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赤穂浪士吉良邸討ち入りの元禄十五年創業という雑穀屋。

遠来の茶友と大和郡山の近鉄駅から国鉄駅まで旧商店街を歩いた。
百十余万石を領した大和大納言・豊臣秀長の城下町である。
歩きながら、この盆地に縁を持つ茶人の話になった。
先ずは奈良・稱名寺の村田珠光、その一番弟子の興福寺衆従・古市澄胤。
武野紹鴎は吉野が出自、大和に所領があった織田有楽や古田織部、片桐石州。
郡山城で秀長の小姓・小堀遠州、和歌山城代であった大和新庄藩主・桑山重晴。
重晴の子の桑山宗仙は片桐石州の茶の師匠である。
こうして見ると其々がいわゆる武将茶人である。大和には千家の流れは無い。
茶を生業とする「茶人」でなく、茶を業余のものとする「数寄者」の茶の流れである。
断りを入れると、「武将茶人」という言葉は本来存在しない、茶人と数寄者は違う。
茶友は禅道場を持つ在家の禅師でもあり、定年を迎えた企業の嘱託社員でもある。
宗教も茶も、それを生業にすると求めるものが違うものになって当然。
私も茶友も茶は業余のもの、茶を生業にする人達との本質の違いを語り合う。

茶道学者として名がある熊倉功夫氏の言では、
「数寄者というとき、それは茶人とは区別される人々をさす。茶人とは、一定の流儀に属し、茶道を教授して業とする人々を意味し、さらに広くは、将来茶道教授たらんと修業する人々もこれに含めてよいであろう。数寄者は茶道を業としない。したがって、生業を茶以外に持ち、茶道を楽しむ人びとである。」

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