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一服一銭の荷い茶屋を担ぐ(担う)売茶翁(ばいさおう)、付き合いのあった伊藤若仲の画
売茶翁(延宝三年・1675)- 宝暦十三年・1763))は、江戸時代の黄檗宗の僧、煎茶の中興の祖
本名は柴山元昭、幼名は菊泉、法名は月海で、還俗後は高遊外(こうゆうがい)とも称す

明後日十七日に、大徳寺で開催される上田宗箇忌と織部四百年忌を併せた法要茶会のこと
濃茶席と点心席は石田三成の墓地・三玄院で、薄茶席は織田信長の墓地・総見院となる
薄茶席の趣向は「担い茶屋」、古田織部の吉野茶会を偲ぶものである、以下多少の薀蓄

慶長四年(1599)三月二十二日に織部は伏見から奈良に入り、奈良衆・堺衆と合流(松屋会記)
織部は木津川の賀茂に所領があったが、新たに大和・井戸堂に所領が与えられていた
それもあり奈良入りした織部に、金森可重(宗和流の祖)や小堀佐介(遠州流の祖)らが同行
松屋久好らの奈良衆、天王寺屋宗凡らの堺衆と合せて四十人ほどの一行となって吉野へ向かう

前年八月に豊臣秀吉が亡くなったことで、一行には期するものがあったとか云われている
千利休が秀吉の命で切腹したのは天正十九年(1591)、その三年後に秀吉の吉野巡行があった
同行者は徳川家康・前田利家・伊達政宗・細川幽斎ら大名衆、公家衆、寺社衆、連歌衆であった
後に切腹となる関白秀次、そして織部も加わっていた、織部と幽斎は二人で利休を見送った仲
浮かれる秀吉一行の中に、利休の命日と重なることを知るのは、二人以外にも居たはずである

その秀吉が死んで半年後の織部一行の吉野行きである、吉野では竹林院々主・竹林坊が居た
竹林坊が織部一行を待ち受けて持ち出した物が「荷い茶屋」、打たれた額には「利休妄魂」
織部一行の吉野茶会は、利休を偲んだ茶会と云えるが、一行に上田宗箇の名が見えない
然し、一月前には奈良衆が伏見へ行き、同日に織部と宗箇の茶事を受け、奈良に帰っている
吉野行きを知らぬ訳がない宗箇に、どんな用事があったのかどうか、少々気になるところ

ところがである、上田家に「担ぎ茶屋」が伝来する、宗箇が一服一銭で茶を売り歩いたのか・・
そこらの意味合いが分らないが、何かしら織部を偲ぶものがあったのかと、私には思える
そして、翌慶長五年に関ケ原の合戦があり、宗箇は旧主・丹羽家救援のため出陣、西方となる
関ケ原の西軍敗北を知り、財を全て皆に分け与え、自身は剃髪し宗箇と名乗り、沙汰を待った
慶長二十年の大阪夏の陣で、織部は豊臣方への内通をしたとされ、切腹の沙汰が下る
その時、織部は一切の弁明をせず、子息共々切腹をして果てる

明後日は宗箇忌・織部四百年忌、「担ぎ茶屋」で薄茶をという宗家の意向、重々に受け止める
因みに、宗家の奥方のご実家は奈良・春日大社宮司家、参道の「担い茶屋」は歴史を持つ

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