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台風一過の今朝、近所の庭木が路上に落下していた。

一日前、台風に追いかけらるように岡山・虫明海岸から帰宅した。
虫明海岸にある従兄の別荘へ出向き、赤穂へ討入りしたことは先に記事にした。
久しぶりに、その従兄と二人で枕を並べて昔話をしたのだが、初めて知ったことがあった。
その従兄は満州生まれの満州育ち、小学校三年の時に大連で終戦を迎えた。
その時には、母親同士が姉妹であるもう一人の従兄が大連で生まれていた。
もう一人の従兄の父親は満州鉄道の関係者として奉天に居た。
日ソ中立条約を破りソ連軍が満州へ侵入、ソ連兵は日本人に筆舌に尽し難い暴虐を働いた。
日本人婦女子がソ連軍兵士の凌辱を受け、辛苦の逃避行を続けた史実は忘れ難い。
その中にあって、もう一人の従兄の母親は乳飲み子を抱えて大連から奉天へ向かったのである。
大連は日本への帰還船が出る港、奉天はソ連軍が侵入している内陸部である。
日本人の多くは満州の内陸部から帰国の舟が出る沿岸部へ逃避している時に逆行である。
昔、親族が集まった時なんかで、その話を聞いた時は私は子供心に変だな思っていた。

虫明海岸で聞いた従兄の話で、その疑問は解けた。
従兄の母が、乳飲み子を抱かえた自分の妹に云った言葉。
「女は亭主のネキ(側)で死ね。」
終戦時の満州の日本人の間で、日本人は皆殺されるか奴隷にされる話が流れていたとか。
男が出払っている中、一族の女の長であった虫明別荘の従兄の母はトップ判断をしたのだ。
更に、彼女は自分の息子(従兄)に云った、「あんたは男や、二人を守って送って行け。」
ソ連軍侵入の混乱の中で、彼女は九歳の息子を自分の妹の死出の旅へ共に送り出した。
姉として母として、一族の男が居ない中で一族の生死に臨場しての決断である。

満鉄関係者であったため、運良く列車に乗れて叔母親子を奉天まで連れて行けたと云う。
帰路は、混乱する列車に行き先も分らず乗り込み、支那人・満人、ソ連兵を警戒したとか。
ソ連兵の残虐を目の前で見たり、逃げて来た日本人の話を聞き、ソ連軍を憎んだと云う。
列車が右へ曲がると北京、左へ曲がる大連という処で、右に曲がると飛び降りようと思った。
その時、九歳の従兄は死を覚悟したという。
従兄の思いは、こんな惨状を生み出した当事者の日本軍人への恨みが強かったとか。
戦争の悲惨さと平和の有り難さは身に染みている、と従兄は語った。
彼の持つ反戦思想は、負ける戦争をしたことへの怒り、実体験に基ずく自分の思いである。
戦後の日教組教育が生んだ似非平和主義や朝日あたりの薄っぺらいマスコミ思想ではない。

従兄は現役時に、技術職上がりながら一部上場企業の専務として会社経営を担っていた。
労組とも対峙し、その背景にある社会党や進歩的云々とか云われた弁論人を嫌っていた。
実体験でない聞きかじりや端折り読み知識でものを云う連中と俺は違う、と胸を張った。
ペリリュー島や硫黄島、拉孟・騰越、占守島での日本兵と神戸・東北震災での日本人のこと、
日本兵の戦いぶりと震災での日本人の行動、ここに日本人の持つ悠久の美質があると語る。
面白い話もした、あの悪名高い日本陸軍の元参謀・辻正信大佐のことである。
あれほど悪名が高く、多くの批判を受けながら、戦後は衆議院四期・参議院一期を務めている。
つまり、辻に多くの支持者・共鳴者・投票者が居たことをどう考えるか云々と話は続いた。
従兄は、無責任で軽薄な世相がまかり通っていることを嘆いた。
戦争責任云々ではなく、日本人が判決を下すべきは敗戦責任のことだと意見の一致を見た。
外が明るくなりかけた頃、従兄は静かになった。

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