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昨日は井上町にある中将姫縁の高林寺まで出掛けた、観光案内では「奈良町・高林寺」

猿沢池から南側、元興寺辺りの一帯で「奈良町」という通称名がはこびっている、
「奈良の小京都・奈良町」というポスターを新幹線車内で見て仰天したしたことがある
奈良市の観光案内だった、市職員の見識を疑うというか、そのアホ加減に腹が立った
それ以後、私はこの「奈良町」という通称名は意識的に使わないようにしている
井上町は、井上内親王(第49代光仁天皇の皇后、別名井上廃后、吉野皇后)に因む
内親王の悲劇を思い起させる場所である、地名は大事にしたい、浮かれた命名は不愉快

先日、奈良市の会報が入っていて、一面は曰く「珠光茶会」の案内になっていた
中に「高坊と奈良町の茶の湯」講師・神津朝夫、という箇所があり目を止めた
神津氏は碩学の茶道史研究家の御仁で、以前このブログでも著作を紹介した
早速、観光協会に参加申し込みをすると、三十人の定員は既に満席だと断られた
多少の顔見知りでもある神津氏に、「拝聴は出来ませんが、講演の成功を祈る」とメール
すると、彼から「招待券一枚を確保したので受付にお越しを」という返信をもらった
そして昨日、高林寺に行き会場の受付で名を云うと券をもらえた、整理番号は三十一番
神津氏の厚情というか、律儀な人柄が偲ばれ、嬉しく思った次第

講演の玄旨は、室町期の奈良は輝いていた、日本文化揺籃の地であったというもの
私は同感であり、意を強くする思いで話に聞き入った、以下デジュメの「終わりに」を転記
「奈良町」という言葉から入るのだが・・

「奈良町の町人たちは、茶に親しみ、連歌に親しみ、能にも親しんでいた。いずれも室町時代に発展した新しい文化であった。それによって、宗教的団結とは異なる町人同士の紐帯が生まれたといえよう。
またそれを通して武家や公家、僧侶との関係も新たに築かれた。そこには、歴史上かつてなかったような、支配層と被支配層の文化的対等性がみられたのである。
連歌会と茶会が盛んに行われた高坊は、奈良町における主要拠点の一つであった。」

東京人の神津氏は学生時代(早稲田大学)から奈良に魅せられ、長期滞留をしていたという
独り暮らしがしたくて、学生時代は東京に行った私と真逆の話になる
その結果、東京人の彼から奈良人の私が「奈良学」を拝聴するという羽目になった
これも人生・・

高林寺からの帰り路に私の妹の婚家の近くにある杉岡華邨書道美術館へ足を延ばした
下の写真は、付近の、曰く「奈良町」界隈の町家の「さるぼぼ」、庚申信仰の身代わり猿
これによく似た飛騨の「さるぼぼ」は、猿の赤ちゃんと云う意味であって、間違い易い

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