images_20141003035848842.jpg
ハンガリー・ブタペスト、王宮から見た風景、、流れる川は「美しく青きドナウ川」である
ドナウ川の向うが「ペスト」の街、こちら側が「オーブタとブタ」

五月二〇日(木)

朝食を済ませ、八時にチェックアウトをする。みち子さんをロビーに残し、小生は急いでガリバー・トラベルの事務所に行く。昨日の集合場所を間違えたのは当方であり、よってブタペストの件は無用に願いたし、と一筆紙に書き、戸口に挟んでおいた。タクシーでウィーン西駅に行く。発車一五分前である。九時〇七分発ブタペスト行き特急二六三便はすぐ解かった。列車に乗り込むと、客室に入ると、老夫婦が坐っていた。私達も向かいの席に坐る。お互いに女性が窓側になっている。この特急列車は、ウィーン西駅が始発でブタペスト東駅が終着である。ヨーロッパの主要都市では、どういう訳か発着駅が分散している。それ故、駅名に風情を感じさせる。列車が動き出し、ウィーンを離れ出した。

向かいの御主人がメモ帳を取り出して、熱心に書き込みを始めた。時折、隣の夫人に食事内容や時間の確認をしている。どうやら旅日記をまとめているようであった。小生のメモ帳の紙が無くなっていたので、少し分けてくれるように頼むと、一〇枚程剥いでくれた。夫婦はサンフランシスコから来ていた。私達が結婚二五周年と知ると、自分達は五二年だと言う。逆数字の冗談かと思ったが本当らしい。イスタンブール迄の旅だと言った。

国境を越えたのであろう。オーストリアの検査官が来た後、次にハンガリーの検察官が来て、私達に、こんにちは、ありがとう、さよなら、と日本語で応対したので驚いた。この路線を利用する日本人は少ないと聞いていたが、やはり血は水より濃しかなと有らぬことを思ってみた。


列車はハンガリー大平原を行く。小生が一度行ってみたいと思っていた国である。ハンガリー人は自らをマジャールと呼ぶ。モンゴル高原から現れ、シナ古代史の一方の雄であった騎馬民族のフン族(匈奴・フンヌ)の末裔と云われている、フン族は二世紀頃にシナの歴史から消息を絶ち、四世紀に突如ヨーロッパへ侵攻してきたという、そのフン族末裔の国である。第二次大戦では、ドイツや日本と共に戦い、負けた国である。国名のハンガリーとはハン(フン)のガリア(国)である。北欧のフィンランドもフィン(フン)のランド(国)で同系統の民族国家だ。ハンガリー人もフィンランド人も千数百年間に亘って母系が代々欧州人女性であったため、顔・形は欧州人そのものである。しかし、文化・言語はアジア系という興味深い民族である。

ブタペスト東駅へ着いた。老夫婦に別れを言って、タラップを降りる。
ホームの中までタクシーの客引きが来て、網を張っていた。ブタペストには、カロイという旧知の人が居て、ホテルで会う約束になっていた。もしや駅まで来てくれているかと思い、周りを見渡していると、客引きがやって来た。友達を待っていると言って断ったが、カロイさんは来ていなかった。構内で両替をして(一フォリント〇、七円)、タクシー乗り場へ行く。一五分程でインターコンチネンタル・ホテルに着く。五〇〇〇フォリントであった。高いと思い首を傾げると、メーターを指差す。数字は合っていた。後で教えられたが、メーターに細工があるらしい。

ホテルはドナウ川に面した絶好の場所にあったが、私達の六四七号室は六階の裏側であった。どうも、今回の旅行では部屋の当りが悪いようだ。何となくヨーロッパ人の底意を感じる。ただ、ドイツはそうでもなかった様な気がする。松村氏から新聞のFaxが来ていたので目を通す。カロイから二時にホテルに来るという電話が入り、安心する。何かを食べておこうと、近くの広場に出かける。色々な売店やレストランがあったが、急ぐのでケンタッキーフライドチキンでチキンバーガーを食べる。他にもマクドナルドやピザハット等があり、街の営みには共産国家の面影はなかった。


ホテルに戻ると、カロイが来ていた。彼は和歌山大学に留学していた人で、その当時、和歌山留学生交流会の中谷女史に紹介され、食事を共にしたことがあった。彼はハンガリーに帰って七年になり、最初は現地のトヨタにいたが、今は父親が経営する釣り用具の会社を手伝っていると言う。日本語は殆ど使わないので、忘れかけていると笑う。彼は、夕方から雨になるので、先に市内を回ってから、ドナウ川のナイトクルーズを楽しむのが良いと提案してくれた。小生は国立博物館には行って見たいと頼むと、そうするつもりだと言い、車に案内する。和紙のコースターを渡す。彼は一八八センチあるが、此方では大きいとは言えないらしい。

ブタペストの町は、ドナウ川を挟んで、東の丘側になるオーブタとブタ、西の平地側になるペストの三都市が統合されたものである。正確にはブッダ・ペシュトと発音するらしい。まず、ペストに向かう。塔が高く聳え立つ英雄広場で車を降りる。建国千年記念塔で百年前に建造されたという。塔の下に武将の騎馬像が七基あった。フン族の王、アッチラがこの辺りを拠点に活動したのは五世紀のことである。解せない気がした。湖に架かる橋を渡ると、緑豊な市民公園であった。水鳥が遊び、鯉が群れ、人がくつろいでいた。カロイはここに鹿がいたら奈良公園ですねと笑顔で話す。

街角に車を置いて、国立博物館に行く。道端にトランバットが停まっていた。かつて、東欧を代表した東独製の大衆車で、ガソリンでは走らないという代物である。近くに旧式のシェトロエンもあった。いずれも、テレビ、映画でお馴染みのものである。そういえば、カロイの車は三菱製の四輪駆動ワゴンであった。カロイは、トヨタは良いが自分はこの車が好きだと割り切っている。みち子さんは、そんなものかなと首を傾げていた。


博物館に入ると、金の王冠が大事そうに飾られていた。撮影禁止である。館内には歴史的遺物が展示され、説明がされていた。その殆どはこの地で建国して以来のものであった。それ以前のことは、パネルにマジャールが遠くウラルの地からこの地にやって来た経路が記されていただけである。小生が見たいと思っていたのは、モンゴル高原から消えた後のフン族の痕跡であり、ハンガリーの文化の中にアジア的残滓を確かめたかったのである。

モンゴル高原から中央アジアにかけて、古来、数多くの遊牧騎馬民族が活動し盛衰したが、彼等は見事なまでにその軌跡を残していないらしい。シナやヨーロッパの史書の中にその名を留めるだけである。この博物館で見る限り、ハンガリー人はフン族と直接的な繋がりはないとしているようである。といっても、ハンガリー人の祖先はアジア系遊牧民族のウラル語族であることに違いはない。ウラル語族とフン族との関係は定かでないようだが、小生は両者には何らかの繋がりがあったハズと思っている。美智子さんにあれこれ説明をしたが、あまり興味は無さそうだった。そして一言「貴方はこんな話、好きですね」だった。

博物館の上の階では、多くの絵画が展示されていた。何ヶ所かで白衣を着た人達がキャンパスを広げて、作品を模写していた。結構、上手に写されていて、真贋とは何を以って言うのかと考えてしまった。館内に雰囲気の良い喫茶コーナーがあり、みち子さんが気を引かれていたが、博物館を後にして車に戻り、ブダに向かう。

両岸を結ぶ鎖橋を渡る。この橋の完成が三都市統合の礎になったという。車を坂道の脇に置いて、明治一〇年に出来たというケーブルカーに乗り、王宮の丘に上がる。カロイが丘の上は涼しいので上着が要ると言う。少し大袈裟であったが、丘の上では、ドナウ川に架かる鎖橋と対岸のペストの町を眼下に望むことが出来た。王宮北側の柵の飾り門で若い女の子が二人でフルートを奏でていた。ケースが開いてあったので、みち子さんが一〇〇フォリント硬貨を二枚入れる。ハンガリーの硬貨の単位は一、二、五、一〇、つまり二円玉や二〇円玉、二〇〇円玉があるのだが、我々の感覚としては不慣れである。欧米では二の単位をよく使うようだ。王宮の入口では青年がオーボエを吹いていた。日本でもギターやフルートを道端で奏でる姿は見かけるが、オーボエを目にすることはまずない。

広場の前でドナウ川を背景に写真を撮っていると、みち子さんがアレッと言って指を差す。そこには、坂道を登ってくるカップルの姿があった。ウィーンからブタペストに来る列車の中で同室であった夫婦である。声をかけて近づくと、私達に気付いた夫婦は、顔面を笑み一色にして抱き着いてきた。共にカメラに収まり、名残を惜しみながら、また別れた。

ブダの最も古い地区であるタールノク通りで、カロイお勧めの喫茶店に入り、アイスコーヒーとケーキで一息入れる。昔、包囲攻撃に対し漁夫達が守ったという漁夫の砦に行く。要壁を登る階段の入口で番人が箱を置いて料金を徴収していた。自由化されてからだそうである。資本主義と拝金主義は紙一重の様だが、その本質は違うことを知るには時間がかかりそうだ。次に、塔が聳え屋根が色タイルで覆われたマチャーシ教会へ行く。館内は撮影禁止であったが、その美しさはこれまでに見た中で、随一のものと思えた。外に出て振り返ると、教会と馬車との風景が絵になっていた。

一八時を過ぎていたので、近くの店でハンガリー名産の刺繍入りレースを買って、車に戻る。道すがら、カロイとブタペストの印象を話す。小生が彼に、ハンガリーはヨーロッパだなと言うと、彼は立ち止まり、指先で自分の胸や肩を押さえながら、ハンガリーはヨーロッパだが、マジャールの体の中にアジアは残っていくと言った。この名所巡りでは、カロイが入館料や飲食の代金を全て払おうとするので、小生はそれを制した。彼は日本に居た時、多くの人々から物心共に支援をして貰ったことを忘れてはいない、訪れてくれたあなた方に負担させる訳にはいかない、ハンガリー人の恥になると言う。彼の気持ちそのものが、アジアの残滓かも知れない。

ホテルには、カロイの奥さんと二人の子供が来ていた。ナイトクルーズは。一九時に出帆と言うので、部屋に荷物を置いて、すぐに出かける。桟橋はホテルの前から三〇〇メートル程先にあった。乗船し、船尾の甲板のテーブルに就く。子供は九歳と六歳であった。カロイは下の子供を指差し、メイド・イン・ジャパンと言って笑う。船室にバイキング様式で料理が用意されていた。ハンガリーの名物であるパプリカの煮込みと、黄色のつぶつぶした焼飯の様なものを食べる。

船は私達のホテルの前を過ぎ、鎖橋を潜って、西陽に映える国会議事堂やペスト市街のハンガリー・セッセシオン建築群を右手に見ながら、ゆっくりと航行する。左手の丘には王宮、漁夫の砦、マチャーシ教会、岸辺には聖アン教会が過ぎて行く。丘から見下ろした光景が川面から見上げるアングルになった。中州になるマルギット島の森を回って、再び鎖橋へ向かう頃に夕闇が深まり、川面の両側にライトアップされた建物が先程とは違う景色を見せている。ドナウの宝石とか女王と呼ばれる所以が解かったような気がした。この町が世界遺産に登録された云々とは何程の意味もない。

ブタペストは過去に幾度も戦禍に見舞われている。一三世紀のモンゴル軍や一六世紀のトルコ軍には壊滅状態にまで陥れられ、先の第二次大戦では灰燼に帰した。そして、その都度毎に復興し、元の形を再現して来たという。立派という他はない。民族の執念のようなものを感じる。

船は元の桟橋に着いた。二一時半を過ぎていた。案の定、カロイは支払を済ませていた。そのまま甘えることにして、子供二人にはお土産代わりに夫々一万円札を渡す。ホテルに戻ると、カロイは車から包みを持って来て私達に渡す。日本語で書かれたハンガリー小史と写真集であった。ハンガリーの思い出を忘れない様にということであり、中谷女史の分も預かった。彼の人品の良さを感じさせた。カロイはまた日本に夫婦で行くつもりだと言う。その時は、奈良にも寄るようにと言って別れる。

みち子さんと昼に行った広場まで出かけて、女性にハンガリー料理店を尋ねると、案内してくれた。グラーシュを注文する。実は、船でこの料理を期待していた。牛肉とパプリカのスープに唐辛子を手でほぐして入れる。旨かった。遊牧民の名残りと思う。他に鳥の肝が出た。カロイから聞いていたものである。赤ワインでヨーロッパ最後の夜を楽しむ。隣にカジノがあるので覗くと、中国人客が多く居た。ドイツマルクしか駄目だと言うので、自国の通貨に誇りを持てと言い放ってそこを出た。

その夜は、二人共なかなか寝付かれなかった。時計を見ると二時である。ホテルのレターセットで中許氏に手紙を書く。文明には進歩と汎用性があるようだが、文化はどうなのか、価値体系に優劣や善悪があるのか、国家の本質とは何なのか、秩序とは、歴史とは、日本とは、そして自分とは、云々と頭が巡る。夜が更けていく。みち子さんは寝息をたて出した。

スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://houan7010.blog.fc2.com/tb.php/484-6d42eea2