2016.06.08 打落水狗
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「打落水狗」、水に落ちた犬は打て、愛犬「ハナ」が舛添はんに見える

昨日のテレビを観ていると、コメンテーターの略全員が舛添都知事を叩いてご満悦
まさに「打落水狗」さながらの光景であ,る、私はテレビ人の正義面に鼻白んだ
まま、然し、確かに舛添はセコイ、しみったれた男だとは私も思う
また思う、鳩菅首相、最低と最悪の首相と云われた二人も舛添同様に団塊の世代
またまた思う、団塊の世代で日本人の「恥の文化」の継承が途絶えたのであろうかと

米国の女性文化人類学者ルース・ベネディクトの著作「菊と刀」を読んで納得した記憶がある
先の大戦中の著作で、西洋の「罪の文化」に比類させた日本の「恥の文化」という論旨構成
自分個人と向かい合う西洋の「罪の文化」に対し、世間と向かい合う日本の「恥の文化」
面白いことにベネディクト女史は訪日体験はない、日本の文献と日系人の調査で書いたとか
彼女は、日本人の精神土壌にあるのは「恥を知る心」、つまり矜持だと結論付けている
この本には違った見方や批判もあるようだが、今以って増刷されているようだ
舛添はんと鳩菅はん、恥を知る心と矜持に欠ける感は否めない、私も人のことは云えないが・・

因みに、「打落水狗」
元の言葉は「不打落水狗水」、落ちた犬は打つなを魯迅がひっくり返して作った言葉とか
趣意は、「支那人にはフェアプレーは未だ早い」だとか、魯迅評論集から転載

>勇敢な拳闘士は、すでに地に倒れた敵には決して手を加えぬそうである。これはまことに、吾人の模範とすべきことである。ただし、それにはもうひとつ条件がいる、と私は思う。すなわち、敵もまた勇敢な闘士であること、一敗した後は、みずから恥じ悔いて、再び手向かいしないか、あるいは堂々と復讐に立ち向かってくること。これなら、むろん、どちらでも悪くない。しかるに犬は、この例を当てはめて、対等の敵と見なすことができない。何となれば、犬は、いかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さぬのだから。まして、犬は泳ぎができる。かならず岸へはい上がって、油断していると、まずからだをブルブルっと振って、しずくを人のからだといわず顔といわず一面にはねかけ、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいないのである。しかも、その後になっても、性情は依然として変わらない。愚直な人は、犬が水へ落ちたのを見て、洗礼を受けたものと認め、きっと懺悔するだろう、もう出てきて人に咬みつくことはあるまいと思うのは、とんでもないまちがいである。<
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