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四日市のORIBE美術館所蔵の織部焼

先の記事で古田 重然従五位下織部正の武将としての略歴を記した
最期を切腹としたが、そこに武将と茶人の古田織部が重なる

慶長二〇年(1615年)、大坂夏の陣の折りに織部の茶頭・木村宗喜が豊臣方に内通
そして京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられる
織部も徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたとの嫌疑で切腹を命じられる
重然は、これに一言も釈明せずに自害したといわれる、享年七三歳
同時に木村宗喜も処刑され、織部の息子達も織部の墓前で自害、古田家断絶

織部が茶の湯に入ったのは比較的新しく四〇歳を超えてからと云われている
利休の高弟の中でも新参者であったかと思われるが、何故に利休の後継者になったか
それは、利休が織部を称えることが多かったためかと思われるがどうであろうか
今一つは、徳川家康の頼みで二代将軍・徳川秀忠の茶の湯の指南役に就いたこと
この二つが、織部をして利休亡き後の茶の湯天下第一の人とされた所以であろう

利休が織部を称えたのは、利休に無い感性と斬新な工夫によるものとされている
利休の茶を愚直に踏襲したのは、織部より、むしろ細川忠興であると云われる
利休には茶も然ること乍ら、織部に利休と通じる反骨思想を見て取ったのだろう
事実、切腹の命で京を離れる利休を見送ったのは、忠興と織部の二人だけである
秀吉の目を憚り、皆が利休を避ける中でのことである、忠興の愚直と織部の反骨
それに、利休・忠興・織部には薄っすらと伴天連の臭いが感じ取れる

織部の切腹には、どうも家康の織部抹殺の意向を汲んだものと思われる節がある
織部の自由闊達で斬新な気風は、現状秩序の維持・保全の気脈からみて危険である
それに仄かな伴天連の臭い、忠興は手懐けても織部はヤバイと家康はみたのだろう
恐らく、フリーダムとリベラルというものへ危険を感じた為政者の直観であろう
これ以上の検索は、私の妄想に近くなるので止める

織部切腹の後、いわゆる「織部好み」と云われた焼物が姿を消すのである
そして、再び「織部好み」の焼物が世に出るのは、明治以降のこととなる
織部の名を称する諸流も明治以降の流儀で、血筋・茶筋に織部の直系はない

織部死後の織部所縁の品々のことで、先日に当流宗家から興味ある話を聞いた
それは、殆どが織部の名を隠す様にされているとかで、研究者の指摘もあるようだ
宗家にある織部所縁の品も、古田重然のどこか一字が違えてあったり、送り主を違えたり
幕府の目を避けているのが明らかであるということであった、首肯する

東京・銀座の松屋百貨店・没四〇〇年古田織部展の副題は
「織部とは何者か?」とある、NHKにもそれなりの人が居るようだ
然し私は、NHKの支払いは拒否する
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