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私の今日の朝餉一汁一菜、飯と味噌汁に半しぼり大根漬、汁の具は油揚げと小松菜。

私は学生時代に、東京の下落合というところの人夫飯場で暮らしたことがあった。
都電の枕木を替える仕事で、終電から始発までの夜間業務、日当は1700円まま良。
百畳敷きの部屋に枕と布団二枚組みが30組、布団は掛け敷きの区別なし。
食堂には長机が並び、椅子はない。各机の真ん中には丼鉢一杯の漬物が置かれた。
人夫は同じ丼鉢二つに飯と味噌汁、そして自前の箸を持って長机に向かい食事する。
飯は釜から自分でよそうが、味噌汁は飯場の女将がよそう、具のよそい加減がある。
飯はてんこ盛りであろうが少なかろうが自由、但し、食べ残しはご法度。
食堂に椅子が無いのは、人夫を坐らすとなんぼでも喰うから、とは女将の弁。
汁は丼一杯だけだが、そこそこに具沢山であった気がする。飯場は一汁一菜の世界だった。
夕飯は仕事前なので酒は無し、朝飯は仕事帰りで酒も良し、二合瓶一本が付け売り。
人夫は東北からの出稼ぎ労務者で三ヵ月程度で戻って行く人が多く、結構出入りがあった。
私は「学生アルバイト」として住み込み、飯場から学校に通い部活にも出た。

半年もすると私は飯場の古顔、大部屋の片隅に机代りのリンゴ箱を置く居場所を占めた。
もう、誰も私を「学生アルバイト」とは見ず、髭面の所為か小頭扱いを受けるようになった。
飯場の横には大将夫婦の家があって子供も一緒に暮らしており、中学生の娘も居た。
流石に大将夫婦は、私が学生であると認識しており、時々娘の宿題を手伝わされた。
その時は仕事帰りの朝飯に二合瓶一本のただ酒が出た。手軽な家庭教師扱いであった。
私はこの飯場で、「酒と女は二合(号)まで」という言葉を女将から聞かされ納得した。
その後の私の人生では、甲斐性無し故に二号は持てなかったが、酒は二合を越えた。

茶人や料理人が一汁一菜、一汁二采・三菜とか茶懐石云々を語ることが多い。
「禅の膳」と駄洒落にもならんゴタクまでくっ付けて会席を懐石とかノタマイなさる。
私は、そういう彼らを冷ややかに見ることが多い、というかアホちゃうか?と思う。
前に田村魚菜という料理人が居たが、魚と菜であり、一菜も二菜・三菜も菜は菜。
魚は「うお・とと」、酒の肴に魚が使われ出した江戸期に魚を「さかな」と云うようになった。
破戒僧はともかく、仏僧の食事に肉魚はない、一菜は漬物、二菜は膾や和え物、三菜は煮物。
比べて戦国武将の茶会では、鳥肉の汁や魚の鱠・焼き物・煮付が二の膳・三の膳として出た。
まま、武将茶人の多くは耶蘇を信仰、仏僧とは距離を置いていたようである。
この食事違いを何とか結び付け、適当な講釈で煙に巻く茶坊主と千茶人。胡散臭いかぎり。
茶会席は一汁一菜、多くて二菜、膾は支那料理で生肉(なましし)、生切(なますき)
鱠は魚の酢もので精進料理ではない。「精進膾」は菜の酢和え物で日本の膾(なます)。
飯場の食事が茶会席だと、しみじみ思う今日この頃の私。

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