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我が国魚市場の発祥の地に建つ大和・桜井の「旧跡桜井魚市場」の石碑

昨今、東京・築地市場の移転話が新聞テレビを賑わしている
築地市場も、関東大震災の後に日本橋の魚河岸が越して来たもの
日本橋魚河岸を作ったのは摂津佃村の漁民であることはよく知られている
然し、日本橋魚河岸、つまり東京魚市場の歴史の原点は大和・桜井にあった
あまり知られていないが、この話は流通業に関係する面白い話である

話は、四百年前の本能寺の変にまで遡る、明智光秀の織田信長殺害である
その時、堺見物を終えた徳川家康は河内・四条畷に少人数で滞在中だった
異変を聞き駆け付けたのが摂津佃村の武装漁民の一族であった
後は「伊賀越え」として話が有名であるが、佃の漁民は伊勢湾を越えて従行
家康から森姓を与えられた佃の名主は一族と共に江戸に入り,白魚漁に着手
その後、一族一党を江戸に移住させ,白魚漁のかたわら魚問屋を開業する
ここに日本橋魚河岸が成るが、森一族は旧来手法を墨守して問屋業は先細る

桜井出身の大和屋助五郎も江戸に下り、森一族と対抗しながら魚問屋を始める
助五郎は,駿州各浦に鮮魚の仕込金をもって敷浦(浦方への敷金)を設ける
この仕組みで、,産地独占的な流通機構を作出し、魚河岸の運営に成功
それが、日本橋魚河岸から築地市場へと今に引き継がれたと云う話
助五郎の江戸行きには桜井の市場の人間が協力し、手伝ったとある

海のない大和に魚河岸の原点?と思うが、それは市場の仕組みのこと
桜井には最古の交易市場として知られる「海柘榴市(つばいち)」があった
海のない大和の国へ伊勢・大阪・熊野の産物が集められていた市場だった
殿様へ上納後の魚を庶民にも下し売る、というお抱え漁民発想が佃・森一族
価値ある商品を如何に流通させるかという仕組み発想が大和屋助五郎
少し云うと、「魚屋・業種」発想が森一族、「市場・業態」発想が大和屋助五郎

市場の問屋(荷受)と仲買い、産地の問屋という流通機構は世界に誇れる日本の発明
「そうは問屋が卸さない」という言葉通り、流通の基本は卸問屋の仕組みにあった


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