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元禄13年(1700)、 松前藩は北海道・樺太・千島・勘察加を松前藩の領土として 幕府に報告。
勘察加(カムチャッカ)とは肉を乾かすという意のアイヌ語でありアイヌの居住地であった。
本州から見て渡島半島は口(くち)蝦夷・近(ちか)蝦夷と呼び、半島から北や東へ入る奥地を奥蝦夷と呼んだ。
.後に、北海道太平洋側と千島・勘察加を東蝦夷、北海道日本海側と樺太を西蝦夷地とした。
そして幕府は南下政策を強力に推し進めるロシアを警戒し、寛政11年(1799)に東蝦夷地を、
文化4年(1807)に西蝦夷地を天領として、樺太島の呼称を北蝦夷地と正式に定めたという。

ロシアは1590年頃からウラル山脈を超え、 東の大地に進み始めた。
シベリアの原住民には火力武器を持つものもなく、 順調に東進を続けていた。
1638年頃にコサック騎兵がオホーツク海北岸に到達し占拠駐屯。
そこから更にカムチャッカ半島西岸を南進し、半島全域の征服を目論む。
元禄10年(1697)、アイヌとの戦闘が始まりアイヌの砦は次々と占領された。
部落には和人も居たが、 宝永3年(1706年)勘察加はついに陥落した。

ロシアのコサック騎兵の兵器は銃であり、対するアイヌは弓であった。
圧倒するロシア人たちはアイヌを捕らえると 、手を縛り上げた上で鞭を打ち続けた。
体中が膨れ上がった遺体を海中に投げ込み、これが「ロシアのやり方だ」と見せ示す
アイヌはそれらを見せ付けられると、ある者は 子供や女性を連れて逃げ出し、
ある者は激しく抵抗したという・・・、このことは知っておきたい「北の元寇」である。
まま、モンゴル帝国とロシア帝国、露助の方が性質が悪い。

百年後になるが、ロシアの南下に対し幕府は文化4年(1807)に蝦夷地防備の出兵を命ず。
津軽・南部・秋田・庄内の4藩に4藩では計3000名の兵を出したと記録される。
翌5年には津軽・南部の2藩を残し、庄内・秋田の替わりに仙台藩・会津藩に出兵を命ず。
仙台藩は国後・択捉・箱館を2000名で、会津藩は松前・宗谷・利尻・樺太を1500名で守備。
会津藩が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留した出来事は、会津藩の樺太出兵とも呼ばれる。
時の幕府は田沼意次が主導してあり、勘察加(カムチャッカ)までの出兵計画があったとか。
然しながら、田沼は失脚し前任者否定の定例通り、奥蝦夷出兵は立ち切れになったという。
この話は、私が残念無念に思うところ大である。
げに真っこと、肝が薄くて小賢しく嫉妬深い輩を為政者にしてならん。



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