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昭和17年2月14日、蘭印のスマトラ島・パレンバン油田を日本軍落下傘部隊が奇襲占領。
100式輸送機から舞い降りる姿は「空の神兵」と呼ばれた。(写真)

思うに、空の神兵はチョコレートなる西洋菓子を口にしたことがあったかどうかは微妙。
寛政9年(1797)、長崎の『寄合町諸事書上控帳』にチョコレートの記載があるという。
遊女大和路が出島の阿蘭陀人から貰い請けた品の中に、“しょくらあと 六つ”の記載。
これが史料に記された日本で最初のチョコレート、遊女が「大和路」とは少々気に入らん。
そこで、蘭印つまり阿蘭陀(オランダ)領インドネシヤを攻撃し占拠したのは大和男児。
チョコレートは現在のメキシコ南部、中央アメリカの地域で生まれたとされる。
カカオ栽培の農耕文化やマヤ、アステカなど独自の文明が繁栄した地域である。

日本のチョコレート生産の濫用期は明治末から大正の頃。
明治32年(1899) 森永商店(現森永製菓)、チョコレートの製造はじめる。
同42年(1909)には我が国最初の板チョコレートの生産・販売。
大正2年(1913) 不二家洋菓子舗(現不二家)がチョコレートの製造・販売をはじめる。
大正3年(1914) 芥川松風堂(現芥川製菓)がチョコレートの製造・販売をはじめる。
大正7年(1918) 東京菓子(のち明治製菓・現明治)、チョコレートの製造をはじめる。
昭和になると、チョコレートの嗜好が一般に受け入れられて大衆化してきたが、つかの間。
やがて長い戦乱の時代となり、チョコレートの生産も中断される。
我が国の海外での戦線の拡大とともに軍需用品以外のものに制限が加えられる。
昭和15年(1940)には、軍需用以外のチョコレート製品の製造が中止になる。
もしかしたら、空の神兵たちは軍隊生活の中でチョコレートを口にしたとも思える。

昭和20年(1945) 日本の敗戦で進駐軍が入って来た時、チョコレートも来た。
外国産チョコレートが、外国人向け商社や進駐軍用、ホテル用などで販売された。
非正規ルートでも国内に放出されて流通、つまり闇市やパンパン宿経由とかである。
「ギブミーチョコレート」と叫びながら、ジープの後を追う日本の子供、懐かしい光景。

日本のチョコレート業界は、チョコレートを模した代用グルコースチョコレートを開発・生産。
甘いチョコレート風味を望む消費者の需要に供給が追い付かないほどの売れ行きを示す。
昭和24年には、東京都復興宝くじの景品用として、約80万枚のグルチョコが納品される。
昭和26年(1951) カカオ豆の輸入がはじまり日本のチョコレートの生産が再開される。
昭和35年(1960) カカオ豆・ココアバターの輸入自由化
多くのチョコレート製品やココア製品が世に出て、今日のチョコレートの隆盛がはじまる。

さて、昭和11年(1931)2月12日のこと、バレンタインデーの広告が出たという。
神戸モロゾフ製菓が東京の英字新聞『ザ・ジャパン・アドバタイザー』に広告を掲載。
「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーである。
これが、確認されている最も古い“バレンタインデーにはチョコを”の広告である。
実際のところ、バレンタインデーが日本社会に定着したのは、昭和40年代後半である。
女性が男性に対して、親愛の情を込めチョコレートを贈与する日本型バレンタインデー。
この様式が成立したのもこの頃であり、私なんかには縁遠い話であった。

因みに、我が女房殿の誕生日は2月14日である。
私が何かを贈る日となっており、私が女房殿からチョコレートを貰う日ではない。
そして、私が軍歌「空の神兵」を口ずさむ日でもある。
この歌が反戦歌であったと知る人は意外に少ない。鶴田浩二が歌う「空の神兵」
https://www.youtube.com/watch?v=sZwRg-rNnzs




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