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2018.05.02 続・陸自雑嚢
参った。
>「買ってくるぞと勇ましく~♪」、朝霞司令部より平城を遥拝<
陸自の雑嚢をくれた坂東男はんのコメントである、江戸落語で云う座布団5枚。
とは云っても、私はこの江戸落語は観ることはない、笑いの感性が低すぎる。
しかし、私の敬愛する坂東武者である送り主のコメントは上方レベル。
洒落の感覚、さすがに英国大学教授のユーモアセンス。唸った。

更には、父親が陸軍軍医であった廃医師はんのコメント。
何時もながらの御仁の理詰めの指摘、納得である。
>廃医師
「輜重兵」ではなく、「輜重輸卒」の事ではないでしょうか?輜重兵は、歩兵、騎兵、砲兵、工兵などと並び、陸軍の兵科の一つであり、輜重兵大隊や連隊は、師団に配属され、銃も制式の物を与えられていた、と思います。
 よく混同されがちですが、輜重輸卒は輜重兵ではありません。
「輜重輸卒も兵隊ならば、蝶々、トンボも鳥の内」とは、輜重輸卒の自嘲的な実感を籠めた戯れ句だったと聞いたことがあります。<
まま、この御仁の博覧強記、医者になったのは間違いであったろうに。
大日本帝国陸軍では自動車運転免許の取得者自体が非常に少なく、陸軍に入って生まれて初めて自動車に触れる者までいた時代であった。また「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち 焼いた魚が泳ぎだし 絵に描くダルマにゃ手足出て 電信柱に花が咲く」などと軽蔑の対象になることもあった。

しかしながら、輜重兵と輜重輸卒とは全く別個の存在で、輜重輸卒は元来軍夫が担っていた単純機械的労働に従事するに過ぎない雑卒であるのに対して、輜重兵は兵卒・下士官クラスであっても多数の輜重輸卒を監督する立場にあり、個々の兵卒の能力が重視された。反面、将校では身体の故障から第一線に服することが困難になった者が転科したり、士官学校での成績が低かったり、素行に問題のあった者が振り分けられることが多く、冷遇されがちであった。

また、輜重兵科は1891年(明治24年)まで陸軍大学校への入校を認められず、以降も第二次世界大戦中まで毎年一人入れるかどうかだった(例外は34期3名、35期2名、38期4名、48期2名)。そのため陸軍中央幼年学校本科が陸軍予科士官学校に改組され卒業前に兵科が発表される様になると、輜重兵科と発表された者の落胆は大変なものであった。

他にも、当時の帝国陸軍では兵科ごとに必ず「兵科の歌」があったにも関わらず、輜重兵科だけその歌が作られていなかった。[注釈 1] [注釈 2]

この兵站軽視の思想による輜重部門の軽視は太平洋戦争においてその弊害を色濃く表した。たとえばガダルカナル島の戦いやインパール作戦では、極めて杜撰な補給計画が大きな要因となり、多くの餓死者や戦病死者を出している。
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