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昭和30年頃の小学校給食のメニュー、ネットの写真にあった。
コッペパン、ジャム、鯨竜田揚げ、キャベツサラダ、ミルク(脱脂粉乳)。
私は吉野の小学校から奈良へ戻った時、小学校の給食に驚愕した記憶を持つ。
吉野の学校給食とは芋粥ならぬ芋味噌汁であり、それが給食と思い込んでいた。
児童は弁当箱に削り節を振りかけた麦飯を持って来るだけで給食と云う芋汁が出た。
芋汁は児童の母親が輪番制で作り、給食当番の児童がバケツで教室に運んだ。
当番は芋切れの大きさに気を配りながら各自の弁当箱の蓋に均等に注いだもの。
1年生や2年生の教室は高学年の児童が給食当番をしてくれていた。
麦飯を持たしてもらえない子もいたが、給食室で芋の具が多めの汁を食べさせていた。
そんな山の学校の給食しか知らなかった私が奈良の学校で見たのがこの写真。
ビックラこいたのである。たまに出るピーナッツバターはこの世のものとは思えない味。
家に帰って親に云うと給食代を払っているとか、吉野の芋汁給食は持ち寄りだったかも?
学校給食法の制定は昭和29年、ちょうどその頃の話なので全国マチマチだったのだろう。

日本の児童教育で海外から驚き持って見られているのが給食当番と教室掃除であると聞く。
それが日本人の集団意識や仲間の絆を醸成させているとの評価が多いようだ。
確かに、児童がマスクと帽子を着用し給食を教室へ運ぶ姿の映像はよく見かける。
まま、この賄い運びを昔は「飯上げ」と云ったことを知る人は少なくなった。
4月から始まった沖縄戦では多くの命が失われたが、中でもひめゆり部隊の乙女たちは哀しい。
洞窟に籠っての看護作業も苦しかったが、最も恐怖を伴ったのは「飯上げ任務」だったとか。
食糧と水を洞窟に届ける任務である。砲弾飛び交う戦場を二人一組で飯上げ任務に就いた。
その乙女たちが水と食料を命懸けで運んだ道を沖縄では「飯上げの道」と云われている。
そして多くの乙女たちが「飯上げの道」で死んでいった。16歳17歳の生涯であった。
命を張って給食を運んだひめゆり部隊の乙女たちこと、給食の場で教えてほしいと思う季節だ。

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