うどん」を源流として支那麺を応用した日本料理である。
支那では日本の拉麺を「日式拉麺」と呼び、伝統的な支那の拉麺とは区別する。
よって、拉麵(ラーメン)とは「支那そば」と云うのが正しい呼び名であると知った。

茶友の話の本題は「茶の文化」ということ、支那ソバの話はさて置く。
茶友は「上つ方・うえつかた」と云う言葉と「自由閣・自在閣」と云う言葉を使った。
茶の湯のことは、ある時は「上つ方」、ある時は「下つ方」となることであるとか云う。
そして、自由自在にその時その場を作ることであると云う。
彼の話は、昨秋の春日大社の茶会で朋庵の人達が「下足番」に徹したことであった。
曰く、上の役でも下の役でも自在にこなすのが茶の心、それが出来ることこそ茶である。
つまり、上下という感覚から離れることで茶の文化が生まれたように思うと云う。
富貴・卑賎、地位・権威、煩悩・執念の外、解脱の心が茶の心ではなかろうかと云う。
茶友は、仏教系の大学に学び中国地方(支那でない)の基幹産業に勤務した。
在職のままで、禪と茶を全うした彼の言葉の玄旨に頷かされる。
その朝、私としては珍しく珈琲を出して彼を送った。
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昭和17年2月14日、蘭印のスマトラ島・パレンバン油田を日本軍落下傘部隊が奇襲占領。
100式輸送機から舞い降りる姿は「空の神兵」と呼ばれた。(写真)

思うに、空の神兵はチョコレートなる西洋菓子を口にしたことがあったかどうかは微妙。
寛政9年(1797)、長崎の『寄合町諸事書上控帳』にチョコレートの記載があるという。
遊女大和路が出島の阿蘭陀人から貰い請けた品の中に、“しょくらあと 六つ”の記載。
これが史料に記された日本で最初のチョコレート、遊女が「大和路」とは少々気に入らん。
そこで、蘭印つまり阿蘭陀(オランダ)領インドネシヤを攻撃し占拠したのは大和男児。
チョコレートは現在のメキシコ南部、中央アメリカの地域で生まれたとされる。
カカオ栽培の農耕文化やマヤ、アステカなど独自の文明が繁栄した地域である。

日本のチョコレート生産の濫用期は明治末から大正の頃。
明治32年(1899) 森永商店(現森永製菓)、チョコレートの製造はじめる。
同42年(1909)には我が国最初の板チョコレートの生産・販売。
大正2年(1913) 不二家洋菓子舗(現不二家)がチョコレートの製造・販売をはじめる。
大正3年(1914) 芥川松風堂(現芥川製菓)がチョコレートの製造・販売をはじめる。
大正7年(1918) 東京菓子(のち明治製菓・現明治)、チョコレートの製造をはじめる。
昭和になると、チョコレートの嗜好が一般に受け入れられて大衆化してきたが、つかの間。
やがて長い戦乱の時代となり、チョコレートの生産も中断される。
我が国の海外での戦線の拡大とともに軍需用品以外のものに制限が加えられる。
昭和15年(1940)には、軍需用以外のチョコレート製品の製造が中止になる。
もしかしたら、空の神兵たちは軍隊生活の中でチョコレートを口にしたとも思える。

昭和20年(1945) 日本の敗戦で進駐軍が入って来た時、チョコレートも来た。
外国産チョコレートが、外国人向け商社や進駐軍用、ホテル用などで販売された。
非正規ルートでも国内に放出されて流通、つまり闇市やパンパン宿経由とかである。
「ギブミーチョコレート」と叫びながら、ジープの後を追う日本の子供、懐かしい光景。

日本のチョコレート業界は、チョコレートを模した代用グルコースチョコレートを開発・生産。
甘いチョコレート風味を望む消費者の需要に供給が追い付かないほどの売れ行きを示す。
昭和24年には、東京都復興宝くじの景品用として、約80万枚のグルチョコが納品される。
昭和26年(1951) カカオ豆の輸入がはじまり日本のチョコレートの生産が再開される。
昭和35年(1960) カカオ豆・ココアバターの輸入自由化
多くのチョコレート製品やココア製品が世に出て、今日のチョコレートの隆盛がはじまる。

さて、昭和11年(1931)2月12日のこと、バレンタインデーの広告が出たという。
神戸モロゾフ製菓が東京の英字新聞『ザ・ジャパン・アドバタイザー』に広告を掲載。
「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーである。
これが、確認されている最も古い“バレンタインデーにはチョコを”の広告である。
実際のところ、バレンタインデーが日本社会に定着したのは、昭和40年代後半である。
女性が男性に対して、親愛の情を込めチョコレートを贈与する日本型バレンタインデー。
この様式が成立したのもこの頃であり、私なんかには縁遠い話であった。

因みに、我が女房殿の誕生日は2月14日である。
私が何かを贈る日となっており、私が女房殿からチョコレートを貰う日ではない。
そして、私が軍歌「空の神兵」を口ずさむ日でもある。
この歌が反戦歌であったと知る人は意外に少ない。鶴田浩二が歌う「空の神兵」
https://www.youtube.com/watch?v=sZwRg-rNnzs




2017.02.13 公用語
800px-Flag_of_Angaur_State.png
太平洋の島国パラオ・アンガウル州の州旗、私には「桜花」に見える。
アンガウル島で第二次世界大戦におけるパラオ=マリアナ戦役の最後の戦いがあった。
飛行場の建設を意図したアメリカ軍は、昭和19年9月17日に上陸戦を開始した。
圧倒的な兵力差のもと、米軍は9月30日に島を全面占領した。
日本軍守備隊、歩兵第59連隊第1大隊1,250名、戦死 1,191、捕虜(負傷) 59
米軍上陸部隊、第81歩兵師団21,000名、戦死 260、負傷 2,294
天皇陛下はパラオ訪問時、ペリリュー島からアンガウル島に向い礼拝された。

昨日の新聞テレビは安倍首相と米国のトランプ会談のニュースで持ちきりであった。
私が面白いと興味を持った場面があった。記者会見の場面である。
2人に対して、日本側プレスから「こちらもお願いします」と声がかかる。
こちらのカメラの方も向いていください、ということだろう。
そしてトランプ大統領が安倍首相に「何て言ったのか」に尋ねると、
総理は "Please...look at me." と答える。これを受けて大統領は、
"Ah." といって安倍首相をじっと見つめ、そのまま手を握り続ける。
総理は、こっちを向いてください、というカメラマンの求めを訳したつもりなのだろうが、
大統領は文字通り「私を見て」という意味に取ったとしか思えない。
つまり、安倍さんの英語はトランプ氏には正しく伝わらなかったようだとか。

私が頭に浮かべたことは、日本と米国は公用語が無いということである。
但し、米国は多くの州単位で公用語を決めている。
日本と米国には公用語が無いということの理由は真逆である。
日本は99%以上の人が日本語を話し、わざわざ日本語を公用語に指定する必要はない。
米国は多民族社会で、色んな言語が話されていて、国として公用語を指定できない。
私が思うに、言語こそ文化を示す最大要素であり、その価値体系を表したものである。
言語を潰すということは、その文化・価値体系を潰すことことに等しいと云える。
標準語あるいは東京弁の強要は、地方文化を潰すことを意味している。
畿内の人達は何処でも上方言葉を当然顔で使うが、他では東京弁が大きな顔をしている。
日本の東京弁と同じく、今の世界では英語が大きな顔をしている。
私の学生時代には、ジリオラ・チンクェッティのイタリヤ語の歌を覚え口ずさんだもの。
シルヴィ・ヴァルタン のフランス語の歌も覚えたいと思ったが、あの鼻声は無理だった。
ドイツ語やスペイン語の歌は聞かなかったが、支那語曲は李香蘭が歌っていた。

閑話休題、公用語。
日本でさえ日本語が公用語に指定されていないのに、日本語が公用語になっているところ。
それはパラオ共和国のアンガウル州であり、州の公用語の一つになっている。
日本も含め日本語が公用語になっているのは世界中で唯一パラオ共和国のアンガウル州。
ということは、日本の文化が理解されているのか日本民族への好感度が高いのであろうと想像。
平成9年(1994)に独立したパラオ共和国の初代大統領は日系人のクニオ・ナカムラ氏。
島民を非難させた上で、圧倒的兵力差がある米軍上陸部隊と果敢に戦い抜いた日本軍兵士。
ペリリュー島やアンガウル島での日本軍の戦いぶりをパラオ共和国の人々は覚えていている。
かの地の日本軍戦死者は決して犬死ではなかった、と私は思いたい。
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南東から見た畝傍山、麓に橿原神宮がある。向こうに見えるのは大津の皇子が眠る二上山。
2677年前の今日、皇紀元年正月(新暦2月11日)、神武天皇がこの地で践祚(即位)。

茶友との二晩三日の会話は続いた。
日本人の尊王とは、天皇という個人や皇室という閨閥そのものに対するものではない。
それは、神武天皇から受け継ぐ血、そのY染色体遺伝子を繋ぐ男系血統へのものであろう。
写真の二上山は、縄文時代より黒曜石を産する場所であった。
黒曜石は鋭利は石器であり、金属の出現までは刀剣、槍、矢じりの貴重な材質であった。
この黒曜石は産地が限られ、アジアでは日本列島のみと云っても良いほどである。
日本では黒曜石が古くから石器として広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。
伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、3万年位前のの南関東の遺跡で発見されている。
伊万里腰岳産の黒曜石が朝鮮半島南部の櫛目文土器時代の遺跡でも出土しており、
隠岐の黒曜石はウラジオストクまで運ばれている。
また先日、沖縄で返還された米軍基地から青森の亀ヶ岡式の縄文土器が発見された。
逆に、沖縄先島諸島の宝貝が東北・北海道の縄文遺跡で発見されている。
伊豆諸島から黒曜石を運ぶには、船で黒潮流れる外洋に出なければならない。
沖縄へ向かうには、海流に逆らった航海をしなければならない。
世界最古の土器といわれる縄文式土器が日本列島で出現していることは有名だが、
石器を研ぎ刃物にするという磨製土器の世界最古のものも日本で出現しいる。
下の写真は日本で発見された世界最古の磨製石器、材質は黒曜石。
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磨製石器の出現が考古学では旧石器時代と新石器時代の時代区分とされている。
縄文人・縄文文化の姿とは、その航海術や土器・石器で世界最先端文化を生み出していた。
縄文人Y染色体遺伝子を継ぐ世界最古の帝位、初代天皇即位が2677年前の今日である。
私が思うに、文化の交流はあっても、文化の融合はあり得ないということ。
文化とは価値観の体系であり、民族とは文化の共有者のことである。国民とは概念が違う。
文明と文化は根源的に違うもの、文明はグローバルへ、文化はローカルへと向かうもの。
国家間の交流とか条約締結より、民族間の交流と絆の方が本来のものであろう、と思う。
茶友は頷く、彼とは価値観の共有部分が多いようだと心の中で私は莞爾。
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茶友が来た日は天気が良く、奈良三条町にある風呂屋の煙突が空に映えていた。

郡山の古い商店街を茶友と歩いていた時、屋根を見ながら私が寅さん口上を云った。
「 見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ。数の始まりが一なら国の始まりは大和の国。」
話の主旨は、○○屋という職種が少なくなり、サラリーマン社員の社会になったこと。
○○屋という業種店や職人店員が減り、量販店の社員ばかりになった云々と云う話。
屋根屋のフンドシと云ってもピンと来ない人が多くなったが、職人文化は残ってもらいたい。
とか云いながら大和の話になり、茶の始まりは京都でなく奈良であるとの話をしたのだった。、
奈良朝時代には奈良の各地で茶が栽培され貴族・僧侶の上流社会で喫茶されていた。
喫茶の始まりを栄西禅師が宋から茶種を持ち帰り、栂尾の明恵上人が栽培したとの話がある。
茶を生業とする京都の千家系統の茶人とその上米をはねる禅坊主が流布させた嘘話である。
京都の茶家や禅僧が一緒になってこの嘘話を吹聴し、茶を自分達の生業にを結び付ける仕儀。
南京虐殺事件と同様の大嘘話であると云って宜しかろう。
面白いことに、栄西開山の建仁寺では茶は奈良朝に伝わったと正しく記されている。

http://www.kenninji.jp/yousai/chaso.html

この私の話は、前のブログのオチとなる。
つまり、今から催される奈良の「珠光茶会」と称される奈良市の行事。
どういう訳か、京都の「偉い坊さん」が出張って来て音頭取りの主役になっている。
その脇について来ているのが京都の茶家とそれに繋がる茶人たち。
前のブログに記した奈良に縁があった茶匠や武将達の茶流は入っていない。
奈良の寺社は追随しているが、肝心の珠光流も珠光所縁の称名寺も不参加。
私の知る学者も企画論旨の奇妙さに気付きながら参加し、下手な言い訳を奏でる。
まま、茶券の販売力と客の動員力のことを考えた話で、歴史や文化の話ではない。
奈良は奈良たる自負と矜持があって然るべき、と私は思っている。
歴史と文化とは、それを生業の糧にしてしまうと腐臭が漂い卑下るもの。
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赤穂浪士吉良邸討ち入りの元禄十五年創業という雑穀屋。

遠来の茶友と大和郡山の近鉄駅から国鉄駅まで旧商店街を歩いた。
百十余万石を領した大和大納言・豊臣秀長の城下町である。
歩きながら、この盆地に縁を持つ茶人の話になった。
先ずは奈良・稱名寺の村田珠光、その一番弟子の興福寺衆従・古市澄胤。
武野紹鴎は吉野が出自、大和に所領があった織田有楽や古田織部、片桐石州。
郡山城で秀長の小姓・小堀遠州、和歌山城代であった大和新庄藩主・桑山重晴。
重晴の子の桑山宗仙は片桐石州の茶の師匠である。
こうして見ると其々がいわゆる武将茶人である。大和には千家の流れは無い。
茶を生業とする「茶人」でなく、茶を業余のものとする「数寄者」の茶の流れである。
断りを入れると、「武将茶人」という言葉は本来存在しない、茶人と数寄者は違う。
茶友は禅道場を持つ在家の禅師でもあり、定年を迎えた企業の嘱託社員でもある。
宗教も茶も、それを生業にすると求めるものが違うものになって当然。
私も茶友も茶は業余のもの、茶を生業にする人達との本質の違いを語り合う。

茶道学者として名がある熊倉功夫氏の言では、
「数寄者というとき、それは茶人とは区別される人々をさす。茶人とは、一定の流儀に属し、茶道を教授して業とする人々を意味し、さらに広くは、将来茶道教授たらんと修業する人々もこれに含めてよいであろう。数寄者は茶道を業としない。したがって、生業を茶以外に持ち、茶道を楽しむ人びとである。」

2017.02.07 椿のこと
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道端の「紅侘助」、と云っても多くの種類がある。私には名前の特定は無理。

先日、茶友が二晩泊まったが、多くのことを語り合った。
その中で、椿と山茶花の違いも話題にした。
共にツバキ科ツバキ属で日本原産ながら、特徴はそれぞれ異なっている。
よく知られる違いは花の散り方。
山茶花は花びらがバラバラに散り、椿は花ごとボトっと落ちる。
次は葉っぱの違い、太陽に透かした時に白いのが椿、黒いのが山茶花。
山茶花の葉は小形で、 葉柄から主脈にかけて繊毛が密生している。
椿の葉は殆ど無毛でつるっとしている。
また、花が咲く時期で違いがあり、山茶花の方が晩秋から冬の時期に咲き、
椿は冬から早春に咲き、別名「耐冬花・にんとうか」とも呼ばれる。
しかし椿と山茶花の交配種もあり一概には云えない。
日本では、北海道を除く地域に椿が分布しており、千種類はあるとか。
原種はツバキ科ツバキ属のヤブツバキ(藪椿)という種類。
多くは、このヤブツバキから変異したものと考えられている。
椿の学名は「カメリア・ジャポニカ」、 日本から欧州に持ち込まれている。
欧州でも、庭木として品種改良されて人気を得ているという。

因みに、支那では日本で指す椿は「海石榴」と表される。
「椿」という字は日本で作った曰く「国字」である。
漢字の「椿」は支那では別の種類の木を指すらしい。
それと、支那では日本で指す椿のことを「山茶花」とも書くので注意。
万葉時代、遣随使・遣唐使が日本の特産である椿と椿油を持って渡った。
当時の支那文化の中心は北方にあり、温暖な地域で育つ椿の分布圏ではない。
由って、日本人の付けた海石榴と海石榴油の漢名が椿・椿油と一緒に入ったとか。
まま、日本列島は大陸文化の吹きだまりのように考えられているが、
椿は日本から支那大陸へ舶載された数少ない特産物の一つだということ。
椿油は日本髪や丁髷(ちょんまげ)の鬢付け油や日本刀の手入れに使ったもの。
つまり、椿は日本列島と日本文化に根を持つ日本特産の植物である。
奈良・桜井にある日本最古の市場跡は海石榴市(つばいち)と呼ばれる。
茶友との二晩、茶の湯文化と茶人の在り方も語った。次に・・。
2017.02.06 ハナの誕生日
今日2月6日は愛犬「ハナ」・本名「竹姫号」の誕生日である。13歳になった。

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加齢荷重の所為か足腰が弱って、ヨタリ気味に散歩する。

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白内障が進み視力が落ちている。透き間のある側溝盤は注意深く通る。

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歳はとっても日本犬保存会良血柴犬の雌、ウンチは品良く為さる。

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コタツの布団でゴロ寝、目が悪なってからは我々夫婦の居る場所に来て寝る。

私は「ハナ」に教えられることが多い。
ある時、道端に子猫2・3匹が出て来たことがあった。
「ハナ」は興味を示して近寄ったところ、母猫が飛び出して来た。
猫パンチを顔に受けた「ハナ」は、キョトンとしながら後ずさる。
そして、母猫と子猫を避けるようにしてその場を遠回りするのであった。
こんな優しい「ハナ」だが、性根が坐っていて気性は結構強い。
秋田犬や大型の洋犬と出会っても臆するところが全くない。
向かってくる犬には、「ハナ」は雌犬ながらも唸って相手を睨みつける。
人に尻尾を振ったりじゃれたリと、媚びることはなく常に自然体。
餌の時も家の中に入る時も、せがむことはせずにじっと待つだけである。
女房殿は「ハナ」のことを「エエ犬や」と常に云うが、私もそう思う。
夕飯は好き焼き、ハナには肉と焼き豆腐を取り、生卵を掛けて誕生祝い。
「ハナ」には長生きをしてもらいたい、と願う今日この頃。

2017.02.05 朋来たる有り
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40年来の茶友が来訪、彼は前以って段ボール二箱を送ってくれた。
一箱には、鮎の甘露煮・焼きアナゴ・広島菜漬け・エイヒレ・干しフグ・燻製カキ等々。
もう一箱には、広島の酒五本、竹鶴・賀茂金秀・寳剱・雨後の月・酔心。
私は、娘に車でその酒とツマミをそば処「かえる庵」まで運ばせた。
娘には鮎を持ち帰らせ、替りに私は鰯を焼き柊(ひいらぎ)の小枝と一緒に箱詰。
酒好きの元塾生たちも呼び茶友を囲んでの酒宴、奈良酒も追加して飲む。

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明くる日は、茶粥で朝酒を楽しんでから、銭湯に行き朝風呂に浸かる。
その足で郡山まで出掛け椿の名所「椿寿庵」へ、今一つ期待外れであった
元塾生の赤膚焼の窯に寄ってから帰宅、ホルモン焼きで焼酎を飲む。
アルコール度43%の本格むぎ焼酎、松永 安左衞門(まつなが やすざえもん)。
度数が強いのでお湯割りにした。美味い。

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松永 安左衞門のこと、「耳庵・じあん」の号を持つ明治の茶人で実業家である。
壱岐の資産家に家に生まれ慶応大学で福沢諭吉の知遇を得る。
しかし、「人生は闘争なり」と言葉を残して中退し実業界へ進む、福沢も支援。
明治42年、九州で福博電気軌道の設立に関わり、電力事業に携わる。
そして、電力会社を合併し九州電灯鉄道、更に関西電気と合併して東邦電力を設立。
続いて東京に進出、昭和2年には東京電燈と東京電力の合併に係わる。
「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張、「電力王」といわれた。
官僚嫌いでもあった松永は、講演会で軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言。
戦時下で電気事業を国家管理下に置く政策が取られ東邦電力は解散、松永は引退。
以後は所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごす。
戦後は小田原に移住、所蔵していた美術品と柳瀬荘を東京国立博物館に寄贈した。
また、アーノルド・J・トインビーの『歴史の研究』の翻訳・刊行に尽力。
慶應義塾命名百年式典にて、名誉博士の称号が授与された。
昭和46年に慶應義塾大学病院にて死去、享年95歳。
故人の遺志で葬儀等は行われず、財界人の弔問や香典・供花なども辞退している。
まさに大実業家、大茶人であり、そして情熱家で浪漫主義者であった。
因みに、サムエル・ウルマン作「青春の詩」の翻訳者は松永安左エ門である。

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ・・・.
年を重ねるだけで人は老いない・・・
理想を失う時に初めて老いがくる・・・.


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ジャパニーズ・マスティフと呼ばれている土佐闘犬。ええ面構えである。
マスティフ犬は、チベット原産の大型犬を世界各地で番犬や闘犬に改良されたもの。
土佐闘犬は四国犬とマスティフ系の掛け合わせで、世界最強の犬とも云われている。
イギリスやフランス、ドイツでは「危険犬種」として規制対象に指定されている。

「狂犬」と異名を持つ米国のマティス国防長官が来日し安倍晋三首相と会談する。
彼の顔付きと表情・眼光に腹の坐りを感じた。「男は顔や」という印象である。
勇気と強さがズシッと現われながらも、身に付けた知性と品位が滲み出ている。
安倍はんもシッカリ褌を締めんと、勝負にならんような気がしている。
ましてや岸田・世耕はん達では鎧袖一触というか、相手にされんであろう。
韓国首相との対談模様を見て、あの首相では全く相手にならんのが如実に感じられた。
アメリカン・マスティスに対処する日本の土佐犬、あれこれ思い浮かべたが田中角栄。
角栄はんも上の土佐犬同様のエエ顔、眼付をしていなさったと思うところである。
角栄を陥穽にはめ、溜飲を下げたのは何処の国でもない日本のマスコミ連中。
マスコミのレベルがその国民のレベルと聞くが、何か物悲しい・・。

明日は、京都・城陽市で短歌の会なるものがあるという。
ヤレヤレながら、恩師の御達し、二首詠歌を持参する。
「犬連れる かはたれ時の 早まりて 吐く息白し 雪中花咲く」
「七十路(ななそじ)に なりて恩師の 叱り受く うつむく我に 過ぎし日浮かぶ」
愚作、駄作の声聞ゆ・・
2017.02.01 嫌な写真
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孫の初宮参りで利用した写真館の玄関に貼られていた写真。
和服の外人男と写って嬉し気な顔の日本人女性。気が悪くなった。
この手のオナゴが世界中で事件に巻き込まれてニュースを賑わす時世。
フランスで然り、北米・南米で然り、欧州、トルコ、インド等々で然りである。
表に出ていない事件モドキで外人のエサにされている日本のオナゴは多い。
以前、娘の同級生に外人男を求めてカナダに短期語学留学したオナゴがいた。
そんな日本のオナゴの心情と行動が妙な事件を誘発させているように思われる。
日本のオトコが不甲斐無いということか、家庭教育や社会風潮の問題なのか。
国会で元中国籍の民進党女性代表・蓮舫が安倍総理に質した中身に唖然。
明治憲法下の民法が父系主義であったことを安倍総理はどう思っているか云々。
日本人男性と外人女性との子は日本国籍、逆の場合の子は日本国籍でない旧民法。
私の子供の頃、「合いの子」と呼ばれる進駐軍と日本女性との混血児に無国籍が居た。
それが父系血統主義の根本思想、蓮舫はんは男女差別云々と舌鋒が尖らす。
質問の中身も、絡脈も、表情も、野党第一党の代表とは・・正にアホ丸出しであった。
因みに、父系血統主義国はアラブ首長国連邦、アルジェリア、イラク、イラン、インドネシア、エジプト、オマーン、クウェート、サウジアラビア、シリア、スーダン、スリランカ、セネガル、マダガスカル、モロッコ、レバノン などである。
勿論、私は父系血統主義を是とする。Y染色体遺伝子が国体を作るからである。