無題
ウィーン、ハプスブルク王朝のシェーンブルン宮殿と客待ちをする馬車
フランス革命で処刑されたマリーアントワネット王妃の生家である

五月一九日(水)

七時半にバイキングの朝食をとる。日本人客が何組か居て、奥の方に着物姿の若い女性が見えた。食事を終えたその女性が、男性と共に私達のそばを通って行った。女は付け下げ、男はジーパン、Tシャツ、ズック靴に菜っ葉服のような上着で、ベルトバッグを腰付けた格好であった。小生が着物にジーパンは不味いなと話していると、近くに居た日本人カップルか「昨日も着物とジーパンで歩くあの二人を町で見かけた」と話しかけて来た。何処にしろ、服装とは男女一対で様になるものであり、服装や身だしなみの文化に長けたヨーロッパでは誤解を与えかねない、と意見一致をする。

八時半にタクシーでホテルを出て、九時一〇分前にオペラ座の入口に行く。手配していた市内観光ツアーの集合場所である。九時出発であるが、それらしい人影がないので、辺りを捜して歩く。九時一五分迄待ったが、諦めて勝手に市内を回ることにした。ガイドブックを開き、通りへ出た。

地図を見ると、RINGと呼ばれる半径一キロ程の環状道路があり、市内のめぼしい所はその周りに集まっている。オペラ座を後にして、美術館に向かう。RING通りを右回りに一〇分程歩くと重厚な建築物が二つ見えた。広い庭園を中に挟んだツイン構造になっている。手前が美術館で向こうが博物館になっていた。開館時刻の一〇時には少し時間があるので、通りの向こう側にある王宮に行く。大きな広場があり、壮大な白亜の殿堂が広がっていた。権勢を誇ったハプスブルク王朝の栄華を偲ばせる。

向こうから来た婦人に入口を訊くと、連れて行ってくれた。入口の階段を上ると、窓沿いに数多くの各部屋を突き抜ける廊下が通っていた。部屋間には間仕切りがあるが、部屋と廊下の仕切りはなく、ショッピングモールのような感じで、皇帝夫婦の寝室、勉強室、居間、食堂等が続いている。生活空間は思った程広くない。起きて半畳、寝て一畳の喩通り、人が必要とするスペースは変わらないようだ。解せないのは、部屋の間仕切り毎に、廊下の扉が付いていることであった。両扉を閉めれば完全な個室になるが、その前後で通路は絶たれてしまう。別の通路があるのかもしれない。ともかく、部屋数が一四〇〇室という皇帝一家の居城であり、その生活ぶりを垣間見ることができた。マリーアントワネットの実家である。

宮殿を出て広場に行くと、二頭立ての馬車が連なって客待ちをしていた。御者の一人が乗らないかと誘ってくるので、システムを聞くと、内回り二〇分で四〇〇シリング、外回り四〇分で八〇〇シリングだと言う。何故か、円と勘違いをしていて、安いと思ったが、みち子さんにそんなことはないでしょうと言われてシリングだと気付いた。外回りコースはこれから行きたいと思っていた所を巡るものであったので、それなりに納得して乗る。

馬車は美術館の前に出て、RING通りを右に向かう。すぐにギリシャ神殿の様な建物が見えてきた。国会議事堂である。その向こうの高い塔のそびえ立つゴシック寺院の様な建物が市庁舎であった。塔の高さは九八メートルと言う。奈良の五重塔の約二倍である。ウィーン大学からRING通りを外れ、中心市街の中に入る。サンピエトロ大聖堂を真似たという聖ペーター教会、ゴシック様式のシュテファン寺院等を回り、ペスト記念柱のある所から宮殿の裏口に入る。御者は都度後ろを振り返り、説明をしてくれる。ハンドルがないので安心ではあった。馬車から見る路上の景色は格別のものがあった。みち子さんも歩かずに済んだことを喜んでいた。

広場に戻り馬車を降りてから、先刻の美術館に行く。館内は、グランドフロアーは古代オリエントの彫刻類、一階は画家別の絵画、二階は古銭ギャラリーになっていた。二階から見て回る。古代オリエントから、ギリシャ、ローマ、中世や近世のヨーロッパのものが展示されていた。中国の刀貨や日本の天保通宝、壱圓銀貨などもあった。メダルと貨幣は同種であった。首に銭をぶら下げて悦に入る文化とは、滑稽な習慣であると思う。

一階に行くと、ルーブル美術館やバチカン美術館と同様に、絵画が所狭しと置いてある。バチカンと共通するのは、作家主体になっていることである。その点で、ルーブル美術館は作品主体に思える。やはりパトロンと芸術という関係を如実に表わすものであろう。バチカン美術館と違うのは宗教画のように内面に向かう作風より、支配者の力を裏付けるようなものや殺戮場面の絵画が多いことである。みち子さんがホテルに戻りたいと言い出したので、急いで古代オリエントの彫刻を見て回る。大量の収蔵品にルーブルと同じ痛みを覚えた。オリエントやアフリカの遺物が、斯くも多くヨーロッパに集められていること自体に凄まじさがある。

美術館を後にしてRING通りで市電に乗る。ホテルに戻る途中でドナウ川の近くの駅を通るためである。その駅で降りて、ドナウ川の場所を尋ねると、歩いて一五分位の先だと言う。ドナウはブタペストでの楽しみにして、再び市電に乗りホテルに向かう。市電は、有り体に言えば薩摩の守タダノリであった。ウィーンの市電もローマのバスと同様に、乗客が自由に乗り降りしている。切符や金の受け渡しが見られない。停車場には切符売場があるので、なんらかの料金ルールがあると思われるが、どうもよく解らない。日本の田舎村で見かける無人野菜売場と同様に、信頼に基づくものならば、その民度に感銘するにやぶさかでないと思う。

ホテルに一五時頃戻る。みち子さんは頭を洗い、オペラ観劇の身支度をするまでの間、少し横になる。小生は朝の観光ツアーの件で文句を言いに出かける。今回の旅行の手配はガリバーズ・トラベル・エイジェンシーというところに頼んでいた。そのウィーン事務所がヒルトン・オフィース・センターにある。ホテルに隣接した建物の中にあった。Peuさんという日本女性が居て、応対してくれる。貰っていた集合場所の地図を見せて、朝の件を説明すると、彼女は関係先に電話を入れて事情確認をする。バスの担当者と「来た、来ない」のやり取りになったようだが、彼女は、こちらの人は自分の責任を認めないからと言う。お詫びに何か代りに出来ることがないかと訊き、その場で近畿ツーリストに非を認めた詫び状を書いた。あっぱれであった。

小生が明朝ウィーンを立ち、ブタペストに向かうので、解かってもらえばそれで良いと答えると、彼女はブタペストで何かすると言って、ブタペストへ電話を入れ、ホテルから日本語ガイド付きでブタペスト空港への送りを手配してくれた。機転と手際の良さはなかなかのものだった。雑談を交わしていると、彼女は宮井さんや高橋さん達とはチャン付けの仲間内だと分かった。年齢は分からないが出身は京都、やはり西国であった。

部屋に戻ると、みち子さんが既に目を覚ましていて、早速に着替えを始める。みち子さんは和服、小生はダブルのスーツである。明日の出発が早いので、今のうちに挨拶をしておこうと、GIOCONDに寄る。店内には当地の若い女性店員が居て、日本人社員は帰ったと言う。引き返そうとすると、「私ではだめですか」とその女性が流暢な日本語で問いかける。少し取り繕い、私達は明日の出発が早いので、今日のうちに挨拶をしておくつもりで来た、皆さんに宜しく伝えて欲しいと言って店を出た。日本人感覚で挨拶や節義を考える時には、外国人の存在を除外していたことに気付いた。

一九時一五分前に、オペラ座の前へタクシーで乗りつける。既に多くの人が盛装姿で集まっていた。そこで小生は、私達が朝の待ち合わせに居た場所はオペラ座の裏口であったことが解かった。ともあれ、車から降り立つと、みち子さんの和服姿に人々の視線が集まった。オリエント急行の食堂車場面の再現である。廊下を通る際には着飾った他の客皆が、我々二人に中央をあけるようして、こちらを見ながら通っていた。

入口で係員がチケットの席番号を確認して、順路を教えていた。中に入ると、八割方の席が埋まっており、華やいだ雰囲気があった。正面フロアーを横切る主通路を境にして、前方席と後方席に分かれており、フロアーを囲むように二階席があった。私達の一列七・八番席は後方席の最前席であった。舞台を見るには最適の場所であった。考えて予約をしてくれていたようだ。

一九時一〇分頃、開幕された。ドイツ語で演じられているため、全く意味は解らないが、舞台の流れと熱演ぶりは汲み取れた。とにかく声量がある。二〇〇〇席はあるホールいっぱいに響き渡る。マイクは使用していない。その演技もバレーを本格的に練習して、初めて為せるものであると思った。

中休みに、地下の食堂へ行き、一息入れる。ホールに戻ると、ジーパン、Tシャツ姿の青年が坐っていたので、日本人かと訊くと、そうだと答える。この場所でその格好は失礼だと注意をすると、僕もそう思ったと気恥ずかしそうに言った。素直である。彼には良い経験になったと思われる。

終わりの幕が引かれると、観衆から声援が飛び、アンコールが繰り返される。最後は総立ちで拍手を送っていた。人口八〇〇万余りのオーストリアで、このオペラ座が連日満員状態になるということに、ヨーロッパの奥行きを感じた。芸術と文化は切り離せないものであるなら、文明に進歩があるように、文化には成熟度があると思われる。二三時を過ぎて漸く終焉になり、外に出る。
タイミング良くタクシーが来た。ホテルに戻る。
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