2014081907570000_20140819192457498.jpg
このところ、パソコンが不具合で扱いにくい、朝から何度も写真添付を試みるが不調
夜一杯飲んで、再々度、パソコンを開けると、菓子のコメントが入っていたので返事を書く
なんとそこで、写真添付が出来た・・ナンジャラホイこのパソコンは、と云う気分

この写真、昨日の月曜稽古に指導応援に来て下さった卒塾者と空けた日本酒四合瓶
右から、奈良吉野の「前鬼」、広島廿日市の「弥山」、愛知岡崎の「三河武士」
横にあるのは「盃洗・はいせん」、新たな酒を口にする時に盃を洗うものとして私が用意
月曜塾生達も加わり盛り上がる、彼等の稽古は三歩進んで二歩下がる・・時々四歩下がる

昨日のブログ記事へのコメントと私の回答、以下に記載

> > 茶会で、はじめに「菓子」を食べるようになったのは、いつの頃でしょうか?
> > 濃茶から始まるとの考えは、いかがでしょうか。
>
> 茶の湯の菓子というものは、干し柿や焼き栗の類であったようです
> 当流でも、炉開きや初釜なんかでは「干し柿」を出すのが本来とされています
> よっで、村田珠光の一番弟子であった古市播磨が淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)に菓子を出したようですが、これもその類であったとみています
> 千利休が茶菓子の創始者(何でも利休?)の云われるのは「麩焼き」で、小麦粉を薄く引いて焼き、それに味噌のを引いたで丸めた、まま、お好み焼きの原型みたいなもの
> よって、桃山期にはいわゆる「和菓子」はまだ無かったと思います
> 時々、私も「麩焼き」とやらを作るのですが、甘味のある味噌だったと思い、黒砂糖を混ぜた味噌にしています(そんなに旨いものではないですね)
> 和菓子として登場するのは、十五世紀半ば室町期に宋人の林浄因と云う者が、唐土の肉饅頭というかー肉を小麦粉の皮で巻き油で揚げたもの、これが日本では肉は御法度故に代用にアンコを入れ作った、あんドーナツのようなものです
> 今でも、奈良の菓子屋によっては「ぶと饅頭」とか「二つ梅枝」とかいうて作られています、私も奈良土産に時々使います(これはナカナカの評判)
> 因みに、林浄因を祀る林神社が「饅頭神社」として奈良にあり(件のかえる庵さんの近所)、その子孫は今も塩瀬本家という菓子屋を東京でしているとのこと
> 尚、濃茶は歴史的に薄茶より古いので、和菓子の誕生を濃茶と繋げるのは無理があると思います
>主菓子は、あくまでも会席の締めくくり、今風に云うとデザートと考える方が素直でしょう
>菓子がない会席には、菓子切用黒文字を一本を膳に付けるのが菓子がない印になっています、参考まで

> パソコンが昨日より具合が悪く、写真貼り付けが不調
> こんなことでご容赦を・・、折角だから表ページに載せましょうかな
>
> 風翁


日本酒に菓子、私の持病・血統書付糖尿病にはスコブル効く

風翁
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://houan7010.blog.fc2.com/tb.php/429-9e1db8ad