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踏絵、十字架上のキリストを踏むか踏まないかで耶蘇教徒(キリスト教徒)を見分けた

高山右近の生まれ育ちを転記する

>高山右近父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。
そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はユストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。 <

右近は自分の茶庵を「南坊」と名付け茶号ともした、南蛮坊主という意味である
右近の影響で多くの武将や茶人も耶蘇教に帰依し、洗礼を受けた者も多かったという
日本で布教に当たる耶蘇会でも、茶の湯を必須のものとし、佳院には茶座敷を設けていたとか

秀吉・家康に重用されたロドリゲスという耶蘇会士が茶の湯の研究の書き物を残している
その要点を記すと
>数寄には、高価な道具を用いて巨費を要する本数寄と、貧しくとも出来る侘数寄とがある
侘数寄において重んじられるのは、清潔、鄙びた素朴な貧しさ、隠棲、孤独、閑寂、懐古の雰囲気、自然と人為の微妙な調和である
そして、その第一人者を「高山右近」であるとした(私見・キリスタンの身贔屓か)<

同じキリスタン大名で茶人でもあった、先述の織田有楽斎の右近への評価も残る
>高山の茶には大病がある、高山は所作も思い入れも良いが、清めの病があって露地は云うに及ばず、縁の下まで掃き清める、あれでは雅味が薄れて、かえって数寄の道にはずれる <

私には、頷ける評価である
右近は、その批判を承知していて、ゼウスの聖像を床に置いた茶室に籠り、一心に茶を点て喫した
そして、沈思黙考して天主に語りかけ、祈りと告解の場としたという
酸鼻を極めた大虐殺、武将としての力が足りなかったことで死なせてしまった家臣・縁者のことを、胸中に蘇らして、呻き声をこらえるのがやっとの思いに駆られたらしい
そして、何かに憑かれたように竹の箒を手にして、茶室の周辺をいつまでも掃き続けたという

その一方で、右近の領内では寺社仏閣への迫害が強く、多くの神社や寺が壊されたとも聞く
何か、精神的な偏りがあったのか、少々尋常ではない気がせんでもない
だが高山右近、この人ほど「道」に向き合った仏僧や茶人は少なかろうと思う
考えさせられるところである


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