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最近、道端に蝉の死骸を見掛けることが多くなった。
幼虫で十年ほど地中で暮らし、成虫として地上へ現れ一か月程度で死を迎える。
思うに、子孫を残すための繁殖期の姿を「成虫」と云うだけでのことであろう。
蝉の一生とは地中で暮らす「幼虫」期で死期が繁殖期とは、何か輪廻を考えさせる。

今日の一面大見出しは、「内村、体操個人総合で金」であった。
まま、一面大見出しが連日続いている昨今である。
斯く云う私は、オリンピック報道の合間に仮眠という今日この頃。
面白い話があった、個人総合二位のウクライナのオレグ・ベルニャエフ選手の話である。
内村に対し、海外メディアが「あなたは審判に好かれているんじゃないですか?」と質問。
内村は淡々と「まったくそんなことは思ってない。みなさん公平にジャッジをしてもらっている」と答えた。
この質問に怒ったのが誰あろう、ベルニャエフその人だった。
「審判も個人のフィーリングは持っているだろうが、スコアに対してはフェアで神聖なもの。
航平さんはキャリアの中でいつも高い得点をとっている。それは無駄な質問だ」と言い放った。

私は、ベルニャエフの「神聖」という言葉にオリンピック・スポーツの何たるかを見た。
前にも書いたが、古代のスポーツは強く美しい肉体で神を表現することから生まれたもの、
1948年のロンドンオリンピックまでは芸術競技があり、意外な日本選手の競技参加があった。
藤田隆治 と鈴木朱雀が絵画で銅メダル、江文也が音楽で 四位入選、山田耕作が選外等である。
神を称え表現するスポーツの原点たる芸術競技が廃止されたのは、採点の恣意的な判定だとか。
故に、ベルニャエフの話はオリンピック・スポーツの原点を思い起こさせる話である。
そう云う意味では、フィギュアスケート、シンクロナイズドスイミング等も似た話になる。
そこで私が思ったの「茶の湯」のこと、「茶の湯」は古代オリンピック競技と云えるのである。

「茶の湯」は元々、神仏への呈茶(ていちゃ)を原点に始まったものと云われている。
神前を献茶(けんちゃ),仏前を供茶(くうちや)というのがそれである。
神仏や高貴な人へ呈茶した後に、皆で拝服するのが「茶の湯」になったということである。
ではである、競技であれば優劣の判定が為されるのが必定、その採点基準も決められる。
その判定制度が家元制度であり、その採点基準が許免状ということになるのであろうか・・
眠気まなこで、オリンピック・スポーツの原点と茶の湯の原点が同じであることを発見。
今年のノーベル賞候補になるかも・・
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