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葉が散り出した秋篠川土手道の桜、朝日に佇む縄文犬「ハナ」
「犬から探る・古代日本人の謎」田名部雄一著という本が手元にある
PHP研究所・昭和六十年九月二十四日・第一版第一刷発行である

私が奈良・宇陀郡に住んだ四歳から七歳の頃、家には白い紀州犬「五郎」が居た
当時の犬は放し飼いであり、「五郎」は付近の犬達の番長的存在であった
父親が仕事仲間と共に自動車で吉野へ出かけた時のこと、「五郎」は追いかけた
直ぐに諦めるだろうとタカをくくって、そのまま行った父親達が吉野に着いた時のこと
遥か向うから「五郎」の走って来る姿を見つけて、父親の仲間は皆感動したとか

当時の宇陀と吉野の間は細い山道が曲がりくねって繋がっているという代物だった
車の速度はそんなに出すことも出来ず、対向車が来ると一方が後退して待ったらしい
故に、「五郎」は車を視界に留めることが出来、付いて来られたのだろうという大方の弁
それにしても一時間程の道のりである、「五郎」の頑張りは皆の感動ものであった
勿論のこと、帰りの道は「五郎」も自動車に同乗させてもらって戻って来た

宇陀の村で放し飼いされている地犬は、一般に紀州犬と呼ばれている犬かその雑種だった
当時の村人は農作や山仕事の合間に猪や鹿或いは熊の猟をする人が多くいた
地の人は紀州犬を「猪犬・ししいぬ」と呼んでいた、昔は発情した雌犬を山に置いたとか
「山犬」と地の人が呼んだ日本狼との交配目的であったが、その風習は今では無くなった
村の放し飼い犬集団は、猟の時には人と共に山に入って猟犬集団になったという話だった

私達家族が宇陀から吉野に引っ越す時のこと、「五郎」は宇陀に置いておくことになった
犬集団の番長だった「五郎」をそのまま貰い受けたいという話があり、私の親が同意した
環境が変わる地に連れて行くより、慣れたところに残る方が「五郎」に良いということだ
放し飼いの犬とは、日中は村の其処彼処にたむろ、夜になると主人の家で餌を食う生活
「五郎」を人に渡すのではなく、村に残して行っても餌を与える人が居ると云う話だ

「五郎」残して吉野に行った私達は、そこでまた紀州犬の仔犬を育てて「五郎」と呼んだ
私の小学校後半に奈良へ戻ることになった時も、近所の人が五郎を引き受けてくれた
昔の犬の放し飼いと今の犬の家飼いとでは、人と犬の拘わり方や風習に隔絶感がある
小学校五年の時、紀州犬と四国犬(土佐闘犬の原種)の合いの子をもらい「五郎」と名付けた
呉れた人は「日本犬保存会」の会員で、日本犬のことを私に教えてくれ、私も会員になった

その「五郎」は白黒のブチだった、白い紀州犬と黒い四国犬の合いの子の証の様な白黒顔
喧嘩が強く近所の犬を制圧し、肥桶大八を牽いて通る牛の背に飛び乗り首に噛みついた
親は平謝りであったが当時は人情も長閑、次からはその農夫が先に来て「犬押えといてや」
然しながら、この「五郎」、我が家の雌猫には全く無頓着で自分の腹に来て寝ても知らん顔
ブチ犬「五郎」は私が高校の時に死んだ、遺骸は散歩道のウワナベ古墳の堀に埋めた
今の「ハナ」は柴犬の雌、女房殿が「私が連れて行ける小型の犬がええ」ということで飼った
柴犬の雌は体重七㌔から九㌔ということだったが、今の「ハナ」は十九㌔、タテヨコ共に規格外

近年、米国で世界の犬種の遺伝子調査をしたところ、柴犬が一番古くて次は秋田犬だとか
この調査には、紀州犬や四国犬・北海道犬等が入ってなかったが恐らく似た結果だったろう
「犬から探る・古代日本人の謎」で田名部雄一氏は、縄文犬が柴犬や北海道犬の祖先と説く
犬は人と共生する動物であって家畜ではない、縄文遺跡では埋葬された犬の骨が出ている
由って、犬の移動歴史とは人の移動歴史でもあるという、「犬から探る古代日本人」である
「縄文犬」の出自は支那大陸南部辺りで、その痕跡が強いのが北海道犬(アイヌ犬)とか
続く・・
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