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山焼きで黒焦げになった若草山が雪化粧で白くなっていた
若草山の向こう側が春日原始林の山中、その山中街道は柳生に向かう「柳生街道」だ

私の祖父は柳生の奥の地で、茶園と地域の呉服を商う家に生まれ育った
姉と二人の一人息子で大事にされたらしく、辺りでは珍しく奈良の農学校に進学
姉が嫁いだ後に家を継いだが、いわゆる甘やかされた怠け者であったという
親が死ぬと、奈良に出て妻子供を置き、自身は大阪で色んな事を始めたらしい
最初の仕事は、大阪市電の初代(?)運転手、カッコよく思ったとのこと
それが飽きると、あれこれと手を出し、家にはキチンと金を入れてなかったようだ
儲かれば大きな顔で家に帰り、上手くいかないと何カ月も家に帰らなかったとか

五人の子供を抱えた祖母は、苦労の中で五〇歳前に亡くなって、上の姉二人が働き
下の子を学校にやったということであったらしい
それでも、時々それなりの金を祖父は外地からも送って来たことはあったとか
祖父なりには気にはなっていたのだろうが、子供に尊敬されてはいなかったようだ
上二人は、結婚もせず若くして死んだ、肺結核だったそうだ

歳老いた祖父は、後には成長した子供に面倒をみて貰うようになった
不思議とその祖父、一番孫の私を可愛がり、甘かった想い出が私にはある
まだ祖父は一人で子供の世話になっていない頃、私を自分の住まいに連れて行った
何故か、「おばあちゃん」と呼ばねばならぬ女の人が居て、私を可愛がってくれた
しばらく経って、また連れられて行くと違う家で、違う「おばあちゃん」が居た
私の頭の中には、少なくとも三軒の家と三人の「おばあちゃん」の記憶がある

祖父への評価は、叔母・叔父そして私の両親からも厳しいものがあった
だが、老いた祖父は、子供の家で順々に面倒をみてもらうことになったのである
最期は東京の叔父の家で七年も世話を受け、内蔵不全、老衰でこの世を去った
その叔父家族に世話をやいてもらっている時のこと、近所の人が祖父に声掛けた
「おじいさんは幸せですよね、皆さんにこんなに良くしてもらって、羨ましいわ」

祖父は気色ばり、そして云い返した「そんなことあらへん!それは人の云うことや」
「なんぼ人に幸せやと云われても、自分がそう思うてへんかったら、幸せちゃう!」
義叔母の話では、数日前に「柳生に帰りたい、軍手を用意してくれ、這ってでも帰る」
と、家から這い出し、駄々をこねたとか聞かされた

私はその時、祖父と比べる御仁でないが、薬師寺の故橋本凝胤さんの言葉が頭に浮かんだ

>「食うていけなんだら、食わんといたらええ」
「われわれは人のために生きているのではない」<

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