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昭和二〇年四月六日一五時二〇分、山口県徳山沖から戦艦大和出撃
伴艦「軽巡洋艦矢作、駆逐艦冬風・涼風・磯風・浜風・雪風・朝霧・初霧・霞」
同四月七日八時四十分、敵機発見
同四月七日一二時三四分、射撃開始
同四月七日一四時二三分、大和沈没、鹿児島県薩摩半島坊が岬沖と云われる

後年云われる「戦艦大和の海上特攻」である
併せて六日・七日には特攻機三百機が沖縄に向け出撃し、散華した
毎年、四月七日には奈良・大和(おおやまと)神社で戦艦大和の慰霊祭が行われる
戦艦大和の艦内には大和神社の分祀がされており、大和の守り神となっていた
大和神社には戦艦大和の慰霊碑と、運命を共にした乗員の霊二七三六柱が祀られている

この戦艦大和の海上特攻に至るまでに、海軍内に三つの意見があったという
一、米軍の沖縄上陸に対し、これを迎え撃ち、砲弾尽きたる後は上陸し、陸戦隊となる
二、朝鮮南部か日本海側本土の比較的安全な場所に待機させ、戦況の好機を待つ
三、浮かぶ砲台として係留し、不要なものは陸に揚げて敵に備える

採用されたのは一案、後世に云う「戦艦大和の海上特攻」の作戦であった
採決の過程で、海軍の底意には「散り華を咲かしてやる」という思いがあったとか
作戦決定に伴い、第二艦隊では年少の見習い兵や老兵は傷病兵と共に下艦させた
その是非を云々するは後世の後知恵となるので、ちゃちな論評は避けたいと思う
私には、二つのことが胸に残る

一つは、片道燃料とした司令部に艦長達が抗議したこと、よって往復に十分な燃料補給があった
その時に基地油槽の底までの油を汲み取って注いだという、そのことで残存艦は帰還できた、
二つは、沖縄守備の陸軍海軍双方共に大和の特攻作戦に反対、思い止まるように進言したこと
以下、沖縄の軍司令官・牛島中将から大本営宛の電文である
「皇国ノ運命ヲ賭シタル作戦ノ指導ガ、慎重性、確実性ヲ欠ク嫌アルコトハ極メテ遺憾ナルモ戦艦ノ価値昔日ノ比ニアラザルヲ以テ驚クニ足ラズ」

四月六日、戦艦大和以下の第二艦隊が出撃、徳山沖の大和から伊藤第二艦隊司令長官の訓示打電
「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」
この決定に、第二艦隊の艦長達から「連合艦隊司令長官の陣頭指揮ありたし」との声があったとか
この大和出撃を、徳山沖にあった人間魚雷・回天の基地・大津島から、私の父親達も見送ったという

四月七日、この作戦で海上の戦没者三千余名、六日七日の間に特攻機で突入した戦没者約三百名
今日この日の大和(おおやまと)神社での慰霊祭、今は大和以外の戦死者を併せ三七二一柱だとか
因みに、四月七日、私の誕生日でもある

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