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明治三十八年九月五日、日比谷公園で講和条約反対を唱える決起集会が開かれた
今は昔、真っ逆さまの主張をする集会・デモがあったこと、お忘れなく

このあと、「日比谷公園焼き打ち事件」の暴動になり、死者は17名、負傷者は500名以上
同年九月三日の大阪市公会堂を日切りに全国各地で民衆の集会(今のデモ)が行われた
集まった民衆は、日露戦争の「講和条約反対」と「戦争継続を」唱えたのであった
内容は、閣僚と元老を処分し講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める過激なもの

前年二月八日から始まった日本とロシアの戦い(日露戦争)は、講和条約締結で終結をみた
日本軍二十六万と露軍三十四万が集結した日露戦争最大のの奉天会戦で日本軍が勝利
ロシア軍は 戦線を奉天 (瀋陽) より更に北の鉄嶺の線まで諸軍に撤退を命じた
しかし、 日本軍は砲弾も尽き、兵員も損耗し、もはや追撃の余力はなかった
もし、 ロシア軍が反撃に転じたならば、 支える余力は全くなかったという状況にあった

その頃、 強力なバルチック艦隊は日本近海の制海権を握るため既に本国を出港していた
露艦隊に日本海を押えられると、 大陸にいる日本陸軍は補給路を失って自滅することになる
五月二十七日、対馬沖の日本海海戦で東郷平八郎率いる日本海軍はバルチック艦隊を撃破
しかし、 露軍はシベリア鉄道によって兵員を送り続け、 満州北部に大軍を集結させていた
ここにおいて、 米国大統領の仲介で 米国のポーツマスで日露の講和会議が行われた

八月二十九日、 ポーツマス講和条約が締結、日本側全権大使は外務大臣小村寿太郎
この条約交渉では、ロシアは 賠償金の支払いを断固拒否し、会談は決裂寸前に至る
日本は南樺太と遼東半島の租借権を得るだけで、小村は涙を飲んで妥結せざるを得なかった
帰国した小村を待っていたのは、講和条約反対を唱える「日本の民衆の決起集会」という訳
今の「戦争法案反対」デモも明治三十八年の「講和条約反対」集会も、まま、根は同じである
つまり、邪まな扇動屋と跳ねっ返り者が、判断力がよろしくない民衆をそそのかして騒ぐこと
今は昔とは云え、同じ大衆・愚衆扇動の構図である、ホンマ、アホらしくて付き合いきれない

因みに、明治三十八年、あの三八(サンパチ)年式歩兵銃が制定された年でもある
この銃の総生産数は約三百四十万挺で、先の大戦でも主力銃として使用された
明治の兵器が大東亜戦まで歩兵の主力兵器として使われたとは・・何とも物哀しい
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