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ヘレボルス(クリスマスローズ)の白花

一人の小学校の同級生の死去が伝えられた
それは故人の奥さんから恩師に宛てた喪中葉書で分ったこと
恩師は入院中のことであって、最近退院されてから話が出た
私は話を聞いても、すぐに故人の記憶や何かの想い出が出て来なかった
それでもと、先に五十五年ぶりの再会をした同級生にもメール連絡をした
故人と彼の家は近かったので、遊び仲間であったのではと思った故だ

私のメール文には故人のことをこう書いた
「何となく思い出したのは、ほっそりとした大人しい人間だったという記憶です」
そして来た彼からの返信にはこう書かれてあった
「連絡ありがとうございます。
それとなく覚えていますが、細くて小柄でいつも「はにかんでいた」様な印象があります。
家が近かったのですか。でも個人的な付き合いはなかったと思います。」

流通業の一つの法則的なものに、一・三・一〇「いち・さん・じゅう」というのがある
店舗数や売上高の規模が拡大する時の課題の変遷という話である
一店舗の時、三店舗の時、十店舗の時には越える課題が違うということである
それは百億円、三百億円、千億円という売上高の成長でも云える体験的法則
そのことが人生、人の想い出にも当てはまるように思えた

その人の想い出、その人を語ることの年月である
「去る者、日に日に疎し」という言葉もあるように、その人のことが何時まで語られるか
十年、三十年、百年という歳月みると、何となくその人が見えるような気がする
仏教で云う「回忌」とは、その辺りを汲んで故人を偲ぶ会としたものであろう
一周忌 、三回忌、七回忌、十三回忌 、十七回忌 、二十三回忌 、三十三回忌
そして、五十回忌 、百回忌とある、確かにその度毎にお布施が入用ではある
そこが葬式仏教の面目躍如ではあるが、「一・三・一〇」の法則と語呂が重なる

十年なら、何かの折に故人のことが人の口にも上がり、想い出も残るであろう
三十年なら、生きている家族の中では語られるであろうが、他に語る人は少なくなる
百年経っても、この世で語られる故人とは偉人と云うか特別な人であろうと思う
小学校の同級生であった故人とは、音沙汰がなくなって五十年以上の時間は過ぎた
よって、私の記憶の中に故人の印象は薄くなっていて、思い出すのに時間が要った
まして、メールの遣り取りにもあるように、故人は目立つ人間ではなかった

その彼が、妻女を娶り家庭を築き、妻女に恩師のことを伝えていたのだ
彼の人生の中で、私が生きていたのであろうかと、私には逆の思いが浮かんだ
私がこの世を去り、人の口からも去るのは十年あれば良しというもの
孫がいる限り、三十年後に何かの折に私の話が出るとしても、身内だけのこと
「人の死は、世の中からその人の記憶が消えた時」という言葉を以前に聞いた
この昨今、つい身に沁みる言葉である



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