2014.10.17 端坐喫茶
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ご近所の庭に咲く浜坊(はまぼう)の花、「黄槿」とも表記される、アオイ科
江戸期に長崎に来たシーボルトが、日本原産のハイビスカスとして名付けたとか
木槿(むくげ)の花は時期を過ぎたが、やはり黄色花は遅咲きの傾向がある

先に記事にした「奈良・大和の薬売り」の続きになるが、大和家の話
日本の茶と云えば、栄西が南宋に留学して茶種を持ち帰ったこと
それを明恵上人が栂尾の地で栽培し、喫茶の習慣を日本に広めたこと
そして栄西は「喫茶養生記」を著し、源実朝に献上したとされている
従って、茶は栄西からというのが通説となっているが、実はそうではない

わが国ではじめて茶の記録が見えるのは、天平元年(七二九年)聖武天皇の時代のこと
「宮中に僧を召して茶を賜った」(公事根源より)と記されているのが最初とされる
茶樹の栽培歴史においても、大同元年(八〇六年)に弘法大師が唐より茶種を持ち帰った
弟子の堅恵大徳が宇陀市榛原赤埴の佛隆寺に播種されたと伝えられている
その製法を伝えられたのが、今の「大和茶」のはじめといわれている

宇陀地方は古くから朝廷の薬園としてあり、曰く「和漢薬」の研究がなされた地である
茶も薬草として栽培されていたもの、栄西の「喫茶養生記」も長寿と養生の薬としている
大和の薬売りの品揃えの一環とされ、茶の普及は大和の薬売りによると云える
茶杓の原型は「薬匙」であり、それは「鹿の角」で作られたが、今では殆ど見られない

喫茶の伝統としては、橿原市にある環濠集落・中曽司という地の「振る舞い茶」が興味深い
高取藩風俗問状答には、次の様に記されている
「中曽司村一村にかぎり昔より法事仏事をせず、村内に茶園あり。茶を摘製し家毎に茶を点ず。村人も昔より至って質朴也という。」

中曾司の産土神、つまり鎮守の氏神様は「磐余神社」で祀り神は「神武天皇」である
その茶は、神武天皇から頂いたという伝承も残されている
それ故か、仏教の垢に染まらない在り方を通して来た地とも云えるであろう

細々ながらも、昔からの家々では今に伝わる「振る舞い茶」の習わしを残している
まさに、「喫茶去」や「端坐喫茶」そのままの世界である
「端坐」は縁側に腰掛けること、「まぁ、掛けなされ、お茶の一服でも如何」という話

民族主義ならぬ、民俗主義はシッカリと維持・継承したいもの



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