2014.09.10 猿の壺
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近所に畑で見たエンドウ豆の花
エンドウ豆の栽培は古く、古代オリエントで麦作と同時に始まったという

この前の日曜稽古の雑談で、「猿の壺の中の手」の話題になった
猿が壺の中の麦か豆を握って手が抜けず、捕まったあの話だ
出典は、聖書か論語がイソップか忘れたが、日本の昔話ではなかろう
要は、握っている物を捨てれば救われるという、捨てて棄てての仏法臭い
先のブログでも「断捨離」を記事にしたが、日曜日の稽古のあと思ったこと

この「猿壺」の話、欲得の我執と見做せば、神も仏も孔子も訓示を垂れるだろう
しかし、その猿が「すずめうり」のブログ記事にした「すずめのかあさん」の母すずめなら
壺に手を入れ、食べ物を持ち帰ろうとする猿が、飢えた小猿を持つ母猿ならどうだろう
猿に所有権の論理・善悪は通じない、山の木の実も畑の作物も、皆同じ餌である
そうすると、「猿壺」の話は違ったことになってくる気がする

人間の「猿壺」話は人が捨てるべき我執や嫉妬の話と繋がる説法じみたものになる
昔に聞いた話で、我執や嫉妬に二種の思念があるというのを、近頃分る気がしている
エンヴィー(envy)とジェラシー (jealousy)とかいう、うろ覚えの話ではある

元々自分に持っていないものを、人が持っていると欲しいと思うのが「エンヴィー」
自分が持っているものを失いたくないと思うのが「ジェラシー」と区別する哲学くさいもの
有体に云えば、別嬪さんを恋人に持つ男を羨ましがる思いが羨望「エンヴィー」
自分の惚れていた女性を恋人にした男に対する思いが嫉妬「ジェラシー」
こう見ると「ジェラシー」の方が怨念や憎しみがが生まれ、事態は悪化するようだ

この「エンヴィー」という感情は、時として、曰く「ルサンチマン」という情念になり易いとか
嫉妬や羨望が底意にある情念は、憤り・怨恨・憎悪・非難、そして自己欺瞞を含み、他へ転嫁する
自分の陥っている状態を正当化しようとする願望こそ、奴隷精神の最大の特徴であるとする。
つまり、自分は無力非才だが、アイツ等が立派であるのは許さないという「逆切れ」である

ルサンチマンの表れとして敵を想定し、自己の正当性を主張するイデオロギーにあるとか聞く
敵が悪の元凶であり、反対に自分は道徳的に優れていると主張する思考形態になる
「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」ということで、持てる者恵まれた者への攻撃を始める
一口で云えば、ヒガミ・ネタミから来る自己正当化と、力や才のある者へのソシリ根性である

話の流れで、知った気に小難しい話を書いたが、云いたいことは「耳順」への実感話
三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う
とうの昔に還暦を超えた私がこんな話を耳にして、素直に頷けるようになったかな、と思えること
さすれば、「エンヴィー」と「ジェラシー」そして「ルサンチマン」の思考が見える様になるハズだが
「猿の壺」、必死で欲しがるなら壺を割って、その猿に渡してあげるのが良いのかも

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