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琵琶湖からの帰り道、塾生二人と織部のことで談論風発
(古田織部展図録 の画像検索結果を参照)
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%8F%A4%E7%94%B0%E7%B9%94%E9%83%A8%E5%B1%95%E5%9B%B3%E9%8C%B2&biw=907&bih=411&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CC0QsARqFQoTCNGms_6hhMkCFQmelAodv6kG3Q

陶工である塾生の曰く、平山郁夫・佐藤忠吉・楽吉左エ門の常設展示館はともかく
織部展はもっとジックリ見たかったとか、これは私の判断ミスへの風刺である
郡山に戻って、椿寿庵へ椿を見に行こうと誘って、美術館を三時前に出た
ところが奈良に入ってから救急車騒ぎに巻き込まれ道が混んで動けなくなった
時間が過ぎ、雨もあって周りが暗くなって来たので、椿寿庵行きは取り止めた
それならもっと佐川美術館の織部展でユックリしたかったのに・・の意である

陶工塾生の云うには、織部の作品とその意匠とは世界に類がないとか
馬の尻尾で絵を描かしたり、ワザと曲げたり割ったりして奇をてらう陶芸でなく
本当の前衛というか、今に通じる斬新な感覚の持ち主だとつくづく思うということ
西洋・アラビア・インド・支那なんかは、左右対称、精緻・完璧と壮大の美が基本
それが日本では、不完全やものの哀れを基調にした文化と美意識が生まれた
そして織部は、その感覚を意匠として取り上げ一つの芸術世界を作った
その塾生にとっては、まさに「織部とは何者か?」ということであった
郡山での夕の居酒屋、その勘定は全て私が持った、失念した茶事の償いも考えつつ

帰路の車内では、もう一つの談論か風発された
織部展の説明案内文に「権力者と商人を結んだのは利休で、織部はその後継者」とあった
利休は元より商人であるが織部は武将で価値観は違う、と三人は意見一致を見た
利休は秀吉、織部は家康と云う時の権力者から切腹させられるという最期を迎える
利休は秀吉への悪態を吐きながら、腸を出して釜の鎖に吊る乱行の末に果てる
織部は粛然と、「かくなるうえは申し開きも詮無し」と云い残し切腹して果てる

利休には茶室常在を極めとか云われるが、その最期は生に未練タラタラが見てとれる
やはり武将の戦場常在の感覚が分らなかったのであろう、織部は正に武人であった
とは云え、織部には切った張ったの武功が少なく、調停説得の話功が大きいようだ
その点、切った張ったの武闘派であった織部の弟弟子・上田宗箇の茶は武人のもの
織部展では、宗箇の茶の流れが一角を占める程に紹介されていたことを何となく理解
宗箇は利休と織部に師事し、自分の茶を作り、八十八歳で二十日間食を絶ち息を止め往生
「墓を建てるな、骨は砕いて海に撒け」と云い残した、が墓はある、後世の人はタク~ッ

ふと思ったのは平山画伯のこと、私が下手糞な絵と思ったが、その実は・・
もしかしたら、カラオケでいう「うま下手」、上手いのに下手に見せるというやつ
平山はんは日本画家、日本文化の美意識を自ら体現させていなさるということか
平山はんの絵を見て、これでは中学生の作品程度、と思った私は不慮の極み
私の茶の程度が知れる話であった、ホトホト

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