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呉市西三津田町・鯛の宮神社境内にある第六潜水艇殉難慰霊碑
南斜面にはかつての呉海軍工廠(こうしょう)長の邸宅が残されているとか

昨夜、私の四十年来の茶友から私のブログを見たというメールがあった
彼は広島で在家禅(居士禅)の普及に努めており、「呉坐禅道場」を開いている
道場の近くに「鯛の宮神社」があり、「第六潜水艇殉難慰霊碑」を知らせてくれた

さて、佐久間勉艇長の遺書についての続きである
事故に関する潜水艇隊母艦「豊橋」艦長平岡大佐の証言が残されている

>丁度十一日ヨリ十四日迄第一潜水艇隊ハ六隻、第二ハ二隻出テ行クコトニナ
リ呉ニアルノハ六潜水艇一隻ノミニテ、艇長ノ考ニテハ自分一隻ノミ残サレテ甚タ不
愉快ニ堪ヘス新湊行ヲ願ヒ、吉川司令ヲ介シテ自分ニ新湊行ヲ願ヒ出テタルヲ以テ、
其時自分ハ吉川司令ニ君ハドー思フカ知ランガ(中略)良ク考ヘラレタシト申置ケリ
然ルニ司令ヨリ尚再三願出タルヲ以テ、充分注意ニ注意ヲ加ヘテ出動スルコトヲ初メ
テ許可セリ此許可コソ即チ私ノ意志薄弱ナル点ニシテ何処迄モ最初ヨリノ所信通リ
許可セサリシナラ今回ノ事件ハ免カレタリシナラン<

国産初の第六潜水艇の構造上の制約を巡る、各級指揮官の感情的対立、
そして、今次隊訓練に同行できなかった佐久間艇長の屈折した感情
それが本事故の伏線であったと読み取ることもできる
当時の潜水艇としては異例とも言える単独訓練行動には、このような背景があった
呉工廠長伊地知季珍少将を委員長とする査問会の査問書には、次の通り断じている

>艇長佐久間大尉については、「スルイスバルブノ効用ヲ過信シタルモノニシテ畢
竟疎處ノ嫌ヲ免カレサルノミナラス其理想ヲ實行セントスルニ熱心ノ餘司令及母艦々長ノ
承認ヲ受クルコトナク擅ニ瓦素林航走中潜航ヲ實験シタルハ司令ヨリ典ヘラレタル行動豫
定ニ関スル訓令ノ範囲ヲ逸シタルモノニシテ若シ生存スルモノトセハ其責任ヲ免カレサル
モノト認ム」<

私はこの査問書に、「戦争は技術戦」とて「精神論」を避ける帝国海軍の理性を読み取る
が、遭難事故と佐久間艇長の「遺書」は、査問会の意向とは別の形で流布されることになる
少し数字や詳細部分を伏せたものを、朝日新聞か美談として報じたのである
どういう経路で事故の話が朝日新聞に出たのか、誰が「美談」にしたか、今も謎とされている
やがてそれは、海軍内でも追認される形で美談が「事実」となり、世間に広まっていった
潜水艇の事故とは、海軍として本来積極的に報道したくはない「事実」であるはずだが・・
それほど艇長遺書は、絶大な宣伝意義を有していると理解されていた証左であろう

呉に於いて挙行された公葬に際して、天皇皇后両陛下より祭粢料の下賜があった
次いで下士官以上には特旨を以て位記が追賜せられ、全員の遺族に対して金圓が賜与
そのことで、第六潜水艇遭難事故の真意を歪曲した以後の形を決定的にしたと推察される
朝日新聞の恣意的報道は昔も今もである、それに踊り踊らされる人間も昔も今もである
まま、「同じアホなら踊らにゃ損々の、アホ踊り」であろう

佐久間と海軍兵学校の同期には、後に内閣総理大臣を務めた米内光政がいる
山本五十六連合艦隊司令長官と共に日米開戦の反対を論じ、海軍の良識を示した御仁だ
先の工藤俊作、米内光政、山本五十六、そして佐久間勉
何故か、彼等は日本海側や東北の地の生まれ育ちである

帝国海軍は、東郷平八郎元帥等の薩摩閥の伝統を継いでいると云われている
語る長州人に比べ薩摩人は口が重い、良く云えば寡黙、云い替えれば鈍重
帝国海軍のサイレント・ネービーというのは、その辺りに本質があるのかも・・
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